10月


6日
孫文(1866〜1925)中国革命の先導者。

広東省香山県の貧農の次男として生まれ,14歳のときにハワイで財を成した兄のもとに赴き、資本主義文明の優越性を知った。

5年後に帰国、広東・香港で医学校で学び開業しましたが。中国の乱れたありさまを見て中国を救うのは革命のほかにないと決心し、清朝をたおす秘密団体に加わり運動を始めました。日進戦争に際して,ハワイで興中会を組織し,華僑・会党と組み、翌年10月に広州で最初の挙兵を試みたが失敗に終わった。

その後、日本に亡命し、1896年、ロンドンに赴きましたが、ロンドンでは清国公使館に捕らわれてしまいます。しかし、学生時代の恩師カントリーらに救われ、「ロンドン被難記」を著しました。このころ指導理念として三民主義(民族主義、民権主義、民主主義)を着想したといわれています。

1897年、来日し、1905年東京で中国同盟会を結成 、1911年10月、軍資金の募集でアメリカにいるときに辛亥革命の勃発を知り、列国の援助を期待して、欧米を訪問し帰国。帰国後、臨時大統領に推されて、中華民国を発足させたが、まもなく南北妥協して、次いで軍閥袁世凱と交代、結局、清朝を打倒しただけで革命は失敗してしまいました。

その後、袁世凱の大勢力に反抗して第2次革命を起こしましたが破れ、日本に亡命し中華革命党を結成。以後、軍閥政権に対し革命運動を続け、広東を中心に政権樹立に務めました。やがて、ロシア革命に学んで中国国民党を改組し、中国共産党と手をにぎって(国共合作)して、労働者・農民の結集を図り国民革命を推進するために、北伐を意図しましたが、「革命いまだならず」と言い残して北京で病気のため亡くなりました。

その生涯を中国革命にささげ、「中国革命の父」と呼ばれ尊敬されています。1992年、亡骸は南京郊外の中山陵に葬られました。
台湾では、現在の1000元と500元の紙幣には蒋介石の肖像がついていますが、かつて、台湾の紙幣の顔はすべて孫文だったそうです。辛亥革命により中国に近代をもたらした「国父」孫文の存在は、いまだに台湾において大きいのですね。

10月


6日
トール・ヘイエルダール

(1914〜2002)

ノルウェーの人類学者、海洋探検家。

ノルウェー南部のラルビクで生まれました。幼少の頃に人類学の本を読んで以来、古代人の交流に興味を持ったと言われています。ラルビク大学を卒業した後、オスロ大学で動物学・地理学を専攻しました。

1937年、マルケサス群島のファツ・ヒヴァで、妻とともに、一年間、原住民のあいだで暮らしたとき、島の石像と南米の石像が似ていることに気づき、ティキが島の住民の祖先を連れてきたという伝説から、この島の住民は南米から海を渡ってやってきたという学説をそれを論文してはっぴょうしました。

しかし、彼の学説は認められませんでした。「南米の民族は舟を知らなかった。」という学者達に、彼は、「バルサ材の筏があった」と反論しましたが。学者達は「あなたはバルサ材の筏に乗って、ペルーから太平洋諸島へ旅行を試みることがおできになる」と言って彼をバカにしたそうです。

彼は、その挑戦を受けた。1947年バルサ材の筏コンティキ号による南米からポリネシアまでの約7000キロにわたる101日間の太平洋横断航海を成し遂げたのでした。

その体験をつづった「コンティキ号探検記」は、67言語に翻訳され、2000万部を売る世界的ベストセラーになりました。

彼は、さらにエジプトと南アメリカの人類移動の可能性を提唱し、古代エジプトの技法でパピルス製の「ラー号」を造り、1970年「ラー2世号」でモロッコのサフィ港からバルバドスのブリッジタウン港まで57日間の漂流に成功し、更に1977年にはイラクからチグリス川を下りアラビア海を経て紅海にいたる漂流に成功しました。これによって、古代シュメール文化が西アジアやアラビア半島へと広まった可能性を示したのです。

その後も、ガラパゴス諸島やイースター島での調査など数多くの発掘、研究成果を残しました。

彼は、今年の3月頃、容態が悪化しイタリアの病院で、悪性の脳腫瘍と診断されました。そして、4月18日に亡くなりました。87歳でした。
彼が、コンティキ号によって証明したとされる学説には学界の反論も多く。学説自体は現在では否定されているそうですが、古代人が筏のような単純な構造の船で太平洋を横断する事が可能である事を証明した事は高く評価されており、彼の命がけの挑戦は多くの人々を魅了しました。


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