10月


24日
アントニー・レーウェンフック(Antonie Leeuwenhoek)

(1632-1723年)

オランダの博物学者

オランダのデルフトに生まれました。父親は醸造家であったが早く死に、母の手で育てられました。16歳で学校を中退し、アムステルダム市の乾物屋の雑役人となった。

その後、イッポリトスブルト通りにある「ヘット・ホウデン・ホーフト(黄金の頭)」という名前の家を1654年に購入しています。彼は、購入資金の支払いのため布商人になり、1階に布屋を開いています。彼は様々な発見をこの「黄金の頭の家」で行ない、また同じ家で国内外の様々な要人を客として迎えた。その中にはロシアのツァー、ピョートル大帝も含まれていました。

彼は、レンズを磨くことが好きで、独学できわめて簡単な顕微鏡を造り上げています。その拡大力は、270倍に達したようで。彼はこの顕微鏡を使って、歯垢や汚水などの検査をし、種々の形態をした微細な生き物、すなわち、細菌を視て独りで楽しんでいました。彼は毎朝食塩で綺麗に歯を磨いていたのですが、それでも、その歯垢に小さな生きた動物が生活しているといって喜んでいたそうです。

彼は自作の顕微鏡を使って、微生物のほかにも多くの細胞構造を記録し、1674年には彼は、なんと精子を発見し、その役割も明らかにしています。彼が精子の第1発見者なのです。また、赤血球や細菌、原生動物、担輪虫、植物細胞、菌類についても記述しています。しかし、同時代の人の多くは彼のことを空想力豊かな物好きとして片づけてしまいました。そして、彼の洞察も偉大な発見も無視されてしまったのです。(微生物の概念が広く受け入れられるようになるには、彼の生きた時代からはるか後の19世紀中ごろのパスツールの時代を待たなくてはいけません)

彼は85歳の時に、もう高齢なのだから顕微鏡をのぞく事を止めて楽隠居でもしたらどうですかと友人が彼に勧めると、彼は目を円くして「最も実り多い時期というのに、隠居!」と答えたといわれています。

1723年91歳にて死期が近づいた時、彼はホグプリートに自分がオランダ語で書いた論文2編をラテン語に訳して貰い、英国ロンドンにある王立アカデミーに論文を投稿することを依頼して死を迎えました。
彼は、ある老人が、生まれてこのかた、歯を磨いたことがないというのを聞いて、「おお、その臭い動物園には、さぞ色々な動物が繁殖しているだろう」とワクワクしながらその歯垢を分けて貰い、すぐに自分で作った顕微鏡を用いてのぞいたといわれています。
フェルメールが死んだとき、多額の借金があったと言われています。そこで、フェルメールの財産の管理者に使命された、顕微鏡を自作し微生物学を築いたことで知られているレーウェンフックが指名されました。また、フェルメールは絵画製作の過程において、現代の写真機の先駆をなすカメラ・オブスキュラを用いていたことは広く認められていますが、これはレーウェンフックの協力によるという説があります。また、フェルメールの「天文学者」と「地理学者」は、このレーウェンフックを描いたものであるという説もあります。
彼は製造した250台の顕微鏡を自分の秘密の室に並べて一人で楽しんでいた。お金ならいくらでも支払うから一台譲ってくれといっても、たとえば、王侯貴族より依頼されても、一台とも手離そうとはしなかったそうです。


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