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現代伝説考(6)

---恐怖と願望のフォークロア---

****** 目次 ******

*** まえがき ***

第1章.異空間伝説
 1.試着室・トイレ・風呂場
  1-1.試着室
  1-2.トイレ
  1-3.風呂場
 2.学校・寮・下宿
  2-1.学校
  2-2.寮・下宿
 3.医学伝説
 4.劇場系
 5.特異空間
  5-1.特異な空間
  5-2.自殺の名所
  5-3.縁切り伝説
 6.異国・異界・境界
  6-1.外国
  6-2.異界
  6-3.トンネル・川
 7.密室の世界
  7-1.民家・アパート
  7-2.事業所関連
  7-3.ホテル・旅館
  7-4.百貨店
 8.二次元空間
  8-1.鏡の中
  8-2.ブラウン管の向こう

第2章.高速移動する密室・現代カー伝説
 1.事故と霊
 2.妖しげな事故
 3.車とともに移動する霊・妖怪
  3-1.高速伴走するお化け
  3-2.消えるタクシー客
  3-3.つれ去られる話
 4.車とジンクス

第3章.人体と人格のメタモルフォーシス
 1.人体断裂
 2.人体消滅
 3.人体の部分
 4.異形の人
 5.人体異常
 6.人形
  6-1.リカちゃん人形解体
  6-2.動く人形の怪
  6-3.福と呪いの人形

第4章.食の怪
 1.不気味な食品
 2.人肉食品
 3.インチキ食品
 4.食事行為
 5.ビジネスと食品

第5章.奇人・変人・怪人伝
 1.奇人・変人
 2.怪人
 3.あやしげな行為
 4.著名人・職業柄・県民性
  4-1.著名人伝説
  4-2.職業柄
  4-3.県民性

第6章.美女と湖水のフォークロア
 1.水と女
  1-1.深泥池伝説
  1-2.水と女性の霊
 2.水と死体
 3.水と霊・祟り
  3-1.水の特異空間
  3-2.過去の水・現代の水
 4.水と妖怪
  4-1.河童
  4-2.蛇
  4-3.ペットボトルと現代伝説


現代伝説考(6)

---恐怖と願望のフォークロア---

第6章.美女と湖水のフォークロア

 この最終章では幅ひろく「水」に関係する話題を集めた。現代の伝説を取りあげるにあたって、まず第1章「異空間伝説」を中心として現代人の生活空間に焦点をあてた。また第3章「人体と人格のメタモルフォーシス」を核としては、現代人の肉体と精神の関係をひろく取りあげた。ここで取りあげる「水」は、そのような現代人の体内を流れる血液であり、また都市生活者の相互間をとり結ぶ神経系統のネットワークともたとえられるであろう。

 水をいかに解釈するかによってさまざまな視点が考えられる。水に対する伝統的な心性や文明史的な観点などをふまえて論じるとなると、この小論の射程には納まりきらないであろうし、またわたしの手の及ぶところでもない。

 今回の試みではさまざまな噂話の投稿ばかりではなく、投稿者相互のあいだで熱心な議論考察もくりひろげられた。それらの見解はこの拙論でも各所で参考にさせていただいたが、とりわけ「水」に関しては次の「その筋」氏の考察が示唆的であった。本題にはいるまえに、その考察のなかの「流れる水と淀む水」の一部分を引用させていただく。

 この考察にある「流れる水と淀む水」という概念を念頭において、以下の水にちなんだ話題をながめていってみようとおもう。

1.水と女

 この項の分類で中心となる話題は、「現代カー伝説」の章でも紹介した「消えるタクシー女性客」の系列のものが典型的である。都会の道路を現代の川にたとえれば、そこを走るタクシーなどの自動車は「川を流れる水」と解釈できるだろう。そして女性客の消えさる場所は、池や湖のそばであることがおおい。ここで、その筋氏の「流れる水/淀む水」という解釈を借用すれば、女性は「流れる水」にのってやってきて「淀む水」のところで消えるということになる。

 現代人たちは、都会という川に流されて生活している。そして流されながら、どこかゆっくりと定着する場所をさまよい求めている。そのような都会人の心性を、これらの噂の背景に想定してみることができようか。とするとシートに残される水は、現代人の汗であり涙であり、かつまた唯一の危うい存在の証であるのかもしれない。

