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現代伝説考(3)

---恐怖と願望のフォークロア---

****** 目次 ******

*** まえがき ***

第1章.異空間伝説
 1.試着室・トイレ・風呂場
  1-1.試着室
  1-2.トイレ
  1-3.風呂場
 2.学校・寮・下宿
  2-1.学校
  2-2.寮・下宿
 3.医学伝説
 4.劇場系
 5.特異空間
  5-1.特異な空間
  5-2.自殺の名所
  5-3.縁切り伝説
 6.異国・異界・境界
  6-1.外国
  6-2.異界
  6-3.トンネル・川
 7.密室の世界
  7-1.民家・アパート
  7-2.事業所関連
  7-3.ホテル・旅館
  7-4.百貨店
 8.二次元空間
  8-1.鏡の中
  8-2.ブラウン管の向こう

第2章.高速移動する密室・現代カー伝説
 1.事故と霊
 2.妖しげな事故
 3.車とともに移動する霊・妖怪
  3-1.高速伴走するお化け
  3-2.消えるタクシー客
  3-3.つれ去られる話
 4.車とジンクス

第3章.人体と人格のメタモルフォーシス
 1.人体断裂
 2.人体消滅
 3.人体の部分
 4.異形の人
 5.人体異常
 6.人形
  6-1.リカちゃん人形解体
  6-2.動く人形の怪
  6-3.福と呪いの人形

第4章.食の怪
 1.不気味な食品
 2.人肉食品
 3.インチキ食品
 4.食事行為
 5.ビジネスと食品

第5章.奇人・変人・怪人伝
 1.奇人・変人
 2.怪人
 3.あやしげな行為
 4.著名人・職業柄・県民性
  4-1.著名人伝説
  4-2.職業柄
  4-3.県民性

第6章.美女と湖水のフォークロア
 1.水と女
  1-1.深泥池伝説
  1-2.水と女性の霊
 2.水と死体
 3.水と霊・祟り
  3-1.水の特異空間
  3-2.過去の水・現代の水
 4.水と妖怪
  4-1.河童
  4-2.蛇
  4-3.ペットボトルと現代伝説


現代伝説考(3)

---恐怖と願望のフォークロア---

第3章.人体と人格のメタモルフォーシス

 われわれは、自分の躯については「健常」であってほしいと願っているはずである。その躯が変形したり断裂したりする場合の恐怖と不安が、ここで取りあげる「人体変形怪談」の原点にあるとおもわれる。

 さらに、人間の躯というものはそれ自体で生々しさを感じさせるものである。それがさらに変形をこうむったり部分化されたりすることによって、不気味さや、あるいはグロテスクな滑稽さまでおびてくる。というよりむしろ、人体のもつ生々しさを昇華するために、人々は恐怖化と滑稽化の物語を作っていく傾向があるのではないかと考えられる。全体を眺めてみると、恐怖よりさらに滑稽化にまで進んだ話の多いのがこのジャンルの特長であろうか。

 このような肉体の変形は、単に物理的な身体だけの問題にはとどまらない。「精神」というものが「肉体」を超越して存在するのでないことは、近代の進展によって明白になりつつある。「肉体に問いたずねる」というニーチェの戦略をまつまでもなく、もはや精神と肉体は明瞭に分離不可能である。となれば、人体の変形は人格の変成であり多様化でもある。上記の人体の変形によるグロテスクなあらわれは、われわれ現代人の精神の不気味さをもものがたるといえよう。

1.人体断裂

 人体の一部分がちょん切れたり切り取られたりするのは、物理的生理的な痛みと恐怖を感じさせられる。そのような直接的な「怖さ」がこの種の話の原点にあると考えらるだろう。それにさらに、さまざまな話が結びついて人体断裂系の物語のバリエーションなっていく。

 さきにあげた「首チョンパ・ソアラ」のエッセンスも、そのような生理感覚にもとづいている。また「試着室ダルマ」系列の話では、若い女性が手足を切り取られたグロテスクな姿で発見される。躯をダルマにされてしまった女性は、肉体だけではなく人格の変成もよぎなくされるであろう。つぎの話では、もはやその人格そのものの存在さえゆるされていないかのようである。

