目覚め02
ディルスが目覚めたとき、まるで自分が偽者のような気がした。
高い天井と、沈みそうなベッド、明るい視界を初めて経験したために、
現実味がなかったからだ。
目の前まで片手を持っていくと、腕と足の枷はなくなっているのに気づく。
何度かグー、パーを繰り返した。
シーツの感触に、段々と自分という輪郭がハッキリとしだす。
何を思うでもなく小さくため息が出た。
「お目覚めになりましたか。」
不意にかけられた声に視線を向ける。
「っ!?」
赤く光二つの目をフードから覗かした男が立っていた。
思わずベッドの反対側から落ちそうな勢いでベッドの端による。
あんたいっぺん自分の顔の目の前に鏡を置いて寝てみろと言いたい気分に襲われた。
怖い顔は怖いだけで慣れればどうでもない、しかし、この場合怪しいというのはすぐに
払拭できない後味の悪さがある。
ディルスは一瞬「どうしよう」とどうしようもないことも気づかず、本気で思った。
「お身体の調子はどうですか?」
ディルスの反応を気にすることなく、フードの男は言う。
ディルスは一通り体を見渡すと、軽く肩をすくめて見せた。
「では、早速で申し訳ございませんが、どうぞこちらに。」
そう言って男は部屋に出るために扉に向かって歩き始める。
あまり考えることなく、ディルスは従った。
案内されたのは風呂場だった。
「まずはお身体を清めください。」
そう言われて断れる理由もなかったので、大人従い服を脱いで風呂に入ったのだが。
スパーンッ!
閉じられた扉が、勢いよく開かれ、ディルスが出てきた。
「如何なされましたか?」
「中にいる女を何とかしてくれ。」
少し低くなった声でディルスは言う。
「彼女たちは仕事をしているだけでございます。お気になさらぬよう。」
「無理、別に給料から差し引かなくても良いから、何とかしてくれ。」
「では、変わりに男の従者を用意いたしましょうか?」
「俺に対して何か不満でもあるのか?それともただの嫌がらせか?
それは拷問にでも採用していろ、絶対効くぞ。
つーか、論点が違う、俺は一人で入りたいんだ。」
「…かしこまりました、ただし、爪と髪に関しては手を加えさせて頂きます。
とりあえず、湯女はひかせますので、ごゆっくりお入りください。」
それで一応納得し、ディルスは後で何か言われて湯女を入れられても嫌なので、
初めて丁寧に体を洗った。
「(落ち着くよりも、疲れる)」
「ですから、このままいきますと予定より遅れる見込みが…。」
部下からの報告を聞いていた魔王・ジェノヴァの元に、扉をノックする音が耳に入る。
「入れ。」
「失礼します。」
ジェノヴァの声に、部下の一人が入ってきた。
「あの子供が目覚めました。」
「そうか。」
書類から視線を上げ、先を促す。
「魔界の生気による体調の不良は見受けられません。他の外傷や病気等もないようです。」
「今はどうしている。」
再び書類に視線を落としたまま、ジェノヴァは聞いた。
「ただ今、身ごしらえされております。」
「分かった、下がって良いぞ。」
ジェノヴァの言葉に深く一礼し部下が出て行くと、先に報告をしていたもう一人の部下が
口を開く。
「陛下、何故またあのような人間界の者を連れてこられたのですか。」
「…気まぐれだ。」
本気か冗談か、判断しづらい声色だ。
「お言葉ですが、陛下とも在ろう者が、人間の者を…」
「お前はいつから私に意見できるほどの者を手に入れた。」
「…申し訳ありません。」
頭をたれる部下にジェノヴァはそれ以上咎めることはしなかった。
「もう良い、報告書をおいて、お前も行け。」
「は。」
部下が出て行くと、ジェノヴァは椅子に深く座り込んだ。
「もったいないですわ、綺麗な御髪ですのに。」
髪を梳かしていく女中が言った。
「………。」
「本当に、手入れをしていなかったのが悔やまれます。」
同じように髪をとかす女中が同意する。
「………。」
