10月


22日
フランツ・リスト(Franz Liszt)

(1811〜1886)

ハンガリーの作曲家・ピアニスト

ハンガリーのライディングで生まれました。彼の父はドイツ系、母はオーストリア人であったために、リスト自身はハンガリー人でありながら生涯一言もハンガリー語を話せなかったといいます。音楽的な家庭に育ち、父からピアノの手ほどきを受け9歳で演奏会を開き注目されました。ウィーンで作曲を学び、ベートーベンの前で演奏して感銘をあたえています。

1839年からヨーロッパ各地を演奏旅行して大成功を収め「ピアノの巨人」と賞され、はなやかな人気に囲まれ,ピアニストとして最高の技巧によってヨーロッパ楽壇に君臨しましたた。1842年、ワイマールに招かれ、宮廷歌劇場の学長となり、作曲に演奏に目ざましい活躍をしました。

1847年彼はロリーネ・ザイン・ヴィトゲンシュタイン公爵夫人と知り合い。双方互いに心奪われて恋愛関係にないました。公爵夫人はリストが演奏旅行をやめて後世に残る彼の交響詩の創作に専念する事を進言し、彼はエリーザベトグラードにおける演奏会を最後に、公開ピアノ演奏会をやめ作曲に専念するようになりました。

彼女は素晴らしい才能の持ち主であり、フランス語を完璧に話し、神学を初めとする様々な分野で数多くの著書を残した程でした(リストと共著でショパンの伝記をも著わしています)。作曲への専念を薦めた彼女との生活の中で、リストの創造力はその頂点を迎えたのです。

1852年、ワイマール宮廷演奏会で自作の「ピアノ協奏曲第1番」をベルリオーズの指揮とリスト自身のピアノで初演。1854年、交響詩「前奏曲」の初演を指揮。1857年、ベルリンにてハンス・フォン・ビューローの演奏で「ピアノソナタロ短調」初演。大反響をまきおこし、さらに、「ピアノ協奏曲第2番」「ダンテ交響曲」「ファウスト交響曲」の初演を指揮し目ざましい活躍をしています。

公爵夫人は夫のもとを去り、彼らはワイマールで10年以上を共に過ごした後、2人は結婚を試みますが、それは結局許可されず、傷心の彼女は絶望して僧籍に入ってしまいました。彼も俗世を断って、修道院に入り1864年一応の修道を終えて、まだ神父の身分ではないのですが、この時点から神父の黒衣をまとい、鍔の広い帽子をかぶり、死ぬまで公式の宴会や演奏会を神父姿で通しています。

その後、ローマに住み教会音楽も手がけましたが、1875年には故国ハンガリーの首都ブタペストの国立音楽アカデミー会長をつとめました。心の広い人物で、ワグナーをはじめショパン、シューマンらに助力し、多くの優れた弟子を育てました。

1884年頃から自作の演奏と各地で弟子達を教育するための旅行を積極的に行い、高齢にもかかわらず多忙な毎日が続き、体力と視力が低下してしまいます。1886年彼は、ワーグナー亡き後もバイロイト音楽祭を支援する立場にあって、病身のままバイロイト入りし、コージマ(彼の娘、ワーグナーの妻)が演出する「パルジファル」「トリスタン」を観た後、容態が悪化し、7月31日現地で亡くなりました75歳でした。
リストは1827年に父が死亡してからは、母親をパリに呼び、彼は演奏会とピアノ教授の活動を開始しました。そんな彼のもとに伯爵令嬢カロリーヌ・サンクリックが弟子入りし、二人は恋に落ちてしまいますが、伯爵はそれを知り、身分の違いから稽古を断わったため、彼は精神的ショックを受け失踪してしまいました。しかし、翌年ベートーヴェンの「皇帝」をパリで初演しカムバックしています。
リストは史上初めて、暗譜を基本とし、ただ一人によるいわゆる「リサイタル」を開いたピアニストとしても知られています。当時は「暗譜は作曲者に失礼」という慣行があり、またピアニストたちはサロンを中心に、何人かが交替で演奏するのが普通の形式だったために、当時はこの「リサイタル」は嘲笑の的となったともいいます。
彼は、身長180センチの長身で、金色の長い髪、その整った容姿は、当時流行った、バイロンの詩に現われる悲劇の主人公を思わせるようであったといいます。そのためか、女性とのエピソードも多く残っています。
1827年、父が死亡してからは、母親をパリに呼び、演奏会とピアノ教授で活動開始しました。伯爵令嬢カロリーヌ・サンクリックが弟子入りし、恋に落ちるが、伯爵はそれを知り、身分の違いから稽古を断わったため、これに深く傷ついた少年リストは病気になり、一歩も部屋を出られなくなってしまうのです。リストは、生涯この屈辱を忘れなかったといいます。
しかし、この悲恋は彼に大きな成長をもたらしました。彼は、この失恋を機に、教養を身につけるべく文学作品を乱読するようになり、その後、パリにおいてユーゴー、ミュッセ、ラマルティーヌらと親しく交わる素地となると共に、彼の音楽にも大いなる影響を与えました。リストは精神的ショックを受け失踪してしまいます。しかし、翌年ベートーヴェンの「皇帝」をパリで初演しカムバックしました。
二人目は、マリー・ダグー伯爵夫人。リストは、21歳の時に彼女に出会い、熱烈な恋に陥ります。彼女は彼の前半生に大きな影響を与えた才色兼備の女性で、その才能から彼女のサロンは1830年代のパリにおいて最もハイソサイエティなものであったといいます。「巡礼の年第1年スイス」や「第2年イタリア」は彼女との幸福な生活の中から生まれた名作です。