 「医学伝説」で紹介した「解剖室の壁に耳あり」の噂なども、その死体の身になってみれば無惨なことである。この種の人体解体の恐怖譚の究極には「バラバラ殺人事件」が思いおこされる。

 あまりにもリアルで悲惨な話であるが、現実にひそかに語られている噂であろう。もう少し滑稽味をおびたバラバラ事件ネタをあげる。

 「人肉食の恐怖」については後述するが、解体されて食に饗されてしまっては人格もくそもない。多少なりとも生きた人間の人格にかかわってくる問題となれば、整形手術があげられる。

 整形手術の前後で人格が変わるという話は現実に聞かれる。それが性転換手術ともなれば、人格と肉体の位相のギャップを肉体の側から適合させるということになろうか。

 かつての武士社会では斬首刑が通常におこなわれた。そして、その首とは人間の魂の宿るところでもある。当然ながら、斬られた首が祟るという伝説はたくさんみられたであろう。なかでも「将門の首塚」は、東京都心のど真ん中でいまでも生きつづける「現代伝説」である。

 「将門の首」が遠方より飛来するという広大な空間の話が、首塚の地縛霊となって祟るという怨念の物語となっている。関連してよせられた将門伝説の事例を羅列してみよう。ひとつの問いかけからいくつもの一次情報がよせられるという、ネットワーク・フィールドの好適な事例でもある。

 女性の人格というものをハナから無視したような笑話をあげて、つぎにうつる。

2.人体消滅

 このテーマも人体断裂系の話の延長線上に位置づけられるであろう。人体断裂は直接的な痛みだったが、ここでは人体そのものが消滅するという恐怖が付加されてくる。まずは、いささか滑稽味のある話から。

 太古から、死への想念は人間を恐怖に直面させてきた。身近な者の死に接して、自らの死をおもいやる。自分がこの世から消えていくことは、なににもまして恐ろしいことであろう。それが観念のうえだけのことなら、宗教や哲学も畏れをいやしてくれるであろうが、おのれの躯が徐々に融けていくのを想像するとき……。これはもはや生理的な恐怖である。

 底なし沼に人知れず沈んでいく話にも、えもいわれぬ恐怖がつきまとう。これは単に死へのおそれだけではなく、徐々に沈んでいく時間の流れそのものに恐怖があるからであろう。

 自然の沼などに沈むのであれば、まだ自然への畏れといった宗教的な想念に解消も可能である。だが、たくさんの人がはたらく場所で人間の工作物に沈んでいくとなれば、もはやなんの救いもない悲惨である。巨大なダムのコンクリートに沈められた作業人の魂は、ダムにとりつく怨念にでもなって恨みをはらすしかなかろう。この種の恐怖は、E・アラン・ポー『早過ぎる埋葬』の物語を想いおこさせる。もちろんこれは、埋葬されてから息を吹きかえした人々の恐怖の物語であるが。

3.人体の部分

 人体断裂という直接的な状況がなくても、人体の一部がそれだけで存在するというのはグロテスクで不気味なものである。この系列の話題には、部分として「手や腕」の多いのが特長的だった。人間の手というものは人体の中でももっとも活動的で機能的な箇所である。したがって普段は、肉体というよりも無機的な道具に近い存在として意識されている傾向がある。それが、いったん人体から切り離されて存在すると、とたんに不気味な様相を呈してくるのである。

 蜥蜴の尻尾が切り離されても蠢いている不気味さからも、それが類推されるであろう。『寄生獣』という評判になった漫画では、腕の部分に別の生き物が寄生して本人の意志とは別の意志をもつという主題が、その物語のエッセンスとなっていた。自在に動きまわる人間の手からは、本人とはもうひとつ別の人格が想像されるのであろうか。

 心霊写真のたぐいで、だれかわからない人の手が写っているという話も多い。つぎの噂は「タクシーから消える女性客」に分類すべきものだが、関連してここで紹介しよう。

 「人体の部分」は、いたずらにも活用される。

 いたずらをしている当人が「上品な奥さん」というところが不気味である。単なるいたずら心だけではなく、なんらかの精神分析的な背景をうかがわせるような気味の悪さをも感じさせる。つぎのように、端的に「いたずら」と明示された話題もある。

 悲鳴だけではなく、人体の一部(足)が突き出されているほうが効果的であるという、人間の心理を読んだいたずらであろう。もちろん、人間の頭部というのも人をぎょっとさせる。