 一方で、ヒロインたる「消える女性」の解釈もやっかいなしろものである。彼女たちは、けっして母親や既婚女性の気配を感じさせず、ある種の処女性のイメージを漂わせている。あるいは、あとに残される水から妊娠出産を想定するとしても、「水子」のようなこの世に定着できないはかなさにしか結びつかないところがある。源氏物語の夕顔のような、あやうい女性像へのベクトルをもっているとも考えられるのである。

1-1.深泥池(みぞろがいけ)伝説

 「深泥池伝説」は、まず典型的な「タクシー伝説」として投稿にあらわれた。そしてそれに現代の舞台背景と今日的な解釈をしめす投稿がつづく。

 幽霊ということから、いまでも不気味な雰囲気をただよわせる深泥池とその付近にある結核病院が結びつけられる。この付近の地理を知っている人々にとっては、さしあたって妥当な結びつきであろうとおもわれる。

 ここでまた、その筋氏の「水」の解釈を援用させていただこう。陰陽五行説にもとづく解釈である。

 「形をとりきれない生命」ということに注目したい。「消える女性客」は、なにか「形」をとりきれなかった怨念から現れるのであろうか。

 さてここで、さらに「深泥池の古伝説」が登場する。

 「現代の深泥池伝説」を語りあう人々には、かならずしもこの古伝説が意識されているわけではないだろう。しかし民衆の意識の底にある古伝説が、現代深泥池伝説と重なりあって噂の重層的な立体感をかもしだしていると考えることはできる。

 「深泥池の大蛇」は何を意味するのであろうか。深泥池は、かつての都の東北部に位置し洛外にあたる。かつて都から排除された一族の、なれのはてなのかもしれない。いずれにしても、「形をとりきれない生命」であることはまちがいないであろう。

 引用の後半にあるように深泥池の後背部には、都から排除されたものどものまさに魔界の巣窟といってよいような空間がひかえている。すぐ奥の岩倉には戦前から精神病院があり、京都の住民にはよく知られている。すぐそばの結核病棟よりも、さらにいっそう排除された人々が押し込められたことであろう。

 ここでまた現代の「肉体と精神」の主題が回帰してくる。「形をとりきれない生命」は、かつて「肺病やみ」とされ遠ざけられた肉体や、「気ちがい」として排除された精神であった。しかし現代ではもはや「排除」という手法はかぎりなく無効化されつつある。エイズや癌はいわばわれわれの細胞そのものの病いであり、排除するならば原理的にはわが身そのものをも排除しなければならない。精神の病いにおいても、正常なはずのわれわれの精神との境界はほとんど取り払われつつある。

 M・フーコ流にいえば、近代理性は「狂気」を排除することにより、はじめて明瞭な形をとり得た。「明瞭な形」をとるためには、排除が不可欠であったのである。そしてその手の内が暴かれつつある現代では、安直な排除の手法は使えない。さらには上述したように、現代人にとって排除は原理的に不可能な手段であることもあきらかになりつつある。

 となれば、われわれ現代人は「形をとりきれない生命」として大都会をさまようほかないのであろうか。小栗判官の笛の音にさまよいでる深泥池の大蛇は、われわれ自身のうつし身かもしれないのである。

1-2.水と女性の霊

 ここでは、明確には「消える女性客」の形をとっていないが、水と女性の霊に関連した話題をひろく取りあげてみよう。

 キャンプ場も一種の宿泊施設であり、人のたまり場である。そしてそこにある池となれば、「淀む水」のある場所でもある。この池で自殺した女性はタクシーにこそ乗ってこなかったにしろ、死に場所をもとめてさまよってきたことであろう。「流れる水」のごとくただよってきて「淀む水」に消えた。強引な解釈とはいえ、やはりひとつの「形をとりきれない精神」が、はかなくさまよい消えていった足跡をしめす逸話ととらえてもよかろう。

 「髪の長い女性」としかしるされていないが、影のうすいうら若い美女と想像するのが噂にはふさわしい。そのような聞き手のかってな願望が、噂の伝播をささえ恐怖のロマンを形成していく。形の定まらない透明な水には、先行き不定形な処女性がなじみやすいであろうし、そしてまたその霊を感知するのも若い女性がふさわしいのであろう。

