10月


6日
フリチョフ・ナンセン(Fridtjof Nansen)

(1861〜1930)

ノルウェーの北極探検家

クリスチャニア(現オスロ)で弁護士の子として生れました。現在のオスロ大学であるクリスチャニア大学において動物学を学ぶ中でグリーンランドを旅し、帰国後も博物館などで動物学の研究を継続して1888年には学位を取得しています。

その後グリーンランドのスキー横断を成し遂げ、同島内陸部の研究を進めて探検家としての知名度を高めました。その後、北極探検の準備をはじめ、国や国民からの財政支援をもとに海軍の造船技術を導入した強化船フラム号を建造し、1893年に6年分の食料と8年分の燃料を積み込んで北極点をめざしオスロを出航しました。

彼の計画は、なんと、海が凍るときに、自ら船もろとも氷に閉じ込め、氷とともに漂流すれば、北極点まで氷が運んでくれるという大胆な計画でした。しかしフラム号は北緯77度附近で流氷にとじ込められたため、彼は船を離れてスキーによる北極点への旅を続け、人類未到であった北緯86度14分への到達が限界と悟り1896年に無事帰国しました。

帰国後、彼は大学教授として科学調査や執筆活動に専念しました。彼の幅広い見識は、第一次世界大戦前後の国難回避のために人々から求められましたが、その後の第一次大戦とそれに続く混乱は150万人の難民を生み出しました。特にロシアと東欧、南欧は醜い状況でした。

彼は国際連盟の難民高等弁務官に任命され、難民救済にかかわるすべての機関の調整役を任されました。彼は難民が自由に国境を越えられる証明書を考案し、52ヶ国の政府を説得してこれを正式なパスポートとして認めさせるとともに、一定数の難民を受け入れさせました。彼の肖像が貼られたこのパスポートは「ナンセン・パスポート」と呼ばれ、数十万の難民がこれを提示して国境を越え、それぞれの定住先に落ち着くことができました。

1922年、戦争難民の送還や旧ソ連邦の飢饉難民救済に尽くしたとしてノーベル平和賞を受賞します、ノルウェー人として2人目の受賞でした。彼はこの賞金も難民救済のために費やしたのです。

その後も彼は亡くなるまで、植民地における強制労働の廃止や軍縮運動に精力的に取り組みました。
ナンセンはフラム(Fram)号(前進の意)を建造し、北極点到達を計画しました。フラム号は氷の圧縮作用によって船体が上方に持ち上げられるため、氷に押しつぶされず、氷と一緒に漂流できる構造になっていました。それは彼が35年以上、のべ5回の遠征に使ったほどしっかり造られていました。

彼は、以前遭難したジャネット号の遺品がグリーンランドの南東海岸へと流れ着いているのが、現地のエスキモー人によって偶然発見されたことから。ノヴォシビルスキー諸島の北方からグリーンランド南東へと流れる海流が存在することを知って、その海流にのれば北極点に到達できるのではないか、と考えたのです。
バーナード・ショーとナンセン

皮肉屋としても有名なバーナードショー70歳まで月一の頻度で一昼夜続く激しい片頭痛に悩まされていました。
おりしも訪れた北極探検家ナンセンに「頭痛の治療法は発見しましたか」とたずねました。 唐突で的外れな質問に驚き、「No」と答えたナンセンに彼は「そいつは驚いた。あなたは北極の探検に一生をかけられた。だけどそんなことは誰も期待してませんよ。頭痛の治療法を発見されなかった。患者はみな切望していることなのですがね」と答えたと言われています。

10月


6日
ジュゼッペ・ヴェルディ

(1813〜1901)

イタリアの歌劇作曲家

北イタリアのパルマ公国ブッセート市レ・ロンコーレという小さな村の旅館兼食料品店の長男として生まれました。小さいころから音楽の才能を示し、10歳のときに、町の音楽 学校の校長の指導によって音楽の勉強を始め、12歳の時には既に教会のオルガン奏者になっていました。

18歳になるとミラノへ出て、スカラ座の指揮者ラビーニアについて、本格的に作曲を学びました。1839年に最初のオペラ「オベルト」をスカラ座で発表。成功をおさめると、パリ、ロンドンを訪問し相次いで自作を上演しました。

その後も「リゴレット」「イル・トロバトーレ」「椿姫」などのオペラを発表して名声を確立しました。1861年には国会議員となり、一時期作曲から遠ざかっていましたが。その後も作曲依頼を受け多くの大作を生み出しました。

とくに1871年には「アイーダ」を発表し、その雄大な規模と豪華さで大成功をおさめ、ワーグナーと並び19世紀最大のオペラ作家と呼ばれるようになりました。

彼のオペラは、メロディの美しさが有名で、イタリアオペラの形式を最高度に完成したといわれています。
サッカーの応援でよく聞こえてくるメロディがあります。

オーオー、オ、オ、オー、オ、オ、オ、オウオウオウというものですが、わかりますか?

これは、ヴェルディのオペラ「アイーダ」の一節なのですが、彼は、なぜかサッカーに縁が深く、彼の生まれたパルマは、中田英寿が活躍したチームのある町で、その上、ACパルマの前身は、ヴェルディFCといって、作曲家ヴェルディの生誕100年を祝って1913年に、その名をとって結成されたものなのだそうです。(その後、あまりにも弱いチームだったので、途中から町の名をチーム名に変えたといわれています)

そういえば日本にも、東京ヴェルディというサッカーチームがありますが、こちらはポルトガル語で「緑」を意味する「VERDE」から生まれた造語だそうです。


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