うえをむいてあるこう



 今日も七海(ななみ)は汚いリュックにAtoZを放り込み、ヴィクトリア駅裏のB&Bを出る。
 どこへ行くにしても歩く道筋は決まっている。駅の正面に回り、そこから真っ直ぐにのびているヴィクトリア・ストリートを歩く歩く、ただひたすら歩く。
 レストランだの郵便局だのスーパーマーケットだのが立ち並ぶ大通りを抜けて、10分も歩けば、唐突に視界が開けて例のやつが、でーんと姿を現す。ビッグ・ベンだ。
 この壮大なるゴシック建築が太陽の光を受けてきらきらと輝く様を初めて目にしたとき、七海はただ圧倒されて目まいがした。そして強烈に惹き付けられてしまった。
 ロンドンといえば必ず象徴として出てくる、誰もが見慣れた記号のような建物だが、実際肉眼で目にすると印象は全く変わる。しかも観光写真によくあるような、テムズの対岸から全景を見るアングルと違い、すぐ側に立って見上げると、その大きさ美しさは怖いほど胸に迫ってくる。
 今日のビッグ・ベンは曇った空を映して鈍色。近くのベンチに腰掛けて、七海はしばらく呆けたようにその姿を見上げる。それが彼女の第一の日課。
 びゅうびゅう吹き付ける風は、日本の木枯らしのように身の切れるような寒さを運んでくるわけではないが、それでもじっとしてるとゆるやかに体温を奪われる心地がする。
 七海は立ち上がり、テムズ河岸に向かって歩き出した。

 そのまままっすぐウェストミンスター橋を渡れば、対岸から絵葉書のような国会議事堂の全容が見られるが、あえて渡らず左に曲がる。そして、ゆったりと流れるテムズに沿って、エンバクメントと呼ばれる遊歩道をチャリングクロスへ向かって歩く。
 天気が良ければ遊歩道へ降りる階段に腰掛け、ぼんやりと河を眺めていくらでも時間を過ごすことがある。行き来する船、観光客、カモメやハト、見るべきものはいくらでもある。ゆっくりと動く水面を見ているだけでもあっというまに時間はたってしまう。
 急いでやらなくてはならないことはなにもない。どうしても行かなければならない場所もない。
 時間なら、いくらでもある。
 考えてみればそんな風に思いつつ、彼女はそれまで23年間の人生をぼんやりとやり過ごしてきたのかもしれなかった。
 だからなのかもしれない。こんなところで途方に暮れることになってしまったのも。

 今日はともかく気持ちよく戸外に座っていられる天気ではないので、またしてもひたすら歩く・・・・とはいえそう遠くない場所に、第2の目的の場所はある。
 ほどなく見えてくる、川岸に浮かぶ2台の大きな船。
 手前の方、“Tattershall Castle“と呼ばれる船に乗り込む。
 別に船に乗ってどこへ行こうというわけでもない。この船はどこへも行かない船だった。
 デッキを降りて中に入れば、街中のあちこちにあるのと同じ、見覚えのある内装。アンバー色の年季を感じ させる木の壁に、赤いビロードの椅子。真中にはカウンターがあり、真鍮のビールサーバが鈍く光る。
 船を改装したこのパブは、彼女の大好きな場所だった。
 午前11時前、飲むにはちと早い時間だが、別に常識を気にすることもない。カウンターへ行き、覚えたての英語、"One paint of lager“を口にする。こちらでは常識のぬるいビターを、好んで飲むほどイギリス人にはなりきれなくて、彼女が飲むのはもっぱら、 シュワシュワと泡の立つ冷たい生ビール。だけど滑らかな透明のグラスに注がれたそれは、日本の生中よりずっとおいしそうに見える。
 窓に向けられたカウンター席に座り、ゆったりと流れる水面を眺めながら至福のひととき。
 だけど強風のせいか、船はゆらゆらと実によく揺れる。One paintのビールは昼間っから飲むにしてはけっこうな量で、ただでさえ底をつきかけている彼女の前向きな気持を、萎えさせてしまう。
 せっかく、憧れのロンドンに来たというのに。
 沈んでいく気持は止められない。自分の人生そのものが、足場を失ってぐらぐらと揺れているような、そんな気持に何度とらわれたことだろう。
 この1年の間。


