オレンジ−タイトル





小さなきっかけからアイドル歌手としてデビューした僕は、
中学時代からの恋人である「君」の、
「あなたの仕事は人を幸せにする仕事」という言葉に心を動かされ、
この仕事に情熱を燃やすようになってゆく。
しかし予想外に大きくなった人気の波は、
心理学者という夢を目指す君の人生をも翻弄することになり……。





 きっかけは冗談半分で乗った、小さな賭けだった。
タレント事務所に出入りしているクラスメイトが持ってきた、映画のオーディション。受かれば何でも好きなもん奢ってやると言われ、お前ならやれると皆から乗せられ、気がつけばオーディション会場で下手な歌を歌うはめになっていた。中2の夏のことだ。
 その映画で小さな役をもらった僕は、演じることの面白さにすっかりはまってしまい、その後も声をかけられるままにいくつかの映画やドラマに端役で出演した。そんな僕に目を留め、「うちに来ないか」と声をかけてきたのが今の事務所だ。
 たくさんのアイドルタレントを抱える大手プロダクションの誘いに舞い上がったお調子者の僕は、一も二もなく快諾の返事を返し、何だかよくわからないままま、デビューを目指して修業の日々が始まったのだった。

 自分には絶対できないと思っていたダンスや歌も、始めてみれば案外楽しいものだった。クラスの連中にからかわれながら先輩たちの後ろで踊る日々が半年ほど続いただろうか。同期の仲間とグループを組ませてもらい、晴れてデビューを果たしたのは中3の春だ。
 折りしも世間はアイドル不遇の時代。デビューしたからといって、即人気爆発というほど甘くはなかったのだけれど。
 でも、それは逆に良かったんだと思う。おかげで僕らは、放課後のクラブ活動のような気持で気楽にこの仕事を楽しむことができたのだから。
 こいつらには何でもやらせてやろうという事務所の方針のおかげで、あの頃、実にいろんな仕事をさせられた。バラエティー番組のアシスタント、スポーツ番組の応援団、幼児番組のお兄さん……出ろと言われればどんな番組にだって出た。アイドルのプライドを投げ捨ててコントもやったし、絶妙のトークで先輩たちのライブを盛り上げるため、全国どこへでも駆けつけた。
 そんな仕事のひとつひとつが、あの頃、僕にはただ楽しくて仕方がなかった。新しいことをやるたびにワクワクして、何かひとつ仕事で認められるたびに嬉しくて……。どこまで行けるかわからないけれど、このままどこまでも行ってみたい。できればこの世界でずっと生きて行きたい。気がつけば僕は、そう思うようになっていたのだった。
 そんな僕をもっと本気にさせたのが、君だった。どちらかといえば真面目な君が、芸能界なんてところに突然足を踏み入れてしまった彼氏のことをどう思うか、僕は正直心配で仕方がなかったのだけど、君はそんなにやわな女の子じゃなかったのだ。

