Library 感想
千曲川のスケッチ
島崎藤村 

     序

 敬愛する吉村さん――樹(しげる)さん――私は今、序にかえて君に宛てた一文をこの書のはじめに記すにつけても、矢張呼び慣れたように君の親しい名を呼びたい。私は多年心掛けて君に呈したいと思っていたその山上生活の記念を漸く今纏めることが出来た。
 樹さん、君と私との縁故も深く久しい。私は君の生まれない前から君の家にまだ少年の身を托して、君が生れてからは幼い時の君を抱き、君をわが背に乗せて歩きました。君が日本橋久松町の小学校へ通われる頃は、私は白金の明治学院へ通った。君と私とは殆ど兄弟のようにして成長して来た。私が木曾の姉の家に一夏を送った時には君をも伴った。その時がたしか君にとっての初旅であったと覚えている。私は信州の小諸で家を持つように成ってから、二夏ほどあの山の上で妻と共に君を迎えた。その時は君は早や中学を卒えようとするほどの立派な青年であった。君は一夏はお父さんを伴って来られ、一夏は君独りで来られた。この書の中にある小諸城址の付近、中棚温泉、浅間一帯の傾斜の地なぞは君の記憶にも親しいものがあろうと思う。私は序のかわりとしてこれを君に宛てるばかりでなく、この書全部を君に宛てて書いた。山の上に住んだ時の私からまだ中学の制服を着けていた頃の君へ。これが私には一番自然なことで、又あの当時の生活の一番好い記念になるような心地(こころもち)がする。
「もっとも自分を新鮮に、そして簡素にすることはないか」
 これは私が都会の空気の中から抜け出して、あの山国へ行った時の心であった。私は信州の百姓の中へ行って種々(いろいろ)なことを学んだ。田舎教師としての私は小諸義塾で町の商人や旧士族やそれから百姓の子弟を教えるのが勤めであったけれども、一方からいえば私は学校の小使からも生徒の父兄からも学んだ。到頭七年の長い月日をあの山の上で送った。私の心は詩から小説の形式を択ぶように成った。この書の主なる土台と成ったものは三四年前ばかり地方に目していた時の印象である。
 樹さん、君のお父さんも最早(もう)居ない人だし、私の妻も居ない。私が山から下りて来てから今日までの月日は君や私の生活のさまを変えた。しかし七年間の小諸生活は私に取って一生忘れることの出来ないものだ。今でも私は千曲川(ちくまがわ)の川上から川下までを生々と眼の前に見ることが出来るような気がする。あの浅間の麓の岩石の多い傾斜のところに身を置くような気がする。あの土のにおいを嗅ぐような気がする。私がつぎつぎに公けにした「破戒」、「緑葉集」、それから「藤村集」と「家」の一部、最近の短編なぞ、私の書いたものをよく読んでいてくれる君は何程私があの山の上から深い感化を受けたかを知らるるであろうと思う。このスケッチの中で知友神津猛(こうずたけし)君が住む山村の附近を君に紹介しなかったのは遺憾である。私はこれまで特に若い読者のために書いたことも無かったが、この書はいくらかそんな積りで著した。寂しく地方に住む人達のためにも、この書がいくらかの慰めに成らばなぞとも思う。

  大正元年 冬
藤  村   

   その一

     学生の家

 知久節には、私は二三の同僚と一緒に、御牧ヶ原の方へ山遊びに出掛けた。松林の間なぞを猟師のように歩いて、小松の多い岡の上では大分蕨を採った。それから鴇窪(とぎくぼ)という村へ引返して、田舎の中の田舎とでも言うべきところで半日を送った。
 私は今、小諸の城址に近いところの学校で、君と同年位な学生を教えている。君はこういう山の上へ春がいかに待たれて、そしていかに短いものであると思う。四月の二十日頃に成らなければ、花が咲かない。梅も桜も李(すもも)も殆ど同時に開く。城址の懐古園には二十五日に祭りがあるが、その頃が花の盛りだ。すると、毎年きまりのように風雨がやって来て、一時にすべての花を浚(さら)って行って了う。私達の教室は八重桜の樹で囲繞(いにょう)されていて、三週間前ばかり前には、丁度花束のように密集したやつが教室の窓の近く咲き乱れた。休みの時間に出て見ると、濃い花の影が私達の顔にまで映った。学生等はその下を遊び廻って戯れた。殊(こと)に小学校から来たての若い生徒と来たら、あっちの樹に隠れたり、こっちの枝につかまったり、まるで小鳥のように。どうだろう、それが最早(もう)すっかり初夏の光景に変わって了った。一週間前、私は昼の弁当を食った後、四五人の学生と一緒に懐古園へ行って見た。荒廃した、高い石垣の間は、新緑で埋れていた。
 私の教えている生徒は小諸町の青年ばかりでは無い。平原(ひらはら)、小原(こはら)、山浦、大久保、西原、滋野(しげの)、その他小諸附近に散在する村落から、一里も二里もあるところを歩いて通って来る。こういう学生は多く農家の青年だ。学校の日課が済むと、彼らは各自家路を指して、松林の間を通り鉄道の線路に添い、あるいは千曲川の岸に随(つ)いて、蛙(かわず)の声などを聞きながら帰って行く。山浦、大久保は対岸にある村々だ。牛蒡、人参などの好い野菜を出す土地だ。滋野は北佐久の領分でなく、小県(ちいさがた)の傾斜にある農村で、その附近の村々から通ってくる学生も多い。
 ここでは男女(なんにょ)が烈しく労働する。君のように都会で学んでいる人は、養蚕休みなどということを知るまい。外国の田舎にも、小麦の産地などでは、学校に収穫(とりいれ)休みというものがあるとか。何かの本でそんなことを読んだことがあった。私達の養蚕休みは、それに似たようなものだろう。多忙(いそが)しい時季が来ると、学生でも家の手伝いをしなければ成らない。彼等は又、少年の時からそういう労働の手助けによく慣らされている。
 Sという学生は小原村から通って来る。ある日、私はSの家を訪ねることを約束した。私は小原のような村が好きだ。そこは生々とした樹蔭(こかげ)が多いから。それに、小諸からその村へ通う畠の間の平かな道も好きだ。
 私は盛んな青麦の香を嗅ぎながら出掛けて行った。右にも左にも麦畠がある。風が来ると、緑の波のように動揺する。その間には、麦の穂の白く光るのが見える。こういう田舎道を歩いて行きながら、深い谷底の方で起る蛙の声を聞くと、妙に私は圧(お)しつけられるような心持に成る。可怖(おそろ)しい繁殖の声。知らない不思議な生物の世界は、活気づいた感覚を通して、時々私達の心へ伝わって来る。
 近頃Sの家では牛乳屋を始めた。可成(かなり)大きな百姓で父も兄も土地では人望がある。こういう田舎へ来ると七人や八人の家族を見ることは別にめずらしくない。十人、十五人の大きな家族さえある。Sの家では年寄から子供まで、田舎風に慇懃な家族の人達が私の心を惹(ひ)いた。
 君は農家を訪れたことがあるか。入口の庭が広く取ってあって、台所の側から直(じか)に裏口へ通り抜けられる。家の建物の前に、幾坪かの土間のあることも、農家の特色だ。この家の土間は葡萄棚などに続いて、その横に牛小屋が作ってある。三頭ばかりの乳牛(ちちうし)が飼われている。
 Sの兄は大きなバケツを提げて、牛小屋の方から出て来た。戸口のところには、Sが母親と二人で腰を曲めて、新鮮な牛乳を罎詰にする支度をした。暫時(しばらく)、私は立って眺めていた。
 やがて私は牛小屋の前で、Sの兄から種々な話を聞いた。牛の性質によって温順しく乳を搾らせるのもあれば、それを惜むのもある。アバレるやつ、沈着(おちつ)いたやつ、いろいろある。牛は又、非常に鋭敏な耳を持つもので、足音で主人を判別する。こんな話が出た後で私はこういう乳牛を休養させる為に西の入りの牧場(まきば)なぞが設けてあることを聞いた。
 晩の乳を配達する用意が出来た。Sの兄は小諸を指して出掛けた。

     鉄砲虫

 この山の上で、私はよく光沢のない茶色な髪の娘に逢う。どうかとすると、灰色に近いのもある。草葺(くさぶき)の小屋の前や、桑畠の多い石垣の側なぞに、そういう娘が立っているさまは、いかにも荒い土地の生活を思わせる。
「小さな御百姓なんつものは、春秋働いて、冬に成ればそれを食うだけのものでごわす。まるで鉄砲虫――食っては抜け、食っては抜け――」
 学校の小使が私にこんなことを言った。

     烏帽子(えぼし)山麓の牧場

 水彩画家B君は欧米を漫遊して帰った後、故郷の根津村に画室を新築した。以前、私達の学校へは同じ水彩画家のM君が教えに来てくれていたが、M君は沢山信州の風景を描いて、一年ばかりで東京の方へ帰って行った。今ではB君がその後を受けて生徒に画学を教えている。B君は製作の余暇に、毎週根津村から小諸まで通って来る。
 土曜日に、私はこの画家を訪ねるつもりで、小諸から田中まで汽車に乗って、それから一里ばかり小県の傾斜を上った。
 根津村には私達の学校を卒業したOという青年が居るOは兵学校の試験を受けたいと言っているが、最早一人前の農夫として恥ずかしからぬ位だ。私はその家へも寄って、Oの母や姉に逢った。Oの母は肥満した、大きな体格の婦人で、赤い艶々とした頬の色なぞが素撲(そぼく)な快感を与える。一体千曲川の沿岸では女がよく働く、随って気象も強い。恐らく、これは都会の婦人ばかり見慣れた君なぞの想像もつかないことだろう。私は又、この土地で、野蛮な感じのする女に遭遇(であ)うこともある。Oの母にはそんな荒々しさが無い。何しろこの婦人は驚くべき強健な体格だ。Oの姉も労働に慣れた女らしい手を有っていた。
 私はB君や、B君の隣家の主人に誘われて、根津村を見て廻った。隣家の主人はB君が小学校時代からの友達であるという。パノラマのような風光は、この大傾斜から擅(ほしいまま)に望むことが出来た。遠くの谷底の方に、千曲川の流れて行くのも見えた。
 私達は村はずれの田圃道を通って、ドロ柳の若葉のかげへ出た。谷川には鬼芹(おにぜり)などの毒草が茂っていた。小山の裾を選んで、人とも草の上に足を投出した。そこでB君の友達は提げて来た焼酎を取出した。この草の上の酒盛の前を、時々若い女の連れが通った。草刈に行く人達だ。
 B君の友達は思出したように、
「君とここで鉄砲を撃ちに来て、半日飲んでいたっけナ」
 と言うと、B君も同じように洋行以前のことを思出した調子で、
「もう五年前だ――」
 と答えた。B君は写生帳を取出して、灰色なドロ柳の幹、風に動くそのやわらかい若葉などを写し写し話した。一寸散歩に出るにも、この画家は写生帳を離さなかった。
 翌日は、私はB君と二人ぎりで、烏帽子ヶ岳の麓を指して出掛けた。私が牧場のことを尋ねたら、B君も写生かたがた一緒に行こうと言出したので、到頭私は一晩厄介に成った。尤も、この村から牧場のあるところへは、さらに一里半ばかり上がらなければ成らない。案内なしに、私などの行かれる場処では無かった。
 夏山――山鶺鴒(やませきれい)――こういう言葉を聞いただけでも、君は私達の進んで行く山道を想像するだろう。「のっぺい」と称する土は乾いていて灰のよう。それを踏んで雑木林の間にある一条の細道を分けて行くと、黄勝なすずしい若葉のかげで、私達は旅の商人に逢った。
 更に山深く進んだ。山鳩なぞが啼いていた。B君は歩きながら飛騨の旅の話を始めて、十一という鳥を聞いた時の寂しかったことを言出した。「十一……十一……十一……」とB君は段々声を細くして、谷を渡って行く鳥の啼声を真似て聞かせた。そのうちに、私達はある岡の上へ出て来た。
 君、白い鈴のように垂下がった可憐な草花の一面に咲いた初夏の光に満ちた岡の上を想像したまえ。私達は、あの香気(かおり)の高い谷の百合がこんなに生えている場処があろうかとは思いもよらなかった。B君は西洋で、この花のことを聞いて来て、北海道とか浅間山脈とかにあるとは知っていたが、なにしろあまり沢山あるので終には採る気もなかった。二人とも足を投出して草の中に寝転んだ。まるで花の臥床(しとね)だ。谷の百合は一名を君影草(きみかげそう)とも言って、「幸福の帰来」を意味するなどと、花好きなB君が話した。
 話の面白い美術家と一緒で、牧場へ行き着くまで、私は倦むことを知らなかった。岡の上には到るところに躑躅(つつじ)の花が咲いていた。この花は牛が食わない為に、それでこう繁茂しているという。
 一周すれば二里あまりもあるという広々とした高原の一部が、私達の眼にあった。牛の群が見える。何と思ったか、私達の方を眼掛けて突進してくる牛もある。こうして放し飼にしてある牛の群の側を通るのは、慣れない私には気味悪く思われた。私達は牧夫の住んでいる方へと急いだ。
 番小屋は谷を下りたところにあった。そこへ行く前に沢の流れに飲んでいる小牛、蕨を採っている子供などに逢った。牛が来て戸や障子を突き破るとかで、小屋の周囲には柵が作ってある。年をとった牧夫が住んでいた。僅かばかりの痩せた畑もこの老爺が作るらしかった。破れた屋根の下で、牧夫は私達の為に湯を沸かしたり、茶を入れたりしてくれた。
 壁には鋸(のこぎり)、鉈(なた)、鎌の類を入れた「山猫」というものが掛けてあった。こんな山の中までよく訪ねてくれたという顔付で、牧夫は私達に牛飼の経験などを語り、この牧場の管理人から月に十円の手宛を貰っていることや、自分は他の牧場からこの西の入の沢へ移って来たものであることなどを話した。牛は角がかゆい、それでこすりつけるようにして、ものを破壊(こわ)して困るとか言った。今は草も短く、少ないから、草を食い食い進むという話もあった。
 牧夫は一寸考えて、見えなくなった牛のことを言出した。あの山間の深い沢を、山の湯の方へ行ったかと思う、とも言った。
「ナニ、あの沢は裾まで下りるなんてものじゃねえ。柳の葉でもこいて食ってら」
 こう復た考え直したように、その牛のことを言った。
 間もなく私達は牧夫に伴われて、この番小屋を出た。牧夫は、多くの牛が待っているという顔付で、手に塩を提げて行った。途次(みちみち)私達に向って、「この牧場は芝草ですから、牛の為に好いです」とか「今は木が低いから、夏はいきれていけません」とか、種々な事を言って聞かせた。
 ここへ来て見ると、人と牛との生涯が殆んど混り合っているかのようである。この老爺は、牛が塩を嘗めて清水を飲みさえすれば、病も癒えるということまで知悉していた。月経期の牝牛の鳴声まで聞き分ける耳を持っていた。
 アケビの花の紫色に咲いている谷を越して、復た私達は牛の群の見えるところへ出た。牧夫が近づいて塩を与えると、黒い小牛が先ず耳を振りながらやって来た。つづいて、額の広い、目付の愛らしい赤牛や、首の長い斑(ぶち)なぞがぞろぞろやって来て、「御馳走」と言わないばかりに頭を振ったり尻尾を振ったりしながら、塩の方へ近づいた。牧夫は私達に、牛もここへ来たばかりには、家を懐かしがるが、二日も経てば慣れて、強い牛は強い牛と集り、弱い牛は弱い牛と組を立てるなどと話した。向こうの傾斜の方には、臥(ね)たり起きたりして遊んでいる牛の群も見える……
 この牧場では月々五十銭ずつで諸方(ほうぼう)の持主から牝牛を預かっている。そういう牝牛が今五十頭ばかり居る。種牛は一頭置いてある。牧夫が勤めの主なるものは、牛の繁殖を監督することであった。礼を言って、私達はこの番人に別れた。

   その二

     青麦の熟する時

 学校の小使は面白い男で、私に種々な話をしてくれる。この男は小使のかたわら、自分の家では小作を作っている。それは主に年老いた父と、弟とがやっている。純小作人の家族だ。学校の日課が終わって、小使が教室々々の掃除をする頃には、頬の紅い彼の妻が子供を背負ってやって来て、夫の手伝いをすることもある。学校の教師仲間の家でも、いくらか畠のあるところへは、この男が行って野菜の手入れをして遣る。校長の家では毎年可成な農家ほどに野菜を作った。燕麦(からすむぎ)なども作った。休みの時間に成ると、私はこの小使をつかまえては、耕作の話を聞いてみる。
 私達の教員室は旧士族の屋敷跡に近くて、松林を隔てて深い谷底を流れる千曲川の音を聞くことが出来る。その部屋はある教室の階上にあたって、一方に幹事室、一方に校長室と接して、二階の一隅を占めている。窓は四つある。その一方の窓からは、郡立した松林、校長の家の草屋根などが見える。一方の窓からは、起伏した浅い谷、桑畠、竹藪などが見える。遠い山々の一部分も望まれる。
 粗末ではあるが眺望の好い、その窓の一つに倚りながら、私は小使から六月の豆蒔(まめまき)の労苦を聞いた。地を鋤くもの、豆を蒔くもの、肥料を施すもの、土をかけるもの、こう四人でやるが、土は焼けて火のように成っている、素足で豆蒔は出来かねる、草鞋(わらじ)を穿いて漸くそれをやるという。小使は又、麦作の話をしてくれた。麦一ツカ――九十坪に、粉糠一斗の肥料を要するとか。それには大麦の殻と、刈草とを腐らして、粉糠を混ぜて、麦畠に撒くという。麦は矢張小作の年貢の中に入って、夏の豆、蕎麦なぞが百姓の利得に成るとのことであった。
 南風が吹けば浅間山の雪が溶け、西風が吹けば畠の青麦が熟する。これは小使の私に話したことだ。そう言えば、なまぬるい、微な西風が私達の顔を撫でて、窓の外を通る時候に成って来た。

     少年の群

 学校の帰路に、鉄道の踏切を越えた石垣の下のところで、私は少年の群に逢った。色の黒い、二本棒の下った、藁草履を履いた子供等で、中には素足のまま土を踏んでいるのもある。「野郎」、「この野郎」、と互いに顔を引掻きながら、相撲を取って遊んでいた。
 何処の子供も一種の俳優だ。私という見物がそこに立って眺めると、彼らは一層調子づいた。これ見よがしに危い石垣の上へ登るのもあれば、「怪我しるぞ」と下に居て呼ぶのもある。その中で、体*躯*(なり)の小な子供に何歳に成るかと聞いてみた。
「おら、五歳」とその子供が答えた。
 水車小屋の向うの方で、他の少年の群らしい声がした。そこに遊んでいた子供の中には、それを聞きつけて、急に馳出(かけだ)すのもあった。
「来ねえか、この野郎――ホラ、手を引かれろ」
 とさすがに兄らしいのが、年少の子供の手を助けるように引いた。
「やい、米でも食え」
 こんなことを言って、いきなり其処にある草を毟って、朋輩の口の中へ捻込むのもあった。
 すると、片方も黙ってはいない。覚えておれと言わないばかりに、「この野郎」と叫んだ。
「畜生!」一方は軽蔑した調子で。
「ナニ? この野郎」片方は石を拾って投げつける。
「いやだいやだ」
 と笑いながら逃げていく子供を、片方は棒を持って追馳けた。乳呑児を背負ったまま、その後を追って行くのもあった。
 君、こういう光景(ありさま)を私は学校の往還(いきかえり)に毎日のように目撃する。どうかすると、大人が子供をめがけて、石を振上げて、「野郎――殺してくれるぞ」などと戯れるのを見ることもある。これが、君、大人と子供の間に極く無邪気に、笑いながら交換(とりかわ)される言葉である。
 東京の下町の空気の中に成長した君なぞに、この光景を見せたら、何と言うだろう。野蛮に相違ない。しかし、君、その野蛮は、疲れた旅人の官能に活気と刺戟とを与えるような性質のものだ。

