日曜日のスーパーマン

                                              

 初めて彼に出くわしたとき、こいつはもしかして千秋と何かあるんじゃないかと、陸は穏やかならぬ気持になったものだ。彼と千秋の間には、何やらタダモノならぬ親密さがあるように感じられて、ならなかったから。

 そして、もし、そうだとしたら俺は勝てないかも知れないと、絶望に目の前が暗くもなった。
 彼が優しげな外見の内側に、タダモノならぬ何かを秘めた男であるらしいことを、人間観察に長けた陸は、一瞬にして感じ取らないわけにはいかなかったから。

 あれは帰国してまだ何日も経たない頃…。
 千秋の人隣りなど皆目つかめていなかった頃とはいえ、まったく道化た狼狽ぶりだったよなと、今にして陸は、可笑しくなってしまうのだけれど。


「まったく…すげえ顔してたよな。あの時のお前って……」
 今思い出しても可笑さをこらえ切れないといった風に笑いながら、翔一は言った。
「初対面の人間に、あんなに睨まれたの、生まれて初めてだったぜ。一生忘れねーだろうな、あの顔だけは」
「頼むから、忘れてくれって…」
 苦笑と共に、陸は言葉を返す。

 だって、仕方がないじゃないかと陸は思う。あの頃の彼は、夢の中にいるかのように混乱した日々を送っていたのだから。
 長年の時差ボケもまだ治らないうちから、日本での生活の基盤を作るために、朝から晩まで走り回り、身体は疲れ切っていた。それでも、ようやく側に居られるようになった愛しい人の笑顔をやはり少しでも見ていたくて、時間ができれば千秋の部屋を訪ねる、そんな毎日だった。
 遠く離れた場所で長いこと思いを募らせてきた相手と、同じ空気の中に居る…それだけでも心は浮き足立ってしまってしょうがないのに、悟られはすまいと必死に平静を装って…まったく、狂乱状態と言っても良いほど、ぎりぎりの精神状態の中に、彼は居たのだ。

 そんな時に、ジャニーズ系そのものの甘く整った顔立ちをした華奢な青年が、保育園帰りの悠を連れて突然千秋の部屋に現れたのだから、完璧に平常心を失ってしまっても、それは陸本人の責任ではないだろう。
 誰なんだ? こいつは…。なんで父親みたいな顔をして、悠を送ってきたりするんだ。それに、言葉を交わす千秋との間にある、この妙に打ち解けた空気は、いったいどいういうことなんだろう。
 睨んだ覚えはない。だけど、相当に疑念と警戒心のこもった鋭い視線を、彼はその初対面の男に向けてしまっていたらしい。

「あの時はほんと、怖かった。こいつだけはこの先、絶対敵に回したくねえって、思ったもんな」
 そう言って翔一は再び笑った。

 もちろん、誤解はすぐに解けたのだけれど…。千秋に紹介され、その落ち着いた穏やかな笑顔と向き合ったとき、彼が沙希の夫であり、千秋のメールにもたびたび出て来て、自分の中では既にすっかり馴染みになっていた「西原翔一」その人であることに気付き、あまりにも馬鹿らしい勘違いに平常心を失っていた自分に、陸は苦笑するしかなかったのであった。
 まったく、千秋が関わると、本当に自分はどうしようもない。こればかりは何年経っても、変わらない。

 あれから1ヶ月と半月。陸の精神状態にも、彼と千秋との関係にも、あの時と比べてさほどの変化や進展があったようにも思えないのが辛いところだけれど…。
 彼と翔一との間柄だけはどうしたわけか、あれよあれよと進展し、ふたりはあっという間に兄弟のように仲良くなった。
 見かけによらず兄貴ぶるのが好きな翔一は、なんだかんだと世話を焼ける相手ができたことが、実のところ嬉しかったらしい。対する陸はといえば、でかいガタイのわりに無邪気で甘え上手なところは、以前と変わりがなくて…。
 それに、それぞれ親友どうしの相手を好きになるだけあって、もともと魂に近いところがあったにも違いないのだ。そうやって並んでると、どう見たって陸が年上よね…なんて沙希にからかわれながら、時おり連れ立って飲みに行ったりするようになるまで、そう、時間はかからなかった。