彼は、その後、彼女との間に3人の子供(ブランディーヌ、コージマ、ダニエル)をもうけましたが、結局完全な破局に終わり、2人の仲はは終生険悪な関係となってしまいました。

長男も長女もいずれも短命であったが、次女コージマはフォン・ビューロー夫人から後にワーグナーの妻になり、バイロイト音楽祭を継承し、長寿を全うしました。
3人目は本分でも紹介している、カロリーネ・ザイン・ヴィトゲンシュタイン公爵夫人です。
2月キエフ第1回の演奏会で、彼はヴィットゲンシュタイン侯爵夫人に出会いました。夫人はリストのピアノに感激し、貧民救済資金として百ルーブルを献金。リストは彼女を訪ねてお礼を述べ、そして2人は互いに心奪われて恋愛関係に入るのです。

侯爵夫人との恋愛に関しては映画「我が恋は終わりぬ」で詳しく描かれていますので、興味のある方は探して見られてはいかがでしょうか。夫人は知性的で敬虔なカトリックの信仰に徹しており、彼等は長年かかって、結婚を目ざしてあらゆる努力を続けたのですが、結局は達成できませんでした。

2人は結婚許可をとるために、ヴァチカンのローマ法王に願い出る。しかし2回の枢機卿会議では否決される。 ようやく第3回枢機卿会議で条件付きの結婚許可が出たので、式場と日取りをリストの50才の誕生日と決めて、すべての準備を進めていましたた。ところがヴァチカンからの特使が来て、結婚式を一時延期して、ロシアのヴィットゲンシュタイン侯爵からの書状を至急提出するように命じられたのです。

しかしそれらの訴訟記録を取り寄せるには大金がかかり、しかも役に立つのか不明だったため、2人は絶望し相次いで僧籍に入ってしまうのでした。
そして、もう1人忘れてならないのが彼の娘コージマです。

彼女の最初の夫はハンス・フォン・ビューローで、リストの高弟でした。1857年、娘のコージマと結婚したビューローはリストの紹介でウィーンにデビューし、ハンガリーでは「リストの再来」「リストの後継者」と絶賛された。またリストのピアノ作品も多数初演をまかされています。

しかし1870年、コージマはフォン・ビューローの妻でありながらワーグナーと結婚。リストは憤慨し、娘とワーグナーと絶交状態になってしまいます。

コージマと結婚したリヒャルト・ワーグナーは、ライプチヒの生まれでプロテスタントだったので、リストのように結婚も離婚もカトリックのような制約はありませんでした。そのうえ、彼の大パトロン、バイエルン国王ルードイッヒ2世が、フォン・ビューローをミュンヘンの楽長に任命し、彼は妻コージマと二人の子供を連れてミュンヘンに移り住むことになります。

