10月


20日
ジャン・ニコーラー・アルチュール・ランボー(Jean Nicolas Arthur Rimbaud)

(1854〜1891)

フランスの詩人。

シャルルヴィルで生まれました。父フレデリック・ランボーは陸軍大尉、母マリー・カトリーヌ・ヴィタリー・キュイフはロッシュの小農地地主の長女でした。なお、彼は次男で、長男は1歳年上のフレデリック・ランボー。

早熟の天才として16歳のときすでにソネット「母音」や「酔いどれ舟」などの傑作を書いています。彼の詩篇は当初賞賛の的となりましたが、その粗暴な性格のゆえに、ヴェルレーヌ以外の、あらゆるパリ文壇の人たちは失望したのでした。

1871年詩人ヴェルレーヌの招きによりパリに出、ヴェルレーヌと同性愛の関係となり、ヴェルレーヌは家庭(妻・息子)を捨てて、彼とともにブリュッセル、ロンドンを共に放浪。しかし、1873年パリに行こうとする彼とロンドンに行こうとするヴェルレーヌの口論から、ヴェルレーヌが彼をピストルで2発撃ち、1発が彼の左手首に命中。その後、駅に向かう彼をピストルを持ったヴェルレーヌが追い、危険を感じた彼が警察に保護を求め、ヴェルレーヌは逮捕されます。彼は入院し、この事件によって二人は決別します。

その後、彼はロッシュの実家に戻り、納屋で「地獄の季節」を書き上げたといわれています。彼の詩は、感覚の惑乱の中から未知のものを見るという方法にめざめ、現実への反逆にみちた独自の詩風をきずいたといわれています。

「地獄の季節」出したあと、彼は詩業を完全に放棄して各地を漂泊し、エチオピアの奥地で武器その他の通商にたずさわるようになりました。

しかし、1891年右足の膝に腫瘍が出来てしまい、激痛の中、担架で移動をし、船でマルセイユに到着。コンセプシオン病院入院しますが、右足を切断することになってしまいます。

ロッシュに戻り、妹イザベルの献身的な看病を受けますが、病状はさらに悪化し、妹に付き添われてマルセイユのコンセプシオン病院に再入院しますが。右足の骨肉腫が悪化し全身転移癌となり、11月10日10時に、病院で死去。遺体はシャルルヴィルの墓地に埋葬されました。
ヴェルレーヌ
19世紀フランスの詩人、ボードレールの影響を受けた処女詩集「土星びとの詩」により若くしてパリの詩壇で認められる。9歳年下のマチルド・モーテと結婚しましたが、ランボーと同性愛の関係となり、家庭(妻・息子)を捨てて共に放浪。別れ話からランボーをピストルで撃ち、2年間の禁固刑を受ける。服役中にマチルドとの離婚が成立、キリスト教(カトリック)に回心。教職などをしながら詩人としての活動を再開。「呪われた詩人たち」などに、ランボーの詩を紹介。代表的な作品は「艶なる宴」「よき歌」「言葉なき恋歌」「英知」など。パリで死去。
アルチュール・ランボーの、あの不安定な性格、激越な性情、冒険好きな気質は、父からの遺伝だと言われています。また母は、後年のランボーとまったく同じような、自尊心の強い、権柄ずくの、そして頑固な人柄だったといいます。
L'eternite'

Elle est retrouve'e.
Quoi? - L'Eternite'.
C'est la mer alle'e
Avec le soleil.


ランボーの永遠という詩なのですが、訳すると・・・

永遠

また,見つかった。
何がって?−永遠さ。
それは行ってしまった海さ
太陽といっしょに。

他の訳では

永遠

もう一度探し出したぞ。
何を?永遠を。
それは、太陽と番った
海だ。

やっぱり、原文で理解できなければいけないのでしょうね

10月


20日
坂口 安吾 (本名 坂口 炳五)

(1906〜1955)

「人間は生き、人間は墜ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。」

小説家

新潟市西大畑町に13人兄弟の12番目に生まれました。父親は、衆議院議員にして新潟新聞社社長でしたが政治に金を使い果たしてしまい、彼が物心ついた時には、相当な貧乏になっていたそうです。

彼は、小学生時代はわんぱくでガキ大将でしたが、新潟中学に入学した頃から近眼が進み黒板の字が読めないために、学習意欲を失って授業もほとんど欠席するようになりました。そして、16歳のときには、試験時に白紙の答案を出し、ついに放校処分を受けてしまいました。

その後、東京に転校しましたが、相変わらず勉強嫌いでした。運動は得意でインターハイのハイジャンプで優勝しています。中学を卒業後、下北沢で代用教員になりましたが、仏教への憧れが高じ、翌年、東洋大学印度哲学科に入学。一転して悟りを開くべく睡眠時間4時間というすさまじい猛勉強をはじめ、哲学宗教書、梵語、パーリ語、フランス語などを習得していきました。

また昭和3にはフランス語の勉強のため、アテネ・フランセに入学。東洋大卒業後は、仲間と同人誌「言葉」を創刊、処女作「木枯の酒倉から」、「ふるさとに寄する讃歌」を発表します。そして、「風博士」、「黒谷村」が、牧野信一、島崎藤村、宇野浩二らに激賞されて、さっそうと文壇に登場したのでした。

また昭和21年には、「生きよ、堕ちよ」という逆説のモラルを評論「堕落論」で説き。敗戦で虚脱状態におちいっていたインテリ層を堕落が足りないと叱り、一躍、太宰治、石川淳、織田作之助らと並ぶカリスマ的な人気作家に成長してゆきました。その後も、小説「白痴」「青鬼の褌を洗う女」 などで、戦後社会の混乱と退廃を反映する独自な作風を樹立してゆきました。

昭和23年には、ミステリにも筆を染め、いきなり日本屈指の名作として名高い「不連続殺人事件」という傑作を発表し、第二回日本探偵作家クラブ賞長編賞を受賞しました。しかし、その多忙からヒロポン(覚醒剤)と睡眠薬の中毒になってしまいます。

その後も、多くの傑作を書き、昭和30年「狂人遺書」を残し脳出血により2月17日に亡くなりました。49歳でした。
彼の家は、徳川時代は田地の外に銀山だの銅山を持ち「阿賀川の水がかれてもあそこの金はかれない」とか「勘兵衛どんの小判を一枚ずつ並べたら五頭山より高くなる」などと言われるほどの大富豪だったそうです。
坂口 暗吾?
ちなみに、安吾というペンネームは、新潟中学時代の先生から、あまりの成績の悪さに「おまえに炳吾なんてもったいない。炳というのは明るいという意味だから、おまえは暗だ、暗吾だ」と言われたのがきっかけだという説もあります。
人間。戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向うにしても人間自体をどう為しうるものでもない。戦争は終った。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は墜ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
戦争に負けたから墜ちるのではないのだ。人間だから墜ちるのであり、生きているから墜ちるだけだ。だが人間は永遠に墜ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くではあり得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、墜ちぬくためには弱すぎる。

(堕落論)


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