「まあ、とりあえず乾杯だな」
 運ばれてきた瓶ビールを、そつなく翔一のグラスに注ぎ、陸は話題を変える。
「今日はお疲れ。ほんと助かったよ。ありがとう、翔一さん」
「マジで疲れたけど…お役に立てて何よりだよ。どんな記事になるのか、ちょっと怖いけどな」
「心配すんなって。思いっきり褒めちぎってやるから」
「それが怖いって言うの」
 翔一は苦笑した。
「でも、冗談抜きでいいのが書けると思う。やっぱ翔一さんはすげえな。沙希さんがよく『翔一くんはスーパーマンだ』って言ってたろ? 何のろけてんだよ、って思ってたけど。あれはほんとだったんだな。昨日と今日、ずっと翔一さん見てて思った」
「沙希さん、そんなこと言ってたっけ?」
 そう問いを返す翔一の顔が見る間に赤くなったのは、飲み干したビールのせいだけでもないらしい。
 女の子のように整った線の細い顔立ち、色褪せた感じのサラサラの髪、日に焼けた肌に、水色のTシャツを着たその外見は、少しばかり軽くさえ見える。陸の半分ほどしかなさそうな肩幅、左手の結婚指輪がマジで似合う形の良い手。いつも陽だまりのような笑顔を浮かべた優しげな表情に、今は困ったような、照れたような色がさして、よけいに彼を頼りない子供のように見せている。
 数時間前までのスーパーマンは、いったいどこへ行ってしまったんだろう。こうして向かい合っていると、どう見たって、ちょっと男前なだけの、普通のにーちゃんに過ぎないんだけどな…。
 陸はなんだか可笑しくなり、あまり酒に強くない彼のために、なみなみとビールを注ぎ足してやる。

 昨日と今日、二日間かけて、陸は翔一の仕事振りをつぶさに見る機会を与えられたのだった。
 きっかけは、陸がもらってきた仕事…。学生向けの就職情報誌で、様々な仕事を紹介するインタビュー記事を書くことになり、こちらでのコネもまだまだ少ない陸は、翔一に頼み込んで、なんとか取材対象になってもらったというわけなのだ。
 初めは緊張気味に、翔一の職場に出かけて行った陸だけれど、最後の方にはこれが仕事であることを忘れそうなほど、のめり込んでいた。翔一が市役所の福祉課に勤める、なかなかに有能な職員であり、沙希や千秋もこれまでずい分彼に助けられてきたことは、あのふたりから聞いて知ってはいたが、まさかこれほどまでの仕事ぶりを見せてもらえるとは思っていなかった。
 いったい、あの華奢な身体のどこに、あれほどのパワーが隠されているのだろう。

 何しろ、窓口を訪れる人の半分以上が、彼を頼りにしている。名指しで何度も呼び出され、その都度嫌な顔ひとつせず出て行っては、にこにこと笑いながら相手をする。一体何をやったのか、80歳は超えているであろうおばあさんに涙ながらに感謝されていることもあれば、泣きながら何やら窮状を訴える女の人の話を黙って聞いていることもある。切れて怒鳴り散らす男を見事に宥めてしまったことだってある。
 カウンターの内側に居ても、一瞬たりともひと息つくことなどなさそうだった。こちらでもほとんどの同僚が彼を頼りにしていることには変わりなく、「西原さん…」と彼を呼ぶ声を、何度聞いたことだろう。やはりその都度迷惑がることもなく、わかりの悪そうな後輩や同僚たちにも何やら丁寧に説明してやっている。席についていても、書類の山に埋もれていつも忙しそうにペンを走らせているし、そうかと思えば突然外から呼び出しをくらって、慌しく出かけていったりもする。ときには穏やかな、それでも毅然とした様子で、やる気のなさそうな上司と渡り合っていることもあった。

