『つよがり』 ― Inspired by "Tuyogari" Mr.Children





長く辛い恋に傷つき、心を閉ざしてしまった「君」を、
不器用に、だけど辛抱強く見守り続けてきた幼なじみの「僕」。
思いがけない成り行きから、付き合うことになった二人だったが……。




 14歳から25歳……。
 それが、君があの男のために費やした年月。

 私は彼に青春を捧げたのなんて、冗談にもならないことを君は笑って言うけど、僕にはわかってる。君は、すべてをあいつに与えられたと思ってるんだってこと。
 嫉妬とか、怒りとか、悲しみといったマイナスの感情も含め、すべてを。 
 私は男に寄りかかって人生を削られるような女じゃない。それが君のささやかなプライド。だから君はいつも、誰にも頼らず、自分の足ですっくと立っていようとする。
 今もそうだ。ずっしりと重い荷物を全部自分の両手にさげて、君は僕の前をすたすたと歩いている。僕は所在ない気持で、君についてゆくだけだ。
 痛々しいほどに真っ直ぐ伸びた、その背中を見つめながら。

 4歳から、26歳……。
 それが、僕が君のそばにいた年月。

 その間、僕が君に与えることのできたものなんて、たぶん、何ひとつない。プラスの感情にしても、マイナスの感情にしてもだ。一応は君の彼氏という場所に立てた今でも、その事実は変わらないらしい。

 春を告げる嵐が吹き荒れる夜、僕は職場のスタジオから君の家へと車を飛ばしていた。
 とは言っても僕らの家は隣り同士だったから、その道筋はいつもの帰り道とまったく同じだったのだけれど。
 いつものように深夜まで続くと思われたスタジオでの録音作業が、アーティストの気まぐれで早く終わったのはラッキーだった。駆け出しの雇われミュージシャンに過ぎない僕が、自分の都合で仕事を切り上げることはできない。そぞろな気持を必死になだめながらギターを弾き続け、ミスを連発していたに違いなかった。
 窓の外を轟音をたてて吹きわたる風のごとく、僕の心は千々に乱れていた。これも、休憩時間中に見てしまった一本のメールのせいだ。
― カスミが例の不倫相手に捨てられたってほんと? もう別れて3ヶ月ぐらいたつって噂なんだけど ―
 君の友達からのメールだった。「嘘だろそんなの。聞いてねえし、ありえねーよ」と返信を返し、僕は仕事に戻ったのだけれど、次第に心が泡立ち始めたのだ。
 確かに僕はこのところ忙しく、君とろくに話すこともできなかった。だけど、仕事の行き帰りや何かの時に、何度も顔を合わせていたはずだ。君に変わったところはなかったと思う。
 だけど、記憶の中にあるその変わらなさが、かえって僕を落ち着かなくさせた。
 この話が本当なら……僕は思う。君は、あの最低男との11年越しの関係が終ったことを、ずっと僕に隠していたってことなのか。
 どうしてだろう……君はいつも僕の前ではわがままで生意気で自分勝手な女の子だったけれど、その正直さに、僕は救われてもいた。こんな重大なことをわざわざ隠してるなんて、君らしくもない。
 どうして、こんな時に頼ってくれないんだ。
 ふつふつと胸の奥からわき上がる怒りのような感情が、理不尽なものであることはわかっていた。これは、君とあいつとの問題だ。僕がどうこう言うようなことじゃない。そう自分に言い聞かせ、これまでだって何度口をつぐんできたかしれないのに。
 今度ばかりは、どうしても冷静でいられなかったのだ。

