10月


21日
アルフレート・ベルンハルト・ノーベル(Alfred Bernhard Nobel )

(1833〜1896)

スウェーデンの化学者・ノーベル賞の設立者

スウェーデンのストックホルムで技師イマニュエル・ノーベルの4人の息子の1人として生まれました。父は彼が幼いときにストックホルムで破産し、隣国ロシアの首都であるサンクト・ペテルブルグ仁移り、ロシアの軍需産業向けの発明で成功を遂げ、教育のためにストックホルムに残しておいた家族をすぐに呼び寄せました。

彼らはペテルブルグではブルジョワ的な生活を送り、子供たちに、自然科学、哲学や語学などの最高の家庭教師をつけて自宅で学ばせていました。彼は恵まれた環境の中で、応用化学を学びつつ各地を旅行し、急速に変化を遂げるヨーロッパ社会の文化、経済、技術的側面を幅広く、深い知識で吸収していきました。

しかし、クリミア戦争後の混乱期にペテルブルグの工場閉鎖を余儀なくされた彼らは、スウェーデンに戻り、安全かつ効果の高い爆薬の開発に専念し、再建に励みました。そしてニトログリセリンを発明し実用化にこぎつけましたが、その火薬は振動に弱く爆発事故のため安全性が疑われ、更には自分の作った火薬は弟の命を奪ってしまいました。

その後も安全な火薬をという彼の研究は続き、1867年、ニトログリセリンを珪藻土(ディアトマイト)に浸ける方法を考案した。これがダイナマイトです。彼はその後、世界各地に約15の爆薬工場を経営し、またロシアにおいてはバクー油田を開発して、巨万の富を築いたのです。

しかし、独身で子供がいないこと、彼が発明した無煙火薬が戦争で猛威をふるっていることへの後悔の念から、有名な遺言をのこしました。

「基金を設立し、その利子を毎年、その前年に人類のためにもっとも貢献をした人に賞として与えるものとする。」、「この利子は5等分して、物理学の分野で最も重要な発見ないし発明をした人(物理学賞)、化学の分野でもっとも重要な発見ないし発明をした人(化学賞)、生理学ないし医学の分野で最も重要な発見をした人(生理学・医学賞)、文学の分野で理想主義的な最もすぐれた作品を生み出した人(文学賞)、国家間の友好と軍隊の廃止ないし削減と平和会議の開催ないし推進の為にもっとも尽くした人(平和賞)に与える。」、「賞の選考に当っては、国籍はいっさい考慮せず、最もふさわしい人を選ばなければならない」

その遺言により、900万ドルにものぼる遺産のほぼ全額を基金として、ノーベル財団が設立され、物理、化学、医学・生理学、文学、世界平和5部門に寄与した人たちを毎年表彰するノーベル賞が設立されたのです。なお、ノーベル経済学賞は1868年に設立され、1869年から授賞が開始されています。ノーベル賞はノーベルの命日である12月10日に授与式がおこなわれます。
ノーベルは、晩年には狭心症をわずらっており、発作を抑えるためにニトログリセリンの錠剤を常用していたということです。ニトログリセリンには血管を拡張させる作用があるのです。彼ほど、ニトログリセリンの世話になった人はいないのではないでしょうか。
受賞者の発表は毎年10月中旬に順順に行なわれます。授賞式はノーベルの命日12月10日にストックホルムのコンサートホールでスウェーデン国王臨席のもとに行なわれ、受賞者は授賞式で金メダルと賞状、賞金の小切手を受け取ります。平和賞の受賞式は同日オスロのオスロ大学講堂で行なわれます。授賞式に引き続いてシティホールで晩餐会と舞踏会が催され、晩餐会では受賞者が3分間のスピーチを行ないます。
ニトロとは窒素(青)1個と酸素(赤)2個から成るグループを指します。このグループの顕著な特徴は爆発性があることで、いわゆる爆薬にはたいていこのニトロ基が入っています。代表的なのはニトログリセリンで、その名の通りグリセリンの3つの酸素がニトロ化されたものです。ちょっとした熱や衝撃を与えるだけでもすぐ爆発する、極めて危険な化合物です。