 ここでも、なぜか女性の幽霊である。水辺の幽霊には男性のもつイメージがふさわしくないのであろう。水辺に消えた女性と、そんなこと露にもおもわずロマンスをたのしむ男女を乗せた幾台もの車。亡くなった女性も、かつてはそのようにしてこの湖畔を訪れたのかもしれない。しかし、そのなれのはては水底にしずむ白骨でしかない。

 その水が、大都会の飲用水として供給されるのは皮肉である。「淀む水」に沈んだ女性は、あらためて清浄な水道水として「流れる水」に変えられていく。ひとつの「形をとりきれなかった命」などとは関係なしに、世界はまわりつづけてゆく。

 兵営は兵士のたまる場所であり、また城郭の掘という「淀む水」の場所でもある。恋する兵士に引きよせられて来た女性は、当然「流れる水」にたとえられる。戦前の、ひとつの「形をとりえなかった恋」の悲劇である。

 もうひとつ、キャンプ場の話。これには水はでてこないが、キャンプ地そのものを「淀む水」ととらえておこう。

 水はでてこないかわりに、ロウソクの火が主題になっている。火もまた「明瞭な形をとりえないもの」ではある。消えてしまった生命の火を、何度も燃やしつづけようとするはかない努力なのであろうか。

 残るひとつは遊女たちの霊の話である。

 今度は海の水に囲まれた島が舞台になっている。寄せあつめられた遊女たち自身を「淀む水」とたとえてもよいだろう。それぞれの運命を流れ流れてこの島に集められてきた逃げ場のない遊女たち。おそらくは、自らの意志とは関係なくこの島に流されてきたのであろう。

 話題は現代にもどるが、「天地真理伝説」のなかの代表的なものが「元ソープ嬢説」であった。ソープ嬢というのも現代の若い女性が都会の流れに翻弄されて流れついた「淀み」のひとつではあろう。とはいえ現代の風俗営業浴場の水は、かならずしも「淀む水」とはいえないだろう。彼女たち多くは、自らの意志でその世界に足をふみいれ、水子ならぬあまたの精虫を洗い流し、あらたな「流れる水」となっていくのかもしれない。その先には「アイドルタレント」があってもおかしくはないのである。

 ついでに、いままで別のところでとりあげた話題で「水と女性」に関連するものの小見出しをあげておこう。

 『#253-7井の頭公園の弁天様と縁切り』『#258-4用水池の口裂け女』『#395-1風呂でリカちゃん人形解体』

 これらからも、「水と女性」のもつ謎をつむぎだすことはできるだろう。とくに『リカちゃん人形解体』は、「流れる水と淀む水」の源流にある女性の原意識とでも呼ぶべき主題を含んでいるようにおもわれる。

2.水と死体

 すでに「医学伝説」でのべた「死体洗いのバイト」系列の話題である。水ないしはホルマリンに浮かぶ死体から「羊水中の胎児」という原イメージを思いうかべることはないであろうか。いずれにしろ液体中に浮遊する死体からは、火葬されたり土中に埋葬された死体とは異なった生々しい不気味さが感じられる。

 解剖用の死体を水で洗ったりホルマリン液に漬けたりという「死体洗いのバイト」は、だれもがその現場に遭遇したはずがないのにリアルな場面を思い描くことがでる。液体のもつ透明感と、死体のもつ生々しさの対比がこの現実感をかもしだすのであろう。

 われわれの人生を「流れる水」にたとえれば、その行く末が死体を漬ける「淀む水」というのはあまりにも悲惨である。そこには、われわれが存在すると信じていた精神の宿る場はまったくない。霊魂の不滅でも信じないかぎり、肉体から切り離された「形をとりそこねた精神」は、「淀む水」のなかにはかなく消えるほかないのである。

 われわれの生を「流れる水」といっても、かならずしも自然の流水とはかぎらない。さきに都会生活を水族館にたとえたが、人工の流水装置で流れをつくり出されている水槽のなかの魚にすぎないかもしれないのである。自由に泳ぎまわっているようにおもえても、ひたすら同じところをぐるぐる巡っているだけなのかもしれない。

 鮫のような魚類は、つねに泳ぎまわってエラに流水を注ぎつづけないと窒息死するらしい。われわれ現代人もまた、目的はただ「泳ぎ続けること」だけに定められてしまっているかもしれないのである。