 ― 粕谷さん、この仕事向いてないんじゃないですか? ―
 冷たい視線と共にはっきりと言われた、きつーい一言が、今も耳に残って消えない。
 一生懸命やってるのに・・・・数々のシャレにならない失敗の前に、そんな言い訳が通用するはずもなく。
その言葉を最後に、その仕事仲間は一言も口を聞いてくれなくなり。
 そんな空気は他の仲間たちにも伝播し、あまりの気まずさに、なんとか半年間頑張ってきたアルバイトを辞めざるを得なかった。
 フリーターは何の責任もなくふらふら生きてるなんて嘘だと思う。たかがコンビニのバイトといえども、やらねばならない煩雑な仕事は無数にあった。安い給料で、責任を持ってそれらの仕事をこなさなければならないのが、フリーターという立場。
 よほどの責任感がなくては、できることじゃない。

 手が遅い。何をやっても人の倍かかる。頭の回転も遅い。いつもぼんやりしてて機転がきかない。他人とのコミュニケーション能力がない。自分の意志をうまく伝えることができない。
加えて根性もない。
 そんな自分と、いやというほど向き合ってきた一年間だった。
 大学を卒業してすぐ就職した会社は、1ヶ月で辞めた。8月に内定をもらった時点であっという間に仲良くなり、4月の入社のときには派閥までできていた同期入社の子たちの中で、完璧に孤立してしまったのが間接的な原因。営業補佐として入ったもののなかなか仕事を覚えることができず、可愛げのない性格も災いして直属の上司に疎まれ、リストラの対象になってしまったことが直接の原因。
 所詮カタギの仕事なんて向いてなかったんだわと、フリーターになってみるも、よけいにヒサンな結果になって。
 会社勤めもフリーターも、向いてない。じゃあどんな仕事なら向いてるんだろう。
 どんな仕事でも、結局求められるのは自分と正反対の資質だと思う。機転が効いて、てきぱきと動き、屈託なく誰とでも付き合える、加えて責任感も根性もある、そんな人間。
 人には誰でも何らかの才能があり、自分の居るべき場所があるはずなのだと信じていたのは学生の頃。
だけど今は疑問に思う。本当に自分の居場所なんて、この社会にあるんだろうか。

 バイトも辞めて本格的なプーとなり、どうしても先に進むことができずうだうだ悩んでいたときに、大学時代の先輩から連絡があった。
「元気? ヒマしてるって聞いてたから電話してみたんだけど」
 彼女もまた、大学を卒業してから仕事に恵まれず、家事手伝いの身分だった。だけど七海と違って明るいのは、将来有望な大学院生の彼氏がいたせいだろうか。
「今度彼とヨーロッパ旅行に行きたいんだけど、オヤがうるさくって。良かったら七海、いっしょに行かない?」
「いっしょに・・・・ですか?」
 なにが悲しゅうてカップルと・・・・と思いつつ、ピンとひらめくものがある。
「ひょっとして先輩、現地は別行動ってことですか?」
「勘がいいわね。私たちはヨーロッパを回るつもりだけど、七海はどこへ行ってくれてもいいの。ほら、七海、前からロンドンに行きたいって言ってたじゃない?」
 ロンドンかあ・・・・七海はしばし考え。
「わかりました。乗りましょう、その話」
 半ばやけっぱちで答えたんだった。


 そんなわけで、彼女はロンドンにいる。2週間の予定の旅も、はや5日を過ぎた。
 ずっとこの地に来たいと思っていたのは本当だった。ビートルズが結成20周年だか30周年だかで盛り上がっていた頃に高校時代を過ごしたのが、ブリティッシュ・ロックに目覚めたきっかけ。
 以来、英国はずっと彼女の憧れの国だった。特にロンドンは、いつか行ってみたい街だった。アビ―ロード・スタジオや、カーナビ―・ストリートをいつかは自分の目で見たいと思っていたわけで。
 でも、「いつか」と思っている限りは、所詮「いつか」はいつかだった。
 主にお金がないことが理由で、学生時代、その夢が実現することはなかった。本気で実現しようと頑張れば、どうとでもなったものを、「いつかは」と思いつつ伸ばし伸ばしにするのは、当時から彼女の悪いくせだった。
 自分の意志以上の力が働いたおかげで、ようやく彼女は憧れの土地に立ってる。
 ただ独りであてもなくあちこちを歩き回り、ときおりこうやって昼酒をかっくらい、他人から見ると、イギリスまできて何をやってるんだと思われそうな毎日だけど、英国的といえば、そう思えないこともない。ここでの生活を彼女はけっこう楽しんではいるのだけれど・・・・。
 帰ってからのことを思うと、ときどき胸が冷たくなる。
 これからどうやって生きていけばいいんだろうと。