 いつものカジュアルな格好とは違い、地味なスーツに黒縁のメガネをかけ、事務所の中を飛び回るその姿は、まさに市井に生きるクラーク・ケントそのもの――。「スーパーマン」とはよく言ったものだよな、と、陸も沙希の言葉を思い出し、感心しないわけにはいかなかった。一体彼は、あの若さで、その細腕で、これまで何人の市民を救ってきたのだろうか。
 アメリカに居た頃から、様々な人に会い、写真を撮り、話を聞き、その姿を文章に写し取ることを日常としていた陸だったけれど、これほど取材が楽しかったことはない。翔一のように仕事をする男には、これまで会ったことがなかったから。

 なんて言えば良いのかわからないのだけれど、これだけは言える。翔一のように嬉々として楽しそうに、そしてあれほどスマートに、人のために尽くす人間を、陸は他に知らない。これは本当に、すごいことだと思うのだ。

 そんなことを思ったままに陸が話すと、大いに照れるかと思えた翔一は意外にも少し真顔になって答えた。
「それができるのは、多分俺が本来冷たい人間だからなんだろうな」
 「え?」と顔を上げた陸に、翔一は穏やかな表情を浮かべたまま淡々と話を続ける。
「本当にこの仕事に一生懸命な人は、可哀想なぐらい苦しんでる。なんだかんだ言って俺は、自分ができることの範囲をはっきりと決めてるし、きっちりと線を引いてる。だからラクに仕事がこなせる。本当は冷たいんだ」

 まるでテーブルの上の冷奴に話しかけるかのように、うつむき加減に話すその口調や表情に、これといった感情は感じられない。彼が自分の置かれた状況を愚痴るわけでもなく、嘆くわけでもなく、ただ、事実を話していることが、陸にはわかった。
 彼は悟っている。人がひとりの力で出来ることの限界を。そして、その中でベストを尽くしている。それでいいのだと陸には思える。
 世の中で本当に必要とされているのは、限界以上のことをやろうとして苦しんだり、自分の力のなさを嘆いたり、あげくの果てには燃え尽きてしまったりするような人間じゃない。翔一のように、自分のできる範囲のことを、静かにきっちりとやり遂げてみせる人間なのだと思うから。

「それでオーケーなんじゃないの? 翔一さんは、よくやってる」
 賛同の意は、言葉にすればどうしてこんなにも陳腐になってしまうのだろう。
 だけど、言わんとすることは伝わったに違いなく、翔一は笑って陸のグラスにビールを注ぎ返してくれた。


「でも、ひとりだけ、どうしても線を引けなかった相手がいたんだな」
「沙希さん?」
 なんだか面白い話になってきたと思いながら、陸はたずねる。翔一は少し照れたように笑ってうなずいた。
「今は何とか落ち着いてるけど、出会った頃の沙希さんは、本当に大変だったんだ。前のダンナとのごたごたも続いてたし、千秋さんとの生活は始まったばかりだったし…。女がふたりで子供抱えて結婚せずに生きて行くって、ほんと、ややこしいことばかりなんだよな。世の中がそういう風に出来てないって、ことなんだろうけど」
 少しばかり酔っているのか、翔一が、こんな風に沙希のことを話すのは珍しい。陸は思わず相槌を打つのも忘れて、彼の話に聞き入ってしまう。
「絶対に、なんとかしてあげたかった。自分の力に限界があることを、初めて悔しいって思った。仕事を忘れて無理を通そうとしたり、上司やら同僚やらとケンカまでしたり…。おかげで強くなれたし、それまで以上にいろいろと仕事のこともわかったから、今にして思えば、沙希さんに感謝…なんだけどな」
 その言葉に、陸はめいっぱいの共感を込めて「わかるよ」とうなずく。恋のおかげで飛躍的な成長を遂げた男が、ここにも1人、いる。

「あの頃ほど仕事が楽しくて、そして辛かったことってないだろうな。でも仕事として彼女に関わっているだけじゃ、出来ないことがたくさんある。彼女よりずっと悲惨な状況にいる人だってたくさんいることもわかってる。だけど俺は、沙希さんにだけは、他の誰よりもカンペキに幸せになって欲しかったんだ。これって、エゴだよな」
 そのエゴを通すために、沙希と結婚したのだと、翔一は冗談のように笑って言った。
 その気持は本当によくわかる、と陸は思う。世界中の誰よりも、この人にだけは幸せになって欲しい…そう思える相手が、おそらくは誰にでもいるものなのだ。それは多分、エゴじゃない。そんな風にして支えられることによって、人は本当に幸せになれるものだと思うから。