「2人目が生まれたんだって。初めての女の子。なんだかわかんないけど、可愛くってたまんないらしいのね」
 塗り上がったばかりのネイルに息を吹きかけながら、君はあっさりと白状した。
「それで、その子の将来のこといろいろ考えちゃったってわけよ。もし、この先この子が自分みたいな悪い男にひっかかって人生台無しにしたら、なんて考えると、自分のやってることの罪深さが怖くなってきたんだって。で、終わりにしよう、って……」
「はあ? なんだそりゃ」
 僕は思わず素っ頓狂な声を出した。自分は14歳の女の子に手を出して、10年以上もさんざん泣かせて振り回しておいて、今さら娘が生まれて罪の意識に目覚めただと? ろくでもない男だというのはわかっていたけど、そこまで最低な奴だとは思わなかった。
 でも、まあ、あいつが最低なのは今に始まったことじゃない。ここへ来てようやく自分の最低さに気付いただけでも、まだましと考えるべきなのかも知れなかったけれど。
 それよりも気になるのは、この君の冷静さだった。いや、冷静を通り越して呑気とも言える。今度は靴下を脱いで、足の爪にピンクのエナメルを熱心に塗り始めた君を見ていると、ふと苛立ちがわいた。
「なんでそういうこと、ずっと黙ってたんだよ」
 君の手がぴたりと止まる。君は顔を上げて目を瞬かせ、小さく首を傾げて僕を見た。まさかこの人は怒っているのだろうか、という顔をしている。
「今まであいつと何かあるたび俺んとこ来てさんざん愚痴ってったくせに、なんでそんな大事なこと、何ヶ月もたってから涼しい顔で話せんだよ。あんな最低男に長いこと振り回されて、そんな今さらみたいな理由で一方的に終わりにされて、お前、なんで平気な顔で呑気にペディキュアなんか塗ってるわけ? そこまでプライドないのかよ」
 自分でも説明のつかない感情にかられて僕は言い募った。めちゃくちゃなことを言ってるのはわかっている。だけど止めることはできなかった。そう、僕は少しばかり混乱していたのかも知れない。
 最初はただ驚きに見開かれていた君の瞳も、やがて険しさを帯びる。
「平気なわけ、ないじゃない。3ヶ月かけて、やっと立ち直ったのよ。今さら蒸し返すようなこと言わないでよ。また辛くなるじゃないの」
「だから、なんで俺に……」
 そう言いかけてやるせなさにかられ、僕は口をつぐんだ。どうして一人で立ち直ろうとするんだ。どうして今までみたいに僕に話さない? 結局のところ僕は君にとって、親友としての価値すらないのか。いろんな言葉が胸の中で渦を巻いていたけれど、そんな押し付けがましいこと、口に出して言えるはずもなかった。
 だけど君は、僕の言いたいことがわかったみたいだった。小さくため息をついて小さな刷毛を瓶にしまい、挑戦的な瞳で僕を真っ直ぐに見つめて言う。
「こんな時に、恋人でもない男に頼りたくなかったのよ。よけい惨めになるから」
「どういう理由だよ、それ」
 僕が君の恋人じゃないのは、今に始まったことじゃない。わけがわからず僕は問い返す。
「もう誰にも寄りかかりたくない。ひとりぼっちになっちゃったんだから、ひとりできちんとやって行きたいの。特にあなたには頼りたくない。そりゃ、今まで頼ったわよ。あなたは優しいものね。何でも話を聞いてくれるし、わがまま言っても怒らない」
「優しいとか、そういうんじゃねえよ」
 僕は思わず口を挟む。だけどその言葉は、感情的になった君の耳には届いていないみたいだった。君は声を高くして言葉を繋いだ。
「あなたは、基本的に女の子には優しいのよ。だけど、誰も本気で好きにならないし、誰の人生にも入り込もうとしない。その証拠に、いろんな女の子と付き合うけれど、ぜったい長続きしないじゃないの。私の人生だって、あなたがどうにかしてくれるわけじゃないでしょう? そいういう人に中途半端に優しくされるのが、今の私には一番きついのよ」
 早口にそんなことを言われ、頭の中がかっと熱くなった。
 冗談じゃない。いろんな女の子と付き合ったのは、君をあきらめたかったからじゃないか。結局誰の人生にも入り込めなかったのは、僕がそうしたいと願う相手が世界中でたった一人しかいないってことを、そのたび気づかされたからだった。
 そんなことを繰り返すうちに、君が僕のことを少しばかり軽い男だと思うようになったことは知ってる。だけど、そんな風に口にされてしまえば、穏やかでいられるはずもなかった。
「恋人でもない男に優しくされたくないんなら……」
 低い声で僕は言った。きっとその声音は、君が聞いたこともないようなものだったのだろう。僕を真っ直ぐに見つめる君の瞳が、ふっとたじろぐ。
「恋人にすればいいだろ? お前に言われなくても、俺はずっと、お前の人生をどうにかしたいって思ってたんだ。そこまで言うんだったら俺と付き合えよ!! あの最低男と一緒にいるより、ずっとましな人生にしてやるよ」
 声を荒げて僕は言い切った。胸の底でたぎっているのは、断じて怒りなんかじゃない。何かもどかしさのようなもの、さらに言えば、悲しみのようなものだ。売り言葉に買い言葉のような僕の申し入れを、君が受け入れるはずがない。僕たちの友情は今日限りで終ってしまうのだろう。でも、それでもいい。僕は覚悟を決めて、強い瞳で君を見返した。
 しかし驚いたことに、君はしばらく呆然と僕を見つめていたかと思うと、いきなりそっぽを向いて言葉を返したのだった。
「わかった、付き合うわよ。付き合えばいいんでしょ?」
「え……?」
 頭の中が、一瞬で真っ白になった。