 同じ制服姿の雑踏の中を、僕たちは肩を並べて駅への道を歩く。どちらも家は近くだったから、中等部の頃は仲良く自転車を走らせて帰ったものだった。だけど今は、学校が終れば僕はたいてい仕事に直行しなくてはならない。君は君で予備校に通うようになっていた。心理学者になるという夢を目指して本格的に受験勉強を始めていた君は、ひょっとすると僕よりも忙しかったかも知れない。
 思えばあの頃、駆け出しに過ぎない僕の立場は、まだまだ気楽なものだった。電車にもバスにも普通に乗っていたし、お堅い私立の名門校だった高校からも、仕事についてとやかく言われることはなかったし。
 君とも堂々と肩を並べて歩くことができた。もっとも、中学の頃からほとんど同じ顔ぶれである学校の連中の間では、僕らの仲は今さらあれこれ言うまでもない周知の事実だったってこともあるのだけれど。
 他愛のない話をしながら、僕は自分より頭ひとつ低いところにある君の横顔を眺める。すっとのびた背筋、性格そのまんまのような真っ直ぐな黒髪。そして僕らとはまったく違うものを見通しているかのような大人びた瞳を。
 この瞳に、僕が一目惚れしたのは中2になったばかりの頃だ。駆け引きも何も知らない子供だった僕は、どうしたら良いかわからないまま、とにかく単刀直入に思いを伝え、奇跡的に受け入れてもらえた。そうして2年半、いろんなことがあったけれど、僕の気持はいまだちっとも色褪せずにいる。
「そうだ、昨日、テレビ見たよ」
 不意に真っ直ぐな眼差しを僕に向け、思い出したような調子で君が言った。僕はどきりとし、
「え? マジ?」
 と、間抜けな答えを返してしまう。
 昨日放送された改編期のスペシャル番組で、僕はグループを離れて単独でのアシスタントという大役をもらっていた。
 「初めてのゴールデンタイム進出だ」なんてはしゃいでいたのだけれど、人気絶頂のお笑いコンビの司会についていくことができず、初めはあたふたするばかりだった。結局、開き直っていじられ役に徹し、徹底的に笑いを取ることで乗り切ったのだ。最後には司会の二人を喰っていたという自負はある。そういうことがなんだか快感になっていた頃だ。
「すっごい、面白かった。テレビ番組見てあんなに笑ったのって初めて。何だか、嫌なこと全部忘れちゃった」
 なんだかんだで君に誉められるのは嬉しい。自然とゆるんでしまう頬を持て余していると、君は重ねて言った。
「人を、幸せにする仕事だよね、あなたの仕事は。テレビの中のあなたを見てると、元気になれるし、明日からまた頑張ろうって気持ちになれるもの。きっと、あなたを見る人はみんなそう思うんだろうな」
 いつになく真顔の君にそんなことを言われ、僕はどうしようもなく照れてしまって、「そうかな……」とつぶやく。
「もしかしたらあなたは、すっごく大切な仕事をしてるのかも」
 いかにも君らしい、何か本当に大切なことを発見したような顔をして君は言った。「ほんとに面白かったわよ」と重ねて言われ、僕は思わず苦笑する。
「もっと、カッコいいとこも見て欲しいんだけど」
 こんな仕事であまり誉められるのも、なんだか複雑だ。
「ぜいたく言わないの」
 と君は笑った。
 だけど君がそのとき口にした言葉は、僕の胸の深いところにずっと刻み付けられることになる。

 その頃を境に、僕は自分の仕事のことを少しずつ真摯に考えるようになっていた。ただ楽しいという気持だけでやってきたことだけれど、君の言うように何か大切な意味があるんじゃないかって。
 他愛のないことでいい、ほんのひとときの時間でいい。僕らを見てくれる人が少しでも元気になれる、何か輝きのようなものをあげられれば……。僕は自分の話す言葉や動作ひとつひとつに、それまで以上に気を配るようになった。
 そんな僕を「グループで一番のナルシスト」とメンバーたちは笑ったけれど、何のことはない。みんな程度の差はあれ同じようなものだった。人に夢を見せることで自分も夢を見られる、人を幸せにすることで自分も幸せになれる。そんなことにその頃誰もが気づき始めていたのだ。
 そんな風にして僕らは少しずつ、プロに……いや、プロ以上の存在になり始めていた。

 君はずっと、そんな僕の隣りに立ち続けていてくれた。いつからか僕が君に話すことは、ほとんど仕事のことばかりになっていたのだけれど、それは君が熱心に聞いてくれたからでもある。決して興味本位でない、心からの深い関心を浮かべた君の瞳を見ていると、話したいことが次から次へと出て来て困った。
 君はいつも、僕の話を聞いてくれることで心を解きほぐし、嫌なことやもやもやはばっさりと一刀両断してすっきりさせてくれ、不安にとらわれたときは、言葉を尽くして自信を持たせてくれた。
 やはり君はあの頃から、人の心理を探ることに長けていたんだと思う。そうしたことを君はいつも、本当に楽しげにやってのけていたのだから。
 君が好きだった。君といれば、ただそれだけで何もかも上手く行くような気がしていた。
 君の強さが好きだった。その強さがいつか君を苦しめることになるかも知れないなんて、その頃の僕には想像すらできなかったのだ。