 俺はいつ、そんな風に好きな相手を支えることができるようになるんだろう。前途多難だな…我が身を振り返り、陸は内心密かにため息をつく。
「とは言っても、いまだに前途多難な気がするけどな」
 と同時に翔一がそんなことを言ったものだから、陸は驚いて彼を見た。
「沙希さんは誰かに助けて欲しい、支えて欲しいっていうより、誰かを支えたい、助けたいっていうタイプなんだよな。…で、その相手は俺じゃない。昔も今も、千秋さんなんだ」
 思いがけず、いつも胸に在る人の名前を出されて、陸は「え…?」と絶句した。翔一は「してやったり」といった風に笑って言葉をつなげる。

「俺の最大のライバルは、千秋さんだってことだよ」
「…ってことは、俺の最大のライバルは、沙希さんってこと?」
「よく、わかってんじゃん」
「いや…もひとつ、よくわからないんだけど…」

「とにかく、お前には期待してる。しっかり、千秋さんをつかまえといてくれよな」
 冗談なのか、本気なのか、翔一は真顔でそんなことを言う。自分の肩に、ずんとプレッシャーの重みがのしかかってくる心地がして、陸は思わず肩に手をやる。
「人を好きになるってのは、辛いことだよな」
 わずかに青ざめた陸の顔を見て、翔一は笑って言葉を重ねた。深い深い共感に満ちた響きだった。



「じゃあ、あさっては悠のこと頼む。だいじょうぶか?」
 別れ際、思い出したように翔一は言った。陸は心得たように笑ってうなずく。
「大丈夫。きちんと見てるよ」

 明後日は日曜日。だけど千秋は休日出勤、沙希は息子の天馬が習っている体操教室の競技会に付き添わねばならず、翔一も急に市のイベントにかり出されることになり、悠の面倒を見る者が誰もいなくなった。
 3人が完璧に協力体制を整えてはいても、ごくたまに、こういう不測の事態が起こるらしい。そんな時はいつも、誰かが無理矢理休みを取ったり、近所の人にお願いしたり、県外に住む千秋の親に来てもらったりして、どうにか無理を通すのだけれど…。
 だけど今回は、陸がいた。千秋が遠慮がちに事情を話すのを聞いて、彼は一も二もなく、悠のことを引き受けたんだった。彼とて夕方から取材で出なくてはならなかったのだけれど、それまでには翔一が帰って来ることになっていた。
 悠とふたりで一日を過ごすのは初めてのことで、実はものすごく張り切っている。

「出来るだけ早く帰るようにするから…。悪いな、ほんと」
 本当にすまなそうな顔で翔一は言った。悠は千秋の娘なのだから、考えてみれば何も、彼が謝ることもないのだ。陸はなんだか可笑しくなる。
 だけど陸には彼の気持が理解できた。彼にしてみれば、沙希の息子の天馬も、千秋の娘の悠も、皆自分の子供のようなものなのだろう。人間の器が大きいとも言える。だけど、逆の立場であれば千秋だって、同じように謝るに違いないことを、陸はわかっていた。
 彼らはそういう絆で結ばれているのだ。
 初めて翔一に出会ったとき、自分にあらぬ誤解をさせた、彼と千秋の間にあった親密さというのは、家族としての親密さだったんだなと、今にして陸は思う。それぞれに協力し合って、生活を作り上げてきた者同志の…。それが理解できるようになったのは、陸もまた、彼らの間にある同じ空気を共有できるようになったからに他ならない。
 そのことを陸は、しみじみ嬉しいと思った。



