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![]() 2年生ながら正キーパーとして活躍し、 その年の全国高校サッカー選手権大会では、 チームを準優勝に導いた「僕」。 しかし3年生になった彼を待っていたのは、 「お前は使い辛い」という新監督の理不尽な言葉だった。 5年後、彼は、Jリーガーとなった同じポジションの後輩、 金谷雄太と、複雑な思いを抱えて対峙する。 ![]() |
薄青い春霞の空が、遠い街並に続いている。 サッカー部専用グラウンドの入口に続く急な坂道を、僕はブレーキもかけず自転車で駆け降りた。怖さはすぐに忘れる。颯爽と風を切るこの感じ、本当に久しぶりだ。 行きは下り、帰りは上りになるこの坂道は、高校時代、僕たちにとって厄介な存在だった。元気のあり余った練習前は、チャリ通の仲間と競って滑り降りては、監督やコーチに叱られたし、たっぷり練習を終えた帰り道となると、疲れ切った身体に急な勾配が拷問となる。 それでも毎日頑張ってペダルを踏んだ。ポカをやらかした日は、ことさらに傾斜がきつく感じられたけれど、そんなときこそ、この坂を越えなければ明日はないような気がして、必死に足を踏ん張った。 ただ一度、上り切れず自転車から降りてしまったことがある。 最後にここへ来た時だ。退部届を出した帰り道、もう頑張らなくてもいいんだ、てっぺんまで行かなくてもいいんだと思うと、ぷつんと心の糸が切れた。 どうして、こんなことになったんだろう。 自転車を押して歩きながらそんなことを考えると、瞳にじわっと滲んだ涙で、見上げた空が歪んだ。逃げたんじゃない、自分で決めたことなんだと何度心で繰り返してもだめだった。 あれから僕は、一度もここへ来たことがない。すぐ近くにある付属の大学に進んだにもかかわらず、心の距離はあまりにも遠かった。あのまま自分の夢に手が届いていたなら、来ることもあったのだろうか。いや、夢がかなっていたなら、大学へ進むこともなかっただろう。 大学卒業を間近にした今、様々な思いを残したこの場所を久しぶりに訪れることになったのは、ずっと僕を心配して連絡をくれていた当時のコーチにきちんと進路を報告しておきたかったからだ。僕は関東の会社に就職し、4月にはこの街を離れる。そうなれば二度とここへ来ることもないだろうとも思った。 それに、今ならあの頃の自分と逃げずに向き合えると思ったから。 辛い思い出にきちんと向き合って、今の自分にそれぐらいの強さが備わっていることを確認してから、前に進みたかったのだ。 コーチは僕との再会を喜んでくれて、あの頃の話に花が咲いた。卒業後のことをを話しても、さしたる感情は見せなかった。 この場所で高校時代のすべてをサッカーにかけながら、プロになれなかった選手などいくらでもいる。過去の挫折にこだわるのは、本人ぐらいのものなのかも知れない。 しかしグラウンドで後輩たちの練習を見てから帰ると僕が告げると、彼は少し微妙な顔をした。 「金谷が来てる。あいつもグラウンドに行くと言ってたから、まだいるんじゃないか?」 「金谷が?」 それはまた、何という偶然なのだろう。 「なんであいつがここに?」 「いろいろあってな。よかったら、声をかけてみてやってくれないか?」 「俺が声かけて、喜びますかね」 思わず本音を漏らすと、コーチは苦笑した。 「言っただろう? あいつにもいろいろあるんだ」 指導陣の控え室を出ると、春の陽射しが眩しかった。階段を上ると、グラウンドの隅に立つその姿がすぐに目に入る。 ジーンズにネルシャツというラフな格好をしていても、その立ち姿からは、プロスポーツ選手らしい研ぎ澄まされた空気が自然と伝わってくる。胸の奥がちりちりと焦げる感じを久々に味わった。 これもまた運命だと思い、思い切って声をかける。 「金谷」 彼は僕を見ておどろいたように目をみはり、そして小さく顔をほころばせた。 「先輩……藤村先輩じゃないですか」 彼は金谷雄太、Jリーグで活躍するひとつ年下の後輩だった。 あまりJリーガーらしくない、すっきりと短い黒髪、精悍に整った顔立ち。テレビのスポーツ番組でたびたび目にするのと同じ顔が目の前にある。