4.異形の人

 「首なしライダー」の話題でふれたように、奇形をあつかった噂は一般に差別や排除とむすびつきやすい傾向がある。ある種の「徴つき」の人々を、「異人」として外部に排除する性向である。あるいは自分達の側の内部がはらむ異常性への不安も、奇形への恐怖の一因として考えられよう。もし自分の近親者に異常があったら、といった不安のようなものであろうか。

 最近やっとのことで、ハンセン氏病患者への隔離政策が方向転換されたもようである。伝染性も致死率もきわめて低いこの病気に、長年にわたって隔離政策が続けられてきたのは異様ともいえる。政策関係者の対応の遅れもさることながら、やはりその背景には病状から妄想される一般民衆の偏見が大きく作用していたであろう。大衆の共同幻想は、みてくれの異様なものをどこまでも遠ざけておきたがる。そしてそれは、自らの内部にはらむ醜悪さへ目をむけないためのある種の儀式的効果をももつ。

 噂における身体異常の滑稽化も、そのような意識の一端を担っていると考えられる。

 この噂では、話の荒唐無稽さと「太郎ちゃん」の精神の健全さがすくいになっている。逆の見方をすれば、太郎ちゃんの精神の健全とその肉体の異常さの間にあるギャップが滑稽さをつむぎだしているともいえる。そして、この滑稽さは聞き手の心に負担をあたえない。両親も八百屋の親父もどこまでも善意の人であり、当の太郎ちゃんの心も健全そのものである。太郎ちゃんは肉体と精神のギャップがどこにもない「かのように」振る舞うのであり、滑稽さもそのような健全さに吸収されていく。

 しかし、太郎ちゃんの意識に焦点をあててみればすぐに判るように、そんなことは現実にはありようもない。太郎ちゃんの内面から描き出してみれば、即座にカフカの『変身』のように「肉体から排除された精神」といった実存問題がふき出してくる。肉体から排除されないためには、太郎ちゃんの精神はその手足のない肉体と同じように、のっぺらぼうな健全さをよそおうしかないのである。

 肉体と精神の問題にあまり深入りするわけにはいかないが、まったく逆の設定をして考えてみることもできる。健常な肉体に異常な精神が宿っている場合である。日常の通勤電車の中ですれ違っているなんでもない肉体の間に、とんでもない精神が入りまじっているかもしれない。こうなれば狂気の取扱いをめぐる、きわめて現代的な問題となってくるであろう。そしてそれは、われわれ個人の内面にひそむ問題でもある。

 つぎは、完全には滑稽化されえない話。

 ここでは当人が精神薄弱という設定になっているため、代わって親の意識が浮上せざるをえない。となると、とたんにグロテスクな様相を示してくる。奇形という肉体のもつグロテスクさが、親の意識を通してまわりを取り巻く人間の精神のグロテスクさに転移してあらわれてくるのである。

 差別や排除の滑稽化という共同体のもつタブーに、あえて挑戦するのを売りものにした芸人といえば北野タケシが思いうかぶ。

 タブー破りで喝采をうける一方で、それに対するやっかみも多かったであろう。事故で麻痺した異様な顔面をブラウン管に曝すことも、TV業界というせまい共同体のなかではそれなりのタブーであったはずである。となれば、そのままの顔を曝すことで彼なりの一貫性をたもったとはいえる。

 タブーといえば、共同体を構成し維持するための中心的な装置である。それを犯す者はかつては端的に排除され、それによって共同体の輪郭は明瞭に示されていた。現代社会では、タケシのようなタブー破りでさえ芸として売りものに回収されてしまう。このようななんでも呑み込んでしまう輪郭の見えない現代社会こそ、われわれのもっとも身近にある「魔物」と言えようか。

 あと二つ、差し障りのない話。

 「二分の一の人々」も「お相撲さん」も、それぞれ独自の世界を営んでいる。日常世界での交流が少なければ、差別も排除もいらず平和に共存できるということであろうか。ひっそりと暮らしている「二分の一の人々」の生活には、肥大しすぎた現代人の郷愁が投影されているのかもしれない。