     麦   畠

 青い野面(のら)には蒸すような光が満ちている。彼方此方の畠側にある樹木も活々とした新緑を着けている。雲雀、雀の鳴声に混って、鋭いヨシキリの声も聞こえる。
 火山の麓にある大傾斜を耕して作ったこの辺の田畠はすべて石垣によって支えられる。その石垣は今は雑草の葉で飾られる時である。石垣と共に多いのは、柿の樹だ。黄勝な、透明な、柿の若葉のかげを通るのも心地が好い。
 小諸はこの傾斜に添うて、北国街道の両側に細長く発達した町だ。本町、荒町は光岳寺を境にして左右に曲折した、主なる商家のあるところだが、その両端に市町、与良町が続いている。私は本町の裏手から停車場と共に開けた相生町の道路を横ぎり、古い士族屋敷の残った袋町を通りぬけて、田圃側(たんぼわき)の細道へ出た。そこまで行くと、荒町、与良町と続いた家々の屋敷が町の全景の一部を望むように見られる。白壁、土壁は青葉に埋もれていた。
 田圃側の草の上には、土だらけの足を投出して、あおのけさまに寝ている働き労(つか)れたらしい男があった。青麦の穂は黄緑に熟しかけていて、大根の花の白く咲き乱れたのも見える。私は石垣や草土手の間を通って石塊(いしころ)の多い細道を歩いて行った。そのうちに与良町に近い麦畠の中へ出て来た。
 若い鷹は私の頭の上に舞っていた。私はある草の生えた場所を選んで、土のにおいなどを嗅ぎながら、そこに寝そべった。水蒸気を吹くんだ風が吹いて来ると、麦の穂と穂が擦れ合って、私語(ささや)くような音をさせる。その間には、畠に出て「サク」を切っている百姓の鍬(くわ)の音もする……耳を澄ますと、谷底の方へ落ちていく細い水の響も伝わってくる。その響の中に、私は流れる砂を想像してみた。しばらく私はその音を聞いていた。しかし、私は野鼠のように、独りでそう長く草の中には居られない。乳色に曇りながら光る空なぞは、私の心を疲れさせた。自然は、私に取っては、どうしても長く熟視(みつ)めていられないようなものだ……どうかすると逃げて帰りたく成るようなものだ。
 で、復た私は起き上がった。微温い風が麦畠を渡って来ると、私の髪の毛は額へ掩い冠さるように成った。復た帽子を冠って、歩き廻った。
 畠の間には遊んでいる子供もあった。手甲をはめ、浅黄の襷を掛け、胸をあらわにして、働いている女もあった。草土手の上に寝かされた乳呑児が、急に眼を覚まして泣出すと、若い母は鍬を置いて、その児の方へ馳けて来た。そして、畠中で、大きな乳房の垂れ下がった懐をさぐらせた。私は無心な絵を見る心地がして、しばらくそこへ立って、この母子の方を眺めていた。草土手の雑草を刈取ってそれを背負って行く老婆もあった。
 与良町の裏手で、私は畠に出て働いているK君に逢った。K君は背の低い、快活な調子の人で、若い細君を迎えたばかりであったが、行く行くは新時代の小諸を形造る壮年(わかもの)の一人として、土地のものに望を嘱されている。こういう人が、畠を耕しているということも面白く思う。
 胡麻塩頭で、目が凹んで、鼻の隆い、節々のあらわれたような大きな手を持った隠居が、私達の前を挨拶して通った。腰には角の根つけの付いた、大きな煙草入をぶらさげていた。K君はその隠居を指して、この辺で第一の老農であると私に言って聞かせた。隠居は、何か思い付いたように、私達の方を振返って、白い短い髯を見せた。
 肥桶を担いだ男も畠の向を通った。K君はその男の方をも私に指して見せて、あの桶の底には必(きつ)と葱などの盗んだのが入っている、と笑いながら言った。それから、私は髪の赤白髪な、眼の色も灰色を帯びた、酒好らしい赤ら顔の農夫にも逢った。

     古城の初夏

 私の同僚に理学士が居る。物理、化学なぞを受持っている。
 学校の日課が終った頃、私はこの年老いた学士の教室の側を通った。戸口に立って眺めると、学士も授業を済ましたところであったが、まだ机の前に立って何か生徒等に説明していた。机の上には、大理石の屑、塩酸の壜、コップ、玻璃管(ガラスくだ)などが置いてあった。蝋燭の火も燃えていた。学士は、手にしたコップを少し傾(かし)げて見せた。炭素はその玻璃板の蓋の間から流れた。蝋燭の火は水を注ぎかけられたように消えた。
 無邪気な学生等は学士の机の周囲に集って、口を開いたり、目を円くしたりして眺めていた。微笑むもの、腕組するもの、頬杖突くもの、種々雑多の様子をしていた。そのコップの中へ鳥か鼠を入れるとすぐに死ぬと聞いて、生徒の一人がすっくと立上がった。
「先生、虫じゃいけませんか」
「ええ、虫は鳥などのように酸素を欲しがりませんからナ」
 問をかけた生徒は、つと教室を離れたかと思うと、やがて彼の姿が窓の外の桃の樹の側にあらわれた。
「アア、虫を取りに行った」
 と窓の方を見る生徒もある。庭に出た青年は茂った桜の枝の蔭を尋ね廻っていたが、間もなく何か捕えて戻って来た。それを学士にすすめた。
「蜂ですか」と学士は気味悪そうに言った。
「ア、怒ってる――螫(さ)すぞ螫すぞ」
 口々に言い騒いでいる生徒の前で、学士は身を反らして、螫されまいとする様子をした。その蜂をコップの中へ入れた時は、生徒等は意味もなく笑った。「死んだ、死んだ」と言うものもあれば、「弱い奴」というものもある。蜂は真理を証するかのように、コップの中でグルグル廻って、身を悶えて、死んだ。
「最早マイりましたかネ」
 と学士も笑った。
 その日は、校長はじめ、他の同僚も懐古園の方へ弓を引きに出掛けた。あの緑蔭には、同志の者が集って十五日間ばかりの矢場を造ってある。私も学士に誘われて、学校から直に城址の方へ行くことにした。
 はじめて私が学士に逢った時は、唯こんな田舎へ来て隠れている年をとった学者と思っただけで、そう親しく成ろうとは思わなかった。私達は――三人の同僚を除いては、皆な旅の鳥で、その中でも学士は幾多の辛酸を嘗め尽くして来たような人である。服装なぞに極く関わない。授業に熱心な人で、どうかとすると白墨で汚れた古洋服を碌に払わずに着ているという風だから、最初のうちは町の人からも疎んぜられた。服装と月給とで人間の価値を定めたがるのは、普通一般の人の相場だ。しかし生徒の父兄達も、次第に学士の親切な、正直な、尊い性質を認めないわけに行かなかった。これ程何もかも外部へ露出した人を、私もあまり見たことが無い。何時の間にか私はこの老学士と仲好に成って自分の身内からでも聞くように、その抑えきれないような嘆息や、内に憤る声までも聞くように成った。
 私達は揃って出掛けた。学士の口からは、時々軽い仏蘭西語なぞが流れて来る。それを聞く度に、私は学士の華やかな過去を思いやった。学士は又、そんな関わない風采の中にも、何処か往時の瀟洒なところを失わないような人である。その胸にはネキタイが面白く結ばれて、どうかすると見慣れない襟留なぞが光ることがある。それを見ると、私は子供のように噴飯したくなる。
 白い黄ばんだ柿の花は最早到る処に落ちて、香気を放っていた。学士は弓の袋や、クスネの類を入れた鞄を提げて歩きながら、
「ねえ、実はこういう話サ。私共の二番目の倅が、あれで子供仲間じゃナカナカ相撲が取れるんですトサ。此頃もネ、弓の弦を褒美に貰って来ましたがネ、相撲の方の名が可笑しいんですよ。何だッて聞きましたらネ――沖の鮫」
 私は笑わずにいられなかった。学士も笑を制えかねるという風で、
「兄の奴も名前が有るんですよ。貴様は何とつけたと聞きましたら、父さんが弓が御好きだから、よく当るように矢当りとつけましたトサ。ええ、矢当りサ。子供というものは可笑しなものですネ」
 こういう阿爺(おとっ)さんらしい話を聞きながら古い城門の前あたりまで行くと馬に乗った医者が私達に挨拶して通った。
 学士は見送って、
「あの先生も、鶏に、馬に、小鳥に、朝顔――何でもやる人ですナ。菊の頃には菊を作るし、よく何処の田舎にも一人位はああいう御医者で奇人が有るもんです。『なアに他の奴等は、ありゃ医者じゃねえ、薬売りだ、とても話せない』なんて、エライ気焔サ。でも、面白い気象の人で、在へでも行くと、薬代がなけりゃ畠の物でも何でもいいや、葱が出来たら提げて来い位に言うものですから、百姓仲間には非常に受が好い……」
 奇人はこの医者ばかりでは無い。旧士族で、閑散な日を送りかねて、千曲川へ釣に行く隠士風の人もあれば、姉と二人ぎり城門の傍に住んで、懐古園の方へ水を運んだり、役場の手伝いをしたりしている人もある。旧士族には奇人が多い。時世が、彼らを奇人にして了った。
 もし君がこのあたりの士族屋敷の跡を通って、荒廃した土塀、礎(いしずえ)ばかり残った桑畠なぞを見、離散した多くの家族の可傷(いたま)しい歴史を聞き、振返って本町、荒町の方に町人の繁昌を望むなら、「時」の歩いた恐るべき足跡を思わずにいられなかろう。しかし他の土地へ行って、頭角を顕すような新しい人物は、大抵教育のある士族の子孫だともいう。
 今、弓を提げて破戒された城址の坂道を上って行く学士も、ある藩の士族だ。校長は、江戸の御家人とかだ。休職の憲兵大尉で、学校の幹事と、漢学の教師とを兼ねている先生は、小諸藩の人だ。学士なぞは十九歳で戦争に出たこともあるとか。
 私はこの古城址に遊んで、君なぞ思いもよらないような風景を望んだ。それは茂った青葉のかげから、遠く白い山々を望む美しさだ。日本アルプスの谿々(たにだに)の雪は、ここから白壁を望むように見える。
 懐古園内の藤、木蘭(もくれん)、躑躅(つつじ)、牡丹(ぼたん)なぞは一時花と花とが映り合って盛んな香気を発したが、今では最早濃い新緑の香に変わって了った。千曲川は天主台の上まで登らなければ見られない。谷の深さは、それだけでも想像されよう。海のような浅間一帯の大傾斜は、その黒ずんだ松の木の下へ行って、一線に六月の空に横わる光景が見られる。既に君に話した烏帽子山麓の牧場、B君の住む根津村なぞは見えないまでも、そこから松林の向に指すことが出来る。私達の矢場を掩う欅、楓の緑も、その高い石垣の上から目の下に瞰下(みお)ろすことが出来る。
 境内には見晴らしの好い茶屋がある。そこに預けて置いた弓の道具を取出して、私は学士と一緒に苔蒸した石段を下りた。静かな矢場には、学校の仲間以外の顔も見えた。
「そもそも大弓を始めてから明日で一年に成ります」
「一年の御稽古でも、しばらく休んでいると、まるで当らない。なんだか串談(じょうだん)のようですナ」
「こりゃ驚いた。尺二ですぜ。しっかり御頼申(おたのもう)しますぜ」
「ボツン」
「そうはいかない――」
 こんな話が、強弓をひく漢学の先生や、体操の教師などの間に起る。理学士は一番弱い弓をひいたが、熱心でよく当った。
 古城址といえば、全く人の住まないところのように君は想像されたろう。私は残った城門の傍にある門番と、園内の茶屋とを君に紹介した。まだその外に、鶏を養う人なぞも住んでいる。この人は病身で、無聊(ぶりょう)に苦しむところから、私達の矢場の方へ遊びに来る。そして、私達の弓が揃って引絞られたり、矢の羽が頬を摺ったりする後方に居て、奇警な批評を浴びせかける。戯れに、「どうです。先生、もう弓は飽いたから――貴様、この矢場で、鳥でも飼え、なんと来た日にゃあ、それこそ此方のものだ……しかしこの弓は、永代続きそうだテ」こんなことを言って混返すので、折角入れた力が抜けて、弓も引けないものが有った。
 小諸へ来て隠れた学士に取って、この緑蔭は更に奥の方の隠れ家のように見えた。愛蔵する鷹の羽の矢が揃って白い的の方へ走る間、学士はすべてを忘れるように見えた。
 急に、熱い雨が落ちて来た。雷の音も聞えた。浅間は麓まで隠れて、灰色に煙るように見えた。いくつかの雲の群は風に送られて、私達の頭の上を山の方へと動いた。雨は通り過ぎたかと思うと復急に落ちて来た。「いよいよ本物かナ」と言って、学士は新しく自分で張った七寸的を取り除しに行った。
 城址の桑畠には、雨に濡れながら働いている人々もあった。皆なで雲行を眺めていると、初夏らしい日の光が遽(にわ)かに青葉を通して射して来た。弓仲間は勇んで一手ずつ射しはじめた。やがて復たザアと降って来た。到頭一同は断念して、茶屋の方へ引揚げた。
 私が学士と一緒に高い荒廃した石垣の下を帰って行く途中、東の空に深い色の虹を見た。実に、学士はユックリユックリ歩いた。

   その三

     山   荘

 浅間の方から落ちて来る細流は竹藪のところで二つに別れて、一つは水車小屋のある窪い浅い谷の方へ私の家の裏を横ぎり、一つは馬場裏の町について流れている。その流に添う家々は私の家の組合だ。私は馬場裏へ移ると直ぐその組合に入れられた。一体、この小諸の町には、平地というものが無い。すこし雨でも降ると、細い川まで砂を押流すくらいの地勢だ。私は本町へ買い物に出るにも組合の家の横手からすこし勾配のある道を上らねばならぬ。
 組合頭は勤勉な仕立屋の亭主だ。この人が日頃出入する本町のある商家から、商売も閑な頃で店の人達は東沢の別荘へ休みに行っている、私を誘って仕立屋にも遊びに来ないか、とある日番頭が誘いに来たとのことであった。
 私は君に古城の附近をすこし紹介した。町屋の方の話はまだ為なかった。仕立屋に誘われて商家の山荘を見に行った時のことを話そう。
 君は地方にある小さい都会へ旅したことが有るだろう。そこで行き逢う人々の多くは――近在から買物に来た男女だとか、旅人だとかで――案外町の人の少いのに気が着いたことが有るだろう。田舎の神経質はこんなところにも表れている。小諸がそうだ。裏町や、小路や、田圃側の細い道なぞを択んで、勝手を知った人々は多く往ったり来たりする。
 私は仕立屋と一緒に、町屋の軒を並べた本町の通を一瞥して、丁度そういう田圃側の道へ出た。裏側から小諸の町の一部を見ると、白壁づくりの建物が土壁のものに混って、堅く石垣の上に築かれている。中には高い三層の窓が城郭のように曇日に映じている。その建物の感じは、表側から見た暗い質素な暖簾と対照を成して土地の気質や殷富(とみ)を表している。
 麦秋だ。一年に二度ずつ黄色くなる野面が、私達の両側にあった。既に刈取られた麦畠も多かった。半道ばかり歩いて行く途中で、塩にした魚肉の薦包(こもづつみ)を提げた百姓とも一緒に成った。
 仕立屋は百姓を顧みて、
「もうすっかり植付けが済みましたかネ」
「はい、漸く二三日前に。これでも昔は十日前に植付けたものでごわすが、近頃はずっと遅く成りました。日蔭になる田にはあまり実入も無かったものだが、この節では一ぱいに取れますよ」
「暖かくなった故かナ」
「はい、それもありますが、昔と違って田の数がずっと殖えたものだから、田の水もウルミが多くなってねえ」
 百姓は眺め眺め答えた。
 東沢の山荘には商家の人達が集っていた。店の方には内儀(かみ)さん達と、二三の小僧とを残して置いて、皆なここへ遊びに来ているという。東京の下町に人となった君は――日本橋伝馬町の針問屋とか、浅草猿屋町の隠宅とかは、君にも私にも可懐(なつ)かしい名だ――恐らく私が今どういう人達と一緒に成ったか、君の想像に上るであろうと思う。
 山荘は二階建で、池を前にして、静かな沢の入口にあった。左に浅い谷を囲んだ松林の方は雲って空もよく見えなかった。快晴の日は、富士山の山巓(さんてん)も望まれるという。池の辺に咲乱れた花あやめは楽しい感じを与えた。仕立屋は庭の高麗檜葉(こうらいひば)を指して見せて、特に東京から取寄せたものであると言ったが、あまり私の心を惹かなかった。
 私達は眺望のある二階の部屋へ案内された。田舎縞の手織物を着て紺の前垂を掛けた、髪も素直に短く刈ったのが、主人であった。この人は一切の主権を握る相続者ではないとのことであったが、しかし堅気な大店(おおだな)の主人らしく見えた。でっぷり肥った番頭も傍へ来た。池の鯉の塩焼で、主人は私達に酒を勧めた。階下には五六人の小僧が居て、料理方もあれば、通いをするものもあった。
 一寸したことにも、質素で厳格な大店の家風は表れていた。番頭は、私達の前にある冷豆腐(ひややっこ)の皿にのみ花鰹節が入って、主人と自分のにはそれが無いのを見て、「こりゃ醤油ばかしじゃいけねえ。オイ、鰹節をすこしかいて来ておくれ」
 と楼梯(はしごだん)のところから階下を覗いて、小僧に吩咐(いいつ)けた。間もなく小僧はウンと大きく削った花鰹節を二皿持って上って来た。
 やがて番頭は階下から将棋の盤を運んだ。それを仕立屋の前に置いた。二枚落としでいこうと番頭が言った。仕立屋は二十年以来ぱったり止めているが、万更でも無いからそれじゃ一つやるか、などと笑った。主人も好きな道と見えて、覗き込んで、仕立屋はなかなか質(たち)が好いようだとか、そこに好い手があるとか、しきりと加勢をしたが、そのうちに客の敗と成った。番頭は盃を啣(ふく)んで、「さあ誰でも来い」という顔付をした。「お貸しなさい、敵打だ」と主人は飛んで出て、番頭を相手に差し始める。どうやら主人の手も悪く成りかけた。番町はぴッしゃり自分の頭を叩いて、「恐れ入ったかな」と舌打した。到頭主人の敗と成った。復た二番目が始まった。
 階下では、大きな巾着を腰に着けた男の児が、黒い洋犬と戯れていたが、急に家の方へ帰ると駄々をコネ始めた。小僧がもてあましているので、仕立屋も見兼ねて、子供の機嫌を取りに階下へ降りた。その時、私も庭を歩いて見た。小手毬(こでまり)の花の遅いのも咲いていた。藤棚の下へ行くと、池の中の鯉の躍るのも見えた。「こう水があると、なかなか鯉は捕まらんものさネ」と言っている者もあった。
 池を一廻りした頃、番頭は赤い顔をして二階から降りて来た。
「先生、勝負はどうでしたネ」と仕立屋が尋ねた。
「二番とも、これサ」
 番頭は鼻の先へ握り拳を重ねて、大天狗をして見せた。そして、高い、快活な声で笑った。
 こういう人達と一緒に、どちらかと言えば陰気な山の中で私は時を送った。ポツポツ雨の落ちて来た頃、私達はこの山荘を出た。番頭は半ば酔った調子で、「お二人で一本だ、相合傘というやつはナカナカ意気なものですから」
 と番傘を出して貸してくれた。私は仕立屋と一緒にその相合傘で帰りかけた。
「もう一本の持ちなさい」と言って、復た小僧が追いかけて来た。

     毒消売の女

「毒消(どくけし)は宜う御座んすかねえ」
 家々の門に立って、鋭い越後訛で呼ぶ女の声を聞くように成った。
 黒い旅人らしい姿、背中にある大きな風呂敷、日をうけて光る笠、あだかも燕が同じような勢揃いで、互いに群を成して時季を違えず遠いところからやって来るように、彼等もはるばるこの山の上まで旅して来る。そして鳥の群が彼方、此方の軒に別れて飛ぶように彼等もまた二人か三人ずつに成って思い思いの門を訪れる。この節私は学校へ行く途中で、毎日のようにその毒消売の群に逢う。彼等は血気壮んなところまで互いによく似ている。

     銀馬鹿

「何処の土地にも馬鹿の一人や二人は必ずある」とある人が言った。
 貧しい町を通って、黒い鬚の生えた飴屋に逢った。飴屋は高い石垣の下で唐人笛を吹いていた。その辺は停車場に近い裏町だ。私が学校の往還によく通るところだ。岩石の多い桑畠の間へ出ると、坂道の上の方から荷車を曳いて押流されるように降りて来た人があった。荷車には屠(ほふ)った豚の股(もも)が載せてあった。後で、あの人が銀馬鹿だと聞いた。銀馬鹿は黙ってよく働く方の馬鹿だという。この人は又、自分の家屋敷を他(ひと)に占領されてそれを知らずに働いているともいう。