 



「お前、最近あんまり喋んねえな」
 不意に声をかけられ、顔を上げると、僕の雇い主であるアーティストだった。彼はベンチに座っていた僕の隣りに腰を降ろし、煙草に火を点ける。
 40代半ばのこの男は20年ほど前、人気バンドのギタリストとしていくつかヒットを飛ばしたが、今は個性派俳優としての顔の方が知られている。「アルバムを出すのは趣味だ」と公言しているだけに、レコーディングのペースはゆったりしていて、僕は彼との仕事をわりに気に入っていた。
 いかにも一昔前のロックンローラーという感じの言動には、時おり辟易させられたものの。
「どうした。恋でもしてんのか?」
 そんなことを聞かれ、僕は思わず吹き出しそうになった。でも、あながち間違ってない。休憩時間、ポケットに入れた携帯が鳴り出すのではないかと思えて、僕は誰とも話す気になれず、ひとり外に出て来ていたのだ。
 君がいつ電話をくれてもすぐに出られるように。それは君の声を聞きたいという願いの裏返しに他ならなかったのだけれど。
 ポケットに入れた小さな願いの重みを不意にずっしりと感じながら、僕は苦笑して答えた。
「恋なら、ずっとしてます」
「そうか……」
 彼はそう相槌を打ったきり、それ以上突っ込んでくることはせず、黙って煙草をくゆらせていた。しかし唐突にこんなことを言い出し、僕を驚かせる。
「今度のアルバムに入れる歌、お前が一曲作ってみないか?」
「俺が、ですか?」
 信じられない話に、僕は目を瞠った。
「お前、いつもいいフレーズ弾くしな。詩も、今のお前なら泣かせるのが書けんじゃねえか? 曲書いたことないってわけじゃねえんだろ?」
「え、ええ……」
 歌を作るのは好きだった。学生時代にやってたバンドの曲は全部僕が書いていたし、その後も仕事の合間に書きためたものがいくらかある。でも、プロのアーティストに歌ってもらうことを前提に書いたことはなかった。何だか、にわかにドキドキしてくる。
「俺でよければ、ぜひ」
 彼の気が変わらないうちにと僕はあわてて答える。彼はにっと笑ってうなずき、言った。
「今あるのはアップテンポが多いから、バラードがいいな。壮大な感じのぐっとくるラブバラード。いいのができたら、アルバムのラストに入れるから、がんばってくれよ」