5.人体異常

 なにかの要因で人体に異常現象がおこるという系列の話をここに集めた。この種の話には「だれにでも起こりうる」という共通の不安が下敷きになっていると考えられる。もっともたくさん出てきた話題が「ピアスの白い糸」であった。これは若い女性にはきわめて身近に感じられる話であろうし、整形手術など身体に手をくわえることへの畏れともつながっているだろう。

 書籍のタイトルになるほど有名な話であり、特に若い女性の間では知らないほうが少ないほど普及しているようだ。美しくなりたいという願望はだれにでもあるだろうが、とりわけ若い女性には顕著である。美しい衣装を身につけたり化粧したりという外面を装う方向もあるが、耳に穴を開けるというピアス行為にはさらにそれ以外の要素も考えられる。

 ピアスの穴を開けるというのは一種の人体加工であり、単純に耳飾りが取付けやすいという即物的な理由だけではなにか不足しているものがある。そこに潜在的な変身願望を想定してもよいし、自らの身体を傷つけるという嗜虐的な快感もともなっているのかもしれない。いずれにせよ、そこには精神と肉体のあいだにある緊張が、耳の小さな穴に集約されて出てくる瞬間がある。その緊張を取りもつ糸が「白い糸」であると想定するのは、いささか文学的すぎるであろうか。

 心と躯のアンビバレントな境位については、一般に女性のほうが鋭敏であろう。毎月の生理に悩ませられることもあろうし、出産という一大イベントも待ちかまえている。ともに、望まなくても肉体のほうから荷してくる精神への試練であり、肉体から超出した精神というたわごとがいかに虚妄かは、女性には太古の昔から自明であったろう。

 産女の話をまつまでもなく、出産というものはある種の賭の要素から免れることはできない。自らの肉体・生命だけではなく、あらたにどんな生命体が生まれてくるかも保証はない。そのような潜在的な不安が、ピアスの穴を開けるという行為に潜んでいるのかもしれない。ピアスという些細な穴にでさえ、期待と不安のいり混じったささやかな賭がこめられている。そして、「白い糸」が出てくるかもしれないのである。

 色のもつ意味あいを検討しだしたらきりがないことになる。赤が警戒色であったり特定の運命を示す色だとするなら、白は価値中立的な不確定な要素をはらんだ色とも考えることができる。「白い糸」の噂が、行く先未確定な若い女性に支持される由縁であろうか。

 ほかにも若い女性のあいだの噂には、生理感覚に直接ひびいてくるものが多く見うけられる。

 放射線や電磁波が人体に影響をおよぼすという話題も多い。現代には、さまざまな異常の原因がいつの間にか身のまわりに振りまかれているという不安感が蔓延していることを表しているといえよう。

 女性ホルモンのひき起こす笑い話もある。

 このほか食べ物が人体に影響をあたえる系列の話もあるが、これは「食の怪」の章で取り扱うことになる。

6.人形

 人形も人体変形の一部として取りあげてみよう。人形とはまさに「ヒトガタ」であり、人の身体を模したものである。となれば、ただの物体ではなくわれわれはそこになんらかの精神性を移入して取り扱うことになる。

 ヒトガタは古来から呪術の対象であり、人間はそのヒトガタに願いを託したり穢れや厄災を葬る手段として活用してきた。また人形は、呪いの原因になったり幸福のお守りにもなったりする。現代では、縫いぐるみなどを含めて主として女性の愛玩の対象となることが多いが、そこでもなんらかの感情移入がなされているはずである。

6-1.リカちゃん人形解体

 ひと時代まえに流行した「リカちゃん人形」の例から取りあげてみよう。

 人形に対する女性心理がよくうかがえる投稿である。それにしても、かわいがっている人形をバラバラにするのには、どのような心性がひそんでいるのであろうか。

 一般に子供たちは、玩具を解体するのが好きである。そのような作業をとおしてなんらかの学習をするのであろう。だが、男の子がガンダム人形のような目的志向性の強い人形を解体するのと、女の子が愛着の深い自分の分身のような人形の手足をもいでゆくのには、いささかの違いが感じられる。

 女の子が人形をだっこしたり寝かしつけたりするのは、母親のものまねであり将来の母親としての学習行為と見なすことはできる。しかしそれ以上に人形は自分の分身であり、自分と二人きりの世界をつくる無二の存在であろう。その分身にあたえる行為は、自分自身の肉体にくわえる行為という意味あいももってくる。自分の躯への加工というところで、先の「ピアスの穴」や整形手術とのつながりが見えてくる。