     祭の前夜

 春蚕(はるこ)が済む頃は、やがて土地では、祇園祭の季節を迎える。この町で養蚕をしない家は、指折るほどしか無い。寺院の僧侶すらそれを一年の主なる収入に数える。私の家では一度も飼ったことが無いが、それが不思議に聞こえる位だ。こういう土地だから、暗い蚕棚と、襲うような臭気と、蚕の睡眠と、桑の出来不出来と、ある時は殆ど徹夜で働いている男や女のことを思ってみて貰わなければ、それから後に来る祇園祭の楽しさを君に伝えることが出来ない。
 秤を腰に差して麻袋を負ったような人達は、諏訪、松本の辺りからこの町へ入り込んで来る。旅舎(やどや)は一時繭買の群で満たされる。そういう手合が、思い思いの旅舎を指して繭の収穫を運んで行く光景も、何となく町々に活気を添えるのである。
 二十日ばかりもジメジメと降り続いた天気が、七月の十二日に成って漸く晴れた。霖雨(ながあめ)の後の日光は殊にきらめいた。長いこと煙霧に隠れて見えなかった遠い山々まで、桔梗色に顕われた。この日は町の大人から子供まで互いに新しい晴着を用意して待っていた日だ。
 私は町の団体の暗闘に就いて多少聞いたこともあるが、そんなことをここで君に話そうとは思わない。ただ、祭以前に粉擾(ごたごた)を重ねたと言うだけにして置こう。一時は祭をさせるとか、させないとかの騒ぎが伝えられて、毎年月の始めにアーチ風に作られる〆飾りが漸く七日目に町々の空へ掛った。その余波として、御輿を担ぎ込まれるが煩さに移転したと言われる家すらあった。そういう騒ぎの持上がるというだけでも、いかにこの祭の町の人から待受けられているかが分かる。多くの商人は殊に祭の賑いを期待する。養蚕から得た報酬が少なくともこの時には費されるのであるからだ。
 夜に入って、「湯立(ゆだて)」という儀式があった。この晩は主な町の人々が提灯つけて社の方へ集まる。それを見ようとして、私も家を出た。空には星も輝いた。社頭で飴菓子を売っている人に逢った。謡曲で一家を成した人物だとのことだが、最早長いことこの田舎に隠れている。
 本町の通には紅白の提灯が往来の人の顔に映った。その影で、私は鳩屋のI、紙店のKなぞの手を引き合って来るのに逢った。いずれも近所の快活な娘達だ。

     十三日の祇園

 十三日には学校でも授業を休んだ。この授業を止む休まないでは毎時(いつでも)論があって、校長は大抵の場合には休む方針を執り、幹事先生は成るべく休まない方を主張した。が、祇園の休業は毎年の例であった。
 近在の娘達は早くから来て町々の角に群がった。戸板や樽を持出し、毛布をひろげ、その上に飲食する物を売り、にわかごしらえの腰掛は張板で間に合わせるような、土地の小商人はそこにも、ここにもあった。日頃顔を見知った八百屋夫婦も、本町から市町の方へ曲がろうとする角のあたりに陣取って青い顔の亭主と肥った内儀とが互いに片肌抜(かたはだぬぎ)で、稲荷鮨を漬けたり、海苔巻を作ったりした。貧しい家の児が新調の単衣を着て何か物を配り顔に町を歩いているのも祭の日らしい。
 午後に、家のものはB姉妹の許へ招かれて御輿の通るのを見に行った。Bは清少納言の「枕の草紙」などを読みに来る人で、子供もよくその家へ遊びに行く。
 光岳寺の境内にある鐘楼からは、絶えず鐘の音が町々の空へ響いて来た。この日は、誰でも鐘楼に上って自由に撞くことを許してあった。三時頃から、私も例の組合の家について夏の日のあたった道を上った。そこを上りきったところまで行くと軒毎に青簾を掛けた本町の角へ出る。この簾は七月の祭に殊に適(ふさ)わしい。
 祭を見に来た人達は鄙びた絵巻物を繰展げる様に私の前を通った。近在の男女は風俗もまちまちで、紫色の唐縮緬の帯を幅広にぐるぐると巻付けた男、大きな髷にさした髪の飾りも重そうに見える女の連れ、男の洋傘をさした娘もあれば、綿フランネルの前垂をして尻端を折った児もある。黒い、太い足に白足袋を穿て、裾の短い着物を着た小娘もある。一里や二里の道は何とも思わずにやって来る人達だ。その中を、軽井沢辺りの客と見えて、珍しそうに眺めていく西洋の婦人もあった。町の子供はいずれも嬉しそうに群集の間を飛んで歩いた。
 やがて町の下の方から木の臼を転がして来た。見物はいずれも両側の軒下なぞへ逃げ込んだ。
「ヨイヨ、ヨイヨ」
 と掛声がして、重い御輿が担がれて来た。狭い往来の真中で、時々御輿は臼の上に置かれる。血気な連中はその周囲に取付いて、ぐるぐる廻したり、手を揚げて叫んだりする。壮んな歓呼の中に、復た御輿は担がれて行った。一種の調律は見物の身に流れ伝わった。私が戻りがけに子供まで同じ足拍子で歩いているのを見た。
 この日は、町に粉擾があった後で、何となく人の心が穏やかでなかった。六時頃に復た本町の角へ出て見た。「ヨイヨヨイヨ」という掛声までシャガレて「ギョイギョ、ギョイギョ」と物凄く聞える。人々は酒気を帯びて、今御輿が町の上の方へ担がれて行ったかと思うと急に復た下って来る。五六十人の弥次馬は狂するごとく叫び廻る。多勢の巡査や祭事掛は駈足(かえあし)で一緒に附いて歩いた。丁度夕飯時で、見物は彼方是方へ散じたが、御輿の勢は反って烈しく成った。それが大きな商家の前などを担がれて通る時は、見る人の手に汗を握らせた。
 急に御輿は一種の運動と化した。ある家の前で、衝突の先棒を振るものがある、両手を揚げて制するものがある、多数の勢に駆られて見る間に御輿は傾いて行った。その時、家の方から飛んで出て、御輿に飛付き押し廻そうとするものもあった。騒ぎに踏み敷かれて、あるものの顔から血が流れた。「御輿を下せ、御輿を下せ」と巡査が馳せ集って、烈しい論判の末、到頭輿丁(よてい)の外は許さないということに成った、御輿の周囲は白帽白服の人で護られて、「さあ、よし、持ち上げろ」などという声と共に、急に復た仲町の方角を指して担がれて行った。見物の中には突き飛ばされて、あおのけさまに倒れた大の男もあった。
「それ早く逃げろ、子供々々」
 皆な口々に罵った。
「巡査も随分御苦労なことですな」
「ほんとに好い迷惑サ」
 見物は言い合っていた。
 暮れてから町々の提灯は美しく点(とも)った。簾を捲上げ、店先に毛氈(もうせん)なぞを敷き、屏風を立て廻して、人々は端近くに坐りながら涼んでいた。
 御輿は市町から新町の方へ移った。ある坂道のところで、雨のように降った賽銭を手探りに拾う女の児なぞが有った。後には、提灯を手にして往来を探すような青砥(あおと)の子孫も顕れるし、五十ばかりの女が闇から出て、石をさぐったり、土を掴んだりして見るのも有った。さかしい慾の世ということを思わせた。
 市町の橋は、学校の植物の教師の家に近い。私の懇意なT君という医者の家にも近い。その欄干の両側には黒い影が並んで、涼しい風を楽んでいるものや、人の顔を覗くものや、胴魔声(どうまごえ)に歌うものや、手を引かれて断り言う女連れなぞが有った。
 夜の九時過に、馬場裏の提灯はまだ宵の口のように光った。組合の人達は仕立屋や質屋の前あたりに集って涼みがてら祭の噂をした。この夜は星の姿を見ることが出来なかった。蛍は暗い流の方から迷って来て、町中を飛んで、青い美しい光を放った。

     後の祭

 翌日は朝から涼しい雨が降った。家の周囲にある柿、李(すもも)なぞの緑葉からは雫が滴った。李の葉の濡れたのは殊に涼しい。
 本町の通では前の日の混雑した光景と打って変って家毎に祭の提灯を深く吊してある。紺暖簾の下に下げた簾も静かだ。その奥で煙草盆の灰吹を叩く音が響いて聞える位だ。往来には、娘子供が傘をさして遊び歩くのみだ。前の日に用いた木の臼も町の片隅に転してある。それが七月の雨に濡れている。
 この十四日には家々で強飯(こわめし)を蒸(ふか)し、煮染(にしめ)なぞを祝って遊び暮らす日であるという。午後の四時頃に成っても、まだ空は晴れなかった。烏帽子を冠り、古風な太刀を帯びて、芝居の「暫(しばらく)」にでも出て来そうな男が、神官、祭事掛、子供などと一緒に、いずれも浅黄の直垂(ひたたれ)を着けて、小雨の降る町中の〆飾を切りに歩いた。

   その四

     中   棚

 私達の教員室の窓から浅い谷が見える。そこは耕されて、桑などが植付けてある。
 こういう谷が松林の多い崖を挟んで、古城の附近に幾つとなく有る。それが千曲川の方へ落ちるに随って余程深いものと成っている。私達は城門の横手にある草地を掘返して、テニスのグランドを造っているが、その辺も矢張谷の起点の一つだ。M君が小諸に居た頃は、この谷間で水彩画を作ったこともあった。学校の体操教師の話によると、ずっと昔、恐るべき山崩れのあった時、浅間の方から押寄せて来た水がこういう変化のある地勢を造ったとか。
 八月のはじめ、私はこの谷の一つを横ぎって、中棚の方へ出掛けた。私の足はよく其方へ向いた。そこには鉱泉があるばかりでなく、家から歩いて行くには丁度頃合の距離にあったから。
 中棚の附近には豊かな耕地も多い。ある崖の上まで行くと、傾斜の中腹に小ぢんまりとした校長の別荘がある。その下に温泉場の旗が見える。林檎畠が見える。千曲川はその向を流れている。
 午後の一時過に、私は田圃側の道を通って、千曲川の岸へ出た。蘆、蓬、それから短い楊(やなぎ)などの多い石の間で、長野から来ている師範校の学生と一緒に成た。A、A、Wなどという連中だ。この人達は夏休を応用して、本を読みに私の家へ通っている。岸には、熱い砂を踏んで水泳にやって来た少年も多かった。その中には私達の学校の生徒も混っていた。
 暑くなってから、私はよく自分の生徒を連れて、ここへ泳ぎに来るが、隅田川なぞで泳いだことを思うと水瀬からして違う。青く澄んだ川の水は油のように流れていても、その瀬の激しいことと言ったら、眩暈(めまい)がする位だ。川上の方を見ると、暗い岩蔭から白波を上げて流れて来る。川下の方は又、矢のように早い.。それが五里淵の赤い崖に突き当たって、非常な勢いで落ちて行く。どうして、この水瀬が是処の岩から向うの崖下まで真直ぐに突切れるものではない。それに澄んだ水の中には、大きな岩の隠れたのがある。下手をマゴつけば押流されて了う。だから余程上の方からでも泳いで行かなければ、目的とする岩に取付いて上がることが出来ない。
 平野を流れる利根などと違い、この川の中心は岸のどちらかに激しく傾いている。私達は、この河底に露れた方に居て、溝萩(みぞはぎ)の花などの咲いた岩の蔭で、二時間ばかりを過ごした。熱い砂の上には這いのめって、甲羅を乾しているものもあった。ザンブと水の中へ飛込むものもあった。このあたりへは小娘まで遊びに来て、腕まくりをしたり、尻を端折ったりして、足を水に浸しながら余念なく遊び廻っていた。
 三つの麦藁帽子が石の間にあらわれた。師範校の連中だ。
「ちったア釣れましたかネ」と私が聞いた。
「ええ、すっかり釣られて了いました」
「どうだネ、君の方は」
「五尾ばかし掛るには掛りましたが、皆な欺されて了いました」
「む、む、二時間もあるのだから、ゆっくり言訳は考えられるサ……」
 こんなことを言って、仲間の話を混返すものもあった。
 この連中と一緒に、私は中棚の温泉の方へ戻って行った。沸し湯ではあるが、鉱泉に身を浸して、浴槽の中から外部の景色を眺めるのも心地が好かった。湯から上がっても、皆の楽みは茶でも飲みながら、書生らしい雑談に耽ることであった。葡萄棚なぞを渡って来る涼しい風は、私達の興を助けた。
「年をとれば、甘い物なんか食いたくなくなりましょうか」
 と一人が言出したのが始まりで、食慾の話がそれからそれと引出された。
「十八史略を売って菓子屋の払いをしたことも有るからナア」
「菓子もいいが、随分かかるネ」
「僕は二年ばかり辛抱した……」
「それはエラい。二年の辛抱は出来ない。僕なぞは一週間に三度と定めている」
「ところが、君、三年目となると、どうしても辛抱が出来なくなったサ」
「比頃(こないだ)、ある先生が――諸君は菓子屋へよく行そうだ、私はこれまでそういう処へ一切足を入れなかったが、一つ諸君連れてってくれ給え、こう言うじゃないか」
「フウン」
「一体諸君はよく菓子を好かれるが、一回に凡そどの位食べるんですか、と先生が言うから、そうです、まあ十銭から二十銭くらい食いますって言うと、それはエラい、そんなに食ってよく胃を害さないものだと言われる。ええ、学校へ帰って来て、夕飯を食わずにいるものも有ります、とやったさ」
「そうだがねえ、いろいろなのが有るぜ、菓子に胃散をつけて食う男があるよ」
 三人は何を言っても気が晴れるという風だ。中には、手を叩いて、踊り上がって笑うものもあった。それを聞くと、私も噴飯(ふきだ)さずにはいられなかった。
 やがて、三人は口笛を吹き吹き一緒に泊っている旅舎の方へ別れて行った。
 この温泉から石垣について坂道を上がると、そこに校長の別荘の門がある。楼の名を水明楼としてある。この建物はもと先生の書斎で、士族屋敷の方にあったのを、ここへ移して住まわれるようにしたものだ。閑雅な小楼で、崖に倚って眺望の好い位置に在る。
 先生は共立学校時代の私の英語の先生だ。あのころは先生も男のさかりで、アアヴィングの「リップ・ヴァン・ウィンクル」などを教えてくれたものだった。その先生が今ではこういうとこに隠れて、花を植えて楽んだり鉱泉に老を養ったりするような、白髯(はくぜん)の翁だ。どうかすると先生の口から先生自身がリップ・ヴァン・ウィンクルであるかのような戯談(じょうだん)を聞くこともある。でも先生の雄心は年と共に鎖磨(しょうま)し尽くすようなものでもない。客が訪ねて行くと、談論風発する。
 水明楼へ来る度に、私は先生のよく整理した書斎を見るのを楽みにする。そればかりではない、千曲川の眺望はその楼上の欄(てすり)に倚りながら恣(ほしいまま)に賞することが出来る。対岸に煙の見えるのは大久保村だ。その下に見える釣橋が戻り橋だ。川向から聞こえる朝々の鶏の鳴声、毎晩農村に点く灯の色、種々思いやられる。

     楢の樹蔭

 楢(なら)の樹蔭。
 そこは鹿島神社の境内だ。学校が休み成ってからも、私はよくその樹蔭を通る。
 ある日、鉄道の踏切を越えて、また緑草の間の小径へ出た。楢の古木には、角の短い、目の愛らしい小牛が繋いであった。しばらく私が立て眺めていると、小牛は繋がれたままでぐるぐると廻るうちに、地を引くほどの長い網を彼方此方の楢の幹へすっかり巻き付けて終った。そして、身動きすることも出来ないように成った。
向の草の中には、赤い馬と白い馬とが繋いであった。

   その五

     山の温泉

 夕立ともつかず、時雨ともつかないような、夏から秋に移り変る時の短い雨が来た。草木にそそぐ音は夕立ほど激しくない。最早初茸を箱に入れて、木の葉のついた樺色なやつや、緑青(ろくしょう)がかったやつなぞを近在の老婆達が売りに来る。
 一月ばかり前に、私は田沢温泉という方へ出掛けて行って来た。あの話を君にするのを忘れた。
 温泉地にも種々あるが、山の温泉には別種の趣がある。上田町に近い別所温泉なぞは開けた方で、随って種々の便利も具わっている。しかし山国らしい温泉の感じは、反って不便な田沢、霊泉寺などに多く味われる。あの辺にも相応な温泉宿は無いではないが、なにしろ土地の者が味噌や米を携えて労苦を忘れに行くという場所だ。自炊する浴客が多い。宿では部屋だけでも貸す。それに部屋付の竈(かまど)が具えてある。浴客は下駄穿のまま庭から直に楼梯段を上って、楼上の部屋へ通うことも出来る。この土足で昇降の出来るように作られた建物を見ると、山深いところにある温泉宿の気がする。鹿沢温泉(山の湯)と来たら、それこそ野趣に富んでいるという話だ。
 半ば緑葉に包まれ、半ば赤い崖になった山脈に添うて、千曲川の激流を左に望みながら、私は汽車で上田まで乗った。上田橋――赤く塗った鉄橋――あれを渡る時は、大河らしい千曲川の水を眼下に眺めて行った。私は上田附近の平地にある幾多の村落の間を歩いて通った。あの辺はいかにも田舎道らしい気のするところだ。途中に樹蔭もある。腰かけて休む粗末な茶屋もある。
 青木村というところで、いかに農夫等が労苦するかを見た。彼等の背中に木の葉を挿して、それを僅かの日除(ひよけ)としながら、田の草を取って働いていた。私なぞは洋傘でもなければ歩かれない程の熱い日ざかりに。この農村を通り抜けると、すこし白く濁った川に随いて、谷深く坂道を上るように成る。川の色を見ただけでも、湯場に近づいたことを知る。そのうちに、こんな看板の掛けてあるところへ出た。
 ┌───────┐
 │本湯□みやばら│
 └───────┘
 升屋というは眺望の好い温泉宿だ。湯川の流れる音が聞こえる楼上で、私達の学校の校長の細君が十四五人ばかりの女性とを連れて来ているのに逢った。この娘達も私が余暇に教えに行く方の生徒だ。
 楼上から遠く浅間一帯の山々を望んだ。浅間の見えない日は心細い、などと校長の細君は話していた。
 十九夜の月の光がこの谷間に射し入った。人々が多く寝静まった頃、まだ障子を明るくして、盛んに議論している浴客の声も聞こえた。
「身体は小さいけれど、そんな野蛮人じゃねえ」
 理窟ッぽい人達の言いそうな言葉だ。
 翌日は朝霧の籠った谿谷に朝の光が満ちて、近い山も遠く、家々から立登る煙は霧よりも白く見えた。浅間は隠れた。山のかなたは青がかった灰色に光った。白い雲が山脈に添うて起るのも望まれた。国さんという可憐の少年も姉娘に附いて来ていて、温泉宿の二階で玩具の銀笛を吹いた。
 そこは保福寺(ほうふくじ)峠と地蔵峠に挟まれた谷間だ。二十日の月はその晩も遅くなって上った。水の流が枕に響いて眠られないので、一旦寝た私は起きて、こういう場所の月夜の感じを味った。高い欄に倚凭(よりかか)って聞くと、さまざまの虫の声が水音と一緒に成って、この谷間に満ちていた。その他暗い沢の方には種々な声があった。――遅くなって戸を閉める音、深夜の人の話し声、犬の啼声(なきごえ)、楽しそうな農夫の唄。
 四日目の朝まだ暗いうちに、私達は月明りで仕度して、段々夜の明けて行く山道を別所の方へ越した。

     学窓の一

 夏休みも終わって、復た私は理学士やB君や、それから植物の教師などと学校でよく顔を合せるように成った。
 秋の授業を始める日に、まだ桜の葉の深く重なり合ったのが見える教室の窓の側で、私は上級の生徒に釈迦の話をした。
 私は『釈迦譜(しゃかふ)』を選んだ。あの本の中には、王子の一生が一篇の戯曲を読むように写出してある。あの中から私は釈迦の父王の話、王子の若い友達の話なぞを借りて来て話した。青年の王子が憂愁に沈みながら、東西南北の四つの城門から樹園の方へ出て見るという一節は、私の生徒の心をも引いたらしい。一つの門を出たら、病人に逢った。人は病まなければ成らないかと王子は深思した。他の二つの門を出ると、老人に逢い、死者に逢った。人は老いなければ成らないか、人は死ななければ成らないか。この王子の逢着する人生の疑問がいかにも簡素に表してある。最後に出た門の外で道者に逢った。そこで王子は心を決して、この Life を解かんが為に、あらゆるものを破り捨てて行った。
 戯曲的ではないか。少年の頭脳にも面白いように出来ているではないか。私はこんな話を生徒にした後で、多勢居る諸君の中には実業に志すものもあろうし、軍人になろうというものもあろう、しかし諸君の中にはせめてこの青年の王子のように、あらゆるものを破り捨てて、坊さんのような生涯を送る程の意気込もあって欲しい、と言って聞かせた。
 私は生徒の方を見た。生徒は私の言った意味を何と釈(と)ったか、いずれも顔を見合せて笑った。中には妙な顔をして、頭を擁えているものもあった。

     学窓の二

 樹木が一年に三度ずつ新芽を吹くとは、今まで私は気がつかなかった。今は九月の若葉の時だ。
 学校の校舎の周囲には可成多くの樹木を植えてある。大きな桜の実の熟す頃なぞには、自分等の青年時代のことまでも思い起させたが、こうして夏休過に復たこの庭へ来て見ると、何となく白ッぽい林檎の葉や、紅味を含んだ桜や、淡々しい青桐などが、校舎の白壁に映り合って、楽しい陰日向(かげひなた)を作っている。楽しそうに吹く生徒の口笛が彼方此方に起る。テニスのコートを城門の方へ移してからは、桜の葉陰で角力を取るものも多い。
 学校の帰りに、夏から病んでいるBの家を訪ねた。その家の裏を通り抜けて石段を下りると、林檎の畠がある。そこにも初秋らしい日が映っていた。