 これもまた、すでに「風呂場伝説」の項でふれた「温泉に沈む老人死体」の関連話題である。この種の浴槽に沈む死体の系統の話は、当事者が老人であることが特長的であった。老人に起こりやすい事態であるという現実的な理由もちろんだが、多数の人の入っている風呂場で人知れず沈んでいるというところには、現代の老人の孤独といったテーマがかぶせられているとも考えられよう。

 しかしながら、もっぱら「人間スープ」になったり「人間チリ鍋」になったりと、当人に同情するのではなく突きはなした滑稽譚になっているのがほとんどであった。このあたりは、現在の老人たちの置かれている状況を物語っているかのようである。

 これも同様の孤独な死のひとつである。そして、その生の痕跡は跡形もなく取り払われる。

3.水と霊・祟り

 女性とは特定できない霊や怪異のたぐいをここに集めた。「水」が霊や祟り・因縁と結びつきやすい、といった共通項程度しかさしあたっては思いうかばない。個別の話にあたっていこう。

3-1.水の特異空間

 この井戸にはなんらかの因縁話でもあるのだろうが、この投稿文だけからはわからない。ここでは「井戸」一般のもつ意味を検討してみよう。井戸は、もちろん地下水を汲みあげる装置である。いままでおもにでてきた池や川は地表面の水であった。「流れる水/淀む水」の世界観を完成するには、「地下の水」をも考えてみなければならない。ここでも、その筋氏の考察を援用させていただく。結論部だけの引用である。

 われわれの目にふれる地表面の「流れる水/淀む水」は、地下の闇部にある「地下水」で四方八方につながっている。こう考えてはじめて「水の世界観」は完成する。となれば地表に水が噴き出したり地下に水がもぐりこむ場所は、重要な意味をもつ「境界」ととらえることができる。さきの「井戸」も、そのような意味づけをもたされているのであろう。そこに、霊や祟りがあっても当然のことになる。

 一方で、この存在構造はわれわれの「意識世界」と対応させて考えるみることもできる。われわれの自覚的な表層の意識にたいして、フロイトが発見した「深層意識(無意識)」を「地下水脈」に対応させてみよう。われわれの個別の意識はばらばらであるが、その深層では複雑な水脈でひとつにつながっている。そして、その「境界」にあたる場所で「水」が噴き出してくる。

 「噂」とは、そのような「境界」で発生してくる。となれば噂を分析することは、われわれの意識の深層をさぐることにもなる。「流れる水/淀む水」と「地下にある水」との接点から、その深層をかいまみることも可能であろう。

 その筋氏の説にそうと、農村のようなかつての集落は「淀む水」のある場所に形成された。そして、そのような村落でたくさんの民話も発酵した。近代になってから蒐集された民話の多くも、そういった村落共同体を母胎とするものであろう。そうしたリジッドな母胎をもつ民間伝承は、比較的同定しやすいだろうし考察の対象にもなりやすい。

 他方で、われわれが俎上にあげようとしている「現代伝説」とは、きわめて不定形な母胎しかもたない。「都市伝説」と呼んでみたところで、都市住民の総体から「都市の常民」といったものが抽象ができるわけでもないだろう。畢竟あやうい作業にならざるをえない。

 視線を転じて、現代都市における「水」をながめてみよう。現代の都市の多くは平野部に展開する。ここでは「流れる水/淀む水」という、自然界の水の概念は適用しづらい。むしろ都市という言葉から連想される「人工」に目をつけてみれば、われわれ都市住民のまわりには無数の「人工の水」のネットワークがある。下水道しかり、上水道しかり。このような人工の水が、蜘蛛の巣のようにはり巡らされているはずである。

 これらの水は「流れる水」であり、しかもほとんどが地中に埋められている「地下の水」でもある。そして、その上でわれわれの都市生活がいとなまれている。巨大な水槽のような都市空間で、あてどもなく泳ぎつづける現代人たち。その生活空間は、地下にはり巡らされた人工の管で維持されている。すべてが人工の水で構築された世界で、かつての人々が恐れおののいた自然の脅威とは、あたかも無縁である「かのように」生活できる。このような現代都市空間は、それ自体がひとつの「特異空間」ではなかろうか。

 冒頭の「教会の井戸」の因縁話は、礼拝におとずれる人々にとってはもはや関心をよばない。かつて「地下の水」との接点であった井戸は、すでに水道で生活する人々にとっては無縁の存在である。古井戸は、すでに「境界」としての意味を失っているのであろう。

