10月


7日
ニールス・ヘンリック・ダビッド・ボーア(Niels Henrik David Bohr)(1885〜1962)デンマークの物理学者

コペンハーゲンでコペンハーゲン大学の生理学教授を父に生まれました。1911年コペンハーゲン大学で学位をとり、イギリスに留学してケンブリッジの キャベンディッシュ 研究所でトムソンにつき、さらに翌年マンチェスター大学に行って ラザフォード のもとで研究し、1913年に、プランクの発見したエネルギーの量子的不連続が、原子の内部にも存在することを発見し、発表しました。これは“ボーアの原子模型の理論”といわれています。

その後、コペンハーゲン大学教授となり、1920年には理論物理学研究所長となり、世界でも有数の研究所に育て上げました。1921年、元素の周期律の理論を発表し、更にそれを改良、それによってノーベル物理学賞を受賞しています。また、彼が元素の周期律の理論で予測した新元素が彼の研究所で発見され、ハフニウムと命名されています。

1930年代に入って、核反応に関心をもったボーアは、1935年に原子核反応における複合核を考え、翌年、原子核の液滴模型を提唱しました。

しかし、1943年ナチス・ドイツによってデンマークが占領されると、彼は、スウェーデンに脱出、さらにイギリスを経てアメリカに渡り、原子爆弾制作のマンハッタン計画に協力しています。

戦後は理論物理学研究所長としてデンマークに帰国し。彼は自らが開発に関わった核兵器を国際的に管理することを提唱しました。彼は、核兵器の恐ろしさを十二分に知っていたのです。そして、スイスのジュネーブにあるヨーロッパ連合原子核研究機関(CERN)の創立に助力し、北欧理論原子物理学研究所(ノルディタ)の創立も助け、1957年には、最初の原子力平和利用賞を受賞しています。

1937年に来日したことがあり、仁科芳雄・木村健二郎ら日本人の門下生も多いそうです。
ボーアとアインシュタインの対決

1930年、ベルギーのブリュッセルで開かれた第6回ソルヴェイ会議で、二人の巨人ボーアとアインシュタインの対決が始まりました。

討論の口火を切ったのは、アインシュタインでした。

アインシュタインは、量子力学の不完全性を証明する決定的な証拠を提出したのです。

アインシュタインは次のような実験を提示します。
バネばかりに吊された箱の中には、光の粒を一つずつ発生する装置と、正確なタイマーに連動するシャッターがあると仮定します 「電球から発した一つの光の粒が、シャッターを通って、外に出るとします。この時、シャッターに連動したタイマーで、光の粒が外に飛び出た時間は正確に測れます。一方、箱は、光の粒一個分だけ軽くなります。すると、バネがちぢみ、横の目盛りで重さの変化を測ることができます。重さの変化から、光の粒一個分のエネルギーが、計算で出ます。時間とエネルギーの両方とも正確にわかるのです。これは『不確定性原理』への根本的な反論です。」

「不確定性原理」とは、人間がミクロの物質の位置と運動の両方を正確に知ることはできないという理論です。

ボーアはそのとき「もし、アインシュタインが正しければ、物理学は、もうおしまいだ。」とさえ考えたといわれています。しかし、ボーアはアインシュタインの重大なミスに気が着いたのです。

翌朝、ボーアの反撃が始まります。
「アインシュタイン博士のお話には重大な誤りがあります。それは、バネばかりも重力の中にあり、光の粒が出て、箱が軽くなって動けば、相対性理論によって時間は遅れるのです。つまり、時間は正確に測れないのです。」

これによって、アインシュタインは、論争に破れ、ボーアは物理学を守り通したのでした。


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