     田舎牧師

 朝顔の花を好んで毎年培養する理学士が、ある日学校の帰途に、新しい弟子の話を私にして聞かせた。
 弟子と言っても朝顔を培養する方の弟子だ。その人は町に住む牧師で、一部の子供から「日曜学校の叔父さん」と懐かしがられている。
 この叔父さんの説教最中に夕立が来た。まだ朝顔の弟子入をしたばかりの時だ。彼の心は毎日楽しんでいる畑の方へ行った。大事な貝割葉(かいわれば)の方へ行った。雨に打たれる朝顔鉢の方へ行った。説教そこそこにして、彼は夕立の中を朝顔棚の方へ駈出した。 「いかにも田舎の牧師さんらしいじゃ有りませんか」と理学士はこの新しい弟子の話をして、笑った。その先生はまた、火事見舞に来て、朝顔の話をして行くほど、自分でも好きな人だ。

     九月の田圃道

 傾斜に添うて赤坂(小諸町の一部)の家つづきの見えるところへ出た。
 浅間の山麓にあるこの町々は眠から覚めた時だ。朝餐(あさげ)の煙は何となく湿った空気の中に登りつつある。鶏の声も遠近(おちこち)に聞こえる。
 熟しかけた稲田の周囲には、豆も莢(さや)を垂れていた。稲の中には既に下葉の黄色くなったのも有った。九月も半ば過ぎだ。稲穂は種々で、あるものは薄の穂の色に見え、あるものは全く草の色、あるものは赤毛の房を垂れたようであるが、その中で濃い茶褐色の糯(もちごめ)を作った田であることは、私にも見分けがつく。
 朝日は谷々へ射して来た。
 田圃道の草露は足を濡らして、かゆい。私はその間を歩き廻って、蟋蟀(こおろぎ)の啼くのを聞いた。
 この節、浅間は日によって八回も煙を噴くことがある。
「ああ復た浅間が焼ける」と土地の人は言い合うのが癖だ。男や女が仕事しかけた手を休めて、屋外へ出て見るとか、空を仰ぐとかする時は、きっと浅間の方に非常に大きな煙の団(かたまり)が望まれる。そういう時だけ火山の麓に住んでいるような心地を起させる。こういうところに住み慣れたものは、平素は、そんなことも忘れ勝ちに暮らしている。
 浅間は大きな爆発の為に崩されたような山で、今いう牙歯山(ぎっぱやま)が往時の噴火口の跡であったろうとは、誰しも思うことだ。何か山の形状に一定した面白味でもあるかと思って来る旅人は、大概失望する。浅間ばかりでなく、蓼科山脈の方を眺めても、何の奇も無い山々ばかりだ。唯、面白いのは山の空気だ。昨日出て見た山と、今日出て見た山とは、殆ど毎日のように変っている。

     山中生活

 理学士の住んでいる家のあたりは、荒町の裏手で、酢屋のKという娘の家の大きな醤油蔵の窓なぞが見える。その横について荒町の通へ出ると、畳表、鰹節、茶、雑貨などを商う店々の軒を並べたところに、可成り大きな鍛冶屋がある。高い暗い屋根の下で、古風な髷に結った老爺が鉄槌の音をさせている。
 この昔気質の老爺が学校の体操教師の父親さんだ。
 朝風の涼しい、光の熱い日に、私は二人ばかり学生を連れて、その家の鍛冶場の側を裏口へ通り抜け、体操の教師と一緒に浅間の山腹を指して出掛けた。
 山家と言っても、これから私達が行こうとしているところは真実の山の中だ。深い山林の中に住む人達の居る方だ。
 粟、小豆、飼馬(かいば)の料にするとかいう稗なぞの畠が、私達の歩いて行く岡辺の道に連なっていた。花の白い、茎の紅い蕎麦の畠なぞも到るところにあった。秋のさかりだ。体操の教師は耕作のことに委しい人だから、諸方(ほうぼう)に光って見える畠を私に指して見せて、あそこに大きな紫紅色の葉を垂れたのが「わたり粟」というやつだとか、こっちの方に細い青黒い莢を垂れたのが「こうれい小豆」という種類だとか、御蔭で私は種々なことを教えて貰った。この体操教師は稲田を眺めたばかりで、その種類を区別するほど明るかった。
 五六本松の岡に倚って立っているのを望んだ。囁道祖神(ささやきどうそじん)のあるのは其処だ。
 寺窪というところへ出た。農家が五六軒ずつ、ところどころに散在するほどの極く辺鄙な山村だ。君に黒斑山(くろふやま)のことは未だに話さなかったかと思うが、矢張浅間の山つづきだ。ホラ、小諸の城址にある天主台――あの石垣の上の松の間から、黒斑のように見える山林の多い高い傾斜、そこを私は今歩いて行くところだ。あの天主台から黒斑山の裾にあたって、遠く点のような白壁を一つ望む。その白壁の見えるのもこの山村だ。
 塩俵を負って腰を曲めながら歩いて行く農夫があった。体操の教師は呼び掛けて、
「もう漬物ですか」と聞いた。
「今やりやすと二割方得ですよ」
 荒い気候と戦う人達は今から野菜を貯えること考えると見える。
 前の前の晩に降った涼しい雨と、前の日の好い日光とで、すこしは蕈(きのこ)の獲物もあるだろう。こういう体操教師の後に随いて、私は学生と共に松林の方へ入った。この松林は体操教師の持山だ。松葉の枯れ落ちた中に僅かに数本の黄しめじと、牛額(うしべたい)としか得られなかった。それから笹の葉の間なぞを分けて、「部分木(ぶぶんぼく)の林」と称える方に進み入った。
 私達は可成深い松林の中へ来た。若い男女の一家族と見えるのが、青松葉の枝を下したり、それを束ねたりして働いているのに逢った。女の方は二十前後の若い妻らしい人だが、垢染みた手ぬぐいを冠り、襦袢肌抜ぎ尻端折という風で、前垂を下げて、藁草履を穿いていた。赤い荒くれた髪、粗野な日に焼けた顔は、男とも女ともつかないような感じがした。どう見ても、ミレエの百姓画の中に出て来そうな人物だ。
 その弟らしいのが三四人、どれもこれも黒い垢のついた顔をして、髪はまるで蓬のように見えた。でも、健かな、無心な声で、子供らしい唄を歌った。
 母らしい人も林の奥から歩いて来た。一同仕事を休めて、私達の方をめずらしそうに眺めていた。
 この人達の働くあたりから岡つづきに上って行くとこう平坦な松林の中へ出た。刈草を負った男が林の間の細道を帰って行った。日は泄(も)れて、湿った草の上に映っていた。深い林の中の空気は、水中を行く魚かなんぞのようにその草刈男を見せた。
 がらがらと音をさせて、柴を積んだ車も通った。その音は寂しい林の中に響き渡った。
 熊笹、柴などを分けて、私達は蕈を探し歩いたが、その日は獲物は少なかった。枯葉を鎌で掻除けて見ると稀にあるのは紅蕈という食われないのか、腐敗した初蕈(はつだけ)位のものだった。終には探し疲れて、そうそうは腰も言うことを聞かなく成った。軽い腰籠(こしご)を提げたまま南瓜(かぼちゃ)の花の咲いた畠のあるところへ出て行った。山番の小屋が見えた。

     山   番

 番小屋の立っているところは尾の石と言って、黒斑山の直ぐ裾にあたる。
 三峯神社とした盗賊除(とうなんよけ)の御礼を貼付けた馬小屋や、萩なぞを刈って乾してある母屋の前に立って、日の映った土壁の色なぞを見た時は、私は余程人里から離れた気がした。
 鋭い眼付きの赤犬が飛んで来た。しきりと私達を怪しむように吠えた。この犬は番人に飼われて、種々な役に立つと見えた。
 番小屋の主人が出て来て私達を迎えてくれた頃は、赤犬も頭を撫でさせるほどに成った。主人は鬚も剃らずに林の監督をやっているような人であった。細君は襷掛(たすきがけ)で、この山の中に出来た南瓜なぞを切りながら働いていた。
 四人の子供も庭へ出て来た。一晩年長は最早十四五になる。狭い帯を〆て藁草履なぞを穿いた、しかし髪の黒い娘だ。年少の子供は私達の方を見て、何となくキマリの悪そうな羞を帯びた顔付きをしていた。その側には、トサカの美しい、白い雄鳥が一羽と、灰色な雌鳥が三羽ばかりあそんでいたが、やがてこれも裏の林の中へ隠れて了った。
 小屋は二つに分れて、一方の畳を敷いたところは座敷ではあるが、実際平素は寝室と言った方が当っているだろう。家族が食事をしたり、茶を飲んだり、客を迎えたりする炉端の板敷には薄縁(うすべり)を敷いて、耕作の道具食器の類はすべてその辺に置き並べてある。何一つ飾りの無い、煤けた壁に、石版画の彩色したのや、木版刷の模様のついた暦なぞが貼付けてあるのを見ると、そんな粗末な版画でも何程かこの山の中に住む人達の眼を悦ばすであろうと思われた。暮の売出しの時に、近在から町へ買物に来る連中がよくこの版画を欲しがるのも、無理は無いと思う。
 私達は草鞋掛のまま炉端で足を休めた。細君が辣韮(らっきょう)の塩漬にしたのと、茶を出して勧めてくれた。乾いた私達の口には小屋で飲んだ茶がウマかった。冬はこの炉に焚火を絶やしたことが無いと、主人が言った。ここまで上ると、余程気候も違う。
 一緒に行った学生は、小屋の裏の方まで見に廻って、柿は植えても渋が上がらないことや、梅もあるが味が苦いことや、桃だけはこの辺の地味にも適することなど種々な話を主人から聞いて来た。
 やがて昼飯時だ。
 庭の栗の樹の蔭で、私達は小屋で分けて貰った蕈を焼いた。主人は薄縁を三枚ばかり持って来て、樹の下へ敷いてくれた。そこで昼飯が始った。細君は別に鶏と茄子の露、南瓜の煮付を馳走振(ちそうぶり)に勧めてくれた。いずれも大鍋にウンとあった。私達は各自手盛でやった。学生は握飯、パンなぞを取出す。体操の教師はまた、好きな酒を用意してくることを忘れなかった。
 この山の中で林檎を試植したら、地梨(じなし)の虫が上って花の蜜を吸う為に、実らずに了った。これは細君が私達の食事する側へ来ての話だった。赤犬は廻って来て、生徒が投げてやる鳥の骨をシャブった。
 食後に、私達は主人に案内されて、黒い土の色の畠の方まで見て廻った。主人の話によると、松林の向うには三千坪ほどの桑畠もあり、畠はその三倍もあって大凡(おおよそ)一万坪の広い地面だけあるが、自分の代となってからは家族も少(すくな)し、手も届きかねて、荒れたままに成っているところも有る、とのことだ。
 私達が訪ねて来たことは、余程主人の心を悦ばせたらしい。主人はむッつりとした鬚のある顔に似合わず種々な話をした。蕎麦は十俵の収穫があるとか、試植した銀杏、杉、竹などは大半枯れ消えたとか、栗も十三俵ほど播いてみたが、十四度も山火事に逢ううちに残ったのは既に五六間の高さに成ってよく実りはするけれども、樹の数は焼けて少いとか話した。
 落葉松(からまつ)の畠も見えた。その苗は草のように嫩(やわら)かで、日をうけて美しくかがやいていた。畠の周囲には地梨も多い。黄に熟したやつは草の中に隠れていても、直ぐと私達の眼についた。尤も、あの実は私達にはめずらしくも無かったが。
 主人は又、山火事の恐ろしいことや、火に追われて死んだ人のことを話した。これから一里ばかり上ったところに、炭焼小屋があって、今は椚(くのぎ)の木炭を焼いているという話もした。
 この山番のある尾の石は、高峰と称える場所の一部とか。尾の石から菱野の湯までは十町ばかりで、毎日入湯に通うことも出来るという。菱野と聞いて、私は以前家へ子守に来ていた娘のことを思出した。あの田舎娘の村は菱野だから。
 土地案内を知った体操教師の御蔭で、めずらしいところを見た。こうした山の中は、めったに私なぞの来られる場所では無い。一度私は歴史の教師と連立ってここよりもっと高い位置にある番小屋へ泊ったことも有る。
 彼処(あそこ)はまた開墾したばかりで、ここほど林が深くなかった。
 別れを告げて尾の石を離れる前に、もう一度私達は番小屋の見える方を振返った。白樺なぞの湿った木立の中に、小屋へ通う細い坂道、岡の上の樹木、それから小屋の屋根なぞが見えた。
 白樺の幹は何処の林にあっても眼につくやつだが、あの山桜を丸くしたような葉の中には最早(もう)美しく黄ばんだのも混っていた。

   その六

     秋の修学旅行

 十月のはじめ、私は植物の教師T君と一緒に学生を引連れて、千曲川の上流を指して出掛けた。秋の日和で楽しい旅を続けることが出来た。この修学旅行には、八つが岳の裾から甲州へ下り、甲府へ出、それから諏訪へ廻って、そこで私達を待受けていた理学士、水彩画家B君、その他同僚とも一緒に成って、和田の方から小諸へ戻って来た。この旅には殆ど一週間を費した。私達は蓼科、八つが岳の長い山脈について、あの周囲を大きく一廻りしたのだ。
 その中でも、千曲川の上流から野辺山が原へかけては一度私が遊びに行ったことのあるところだ。その時は近所の仕立屋の亭主と一緒だった。この旅で、私は以前の記憶を新しくした。その話を君にしようと思う。

     甲州街道

 小諸から岩村田町へ出ると、あれから南に続く甲州街道は割合に平坦な、広々とした谷を貫いている。黄ばんだ、秋らしい南佐久の領分が私達の眼前に展けて来る。千曲川はこの田畠の多い谷間を流れている。
 一体、犀川(さいかわ)に合するまでの千曲川は、殆んど船の影を見ない。唯、流れるままに任せてある。この一事だけで、君はあの川の性質と光景とを想像することが出来よう。
 私は、佐久、小県(ちいさがた)の高い傾斜から主に谷底の方へ下瞰(みおろ)した千曲川のみ君に語っていた。今、私達が歩いて行く地勢は、それと趣を異にした河城だ。臼田、野沢の町々を通って、私達は直ぐ河の流に近いところへ出た。
 馬流(まながし)というところまで岸に添うて遡ると河の勢も確かに一変して見える。その辺には、川上から押流されて来た恐ろしく大きな石が埋っている。その間を流れる千曲川は大河というよりも寧ろ大きな谿流(けいりゅう)に近い。この谿流に面した休茶屋には甲州屋としたところもあって、そこまで行くと何となく甲州に近づいた気がする。山を越して入込んで来るという甲州商人の往来するのも見られる。
 馬流の近くで、学生のTが私達の一行に加わった。Tの家は宮司(ぐうじ)で、街道からすこし離れた幽邃(ゆうすい)な松原湖の畔にある。Tは私達を待受けていたのだ。
 白揚(どろ)、蘆、楓、漆、樺、楢などの類が、私達の歩いて行く河岸に生い茂っていた。両岸には、南牧、北牧、相木などの村々を数えることが出来た。水に近く設けた小さな水車小屋も到るところに見られた。八つが岳の山つづきにある赤々とした大崩壊の跡、金峯(きんぷ)、国師、甲武信(こぶし)、三国の山々、その高く聳えた頂、それから名も知られない山々の遠く近く重なり合った姿が、私達の眺望の中に入った。
 日が傾いて来た。次第に私達は谷深く入ったことを感じた。
 時々私はT君と二人で立止って、川上から川下の方へ流れて行く水を見送った。その方角には、夕日が山から山へ反射して、深い秋らしい空気の中に遠く炭焼の烟の立登るのも見えた。
 この谷の尽きたところに海の口村がある。何となく川の音も耳について来た。暮れてから、私達はその村へ入った。

     山村の一夜

 この山国の話の中に、私はこんなことを書いたことが有った。
「清仏戦争の後、仏蘭西兵の用いた軍馬は吾陸軍省の手で買取られて、海を越して渡って来ました。その中の十三頭が種馬として信州へ移されたのです。気象雄健なアルゼリイ種の馬匹(ばひつ)が南佐久の奥へ入りましたのは、この時のことで、今日一口に雑種と称えているのは、専にこのアルゼリイ種を指したものです。その後亜米利加産の浅間号という名高い種馬も入込みました。それから次第に馬匹の改良が始まる、野辺山が原の馬市は一年増に盛んに成る、その噂が某の宮殿下の御耳まで届くように成りました。殿下は陸軍騎兵附の大佐で、かくれもない馬好きですから、御寵愛のファラリイスと云(いう)亜刺比亜(アラビア)産を種馬として南佐久へ御貸付になりますと、さあ人気が立ったの立たないのじゃありません。ファラリイスの血を分けた当歳が三十四頭という呼声に成りました。殿下の御喜悦(およろこび)は何程でしたろう。到頭野辺山が原へ行啓を仰せ出されたのです」
 以後私が仕立屋に誘われて、一夜をこの八つが岳の麓の村で送ったのは、丁度その行啓のあるという時だった。
 静かな山村の夜――川水の氾濫を避けてこの高原の裾へ移住したという家々――風雪を防ぐ為の木曽路なぞに見られるような石を載せた板屋根――岡の上にもあり谷の底にもある灯――鄙びた旅舎の二階から、薄明るい星の光と夜の空気とを通して、私は曾遊(そうゆう)の地をもう一度見ることが出来た。
 ここは一頭や二頭の馬を飼わない家は無い程の産馬地だ。馬が土地の人の主なる財産だ。娘が一人で馬に乗って、暗い夜道を平気で通る程の、荒い質朴な人達が住むところだ。
 風呂桶が下水の溜の上に設けてあるということは――いかにこの辺の人達が骨の折れる生活を営むとはいえ――又、それほど生活を簡易にする必要があるとはいえ――来て見る度に私を驚かす。ここから更に千曲川の上流に当って、川上の八カ村というのがある。その辺は信州の中でも最も不便な、白米は唯病人に頂かせるほどの、貧しい、荒れた山奥の一つであるという。
 私達が着いたと聞いて、仕立屋の親類になる人が提灯つけて旅舎へ訪ねて来た。ここから小諸へ出て、長いこと私達の校長の家に奉公していた娘があった。
 その娘も今では養子して、子供まであるとか。こういう山村に連関して、下女奉公する人達の一生なぞも何となく私の心を引いた。
 君はまだ「ハリコシ」なぞという物を食ったことがあるまい。恐らく名前も聞いたことがあるまい。熱い灰の中で焼いた蕎麦餅だ。草鞋穿(わらじばき)で焚火に温りながら、その「ハリコシ」を食い食い話すというが、この辺での炉辺の楽しい光景なのだ。