3-2.過去の水・現代の水

 この話題には二つの伝説が重ねあわされている。ひとつは鎌倉末期のものであろう古戦場での合戦の伝承。もうひとつは、明治の末ごろにあった旧制中学生の海難事故の伝説である。前者の合戦が凄惨なものであったことは想像するまでもないが、後者の悲劇も現代が克服したかにみえる水の恐さを思いおこさせる。そのような二つの恐怖の立体構造が、この噂の基調を構成している。

 そしてまた、この二つの出来事は明治以降唱歌として歌いつがれ、それに親しんだ人の脳裏に固有の伝説を形成しているであろうことが重要である。「七里ヶ浜のいそ伝い、……」、「真白き富士の峰(ね)、緑の江ノ島、……」、このような歌詞が想いうかぶ人も多いであろう。

 名将が剣を投じたという神性をおびた海と、近代の人工もむなしく若い魂を呑みこんだ海。この二つの悲劇は、歌によって徹底的に美化され伝説化されている。そのようなロマン化された二種類の海に、さらには現代の海水浴場としての浜辺の水が重なりあう。

 現代の海水浴場は、安全に囲いこまれたいわば人工の海といってよかろう。そのような人の世界に取りこまれた「人工の水」は、本来ならばその下にはり巡らされた目には見えないもうひとつの「水のネットワーク」で、幾重にも安全が確保されているはずである。もちろん、ここでいう「水のネットワーク」がメタファーであることはいうまでもない。現実には、現代社会が構築したさまざまな安全装置をさす。

 そのような安全なはずの海水浴場が、先にのべた二つの伝説と接点でつながるとき、わすれたはずの恐怖の記憶がもどってくる。いわば「人工の水」のタガがはずれて、自然の脅威をもつ海と「境界」を接することになるのである。いうまでもなく、広大な海はまだまだ現代人に克服しきれない恐怖をたゆたえているのであろう。

 この話題も、過去の水と現代の水のもつ意味の対比がおもしろい。土地に根づいて住まっている人々にとっては、この温泉の湯のオバケはいまでも生きている。しかし、現代人としての旅行者にとっては無効であるらしい。もしこの旅行者が、土地になじんで根をはりだしたとたんにオバケはリアルな姿を見せることであろう。

 これは明治の話であっても、かつての農村伝説の色を濃く残しているものであろう。農民にとって水の重要さはいうまでもない。もちろん池は「淀む水」であり、上流からの「流れる水」をたたえるところである。もしその上流の水がこなくなれば、もうひとつの上流である空からの水に頼るしかなかろう。そして、その空からの水を求める接点も「夜叉が池」にもとめられる。その接点は、ひとりの青年の命と村人へのめぐみの雨を交換する重要な結節点でもあったのであろう。

 「水源地公園」という名称が、おのずから事の重要さをものがたっているだろう。北海道の開拓者たちの命の水であったのかもしれない。戦闘のなかったはずの北海道でその日本兵がどんな死に方をしたのかは知りすべもないが、昼ひなかでも祟るというのは興味ぶかい。

 運河とは、いうまでもなく自然の水に人工を加えることである。強引な運河工事でたくさんの悲惨な犠牲者がでたとなれば、鎮められようもない霊がさまよいでるのは無理もない。

4.水と妖怪

 今回の蒐集では、本格的な妖怪の話題は予想以上にすくなかった。その理由のひとつには、先にのべたように現代人の生活環境には妖怪が棲みづらくなっていることが考えられる。水に関連してでてきた妖怪は、水辺に棲む妖怪の代表である「河童」の話が三題、それと「蛇」が二題程度である。いずれも、躯がぬめぬめした爬虫類・両生類のたぐいである。

4-1.河童

 「河童の川流れ」というぐらいだから、おもな棲息域は「流れる水」のある川であろうが特定はしがたい。いずれにしろ河童と海とはなじみにくいので、河川や湖沼といった陸水の周辺が中心であろうかとおもわれる。

 この話題にもあるように、河童の恐怖には水死事故の不安が下敷きになっているであろう。人間が泳ぐ姿勢を考えてみると、意識の中核である頭は水面上に出て、その肉体のほとんどは水中に沈む。いわば、水面という「境界」によって身体がが二つにひきさ裂かれた異常な状況におかれるのである。しかも普段はその足をささえているはずの地面が、いまは無い。足元はまったく無防備な状態であり、そこに足を引き込む河童の不安が頭をよぎってくる。