 翌日から悪戦苦闘が始まった。いつものんびりしてるくせに、アーティストは2週間という鬼のような期限を切ってきた。人間、機械のようにそうそう良い歌を予定通りに作れるわけじゃない。それができるのがプロというものなのかも知れないけれど。
 ギターを胸に抱え、必死に言葉やメロディーを探り出そうとしていると、どうしたって君とのあれこれが浮かび上がってくる。
 成り行きのような形で付き合い始めた僕らだけれど、僕が本気だとわかって、君は観念したのだろう。一応は恋人らしく、僕と接するようになってくれていた。思い切って旅行に誘ってみたときも、驚いたことに君は返事をためらいはしなかった。
 そんなこんなで名実共に恋人同士といえる間柄になって、そろそろ2ヶ月ばかりが経とうとしている。
 僕らの関係の変化は当然ながら、周囲にちょっとした驚きと波紋を呼んだ。君が妻子もある不実な男にずっと引っかかったままなのは有名な話だったし、僕は僕で君の言った通り、女の子には優しいけれど誰も本気で好きになることのない、厄介な女たらしだと皆から思われていたから。
 確かに、君をあきらめるためとはいえ派手に彼女を取り替えることになった時期があったのは事実だから、それも仕方がないのかも知れないけれど、ここ数年は仕事が恋人。すっかり真面目に日々を送るようになっていたというのに、ひどい話だ。おかげで周囲にも、どうやら君自身にも、僕が長年の恋に破れた傷心の幼ななじみと付き合い始めたのは、同情からのことだと思われているらしい。
 君の良き友人であろうと必死の努力を続けて来た結果が、皮肉なことに裏目に出てしまったのだ。
 いくら言っても君は信じてくれないけれど、昔から僕は君が好きだった。ヘタをすると、手を繋いで一緒に幼稚園に通った4、5歳の頃から。
 あの頃からとにかく僕らは気が合って、いつも一緒にいた。中学生になると君はちょっと雰囲気のある、大人びた女の子に成長したものだから、僕は君のことを周りからあれこれ詮索されたり、羨ましがられるようにもなった。そのことが何だか得意で、嬉しくて……。
 自分の気持を一度も言葉にして伝えることなどなかったくせに、このままずっと君と一緒にいられるものと、僕は信じていたのだ。
 そう、君があの男に心を奪われてしまうまでは……。 
 家庭教師として君の前に現れたあいつは、確か当時21歳。有名大学に通う大学生だった。僕も何度か顔を見たことがあるけれど、まあ、男前といえば男前なんだろうな。嫌味なほどに物腰がスマートで、とにかくそつのない感じで、でもちょっと複雑そうなところもあって、14歳の女の子が憧れを抱きそうな要素は確かに一通りそろっていた。
 でも、こいつが実はとんでもない男だったのだ。
 あろうことかあいつは、当時中学生だった君にためらいもなく手を出した。どうして僕がそれを知っているかというと、君が話してくれたからだ。驚愕の事実を熱っぽく話す君の輝いた瞳を見て、僕は君の中で自分が男じゃなくなってしまったことを知った。
 このふたつの事実はもちろん、僕の心をズタズタに引き裂いた。だけど、まだ希望はあると思えたのだ。あいつに本命の彼女がいることが、その後すぐに判明したから。
 君は怒りに声を震わせながら、その事実を僕に話した。
 半年後、あいつがその彼女と別れたらしいと、君は嬉しそうに語った。
 でも、それから1ヶ月もたたない内にあいつが別の彼女を作ったと、君は再び怒りに震えた。
 そんなことを何度か繰り返した挙句、あの男が結婚したのは、僕らが20歳の頃。それまで付き合っていた本命の恋人ではなく、勤める会社の重役の娘だかなんだかが結婚の相手だった。
 招待客の人数を合わせなきゃならないってことで結婚式に呼ばれた君は、完璧な笑顔で式も披露宴も乗り切ったらしい。だけどすべてが終わった後、君はそのままの格好で僕の部屋に帰って来て、新婦にもらった花束を床に叩きつけたのだった。
「『オレの妹みたいな子』とか言って紹介されたのよ。信じらんない!!」
 白い花びらが無残に引き裂かれ、無数の残骸となって舞い落ちる。何もここで暴れることないじゃないかと僕は心の中でため息をついたけれど、何も言わずただ君を見守っていた。君の怒りは、こんな扱いを受けてもなお、あいつを思い切れない自分自身に対するものであることが良くわかったから。
 あの男がなぜ、7つも年下の君のような女の子を2番目の位置に置き続けたのか、僕にはわからない。だけどその位置に甘んじるしかないほど、君にとってあいつは全てだった。何が良くて何が悪いかなんて判断がつかないぐらい、絶対的な存在だったのだ。14歳なんて年齢で完璧だと思える相手に出会ってしまったなら、後で全然そいつが完璧なんかじゃないってことがわかっても、やはり信じ続けるしかないものなのかも知れない。
 部屋中に舞い散る白い花びらの残骸が、まるで君自身のように思えて、ただ切なかったことを覚えている。
 あいつが結婚したことで君との間に何か変化が起こるとは、もはや僕も期待していなかった。二人の関係は「不倫」といういささかしゃれにならないステージに突入し、その後数年続くことになる。
 いや、一生続くと僕は思っていたのだ、正直なところ。