にこやかに笑っていても、その瞳が放つどこか獰猛で鋭い光は決して消えることがない。ゴールキーパーの目だ。 僕も昔は同じ目をしていた。今ではすっかり変わってしまったけれど。 「久しぶりですね」 金谷は懐かしそうな笑みを浮かべて言った。 彼とは高校卒業以来、一度も会っていない。もともとそれほど親しい間柄でもなかった。いや、同じポジションの先輩後輩ということで、表面上穏やかに接してはいたが、実際にはろくに目を合わせたこともなかったはずだ。 少なくとも、彼が僕に笑顔を向けるのを見たのは初めてで、それがなんだか不思議な気がした。 「そう言えば付属の大学に進んだんですよね。高校の方にはよく来るんですか?」 屈託なく聞かれ、僕は少しばかり気まずい思いで「いや」と首を横に振る。 「ここに来るのは久しぶりなんだ。もうすぐ大学も卒業だから、コーチに挨拶しとこうと思って。卒業しちゃったら、もう来ることもないだろうしな。お前はなんで?」 さりげなく聞くと、金谷の瞳がかすかに曇った。 「俺は、コーチに時々相談に乗ってもらってて……」 目を上げてグラウンドを見やった彼につられて、僕はシュート練習を繰り返す後輩たちに視線を移す。プロとしての厳しい毎日の中、誰にも話すことの出来ない悩みを、彼はかつての恩師に聞いてもらっているのだろうか。 あいつにもいろいろあるんだ……コーチの言葉を思い出す。 サッカープレイヤーとしての金谷の人生が決して平坦なものではないことは、僕も知っていた。遠く離れた道を歩む今も、結局僕は、彼の歩く道のりからずっと目を離せないでいたのだ。 金谷は高校時代に僕が手放した夢を追いかけ続けてきた、「もう一人の僕」だったのだから。 最後のPKを止め、スタジアムが大きく沸いた6年前のあの日のことを、僕は今でも鮮やかに思い出すことができる。チーム史上初の決勝進出を果たした高校サッカー選手権。PK戦にもつれこんだ準決勝の死闘を制したのは、5回目に蹴り込まれたボールをしっかりと受け止めた僕の両腕だった。 まさかあれが僕の頂点だったなんて、あの時誰が想像しただろう。 翌年、僕が3年生になった時、監督が変わった。それまでの監督が健康上の理由から指導を退き、コーチの一人が新監督に就任したのだ。 なぜかそれ以来ばったりと、僕が正式な試合に出してもらえることはなくなってしまった。 チームの誰もがなぜだと首をひねるほど、それは唐突な采配だった。故障でもない、不調でもない。僕が選手として上り調子であったことは、誰も疑わなかったはずだ。 2年生で正ゴールキーパーに選ばれて以来、無我夢中でゴールを守り続けてきた僕は、あの頃、周囲に存在を知られる選手になりつつあった。このまま唯一無二の守護神として次こそはチームを全国優勝に導き、そしてその後は幼い頃からの夢だったJリーグに、さらには日本代表にという目標に向かって、どこまでも上って行くつもりでいた矢先だった。 監督本人に何度も食い下がって理由を聞いたが、納得のいく答えが返って来たことなどなかった。若手を育てたいから、お前ばかりを使うわけには行かないから……って、試合に勝つってのはそんなもんじゃないだろう。挙句の果てにはお前は使いづらい、変なクセがついている、とまで言われ、ならばと必死に改善点を探ってみたけれど、何をどう変えても気に入ってもらえることはなかった。 そんな僕の代わりに正キーパーとして試合に出るようになったのが、当時2年生の金谷だった。 ![]() 金谷は多くを話さなかった。そして僕も。二人して後輩たちの練習風景を眺めながら、やはり空気はどこかぎこちなかった。その沈黙を破るようにして、金谷が口を開く。 「久しぶりにロッカー室に行ってみませんか? これが最後なんだったら、記念ってことで」 唐突な提案だ。だけど手持ち無沙汰なのも確かで、僕は「そうだな」とうなずく。 まぶしいグランドから薄暗いロッカー室に入った時に感じる空気の濃さには馴染みがあった。薄闇が変に目に沁みて、胸の奥がツンとなる。高校のロッカー室には独特の何かがある。僕がここに居た頃から、ちっとも変わらない何かが。溢れ出す思い出は決して甘いものではない。僕はあわてて記憶の蓋を閉じた。 3列に並んだロッカーの間を歩き出しながら、金谷は何かを探しているようだった。 