 男の子が昆虫などの手足をもいだりする残虐さは、なにがしか外部世界へむけられた嗜虐性という要素が感じられる。それに対して女の子の嗜虐は、どこまでも自らの精神と肉体にもぐり込んでいくかのようである。

 リカちゃん人形の「悲惨」の報告はさらにつづく。

6-2.動く人形の怪

 人形怪談の典型的なものには、深夜に人形が動きだすといったパターンが多い。ようするに、人形が魂をもった「人」に変わるという怖さである。これはやはり、人の形をした人形にはなんらかの精神を想定してしまうことからくるのであろう。

 カトリック系の学校ということで、イエスの奇跡などとの連想が重ねあわされているのかもしれない。

 恐怖よりも、滑稽方向に発展される人形ネタも多い。まじめくさった銅像の位相をすこしずらすことによって滑稽があらわれてくる。硬直した姿勢がずっこけることでおかしさが発生するという、ベルクソンが解析した笑いの構造に似たものであろうか。

 同じ滑稽譚でも、その人形のもつキャラクターにより笑いもいろいろである。とりわけ店頭に立てられている等身大のシンボル人形は、人目をひくのが狙いだけあってユニークなものが多い。

 このような、酔っぱらって店頭人形を連れてかえったという笑談はかず多くある。

 薬店の前にあるコルゲンのカエルは、奇抜な緑色をしていて河童などの妖怪を思わせるところもある。目が覚めると隣に緑色をしたカエルが居るというのは、滑稽でもあるがいささか不気味でもある。

 人形が動きだすのではなく、逆に人間が人形に変身してしまう話も古来からたくさんみられる。魔術で石像に変えられるという恐怖譚も多いが、ここでは「現代の魔術」テレビの為せる技の話。

 さすがにテレビ番組での噂だけあって知っている人が多く、次々と情報がよせられた。

 話の広がりは幅がひろく、つぎのように学者たちまでもが噂の担い手になってしまうところは滑稽である。

 最後に、人形が人間になったのか人間が人形になったのか、いづれともわけのわからない話。

 パロディのもとになる有名人のもつキャラクターに負うところの大きい噂である。もちろんこの場合は、その体型をもふくめて。

6-3.福と呪いの人形

 招き猫、達磨人形など、福を招くとされる人形のたぐいはたくさんある。いまでも商店など、どうしても偶然の影響を免れえない世界では縁起をかついで大切にされている。今回の試みでは、あまりポピュラーでない人形の問い合わせがあり、次々と報告が集められた。

 この問いかけから「ビリケンさん探し」がはじまった。このような素人情報の集積が通信ネットの醍醐味なので、関連した投稿を並べてみよう。

 驚くべきことに「ビリケンさん」が、食堂の屋号にまで使われていることが判明した。このような事実は、単なる文献検索だけでは出てこなかったであろうと思われる。いずれにせよビリケンさんは、福徳や商売繁盛を招く存在として親しまれているようである。福を招くとされる由縁はそれぞれにあるのであろうが、ここでは個別に当たるわけにもいかない。ひとつの見解として、投稿中から前村敏彰氏の考察を一部引用させていただく。

 同様の問いかけとリサーチが、「仙台四郎さま」という福徳人形についても展開された。これも投稿を連ねてみる。

 同じように「サンタクロースの衣装」の話題も出たが、これは問いかけの投稿だけにさせていただく。

 福を呼び込む人形もあれば、不幸や呪いのための人形もある。伝統的な呪いのヒトガタの代表は、丑の刻参りに使われる藁人形であろう。なんと、その「呪いの藁人形セット」が販売されているという。

 呪いの人形にまつわる怪談はたくさんあると思われるが、今回は意外に少なかった。本来は呪いの人形ではないが、ちょっとした出来事から「呪いの噂」が仕立てあげられた例。

 補足すると、プロ野球阪神タイガースが1985年に数十年ぶりに優勝したとき、狂喜したファンの群れが店頭にあったC・サンダース人形を道頓堀川に投げ込んだことから噂が発生したらしい。その後もタイガースが一向に優勝しないところから、噂の命脈は延々と保たれているようである。


「第4章.食の怪」⇒