 心ならずも重苦しい気持になって、ビールを飲み干した彼女は立ち上がる。
 カウンターにグラスを返しに行くと、さっきまで居なかった店員が立っていた。
 短くまっすぐな黒髪に、黒い蝶ネクタイが映える。東洋人特有の、すっきりと怜悧に整った顔立ち。
 恐ろしいほどきめ細かく見える象牙色の肌に、切れ長の瞳はどこまでも深く澄んだ黒で・・・・・。
 彼にくらべると無骨な感じのする、金髪碧眼の英国紳士なぞ目じゃないと思えるほど、その男の子はパブの風景に見事に溶け込んでいた。
 七海が空のグラスを手渡すと、いつものように彼は鋭利な表情をほころばせ、にっこりと笑う。
 まぶしいような気持で曖昧な笑顔を返しながら・・・・・
 現金なもので彼女の気持は、さっきよりずっと浮上していた。

 チャリングクロスの駅前からは、ウォータールー橋を望むことができる。
 たまたま夕焼けのきれいな時間にここへ来てしまったときは、その光景のあまりのロマンチックさに呆然となった。あのキンクスのとてつもなくスイートな曲、「Waterloo Sunset」は、この光景そのままの歌だったのだと、変に納得してしまった。以来、昼間でもここへ来ると自動的にあの曲が耳について離れない。
 もうすこし歩けばその橋にたどりつくのだけれど、そこまで行かず、七海は駅の手前で左に曲がった。

 河から離れて少し歩き、トラファルガー・スクエアのハンパじゃないハトの群れを横目に見ながら、ロンドンの中心地、ピカデリーサーカスへと向かう。
 ピカデリーサーカスを囲んであちこちへのびている通りのひとつ、シャフツベリー・アベニューに入ってほどなく右折すると、いきなり街の色が変わった。理由は簡単、道行く人々の頭が、いっぺんに黒髪になったからだ。
 通りに極彩色の大きな門があったりするにも関わらず、七海の中で、ロンドンの中華街のイメージは落ち着いたモノクロだ。いかにも英国的な石造りの建物が並ぶ風景の中を、黒い髪のチャイニーズが歩いてゆく姿は、なんだかとてもいいと思う。自分と同じ顔をした人たちが、流暢に英語を喋りながら通り過ぎる。異文化の中で胸を張って生きる彼らの気概のようなものすら感じて、まぶしいような気持にもなる(モノクロなのにまぶしいっていうのもなんだか変か)。
 チャイナタウンは七海にとって、ロンドンの中ではビッグベンと同じぐらい好きな場所かもしれなかった。ここにいると、どうしてか元気になれる。
 だからかもしれない。パブで働く東洋人の男の子に、なんとなく惹かれてしまったのも。
 七海はしばらくぶらぶらとこの街を歩き回る。超級市場(スーパーマーケット)に入って中国ならではの食材を見て歩いたり、本屋で漢字だらけの雑誌をめくったり、Won−Keyでラーメンを食べたり、例によってそれだけでも1日が過ぎてしまいそうだ。だけど毎日そうしているわけにも行かなくて、すぐ近くのレスタースクウェアに落ちついた彼女は、ベンチに座ってAtoZを開く。
 ここからがようやく彼女の本格的なsightseeingの始まりというわけで・・・・。

 大英博物館やコヴェント・ガーデン、ハロッズなど少々遠くても可能な限り歩いて行けるところへは歩いて行く。
 アビーロードやカムデンタウン、ロンドン動物園のように、歩いて行けない場所へは、ともかく目的地まで1本で行ける駅まで歩いて、そこから地下鉄に乗る。
 ブライトンへ『さらば青春の光』詣でに行ったときみたいに、ヴィクトリア駅から国鉄に乗る場合は、さすがに宿から駅に直行したけれど。
 基本的に彼女の毎日は、ただ「歩く」ことに費やされた。歩いてボーッと休み、そしてまた歩く。
 ひたすら歩いていると、なんだかいろんなことが忘れられそうな気がした。
 これといって特別な体験をしたわけでもない。「旅は道連れ」的な有意義な出会いがあったわけでもない。知る人もなく生まれて初めてと言ってもいいほどの孤独の中で、ロンドンの街をひたすら歩き回り。
 それでも彼女は、日ごとに生き返りつつあったのかもしれなかった。


