10月


13日
マーガレット・サッチャー(Thatcher,Margaret)

(1925〜 )

イギリスの政治家。保守党初の女性党首。

イングランドの田舎町グランサムで父アルフレッド、母ベアトリスの間に生まれました。父はグランサム市長で、彼女は父から2つのことを生活信条として守り、実行するよう教えられたといいます。

ひとつは「何事も自分の意志で決めよ」もうひとつは「皆の後についていくような行動をとるな」ということで、彼女は父について「私の考えは小さな町で確固とした信念を持って生きた父親から学んだものです」と述べています。

彼女はその後、オックスフォード大学に進み、学生生活の中で政治に出会い、大学在学中から保守党連盟の指導者をつとめました。そして卒業後は、化学研究員として働くかたわら法律と税制を学び、1949年から1951年にわたりと3度にわたって国政選挙に挑戦しましたが落選。しかし、この経験を生かして1959年、彼女は国会議員に当選したのです。

その後、年金・国民保険省政務次官、教育・科学相をつとめ、1975年対立候補の E.ヒースを破って党首に就任し、その後の総選挙で保守党が労働党に勝ち、首相に就任したのでした。

この時から“サッチャリズム”と呼ばれる、イギリス大改革が始まります。敬虔なキリスト教徒である彼女は、この時期、次のように神に祈りをささげたといわれています。
「誤りがあるところには、真理をもたらすことができますように。疑いがあるところには、信頼をもたらすことができますように。そして絶望があるところには、希望をもたらすことができますように」

そして、国有企業の民営化、政府規制の緩和、労組活動の規制などの政策を実施し、「イギリス病」の克服に成功を収めたのです。

その後1987年の総選挙では376議席を獲得して大勝し、イギリス近代政治史上初めて首相3選を果しました。しかし、1989年以降の景気後退に直面して破綻を招き、党内からの強権支配に対する批判に抗しきれず、1990年11月に辞任しました。

彼女は、その強固な意思に基づく指導力を評して、「鉄の女」と呼ばれました。
サッチャーは党首選でエドワード・ヒースを破って保守党初の女性党首となるのだが。そのときから首相に就任するまでの4年間のことを「私にとって野に下っていたあの4年間は何事にもかえがたい時間だった」と述べている。
 彼女は4年の間、自分が将来政権を動かしている姿を想定し、常にそのための準備を重ねており。彼女の鉄のような信念は、この時期に作られたといわれています。そして1979年5月、保守党が労働党を破り、彼女はイギリス史上初の女性首相となった。この時から“サッチャリズム”と呼ばれる、イギリス大改革が始まったのである。
「イギリスの世界における威信にとっても、そして国内の状況を考えても、最も重要な時期だった」と、後にサッチャーがフォークランド紛争を振り返って語っているように、この紛争で世界に力を誇示したことで、イギリスの存在を世界に再認識させることとなったのである。このフォークランド紛争での勝利を機に、彼女は「鉄の女」の称号を得た。彼女の強硬な姿勢は、湾岸戦争においても高く評価されている。この戦争は彼女の辞任直前に起きたものであり、国際舞台での彼女の最後の活躍の場であった。
現在はマーガレット・サッチャー元首相とトニー・ブレア首相が険悪な関係になっているそうである。
 ブレアが「英国の政治をマーガレット・サッチャーの時代から次に進める時です」と言えば、サッチャーも「政治的虚栄心で目がくらんでしまって、困ったことね」と負けてはいない。

また、ブレア流社民主義の看板スローガンである「第三の道」のことは「第三の道は第三世界への道(The third way leads to the third world.)」と一蹴し。チリのピノチェト元大統領を裁判にかけるために釈放・送還したときは、「まるで司法の鎧をまとった誘拐(judicial kidnapping)」とこき下ろしたということです。

10月


13日
小林多喜二(こばやし たきじ)

(1903〜1933)

「闇があるから光がある」

昭和初期の小説家

秋田県の大館市川口(旧下川沿村)で生まれました。実家は貧しい自作農兼小作でした。5歳の時一家は破産し、北海道の小樽でパン工場を営んでいた伯父を頼って一家で移住しました。そこで働きながら小樽高商に入学し、詩や短編小説を校友会雑誌に発表し、卒業後は銀行に就職しました。

銀行勤務のかたわら、ドストエフスキーやゴーリキーなどの作品を愛読する一方、次第に労働運動と社会主義思想に目覚め、やがて直接運動に参加するようになります。しかし、昭和3年(1928年)3月15日に大弾圧が行われ、この弾圧によって彼の身近な友人や知人が何人も逮捕され激しい拷問を受けたため、彼は、この弾圧に対して怒りを込めて、雑誌「戦旗」に「一九二八年三月十五日」を発表し評判となり、そして昭和4年、北洋漁業での前近代的な奴隷労働の実態を描写した「蟹工船」は高く評価され、広く海外にも紹介されて、彼は作家として不動の地位を占めることとなります。

しかし、その後すぐ書いた「不在地主」が勤務先と関係のある農場をモデルにしたということで解雇され、それを期に、彼は上京し活動を続けました。その後、共産党に入党しましたが、昭和7年の弾圧で地下に潜伏、「党生活者」「地区の人々」などの問題作を書きながら党活動を行っていました。

しかし、昭和8年2月20日にスパイの密告によって、治安維持法違反容疑で逮捕されてしまいました。彼はその日のうちに築地署で特高のすさまじい拷問を受け殺されてしまいました。30歳の若さでした。
当時、検事局と警視庁は彼の死因を「心臓麻痺」と発表しましたが、彼の遺体には、見るも無残な拷問の跡がなまなましく残っていたということです。そんな、痛ましい彼の亡骸に向かって、彼の母は「それ、もう一度立たねか、みんなのためもう一度立たねか」と声を浴びせたといわれています。
「闇があるから光がある。そして闇からでてきた人こそ、一番本当に光の有り難さがわかるんだ。世の中は幸福ばかりで満ちているものではないんだ。不幸というものが片方にあるから、幸福ってものがある。そこを忘れないでくれ。だから俺たちが本当にいい生活をしようと思うなら、うんと苦しいことを味わってみなければならない」 多喜二の書簡より


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