 水中での不安は陸上での脅威とは異質である。『ジョーズ』という映画があったが、海中で鮫に襲われる恐怖には地上で猛獣に襲われるのとは異なる種類の怖さをはらんでいる。水中では手足はすべて泳ぐことについやされ、その肉体はまったくの無防備にさらされている。しかも、自分の目にはみえない足元から恐怖はやってくるのである。映画では、そのような恐怖感を巧妙に描きだしていたようにおもえた。

 頭のいただきにあるお皿が乾くとへばってしまうという滑稽な河童であるが、意外な凶暴性もみられる。子供や牛馬を川の中に引きずり込み、その尻の穴から内臓をひきだし食べてしまう習性もあるそうだ。農民にとって普段はめぐみの水をもたらす川も、一変すると凶暴な「暴れ川」の容貌をあらわす。そのような「流れる水」の凶暴さが、水の精でもある河童に託されたとしても不思議はないであろう。

 これも、水中に引き込まれる恐怖の話題である。かつての川や池は手軽な遊泳の場所でもあったろう。しかし現在ではその多くが危険な遊泳禁止地区とされたり、また泳ぐのには適さないほど汚染されたりしてしまっている。となれば河童の出没する機会もとぼしくなってしまうのは、むべなるかなである。かくして、河童はこのような浄水槽などにひっそりと潜むことになるのだろうか。

 川もないのに、河童はどこからやってくるのだろうか。「半地下の薄暗い浄水槽」というところから、あの「地下の水」との通路でもあるのかとも想像される。

4-2.蛇

 蛇は、さまざまに表象される。この「白蛇様」のように神性にまつりあげられるかとおもえば、邪悪の象徴にもなされる。人間にとって、蛇とはまさにあやしげな多義性をもった存在であろう。そのあやしさは蛇の神出鬼没性からもくるのであろうが、なによりもその足のない体型の異形性にもとづいているかとおもわれる。

 軟体動物のような下等なものをのぞいて、おおかたの動物の身体は頭・胴・足などに区分できる。そしてその区分から、ひとはその動物のあらかたの行動特性を推定することになるだろう。ところが手足のまったくない蛇からは、その特性をリアルに思い描きがたい。そのようなところから、蛇に対するさまざまな想念がわきあがってくるのではなかろうか。

 「試着室ダルマ」では、若い女性手足をもがれて蛇のように異形になる。そしてそれは、恐怖の変身のものがたりであった。「深泥池古伝説」では、池のぬしの大蛇が美女に変身するロマンでもあった。蛇とは、その固定した姿を定めがたい変成のありさまを表象している。そしてわれわれ現代人の自意識も、蛇のようにうねうねと正体を定めがたい多義性をはらんでしまっているかのようにおもわれる。

 池の水をのみにくる大蛇は、村のの娘たちを呑みこむ妖怪であるかもしれないし、大切な水を全部飲んでしまう怪物かもしれない。村の人たちにとっては、お払いをし鎮めるべき対象であろう。しかしこの水をのみにくる大蛇に、現代伝説「タクシーできて消える女性客」の幽霊を重ねあわせてみると、また別の様相が浮かびあがってくる。水をもとめて都会をさまよい、わずかな痕跡のみを残してはかなく消えてゆく現代人の姿をもものがたっているかも知れないの である。

4-3.ペットボトルと現代伝説

 この一片の追伸に端を発して、なんと30通ちかくの関連投稿がよせられた。蒐集実施時期(1994/9月-12月)には噂の最盛期で、単なる噂というより一種の社会現象の観を呈していた。やがて、家の脇に置いたペットボトルからボヤが発生する事件などがあって収束にむかったようである。

 ペットボトルとは素材を示す「P.E.T.ボトル」の意で本来愛玩動物のペットとは無関係らしいが、なぜかペットの糞尿よけ対策として家の脇に置かれるようになった。ジュースなどの入った1.8リットル程度のプラスチック容器で、どこの家庭でもでる廃棄物に水を入れるだけということで、見よう見まねで普及していったようである。

 このペットボトルの水も、やはり水道水からとった「人工の水」ではある。そして、量はわずかではあれ「淀む水」でもあろう。一方、家の前に糞尿をしていく犬や猫のペットは、迷惑をこうむる主婦などにとっては悪さをするある種の「妖怪」であるのかもしれない。ということで、このペットボトルの話題を無理矢理に「水と妖怪」の項に配列してしまおう。