 明後日、今日はめいっぱい悠と遊んでやろうと、絵本やらゲームやらおもちゃやらを用意して張り切っていた陸だったが、結局、午前中は習い事に忙しくて遊ぶひまなどなく、午後は1時間もしない内に彼女の友達が呼びに来て、「外で遊んで来る」と言われ、思いっきり拍子抜けした。
 もっともそれは、あらかじめわかっていたことだったので、さほど落胆はしなかったのだけれど…。

「もう、親よりも友達…っていう年頃なのよね。近所の公園なんかで遊んでるから、時々見に行ってあげて」
 千秋はそう言って、日頃の悠のテリトリーをあれこれと教えてくれていたから、内心がっかりしながらも、快く送り出す。それでも気になってしまうのは当然のことで、15分ごとにマンションの階段を上り下りして、様子を見に行くと、千秋の教えてくれた場所のあちこちを順番に渡り歩きながら、きちんと遊んでいるので、何だか笑えてきてしまった。何しろ、母親の千秋よりもしっかり者の悠だ。この分なら大丈夫だろう…。
 それが実は、大きな落とし穴であったことをその時の陸はまだ、知らない。

 まあ、楽勝だな…余裕の気持で何度目かに階段を降り、外に出たとき…。
 忽然と、悠の姿が消えていた。

 おそらく、その辺で遊んでいるのだろうと少し足をのばして見るが、その姿は見えず、そこいらの子供たちに訊いても、みんな「知らない」という。どこかの家に上がりこんでいるのだろうかと、少し焦り気味にあちこちの家の軒先や、マンションの駐輪場を見て歩いたのだけれど、彼女が乗り回していた水色の自転車は、どこにもなかった。

 マジかよ……そのあたりで本格的に血の気が引く。

 ここで大騒ぎして、近所中をたずねて回れば、後で千秋に迷惑がかかる。かと言って、悠がひょっこり帰ってきた時のことを考えると、自分が家を空けて探し回るわけには行かない。誰かに連絡するしかなかった。だけど沙希は遠く離れた町の競技場。千秋は今日は残業だと言っていたから、目の回るほど忙しいに違いなく、呼び戻すのははばかられた。
 …となると、頼れる相手は1人しかいない。幸い、翔一の仕事が終わると聞いていた時間まで、1時間ほどを残すのみだった。とはいえやはり、電話をかけるのは気の重いことだったけれど…。

「翔一さん、悪い、仕事中に…」
 突然かかってきた震え声の電話を、翔一は驚くほど冷静に受け止め、短く話を聞いて、慌てることなく「わかった、すぐに行くから」と言って、電話を切った。
 この時ほど彼を頼もしく感じたことはない。
 やっぱり彼は、正義の味方だ、スーパーマンだ。この男に惚れた沙希の気持が、何となくわかった。こんな風にして彼女も何度となく救われてきたに違いないのだろうから。

 ほっと一息ついて時計を見上げ…。
 自分自身が仕事に出ねばならない時間が、シャレにならないほど間近に迫っていることに、陸は気付く。


 翔一は、仕事を切り上げてすぐに職場から車を飛ばして来てくれた。青ざめてパニック状態になっている陸と違って、思いがけないほど落ち着いた様子で、彼は心底、救われた気持になる。
「時間は? 大丈夫なのか?」
 いきなりそう聞かれて一瞬、「へ?」と思う。それが仕事のことだと理解するまでに、少しばかり時間がかかった。
 まさか、悠のことよりも自分の仕事のことを真っ先に心配してもらえるとは、思ってもいなかったから。
「大事な取材なんだろ? 悠は大丈夫だから、行って来い。後は俺が探しとくから」
 とっさに言葉が返せないでいると、そう重ねて言われる。陸はそれでも、きっぱりと首を横に振った。
「取材先には事情を話す。俺の責任だから、俺が探さなきゃ」

 ここで翔一に任せて仕事に行ってしまえば、これから先、千秋と共に生きて行くことはできないような気がしていた。だって、彼女だって、同じような仕事か子供かの窮地を何度でもくぐり抜けてきたに違いないから。
 翔一はさらに言葉を返そうとして口を開きかけたが、陸の表情に、理屈では言い表せない決意を見てとったのか、何も言わなかった。彼とて陸の気持は痛いほど理解できてしまう立場なのだ。
「わかった」翔一は笑って言った。
「もしかすると、自分で帰って来てしまうかも知れないから、お前はここで待っててくれ。心配しなくてもすぐに見つかるよ。悠の行動範囲はわかってる。あいつはときどき、こういうことをやらかしてしまう奴なんだ」

