10月


25日
ヨハン・シュトラウス2世(Johann Strauss)

(1825〜1899)

オーストリアのウィーンで生まれました。「ワルツ王」とよばれた父親ゆずりの楽才に恵まれ、6歳頃にはもうピアノをかなり上手に弾けるようになっていました。 ところが父ヨハン1世は息子が音楽の道に進むのは反対でした。音楽家という職業がいかに経済的に不安定で苦労が多いかを身をもって知っていたのです。

ある日、彼が家でバイオリンの練習をしているところへ帰ってた父は、彼の手からバイオリンをもぎとり、床にたたきつけて壊したこともありました。しかし、母親のアンナは彼を慰め、はげまし、新しいバイオリンを買って彼に渡し、練習をさせていました。

しかし、その後、もともと演奏活動で滅多に家に帰らない父でしたが、とうとう愛人を作り、家を留守にするようになったのです。そしてなんと子供までできてしまい、生活費もとどこおりがちになりました。彼は無責任な父親に怒り狂いましたが、長男である彼が生活費を稼ぎ家族を養わなくてはなりません。彼は迷ったあげく音楽家の道を選ぶのでした。

彼は、音楽の猛勉強をし、腕をあげて、ついには自分の楽団まで結成しました。しかし、父は彼のデビューを阻止しようと、各演奏会場に息子の演奏をさせないように工作をはかります。

彼は、その妨害にもめげずようやく、自分の楽団でのデビュー演奏会を行います。演奏会は大成功で、このときはデビュー作のワルツ「記念の詩」ポルカ「どうぞごひいきに」などを演奏しています。ウィーン市民はワルツ王の息子の演奏ということで大喜びし、「記念の詩」などは19回もアンコールが起こったという嘘のような話も残っています。

演奏は夜中の1時まで続き、そして最後の曲となったとき、聴衆は驚きました。その曲とは自分を捨てて家族を捨てた憎い父親の代表作「ローレライ・ラインの調べ」だったのです。聴衆は驚くとともに感激し、涙を流したといわれています。

彼は、恵まれた才能を徐々に開花してゆき、彼の発表する作品は次から次へとヒットしていきました。しかし、彼が24歳のとき、父ヨハン1世は45歳という若さでこの世を去ってしまいました。「ワルツ王」という称号は息子ヨハンに引き継がれ、父ヨハンは「ワルツの父」と呼ばれるようになりました。

彼は、演奏会用の大規模な舞曲の様式を確立し、父より一層洗練された、壮麗な作品を書き、また妻の勧めでオペレッタ「こうもり」や「ジプシー男爵」をつくり、ウィーンの軽演劇に新生面を開きました。1863年から1870年までは、王室舞踏会の指揮者をつとめ、主要作品には[ウィーンの森の物語」「美しく青きドナウ」「芸術家の生涯」「酒と女と歌」「春の声」「皇帝ワルツ」「トリッチ・トラッチ・ポルカ」などがあります。