「でも素敵なお色ですわ。」
「………。」
「指もほっそりしていて。」
爪を磨いていた女中が言った。
「………。」
「爪も艶々。」
足の爪を磨く女中が呟く。
「………。」
女中達の言葉に、ディルスは耳をちくわにするように務めた。
神父の聖書の教えでも、此処まで苦痛ではなかっただろう。
これで湯女がいたら確実に白くなっていた。
あの暗い部屋にいたときの方が、どんなに静かで気楽だったか。
目覚めたとたん、自分は本当に自分なのかと思うほど、変化が大きすぎる。
「こちらをお召しになってください。」
「………。」
ボロボロの古い服は既にどこかにいき、女中は光沢のあるサラサラの布で出来た服を
差し出してきた。
女中の向こう側で、別の女中が布を持って待機しているのを見ると、ズボンと上着という
二着では終わらせてくれそうにないらしい。
地下生活では身支度などまともにしたことはなかったが、此処まで時間がかかるもの
なのか、ディルスは疑問を感じずにはいられなかったが、抵抗する気まで起きなかった
ので、とりあえずするようにさせていた。
「服って、こんなに重いものなのか?」
着替えが終わり、出て行く女中達と入れ違いに入ってきたフードの男にディルスは尋ねる。
「正装なので、しばらくの間は我慢してください。」
「ふ、ん。」
目の前に立てかけられた全体を映す鏡を前に、暗い部屋とは違い、明るくハッキリした
視界が落ち着かず、ディルスは前髪を垂らした。
「どうぞ、こちらへ。」
そう言って再び歩き出すフードの男に、ディルスは重く感じる服を我慢してついていく。
長い、長い通路を歩き、いくつも並ぶ扉の中に入ったり出たりを繰り返し、
階段の上り下りを一階ずつ行い、大きな扉の前に立った。
兵士が両脇に控え、フードの男を認識すると一礼し、装飾の施された扉を開く。
何人もの魔族が両脇に控え、中央を通る絨毯の先には階段があり、その上に玉座に座る
ジェノヴァがいた。
階段の下まで来ると、フードの男は跪く。
「思ったより、まともになったな。」
ディルスの姿を眺めながらジェノヴァは言った。
ディルスは黙ったままジェノヴァを見上げている。
「陛下の御前です、許しもなく頭を上げるものではありません。」
ジェノヴァのそばにいた女性が口を開いた。
「構わん。」
しかし、ディルスが動く前にジェノヴァが言う。
「しかし。」
不服と戸惑いの表情をし、何かを言おうとする女性をジェノヴァは視線を向け制した。
「こちらに来い。」
そしてディルスにそう指示する。
ディルスは階段の真下にまで歩いた。
「何をしている、私は此処に来いと言ったのだぞ。」
ジェノヴァの示した場所が玉座の元だと分かったとき、広間にざわめきが広まる。
「陛下!いくら陛下が連れてこられた者とはいえ、何処の素性とも分からぬ者に!」
別の女性が、ジェノヴァに言った。
「我が闇より生まれ出た新たな一族だ、その素性が不満か?」
薄い笑みを浮かべて返ってきたジェノヴァの返答に、ざわめきが一層強まる。
なかなか収まらないざわめきにジェノヴァは一言言いはなった。
「静まれ。」
シンッと一瞬のうちにあたりは静まりかえる。
「お前も早く来い。」
どう考えても動ける状態ではなかったと思ったが、自分に注がれる視線を受け流し、
ディルスは黙したまま階段を上り、ジェノヴァの前に立った。
「気分はどうだ。」
「実感も現実味もない、でもそれは今までと大して変わらない。
ただ、身支度が随分疲れるものになったぐらいだ。」
その言葉遣いに、何か言いたげな周囲の様子を無視しジェノヴァ言う。
「実感がなくともお前は闇となり、現実味がなくともお前は私の息子となった。
それを努々忘れることのないよう、重々心に留めておけ。
自由を捨て束縛を選び、世界を捨て外に出た、何者かを捨て何者であるかを選び、
影を捨て闇に呑まれ、新たなる誕生を選んだお前を私は祝福しよう。」
その言葉にディルスはその場に跪いた。