 高校2年生の夏、転機がやってきた。人気脚本家の書く連続ドラマの主役に抜擢されたのだ。
 以前から僕のファンだったというその女性脚本家は、脇役専門の俳優だった僕を主役にと名指ししてくれ、僕のイメージで話を書いてくれた。ありがたいことだ。きちんと地道にやっていれば、見てくれる人はいるのだと思うと、本当に嬉しかった。
 驚いたことにドラマは、放映を重ねるたびにぐんぐん視聴率が伸びてゆき、人気ドラマの多いその時間帯の中でもダントツの歴代1位で最終回を迎えることになった。
 本人たちの意志に関係なく、そういう風って吹くときには吹くものだ。グループの他のメンバーたちも、ドラマや舞台、バラエティーなど様々な分野で注目を浴びつつあった。下積みの努力が報われたと言えなくもないけれど、なんだか可笑しい。僕らは本当に楽しみながら、この仕事を続けて来たに過ぎなかったからだ。
 その秋、グループで出したシングルが初めて1位になった。その後、勢いのあるうちにと続けざまに出した曲も全て1位を記録した。50位内に入ったとか、今回は30位だったなんて言って皆で大喜びしていた頃が嘘みたいだ。僕ら自身はちっとも変わらないのに、周りの状況は大きく変わろうとしていた。
 年末、有名女性誌が例年企画している男性タレントの人気投票で、自分がトップに選ばれたということを聞いた時、僕は、もはや後戻りは出来ないのだと覚悟した。それは、嬉しいという気持とは違っていた。もっと複雑な…やはり「覚悟」としか言いようのない気持だった。

 3年生になって僕は高校をかわった。もう進学するつもりもなかったし、高校は卒業出来ればそれで良かったから、ならばタレント活動に理解があってとにかく卒業させてくれる学校に移った方が得策ということになったのだ。学校へは都心にある事務所の寮から通えと言われたが、それだけはどうにか勘弁してもらった。多分それも時間の問題であることは、わかっていたのだけれど。
 最後の日、僕は君を自転車に乗せて、学校を出た。真っ直ぐ家へ帰ることができず、人気のない道を選んで、ただ、走り回った。
 家は近所同士だったし、会おうと思えばいつでも会えるわけだから、互いに寂しさはなかったと思う。君はといえば大学の心理学部に入るための猛勉強を始めていたし、頭の中はほとんどその目標でいっぱいのようだった。その頼もしさは相変わらず僕にとって眩しいものだったのだけれど。
 それでもその日、君は珍しく無口だった。僕もただ黙って、背中にもたれた君の小さな鼓動を感じながら自転車を漕ぎ続けていた。
 あの日の君のぬくもりを、僕は今でも忘れることができない。

