10月


1日
ジュリー・アンドリュース(1935〜)イギリスのミュージカル女優

ヴォードビルの芸人の子としてイギリスのサリー州ウォルトン・オン・テームズで生まれました。義父のテッド・アンドルーズと母バーバラと共に幼少のころから舞台に立っていましたが、声楽家リリー・スタイルズ・アレンのレッスンを受けるようになり、プロ歌手として本格的にデビューしました。

12歳でロンドンの舞台で生まれて始めて人前で歌い「「大変素晴らしいソプラノ」という評判をうけ、19歳でブロードウェイ・ミュージカル「ボーイ・フレンド」に抜擢されて渡米、この公演の終わりごろにTV番組「ハイ・トア」でビング・クロスビーと共演し、それが認められて「マイ・フェア・レディー」の主役を掴みました。1956年ブロードウェイの「マイ・フェアレディ」が大ヒットし、ブロードウェイのスターの座を確立しました。この舞台の成功を経て、ミュージカル「キャメロット」にリチャード・バートンと出演し、またまた大成功を収めました。

その後、ハリウッドから映画出演の話が続々と舞い込むようになり、1964年「メリーポピンズ」で映画デビュー、アカデミー賞を受賞し。翌年映画「サウンド・オブ・ミュージック」が記録的ヒットとなり、ハリウッドスターの座を確立しました。

その後も、TVシリーズ「ジュリーアンドリュースアワー」が好評を博し、映画「10(TEN)」の大ヒットでハリウッド復帰。1982年の「ビクター・ビクトリア」も大好評。オスカーにノミネートされています。また、1995年には 「ビクター・ビクトリア」でブロードウェイミュージカルに復帰しました。

しかし、1999年声帯に良性の腫瘍ができ、手術を受けなくてもそのうち治るようなものでしたが、ツアーのため早く除去したかったために腫瘍の除去手術を受けましたが失敗。肝心の歌声の状況については詳しいことはわかっていませんが、彼女自身は「あきらめずにリハビリを続けるしかない」と語り努力を続けています。

2000年には、バッキンガム宮殿でエリザベス英女王から大英帝国勲位第二級勲功章(DBE)を授与され、「デーム」(男性のナイトに相当する尊称)となりました。
サウンド・オブ・ミュージック
ナチの侵攻迫るオーストリア。歌好きなシスター見習いのマリアは、修道院にふさわしくないおてんばぶりがたたり、トラップ家の7人の子どもたちの家庭教師として派遣される。
トラップ夫人を失い音楽を忘れた一家に明るさを取り戻したマリアに、いつしか子どもたちも、大佐自身もひかれていく。
メリーポピンズ
ロンドンのバンクス家の子どもたち、ジェーンとマイケルは忙しい両親に相手してもらえませんでした。そんなある日、空からメリー・ポピンズという保母さんがやってきて、すてきな歌と魔法で二人を夢中にさせてゆきます。
オードリー・ヘップバーンで有名な映画「マイ フェア レディ」はアカデミー作品賞など8部門を受賞しています。しかし、オードリーはノミネートすらされませんでした。この作品はブロードウェイミュージカルの映画化で、舞台では、ジュリーアンドリュースがイライザを演じて大好評を得ていたのです。映画でも当然、ジュリーがイライザを演じるものと思われていたのですが。しかし彼女は映画界ではまだ全く無名であり、イライザ役はオードリーの物となったのです。
じつは、この年の主演女優賞は、「メリーポピンズ」のジュリーアンドリュースが受賞しており、イライザ役をオードリーに持っていかれたうっぷんをはらした形となっています。

10月


1日
中江 兆民 (なかえ ちょうみん)  (本名 篤介(とくすけ))

(1847〜1901)

「自由は取る可き物なり。貰ふ可き品に非ず」

明治時代の思想家

土佐国高知城下の山田町(現・高知市はりまや町3丁目18)で、父・元助、母・柳の長男として生まれました。15歳のとき父・元助の死によって家督を相続しています。翌年、吉田東洋が開設した藩校・文武館に入学、蕃学や漢学などを学ぶようになります。そして19歳の時に、洋学の師・細川潤次郎(ジョン万の英語の弟子)にその才を認められ、土佐藩の長崎留学生として派遣されるという幸運をつかみます。

その後、長崎での勉学を終え江戸に学ぶようになり、時の実力者である大久保利通に直訴し、「民間の書生も採用せよ」、と説得し司法省出仕、刑法学専修の身分となりフランス留学を実現させたのでした。


そして、明治4年、岩倉具視全権大使一行が米欧視察のため横浜港を出航した。この一行に留学生59名が随行し、彼もその一員となっていたのです。その後、彼はフランスで貪欲に知識を吸収し、民主主義思想を学び続けていましたが、明治政府の財政難もあって留学生全員帰国命令が出たため、明治7年、マルセイユを出航し、故国への帰路につきます。

帰国後は塾を開き、フランス学者として著作・教育活動をおこない「三酔人経綸問答」を著しました。また、明治14年に西園寺公望の「東洋自由新聞」の主筆となって自由民権運動を指導。翌年にはルソーの「民約論」を訳してその思想を紹介し「東洋のルソー」と呼ばれるようになりました。

しかし、明治20年12月、保安条例のために東京を追放されてしまいます。しかし、彼は大阪に移り「東雲新聞」主筆として、明治の政治・経済・社会批判に鋭い批判を行い続けました。

さらに、大阪から立候補して第一回帝国議会議員となり、自由民権運動の再編と大同団結のために努力していましたが、あまりにも腐敗した議会の状態に憤慨し三ヵ月に満たずに辞職、再び新聞人として生きるようになりました。

その後、新聞社を退社した以降は、実業界に入りましたが事業はことごとく失敗し、多大の負債をかかえ、生活にも困窮するようになってしまいます。そして、明治34年大阪で喉に激痛を覚え、医師の診察を受けたところ医者から「喉頭ガン」と診断され1年半の命と宣告されてしまいました。

彼は、そのまま大阪にとどまり、遺言とも言うべき「一年有半」を書きあげ九月に出版。帰京してからも自宅で著述を続け「続一年有半』を書き10月に出版した後、11月13日に亡くなりました。55歳でした。
彼の兆民という名前の出典は『書経』の中の「天子善あらば即ち億兆の民これによりて安寧となる」の一節だそうです。


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