 だから僕は、感謝すべきなのだろう。例え遅すぎるにしても、あいつが君を手放す気になってくれたこと、傷だらけの君を、僕の手元に返したくれたことを。
 だけど僕らは一度も、本当の意味で抱き合ったことがない。いつも僕が一方的に抱きしめるだけで、君は、自分から手を伸ばすのを怖がっているかのように見える。
 それに、君は一度も、本当の意味で僕と向き合ったことがない。瞳に勝気な光を秘めて真っ直ぐに僕を見つめるのは、ただの幼ななじみだった頃から変わらない君のクセだったけれど、そこにはいつも、つよがりという膜が張っていて、君の本当の気持を覆い隠している。
 僕にはわかっていた。君が僕との付き合いを受け入れたのは、良くも悪くも自分を支配していた相手がいなくなって、途方に暮れていたからだ。だから僕は、この思いもよらないどんでん返しにも、有頂天になりはしなかった。ただ辛抱強く待ち続けるしかないのだと思っている。君が本当の瞳を僕に向けてくれる時を。
 小さな希望が生まれただけ、一歩前進と言えるのかもしれなかったけれど。
 愛しさと共に胸にあふれるメロディーを、僕はどうにか形にしようと弦に指を走らせる。だけどそれは音になったとたん色褪せ、指の間からこぼれ落ちてしまうのだ。
 確かにそこにあるはずなのに、手にすることができない。それは見えない壁に覆われた、君の本当の心のように思えた。