     高原の上

 翌日私達は野辺山が原へ上った。私の胸には種々な記憶が浮び揚って来た。ファラリイスの駒三十四頭、牝馬二百四十頭、牡馬まで合わせて三百余頭の馬匹が列をつくって通過したのも、この原へ通う道だった。馬市の立つというあたりに作られた御仮屋、紫と白との幕、あちこちに巣をかけた商人、四千人余の群集、そんなものがゴチャゴチャ胸に浮んで来た。あの時は、私は仕立屋と連立って、秋の日のあたった原の一部を歩き廻ったが、今でも私の眼についているのは長野の方から知事に随いて来た背の高い参事官だ。白いしなやかな手を振って、柔かな靴音をさせる紳士だった。それで居て動作には敏捷なところもあった。丁度あの頃私はトルストイの「アナ・カレニナ」を読んでいたから、私は自分で想像したヴロンスキイの型をその参事官に当嵌てみたりなぞした。あの紳士が肩に掛けた双眼鏡を取出して、八つが岳の方に見える牧場を遠く望んでいた様子は――失礼ながら――私の思うヴロンスキイそのままだった。
 あの時の混雑に比べると、今度は原の上も寂しい。最早霜が来るらしい雑草の葉のあるいは黄に、あるいは焦茶色に成ったのを踏んで、ポツンポツンと立っている白樺の幹に朝日の映るさまなぞを眺めながら、私達は板橋村という方へ進んで行った。この高原の広さは五里四方もある、荒涼とした原の中には、蕎麦なぞを蒔いたところもあって、それを耕す人達がところどころに僅かな村落を形造っている。板橋村はその一番取付にある村だ。
 以前、私はこの辺のことを、こんな風に話の中に書いた。
「晴れて行く高原の霧の眺めは、どんなに美しいものでしょう。少し裾の見えた八つが岳が次第に険しい山骨を顕わして来て、終に紅色の光を帯びた巓(いただき)まで見られる頃は、影が山から山へ映(さ)しておりました。甲州に跨る山脈の色は幾度変ったか知れません。今、紫がかった黄。今、灰がかった黄。急に日があたって、夫婦の行く道を照し始める。見上げれば、ちぎれちぎれの綿のような雲も浮んで、いつの間にか青空に成りました。ああ朝です。
 男山、金峯山、女山、甲武信岳、などの山々も残りなく顕れました。遠くその間を流れるのが千曲川の源、かすかに見えるのが川上の村楽です。千曲川は朝日をうけて白く光りました――」
 夫婦とあるは、私がその話の中に書こうとした人物だ。一時は私もこうした文体を好んで書いたものだ。
「筒袖の半天に、股引、草鞋穿で、頬冠りをした農夫は、幾群か夫婦の側を通る。鍬を肩に掛けた男もあり、肥桶を担いで腰を捻って行く男もあり、爺の煙草入を腰にぶらさげながら随いて行く児もありました。気候、雑草、荒廃、瘠土(せきど)などを相手に、秋の一日の激しい労働が今は最早始るのでした。
 既に働いている農夫もありました。黒々とした「ノッペイ」の畠の側を進んでまいりますと、一人の荒くれ男が汗雫(あせみずく)に成って、傍目をふらずに畠を打っておりました。大きな鍬を打込んで、身を横にして仆れるばかりに土の塊を起す。気の遠くなるような黒土の臭気は粉(ぷん)として、鼻を衝(つ)くのでした……板橋村を離れて、旅人の群にも逢いました。
 高原の秋は今です。見渡せば木立もところどころ。枝という枝は南向に生延びて、冬季に吹く風の勁(つよ)さも思いやられる。白樺は多く落葉して高く空に突立ち、細葉の楊樹(やなぎ)は踞(うずくま)るように低く隠れている。秋の光を送る風が騒がしく吹渡ると、草は黄な波を打って、動き靡いて、柏の葉もうらがえりました。
 ここかしこに見える大石は秋の日があたって、寂しい思いをさせるのでした。
「ありしおで」の葉を垂れ、弘法菜(こうぼうな)の花を持つのは爰(ここ)です。
「かしばみ」の実の落ちこぼれるのも爰です。
 爰には又、野の鳥も住み隠れました。笹の葉蔭に巣を作る雲雀は、老いて春先ほどの勢も無い。鶉は人の通る物音に驚いて、時々草の中から飛立つ。見れば不格好な短い羽をひろげて、舞揚ろうとしてやがて、パッタリ落ちるように草の中へ引隠れるのでした。
 外の樹木の黄に枯々とした中に、まだ緑勝(みどりがち)な蔭をとどめたところも有る。それは水の流を旅人に教えるので。そこには雑木が生茂って、泉に添うて枝を垂れて、深く根を浸しているのです。
 今は村々の農夫も秋の労働に追われて、この高原に馬の放すものも少ない。八が岳山脈の南の裾に住む山梨の農夫ばかりは、冬季の秣(まぐさ)に乏しいので、遠く爰まで馬を引いて来て、草を刈集めておりました……」
 これは主に旧道から見た光景(さま)だ。趣の深いのも旧道だ。
 以前私は新道の方をも取って、帰り路に原の中を通ったこともある。その時は農夫の男女が秣を満載した馬を引いて山梨の方へ帰って行くのに逢った。彼等は弁当を食いながら歩いていた。聞いてみると往復十六里の道を歩いて、その間に秣を刈集めなければ成らない。朝暗いうちに山梨を出ても、休んで弁当を食っている暇が無いという。馬を引いて歩きながらの弁当――実に忙しい生活の光景だと思った。
 こんな話を私は同行のT君にしながら、旧道を取って歩いて行った。三軒家という小さな村を離れてからは人家を見ない。
 この高原が牧場に適するのは、秣が多いからとのことだ。今は馬匹を見ることも少ないが、丘陵の起伏した間には、遊び廻っている馬の群も遠く見える。
 白樺の下葉は最早落ちていた。枯葉や草のそよぐ音――殊に槲(かしわ)の葉の鳴る音を聞くと、風の寒い、日の熱い高原の上を旅することを思わせる。
 「まぐそ鷹」というが八つが岳の方の空に飛んでいるのも見た。私達はところどころにある茶色な楢の立木も見て通った。それが遠い灰色の雲なぞを背景にして立つさまは、何となく茫漠とした感じを与える。原にある一筋の細い道の傍には、紫色に咲いた花もあった。T君に聞くと、それは松虫草とか言った。この辺は古い戦場の跡ででもあって、往昔(おうせき)海の口の城主が甲州の武士と戦って、戦死したと言伝えられる場所もある。
 甲州境に近いところで、私達は人の背ほどの高さの小梨を見つけた。葉は落ち尽して、小さな赤い実が残っていた。草を踏んで行って、その実を採って見ると、まだ渋い。中には霜に打たれて、口へ入れると溶けるような味のするもあった。間もなく私達は甲州の方に向いた八つが岳の側面が望まれるところへ出た。私達は樹木の少い大傾斜、深い谷なぞを眼の下にして立った。
「富士!」
 と学生は互いに呼びかわして、そこから高い峻しい坂道を甲州の方へ下りた。

   その七

     落葉の一

 毎年十月の二十日といえば、初霜を見る。雑木林や平坦(たいら)な耕地の多い武蔵野へ来る冬、浅々とした感じの好い都会の霜、そういうものを見慣れている君に、この山の上の霜をお目に掛けたい。ここの桑畠へ三度や四度もあの霜が来て見給え、桑の葉は忽ち縮み上がって焼け焦げたように成る、畠の土はボロボロに爛れて了う……見ても可恐(おそろ)しい。猛烈な冬の威力を示すものは、あの霜だ。そこへ行くと、雪の方はまだしも感じが柔かい。降り積る雪はむしろ平和な感じを抱かせる。
 十月末のある朝のことであった。私は家の裏口へ出て、深い秋雨のために色づいた柿の葉が面白いように地へ下るのを見た。肉の厚い柿の葉は霜のために焼け損われたり、縮れたりはしないが、朝日があたって来て霜のゆるむ頃には、重さに堪えないで脆く落ちる。しばらく私はそこに立って、茫然と眺めていた位だ。そして、その朝は殊に烈しい霜の来たことを思った。

     落葉の二

 十一月に入って急に寒さを増した。天長節の朝、起出して見ると、一面に霜が来ていて、桑畠も野菜畠も家々の屋根も皆な白く見渡される。裏口の柿の葉は一時に落ちて、道も埋もれるばかりであった。すこしも風は無い。それでいて一葉二葉ずつ静かに地へ下る。屋根の上の方で鳴く雀も、いつもよりは高くいさましそうに聞えた。
 空はドンヨリとして、霧のために全く灰色に見えるような日だった。私は勝手元の焚火に凍えた両手をかざしたく成った。足袋を穿いた爪先も寒くしみて、いかにも可恐ろしい冬の近よって来ることを感じた。この山の上に住むものは、十一月から翌年の三月まで、殆ど五ヵ月の冬を過ごさねば成らぬ。その長い冬籠りの用意をせねば成らぬ。

     落葉の三

 木枯が吹いて来た。
 十一月の中旬のことであった。ある朝、私は潮の押寄せて来るような音に驚されて、眼が覚めた。空を通る風の音だ。時々それが沈まったかと思うと、急に復た吹きつける。戸も鳴れば障子も鳴る。殊に南向の障子にはバラバラと木の葉のあたる音がしてその間には千曲川の河音も平素(ふだん)から見るとずっと近く聞えた。
 障子を開けると、木の葉は部屋の内までも舞込んで来る。空は晴れて白い雲の見えるような日であったが、裏の流のところに立つ柳なぞは烈風に吹かれて髪を振うように見えた。枯々とした桑畠に茶褐色に残った霜葉なぞも左右に吹き靡いていた。
 その日、私は学校の往と還とに停車場前の通を横ぎって、真綿帽子やフランネルの布で頭を包んだ男だの、手拭を冠って両手を袖に隠した女だのの行き過ぎるのに遇った。往来の人々は、いずれも鼻汁をすすったり、眼側(まぶち)を紅くしたり、あるいは涙を流したりして、顔色は白ッぽく、頬、耳、鼻の先だけは赤く成って、身を縮め、頭をかがめて、寒そうに歩いていた。風を背後にした人は飛ぶようで、風に向って行く人は又、力を出して物を押すように見えた。
 土も、岩も、人の皮膚の色も、私の眼には灰色に見えた。日光そのものが黄ばんだ灰色だ。その日の木枯が野山を吹きまくる光景は凄まじく、烈しく、又勇ましくもあった。樹木という樹木の枝は撓(たわ)み、幹も動揺し、柳、竹の類は草のように靡いた。柿の実で梢に残ったのは吹き落とされた。梅、李、桜、欅、銀杏なぞの霜葉は、その一日で悉く落ちた。そして、そこここに聚(たま)った落葉が風に吹かれては舞い揚った。急に山々の景色は淋しく、明るく成った。

     炬燵(こたつ)話

 私は君に山上の冬を待受けることの奈様(いか)に恐るべきかを話した。しかしその長い寒い冬の季節が又、信濃に於ける最も趣の多い、最も楽しい時であることをも告げなければ成らぬ。
 それには先ず自分の身体のことを話そう。そうだ。この山国へ移り住んだ当時、土地慣れない私は風邪を引き易くて困った。こんなことで凌いで行かれるかと思う位だった。実際、人間の器官は生活に必要な程度に応じて発達すると言われるが、丁度私の身体にもそれに適したことが起って来た。次第に私は烈しい気候の刺激に抵抗し得るように成った。東京に居た頃から見ると、私は自分の皮膚が殊に丈夫に成ったことを感ずる。私の肺は極く冷い山の空気を呼吸するに堪えられる。のみならず、私は春先まで枯葉の落ちないあの椚林(くぬぎばやし)を鳴らす寒い風の音を聞いたり、真白に霜の来た葱畠を眺めたりして、屋の外を歩き廻る度に、こういう地方に住むものでなければ知らないような、一種刺すような快感を覚えるように成った。
 草木までも、ここに成長するものは、柔い気候の中にあるものとは違って見える。多くの常磐樹(ときわぎ)の緑がここでは重く黒ずんで見えるのも、自然の消息を語っている。試みに君が武蔵野辺の緑を見た眼で、ここの礫地(いしぢ)に繁茂する赤松の林なぞを望んだなら、色彩の相違だけにも驚くであろう。
 ある朝、私は深い霧の中を学校の方へ出掛けたことが有った。五六町先は見えないほどの道を歩いて行くと、これから野面(のら)へ働きに行こうとする農夫、番小屋の側にションボリ立っている線路番人、霧に湿りながら貨物の車を押す中牛馬(ちゅうぎゅうば)の男なぞに逢った。そして私は――私自身それを感ずるように――この人達の手なぞが真紅に腫れるほどの寒い朝でも、皆な見かけほど気候に臆してはいないということを知った。
「どうです、一枚着ようじゃ有りませんか――」
 こんなことを言って、皆な歩き廻る。それでも温熱(あたたかさ)が取れるという風だ。
 それから私は学校の連中と一緒に成ったが、朝霧は次第に晴れて行った。そこいらは明るく成って来た。浅間の山の裾も少し顕れて来た。早く行く雲なぞが眼に入る。ところどころに濃い青空が見えて来る。そのうちに西の方は晴れて、ポッと日が映(あた)って来る。浅間が全く見えるように成ると、でも冬らしく成ったという気がする。最早あの山の巓(いただき)には白髪のような雪が望まれる。
 こんな風にして、冬が来る。激しい気候を相手に働くものに取って、一年中の楽しい休息の時が来る。信州名物の炬燵の上には、茶盆だの、漬物鉢だの、煙草盆だの、どうかすると酒の道具まで置かれて、その周囲で炬燵話というやつが始まる。

     小六月(ころくがつ)

 気候は繰返す。温暖な平野の地方ではそれほど際立って感じないようなことを、ここでは切に感ずる。寒い日があるかと思うと、また莫迦(ばか)に暖い日がある。それから復た一層寒い日が来る。いくら山の上でも、一息に冬の底へ沈んでは了わない。秋から冬に成る頃の小春日和は、この地方での最も忘れ難い、最も心地の好い時の一つである。俗に「小六月」とはその楽しさを言い顕した言葉だ。で、私はいくらかこの話を引戻して、もう一度十一月の上旬に立返って、そういう日あたりの中で農夫等が野に出て働いている方へ君の想像を誘おう。

     小春の岡辺

 風のすくない、雪の無い、温暖な日に屋外へ出て見ると、日光は眼眩しいほどギラギラ輝いて、静かに眺めることも出来ない位だが、それで居ながら日蔭へ寄れば矢張寒い――蔭は寒く、光はなつかしい――この暖かさと寒さとの混じり合ったのが、楽しい小春日和だ。
 そういう日のある午後、私は小諸の町裏にある赤坂の田圃中へ出た。その辺は勾配のついた岡つづきで、田と田の境は例の石垣に成っている。私は枯々とした草土手に身を持たせ掛けて、眺め入った。
 手廻しの好い農夫は既に収穫を終った頃だ。近いところの田には、高い土手のように稲を積み重ね、穂をこき落した藁はその辺に置き並べてあった。二人の丸髷に結った女が一人の農夫を相手にして立ち働いていた。男は雇われたものと見え、鳥打帽に青い筒袖(つつっぼ)という小作人らしい風体で、女の機嫌を取り取り籾(もみ)の俵を造っていた。そのあたりの田の面には、この一家族の外に、野に出て働いているものも見えなかった。
 古い釜形帽を冠って、黄菊一株提げた男が、その田圃道を通りかかった。
「まあ、一服お吸い」
 と呼び留められて、釜形帽と鳥打帽と一緒に、石垣に倚りながら煙草を燻(ふか)し始めた。女二人は話し話し働いた。
「金さん、お目はどうです――それは結構――ああ、ああ、そうとも――」などと女の語る声が聞えた。私は屋外に日を送ることの多い人達の生活を思って、聞くともなしに耳を傾けた。振返って見ると、一方の畦(あぜ)の上には菅笠、下駄、弁当の包らしい物なぞが置いてあって、そこで男の燻す煙草の煙が日の光に青く見えた。
「さいなら、それじゃお静かに」
 と一方の釜形帽はやがて別れて行った。
 鳥打帽は鍬を執って田の土をすこしナラし始めた。女二人が錯々(せっせ)と籾を振るったり、稲こきしたりしているのに引替え、この雇われた男の方ははかばかしくも仕事もしないという風で、すこし働いたかと思うと、直に鍬を杖にして、是方を眺めてはボンヤリと立っていた。
 岡辺は光の海であった。黒ずんだ土、不規則な岩垣、枯々な桑の枝、畦の草、田の面に乾した新しい藁、それから遠くの方に見える森の梢まで、小春の光の充ち溢れていないところは無かった。
 私の眼界にはよく働く男が二人までも入って来た。一人は近くにある田の中で、大きな鍬に力を入れて、土を起し始めた。今一人はいかにも背の高い、痩せた、年若な農夫だ。高い岩垣の上の方で、枯草の茶色に見えるところに半身を顕して、モミを打ち始めた。遠くて、その男の姿が隠れる時でも、上がったり下がったりする槌だけは見えた。そして、その槌の音が遠い砧(きぬた)の音のように聞こえた。
 午後の三時過まで、その日私は赤坂裏の田圃道を歩き廻った。
 そのうちに、畠側の柿や雑木に雀の群のかしましいほど鳴き騒いでいるところへ出た。刈取られた田の面には、最早青い麦の芽が二寸ほども延びていた。
 急に私の背後から下駄の音がして来たかと思うと、ぱったり立止まって、向うの石垣の上の方に向いて呼び掛ける子供の声がした。見ると、茶色に成った桑畠を隔てて、親子二人が収穫を急いでいた。子供お茶の入ったことを知らせに来たのだ。信州人ほど茶好な人達も少なかろうと思うが、その子供が復た馳出して行った後でも、親子は時を惜むという風で、母の方は稲穂をこき落すに余念なく、子息はその籾を叩く方に廻ってすこしも手を休めなかった。遠く離れてはいたが、手拭を冠った母の身を延べつ縮めつするさまも、子息のシャツ一枚に成って後ろ向に働いているさまも、よく見えた。
 子供にあんなことを言われると、私も咽喉が乾いて来た。
 家に帰って濃い熱い茶に有付きたいと思いながら、元来た道を引返そうとした。斜めに射して来た日光は黄を帯びて、何となく遠近(おちこち)の眺望が改まった。岡の向うの方には数十羽の雀が飛び集まったかと思うと、やがてまたパッと散り隠れた。

     農夫の生活

 君はどれ程私が農夫の生活に興味を持つかということに気付いたであろう。私の話の中には、幾度か農家を訪ねたり、農夫に話し掛けたり、彼等の働く光景を眺めたりして、多くの時を送ったことが出て来る。それほど私は飽きない心地で居る。そして、もっともっと彼等をよく知りたいと思っている。みたところ、Open で、質素で、簡単で、半ば野外にさらけ出されたようなのが、彼等の生活だ。しかし彼等に近づけば近づくほど、隠れた、複雑な生活を営んでいることを思う。同じような服装を着け、同じような農具を携え、同じような耕作に従っている農夫等、譬えば、彼等の生活は極く地味な灰色だ。その灰色に幾通りあるか知れない。私は学校の暇々に、自分でも鍬を執って、すこしばかりの野菜を作ってみているが、どうしても未だ彼等の心には入れない。
 こうは言うものの、百姓の好きな私は、どうかいう機会を作って、彼等に近づくことを楽みとする。
 赤い茅萱(ちがや)の霜枯れた草土手に腰掛け、桟俵を尻に敷き、田へ両足を投出しながら、ある日、私は小作する人達の側に居た。その一人は学校の小使の辰さんで、一人は彼の父、一人は彼の弟だ。辰さん親子は麦畠の「サク」を掛け起していたが、私の方へ来ては休み休み種々な話をした。雨、風、日光、鳥、虫、雑草、土、気候、そういうものは無くて叶わぬものでありながら、また百姓が敵として戦わねば成らないものでもある。そんなことから、この辺の百姓が苦むという種々な雑草の話が出た。水沢瀉(みずおもだか)、えご、夜這蔓(よばいづる)、山牛蒡(やまごぼう)、つる草、蓬、蛇苺、あけびの蔓、がくもんじ(天王草)その他田の草取る時の邪魔ものは、私なぞの記憶しきれないほど有る。辰さんは田の中から、一塊りの土を取って来て、青い毛のような草の根が隠れていることを私に示した。それは「ひょうひょう草」とか言った。この人達は又、その中から種々な薬草を見分けることを知っていた。「大抵の御百姓に、この稲は何だなんて聞いても、名を知らないのが多い位に、沢山いろいろ御座います」
 話好きな辰さんの父親は、女穂(めほ)、男穂(おとこほ)のことから、浅間の裾で砂地だから稲も良いのは作れないこと、小麦畠へ来る鳥、稲田を荒らすという虫類の話などを私にして聞かせた。「地獄蒔(まき)」と言って、同じ麦の種を蒔くにも、農夫は地勢に応じたことを考えるという話もした。小諸は東西の風を受けるから、南北に向って「ウネ」を造ると、日あたりも好いし、又風の為穂の擦れ落ちる憂いが無い、自分等は絶えずそんなことをして工夫しているとも話した。
「しかし、上州の人に見せたものなら、こんなことでよく麦が取れるッて、消魂(たまげ)られます」
 こう言って、隠居は笑った。
「この阿爺(おとつ)さんも、ちったア御百姓の御話が出来ますから、御二人で御話しなすって下さい」
 と辰さんは言い置いて、麦藁帽の古いのを冠りながら復た畠へ出た。辰さんの弟も股引を膝までまくし上げ、素足を顕して、兄と一緒に土を起し始めた。二人は腰に差した鎌を取出して、時々鍬に付着する土を掻取って、それから復た腰を曲げて錯々とやった。
 「浅間が焼けますナ」
 と皆な言い合った。
 私は掘起こされる土の香を嗅ぎ、弱った虫の声を聞きながら、隠居から身上話を聞かされた。この人は六三歳に成って、まだ耕作を休まずにいるという。一四の時から灸、占の道楽を覚え、三十時代には十年も人力車を引いて、自分が小諸の車夫の初だということ、それから同居する夫婦の噂なぞもして、鉄道に親を引きつぶされてからその男も次第に、露落したことを話した。
「お百姓なぞは、能の無いものの為(す)るこんです……」
 と隠居は自ら嘲(あざけ)るように言った。
 その時、髪の白い、背の高い、勇健な体格を具えた老農夫が、同じ年格好な仲間と並んで、いずれも土の喰い入った大きな手に鍬を携えながら、私達の側を挨拶して通った。肥し桶を肩に掛けて、威勢よく向うの畠道を急ぐ壮年(わかもの)も有った。