「あ、あった! これだ」 突然そう叫んで立ち止まった彼の背中に、ぼんやりと歩いていた僕はぶつかりそうになった。 ばつの悪そうな笑みと共に、金谷が指差したロッカーの扉を見て、僕は軽く目をみはる。 「これ、俺がやったんです」 丈夫そうなスチールの扉の真ん中あたりが、一目見てはっきりとわかるほど大きくへこんでいた。 「まだあったんだ、これ。今誰が使ってんだろ。なんか、悪いことしちまったな」 不恰好なへこみに触れながら金谷はつぶやいた。僕はわけがわからず、思わず口を開く。 「違うだろ? お前じゃねえよ、それは……」 それをやったのは、僕だ。間違いない。 昨日のことのように覚えている。一人居残って報われない練習を終えた後、誰もいないロッカー室で、不意に込み上げた激しい感情を。 あれは三年生の夏休みだった。新監督のやり方に戸惑い憤慨していたチームメイトたちも、新しい体制を現実として受け入れ、金谷が正キーパーとして定着し始めていた頃だ。それでもチームは以前の輝きを取り戻すことはできず、総体は全国大会進出さえかなわなかった。 そのことすら自分の責任であるような気がして、僕は焦っていた。僕が試合に出してもらえないのは、大事な試合できちんとゴールを守ることができないのは、自分の力を監督にアピールできない僕自身の責任なんじゃないかって思えて。 自分の何が悪いんだろう。何が金谷より劣っているんだろう。金谷の何が、僕よりも正キーパーに相応しいと監督に思わせるんだろう。毎日毎日、そんなことばかり考えていた。 技術にしても戦略にしても勝負強さにしても、自分の方が上だと思う。身体は少しあいつの方が大きかったけれど、そう大した違いがあるとも思えない。 メンタル面は……金谷の方が落ち着いていたかも知れないけれど、それだって良し悪しだ。チームの士気を鼓舞するために、あえて感情を露にした方がいい時だってある。 いくら考えても、自分が使ってもらえない決定的な理由があるとは思えなかった。僕には見えないものが、監督には見えているのかも知れない。そう思って、やみくもに金谷のプレイスタイルを真似てみたりもしたけど、結局、自分を見失ってしまっただけだった。 このまま自分は表舞台に出ることもなく、練習ばかりを繰り返しながら、朽ちていくのだろうか。 理不尽な現実に、自身の力を信じきれない自分の弱さに、猛烈に腹が立った。頭の中がかっと熱くなり、気がつけば僕は、目の前の扉を殴りつけていた。 よく覚えている。拳に感じた衝撃のわりに、ロッカー室に響いた音は小さかったこと。次から次へとこぼれ落ちる涙は悔しさのためなのか、ジンジンと手の甲に残る痛みのためなのかわからなくて、なんだか情けなくなってしまったこと。 忘れるはずがない。まさか金谷はそのことを知っていて、僕をからかっているんだろうか。まさかとは思いながらも、一瞬頭に血が上る。 「いや、俺です、それは」 しかしきっぱりと言い切る金谷の表情はあくまで真剣だった。 「インハイ予選に負けた時です。俺、三年の先輩たちに詰め寄られたんっすよ。今すぐレギュラーを降りろって。藤村先輩がゴールを守れば、こんなことにはならないって」 初めて耳にする事実だったが、僕はそれほど驚かなかった。あの頃のチームの空気を考えると、そんなことが起こっても不思議ではない。 総体予選の準決勝で敗れたのは決して金谷のせいではなかったが、チームがまとまりを欠いていたのは事実で、皆、そのやるせなさを誰かにぶつけずにはいられなかったのだろう。フェアなことではないにしろ。 意外だったのはそんなことを話す金谷の表情が、その悔しさを思い出すかのように小さく強張ったことだ。彼は、誰に何を言われても揺らがない男だと思っていた。だからこそ今の活躍があるのだと。 「それまでも、結構言われてましたよ。あいつは監督のお気に入りだからとか、どうやって取り入ったんだとか。何かにつけ先輩と比較されて、お前じゃ勝てないって言われた。でも一番悔しかったのは、俺自身、実力でレギュラーになったんだって胸張って言えなかったことだったんです。どうして俺なんだろう、どうして俺が選ばれるんだろうって、いつも心のどこかで思ってた。