 そんなこんなで彼女の旅も、あと二日で終わりを告げることになった。
 明日は先輩と落ち合い、「証拠写真」を残すためにロンドンの街を一緒に回ることになっている。そして明後日はブリティッシュ・エアウェイで帰国の途につく。
 例によって、“Tattershall Castle“にゆらゆら揺られながら、七海は2杯目のビールを飲んでいた。夕暮れ時。今日は朝から遠出をせずに、好きな場所でとことんのんびり過ごすことにしていた。明日はエネルギッシュな先輩に引っ張られてあわただしい日々を過ごすのであろうことは、予想がついていたから。
 ビッグベン、テムズ横の遊歩道。トラファルガー広場でハトにエサをやったり、ハイドパークでサモサを齧りつつリスたちを眺めて過ごしたり。いつまでもこんなふうにマイペースのままぼんやりとこの街を漂っていたいなんて言ったら、オヤに殴られるだろうか。
 正直、このままこの街の片隅に消えてしまいたい気がしていた。とはいえ一時的な旅行者としてではなく、生活者として現実を生きるのは、どんな場所でだってラクなことじゃないだろう。
 どうしよう・・・・・これから。

 船の中には、能天気なオールディーズが流れている。
 カウンターに目をやると、例の東洋人の男の子が、仲間と英語で軽口を叩きながら、きびきび働いている。
 異質であるはずなのに、異質だからこそ、本来そこにあるものの何よりも魅力的に見える、その姿には見惚れるしかなかった。
 彼に会えるのも、今日が最後かもしれない。そう思いつつぼんやりと目で追っていると、ふと、視線が合った。どぎまぎしながら目を逸らそうとすると、にっこりと、笑いかけられた。
 なんとなく、夢でも見ているような心地になった彼女の耳に、聞き覚えのあるメロディーが飛び込んできた。
温かみのある声でシンガーが歌い出したその言葉が日本語であることにまず彼女は驚き、そして、そのメロディーがあまりにも耳に馴染んだものであることに、一瞬、かえって違和感を覚える。
 『上を向いて歩こう』 な、なんでこの曲が?
 よく考えてみると、この曲も海外では「オールディーズ」であるに違いなかった。日本では子供の頃から何度も歌ったり耳にしたりしている曲にも関わらず、こうやってオリジナルをじっくり聴くのは、初めてかもしれない。
 こんなに素敵な曲だったとは、知らなかった。
 ノスタルジックな、こもった感じのピアノの音が、胸に沁みる。シンプルこのうえないのに温かい、耳に残るメロディー。はるか昔の日本の歌だというのに、このパブの空気にきちんと溶け込んでいる。窓の外に目をやると、霧の混じった薄青い夕暮れの空気の中にテムズの川面が溶けてゆくのが見えた。河の向こう、街のあちこちに、ちらほらと光が灯りはじめている。
 奇跡のような時間、七海はなにもかもを忘れた。

 2杯目のビールを飲み干し、まだ夢を見ているような気持で七海は席を立つ。
 カウンターにグラスを返しに行くと、あの男の子がいて、いつものように、にこやかな笑顔と共にグラスを受け取った。
 お礼を言うと、彼は笑顔を浮かべたままうなずき、再び口を開く。
「おやすみ。気をつけて」
 え・・・・・・・?
 まったくにごりの感じられない日本語だった。
 日本人だったなんて・・・・・・。
 七海はしばし、言葉をなくして突っ立っていた。

 外に出ると、すっかり日は暮れていた。オレンジ色の街灯に照らし出される川沿いの道は、気恥ずかしくなるほどロマンチックで、七海は我知らず苦笑しながら、ポケットに手を突っ込んで歩き出す。結局、何も言えないまま船を出てきてしまった。でも、それでよかったんだと思う。
 同じ日本人だからといって、無邪気にひとくくりにはしてしまえないほど、七海にすれば彼は遠くてまぶしい存在だった。どういった事情かは知らないけれど、たった独りで異国に居て、埋もれてしまうことなく輝いている。
 多分自分は、彼の近くには行けないだろう。それでいいのだと思えるのは、さっきの余韻でいつになくゆったりとした気持になっているからだろうか。
 今の自分を受け入れるより他ない。
 朝来たときとは反対の道を、ゆっくりと歩く。すると深くなった霧の中、彼女の目の前にそいつは唐突に姿を現した。
 オレンジ色の光が混じった深い霧に、ぼんやりと溶け出しそうな姿を浮かび上がらせるビッグ・ベン。
その荘厳さと巨大さに、足がすくむ。昼間とはぜんぜん違う幻想的な表情に、現実を忘れる。
「上を向いて歩こう・・・・・か」
 ベンチに座って大きな時計台を見上げながら、七海はつぶやいた。
 ともかく、上を向いて歩いていこう。自分のペースで、ゆっくりと。
 そうするしかないのだ。
 彼女は立ち上がり、現実の世界へ戻るべく、宿に向かって歩き出した。


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