少し、自分に現実味が感じられた。
ジェノヴァが玉座から立ち上がる。
「新たなる闇に名付けた名は“ディルス”その名を決して忘れることのないよう、
心せよ。」
その言葉に、広間にいた者は頭を下げることで従った。
ふと、ディルスの視界に赤井絨毯の端に服の裾が張り込む。
「お立ちなさい。」
かけられた声に立ち上がると、一人の若い女性が立っていた。
女性は、ディルスに広間の方を向くよう促す。
眼下に頭を下げる幾多もの姿があった。
「決して見苦しい姿を見せてはなりません、常に毅然と、己の立場に誇りを持ちなさい。」
ディルスは女性の言葉にどうしたら良いのかは分からなかったが、視線を彷徨わすことな
く、ジッと前を見つめていた。
「少しは、ご自分の立場を考えて行動なさってください。」
自室に戻ったジェノヴァに、妻の一人イシュチェルが言う。
「お前も不満か?」
「起きてしまったことは仕方ありません。しかし、あれでは下の者に顔が立ちません。」
憮然とした表情でイシュチェルは答え、逆に聞き返した。
「何故またあの子を?」
「喚ばれたのだよ。」
ジェノヴァの答えに、イシュチェルは僅かに首をかしげる。
「フェオの助言でな、人間界にしては深すぎる闇があると。」
「それがあの子だと。」
机に載っていた紙をイシュチェルに渡した。
「ディルスの部屋に描かれていた魔法陣によって契約したモノのリストだ。」
目を通していくイシュチェルの瞳が僅かに見開かれ、ジェノヴァに視線を向ける。
「人間の領域は既に超えている、ならば他のモノに目を付けられる前に、
手に入れておいて損はない。」
「ここにいれば更に力を付けます、それが危険なモノになるかもしれませんわ。」
ジェノヴァの言葉にイシュチェルはどこか納得し、諦めた口調で言った。
「縄を付けずにいても変わりはない、危険なものほど手元にある方が安全だ。」
「……おっしゃる通りかもしれませんわね、分かりました、私のとってもあの子は私の子
として、これから接しさせて頂きます。」
ため息と共にイシュチェルはそう言うと、手に持った紙を折りたたんだ。
「他の方々には私から説明しておきましょう、
ですから、このリストはこちらで預からせて頂きます。」
「構わん、私はこれから用事がある。通達があるとは思うが、
部屋にはなるべく近づかせぬよう。」
「かしこまりました。……あまり無理をさせてはいけませんよ、折角手に入れたのなら、
壊してしまっては元も子もありませんから。」
その言葉にジェノヴァは笑みを浮かべたまま返す。
「なんなら、女はお前が教えてやるか?」
その言葉に僅かに目を見開いたが、すぐ優美な笑みを浮かべた。
「それも楽しいかもしれませんわね。」
最近、相手をしてくれない相手への批判も込めてイシュチェルはそう言うと、
部屋を出て行った。
女中を連れて廊下を歩いていると、向こうからフードの男に連れられたディルスが歩いて
くるのが見えた。
フードの男はイシュチェルを認めると、廊下の端により頭を下げる。
「ごきげんよう。」
イシュチェルがディルスに声をかけると、ディルスは先程の広間同様、どうしようか
顔に出さずに悩み「ゴキゲンヨ」と返した。
言葉の意味をあまり理解していないので、どこか不器用に聞こえる口調にイシュチェルは
気にせず喋る。
「私は、陛下の正室、イシュチェルと言います、以後よしなに。」
「ディルスです………ええっと…。」
何を言ったらいいのか考えているディルスの様子にクスリと笑みを浮かべた。
「陛下にお呼ばれになったのでしょ?」
「あ、はい。」
「では、私はこれで、今度ご一緒にお茶でもしましょう。」
「はあ、あ、ハイ。」
「それでは。」
軽く一礼をし、横を通り過ぎていくイシュチェルにディルスも礼を返した。
ジェノヴァの部屋に行くと、フードの男は早々に出て行ってしまった。
「あのさあ、俺、もう疲れたんだけど。」