先輩にはかなわない、負けを重ねるたびに、そんな言葉が自分の中でも外でも大きくなっていって、それを実力で跳ね返せない自分が情けなくて、悔しくて悔しくて……」 思わずロッカーに八つ当たりしてしまったのだと、金谷は苦笑して言った。 「でも、お前は降りなかった……」 胸の底に小さな痛みを感じながら、僕は言葉を返した。金谷は少し困ったような笑みを見せて「ええ……」と答える。 「ここで降りたら負けだって思ってたから。自分より大きい器を与えられたんなら、死に物狂いで自分を大きくするしかない、ここを超えられなければ、俺に未来はないって……。先輩には申し訳なかったけど」 とつぜん詫びられ、僕は曖昧に「いや……」と首を横に振った。 あの時金谷が降り、自分にレギュラーの座が再び転がり込んできたなら、僕の未来も変わっていただろうか。少し考え、違うなと思う。たぶん僕はその先でも同じような壁にぶつかり、そして乗り越えられなかったに違いない。それがわかっていたから、僕はサッカーを続けられなかったのだ。 しかし、金谷は乗り越えた。そしてその後も乗り越え続けている。 あの頃、気づかないわけではなかった。金谷もまた、大きなプレッシャーにさらされながら、孤独な戦いを続けていたこと。だけど彼は大丈夫なんだと思っていた。周りの雑音なんか跳ね返して、どんどん前に進んで行ける男なんだと。でも、そうじゃなかった。 ふと思いついて僕は奥へ足を進めた。ついてくる金谷の訝しげな視線を感じながら、あちこちに目をやり、そして見つけた。それは金谷が見つけたロッカーのちょうど裏側にあった。 「なんすか、これ。まったく同じじゃないですか」 まったく同じ形、同じ大きさにへこんだロッカーの扉を見て、金谷が呆れたように言う。 「どっちをどっちがやったのか、今となってはわかんねえけどな」 泣きたいような、笑い出したいような奇妙な気持を持て余しながら、僕は答えた。 「ちょうど同じだけの悔しさを、俺もお前も抱えてたってことだ」 金谷はしばらくその扉を見つめていたが、いきなり可笑しそうに笑い出した。笑いは次第に大きくなり、やがて僕にも伝染する。 「なんだよ、何、笑ってんだよお前」 「だ、だって、ビジュアル的にわかりやす過ぎるじゃないですか。まったく同じなんすよ。今の連中、これ見てどう思ってんだろ」 「わかんねえよ、そんなの」 意味のない言葉を交わしながら、僕たちは笑い続けた。しばらくして金谷はようやく笑いを止め、大きく息をついた。 「あー、なんか、吹っ切れたような気がする」 そうつぶやく横顔は、本当にまた笑いたくなるぐらい吹っ切れた表情をしている。 たぶん僕も、同じ顔をしていただろう。 ![]() 結局、監督が僕をレギュラーに使いたがらなかった理由は、今でもはっきりとはわからない。でも、何となくわかるような気もしている。 たぶん理屈じゃない、直感的な好き嫌いの感情だったんだろう。彼と前監督の間に確執があったことを、僕は後から人に聞いて知った。僕が前監督のお気に入りと見なされていたことも。 冗談じゃないと言いたくなるような話だけど、実力の伯仲した二人の選手がいた場合、気持的に使いやすい方が選ばれるのはしょうがない。プロの世界にもそういうことはある。 あの頃、周りからもさんざん言われたけれど、僕はどこか別のチームに移るべきだったんだろう。未来のない環境に見切りをつけて、自分に合った指導者を探せばよかったのだ。だけど僕は意地になってた。何としてでも自分の実力を認めさせてやるんだと躍起になり、そしてあえなく撃沈した。 直接的な原因は怪我だった。萎縮した心と身体で、無理な練習を続けていたせいか、秋になって膝を痛めてしまったのだ。乗り越えられない怪我じゃなかったけど、もう、乗り越える力は残っていなかった。その頃から僕は、普通に試験を受けて大学に進むことを考え始めていた。 結局のところ、しょせん僕はプロの器ではなかったということだ。 金谷はそれからもゴールを守り続けた。だけどチームの成績はその後も振るわず、彼の卒業と同時に監督は辞任することになる。そんな中でも金谷は奮闘を重ねて、プロの世界からある程度の注目を集める選手に成長し、卒業後は地元のJ2チームに入団した。 その後の活躍は誰でも知ってるだろう。