10月


27日
ニコロ・パガニーニ

(1782〜1840)

イタリアのバイオリニスト、作曲家、一九世紀最大の奏者とされる。

イタリアのジェノヴァでに生まれました。7才のときからからヴァイオリンを父から習いはじめましたが、その練習は過酷で、朝から晩まで一日中楽器をさわらせ、思うように進歩がないと食事も与えられなかったという、常軌を逸したものだったと言われています。

彼は、当時の大ヴァイオリニストA・ロッラに半年間教わり、その後も何人ものすぐれたヴァイオリン奏者に師事しましたが、1796年にはジェノバに戻って独習を続けるようになり、驚異的テクニックを殆ど独学で身に付けたといわれています。。

1800年には最初の演奏会を成功させ、さらに翌年からは父の拘束を脱してルッカへの演奏旅行を行い、同地に1809年まで留まり、宮廷の独奏ヴァイオリン奏者に任命されたのですが、その仕事が満足できるものでなかったために、ついに、貴族の保護を受けない自由で独立した芸術家としての道を歩み始めました。

1810年から1828年までイタリア各地で活発な演奏活動を行い、ついに45歳を過ぎた1828年3月、ウィーンにおいてはじめての外国公演を行いました。7月までの期間に合計14回にわたった公演は同市を熱狂の渦に巻き込み、ドイツ、パリ、ロンドンでも熱狂的な大成功をおさめました。

その後、各地で100回以上の公演を行い、ヨーロッパの各地でたくさんの有名音楽家達、シューベルト、ショパン、シューマン、リスト、ベリオーズ等がこの巨匠の演奏を聴いて大変なショックを受け、それぞれ彼に直接・間接に関係する作品を書き残しています。この全ヨーロッパ旅行以後「パガニーニは悪魔に魂を打ってヴァイオリンの技法を身につけた」という噂がまことしやかに伝えられたりもしています。

けれども、彼の熱狂的な声援は興業上の失敗もあって1834年には急速に冷めていき、同年9月には惨めな思いでイタリアにひきあげることになります。その後も、イタリアとフランスを行き来しては演奏活動を継続していましたが、1840年5月27日、ニースで亡くなりました。
彼は大変なドケチで、性格が悪かったそうです、彼に結婚を申し込んだ女性に「あなたはただで私のヴァイオリンを聞くつもりだな!」と言って断ったというような噂話が残っています。
その他にも、1831年にパリにやってきたパガニーニは14回の演奏会を開いて12万フランも稼ぎましたが、その間、慈善事業に一文も寄付しようとせず、慈善演奏会への出演も全て断っています。また、イギリスで80万フラン儲けてパリに戻ってきたパガニーニは、市内にコレラが流行し、貴族たちが郊外に避難しているのを見て、自分もきびすを返してイギリスに戻ってしまいました。
さらには、落ちぶれて借金漬けになっていた大女優ハリエッタ・スミスソンの救済コンサートにリスト、ショパン、ベルリオーズなど、パリの有名な音楽家がこぞって参加した時も、なんとパガニーニだけが拒否しているのです。そのため、フランスのマスコミは、そのような彼を激しく非難しています。このような性格だったので、いったんブームが去ってしまうと、あっというまに凋落してしまったのではないでしょうか。
ベルリオーズの大作、劇的交響曲「ロメオとジュリエット」Op.17は、超絶技巧のヴァイオリン奏者パガニーニに捧げられています。 というのも、ベルリオーズが経済的に困っていた時、パガニーニが救ってくれたからという話が伝えられています。

ベルリオーズが窮地に陥ったのは、最初の歌劇「ベンヴェヌート・チェリーニ」が悲惨な失敗に終わった1838年のことでした。
ベルリオーズは落胆のあまり寝込んでしまい。 財布も底をつき、あとは破滅を待つだけでした。
友人たちは彼を励まそうと11月に演奏会を企画し「幻想交響曲」そのほかを指揮しまして成功を収めます。その時、会場にパガニーニが来ていました。翌日、ベルリオーズはパガニーニからの一通の手紙を受け取ります。

その手紙には、彼の演奏を聞いて感動した、すばらしい演奏を聞いた御礼に2万フランの小切手を同封すると書いてあったのです。2万フランといえば1000万円くらいの大金です。感激したベルリオーズは、長年構想を温めていた劇的交響曲「ロメオとジュリエット」を1839年に一気呵成に書き上げ、11月24日に初演して成功を収めるのです。