ベッドの上でディルスは鼻先に触れた相手の顔を見ながら言う。
「お前はまだ人間の臭いがするからな、少しは我慢しろ。」
「関係あるのかよ。」
そう返しながら、大人しく口付けをうけた。
「地下生活で疎いと思ったが、そうでもないようだな。」
ディルスの唇をぺろりと舐めながらジェノヴァが言う。
「神父とか村人とかがね。」
「許したのか。」
「冗談、魔法の実験台になって貰ったさ。」
その答えにジェノヴァは満足そうな笑み浮かべた。
「今後は自分の行動に気を付けることだ、私の顔に泥を塗るようなまねをしてみろ、
その場で殺す。」
そう言って、ジェノヴァの手が首筋をたどる。
「アクティブじゃなか、ら…っ、大丈夫だろっ。」
体をまさぐってくる手と唇に身をよじりながら言ったディルスの言葉にジェノヴァは
一言だけ返した。
「楽しませてもらおう。」
それは何に対する言葉なのか、ディルスには判断できなかった。
目が覚めたとき、ジェノヴァは既に机の上で書類を片づけていた。
疲れ切った体を引きずるように出てきたディルスを確認すると、手を止める。
「傷は治っているはずだが。」
「感覚が残ってて、気持ち悪いんだよ。」
シレッと言うジェノヴァに対して、面白くなさそうにディルスは返した。
「何れ慣れる。それよりも今後お前の世話役のハーンだ。分からないことはこの者に
聞くといい。」
そこには、昨日のフードの男が立っていた。
「ハーン・ミルスと申します、以後、お見知りおきを。」
そう言ってフードの男・ハーンは深々と一礼をする。
「私は仕事がある、取りあえず話は部屋に戻ってしてくれ。」
ジェノヴァは既に手を動かしめ、視線を書類に向けたままそう言った。
二人は部屋を出ると、ハーンの案内でディルスに当てられた部屋に向かう。
「ご入り用のものがございましたら、お言いください。まずは朝食の用意をさせますので。」
ディルスは食欲は感じなかったが、満腹感もなかったので取りあえず朝食の三分の一だけ
食した。
「しばらくの間は、色々と覚えて頂かなければならないことが御座いますので、
ご了承くださいませ。」
「自由時間はあるの?」
「ディルス様のお心がけ次第でございます。」
「ふ、ん。」
少しすねるように口を曲げると、すぐに何かを思いついたように開く。
「交換日記しよう。」
「はい!?」
流石に全くの予想外の言葉に、100%当たる占い師に「あなたは明日死にます。」と言われ
るより、驚き、ハーンは思わず聞き返してしまった。
「ディルス様と私が、ですか?」
「そ、こっちの常識を知ろうにも、常識すぎて気づかない事もあるかもしれねえだろ、
特に日常生活なんてさ。」
「…はあ。」
最もらしい意見だが、それよりもどこから交換日記という単語を知ったのだろう。
「だから交換日記なら日常がわかりやすくしれるじゃん。」
「何も私めなどと。」
それ以前に、そんなことをすれば不自然の固まりができあがる。
「他に誰としろと。」
昨日今日で今から覚えていく立場のディルスは逆に聞き返した。
「失礼しました。」
こうして訳の分からない交換日記が始まった。
「今思い返せば、あの頃のディルス様は口調はともかく、まだ大人しかったですな。」
昔を思い出し、ハーンはしみじみと呟く。
「俺が会った頃には既にあの状態が形成されていましたが。」
自分の記憶を掘り返しカルマが言った。
「ふむ、最初は何が何だか分からず、なかなか行動が効かなかったからかもしれません、
要領が分かってくると段々動きも活発に………。」
「………。」
二人はヤレヤレとため息をつく。
「しかし、何故ディルス様は交換日記なんか知っていたんでしょうか?」
「何かの本に載っていたそうです。」
どんな本だよ、とも思ったが、本人に聞く気も起きなかったので、
カルマはそのまま留めておくことにした。
ハーンの部屋の鍵のかかった机の奥には、過去に書いた交換日記がいまだ置かれている。