10月


23日
華岡青洲(はなおか せいしゅう)

(1760〜1835)

江戸中期の医家で、華岡流外科の創始者。

今の和歌山県那賀郡那賀町平山に生まれました。華岡家は代々医者の家系で父の直道も、外科の医者でした。誕生の瞬間、それまで吹き荒れていた嵐が静まり、まっ青な秋空に美しい雲が広がったので、父の直道は、赤ちゃんに雲平という呼び名をつけたといわれています。

そして1782年に、新しい医学を勉強するために京都に行かせてほしいと、父に願いましたが、華岡家には8人も子どもがいて、生活はとても苦しく、とうていいける状態ではありませんでした。しかし妹達が彼の為に必死ではた織をしたお金で、彼は京都で3年間勉強をすることができ、帰郷後は父の後をついで開業しました。

和歌山に帰った彼は、近くの村の娘、加恵と結婚をしました。彼女は、妹達と力を合わせ、包帯の布を織ったり、薬草を育てたりして、よく青洲を助けました。

彼は、薬代や手術代をはらえない人にも、分けへだてなく薬を出して治療しましたので、多くの患者が彼のもとを訪れるようになりました。

しかし、大きな問題がありました。当時の外科治療は麻酔がないために、患者は激しい痛みに耐えねばならず、そのために死に至ることも多かったのです。彼は、患者の苦しみを和らげ、人の命を救いたいと麻酔薬の開発を始めました。

長い苦心の末に、青洲は曼陀羅華(まんだらげ)の花を主成分とした6種類の薬草に麻酔効果があることを発見しました。動物実験を重ねることによって、麻酔薬の完成まであと一歩というところまでこぎつけましたが、最後の人体実験を目の前にして行き詰まっていた時、苦悩する青洲に母・於継と妻・加恵が自ら進んで実験台になることを申し出たのです。

こうして数回にわたる人体実験の結果、加恵の失明という自体を招いたものの、ついに全身麻酔薬「通仙散」が完成しました。以後、青洲は、生涯この地を医学の本拠地として没するまでの約30年間に、舌癌、膀胱結石、脱疽など数え上げればきりがないほどの疾患を手術を行い、当時不治の病といわれた乳がん手術だけでも153例にも及びました。

また、乳がん手術の成功後、華岡青洲の名は全国に知れ渡り、患者や入門を希望する者が、平山に殺到しました。彼は、門下生の育成にも力を注ぎ、医塾「春林軒(しゅんりんけん)」を設けて、千人以上の門下生を育てました。

そして1835年(天保6年)10月2日、青洲は76年の生涯を閉じました。
曼陀羅華(まんだらげ)
別名「チョウセンアサガオ」と呼ばれる。曼陀羅華の種子・根・茎・葉には、脳の働きを抑制する効果がある。

通仙散(つうせんさん)
「曼陀羅華(まんだらげ)」の花を主成分として完成させた全身麻酔薬で、彼はこの全身麻酔「通仙散」による乳癌(がん)の摘出手術に成功しました。モートンらの発案になるエーテル麻酔法に40年ばかり先立つものでした。
青洲は京都に来てからたくさんの本を読み「私は日本の華陀(かだ)になりたい」と思うようになりました。

「華陀」は,今から千八百年ほどまえの中国の医者で、頭の中や胸のおくにできたガンを手術で取り出して治した人として、ゆうめいです。

しかも「麻沸湯(まふつとう)」という麻酔薬のようなものを使っていあたため、彼の患者は痛みを感じることが無かったといわれています。
昭和29年(1954)個の偉大な華岡青洲の功績が世界外科医学会に取り上げられ、米国シカゴにある、人類の福祉と世界外科学会に貢献した偉人をまつる栄誉館にまつられ、栄誉を永久に表彰されています。
彼は医学だけではなく、度々の干害に苦しめられていた農民をすくため溜池を掘り、「垣内池」と名付け農民に与えました。
この付近の人々は、今日も尚この池の恩恵に浴しているということです。

池畔には青洲の自作自筆の碑が建っているそうです。

水みたば  心をこめて田植えせよ  池の昔を思い忘れず

10月


23日
西園寺公望(さいおんじきんもち)

(1849〜1940)

明治・大正・昭和初期の政治家・公爵

右大臣徳大寺公純(きんいと)の子として京都で生まれました。3歳のとき西園寺師季(もろすえ)の養子となった。倒幕運動に参加し、明治元年には20歳で山陰道鎮撫総督をつとめました。

明治の新時代にはフランスに留学し、ソルボンヌ大学に学び、自由主義思想を受けて帰国し明治法律大学(明治大学)をつくり、中江兆民らと「東洋自由新聞」を発刊して自由民権の説をとなえました。

明治15年に憲法制度を調べるために伊藤博文に従ってヨーロッパへ行き、帰国後は外交官として、6年ほど公使として外国で活躍しました。

のち、貴族院副議長、枢密顧問官をつとめ、第2次第3次伊藤内閣の文部大臣をつとめたのち、枢密院議長となっています。

その後、政友会総裁となって明治36年に内閣を組織し、首相となりました。明治44年にも内閣を組織しています。第一次大戦後、パリの講和会議に首席全権として出席しました。

第二次世界大戦前には、彼は英米仏の支持のもとで国権の伸張を図ろうとし、また、立憲政治の健全化にこだわり、全体主義化が進む中で、反対の立場を表明し続けたため、君側の奸として暗殺の標的とされ続けました。

大正の初めから、亡くなるときまで最後の元老として国政を指導し続けましたが、彼の努力も空しく、日本はドイツとの軍事同盟を締結し戦争への道を歩み始めてしまいました。その3ヵ月後の1940年11月24日に亡くなりました。91歳でした。
立命館
西園寺公望は、1869年に現京都御所内の私邸に私塾「立命館」を開設しました。後に、ここは京都府庁の差留命令により閉鎖されますが、後に彼の秘書官でもあった中川小十郎が、1900年「私立京都法政学校」を創立し、その後現在の「立命館大学」となりました。
立命館の由来

「立命」は中国の「孟子」の一節
「殀壽不貳 修身以俟之 所以立命也(若くして死ぬ人も、長生きする人も、すべて天命で決められているから、人は生きている間は勉強に努めて天命を待つのが、人間の本分をまっとうすることになる)」から採られたものだそうです。
つまり「立命館」とは人が本分をまっとうするための場所なのですね。


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