10月


2日
モハンダス・カラムチャンド・ガンジー(Mohandas Karamchand Gandhi)
マハトマ(偉大な魂)
(1869〜1948)

インドの政治家、精神的指導者

インド西部カチアワル地方のポルバンダルに生まれました。両親は敬虔なヒンドゥー教徒で、特に慈愛と優しさに満ちた母親の影響を強く受けました。この母の決して施しを断らない優しさのため、彼の家の前には貧しい人たちが20人も30人も集まってきたといわれています。

彼は弁護士を志し、19歳になった1888年ロンドンに留学します。ロンドンに3年間滞在し、弁護士の資格を取得し、その後2年間ボンベイやラージコットで開業していました。 やがて彼は南アフリカに渡り、そこで有色人種に対する差別を経験、1906年ころには、彼は激しい抗議行動を開始しましたが、「消極的抵抗」の不適を悟り、これを「真理と愛の子、つまり非暴力」を意味するサティヤーグラハに置き換えました。1913年10月には、南アフリカのナタール州からトランスバール州への「サティヤーグラハ行進」を展開、世界的な共感を呼びました。

1915年にインドに帰国。マハトマ」の称をもって迎えられた彼は、労働運動とともに独立運動に従事し、インド国民会議派の指導者として活躍します。1919年にはローラット法に反対して最初の不服従運動を指導、この法律は、第1次大戦中に高まったインドの民族運動を強圧的に抑制するため、英国植民地政庁のとった立法措置で、裁判なしの投獄、令状なしの逮捕などを可能としたものでした。

また、1930年には塩専売法反対のための「塩の行進」等を指導しています。この間、彼はしばしば投獄されましたが運動を継続、インド国民会議派の育成に努力し,また国産品愛用運動も指導、イギリス、ランカシャーへの依存を断ち切るために糸車運動を奨励しました。(この糸車は、後にインド国旗のデザインに使用されています。)更に第2次世界大戦中は、イギリスにインド即時撤退を要求して逮捕されました。

その後、イギリス首相クレメント・アトリーが発表した、ヒンドゥー=イスラム分割案に反対し、彼は荒廃した地方の村から村へとはだしで歩き回り、イスラム教徒やヒンドゥー教徒と腹蔵なく交わり、彼らに等しく非暴力を説きました。しかし、1947年8月15日のインド独立の日も、彼はカルカッタで暴動の渦中にありました。ヒンドゥー教徒とイスラム教徒は、お互い争い、殺し合いをやめようとはせず、少数派のイスラム教徒達は国を追われようとしていました。

1948年1月12日、彼は「くる日もくる日も、私に会いにくるイスラム教徒の友に、私は答えるすべを知らない。」とその翌日から死を覚悟しての断食を始めました、そしてインド中の人々が彼の心に触れた1月18日、この日、デリーにあるあらゆるコミュニティを代表する平和委員会が、兄弟愛と、イスラム少数民族の生命、財産、信仰の保護を公約する条約に調印したという報が彼の耳に届いたのでした。

しかし1948年1月30日金曜日の夕刻、彼はいつもの祈祷会に出かけ、祈祷壇の段を上りかけたとき、信徒の群れを押分けてきた1人の狂信的なヒンドゥー教徒が突然、3発の銃弾を浴びせました。ガンジーは「ヘー・ラーマ」(ああ神よ)とうめいたまま息絶えたのでした。
イギリスの統治下にあったインドも戦争に巻き込まれ参戦します。インド人の多くが徴兵され、イギリスの国益のため戦争に駆り出されました。アフリカで戦ったイギリス軍の中にも多くのインド兵がいました。
皮肉なことにガンジーは、アフリカでイギリス軍の野戦衛生隊 に自ら志願し、インド人で組織された救護部隊を率い従軍します。銃火の最前線から死傷者を後方に運ぶ危険な任務でした。
インドの独立運動のシンボルであった紡ぎ車は インド国旗のデザインなりました。

ガンジーが人々に伝え続けてきた「非暴力・非服従」とは、抑圧からの解放だけを訴えただけではなく、自らが、自らの力で生きることを訴えかけたものでもありました。彼が提唱した“ワルダ教育案”は教育と労働を結びつけた“労作教育”といわれる教育案でした。数の数え方から、手工業の収入の算出、地理までも学ばさせようとした問題発見から解決するための“プロセス修得論”です。その方法としてインドで使用された道具は糸紡ぎ車だったのです

第一学年では、糸紡ぎを通じて、数え方、十進法を学ぶ。続いて、糸たばをつかって寄せ算、引き算を学ぶ。第二学年では、糸紡ぎや機織りによって、さらに大きな数字やかけ算にすすむ。 第三学年では、農村、地方、各州、全インドの綿の生産量を数学と結びつけ地理を学ぶ。第四学年では、手紡ぎやその他の手工業によって得られる 収入などの複雑な計算を学ぶ。 第五学年、六年では、糸紡ぎの製作に使う木材の算出方法から利子の計算、 グラフの作り方、平方根まで学習するといった具合でした。
1948年1月20日、デリーのガンジー家の外で行われた祈祷会に、1人の青年が爆弾を投じた。しかし幸いに被害はなかった。翌日、その事件に言及して、ガンジーは「あの青年はたぶん私をヒンドゥー教の敵とみたのであろうが、決してさげすんではならない」と語ったといわれています。

また、その勇敢な冷静さが褒め称えられたのに対し、「誰かが私に拳銃を真っ直ぐに突きつけて発砲したとしても、私が莞爾(かんじ)として銃口に向かい、心に神の御名を繰り返すことができたなら、その時こそお褒めをいただくに値するでしょう」と静かに答えています。
リチャード・アッテンボロー監督・制作  ベン・キングズレー主演 「ガンジー」 1983年 第55回アカデミー賞受賞
冒頭の葬儀のシーンは、30万人を超えるエキストラが動員され、ニューデリーで撮影された。エキストラ数最高を動員した映画として、ギネスブックに認定されています。

偉大なる論理物理学者 アンシュタインが ガンジーについて語った言葉
「未来の人たちは信じられないだろう このような人が地球上に実在していたことを」
『アジアウィーク』誌が1999年12月1日に発表した、20世紀のアジアに最も貢献した人物「20世紀のアジア人」に選ばれたのは、インド独立運動の指導者、マハトマ・ガンジーでした。
ガンジーが残した言葉
「七つの社会的大罪」 原則なき政治
           道徳なき商業
           労働なき富
           人格なき教育
           人間性なき科学
           良心なき快楽
           犠牲なき信仰

一人の人に可能なことは、万人に可能である。
ガンジーとチャップリン
映画を見ていないので喜劇王の活躍は何も知らないガンジーでしたが、チャップリンがロンドンの貧民街の生まれであることを知ると、喜んで面会しています。意気投合した二人は、機械が産み出す非人間的な生産活動や、便利さだけを追求する機械の罪悪性についての話をしたといわれており。後にチャップリンは、この対談から 『モダン・タイムス』 を作るほど、ガンジーから影響を受けたようです。


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