10月


28日
嘉納治五郎(かのうじごろう)

(1860〜1938)

教育者、体育家、柔道家

摂津国御影村(現神戸市東灘区)の酒造業を営む家に生まれました。明治3年(1870年)、新政府に職を得た父とともに上京した彼は、開成学校・東京大学に学びました。

幼い頃、虚弱体質であった彼は、かねてから柔術の修行を積んでいました。最初に天神真揚流、続いて起倒流を修めた後、両者の長所を併せて、東京大害卒業の翌年講道館柔道を創始し、講道館を設立して柔道の研究と普及に努め、柔道の本義を「精力善用、自他共栄」としました。たった9人の門人、12畳の道場から始まった講道館柔道は、数年とたたないうちに警視庁武術大会においてその優秀さを認められ、飛躍の第一歩を踏み出しました。そして、すぐれた理想と技術によって柔道を国内はもとより広く海外に発展させてゆきました。

一方で彼は、教育者としても大いなる功績を残しています。東京大学卒業後、学習院を皮切りに、熊本の第五高等学校、東京の第一高等学校校長を経て、前後3回、26年にわたって東京高等師範学校の校長を務めました。その間彼は、教育課程の整備や、教授陣の刷新を図りました。また、陸上競技や水泳など、スポーツも奨励しています。

そんな彼に明治42年のある日、近代オリンピックの創設者にして、IOC(国際オリンピック委員会)会長のクーベルタンから「アジアにおけるオリンピック運動の発展・普及のためにIOC委員に就任してほしい」との親書が手渡されました。彼はこれを受け入れ、その年のIOC総会でアジア初の委員に選出されました。

しかし、日本は過去4回のオリンピックに、参加したこともなく、オリンピックを知らない人も多かった時代です。彼は文字通りゼロから出発したのでした。

翌年、次の開催国・スウェーデンとIOCから、わが国の参加を求める招請状が届きました。が当時の日本には、オリンピック選手を派遣する組織すらありませんでした。そこで彼は、スポーツが盛んだった東京帝大、早稲田大、慶応大、明治大、東京高師、一高などに呼びかけて、明治44年に大日本体育協会を設立し、自ら初代会長に就任するとともに、選手団派遣の準備に着手しました。

当時の日本はスポーツ後進国であったため、参加種目を陸上競技に絞り、東京・羽田にあった競技場で予選会を行い、短距離の三島弥彦と、マラソンの金栗四三を派遣することになりました。東京高師の学生だった金栗が出場を決めたことを、彼はことのほか喜んだと言います。

その後昭和13年(1938年)3月、カイロで開かれたIOC総会に参加したわが国の首席代表として、彼は79歳の高齢をおして奮闘し、ついにライバルのヘルシンキを退け、昭和15年に行われる第12回大会を東京で開催することを勝ち取ったのです。

役目を終えた彼は、アメリカ経由で帰国の途に着きましたが、バンクーバー発の客船「氷川丸」の船上で、肺炎のために永眠しました。彼はまさに、オリンピックにその生命を使い果たしたのでした。その功績をたたえ、旭日大綬章が授与されています。
帯で段位を表すことを考え出したのは嘉納治五郎であり、柔道が始めた慣例なのですが、現在では空手など他武術でも採用されています。5、4級が白帯、3〜1級が茶色、初段〜5段までが黒帯、6〜8段までが紅白のまだら帯、9、10段が赤帯となり、黒帯まではよく知られていますが、紅白まだら帯以上は一般的にはあまり知られていません。最高段位である10段を認められたのは過去に10人のみで、すべて故人となっています。
高専柔道
”高専”とは旧学校制でいうところの大学で、大学に入学した学生は勉強により体力が落ちており、4年間しかない学生時代に強くなるために、体格に左右されにくい「寝技」のみを練習し、それを極めていったのです。
「高専柔道」の寝技は本家、講道館を凌ぐと言われるほどで、また、「前三角締め」という寝技の最高芸術も高専柔道から生まれたものなのです。試合においても、普通の柔道では禁止されている寝技への巻き込みや、技の掛け逃げみたいのものも認められており、例え寝技で場外に逃げようとも審判によって引き戻されてしまうのです。
一部の大学でも現在でも行われており、試合も行われているそうです。
嘉納治五郎が示した柔道の2大スローガン、
  「精力善用」  maximum-efficient use of power    「自他共栄」  mutual welfare and benefit


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