     収   穫

 ある日、復た私は光岳寺の横手を通り抜けて、小諸の東側に当たる岡の上に行って見た。
 午後の四時頃だった。私が出た岡の上は可成眺望の好いところで、大きな波濤(なみ)のような傾斜の下の方に小諸町の一部が瞰下(みおろ)される位置にある。私の周囲には、既に刈乾した田だの未だ刈取らない田だのが連なり続いて、その中である二家族のみが残って収穫を急いでいた。
 雪の来ない中に早くと、耕作に従事する人達の何かにつけて心忙しさが思われる。私の眼前には胡麻塩頭の父と十四五ばかりに成る子とが互いに長い槌を振上げて籾を打った。その音がトントンと地に響いて、白い土埃が立ち上がった。母は手拭いを冠り、手甲(てっこう)を着けて、稲の穂をこいては前にある箕の中へ落としていた。その傍には、父子の叩いた籾を篩(ふるい)にすくい入れて、腰を曲めながら働いている。黒い日に焼けた顔付の女もあった。それから赤い襷掛(たすきがけ)に紺足袋穿きという風俗で、籾の入った箕を頭の上に載せ、風に向かってすこしずつ振い落すと、その度に粃(しいな)と塵埃(ほこり)との混り合った黄な煙を送る女もあった。
 日が短いから、皆な話もしないで、塵埃だらけに成って働いた。岡の向うには、稲田や桑畠を隔てて、夫婦して笠を冠って働いているのがある。殊にその女房が箕を高く差揚げ風に立てているのが見える。風は身に染みて、冷々として来た。私の眼前に働いていた男の子は稲村に預けて置いた袖なし半天を着た。母も上着(うわっぱり)の塵埃を払って着た。何となく私も身体がゾクゾクして来たから、尻端折(しりばしょり)を下して、着物の上から自分の膝を摩擦しながら、皆なの為ることを見ていた。
 鍬を肩に掛けて、岡づたいに家の方へ帰って行く頬冠りの男もあった。鎌を二挺持ち、乳呑児を背中に乗せて、「おつかれ」と言いつつ通り過ぎる女もあった。
 眼前の父子が打つ槌の音はトントン忙しく成った。
「フン」、「ヨウ」の掛声も幽かに泄れて来た。そのうちに、父はへなへなした俵を取出した。腰を延ばして塵埃の中を眺める女もあった。田の中には黄な籾の山を成した。
 その時は最早暮色が薄く迫った。小諸の町つづきと、かなたの山々の間にある谷は、白い夕靄が立ち籠めた。向うの岡の道を帰って行く農夫も見えた。
 私はもうすこし辛抱して、と思って見ていると、父の農夫が籾をつめた俵に縄を掛けて、それを負いながら家を指して運んで行く様子だ。今は三人の女が主に成って働いた。岡辺も暮れかかって来て、野面に居て働くものも無くなる。向うの田の中に居る夫婦者の姿もよく見えない程に成った。
 光岳寺の暮鐘が響き渡った。浅間も次第に暮れ、紫色に夕映えした山々は何時しか暗い鉛色と成って、唯白い煙のみが暗紫色の空に望まれた。急に野面がパッと明るく成ったかと思うと、復た響き渡る鐘の音を聞いた。私の側には、青々とした菜を負(しょ)って帰って行く子供もあり、男とも女とも後姿の分からないようなのが足速に岡の道を下って行くもあり、そうかと思うと、上着のまま細帯も締めないで、まるで帯とけひろげのように見える荒くれた女が野獣(けもの)のように走って行くのもあった。
 南の空には青光りのある星一つあらわれた。すこし離れて、また一つあらわれた。この二つの星の姿が紫色な暮の空にちらちらと光りを見せた。西の空はと見ると、山の端は黄色に光り、急に焦茶色に変り、沈んだ日の反射も最後の輝きを野面に投げた。働いている三人の女の頬冠り、曲めた腰、皆な一時に光った。男の子の鼻の先まで光った。最早稲田も灰色、野も暗い灰色に包まれ、八幡の杜のこんもりとした欅の梢も暗い茶褐色に隠れて了った。
 町の彼方にはチラチラ燈火が点き始めた。岡つづきの山の裾にも点いた。
 父の農夫は引返して来て復た一俵負って行った。三人の女や男の子は急ぎ働いた。
「暗くなって、いけねえナア」と母の子をいたわる声がした。
「箒(ほうき)探しな――箒――」
 と復た母に言われて、子はうろうろと田の中を探し歩いた。
 やがて母は箒で籾を掃き寄せ、筵(むしろ)を揚げて取り集めなどする。女達が是方を向いた顔もハッキリとは分からないほどで、冠っている手拭の色と顔とが同じほどの暗さに見えた。
 向うの田に居る夫婦者も、まだ働くと見えて、灰色な稲田の中に暗く働くさまが、それとなく分る。
 汽笛が寂しく響いて聞えた。風は遽然(にわかに)私の身にしみて来た。
「待ちろ待ちろ」
 母の声がする。男の子はその側で、姉らしい女と共に籾を打った。彼方の岡の道を帰る人も暗く見えた。「おつかれでごわす」と挨拶そこそこに急いで通過ぎるのもあった。そのうちに、三人の女の働くさまもよく見えない位に成って、冠った手拭のみが仄かに白く残った。振り上げる槌までも暗かった。
「藁をまつめろ」
 という声もその中で聞える。
 私がこの岡を離れようとした頃、三人の女はまだ残って働いていた。私が振返って彼等を見た時は、暗い影の動くとしか見えなかった。全く暮れ果てた。

     巡礼の歌

 乳呑児を負った女の巡礼が私の家の門に立った。
 寒空には初冬らしい雲が望まれた。一目見たばかりで、皆な氷だということが思われる。氷線の郡合とも言いたい。白い、冷い、透明な尖端は針のようだ。この雲が出る頃に成ると、一日は一日より寒気を増して行く。
 こうして山の上に来ている自分等のことを思うと、灰色の脚絆(きゃはん)に古足袋を穿いた、旅窶(たびやつ)れのした女の乞食姿にも、心を引かれる。巡礼は鈴を振って、哀れげな声で御詠歌を歌った。私の家のものと一緒に、その女らしい調子を聞いた後で、五厘銅貨一つ握らせながら、「お前さんは何処ですネ」と尋ねた。
「伊勢でござります」
「随分遠方だネ」
「わしらの方は皆なこうして流してますでござります」
「何処の方から来たんだネ」
「越後路から長野の方へ出まして、諸方(ほうぼう)を廻って参りました。これから寒くなりますので、暖かい方へ参りますでござりますわい」
 私は家のものに吩咐(いいつ)けて、この女に柿をくれた。女はそれを風呂敷包にして、家のものにまで礼を言って、寒そうに震えながら出て行った。
 夏の頃から見ると、日は余程南よりに沈むように成った。吾家の門に出て初冬の落日を望む度に、私はあの「浮雲似<二>故丘<一>」という古い詩の句を思出す。近くにある枯々な樹木の梢は、遠い蓼科の山々よりも高いところに見える。近所の家々の屋根の間からそれを眺めると丁度日は森の中に沈んで行くように見える。
(註 <一><二>は返り点)

   その八

     一ぜんめし
 私は外出した序に時々立寄って焚火にあてて貰う家がある。鹿島神社の横手に、一ぜんめし、御休処、揚羽屋(agebaya)とした看板の出してあるのがそれだ。
 私が自分の家から、この一ぜんめし屋まで行く間には大分知った顔に逢う。馬場裏の往来に近く、南向の日あたりの好い障子のところに男や女の弟子を相手にして、石菖蒲(せきしょうぶ)、万年青(おもと)などの青い葉に眼を楽ませながら錯々(せっせ)と着物を造(こしら)える仕立屋が居る。すこし行くと、カステラや羊羹(ようかん)を店頭に並べて売る菓子屋の夫婦が居る。千曲川の方から投網(とあみ)をさげてよく帰って来る髪の長い売ト者(えきしゃ)が居る。馬場裏を出はずれて、三の門という古い城門のみが残った大手の通へ出ると、紺暖簾(こんのれん)を軒先に掛けた染物屋の人達が居る。それを右に見て鹿島神社の方へ行けば、按摩(あんま)を渡世にする頭を円めた盲人が居る。駒鳥だの瑠璃だのその他小鳥が籠の中で囀っている間から、人の好さそうな顔を出す鳥屋の隠居が居る。その先に一ぜんめしの揚羽屋がある。
 揚羽屋では豆腐を造るから、服装に関わず働く内儀(かみ)さんがよく荷を担いで、襦袢の袖で顔を拭き拭き町を売って歩く。朝晩の空に徹る声を聞くと、ああ豆腐屋の内儀さんだと直に分る。自分の家でもこの女から油揚だの雁もどきだのを買う。近頃は子息も大きく成って、母親さんの代りに荷を担いで来て、ハチハイでも奴でもトントンとやるように成った。
 揚羽屋には、うどんもある。尤も乾うどんのうでたのだ。一体にこの辺では麺類を賞味する。私はある農家で一週に一度ずつ上等の晩餐に麺類を用うるという家を知っている。蕎麦はもとより名物だ。酒盛の後の蕎麦振舞いと言えば本式の馳走に成っている。それから、「お煮掛」と称えて、手製のうどんに野菜を入れて煮たのも、常食に用いられる。揚羽屋に寄って、大鍋のかけてある炉端に腰掛けて、煙の目にしみるような盛んな焚火にあたっていると、私はよく人々が土足のままでそこに集りながら好物のうでだしうどんに温熱を取るのを見かける。「お豆腐のたきたては奈何(いかが)でごわす」などと言って、内儀さんが大丼に熱い豆腐の露を盛って出す。亭主も手拭を腰にブラサゲて出て来て、自分の子息が子供相撲に弓を取った自慢話なぞを始める。
 そこは下層の労働者、馬方、近在の小百姓なぞが、酒を温めて貰うところだ。こういう暗い屋根の下も、煤けた壁も、汚れた人々の顔も、それほど私には苦に成らなく成った。私は往来に繋いである馬の鳴声なぞを聞きながら、そこで凍えた身体を温める。荒れくれた人達の話や笑声に耳を傾ける。次第に心易くなってみれば、亭主が一ぜんめしの看板を張替えたからと言って、それを書くことなぞまで頼まれたりする。

     松林の奥

 夷講(えびすこう)の翌日、同僚の歴史科の教師W君に誘われて、山あるきに出掛けた。W君は東京の学校出で、若い、元気の好い、書生肌の人だから、山野を跋渉するには面白い道連だ。
 小諸の町はずれに近い、与良町(よらまち)のある家の門で、
「煮いて貰うのだから、お米を一升持っておいでなんしょ。柿も持っておいでなんすか――」
 こう言ってくれる言葉を聞捨てて、私達は頭蛇袋(ずだぶくろ)に米を入れ、毛布を肩に掛け、股引(ももひき)尻端折という面白い風をして、洋傘を杖につき、それに牛肉を提げて出掛けた。
 出発は約束の時より一時間ばかり遅れた。八幡の杜(もり)を離れたのが、午後の四時半だった。日の暮れないうちにと、岡つづきの細道を辿って、浅間の方をさして上った。ある松林に行き着く頃は、夕月が銀色に光って来て、既に暮色の迫るのを感じた。西の山々のかなたには、日も隠れた。私達は後方を振返り振返りして急いで行った。
 静かな松林の中にある一筋の細道――それを分けて上がると、浅間の山々が暗い紫色に見えるばかり、松葉の落ち敷いた土を踏んで行っても足音もしなかった。林の中を泄(も)れて射し入る残りの光が私達の眼に映った。西の空には僅かに黄色が残っていた。鳥の声一つ聞えなかった。
 そのうちに、一つの松林を通越して、また他の松林の中へ入った。その時は、西の空は全く暗かった。月の光はこんもりとした木立の間から射し入って、林に満ちた夕靄(ゆうもや)は煙るようであった。細長い幹と幹との並び立つさまは、この夕靄の灰色な中にも見えた。遠い方は暗く、木立も黒く、何となく深く静かに物寂しい。
 宵の月の半輪で、冴えてはいたが、光は薄かった。私達が辿って行く道は松かげに成って暗かった。けれども一筋黒く眼にあって、松葉の散り敷いたところは殊に区別することが出来た。そこまで行くと、最早人里は遠く、小諸の方は隠れて見えなかった。時々私達は林の中にたたずんで、何の物音とも知れない極く幽かな響に耳を立てたり、暗い奥の方を窺うようにして眺め入ったりした。先に進んで行くW君の姿も薄暗く此方を向いてもよく顔が分からない程の光を辿って、猶奥深く進んだ。すべての物は暗い夜の色に包まれた。それが霧の中に沈み入って、力のない月の光に、朦朧(もうろう)と影のように見えた。ある時は、芝の上に腰掛けて、肩に掛けた物を卸し、足を投出して、しばらく休んで行った。私は既に非常な疲労を覚えた。というは、腹具合が悪くて、飯を一度食わなかったから。で、W君と一緒に休む時には、そこへ倒れるように身を投げた。やがて復た洋傘(こうもり)に力を入れて、起ち上がった。
 いくつか松林を越えて、広々としたところへ出た。私達の二人の影は地に映って見えた。月の光は明るくなったり暗くなったりした。そのうちに私達は大きな黒いものを見つけた。七ひろ石だ。
「もう余程来ましたかねえ。どうも非常に疲れた。足が前へ出なくなった」
「私も夜道はしましたが、こんなに弱ったことはありません」
「ここで一つ休もうじゃありませんか」
「弱いナア。ああああ」
 こう言合って、勇気を鼓して進もうとすると、疲れた足の指先は石に蹉いて痛い。復たぐったりと倒れるように、草の上へ横に成って休んだ。そこは浅間の中腹にある大傾斜のところで、あたりは茫漠とした荒れた原のように見えた。越えて来た松林は暗い雲のようで、ところどころに黒い影のような大石が夜色に包まれて眼に入るばかりだ。月の光も薄くこの山の端に満ちた。空の彼方には青い星の光が三つばかり冴えて見えた。灰白い夜の雲も望まれた。

     深山の燈影

 赤々と障子に映る燈火(ともしび)を見た時の私達の喜びは譬えようもなかった。私達は漸くのことで清水の山小屋に辿り着いた。
 小屋の番人はまだ月明かりの中で何か取片付けて働いている様子であった。私達は小屋へ入って、疲れた足を洗い、脚絆(きゃはん)のままで炉辺に寛いだ。W君は毛布を身に纏いながら、
「本家の小母さんが、お竹さんにどうか明日は大根洗いに降りて来て下さいッて――それにKさんの結納が来ましたから、小母さんも見せたいからッて。それは立派なのが来ましたよ」
 お竹さんは番人の細君のことで、本家の小母さんとは小諸を出がけに私達にすこしは多く米を持って行けと注意してくれた人だ。W君はこの人達と懇意で、話し方も忸々(なれなれ)しい。
 米を入れた頭蛇袋、牛肉の新聞紙包、それから一かけの半襟なぞが、土産がわりにそこへ取出された。
 番人は小屋へ入りがけに、
「肉には葱が宜しゅうごわしょうナア」 と言うと、W君も笑って、
「ああ葱は結構」
「序に、芋があったナア――そうだ、芋も入れるか」と番人は屋外へ出て行って、葱、芋の貯えたのを持って来た。やがて炉辺へドッカと坐り、ぶすぶす煙る雑木を大火箸であらけ、ぱッと燃え付いたところへ櫟(くぬぎ)の枝を折りくべた。火勢が盛んに成ると、皆なの顔も赤々と見えた。
 番人はまだ年も若く、前の年の四月にここへ引移って、五月に細君を迎えたという。火に映る顔には健かに輝き眼は小さいけれど正直な働き好きな性質を表していた。話をしては大きく口を開いて、頭を振り、舌の見える程度に笑うのが癖のようだ。その笑い方はすこし無作法ではあるが、包み隠しの無いところは嫌みのない面白い若者だ。直ぐに懇意に成れそうな人だ。細君はまた評判の働き者で、顔色の赤い、髪の厚く黒い、どこかにまだ娘らしいところの残った、若く肥った女だ。まことに似合った好い若夫婦だ。
 部屋の方は暗いランプに照らされていて、炉辺のみ明るく見えた。小屋の庭の隅には竈が置いてあって、そこから煙が登り始めた。飯をたく音も聞えて来た。細君はザクザクと葱を切りながら、
「私は幼少(ちいさ)い時から寂しいところに育ちやしたが、この山へ来て慣れるまでには、真実に寂しい思をいたしやした」
 こう山住の話をして聞かせる。亭主も私達が訪ねて来たことを嬉しそうに、その年作ったという葱の出来などを話して聞かせて夫婦して夕飯の仕度をしてくれた。炉には馬に食わせるとかの馬鈴薯(じゃがいも)を煮る大鍋が掛けてあったが、それが小鍋に取替えられた。細君が芋を入れれば、亭主はその上へ蓋を載せる。私達は「手鍋提げても」という俗謡にあるような生活を眼のあたり見た。
 子猫は肉の香を嗅ぎつけて新聞紙包の傍へ鼻を押しつけ、亭主に叱られた。やがて私達の後を廻って遠慮なくW君の膝に上った。「野郎」と復た亭主に叱られて炉辺に縮み、寒そうに火を眺めて目を細くした。
「私はこの猫という奴が大嫌いですが、本家でもって無理に貰ってくれッて、連れて来やした」
 と亭主は言って、色の黒い野鼠がこの小屋へ来ていたずらすることなど、山の中らしい話をして笑った。
「すこし煙たくなって来たナア。開けるか」とW君は起上がって、細目に小屋の障子を開けた。しばらく屋外を眺めて立っていた。
「ああ好い月だ。冴え冴えとして」
 と言いながらこの同僚が座に戻る頃は、鍋から白い泡を吹いて、湯気も立のぼった。
「さア、もういいよ」
「肉を入れて下さい」
「どれ入れるかナ。一寸待てよ、芋を見て――」
 亭主は貝匙(かいさじ)で芋を一つ掬った。それを鍋蓋の上に載せて、いくつかに割って見た。芋は肉を入れても可い程に煮えた。そこで新聞包が解かれ、竹の皮が開かれた。赤々とした牛の肉のすこし白い脂肪も混じったのを、亭主は箸で鍋の中に入れた。
「どうも甘(うま)そうな匂いがする。こんな御土産なら毎日でも頂きたい」と亭主がW君に言った。
 細君は戸棚から、膳、茶碗、塗箸などを取出し、飯は直に釜から盛って出した。
「どうしやすか、この炉辺の方がめずらしくて好うごわしょう」
 と細君に言われて、私達は焚火を眺め眺め、夕飯を始めた。その時は余程空腹を感じていた。
「さア、肉も煮えやした」と細君は給仕しながら款待顔(もてなしがお)に言った。
「お竹さん、勘弁して下さい、沢山頂きますから」とW君も心易い調子で、「うまい、この葱はうまい。熱、熱。フウフウ」
「どうも寒い時は肉に限りますナア」と亭主は一緒にやった。
 三杯ほど肉の汁をかえて、私も盛んな食慾を満たした。私達二人は帯をゆるめるやら、洋服のズボンをゆるめるやらした。
「さア、おかえなすって――山へ来て御飯がまずいなんて仰る方はありませんよ」
 と細君が言ううち、つとW君の前にあった茶碗を引きたくった。W君はあわてて、奪い返そうとするように手を延ばしたが、間に合わなかった。細君はまた一ぱい飯を盛って進めた。
 W君は笑いながら頭を抱えた。「ひどいひどい――ひどくやられた」
「えッ、やられた?」と亭主も笑った。
「その位はいけやしょう」
「どうして、もう沢山頂いて、実際は入りません」とW君は溜息吐いた後で、「チ、それじゃ、やるか。どうも一ぱい食った――ええ、香の物でやれ」
 楽しい笑声の中に、私は夕飯を済ました。「お前も御馳走に成れ」という亭主の蔭で、細君も飯を始めた。戸棚の中に入れられた子猫は、物欲しそうに鳴いた。山の中のことで、亭主は牛肉を包んだ新聞紙をもめずらしそうに展げて、読んだ。W君はあまり詰込み過ぎたかして、毛布を冠ったまま暫時(しばらく)あおのけに倒れていた。
 炭焼、兎狩の話なぞが夫婦の口からかわるがわる話された。やがて細君も膳を片付け、馬の飲料にとフスマを入れた大鍋を炉に掛けながら、ある夜この山の中で夫の留守に風が吹いて新築の家の倒れたこと、もしこの小屋の方へ倒れて来たらその時は馬を引出そうと用意したに、彼方に倒れて、可恐(おそ)ろしい思をしたことを話した。めったに外へ泊まったことの無い夫がその晩に限って本家で泊まった、とも話した。
 新築の家というは小屋の近くに建ててあった。私達はその家の方へ案内されて、そこで一晩泊めて貰った。漸く普譜が出来たばかりだとか、戸のかわりに唐紙を押つけ、その隙間から月の光も泄れた。私達は毛布にくるまり、燈火も消し、疲れて話もせずに眠った。