 街角にペットショップの看板が目につくようになって久しい。スーパーの棚にはペットフードが山積みにされ、各家庭ではさまざまなペットが飼われている。かつては野放しがおおかった愛玩動物も、小型犬や猫などは部屋の中で生活をさせるのが普通になっている。自分の愛玩する動物は家族と同様にあつかう一方で、糞尿などのささいな迷惑をかける他人のペットは毛嫌いにする現代人の心性にはどのようなものが潜んでいるのであろうか。

 かつての村落共同体のような社会では、自分たちの生活世界とその外の区分は比較的明瞭であった。外の世界との境界も、当時の人々の意識のうちではそれなりの明示性をもっていたであろうと想像される。ところが現代では、そのような内と外の境界性ははなはだ不鮮明になり、あきらかな「内」は家庭であり自室であり、そして自己の内面世界程度にかぎられてしまっている。

 そして最後の牙城である「内」をまもるには、ドアをつけ鍵をかけてしまうほかないだろう。そういう意味では、家のそばの電柱にオシッコをかけるにくる犬猫は歓迎されざる闖入者であり、門柱のかたわらに置かれた何本ものペットボトルは「結界」の意味も託されているのであろうか。

 かつて「淀む水」に生活した村落共同体の人々は、「流れる水」と「地下の水」に自覚的であった。上流から流れてくる水と地下から湧きでてくる水は恵みの水であっただろうが、それらの水を完全にはコントロールできないものとして、その「境界」には畏れと祈りがあった。しかし現代人は、その地下の上層部にはり巡らされた「人工の水」には無頓着である。水道栓をひねれば必要な水は出てくるし、排水は流せばどこかでだれかが処理してくれる。かくして「水」の体系のもつ意味を忘れさってしまった。

 もちろんここでは、生活の必需品としての物理的な水だけをさしているのではない。水に込められた世界観としての「水」の意味である。かつて水が表象していた世界像は、われわれの意識から消えさってしまった。そしてわれわれの意識世界も、ペットボトルのような容器に詰めこまないかぎり形をもたない、ただの液体のような存在になってしまっているのではないだろうか。

 ペットボトルに詰められた「人工の水」は、そのままほうっておけば腐敗して汚濁するだけである。われわれの内面世界も、部屋に閉じこめられた愛玩動物やそれを模した縫いぐるみと同じく、まわりを囲いこんでいるばかりでは閉塞してしまうであろう。狂気を排除してクリアカットになったはずの近代理性も、現代では、ペットボトルに詰められた「人工の水」のように腐敗発酵をはじめているかのようにおもわれる。

 もちろん、いまさら過去にもどるわけにはいかない。もはや過去の伝説の輪郭をそのままなぞるのは不毛であろう。むしろ、過去の人々がその伝説にこめた意味と現代伝説との交錯するところに、現代のあらたな「水」の意味が浮かび上がってくるのかもしれない。現代の噂は、過去の民話・伝説のような鮮明な類型構造は示さない。それぞれが、かぎりなく断片的でばらばらに存在している。それは、あたかもわれわれの生活世界が断片化し散文化しているのを反映しているかのようである。

 そのような現代伝説から、かつての伝説と同じように類型構造を読みとろうとするのは不毛な迷路におちいるおそれがある。むしろ、それぞれの噂をテクストの断片として見て、それぞれの噂のあいだから浮かび上がってくる流動的な関係構造をながめてみるほかはないかとおもわれる。古典的な形態をとっているような伝説もまた、そのような読み方のなかで「現代伝説」としての姿をあらわしてくるであろう。もちろんそれは、水族館の巨大な水槽の中を泳ぎまわる魚の流れから、ある種のリズムをつむぎだそうとするような困難な作業ではあるにちがいない。

『現代伝説考』 完
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 引用元が多岐にわたるため本文中では明示しませんでしたが、以下に引用文発言者のハンドル名を記させていただきます。引用させていただいた方々に謹んで御礼申し上げます。

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入力  nani
校正  nani
公開サイト 書籍デジタル化委員会
http://www.wao.or.jp/naniuji/
(1998/10/31完成版公開)
NO.000
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1999/09/10/ver.1.01