 日曜日、久しぶりに休みが取れた僕を、君は映画に誘った。君がなんだかんだで僕を呼び出すのは、実は昔から変わらないことなのだけれど、付き合うようになってからは、そうしたことのひとつひとつに意味があるように思えて、正直、僕は嬉しかった。君がためらいながらも、一歩ずつ、僕に近づいて来てくれているような気がして。
 だけど、だからと言って君が心の全部を僕に預けてくれてるわけじゃないのだ。地下鉄の階段を上り、映画館へ向かう道すがら、僕はそう自分に言い聞かせていたつもりだったのだけれど。
 これから見る映画のことなんかを楽しそうに話していた君の視線が、ふと、雑踏の中で泳ぎ出す。またか、と思い、胸の中で小さくため息をつきながら、僕はその視線の行方を追う。
 案の定、そこにはあの男と似た年恰好の、小さな子供を連れた男の姿があった。
 その一瞬の間、君の横顔に無数の感情が現れて消えるのを、僕は胸の痛い思いで見守った。やがて君は痛みをやり過ごすかのように一切の表情を消してしまったのだけれど、その視線だけは縫いとめられたように一点に留まり、動かない。
 あいつと似た男が目の前に現れただけで、君の心は簡単にここから居なくなってしまうのだ。そんな事実にももう、慣れた。明らかに様子が変わってしまった君に、僕はあえて何も声をかけなかった。
 不意に君は、はっと我に返ったかのように顔を上げ、僕を見た。僕はあわてて何気ない表情を作ろうとしたが、君は敏感に何かを感じ取ってしまったらしい。
「どうして、何も言わないのよ」
 僅かに上目遣いの瞳で僕を見据え、君は言った。厄介なことになったと思いながら僕は、意味がわからないという顔をしてみせる。
「私が何を見てたか、何を考えてたか、わかってたんでしょう? 自分の彼女が他の男のこと考えてるのに、どうして平気なの? あの人は、きちんと妬いてくれたわよ。他の男を見るなって怒ってくれた。あなたって、どうしてそう、淡白なの?」
「あのなあ、それって……」
 あまりの言いように、僕は絶句するしかなかった。それって、ただ単にあいつが心の狭い男だったってことじゃないか。比べ方もめちゃくちゃなら、比べること自体もめちゃくちゃだ。自分でもどうすることもできないやるせなさにかられ、僕は思わず言葉を返していた。
「俺は、自分は結婚してるくせに浮気相手にヤキモチ妬くような最低男にはなりたかねえよ」
 君はすっと青ざめた。やばい、と思った時には遅かった。
「帰る」
 不機嫌さを滲ませた声で言い放ち、君は、僕の前でくるっと踵を返した。
 雑踏の中にひとり、取り残され、僕はため息をつく。
 わかっていたのだ。もっともらしい意見だとか、正論だとかいうものほど、君を傷つけるものはないってことぐらい。わかっていたのに、胸の痛みに耐えかねて、つい、反撃してしまった。
 幼ななじみってのは、厄介なものだ。時として、遠慮も何もなく傷つけ合ってしまう。君の心の頑なさを、自分の心の未熟さを思い、僕は再び深いため息をついた。

 ひとり家に帰った僕に、長い休日が残されていた。今さらまたどこかへ出かけて行く気にもなれず、僕は仰向けにベッドへと倒れ込む。このところの徹夜続きで削られてしまっていた睡眠時間を取り戻すチャンスだったけれど、もちろん、眠れるはずもなかった。
 誰もいないのか、隣の家は静かだ。君の不在を思うとまた心が乱れ、僕は気を静めたい時にいつもそうするように、起き上がってギターを手に取る。
 なんでもいい。とにかくでたらめにコードを押さえ、指を走らせていると、気持が落ち着く。それは、君があいつと付き合い始めて以来の、半ば無意識の習慣だった。君とあいつのことでやるせない気持になったり、抑えようのない苛立ちにかられたりするたび、僕はそうやって冷静さを取り戻した。もしかすると、これが高じて今の仕事をするようになったのかも知れない。
 あんなろくでもない男を好きになるな、目を覚ませと君の肩を揺さぶることも、本命の彼女がかわいそうだ、奥さんや子供のことを考えろとモラルにかこつけて君を責めることも、簡単なことだった。実際、君の友人たちはみんなそうした。だけどそんなこと、一番よくわかっていたのは君自身だったのだ。わかっていながら自分の気持をコントロールできないことで、一番傷ついていたのも君だった。
 だから僕は、君に関しては冷静であろうとずっと努めてきた。君を責めず、裁かず、必要以上に同情したりもせず、ただ黙って見守ろうと。もちろんそんな気持の中には、多分にあきらめも含まれていたわけだけれど。
 結局、今までと同じでいいんじゃないか……と、僕はふと気づく。予想もつかないことが次々に起こって、すっかりペースを乱されてしまっていたけれど、人はそう簡単に変われるものじゃない。少しずつ、君があいつへの思いから抜け出し、傷を癒して、僕に近づいて来てくれるのを、何も言わず見守ればいい。心が乱れたり、苛立つことがあれば、またギターを弾けばいいんだ。今までと同じように。
 そんなことを思いながら徒然に爪弾くギターのコードが、次第にはっきりとした形を取り始める。メロディーが、言葉が、胸の中に溢れる。あれ? おかしいな。いつも器用に6弦を弾きこなす指先が、なぜか震えてろくに動かなくなった。もどかしい思いでストロークをかき鳴らす。
 今なら、手が届くかも知れない。僕はあわてて、自分の周囲から紙と鉛筆を探し出した。震える指で、コードと歌詞を書き付けてゆく。
 僕は君が好きなんだ……本当は、叫びたいのはただその一言だけだったのかも知れないけれど。