 本当に、あっけないほど、悠はあっさりと見つかった。
 彼女は、1キロほど離れた友達の家で、数人の仲間といっしょに遊んでいた。こんなに遠いところに幼児が行けるはずがない、と思うのは大人の発想で、自転車に乗って走り回っているうちに友達と合流し、また別の場所へ行き、ということを繰り返しているうちに、流れ流れてそんなことになってしまったらしい。まさか無断で来たとは思っていなかったらしく、翔一から事情を聞いて、相手の母親も青ざめていたという。
 実際の年齢よりもしっかりしていると周りから言われ、そして本人もそう思い込んでいるためか、悠は時おり、年上の友人たちといっしょに、とんでもないところまで行ってしまう。そして、一度遊び始めると、時間を忘れてしまうのは幼児の常で……。
「今までも何度かあったんだ。こういうこと。そのたびこっぴどく叱られてるから、もう、やらないと思ってたんだけどな。きちんと話しとくべきだった。ほんと、ごめん」
 悠を伴って帰って来た翔一に、そう言って謝られ……、
 この女の子のことを、わかっているつもりでちっともわかっていなかった自分が、陸は情けなくなった。

 取材先に電話を入れると、今からでも大丈夫だからと言われ、陸はほっとしながら車を飛ばす。
 その短い距離の中で、どうしようもなく落ち込んでしまう気持を、仕事モードに切り替えるのに、ずいぶん苦労した。千秋がこのことを知れば、どう思うだろう。そんな不安が心から離れなくて。
 「お前のせいじゃないから、気にすんな」と、翔一は言ってくれたけれど、自分の不注意であることには変わりない。娘を委ねてくれた彼女の信頼を裏切ってしまったことが、辛かった。
 たったひとつの救いは、帰ってきた時の悠の表情だろうか。陸の顔を見るなり、自分のやってしまったことの重大さを理解した彼女は、青ざめてたちまち泣き出しそうな顔になり、
「陸、ごめん、ほんとにごめん!!」
 そう言ったきり、本当に泣き出してしまったんだった。
 この女の子に悪気はなかったこと、そしてなによりも無事でいてくれたことに、情けないほど安心してしまい、叱るよりもなによりも、思わずその場で悠を抱きしめてしまった陸なのだった。



 気まずさもやはり、会いたいという気持には勝てず、今日も陸はここへ来てしまう。渡された合鍵でドアを開け、持ち込んだノートパソコンで仕事をしながら、千秋と悠の帰りを待つ。
 本当は忙しい千秋に代わって、悠を迎えに行ってやりたいところなのだけれど、それも思ったほど簡単なことではないらしかった。物騒な昨今、迎えに来る保護者の顔はきちんと把握されねばならないらしく、ただでさえ千秋や沙希や翔一、さらには同じ園に子供を通わせる島崎やその妻までが、かわるがわる悠を連れに来るのだから、これ以上新しい顔が増えれば先生達も混乱するに違いないというのが、千秋の説明だった。
 それは彼女なりに、気をつかっての言葉なのかも知れなかったけれど…。
 自分が、この「家族」に入り込むことなど、もはや永遠に無理なのかもしれないと、いつになく弱気になる。