 そして僕たちのグループは、想像もつかなかった嵐に巻き込まれることになる。それは事務所の先輩たちですら、経験したことのない大きな嵐だった。
 僕らの元には、信じられないような数の仕事が押し寄せるようになった。それぞれが単独で主演したドラマは競うようにして高視聴率をマークし、CMに出ればその商品はバカ売れすると言われた。出す曲はミリオンヒットを記録し、新しいアルバムには有名なシンガーや作曲家がこぞって曲を提供してくれた。その年の夏から、コンサートツアーの会場はすべてドーム級になり、熱狂する何万人ものファンの前で、僕らは声を嗄らして歌い、踊り、走り回った。
 一歩外に出れば人々にもみくちゃにされ、迂闊に街も歩けない日々。一挙手一投足が注目され、何気ない一言が世間を騒がせたりもする。そんな中で僕は、どうにか冷静さを保とうと必死だった。これまでと同じように、ただ地道に確実に仕事をこなしてゆこうと。
 そうでないとこの嵐が去ったとき、僕は空っぽになってしまうだろう。きちんと地面に足をつけていないと、大きな渦に巻き込まれ、自分の居場所がわからなくなってしまう。
 この仕事をするものとして、頂点と言っても良い場所まで来たというのに、あの頃の僕に浮き立つような気持など微塵もなかったと思う。ただ僕をとらえていたのは恐怖だった。そう、僕は怖くて仕方がなかった。
 こんな恐怖を抱えたままで、僕は今まで通り、人を幸せにすることができるのだろうか。
 僕を見てくれる人たちが幸せになれるような輝きを、放ち続けることができるのだろうか。
 そんな僕の不安な思いを、君は変わらずきちんと受け止めてくれた。どんなに忙しくなっても、自由に行動することが困難になっても……いや、そうなればなるほど、僕は君に会わずにはいられなかった。君だけが僕をきちんと地面に繋ぎとめておいてくれる唯一の存在であるような気がして。
 受験勉強も大詰めを迎えつつあった忙しい日々の中、それでも君は僕が会いたいと言えば必ず来てくれた。二人きりで会うのはひどく難しい状況になっていたにもかかわらずだ。こんな日々が、君の心をすり減らさないはずがなかった。
 心理学者になるという夢が、君にとって僕の仕事と同じぐらい大きなものであることを僕は知ってる。僕と会うことで、その夢に向かう時間や気持が犠牲になり始めてることも。無理に笑顔を作って僕の言葉に耳を傾ける君の瞳から、いきいきとした輝きが消えかけていることにも気づいていた。
 それだけじゃない。これ以上交際を続けるのは危険だと、事務所からも言われていた。僕やグループの人気だけじゃない。君の人生のためにも、とにかく今は少しだけでも距離を置いた方がいいと。
 だけど、どうしても決意することはできなかった。君なしにこの仕事を続けゆくことなど、僕にはとてもできなかったから。

 だから、いつかこうなることは予感していた。
 だけど、このことが君にこれほどのダメージを与えるとは想像すらしていなかった。
 僕たちの関係が週刊誌にスクープされたのは、年が明けて間もなくのことだ。証拠を集め、機を狙い、まさに「満を持して」発表されたスクープだった。しかしそれが、受験を控えた君にとって最悪のタイミングであったことは、言うまでもなかった。
 釈明のしようもない数々の証拠に固められたその記事を見て、僕は自分の甘さを悔やむことになる。自分にだって普通の男と同じように恋愛する権利はある、悪いことをしてるわけじゃないと思っていた。だけど僕は確実に、君の人生を破壊する結果になるようなことをしてしまったのだ。
 僕は事務所の監視下に置かれ、仕事以外での外出を禁じられた。君に連絡を取ることすら許されなかった。
 君の家には連日記者が押しかけ、外出することすらままならないらしい、悪意の電話や手紙が押し寄せているらしいなんて話ばかりを僕はじりじりしながら聞いているしかなかった。
 君に支えられて僕はここまで来たのに、君が支えを必要としている今、どうして僕は、こんなところで身動きすらできずにいるのだろう。
 悔しくてならない。だけど、すべてを投げ捨てて君の元に駆けつけるには、僕はあまりにも重いものを背負い過ぎていたのだ。ただ、君があの生来の強さですべてを乗り越え、夢に向かい続けていてくれることを、祈るしかなかったのだけれど。

 数か月後、君が志望校の全てに落ちてしまったことを、僕は母からの電話で知った。君のお母さんが、僕の母に話したのだ。
 君自身がそのことを僕に伝えるために連絡をくれることは、もはやないだろうと思った。

