10月


4日
ジャン・フランソワ・ミレー(1814〜1875)フランスの画家

ノルマンディ−地方のシェルブール近郊グリュシー村の農家に、8人兄弟の2番目の長男として生まれました。農家とはいえ、かなり格式のある家柄だったということです。

19歳でシェルブールへ絵画修行に出た彼は、トマ・アンリ美術館に展示されている作品を模写することで、構図の捉え方など古典的な技法を学び、卓越したデッサン力を養いました。このとき、そのデッサンを見た画家ムシェルは、ミレーの才能に驚き、その遅過ぎる出発を嘆いたといわれています。

1835年父の死で一時、絵画の修行を中止していましたが、翌年シェルブールで再び絵を学び、さらに翌年奨学金を得てパリに行き P.ドラロッシュに師事しました。

しかし、根っからの農民である彼にとって虚飾に満ちた大都会パリでの生活は耐え切れないものでした。さらに、生活のためロココ風の作品を描き、女の胸と尻を描く専門家とまで言われてしまった彼は、パリを去る決心をし、妻と子供3人をつれてパリ南方60キロのバルビゾンを訪れ、以後死ぬまでこの地で、大地に根ざした創作活動をすることになります。

バルビゾンに移住してから制作された作品には、幼い頃の記憶や、故郷で書きとめたスケッチの中からインスピレーションを受けて描かれたものが数多くみられます。貧窮生活と闘いながら農民の生活を描きつづけた彼は、独特の詩的情感とメランコリックな雰囲気の漂う作風を確立しました。

農村生活に深い共感を抱き、農民が土に親しむ姿を神聖なものと考えて、多くの風景画を描き、「晩鐘」「落穂拾い」「種をまく人」などの有名な作品を発表しました。

その後、1868年レジオン・ドヌール勲章を受章。1874年政府からパンテオンの礼拝堂に装飾画の注文を受けましたが、着手しないうちに病気のため亡くなりました。
当時、フランスでは一般的な絵の常識をくつがえし、どこにでもあるような農民の日常生活を描くミレーの絵に対してあまり好意的ではなかったのですが、ミレーの友だちでボストン在住の画家でもあったウイリアム・ハントは、かなり早い時期にミレーの絵の価値に気付きました。周囲の批評にとらわれず、ハントは60ドルで「種をまく人」を買い、この絵の最初のオーナーになったということです。
種をまく人
「種をまく人」は、岩波文庫のトレードマークとしてもおなじみです。「落ち穂拾い」などと並んで「種をまく人」はミレーの代表作で、さらにこの作品がミレー人気を決定づけたともいわれています。1850年代にミレーは四季をテーマとする作品を多く描いており、、この種をまく人は春の光景で、生命の誕生への賛歌でもあります。
さらに人体が作る対角線と傾斜した大地によって構成される簡潔な構図と力強いタッチ、後方で牛を使って耕している男性の躍動感。抒情的、牧歌的な雰囲気をただよわせながら、農民の様子を人間的な共感をこめて描いています。
「接ぎ木する人」という作品には友人のテオドール・ルソーが某アメリカ人コレクターと名を偽って、自ら4000フランで購入したという逸話があります。

10月


4日
ジョセフ・フランシス・キートン

(1895〜1966)

偉大なる石の顔

アメリカの喜劇映画俳優

アメリカのカンザス州ピックウェイで生まれました。父と母は舞台芸人で、彼は、幼年期から父、母と共に舞台出演。「ザ・スリー・キートンズ」として人気を得て、各地を巡業していました。

1917年に当時映画界でチャップリンと並ぶほどの人気であったロスコー・アーバックルに出会い、彼に誘われ映画に出演するようになりました。翌年、第1次世界大戦のため一時徴兵されましたが、1919年にはアーバックルの助演から主役に昇格し、単独で活動するようになりました。

彼の主な作品には「荒武者キートン」「セブンチャンス」「キートン将軍」「キートンの蒸気船」などがあり、チャップリン、ロイドと共にサイレントの三大喜劇王として活躍しました。

彼のバスターの名前どおりのアクロバット芸も人気でした。が、彼の映画は、ほとんどサイレント映画と呼ばれる、音の無い映像だけの映画でした。そのため、ほとんどの俳優達は心情を表現するために、おおげさな身振りや、分かりやすい表情の動きに工夫を凝らしていました。しかし、彼は逆に喜怒哀楽を一切顔を出さず、無表情に徹したのです。それが彼のトレードマークとなり、人気を博していったのです。

しかし、技術の進歩に伴い、映画に音が付くことが普通になり、年齢的に体力も衰え、彼の人気は落ちて行きましたが。しかし、彼はそののちも活動を続け、「サンセット大通り」「ライム・ライト」「80日世界一周」などに出演しています

彼は2度の離婚やアルコール中毒などのトラブルも絶えませんでしたが、晩年は3度目の妻のエレノアと幸せに暮らしました。最後の映画の撮影中の1966年2月1日に、肺ガンのためカリフォルニア州ウッドランドヒルズの自宅で亡くなりました。
バスターの由来

赤ん坊のキートンが階段から転げ落ちたとき、かすり傷はおろか、笑っていたキートンを、ハリー・フーディーニが「赤ちゃんはなかなかの大立ち回り(バスター)でしたよ」と言ったため、その場にいた父が「バスター」を呼び名にしようと決めたということです。


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