     山の上の朝飯

 翌朝の三時頃から、同じ家の内に泊っていた土方は最早(もう)起き出す様子だ。この人達の話し声は、前の晩遅くまで聞えていた。雉子の鳴声を聞いて、私達も朝早く床を離れた。
 私達は重なり畳なった山々を眼の下に望むような場処へ来ていた。谷底はまだ明けきらない。遠い八ヶ岳は灰色に包まれ、その上に紅い雲が棚引いた。次第に山の端も輝いて、紅い雲が淡黄に変る頃は、夜前真黒であった落葉松(からまつ)の林も見えて来た。
 亭主と連立って、私達は小屋の周囲にある玉菜畠、葱畠、菊畠などの間を見て廻った。大根乾した舌の箱の中から、家鴨(あひる)が二羽ばかり這出した。そして喜ばしそうに羽ばたきして、そこいらにこぼれたものを拾っては、首を縮めたり、黄色い口嘴を振ったり、ひょろひょろと歩き廻ったりした。
 亭主は私達を馬小屋の前に連れて行った。赤い馬が首を出して、鼻をブルブル言わせた。冬季のことだから毛も長く延び、背は高く、目は優しく、肥大な骨格の馬だ。亭主は例のフスマに芋、葱のうでたのを混ぜ、ツタを加えて掻廻し、それを大桶に入れて、馬小屋の鍵を掛けて遣った。馬はあまえて、朝飯欲しそうな顔付をした。
「廻って来い」
 と亭主が言うと、馬は主人の言葉を聞分けて、ぐるりと一度小屋の内を廻った。
「もう一度――」
 と復た亭主が馬の鼻面を押しやった。それからこの可憐な動物は桶の中へ首を差込むことを許された。馬がゴトゴトさせて食う傍で、亭主は一斗五升の白水が一吸に尽されることを話して、私達を驚かせた。
 山上の雲は漸く白く成って行った。谷底も明けて行った。光に触れるところは灰色に望まれた。
 細君が膳の仕度が出来たことを知らせに来た。めずらしいところで、私達は朝の食事をした。亭主は食べ了った茶碗に湯を注ぎ、それを汁碗にあけて飲み尽し、やがて箱膳の中から布巾(ふきん)を取出して、茶碗も箸も自分で拭いて納めた。
 もう一度、私達は亭主と一緒に小屋を出て、朝日に光る山々を見上げ、見下した。亭主は望遠鏡まで取出して来て、あそこに見えるのが渋の沢、その手前の窪みが霊泉時の沢、と一々指して見せた。八つが岳、蓼科の裾、御牧が原、すべて一望の中にあった。
 層を成して深い谷底の方へ落ちた断崖の間には、桔梗、山辺、横取、多計志、八重原などの村々を数えることが出来る。白壁も遠く見える。千曲川も白く光って見える。
 十二月に入ると山の雉は畠へ下りて来る、どうかとすると人の足許より飛び立つことがある。兎も雪の中の麦を喰いに寄る。こうした話が私達にはめずらしい。

   その九

     雪国のクリスマス

 クリスマスの夜とその翌日を、私は長野の方で送った。長野測候所に技手を勤むる人から私は招きの手紙を受けて、未知の人々に逢うために、小諸を発ち、汽車の窓から田中、上田、坂木などの駅々を通り過ぎて、長野まで行った。そこにある測候所を見たいと思ったのがこの小さな旅の目的の一つであった。私はそれも果した。
 雪国のクリスマス――雪国の測候所――と言っただけでも、すでに何物か君の想像を動かすものがあるであろう。しかし私はその話を君にする前に、いかにこの国が野も山も雪のために埋もれて行ったかを話したいと思う。
 毎年十一月の二十日前後には初雪を見る。ある朝私は小諸の住居で眼が覚めると、思いがけない大雪が来ていた。塩のように細かい雪の降り積のが、こういう土地の特徴だ。あまりに周囲の光景が白々としていた為か、私の眼にはいくらか青みを帯びて見える位だった。朝通いの人達が、下駄の歯につく雪に悩みながら往来を辿るさまは、あたかも暗夜を行く人に異ならない。赤い毛布で頭を包んだ草鞋穿(わらじばき)の小学生徒の群、町家の軒下にションボリと佇立む鶏、それから停車場のほとりに貨物を満載した車の上にまで雪の積ったさまなぞを見ると、降った、降った、とそう思う。私は懐古園の松に掛った雪が、時々崩れ落ちる度に、濛々とした白い烟を揚げるのを見た。谷底にある竹の林が皆な草のように臥(ね)て了ったのをも見た。
 岩村田通いの馬車がこの雪の中を出る。馬丁の吹き鳴らす喇叭(らっぱ)の音が起る。薄い蓙(ござ)を掛けた馬の身体はビッショリと濡れて、粗く乱れた鬣(たてがみ)からは雫が滴る。ザクザクと音のする雪の路を、馬車の輪が滑り始める。白く降り埋んだ道路の中には、人の往来の跡だけ一筋赤く土の色になって、うねうねと印したさまが眺られる。家ごとに出て雪をかく人達の混雑したさまも、こういう土地でなければ見られない光景だ。
 うすい靄か霧かが来て雪のあとの町々を立ち罩(こ)めた。その日の黄昏時(たそがれどき)のことだ。晴れたナと思いながら門口に出て見ると、ぱらぱらと冷いのが襟にかかる。ヤア降ってるのかと、思わず髪に触ると、霧のように見えたのは矢張細かい雪だということが知れる。二度ばかり掻取った路も、また薄白くなって、夜に入れば、時々家の外で下駄の雪の落す音が、ハタハタと聞える。自分の家へ客でも訪れるのかと思うと、それが往来の人々であるには驚かされる。
 雪明かりで、暗い中にも道は辿ることが出来る。町を通う人々の提灯の光が、夜の雪に映って、花やかに明るく見えるなぞも Picturesque だ。
 君、私はこの国に於ける雪の第一日のあらましを君に語った。この雪が残らず溶けては了わないことを、君に思ってみて貰いたい。殊に寒い日蔭、庭だとか、北側の屋根だとかには、何時までも消え残って、降り積った上へ復た積るので、その雪の凍ったのが春までも持越すことを思ってみて貰いたい。
 しかし、これだけで未だ、私がこういう雪国に居るという感じを君に伝えるには、不充分だ。その雪の来た翌日になって見ると、屋根に残ったのは一尺ほどで、軒先には細い氷柱(つらら)も垂下がり、庭の林檎も倒れ臥していた。鶏の声まで遠く聞えて、何となくすべてが引被せられたように成った。雪の翌日には、きまりで北の障子が明るくなる。灰色の空を通して日が照し始めると雪は光を含んでギラギラ輝く。見るもまぶしい。軒から垂れる雫の音は、日がな一日単調な、退屈な、侘しく静かな思をさせる。
 更に小諸町裏の田圃側(たんぼわき)へ出て見ると、浅々と萌え出た麦などは皆な白く埋もれて、岡つづきの起き臥すさまは、さながら雪の波の押し寄せて来るようである。さすがに田と田を区別する低い石垣には、大小の石の面も顕われ、黄ばんだ草の葉の垂れたのが見られぬでもない。遠い森、枯々な梢、一帯の人家、すべて柔らかに深い鉛色を帯びて見える。この鉛色――もしくは少し紫色を帯びたのが、これからの色彩の基調かとも言いたい。朦朧として、いかにもおぼつかないような名状し難い世界の方へ、人の心を連れて行くような色調だ。
 翌々日に私はまた鶴沢という方の谷間(たにあい)へ出たことがあった。日光が恐ろしく激しい勢で私に迫って来た。四面皆な雪の反射は殆ど堪えられなかった。私は眼を開いてハッキリ物を見ることも出来なかった。まぶしいところは通り過して、私はほとほと痛いような日光の反射と熱とを感じた。そこはだらだらと次第に下りに谷の方へ落ちている地勢で、高低の差別なく田畠もしくは桑畠に成っている。一段々々と刻んでは落ちている地層の側面は、焦茶色の枯草に掩(おお)われ、ところどころ赤黝(あかぐろ)い土のあらわれた場所もある。その赤土の大波の上は枯々な桑畠で、ウネなりに白い雪が積って、日光の輝きを受けていた。その大波を越えて、蓼科(たでしな)の山脈が望まれ、遙かに日本アルプスの遠い山々も見えた。その日は私は千曲川の凄まじい音を立てて流れるのをも聞いた。
 こんな風にして、溶けたと思う雪が復た積り、顕れた道路の土は復た隠れ、十二月に入って曇った空が続いて、日の光も次第に遠く薄く射すように成れば、周囲は半ば凍りつめた世界である。高い山々は雪嵐に包まれて、全体の姿を顕す日も稀だ。小諸の停車場に架けた筧(かけひ)からは水が溢れて、それが太い氷の柱のように成る。小諸は降らない日でも、越後の方から上って来る汽車の屋根の白いのを見ると、ア彼方は降ってるナと思うこともある。冬至近くに成れば、雪ともつかぬ水蒸気の群が細線の集合の如く寒い空に懸り、その蕭条(しょうじょう)とした趣は日没などに殊に私の心を引く。その頃には、軒の氷柱も次第に長くなって、尺余に及ぶのもある。草葺(くさぶき)の屋根を伝う濁った雫が凍るのだから、茶色の長い剣を見るようだ。積りに積る庭の雪は、やがて縁側より高い。その間から顔を出す石南木(しゃくなぎ)なぞを見ると、葉は寒そうにべたりと垂れ、強い蕾だけは大きく堅く附着(くっつ)いている。冬籠りする土の中の虫同様に、寒気の強い晩なぞは、私達の身体も縮こまって了う……
 こういう寒さと、凍った空気とを衝いて、私は未知の人々に逢う楽みを想像しながら、クリスマスのあるという日の暮方に長野へ入った。例の測候所の技手の家を訪ねると、主人はまだ若い人で、炬燵にあたりながら気象学の話や、文学上の精しい引証談なぞが、私の心を楽ませた。ラスキンが「近代画家」の中にある雲の研究の話なども出た。ラスキンが雲を三層に分けた頃から思うと、九層の分類にまで及んだ近時の雲形の研究は進んだものだ。こう主人が話しているところへ、ある婦人の客も訪ねて来た。
 私が主人から紹介されたその若い婦人は、牧師の夫人で、主人が親しい友達であるという。快活な声で笑う人だった。その晩歌うクリスマスの唱歌で、その主人の手に成ったものも有るとのことだった。やがて降誕祭(クリスマス)を祝う時刻も近づいたので、私達は連立って技手の家を出た。
 私が案内されて行った会堂風の建物は、丁度坂に成った町の中途にあった。そこへ行くまでに私は雪の残った暗い町々を通った。時々私は技手と一緒に、凍った往来に足を留めて、後部の方に起る女連の笑声を聞くこともあった。その高い楽しい笑声が、寒い冬の空気に響いた時は、一層雪国の祭の夜らしい思をさせた。後に成って私は、若い牧師夫人が二度ほど滑って転んだことを知った。
 赤々とした燈火は会堂の窓を泄れていた。そこに集っていた多勢の子供と共に、私は田舎らしいクリスマスの晩を送った。

     長野測候所

 翌朝、私は親切な技手に伴われて、長野測候所のある岡の上に登った。
 途次(みちみち)技手は私を顧みて、ある小説の中に、榛名(はるな)の朝の飛雲の赤色なるを記したところが有ったと記憶するが、飛雲は低い処を行くのだから、赤くなるということは奈何(いかが)などと話した。さすが専門家だけあって話すことがすべて精しかった。
 測候所は建物としては小さいが、眺望の好い位置にある。そこは東京の気象台へ宛てて日毎の報告を造る場所に過ぎないと言うけれども、万般の設備は始めての私にはめずらしく思われた。雲形や気温の表を製作しつつ日を送る人々の生活なぞも、私の心を引いた。
 やがて私は技手の後に随いて、狭い楼階(はしごだん)を昇り、観測台の上へ出た。朝の長野の町の一部がそこから見渡される。向うに連なる山の裾には、冬らしい靄が立ち罩めて、その間の空虚なところだけ後景が明かに透けて見えた。
 風力を測る器械の側で、技手は私に、暴風雨の前の雲――例えば広闊(こうかつ)な海岸の地方で望まれるようなは、その全形をこの信濃の地方で望み難いことを話してくれた。その理由としては、山が高くて、気圧の衝突から雲はちぎれちぎれに成るという説明をも加えてくれた。
「雲の多いのは冬ですが、しかし単調ですね。変化の多いと言ったら、矢張夏でしょう。夏は――雲の量に於いては――冬の次でしょうかナ。雲の妙味から言えば、私は春から夏へかけてだろうと思いますが……」
 こう技手は言って、それから私達の頭の上に群り集る幾層かの雲を眺めていたが、思い付いたように、
「あの雲は何と御覧ですか」
 と私に指して尋ねた。
 私も旅の心を慰める為に、すこしばかり雲の日記なぞをつけて見ているが、こう的確に専門家から問を出された時は、一寸返事に困った。

     鉄道草

 鉄道が今では中仙道なり、北国街道なりだ。この千曲川の沿岸に及ぼす激烈な影響には、驚かれるものがある。それは静かな農民の生活までも変えつつある。
 鉄道は自然界にまで革命を持来した。その一例を言えば、この辺で鉄道草と呼んでいる雑草の種子は鉄道の開設と共に進入し来ったものであるという。野にも、畠にも、今ではあの猛烈な雑草の蔓延しないところは無い。そして土質を荒したり、固有の草地を制服したりしつつある。

     屠牛(とぎゅう)の一

 上田の町はずれに屠牛場のあることは聞いていたがそれを見る機会もなしに過ぎた。丁度上田から牛肉を売りに来る男があって、その男が案内しようと言ってくれた。
 正月の元旦だ。新年早々屠牛を見に行くとは、随分物数寄(ものずき)な話だとは思ったが、しかし私の遊意は勃々(ぼつぼつ)として制え難いものがあった。朝早く私は上田をさして小諸の住居を出た。
 小諸停車場には汽車を待つ客も少い。駅夫等は集って歌留多(かるた)の遊びなぞしていた。田中まで行くと、いくらか客を加えたが、その田舎らしい小さな駅は平素より更に閑静で、停車場の内で女子供の羽子をつくさまも、汽車の窓から見えた。
 初春とは言いながら、寒い黄ばんだ朝日が車窓の硝子に射し入った。窓の外は、枯々な木立もさびしく、野にある人の影もなく、ひっそりとして雪の白く残った谷々、石垣の間の桑畠、茶色な櫟(くぬぎ)の枯葉なぞが、私の眼に映った。車中にも数えるほどしか乗客がない。隅のところには古い帽子を冠り、古い外套を身に纏い赤い毛布(ケット)を敷いて、まだ十二月らしい顔付しながら、さびしそうに居眠りする鉄道員もあった。こうした汽車の中で日を送っている人達のことも思いやられた。(この山の上の単調な鉄道生活に堪え得るものは、実際は越後人ばかりであるとか)
 上田町に着いた。上田は小諸の堅実にひきかえ、敏捷を以て聞えた土地だ。この一般の気風というものも畢竟(つまり)地勢の然らしめるところで、小諸のような砂地の傾斜に石垣を築いてその上に骨の折れる生活を営む人達は、勢い質素に成らざるを得ない。寒い気候と痩せた土地とは自然に勤勉な人達を作り出した。ここの畠からは上州のような豊富な野菜は受取れない。堅い地大根の沢庵(たくあん)を噛み、朝晩味噌汁に甘んじて働くのは小諸である。十年も昔に流行ったような紋付羽織を祝儀不祝儀に着用して、それを恥ともせず、否むしろ粗服を誇りとするが小諸の旦那衆である。けれども私は小諸の質素も一種の形式主義に落ちているのを認める。私は、他所で着て来たやわらか物を脱いでそれを綿服に着更えながら小諸に入る若い謀反人のあることを知っている。要するに、表面は空しく見せてその実豊かに、表面は無愛想でもその実親切を尊ぶのが小諸だ。これが生活上の形式主義を産む所以であろうと思う。上田へ来て見ると、都会としての規模の大小はさて措き、又実際の殷富(とみ)の程度はとにかく、小諸ほど陰気で重々しくない。小諸の商人は買いたか御買いなさいという無愛想な顔付をしていて、それで割合に良い品を安く売る。上田ではそれほどノンキにしていられない事情があると思う。絶えず周囲に心を配って、旧い城下の繁栄を維持しなければ成らないのが上田の位置だ。店々の飾りつけを見ても、競って顧客の注意を引くように快く出来ている。塩、鰹節、太物、その他上田で小売する商品の中には、小諸から供給する荷物も少なくないという。
 思わず私は山の上にある都会の比較を始めた。その日は牛のつぶし初(ぞ)めとかで、屠牛場の取締をするという肉屋を訪ねると、例の籠を肩に掛けて小諸まで売りに来る男が私を待っていていてくれた。私は肉屋の亭主にも逢った。この人は口数が少いが、何となく言葉に重味があって、牛のことには明るい人物だった。
 肉屋の若者等は空車をガラガラ言わせて町はずれの道を引いて行った。私達もその後に随いて、細い流を渡り、太郎山の裾へ出た。新しい建物の前に、鋭い目付の犬が五六匹も群がっていた。そこが屠牛場だった。
 黒く塗った門を入ると、十人ばかりの屠手が居た。その中でも重立った頭(かしら)は年の頃五十あまり、万事に老年な物の言振りをする男で、肥った頬に愛嬌を見せながら、肉屋の亭主に新年の挨拶などをした。検査室にも、待合室にも松が飾ってあって、繋留場(けいりゅうじょう)では赤い牝牛が一頭と、黒牛が二頭繋いであった。
 中央の庭には一頭の豚を入れた大きな箱も置いてあった。この庭は低い黒塗りの板塀を境にして、屠場に続いている。

     屠牛の二

 黒い外套に鳥打帽を冠った獣医が入って来た。人々は互いに新年の挨拶を取換した。屠手の群はいずれも白い被服を着け、素足に冷飯草履という寒そうな風体(ふうてい)で、それぞれ支度を始める。庭の隅にかがんで鋭い出刃包丁を磨ぐのもある。肉屋の亭主は板塀に立て掛けてあった大鉞(おおまさかり)を取って私に示した。薪割を見るような道具だ。一方に五六寸ほどの尖った鉄管が附けてある。その柄には乾いた牛の血が附着していた。屠殺に用いるのだそうだ。肉屋の亭主は沈着(おちつ)いた調子で、以前には太い釘の形状したのを用いたが、この管状の方が丈夫で、打撃に力が入ることなどを私に説明した。
 南部産の黒い牡牛が、やがて中央の庭へ引出されることに成った。その鼻息も白く見えた。繋いであった他の二頭は遽かに騒ぎ始めた。屠手の一人は赤い牡牛の傍へ寄り、鼻面を押えながら「ドウ、ドウ」と言って制する。その側には雑種の牡牛が首を左右に振り、繋がれたまま柱を一廻りして、しきりに逃れよう逃れようとしている。殆ど本能的に、最後の抵抗を試みんとするがごとくに見えた。
 死地に牽かれて行く牡牛はむしろ冷静で、目には紫色のうるみを帯びていた。皆な立って眺めている中で獣医は彼方此方と牛の周囲を廻って歩きながら、皮をつまみ、咽喉を押え、角を叩きなどして、最後に尻尾を持上げて見た。
 検査が済んだ。屠手は多勢寄って群って、声を励ましたり、叱ったりして、じッとそこに動かない牛を無理やりに屠場の方へ引き入れた。屠場は板敷で、丁度浴場の広い流し場のように造られてある。牛の油断を見すまして、屠手の一人は細引を前後の脚の間に投げた。それをぐッと引絞めると、牛は中心を保てない姿勢に成って、重い体[躯](からだ)を横倒しに板の間の上に倒れた。その前額のあたりを目がけて、例の大鉞の鋭い尖った鉄管を骨も砕けよとばかりに打ち込むものがあった。牛は目を廻し、足をバタバタさせて、鼻息も白く、幽かな呻き声を残して置いて気息も絶えんとした。
 この南部牛のまだ気息の残ったのを取繞(とりま)いて、屠手のあるものは尻尾を引き、あるものは細引を引張り、あるものは出刃でもって咽喉のあたりを切った。そのうちに多勢して、倒れた牛の上に乗って、茶色な腹の辺と言わず、背と言わず、とんとん踏みつけると、赤黒い血が切られた咽喉のところから流れ出した。砕けた前額の骨の間へは棒を深く差込んで抉り廻すものもあった。気息のあるうちは、牛は身を悶えて、呻いたり、足をヒクヒクさせたりして苦んだが、血が流れ出した頃には全く気息も絶えた。
 黒い大きな牛の倒れた姿が――前後の脚は一本ずつ屠場の柱にくくりつけられたままで、私達の眼前に横たわっていた。屠手の一人はその茶色の腹部の皮を縦に裂いて、見る間に脚の皮を剥(む)き始めた。また一人は、例の大鉞を振って、牛の頭を二つ三つ打つうちに、白い尖った角がポロリと板の間へ落ちた。この南部牛の黒い毛皮から、白い脂肪に包まれた中身が顕われて来たのは、間もなくであった。
 赤い牝牛が屠場へ引かれて来た。