 昨夜遅く帰ってきた千秋は、疲れ切った表情で翔一から事の顛末を聞き、それでも決して怒ったりはしなかった。
 いや、むしろ思いっきり怒ってくれた方が、よほどましだったと陸は思う。彼女が見せた反応は、ある程度予想がつかないでもなく、そして彼にとっては一番辛いものだったから。
「陸、ごめん…」
 青ざめた顔で、瞳に涙を浮かべて、娘にそっくりな口調で謝った彼女の姿を思い出すと、今でも胸がきりきりと痛む。無理なことを頼んでごめん、大事な仕事の邪魔をしちゃってごめんと、彼女は何度も陸に謝ったのだった。陸自身に謝らせる隙など与えてくれなかった。無理なことなんかじゃなかった、仕事は大丈夫だったからと、何度説明しても、ろくに聞いてはもらえなかった。
 傍にいた翔一も、どこかしら胸の痛むような顔をして、ふたりを見守っていたことを思いだす。そしてとうとう「千秋さん、あんまり謝ったら逆に、陸が辛いから」と、諭して彼女を黙らせてくれたのだった。

「千秋さんは、真剣に、お前のこと考えてくれてるんだ。お前の負担になりたくないんだよ」
「わかってる…」
 翔一の言葉にも、苦笑して答える以外何ができただろう。わかってる…わかってるから、悔しいんじゃないか。どうにもならないもどかしさに、陸は唇をかむ。

 どうしても、入り込めない。彼女の心に、彼女の人生に…。おそらくこの先しばらく、千秋が再び娘を自分に委ねてくれることはないだろう。それは彼女が自分を信頼しないからじゃなく、彼女なりの自分に対する思いやりゆえのことなのだとわかっているだけに、切なかった。

 どうしてあいつは、あんなにも真っ直ぐで、ひたむきで、そして…鈍感なんだろう。
 謝ってなんて、欲しくなかった。あんな風に謝罪の言葉を聞くことほど、辛いことはなかった。苦労を含めた様々なことを彼女と分け合いたい。それが彼の望んでいたことだったのだから。
 どうして彼女は、その気持をわかってくれないんだろう。



 前途多難だ…。仕事を続ける気になれず、ふうとため息をついてノートパソコンを閉じたとき、玄関のチャイムが鳴った。
 誰だろう、こんな時間に…。ドアを開けたとたん、「陸、ただいまーっ!!」と悠が飛びついて来て彼は面食らう。

「あー良かった。陸、いたのか」
 後ろからほっとしたような表情で姿を見せたのは、翔一だった。
「仕事が早く終わったんで、悠を迎えに行ったんだけど、陸と遊ぶってきかなくてさ。とりあえず連れて来たんだ。こいつ、置いて行っていいか?」
 うれしそうに自分を見上げる女の子の顔を見ると、思わず頬がゆるんだ。願ってもないことで、一も二もなくうなずこうとしたのだけれど…。
「でも、千秋は…?」
 ふと思い出して躊躇してしまう。
「大丈夫、彼女にはさっき、電話で話した。陸がいたら預けるかも知れないって。今日も残業で遅くなるから、頼むってさ」
「そっ…か…」
 心ならずも、胸のどこかで何かがふっと、ほどけるのを感じる。
 ともかくも再び、彼女は悠を自分に託してくれた、名誉挽回のチャンスをくれたのだ。ただそれだけのことで、単純な心に、いっぺんに光が射した。

「翔一さん、サンキュ…」
 これから天馬の体操教室だからと、慌しく出て行こうとする翔一を呼び止め、陸は礼を言う。
 何となくこれは、彼が心を配ってくれたことという気がしたから。
 翔一は心得たように、にっと笑って答えた。
「言ったろ? 千秋さんは俺の最大のライバルだって…。お前にきちんとつかまえといてもらわなきゃ、俺も困る。それに、俺の方も感謝してるんだ。お前がいてくれるおかげで、いろいろと気が楽になったような気がしてるから」

 その言葉の意味を問う間もなく、「じゃ」と笑って、彼はドアの向こうに消えた。
 気が、楽になった…。だけどその気持は何となく陸にもわかるような気がする。彼もまた、翔一の存在に救われたことが、たびたびあったから。
 人を好きになるっていうのは、辛いことだよな…彼の言葉を思いだす。そう、確かに前途は多難だ。だけど今の自分には最大の理解者にして同志がいる。これほど心強いことはないと思えた。


 だって陸は、その男の正体を知っている。
 何しろ彼は、正義の味方。誰よりも強い、スーパーマン…なのだから…。



- END - (2004.10.01)


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