すばらしい話ですが、実はこの話には裏話があるそうなのです

この事件の7年後、ある婦人が、ベルリオーズに金を払ったのは自分の夫である、と告白しました。彼女の夫はベルリオーズのパトロンにしてその出版商でもあった人物で、アルマンド・ベルタンといい、この話は、彼によって仕組まれたイベントであったのです。つまり、ベルタン氏は、ベルリオーズを売り込むため、2万フランをパガニーニに渡し、彼からベルリオーズに与えてもらったのです。

なぜ、こんなややこしいことをしたかというと、このイベントによって、ベルリオーズは作曲家としての名声を手に入れ、パガニーニは自分本位のドケチという汚名をそそぎ、さらにベルタン氏本人はベルリオーズの名声が高まることにより大金を稼ぐことができるということだったのです。

ただ、当の本人のベルリオーズにはこのからくりは知らされておらず、ベルリオーズは、最後までパガニーニに対して感謝し続けていたと言われています。

真偽の程はわかりませんが、実に面白い話ですね。

10月


27日
ジェームズ・クック(キャプテン・クック)

(1728〜1779)

イギリスの探検家・航海者

ヨークシャーのマートンで農場労働者の子として生まれました。その後は、農場で父を助けて働いていましたが。16歳で家を離れ、18歳ので船会社で見習い水夫として働くようになりました。

1755年、航海術を身につけた彼は、イギリス海軍に入隊し、7年戦争中には敵軍の前で危険な水深測量を行い、その勇敢さと測量技術の確かさによって、高い評価を得、4年で艦長に昇進しています。

その後、彼はロイヤル・ソサエティの要請で3回の大平洋の探検航海を行っています。1度目は1768年から1771年まで、エンデバー号の艦長として、タヒチ島で金星の太陽面通過の観測を成功させました。この時の航海でニュージーランドの沿岸を測量を行い、オーストラリア東岸を発見し、ニュー・サウス・ウェールズと命名してイギリス領と宣言、さらにニューギニア南東岸などを探検して帰国しました。このときの、功績によって大尉から中佐に昇進しています。

2度目の航海は、1772年当時南半球にあると信じられていた伝説の大陸テラ・アウストラリスをもとめて、レゾリューション号とアドベンチャー号を率いて航海に出発しました。3度にわたり南極圏を航海して南緯71度10分に到達し、テラ・アウストラリスの存在を否定しました。そして太平洋のクック諸島、ニューカレドニア島、ニウエ島等の、数々の島を発見し、東回りに世界周航して1775年に帰国しました。帰国後、ロイヤル・ソサエティの会員に選出され、コプリー勲章を授与されています。

そして、1776年北アメリカ大陸の北に大西洋と太平洋をむすぶ航路があるかどうかを確認するために、運命の3度目の航海にしゅっぱつしたのでした。彼は、太平洋中部でハワイ諸島に至った後、北アメリカ大陸に達してオレゴン沖で北西航路を探したのですが航路を見つけることはできませんでした。そして、1779年2月14日に、船の修理のため、ふたたびハワイを訪れた時、以前は歓迎してくれた原住民から、思いも寄らない攻撃を受け、彼は殺害されてしまいました。51歳でした。
彼は、多くの島々を発見し、不正確だった数多くの島の正確な位置・習慣などを記録するなど、多大な貢献をしました。また、意外と知られていないのですが、当時、長い航海では、壊血病で死ぬ者も多かったのですが。彼は、船内を清潔にし、生肉や塩漬けキャベツを食べないと鞭打ちの刑にし、果物でビタミンを補給するというような壊血病予防策をとり、合計10年にもなる航海の中で、ただの一人も壊血病による死者をださなかったというものです。
彼が攻撃された理由には諸説あり、最初の歓迎は彼らが神だと思われたためで、修理によった時に神の船が壊れることは無い、だまされたのだと怒ったという説や、修理の途中で船員が一人亡くなったので神ではないと怒ったとか、神を島から逃してはいけないと引きとめようとした等多くの話が残されています。
サンドイッチ諸島とクリスマス島
彼は自分のパトロンであった当時のイギリス海軍大臣サンドイッチから名前を取り、この地(ハワイ諸島)を 「サンドイッチ諸島」と名付け、。また、クリスマス島は、彼らがクリスマスイブに上陸したところから名づけられたということです。
カンガルー
彼がオーストラリアに上陸したとき、ピョンピョン跳ねる奇妙な動物と遭遇しました。彼はかれはアボリジニに「あれは、なんだ?」と尋ねると、「カンガルー(知らない)」と答え、この動物の名は「カンガルー」となってしまったそうですが、アボリジニがカンガルーを知らないわけがないとも言われています。


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