彼のチームがJ1への昇格を果たしたのはその年のこと。18歳の新人ゴールキーパーが昇格の立役者だと騒がれ、今や彼は五輪代表チームに呼ばれるほどの注目選手になっている。 こんな風に言葉にすれば簡単だけれど、その道のりは簡単なものじゃなかった。そして今も簡単じゃない。僕は知ってる。 「なあ……」 思い切って聞いてみた。 「お前がコーチに乗ってもらってる相談って、なんだったんだ?」 「相談って言うより、悩みって言うか愚痴みたいなもんなんですけど」 金谷は唇の端に小さく苦い笑みを見せて答えた。 「どうやったら、『楽しい』っていう気持を取り戻せるだろうって……」 ロッカー室の外に出て、まぶしい太陽の光に目を細めながら、彼は言いよどむ。まるで光を浴びたとたん、話すべき言葉が一瞬にして消えてしまったみたいに。 だけど「楽しい」というその言葉は、軽く僕の胸に突き刺さった。 昨年の春、金谷は試合中の接触プレイで怪我をした。右足アキレス腱の断裂。代表チームでのスタメン起用が確実とされていた矢先のことだ。 彼は代表を外され、同時に水面下で打診を受けていた海外への移籍の話も頓挫した。キャリアの少ない金谷の移籍話を快く思わなかったマスコミには、「時期尚早」「勇み足」と書き立てられ、サポーターからは「裏切り者」と非難され、この1年は彼にとって精神的にも苦しい年だったはずだ。怪我に続く不調から十分に活躍できず、昨年のチームの戦績も、上位に食い込んだ昇格1年目と比べると、惨憺たるものだった。 そんな経緯を、僕はすべて知っていた。別に意識して追いかけていたわけじゃないけど、気がつけばあいつがどこでどうしているか、すべて僕の知るところとなっていたのだ。 まあ、スポーツ番組や専門誌を見れば嫌でもその動向が目に入ってくるほどの選手になっていたってことなのだろうけれど、やはり、僕自身も心のどこかで気にかけてていたんだと思う。金谷が活躍していればほっとし、今のように不調が続いていると胸が痛かった。 自分の代わりに夢をかなえた男のことを気にするなんて、おかしな話だけれど。 きっと僕は金谷のことを、過去のどこかに置き忘れて来たもうひとりの自分のように感じていたのだ。こんなにかけ離れた場所にいるはずなのに、今の金谷の辛さが何となくわかるような気がしていた。 「辛いことも、苦しいことも平気だし、乗り越えて行く覚悟はできてた。でも『楽しい』って気持をなくしてしまえば、選手として終わりですよね」 独り言のように、金谷は言った。 「今は、サッカーが楽しくない?」 あえてシンプルな言葉で、僕は尋ねてみる。そんな単純なことじゃないとわかっていたけれど。 「楽しさが消えてしまったわけじゃない。でも、苦しいことや辛いことが多すぎたってところですかね。ゴール前に立っても、昔みたいにわくわくしない。もちろんプロとして仕事はきっちりやるけど。このまま機械みたいにゴールを守り続けて、選手としてどんどんダメになってくんじゃないかと思うと、怖くて。どうすれば、昔みたいな楽しさを取り戻せるだろうかって、そればっかり考えてる」 金谷は淡々と答えた。 僕がサッカーを続けられなくなったのは、結局、「楽しい」という気持を失ってしまったからだった。ボールに触ることが、ゴール前に立つことが楽しくて仕方がない、そんな気持が、孤独な戦いの日々の中、いつの間にかすっかり消耗されてしまっていたことに僕は気づいたのだ。 このままサッカーを続けても、おそらく僕はプレイヤーとして輝き続けることはできない。そう思ったから、あきらめるしかなかった。 でも金谷は違う。同じように「楽しい」という気持を失ってしまっても、どうやってそれを取り戻そうかと考える。やっぱり彼はプロなのだと思った。きっと彼なら、どんなに長いトンネルでも抜けられる。 「大丈夫だよ。お前なら」 僕は言った。 「お前は俺とは違う。お前ならきっと取り戻せるさ」 金谷は少し驚いた顔をして、首を横に振った。 「同じですよ。先輩だって、取り戻したじゃないですか」 僕の驚きは彼よりも大きかった。彼は知ってるのか? でも、どうして……。 言葉をなくした俺に、金谷は笑って言った。 「森原電工、すげえ勢い出てきてるチームじゃないですか。