10月


26日
フランソワ・ミッテラン

(1916〜1996)

フランスの政治家、大統領

ジャルナクで生まれました。パリ大学を卒業後、弁護士を開業していましたが、第2次世界大戦中、極右青年運動家だった彼は、戦争で負傷してドイツ軍の捕虜になってしまいましたが脱出、後に親ナチスのヴィシー政権に身を寄せながら、同時に地下活動家「モーラン」として対独レジスタンスに活躍しています。

戦後直後の選挙で代議員に30歳で当選し社会党下院議員となり、翌年にはラマディエ社会党内閣の退役軍人相となり、その後も、内相、国務相など左右両派の内閣の大臣を11回歴任しています。

1965年12月の初の直接選挙となる大統領選挙では現職のドゴール大統領に対する左翼の統一候補となり、第2回投票で、予想外の人気を集めました。その後、共産党と共同政府綱領を成立させ、1973年の総選挙で社会党の躍進を実現しました。

その後の1981年の大統領選挙で、ジスカールデスタンに100万票以上の差をつけて当選。1995年に保守党のシラクに引き継ぐまで、戦後史上最長の14年間、フランスとヨーロッパの政治・外交を牽引しました。

熱狂の中で大統領に就任した彼は、大企業の国有化、大型福祉予算、労働時間の短縮、年金支給年令の引き下げなどの社会主義政策を断行しました。文人政治家であった彼は、文化予算を倍増させ、ルーヴル美術館の大改造に加え、国立フランス図書館、新凱旋門、ラヴィレット技術都市、新オペラ座等を建設して、21世紀のパリの風景を一新しました。更に死刑を廃止し、人種差別に反対し、人権の擁護に力を入れました。

又、彼は、統一ドイツのコール首相と二人三脚で、ヨーロッパ独自の政治・経済・安全保障を目指し、ドゴール以来の独自戦略を引き継ぎ、アメリカ中心の世界秩序から距離をおき、欧州統合に夢の実現をかけました。また、冷戦構造崩壊の不安定な時期に、西側唯一の社会主義政権として、東欧や第3世界に理解を示し、米ソの間で第三極として独自外交を展開しています。

しかし、貧富の格差に効果的な対策が打てず、懸念の失業が逆に倍増し、移民問題も加わって、従来の社会党支持層であったブルーカラーを、極右政党・国民戦線に奪われることにもなり。1992年に行われた統一地方選では大敗。指導力の低下を印象づけてしまいました。そして、1995年保守党のシラクにその座を譲り渡しました。

1996年1月10日夜、バスチーユ広場に、1万人もの人々が1輪ずつのバラを手にして集まりました。8日早朝、彼は、前立腺ガンで79歳の生涯を終えたのでした。自宅前には今も市民からのバラの献花が絶えず、彼が政治家でありながら、いかに多くの国民に愛されていたかをしのばせています。
1981年5月10日、パンテオンに集まった群衆の前で、ミッテランは真紅のバラを振り上げ、フランス史上はじめてのソシアリスト大統領の誕生を宣言しました。その夜、バスチーユ広場では、変革を祝い熱狂した若者達が一晩中踊りあかしました。

しかし、1996年1月10日夜、その同じ広場に、1万人もの人々が1輪ずつのバラを手にして集まった。8日早朝、ミッテランは前立腺ガンで79歳の生涯を終えたのだった。ド・ゴール将軍と並び、彼ほど戦後フランスに大きな足跡を残した政治家はいなかったといわれています。
彼は、愛する友人や愛人たちのためならば、その作り上げたイメージが傷つくことも厭いませんでした。1994年にペタン元帥の心酔者であったことを明らかにしたときも、1995年に隠し子の存在を知られたときも、悪びれることがなく事実を認めています。また、汚職事件を引き起こした実業家ペラやヴィシー政府警察長官のブスケとの友情は、彼らが罪に問われるようになっても、終生変えませんでした。
1981年、フランスで大統領選がありましたが、このとき、世論調査の改竄が行われそうになるという事件がありました。世論調査を実施して、フランスのマスコミにデータを提供する調査世論研究所のメイン・コンピュータに、何者かが侵入、プログラムを変更したのです。
このときのプログラムの改変は、「大統領選の候補者フランソワ・ミッテランの支持率が60%を越えると作動して、相手候補の支持率が目に見えて上がるようにする」というものでした。幸いにも、事前予想ではミッテランの支持率が上がらず、プログラムが作動するということはなかったのですが、もう少しで改竄された結果がマスコミに発表され、不正な選挙が行われるところだったのです。


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