彼女とワーグナーとの関係はその前から始まっており、やがて4人の子供を連れ出し、トリープシェンのワーグナーの家に居ついてしまったとき、リストは心境を「ワーグナーの天才は、それを遂行するためにはコージマの愛が必要だったのでしょう。」とヴィットゲンシュタイン侯爵夫人に伝えているそうです。(とても複雑な心境であったことが想像できます)

1872年、バイロイト音楽祭の祭典劇の定礎式に、リストはワーグナーから招待を受けるのですが、結局出席羽島線でした。しかし、熱心なワーグナーの誘いに応じ、10月15日から1週間バイロイトを訪問し、2人は完全に和解するのでした。

その後リストは、第2回バイロイト音楽祭に列席し、ワーグナーの招きでベネチアの一家を訪ね、孫達との家庭的なくつろぎを満喫しています。しかし、1883年ワーグナーは69歳で心臓発作のためなくなってしまいます。遺体はバイロイトに輸送されましたが、あまりに痛々しくコージマはリストを葬儀に呼びませんでしたが、リストはワイマールで追悼演奏会を指揮したのでした。
「私は願う。未来の芸術家たるものが、無意味に自分の栄光を追求しないことを。
そして、その目標を自分の中にではなく、外に設定することを。超絶技巧が「方法」となり、「最終目的」ではなくなることを。以下のことをいつも心に留めておくことを。すなわち、高貴な者同様、いやむしろそれ以上に、『天才は社会に奉仕しなければいけないのだ』ということを。」

1840年、29歳のときの彼の言葉です。
リストを表現したショーンバーグの言葉

「バイロンであり、カサノヴァであり、メフィストフェレスであり、聖フランシスでもあった。リストは、何かを求めて忙しく生涯を過ごし、芸術と宗教と肉の欲求とのはざまに引き裂かれていた。」

10月


22日
ロバート・キャパ(本名 アンドレイ・フリードマン)

(1913〜1954)

「もしよい写真が撮れないとすれば、それは近寄り方が足りないからだ」

戦争写真家

ハンガリーの首都ブタペストでユダヤ人洋服屋の息子として生まれました。独裁に反抗し、警察に留置されましたが、父が警察と取引し釈放されると、単身ベルリンに逃れました。

ドイツで高等政治専門学校で学ぶかたわら、言葉の壁を埋めるために写真を始め、写真エージェンシーで働くようになります。そんな時、正規カメラマンが出払っていたためコペンハーゲンでの反戦国際会議に特派され、大型カメラを持った各国のカメラマンが入場を断られるなか、彼はライカでトロツキーを撮影し、腕を見込まれるようになります。

1933年、ナチスが政権を掌握すると、ドイツから逃れてパリへ脱出し写真通信社に勤めるようになり、そこで、ロバート・キャパという偽名を名乗るようになります。

1936年スペイン市民戦争が勃発すると最前線で取材を開始。政府軍民兵が撃たれた瞬間の写真「崩れ落ちる兵士」を発表して、世界中にセンセーションを巻き起こし、戦争写真家としての第一歩を踏み出しました。

その後戦禍のヨーロッパ各地を取材してまわり、1944年、ノルマンディー上陸作戦においても有名な「ぶれ写真」を撮り更に名声を高めました。

またキャパは当初、作家を志望しており。1947年に「ちょっとピンぼけ(日本版タイトル)」を出版。彼の激動の体験談と人間味あふれる内容は多くの読者を魅了しました。

1954年4月に毎日新聞社の招請で来日しましたが。日本での彼の評価は非常に高く、歴戦の勇士、伝説上の勇者のように歓迎されました。彼は、とても日本を気に入り「日本は写真家の天国だ」といったといわれています。

しかし、来日のわずか一ヵ月後、インドシナ(現ベトナム)で取材中、ハノイの南方のタイビンへ向う前線の小川の土手で地雷を踏んで亡くなりました。41歳でした。
彼の死後、「ライフ」と「アメリカ海外記者クラブ」によって、「義務を超えた勇気と冒険をもって撮られた海外での最高の写真」を対象とした「ロバート・キャパ賞」が創設され、年に一度表彰されています。
彼が地雷を踏んだとき、左足はほぼ完全に吹き飛ばされ、胸がえぐれていましたが。左手にはカメラをしっかりとにぎったまま彼は仰向けになってまだ息をしていたということ。


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