「あなたのせいじゃないわ。人生って何が起こるかわからない。乗り越えることができなかったのは、私が弱かったからよ」
 どうしてもこのままじゃすませたくなくて、電話をかけて詫びた僕に、君が返したのはいかにも君らしい、そんな言葉だった。
 やっぱり好きだ、と思う。失いたくないなんて未練がましいことを、今になっても考えている。だけどもう、だめなのだということはわかっていた。
 それでも、このまま君に会えなくなるなんて、とても考えられなくて。
「一度だけでいいから、会ってきちんと話したい。だめかな……」
 そう言葉にせずにはいられなかった。
「会いたいよ。私も会いたい。ずっと、会えなかったんだもの……」
 思いがけない君の答えに、僕は一瞬、胸の中に光が射したような心地になる。だけど次の瞬間、君の声は今まで聞いたこともないほど震え、崩れたのだった。
「会いたいに……決まってるじゃん――。でも……」
 次の言葉は、完全に泣き声だった。
「でも……ごめんなさい。私にはもう無理。笑ってあなたに会うことなんて……絶対にできない」
 君が初めて見せた心のほころびに、僕はただ、返す言葉もなく立ち尽くす。
 会いたいと言って泣く君、会うことなんてできないと言って泣く君。どちらが本当の君なんだろう。混乱する頭で考え、理解する。どちらも本当の君なんだ。これが本当の君の姿、君の弱さなんだ。
 僕は知らなかったのだ。強い人ほどもろく折れやすいということを。どうして今まで、気づくことができなかったんだろう。激しい後悔の痛みに、一瞬、息ができなくなる。
「わかった……、ごめん……」
 君に話したい様々な言葉を封じ込め、ようやく僕はそう口にすることができた。
「本当にごめん――。さよなら……」
 僕はしばらくそのまま立ち尽くし、電話が切れた後の電子音を呆然と聞いていた。
 さよなら……結局、今の君を救い、癒すことができたのは、この一言だけだったのだ。そのことが悔しくてならなかった。





 久しぶりのオフに、独りで街に出た。もう、気配を消すことにはとっくの昔に慣れてしまった。サングラスなんかかけなくても、そうと気づかれず雑踏の中を歩くことだってできる。
 前の休日には、ふと思いついて、約10年ぶりに電車に乗ってみた。切符を買い、つり革につかまって立つ、それだけのことにひどく緊張してしまう自分が笑えた。高校生の頃の自分の方が確実に大人だ。
 そのことをグループの連中に話すと、「俺も、俺も」と口々に答えが返ってきた。「すっげー、緊張するよな」「自意識過剰な自分がまた、可笑しくってさ」「でも、ほんと、ホッとすんだよな。誰にも気づかれずにすんだら」「やっと、人間らしい生活が出来るようになったっての?」。皆、同じ道を歩いているんだなと、また可笑しくなった。
 意地悪な人はこれを「落ち目」と言うのかも知れない。だけど、まだまだメンバーは皆ひとり残らず人気ドラマで主役を張れる存在だし、シングルを出せばお約束のように大ヒットを記録する。数年に一度企画されるコンサートツアーは、ドーム級の会場を何度も一杯にしたし、メンバーの中には海外の映画に出て賞を取る者、アートや小説の世界で名を成す者なども出てきて、むしろ大物感は増しているかもしれない。
 それでも、10代後半から20代半ばにかけてのあの狂乱の時代を思えば、僕らの生活も多少は落ち着いた。一歩外に出ればもみくちゃにされるなんてことも、次から次へと押し寄せる仕事の波に溺れそうになることもなくなった。
 多分、僕らはようやく学んだのだと思う。自分たちの「人気」と上手く付き合う術を。長い長い時間と、数々の失敗を乗り越えて…。
 あるいは、今の僕なら君を幸せに出来るかも知れない、時おりそんなことを未練がましく考えている自分に気づく。
 君とは、あれから一度も会っていない。会えるはずもなかった。ようやく自分自身の人生を歩き始めた君の生活を、再び壊してしまう権利など僕にはなかった。
 1年間の予備校生活の後、君が以前の志望校よりもランクを上げて入試に挑み、見事合格したことは聞いていた。その後、アメリカの大学院に留学し、今は日本に戻って、一流のカウンセラーとして活躍していることも。さすが君だと自分のことのように誇らしく思えた。
 勝てなかったのは自分の弱さだと言い切った君。だけど、見事に苦境を乗り切った今もなお、君の中に弱さは残るのだろう。100パーセントの強さを持つ人間なんていない。人知れぬ君の弱さを理解し、支えてくれる相手は今、君の傍にいるだろうか。そうあって欲しいという気持と、今もなお僕自身がそうありたいという思いが、僕の中でせめぎあっている。
 この10年間、結局、僕は君を忘れることが出来なかった。付き合った相手は何人かいたけれど、どれも長続きはしなかった。どの恋も、本気にはなるまいと自分をセーブしていたせいもある。僕らのような立場の人間にとって、自分自身を忘れるほど本気で恋をすることが、どれほど恐ろしいことであるか、身にしみて分かっていたから。
 だけど今なら、今の僕なら……。雑踏の中を歩きながら、気が付けば、取り返しのつかないことを何度も考えている。