また高性能爆薬としてよく知られたTNTもこのニトロ化合物の仲間です。TNTの正式名は「2,4,6-トリニトロトルエン」で、これもやはりニトロ基を3つも含んだ恐い化合物です。このメチル基を水酸基に変えたものは「ピクリン酸」で、これも以前よく爆弾に使われていました。ただしこの化合物は腐食性なので、今ではもっぱらTNTが使われています。
狭心症の強い痛みを伴う発作を抑えるのには、ニトログリセリンが極めて有効です。この作用は古くから知られていましたが、なぜ狭心症に効くのかはずっとわかっていませんでした。 比較的最近になり、ニトログリセリンが体内で分解されてできる一酸化窒素(NO)が血管拡張作用を持つことが発見され、長年の謎は解けました。狭心症は心臓の冠状動脈が狭まることによって起こりますので、これを広げてやれば症状は治まるわけです。毒性の気体であるNOが体内に存在し、しかもこのような生理作用を持っていたという意外な事実は学界に大きなインパクトを与えました。この、発見者のFurchgott、Ignarro、Muradは1998年のノーベル医学生理学賞を受賞しています。

10月


21日
江戸川 乱歩 (本名 平井 太郎)

(1894〜1965)

現実は夢。夜の夢こそ真実。

小説家

三重県名張町に生まれました。父は名張郡役所の書記でしたが、貿易関係の仕事をするようになり、彼が中学を卒業してすぐに事業に失敗し倒産してしまいました。

一家は朝鮮に渡りますが、彼はすぐに単独で帰国し、早稲田大学の予科に入り、封筒貼りなどの内職や英語の家庭教師をして苦学しながらも卒業し、その後の7〜8年は、貿易会社・造船所勤務・古書店経営など十数種の職業を転々としていました。

そんなある日、彼は妻からお金が無くなったと告げられます。彼はそのとき、わずかに手元にあった二銭銅貨を見つめているうちに、小説のアイデアを思いつき「二銭銅貨」を書き上げました。その作品「二銭銅貨」が雑誌「新青年」の編集長森下雨村に認められ、一躍新進作家として認められたのです。

その後、完全犯罪計画を精神分析の方法で見破る「心理試験」や「人間椅子」「赤い部屋」「双生児」などの傑作短編を次々に発表し有名作家の仲間入りを果たしました。彼の作品は、独特の雰囲気を持った耽美的、猟奇的なものが多く、猟奇事件が起こると、新聞からコメントを求められるほどでした。

しかし、周囲が戦争の不安で暗くなってゆく中、子供達の心を明るくしようと、昭和11年、はじめての少年もの「怪人二十面相」を発表。この作品では、血を流すことが嫌いな怪人20面相を相手に、子供達のヒーロー小林少年と、少年探偵団が大活躍をし、彼の作品ののった雑誌は、少年たちから引っ張りだことなったのです。

しかし、昭和14年彼の作品は官憲により全て発禁処分となり、終戦まで事実上著作活動ができなくなってしまいました。戦争が終わり、疎開先からもどった彼は、日本の探偵小説復興を決意し、主に探偵明智小五郎と怪人二十面相が登場する「少年探偵団シリーズ」の執筆を続ける一方で、評論・研究に力を入れ、昭和21年には探偵作家クラブを設立、また昭和29年には自らの還暦祝賀会の席上で「江戸川乱歩賞」の制定を発表し、後進の発掘と指導に尽力しました。昭和38年日本推理作家協会を創設し、初代理事長に就任しています。

昭和40年7月28日脳出血のため亡くなりました。71歳でした。
エドガー・アラン・ポー(アメリカの詩人、作家)
「推理小説の父」と呼ばれています。1841年に発表した「モルグ街の殺人」が推理小説の起源とされ、今日の推理小説の原型を作ったとされています。作品に「アッシャー家の崩壊」「黒猫」「黄金虫」等があります。世界文学史上に特異な地位を占める諸作品を生み、フランス象徴主義文学を初め、世界文学に与えた影響の大きさではアメリカの作家中屈指とされています。

彼は、このエドガー・アラン・ポーをもじって筆名を江戸川藍峯とし、その後乱歩と改めたといわれています。
江戸川乱歩には関係ないのですが・・・

ヴァージニア(作家エドガーアランポーの妻27歳で夭折)死の間際の言葉
「私が死んだらあなたの守護の天使になってあげます。もし何か悪いことをしそうな気持ちになったら、両手で頭をお抱えなさいね。あなたを守ってあげます」 

しかし、彼は妻の死を克服できず。酒におぼれ、妻の死からわずか2年後、所持金も身分証明書も無く、泥酔して倒れているところを発見され、病院へ担ぎ込まれましたが、そのまま亡くなってしまいました。40歳の若さでした。


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