 ふと背後に気配を感じ、放心状態のまま、僕は振り返った。そこに誰が立っているか、少しは予想がついていたのだけれど、まさか君がそんな風に、瞳を涙でいっぱいにしているとは思いもしなかった。
「声を……かけようと思ったんだけど――」
 声にならない声で、君は言う。その瞳から涙が零れ落ちるのを、僕は驚きの思いで見守る。20年近くも君のそばにいたくせに、君が泣くところを見たのは初めてだってことに、今、気づいた。
「あなたの歌を聴いてると、胸がいっぱいになって、動けなくなっちゃって……」
 答える言葉が見つからないまま、僕は机に置かれた紙片に目を落とす。そこには、君への気持がそのまま形になった、一曲の歌が完成していた。
 僕の思いはたった今、君に伝わったのだ。僕が本気で君を好きだってことが。僕はにわかに恥ずかしくなり、ギターを横に置いて、視線を落とす。
「いや、これは……単なる歌だから。仕事で作らなきゃならなくなって……。だから、お前が気にすること――」
「あなたに、謝ろうと思って……」
 しどろもどろに繋いだ言葉をさえぎり、君は言った。
「どうしてあんなことを言っちゃうのか、自分でもわからない。私は……あなたを好きになれたら、どんなにいいだろうって、いつも……いつも、思ってるのに――」
 後は言葉にならなかった。ぽろぽろ零れる涙が、小さく「ごめん……」とつぶやいた言葉を、あっという間に押し流してしまう。
 そんな君の姿と、そして……。
 あなたを好きになれたら、どんなにいいだろう……その言葉だけでいいと思った。今の僕には、それだけで充分だ。
「あやまんなくていいよ」
 僕はそう言って君に手を伸ばした。こうして抱きしめることを、君は許してくれてる。本当の自分を僕に見せようと、努力してくれてる。それだけでも大きな一歩だと思う。
 君はいつも、僕の前ではわがままで生意気で自分勝手な女の子だったけれど、僕にはわかっていた。それはぜんぶ、君のつよがりなんだって。
 だから僕は、待とうと思う。君がすべての殻を脱ぎ捨てて、僕と向き合ってくれるのを。
「謝らなくていい、焦らなくていいよ。俺は、ずっと、待ってるから……」

 僕の背中に回された君の手に、そっと、力が込められた。その時僕は初めて、本当に君と抱き合えたのだと感じた。

END






このお話は、Mr.Children『つよがり』の歌詞をモチーフにしたフィクションです。実在の人物・団体・事件などには一切関係ありません。


 つよがり   by Mr.Children  作詞・作曲:桜井和寿/編曲:小林武史&Mr.Children  
Q

Mr.Children 1996-2000
2000年9月発売のアルバム『Q』に収録されたミスターチルドレンのラブバラード。アルバムの中の1曲でありながら、2001年のベストアルバム『Mr.Children 1996-2000』にも収録され、彼らが作った数々のバラードの中でも大きな存在感を放つ名曲です。心に傷を持つ恋人をあるがままに愛し続けるという決意を、少しぶっきらぼうに、照れたように歌う桜井和寿のボーカルが秀逸。そしてその声を静かに力強く支えるピアノの音が胸を熱くします。歌詞はシンプルでありながら、難解な部分もあり、主人公の気持ちをあれこれ想像しながらお話を作り上げるのは楽しいことでした。あなたはこの歌をどんな風に解釈しますか?




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