 夕方の強い陽射しの中、突然、ぽつりぽつりと降ってきた大粒の雨に、雑踏がざわめく。
 天気雨にしては、本格的な降りだった。心づもりなどしていなかった人々は皆、雨宿り出来る場所を探して走り出した。人気のなくなった舗道が、鮮やかな夕焼けの色を映し出す。跳ね返る雨が、まるでオレンジ色の光の粒のようだ。その光景に、僕はすっかり魅せられてしまい、濡れることも厭わずただぼんやりと立ち尽くし、その光景を眺めていた。
 雨はすぐに止んだ。目を眩ませていた光の粒がなくなると、不意に雨に洗われた夕焼け色の街の風景が、目の前に広がった。
 その中にひどく心ひかれる何かを見たような気がして、僕は思わず目をこらす。君だった。まさか、と思い、何度も目をこする。だけどこの長い年月の間、胸に焼きついたまま決して消えなかったその面影を、見間違えるはずもなかった。
 君も同じように雨の中、この光景に心を奪われ、立ち尽くしていたのだ。
 空を見上げていた夢見るような瞳がふと、こちらに向けられる。その視線に縫い止められ、僕は動けなくなった。君は軽く目を瞠る。一瞬、逃げ出しそうな顔をする。
 だけど、僕を見つめていたその瞳をふっと緩めたかと思うと、あろうことか君は小さく吹き出した。
 僕はびしょ濡れになった自分の服に目をやる。ひどい格好をしているはずだった。だけど、それは君も同じことだ。濡れてくしゃくしゃになった髪から、オレンジ色に光る雫が滴り落ちている。僕も思わず、口元を緩めずにはいられなかった。
 小さく交し合った笑みが、凍りついた年月を溶かしてゆく。
 僕は勇気をふるい起こし、一歩を踏み出した。今ならきっと、取り戻せるはずだ。そう心に言い聞かせながら。

 間近に向かい合った君の瞳に、本物の笑みが浮かんだ。



END







このお話は、SMAP『オレンジ』の歌詞をモチーフにしたフィクションです。実在の人物・団体・事件などには一切関係ありません。


オレンジ  by SMAP       作詞・作曲:市川喜康/ 編曲:ZAKI  


 シングル『ライオンハート』のカップリング曲として2000年8月に発売された、知る人ぞ知るSMAPの名曲。あたたかく懐かしい感じのするアレンジやメロディー、切なく胸を打つ歌詞が印象的なこの曲を、彼らのベストソングとしてあげるファンもすくなくはないはずです。
 自分をずっと見守り支え続けてくれた恋人に、深い思いゆえに別れを告げる「僕」の切ない気持を、アイドルであるSMAP自身のイメージと重ね合わせて物語にしました。
 この曲はシングルのほか、彼らの隠れた名曲が満載のアルバム、『ウラスマ』(01年)でも聴くことができます。




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