10月


8日
冲中重雄(おきなかしげお)

(1902〜1992)  

内科医学者。

金沢で生まれました。1928年東京大学医学部を卒業し、1943年には東京大学教授になり、戦後に東京大学医学部に新設された第三内科の初代教授となり、その隆盛の基を築きました。

東京大学での最終講義で、剖検(死後の病理解剖)によって確かめられた教授在任中の診断の正誤を発表し、誤診率が14%であったと発表して話題を呼びました。

その後、虎の門病院院長をつとめたあと、冲中記念成人病研究所理事長をつとめ、自律神経系の実験的・臨床的研究を行い、神経病学の確立に努めました。また、日本人の手になるほとんど唯一の内科学の教科書も編纂しています。

1961年学士院恩賜賞受賞、1970年文化勲章を受章しています。
一般の人たちは冲中重雄先生にしてその程度の診断率かと驚いた人が多かったのですが、医師たちの反応は逆で、その成績を発表された学問的姿勢の真摯さに驚き、さすがは冲中先生と賞賛したと言われています。

10月


8日
吉村秀雄(ポップ吉村)

「バイクのエンジンには、魂がこもるんだよ!」

(1922〜1995)

九州の福岡県の福岡市で生まれました。家庭の経済状況が厳しかったこともあり、14歳で海軍少年航空学校(通称予科練)へ入隊しましたが、パラシュート事故で肋膜炎を患い除隊してしまいます。

その後、大日本航空(現在の日本航空)に整備士として入社。努力のかいあって航空機関士の国家試験に合格しましたが、太平洋戦争が始まり、彼は機関士としてシンガポールに派遣され、戦争末期には神風特攻隊の先導という任務についていたこともあったそうです。

終戦直後は、家族の鉄工所の仕事を手伝っていましたが、英語が得意であったので基地の米兵相手にバイクの修理を始め、いつしか彼らから親しみをこめて「ポップ(おやじ)」と呼ばれるようになってゆきました。

その後、彼らに誘われてレースに出場するようになり、そこで、オートバイのチューニングに取り付かれてゆきました。そして、1961年、第一回鈴鹿18時間耐久レースに「九州・吉村レーシングチーム」として出場し優勝。メーカーチームを驚かせました。

1971年には世界初の集合管を開発し、アメリカのレースに出場します。残念ながら途中で、リタイヤしてしまいましたが、1時はトップを快走し、アメリカでも「ヨシムラ」の名が有名になりました。そして翌年アメリカで「ヨシムラ・レーシング」設立しましたが。1974年に共同経営者に会社をのっとられてしまい無一文で帰国することになってしまいます。

しかし、彼は再度単身アメリカへ渡り、新会社「ヨシムラR&D」を作り、「ヨシムラ・レーシング」に戦いを挑み、見事に勝利して相手を倒産に追い込みました。

そして、ようやく会社が軌道に乗った1977年、またもや、彼を不幸が襲います。なんと、工場が火事に見舞われ大火傷を負って入院してしまったのです。しかし、工場の再建を果たした1978年。彼は、スズキと組んで、デイトナでスズキGS1000のデビューウィンを達成し。さらに第1回鈴鹿8時間耐久ではホンダのワークスを破り優勝したのでした。

その後、彼は、7年にわたるアメリカでの生活を終えて帰国し、神奈川県厚木市に現在のヨシムラジャパンを設立し、死ぬまでオートバイレースに関わり続けました。
ポップヨシムラといえば、バイクに乗る人には、神様のような存在でした。メーカーのワークスに一歩も引けを取らない、といっても、バイクのことを知らないとぴんとこないと思います。つまり、例えは乱暴ですが。世界的な大企業に、町の整備屋さんが挑戦して見事勝利したということなのです。彼は「レーシングゴッド」 「ゴッドハンド」とも呼ばれたそうです。


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