ヨハンの晩年は実に幸福そのものでしたが、1899年5月22日演奏指揮中にひどい悪寒をおぼえてそのまま寝込んでしまいました。しばらくすると快方に向かったので再び仕事ははじめたのがいけなかったのか再び倒れ、診察の結果は「肺炎」でした。6月3日、妻アデーレは彼の手を握って「ねえ、あなた、お疲れでしょう?少しお休みになったら?」というと彼は「そうだね、どっちみちそういうことになるだろう」といって静かに目を閉じ、やがて息をひきとったといわれています。74歳でした。
名曲 美しく青きドナウ 誕生秘話
1866年、オーストリア帝国軍はプロシャに大敗し、ウィーンは暗い雰囲気につつまれていました。そうした人々を元気づけようとヨハン2世はウィーンの街はずれを流れるドナウ川を題材にある作品を作曲しました。
この曲が「美しく青きドナウ」だったのですが、当初はこの曲は男声合唱用としてつくられたのですが歌詞が悪かったのか、評判も悪く彼もあまり愛着を持っていませんでした。
ところが、ヨハンの妻アデーレが、ひそかにこの曲の素晴らしさを見抜き、乗り気でない彼
の楽譜カバンにこっそり楽譜を入れて、そのままヨハンは演奏会に行きました。そして演奏終盤でアンコールを聴衆に要求され、たまたま楽譜のあった「美しく青きドナウ」をオーケストラのみで演奏したら聴衆は大喜びして大ヒット曲となり今では「オーストリアの非公式国歌」とまでいわれるようになりました。 という話が伝えられています。
彼の生活は多忙を極め、食事をしているときと眠っているとき以外は常に作曲していました。 突然、楽想がわいてくるとシャツの袖口やメニューの裏などに素早く楽譜を書いていたり、睡眠中、突然目が醒めて、ベッドのシーツに楽譜を書き込んだというエピソードも残されています。
父のヨハン・シュトラウス1世の方は偉大な音楽家としてだけでなく、かなりのアイデアマンだったそうです。
当時ウィーンのカフェは、音楽家やアーティスト達が集まる場所、つまり時代の最先端!を行く場所だったため、彼は、ウィーンで一番最先端を行く人達が集まる高級なカフェと専属契約を結び、演奏をはじめました。このカフェには、ショパンやリストも彼の演奏を聞きに訪れていたとか。そして時代を先取りするアーティスト達に好まれることによって、大衆にも受け入れられ、結果 的にワルツがヨーロッパ中でヒットしたわけです。
ヨハン2世は28歳のとき、過労に倒れてしまいました。彼が倒れてしまえば作曲をする人も指揮をとる人もいません。 そこで彼は自分の代理指揮者として、弟のヨーゼフに白羽の矢をたてました。
ヨーゼフはそのとき紡績会社の技師長として一人前の技術者となっていました。兄ヨハンは明るく陽気で短気な性格をしているのとは対照的に無口で神経質で陰気?な性格をし、技術者としては優秀で、よく特許を申請していたそうです。
しかし、そんな彼に「我々一家のなかで君がいちばん音楽的才能があるんだよ。たのむよ、家族のためにも」という兄の強い説得に心をうごかされ、ついに技術者の道を捨てて音楽家の道を歩み初めたのです。
シュトラウス家の伝記を書いたエイダ・ティージェン夫人は「もし、ヨーゼフが兄ヨハンと同じくらい長生きをしていたら、おそらく兄弟の中ではいちばん立派な仕事をしていただろう」と語る。 、『舞曲のシューベルト』といわれた彼はわずか17年という短い作曲生活のあいだになんと220曲以上の作品を書き残している。

10月


25日
パブロ・ピカソ

(1881〜1973)

「ようやく子供のような絵が描けるようになった。
     ここまでくるのに随分長い時間かかったものだ」

フランスの画家。

スペインのマラガで美術教師の息子として生まれました。マドリードの国立アカデミーで学んだあと、1900年にパリに出ました。

エル・グレコの神秘的な画風を取り入れた青の時代から始まり、ついでゴーガンのの影響を受けたバラ色の時代を経て1906年マチスと知り合いキュービズム(立体主義)の理論をうちたて、ブラックらとともにその運動を推し進めました。

1917年には詩人ジャン・コクトーとイタリアを訪れ、新古典主義の画風、さらに1921年ごろから怪奇なイメージを含む表現にかわり、1925年ごろには超現実主義的な傾向が強くなってきました。

1935年ごろからは、それまでの各種の表現法を集合していくなど、めまぐるしい変転を重ねながら、常に新しい造形に挑み続け、そのたびに世界の画壇に大きな影響を与えつづけました。人々はその変貌の激しさに彼のことを「カメレオン」「怪物」と称したということです。

彼は1937年ヒットラーのゲルニカ市爆撃を見て怒り、大作「ゲルニカ」を描き、1940年ナチス政権から作品の発表を禁じられています。終戦後は共産党に入党し、社会悪に批判的な絵を書き、また、世界平和運動にも参加しました。

晩年は、カンヌ近郊の村ムージャンに落ち着きましたが、80代になっても、創作意欲が消えることはなく、死ぬまで絵を描きつづけ、ムージャンの自宅で亡くなりました。91歳でした。
彼の名前はとても長いことで有名ですが、その名前には諸説あるそうで、その中の、ひとつが・・・

 パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピアノ・デ・ラ・サンテシマ・トリニダード・ルイス・
 イ・ピカソ

というものだそうで、本当にとんでもない長さになりますね。
彼は生涯に、約8万点もの作品を残しているそうですが、もし、これが本当なら、計算してみると(8万/91年)1年間に879作、1日に平均して2〜3もの作品を制作していたことになりますね。

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