10月


30日
フョードル・ミハイロビチ・ドストエフスキー(Fjodor MihailoviF Dostojevskij)

ロシアの小説家

(1821〜1881)

モスクワで医者の三男四女のうちの次男として生まれました。15歳の時、信心深い正教信者であった心やさしい母マリヤは肺結核で亡くなってしまいました。慈善救済病院の院長であった父ミハイルは妻マリヤの死後、領地にひきこもって酒びたりとなり、彼が17歳の時、領地の農奴たちに対する専横により、彼らの恨みを買って領地で殺害されてしまいました。

その後、ペテルブルグの中央工兵学校へ入学。卒業後は、工兵局製図課へ勤務しましたがなじめず、一年後、23歳で、中尉に昇進後に職を辞し退役して、作家生活に入りました。

処女作「貧しき人々」で文壇に華々しくデビューします。しかし、2作目以降はあまり人気とならず、1846年革命事件に加わって捕らえられ8ヶ月間に渡る投獄を経て、銃殺刑の宣告を受け、処刑場で銃殺刑の直前までいった時、皇帝の特赦の勅命が処刑場に到着して、銃殺刑を直前で免れました。

しかし、特赦後、ただちに、シベリアへ流刑となり、4年余りに渡って劣悪な環境のもと、過酷な囚役の監獄共同生活を送り、その後も、5年近く一兵卒としてシベリア国境警備の軍職に服役し、剥奪されていた諸権利を回復し、ペテルブルグに住むことも許されたときには10年の歳月が過ぎ去っていました。

1862年にシベリア流刑を題材とした小説「死の家の記録」で文壇に返り咲き、続いて「罪と罰」「白痴」「カラマーゾフの兄弟」などの傑作を書いています。

彼は、最後の大作「カラマーゾフの兄弟」のいちおうの完成を得たわずか80日後に、晩年彼を悩ませた肺気腫などの病気が悪化し、ペテルブルグの自宅の書斎で妻子や知人にみとられて、亡くなりました。自宅から出棺し、埋葬地のアレクサンドル・ネーフスキー修道院に向かう道々、には約3万人もの人々が棺のあとに従ったといわれています。

その作品は、いずれも人道主義の立場から人間の暗い面を鋭く抉り出すとともに、人間の救いは愛と忍耐の中にあると説き、人生を芸術的深みにおいてとらえています。
彼は45歳のとき小説『賭博者』の原稿締切期限に間に合わせるために雇った口述筆記者で、25才も年下のアンナを見そめて、再婚しました。その後、彼の小説の執筆形式は、深夜に書斎で練った構想や本文の部分下書きを記した「創作ノート」に基づいて、妻と協力しての口述筆記で作り上げていくことになります。名作「罪と罰」の末部も、アンナとの口述筆記のもと、完成しているといわれています。
彼は多くの言葉や名言を残しています。

いったい人間は何を最も恐れてるだろう? 新しい一歩、新しい自分自身の言葉、これを何よりも恐れているんだ。「罪と罰」
神を信ずるためには、神がなければならない。成功を望むならば、まず目的を決めなければならない。「悪霊」
家庭の幸福以上に大事なものはこの世の中にはなにひとつない。 書簡より。
太陽におなりなさい、そうすれば、みんながあなたを仰ぎ見ますよ!「罪と罰」
人生でいちばん大事なことは、失敗したらじっと歯をくいしばって我慢し、成功してもすぐに有頂天にはならないことだ。「二重人格」
そのため、
「美や善、神や不死についてのドストエフスキーの言葉を集めたら、すばらしいアンソロジーができるであろう。」(マウリーナの言葉)とまで言われているのです。
罪と罰
自己の理性を過信し金貸しの老婆を殺した大学生ラスコーリニコフが、罪の意識におびえるようになり、心美しい娼婦ソーニャとの出会いによって、自首を決意し、シベリアに送られるまでの心理的葛藤の変遷を描く。

白痴
癲癇(てんかん)を持病に持つ、純良無垢な人柄のムイシュキン公爵が、自分をめぐる人々の間に痛ましい葛藤(かっとう)の起こるのを悲しみつつ自らも破滅の道をたどる姿を描く。

カラマーゾフの兄弟
直情径行のドミートリ、無神論者のイワン、好人物のアリョーシャの三人兄弟が、老地主の父フョードル=カラマーゾフの殺された事件で示すそれぞれのあり方を通じ、神の存在や人間性の本質を追求。


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