もともと守りが弱いって言われてたから、先輩が入ればもう怖いもんなしです。期待してますよ」 「なんでお前、それを?」 わけがわからず僕は尋ねる。どうしてこの男が、アマチュアリーグの、しかもそう上の方にいるわけでもないチームのことまで詳しく知っているのだろう。 結局、僕がボールに触らずにいられたのは、最初の一年間だけのことだった。 地元の友人に無理やり引っ張り出された社会人チームの試合。久しぶりにゴールマウスに立った時、目の前に広がるフィールドの広さに、不覚にも感動した。ゴールキーパーだけが見ることのできる景色。この景色にめちゃくちゃ飢えていた自分に気付いた。一瞬でハートに火がついて、後はもう試合のことより他に何も考えられなくなっていた。 たぶん僕はあの時取り戻したんだと思う。金谷の言う「楽しさ」ってやつを。 その後も同じチームでゴールを守り続けていた僕に、知り合いを通じて声をかけてくれた人がいた。関東サッカーリーグ、森原電工サッカー部の監督だ。 同じアマチュアのひとつ上のステージであるJFLへの昇格を目指すこのチームの、守りの要になって欲しいと言われ、僕はこの会社に就職することに決めた。「入団」ではなく「就職」だ。平日の昼間は営業社員として働き、その他の時間を練習や試合に費やすことになる。両立の厳しさは半端じゃないけれど、それだけに選手達はみんなキラキラ輝いている。この場所こそが自分の本当の居場所だと、練習風景を一目見て僕は直感したのだった。 それにしても金谷はなぜ、そんなことまで知っていたのだろう。 「本当なら、選ばれないのは俺の方だった。だから俺は先輩のことをもう一人の自分みたいに思ってたのかも知れないです。完全にサッカーを止めちまったって知ったときは滅茶苦茶悔しかったし、また始めたって聞いてすげえ嬉しかった。もう止めないでくださいよ。どんな形でもいいから続けていてください。俺、どんなに辛いときでも、先輩がどこかで頑張ってるって思えば根性出せたんですから」 そんなことをさらりと言われ、僕は驚くより他なかった。「もう一人の自分」、こいつも僕と同じように考えてたっていうのか。 僕らは複雑な間柄だった。決して仲が良いとは言えなかった。金谷にしてみれば僕の存在など、覚えている価値もないことに違いないと思っていたのに。 「俺は、お前みたいな奴が気にかけるほどの選手じゃねえぞ」 信じられない気持のまま、そう言葉を返すと、金谷は少し怒ったような顔をした。 「何言ってんですか。俺は先輩とまともに勝負して勝ったことなんて一度もないんですよ。レギュラーになってからも、先輩がいたときほどの成績は残せなかったし、例えプロになっても勝てたとは思えなかった。一度でいいから先輩と戦いたい、自分の本当の実力を試したいって、俺は今でも思ってるんです。先輩がこれからもサッカー続けるってことは、チャンスはあるってことですよね」 「あのな、ステージが違いすぎるだろ。こっちは地方リーグだ」 僕が呆れて言うと、金谷はにっと笑って言葉を返した。 「天皇杯があるじゃないですか。絶対にいつか、出てきてくれるって信じてます」 「お前なあ……」 絶句するしかなかった。こいつ、こんなに能天気な男だったっけ。 確かに天皇杯ならプロとアマチュアが同じステージで戦える。Jリーグと比べて遜色のないチームだって出て来ないこともない。だけど今の僕にとってそんな世界は遠い、あまりにも遠すぎる。 でも、いいかも知れないな……ふと思えてきた。 遠い昔になくした夢が、形を変えて蘇ったような気がした。いつか、金谷のチームと公式戦で対戦する。自分の力で、それだけのチームに成長させてみせる。そんな途方もない夢に向かって全力で走ってみるのも悪くない。 メールアドレスを交換して、金谷に別れを告げた。 久しぶりに上る、長く急な坂道を、僕は必死にペダルを踏んで上り切る。たった独りの奮闘を、蒼く優しい空が、包み込むように見守ってくれていた。 |
END![]() このお話は、コブクロ『蒼く 優しく』の歌詞をモチーフにしたフィクションです。実在の人物・団体・事件などには一切関係ありません。 |
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