     屠牛の三

 赤い牝牛に続いて、黒い雑種の牡も、型の如くに瞬く間に倒された。広い屠場には三頭の牛の体が横たわった。ふと板塀の外に豚の鳴き騒ぐ声が起った。庭へ出て見ると、白い、肥った、足の短い豚が死物狂いに成って、哀しく可笑しげな声を揚げながら、庭中逃げ廻っていた。子供まで集まって来た。負うものもあれば、逃げるものもあった。肉屋の亭主が手早く細引を投げ掛けると、数人その上に馬乗りに乗って脚を締めた。豚はそのまま屠場へ引摺られて行った。
「牛は宜う御座んすが、豚は暄(やかま)しくって不可ません。危ないことなぞは有りませんが、騒ぐもんですから――」
 こういう肉屋の亭主に随いて、復た私は屠場へ入って見た。豚は五人掛りで押えられながらも、鼻を動かしたり、哀しげに呻って鳴いたりした。牛の場合とは違って、大鉞などが用いられるでも無かった。屠手はいきなり出刃を揮(ふる)って生きている豚の咽喉(のど)を突いた。これに私はすくなからず面喰(めんくら)って、眺めていると豚は一層声を揚げて鳴いた。牛の冷静とは大違いだ。豚の咽喉から赤い血が流れ出た。その毛皮が白いだけ、余計に血の色が私の眼に映った。三人ばかりの屠手がその上に乗ってドシドシ踏み付けるかと見るうちに、忽ち豚の気息は絶えた。
 年をとった屠手の頭は彼方此方と屠場の中を廻って指図しながら歩いていた。その手も、握っている出刃も、牛と豚の血に真紅く染まって見えた。最初に屠(ほふ)られた南部牛は、三人掛りで毛皮も殆ど剥ぎ取られた。すこし離れてこの光景を眺めると、生々とした毛皮からは白い気の立つのが見える。一方には竹箒で板の間の血を掃く男がある。蹲踞(しゃが)んで出刃を磨くものもある。寒い日の光は注連(しめ)を飾った軒先から射し入って、太い柱や、そこに並んで倒れている牛や、白い被服(うわっぱり)を着けた屠手等の肩なぞを照らしていた。
 そのうちに、ある屠手の出刃が南部牛の白い腹部あたりに加えられた。卵色の膜に包まれた臓腑がべろべろと溢れ出た。屠手の中には牛の爪先を関節のところから切り放して、土間へ投出すのもあり、胴の中程へ出刃を入れて肉を裂くものもあった。牛の体からは膏が流れて、それが血のにおいに混って、屠場に満ちた。

     屠牛の四

 私は赤い牡牛が「引割(ひきわり)」という方法に掛けられるのを見た。それは鋸で腰骨を切開いて、骨と骨の間に横木を入れ、後部の脚に綱を繋いで逆さに滑車で釣し上げるのだ。屠手は三人掛りでその綱を引いた。
「そら、巻くぜ」
「ああまだ尻尾を切らなくちゃ」
 屠手の頭は手ずからその尻尾を切り放った。
「さあー車々」と言うものもあれば、「ホラ、よいせ」と掛声するものもあって、牡牛の体は柱と柱の間に高く逆さに掛かった。脊髄(あばら)の中央から真二つにそれを鋸で引割るのだ。ザクザクと、まるで氷でも引くように。
「どうも切れなくて不可(いけない)」
「鋸が切れないのか、手が切れないのか」
 と頭は頭らしいことを言って、笑い眺めていた。
 巡査が入って来た。子供達はおずおずと屠場を覗いていた。犬もボンヤリ眺めていた。巡査は逢う人毎に「御目出度う」と言ったまま、火のある小屋の方へ行った。このごちゃごちゃした屠場の中を獣医は見て廻って、「オイ正月に成ったら御装束をもっと奇麗にしよや」
 古びた白の被服を着けた屠手は獣医の方を見た。
「ハイ」
「醤油で煮染めたような物じゃ困るナ」
 南部牛は既に四つの大きな肉の塊に成って、その一つズツの股が屠場の奥に釣された。屠手の頭はブリキの箱を持って来て、大きな丸い黒印をベタベタと牛の股に捺(お)して歩いた。
 不思議にも、屠られた牛の傷ましい姿は、次第に見慣れた「牛肉」という感じに変わって行った。豚も最早一時前まで鳴き騒いだ豚の形体はなくて、紅味のある豚肉に成って行った。南部牛の頭蓋骨は赤い血に染みたままで、片方に投出してあったが、屠手が海綿でその血を洗い落した。肉と別々にされた骨の主なる部分は、薪でも切るように、例の大鉞で四つほどに切断せられた。屠手の頭も血にまみれた両手を洗って腰の煙草入を取出し、一服やりながら皆なの働くさまを眺めた。
「このダンベラは、どうかして其方へ片付けろ」
 と獣医は屠手に言付けて、大きな風呂敷包を見るような臓腑を片付けさしたが、その辺の柱の下には赤い牝牛の尻尾、皮、小さな二つの角なぞが残っていた。
 肉屋の若い者はガラガラと箱車を庭の内へ引き込んだ。箱にはアンペラを敷いて、牛の骨を投入れた。
「十貫六百――八貫二百――」
 なぞと読み上げる声が屠場の奥に起った。屠手は二人掛りで大きな秤(はかり)を釣して、南部牛や雑種や赤い牝牛の肉の目方を計る。肉屋の亭主は手帳を取出し一々それを鉛筆で書留めた。
 肉と膏(あぶら)と生血のにおいは屠場に満ち満ちていた。板の間の片隅には手桶に足を差入れて、牛の血を洗い落としている人々もある。牝牛の全部は早や車に積まれて門の外へ運び去られた。
「三貫八百――」
 それは最後に計った豚の片股を読み上げる声だった。肉屋の亭主に言わせると、牛は殆ど廃(すた)る部分が無い。頭蓋骨は肥料に売る。臓腑と角は屠手の利(もうけ)に成る。こんな話を聞きながら、間もなく私は亭主と連立って屠牛場の門を出た、枯々な桑畠の間には、喜び騒ぐ犬の声々と共に、牛豚の肉を満載した車の音が高く響き渡った。

   その十

     千曲川に沿うて

 これまで私が君に話したことで、君は浅間山脈と蓼科山脈との間に展開する大きな深い谷の光景を略(ほぼ)想像することが出来たろうと思う。私は君の心を浅間の山腹に連れて行って、あそこから見渡した千曲川の話もしたし、ずっと上流の方へ誘って行ってそこにある山々、村々の話もした。暇さえあれば私は千曲川沿岸の地方を探るのを楽みとした。私は岩村田から香坂へ抜け、内山峠を越して上州の方へも下りて見たし、依田川という千曲川の支流に随いて和田峠から諏訪の方へも出て見たし、霊泉寺の温泉から梅木峠を旅して別所温泉の方へ廻ったこともある。田沢温泉のことは君にも話した。君は私と共に、千曲川の上流にある主なる部分を見たというものだ。私は更に下流の方へ――越後に近い方まで君の心を誘って行こう。
 軽井沢の方角から雪の高原を越して次第に小諸へ降りて来た汽車、それに私が乗ったのは一月の十三日だ。この汽車が通って来た碓氷(うすい)の隧道には――一寸あの峠の関門とも言うべきところに――巨大な氷柱の群立するさまを想像してみたまえ。それから寒帯の地方と気候を同じくするという軽井沢付近の落葉松林(からまつばやし)に俗に「ナゴ」と称えるものが氷の花のように付着するさまを想像してみたまえ。
 汽車が小諸を離れる時、プラットフォムの上に立つ駅夫等の呼吸も白く見えた。窓の硝子越に眺めると田、野菜畠、桑畠、皆な雪に掩われて、谷の下の方を暗い藍色な千曲川の水が流れて行った。村落のあるところには人家の屋根も白く、土壁は暗く、肥桶をかついで麦畠の方へ通う農夫等も寒そうであった。田中の駅を通り過ぎる頃、浅間、黒斑、烏帽子等の一帯の山脈の方を望むと空は一面に灰色で、連続した山々に接した部分だけ朦朧と白く見えた。Unseen Whiteness――そんな言葉より外にあの深い空を形容してみようが無かった。窓側に遠く近く見渡される麦畠のサクの窪みへは雪が積って、それがウネウネと並行した白い線を描いた中に、枯々な雑木なぞがポツンポツンと立つのも見えた。
 雪国の鬱陶しさよ。汽車は犀川(さいかわ)を渡った。あの水を合せてから、千曲川は一層大河の趣を加えるが、その日は犀川附近の広い稲田も、岸にある低い楊(やなぎ)も、白い土質の崖も、柿の樹の多い村落も、すべて雪に掩われて見えた。その沈んだ眺望は唯の白さでなくて、紫がかった灰色を帯びたものだった。遠い山々は重く暗い空に隠れて、かすかに姿をあらわして見せた。この一面の雪景色の中で、僅かに単調を破るものは、ところどころに見える暗い杜と、低く舞う餓えた烏の群とのみだ。行手には灰色な雪雲も垂下がって来た。次第に私は薄暗い雪国の底の方へ入って行く気がした。ある駅を離れる頃には雪も降って来た。
 この旅は私独りでなく小諸から二人の連があった。いずれも私の家に近いところの娘達で、I、Kという連中だ。この二人は小諸の小学を卒えて、師範校の講習を受ける為に飯山まで行くという。汽車の窓から娘達の住む方を眺めて、眼を泣きはらして来る程の年頃で、知らない土地へ二人ぎり出掛るとは余程の奮発だ。でもまだ真実(ほんとう)に娘々したところのある人達で、互に肘で突付き合ったり、黄ばんだ歯をあらわして快活に笑ったり、背後から友達を抱いて車中の退屈を慰めたりなどする。Naiveな、可憐な、見ていても噴飯(ふきだ)したくなるような連中だ。御蔭で私も紛れて行った。Iの方は私の家の大屋さんの娘だ。
 豊野で汽車を下りた。そのあたりは耕地の続いた野で、附近には名高い小布施(おぶせ)の栗林もある。その日は四阿(あずま)、白根の山々も隠れてよく見えなかった。雪の道を踏んで行くうちに、路傍に、梨や柿の枯枝の見える、ある村の坂のところへ掛った。そこは水内(みのち)の平野を見渡すような位置にある。私が一度その坂の上に立った時は秋で、豊穣な稲田は黄色い海を見るようだった。向の方には千曲川の光って流れて行くのを望んだこともあった。遠く好い欅(けやき)の杜を見て置いたが、黄緑な髪のような梢からコンモリと暗い幹の方まで、あの樹木の全景は忘られずにある。雪の中を私達は蟹沢まで歩いた。そこまで行くと、始めて千曲川に舟を見る。

     川   船

 降ったり休んだりした雪は、やがて霙(みぞれ)に変って来た。あの粛々(しとしと)降りそそぐ音を聞きながら、私達は飯山行の便船が出るのを待っていた。男は真綿帽子を冠り、藁靴を穿き、女は紺色染の真綿を亀の甲のように背中に負って家の中でも手拭を冠る。それがこの辺で眼につく風俗だ。休茶屋を出て川の岸近く立って眺めると上高井の山脈、菅平の高原、高社山、その他の山々は遠く隠れ、対岸の蘆荻(ろてき)も枯れ潜み、洲の形した河心の砂の盛上がったのも雪に埋れていた。奥深く、果てもなく白々と続いた方から、暗い千曲川の水が油のように流れて来る。これが小諸附近の断崖を突いて白波を揚げつつ流れ下る同じ水かと思うと、何となく大河の勢に変って見える。上流の方には、高い釣橋が多いが、ここへ来ると舟橋も見られる。
そのうちに乗客が集って来た。私達は雪の積った崖に添うて乗場の方へ降りた。屋根の低い川船で、人々はいずれも膝を突合わせて乗った。水に響く艪(ろ)の音、屋根の上を歩きながらの船頭の話声、そんなものがノンキな感じを与える。船の窓から眺めていると、雪とも霙ともつかないのが水の上に落ちる。光線は波に銀色の反射を与えた。
 こうして蟹沢を離れて行った。上今井というところで、船を待つ二三の客が岸に立っていた。船頭はジャブジャブ水の中へ入って行って、男や女の客を負って来た。砂の上を離れる舟底の音がしたかと思うと、又た櫓の音が起った。その音は千曲川の静かな水に響いてあだかも牛の鳴声の如く聞える。舟が鳴くようにも。それを聞いていると、何とでも此方の思った様に聞えて、同行のIの苗字を思出せばそのように、Kの苗字を思出せば又そのように響いて来る。無邪気の娘達は楽しそうに聞き入った。両岸は白い雪に包まれた中にも、ところどころに村々の人家、雑木林、森なぞを望み、雪仕度して岸の上を行く人の影をも望んだ。その岸の上を以前私が歩いた時は、豆粟などの畠の熟する頃で、あの莢(さや)や穂が路傍に垂下っていた。そう、そう、私はあの時、この岸の下の方に低い楊の沢山蹲踞(うずくま)っているのを瞰下(みお)ろして、秋の日にチラチラする雑木の霜葉のかげからそれを眺めた時は、丁度羊の群でも見るような気がした。川船は今、その下を通るのだ。どうかすると、水に近い楊の枯枝が船の屋根に触れて、それを潜り抜けて行く時にはバラバラ音がした。
 船の中は割合に暖かだった。同じ雪国でも高原地に比べると気候の相違を感ずる。それだけ雪は深い。午後の日ざし加減で、対岸の山々が紫がかった灰色の影を水に映して見せる。私は船窓を開けて、つぶやくような波の音を聞いたり、舷(ふなべり)にあたる水を眺めたりして行った。この川船は白いペンキで塗って、赤い二本の筋をあらわしてある。
 ある舟橋に差掛った。船は無作法にその下を潜り抜けて行った。
 黒岩山を背景にして、広々とした千曲川の河原に続いた町の眺めが私達の眼前に展(ひら)けた。雪の中には鶏の鳴声も聞える。人家の煙も立ちこめている。それが旧い飯山の城下だ。

     雪の海

 一晩に四尺も降り積るというのが、これから越後へかけての雪の量だ。飯山へ来て見ると、全く雪に埋れた町だ。あるいは雪の中から掘出された町と言った方が適当かも知れぬ。
 この掘出されたという感じを強く与えるものは、町の往来に高く築き上げてある雪の山だ。屋根から下す多量な雪を、人々が集って積み上げ積み上げするうちに、やがて人家の軒よりも高く成る。それが往来の真中に白壁の如く続いている。家々の軒先には「ガンギ」というものを渡して、その下を用事ありげな人達が往来している。屋内の暗さも大凡(おおよそ)想像されよう。それに高い葭簾(よしず)で家をかこうということが、一層屋内を暗くする。私は娘達を残して置いて、独りで町へ出てみた。チラチラ雪の中で橙火の点く頃だった。私は天の一方に、薄暗い灰色な空が紅色を帯びるのを望んだ。丁度遠いところの火事が曇った空に映ずるように。それが落日の反射だった。
 雪煙もこの辺でなければ見られないものだ。実に陰鬱な、頭の上から何か引冠せられるような気のするところだ。土地の人が信心深いというのも、偶然では無いと思う。この町だけに二十何ヵ処の寺院がある。同じ信州の中でも、ここは一寸上方へでも行ったような気が起る。言葉遣いからして高原の地方とは違う。
 暗くなるまで私は雪の町を見て廻った。荷車の代わりに橇(そり)が用いられ、雪の上を馬が挽いて通るのもめずらしかった。蒲(がま)で編んだ箕帽子(みぼうし)を冠り、色目鏡を掛け、蒲脚絆(がまはばき)を着け、爪掛(つまかけ)を掛け、それに毛布だの、ショウルだので身を包んだ雪装束の人達が私の側を通った。
 復た霙が降って来た。千曲川の岸へ出て見ると、そこは川船の着いたところで対岸へ通うウネウネと長い船橋の上には人の足跡だけ一筋茶色に雪の上に印されたのが望まれた。時には雪鞋(ゆきぐつ)穿いた男にも逢ったが、往来の人の影は稀だった。高社、風原、中の沢、その他信越の境に聳ゆる山々は、唯僅かに山層のかたちを見せ、遠い村落も雪の中に沈んだ。千曲川の水は寂しく音もなく流れていた。
 しかし試みにサクサクと音のする雪を踏んで、船橋の上まで行って見ると、下を流れる水勢は矢のように早い。そこから河原を臨んだ時は一面の雪の海だった――そうだ、白い海だ。その白さは、唯の白さでなく、寂莫とした底の知れないような白さだった。見ているうちに、全身顫(ふる)えて来るような白さだった。

     愛のしるし

 飯山で手拭が愛のしるしに用いられるという話を聞いた。縁を切るという場合には手拭を裂くという。だからこの辺の近在の女は皆な手拭を大切にして、落して置くことを嫌うとか。
 これは縁起が好いとか、悪いとかいう類の話に近い。でも優しい風俗だ。

     山の上へ

「水内は古代には一面の水沢であったろう――その証拠には、飯山あたりの町は砂石の上に出来ている。土を掘って見ると、それがよく分る」
 種々の土地の話を聞き、同行した娘達を残して置いて翌朝私は飯山を発った。船橋を渡って、対岸から町の方に城山なぞを望み、それから岸の上の桑畠の雪に埋れた中を橇で走らせた。その橇は人力車の輪を取除して、それに「いたや」の堅い木片で造った橇を代用したようなものだ。梶棒と後押棒とあって人夫が二人掛りで引いたり押したりする。低い橇の構造だから梶棒を高く揚げると、乗った客はいくらか尻餅ついた形になる。とは言え、この乗りにくい橇が私の旅の心を喜ばせた。私は子供のような物めずらしさを以て人夫達の烈しい呼吸を聞いた。凍った雪の上を疾走して行った時は、どうかすると私は桑畠の中へ橇諸共ブチマケラレそうな気がした。
「ホウ――ヨウ――」という掛声と共に、雪の上を滑る橇の音、人夫達がサクサク雪を踏んで行く音まで私の耳に快感を起させた。川船で通って来た岸の雪景色は私の前に静かに廻転した。
 中野近くで橇を降りた。道路に雪のある間は足も暖かであったが、そのうちに黄ばんだ泥をこねて行くような道に成って、冷く、足の指も萎れた。親切な飯山の宿で、爪掛を貰って、それを私は草鞋の先に掛けて穿て来た。
 一月十四日のことで村々では「ものづくり」というものを祝った。「みずくさ」という木の赤い条(えだ)に、米の粉をまるめて繭(まゆ)の形をつくる。それを神棚に飾りつける。養蚕の前祝だという。
 帰りには、日光の為に眼もまぶしく、雪の反射で悩まされた。その日は千曲川の水も黄緑に濁って見えた。
 豊野から復た汽車で、山の上の方へ戻って行った時は次第に寒さの加わることを感じた。けれども私は薄暗い陰気な雪の中からいくらか明るい空の方へ出て来たような気がして、ホッと息を吐(つ)いた。

   その十一

     山に住む人々の一

 以前私が飯山からの帰りがけに――雪の道を橇で帰ったとは反対の側にある新道に添うて――黄ばんだ稲田の続いた静間平(しずまだいら)を通り、ある村はずれの休茶屋に腰掛けたことが有った。その時、私は善光寺の方へでも行く「お寺さんか」と聞かれて意外の問に失笑した事が有った。同行の画家B君は外国仕込の洋服を着、ボケットに写生帳を入れていたが、戯れに「お寺さん」に成り済まして一寸休茶屋の内儀(おかみ)をまごつかせた。私が笑えば笑う程、余計に内儀は私達を「お寺さん」にして了って、仮令(たとえ)内幕は世俗の人と同じようでも、それも各自の身に具ったものであることなどを、半ば羨み、半ば調戯うような調子で言った。この内儀の話は、飯山から長野あたりへかけての「お寺さん」の生活の一面を語るものだ。
 私は飯山行の話の中で、土地の人の信心深いことや、あの山間の小都会に二十何ヶ所の寺院のあることや、そういう旧態の保存されているところは一寸上方(かみがた)へでも行ったような気のする事を君に言って置いた。この古めかしい空気は、激しく変り行く「時」の潮流の中で、何時まで突き壊されずに続くものだろうか。とにかく、長い冬季を雪の中に過すような気候や地勢と相待って、一般の人の心に宗教的なところのあるのは事実のようだ。これは千曲川の下流に行って特にそう感ぜられる。
 長野では、私も善光寺の大きな建物と、あの内で行われるドラマチックな儀式とを見たばかりだし、それに眺望の好い往生寺の境内を歩いて見た位のもで、実際どういう人があるのか、精しくは知らない。飯山の方では私は何となく高い心を持った一人の老僧に逢ってみた。連添う老婦人もなかなかエラ者だ。この人達は古い大きな寺院を経営し、年をとっても猶活動を忘れないでいるという風だ。その寺では、丁度檀家に法事があるとやらで、御画像(おえぞう)というものを箱に入れ鄭重な風呂敷包にして借りて行く男なぞを見かけた。一寸したことだが、古風に感じた。
 君は印度(インド)に於ける仏蹟探検の事実を聞いたことがあるか。その運動に参加した僧侶の一人は、この老僧の子息さんで、娘の婿にあたる学士も矢張一行の中に加わった人だ。学士は当時英国留学中であったが、病弱な体[躯](たいく)を堤げて一行に加わり、印度内地及び錫蘭(セイロン)に於ける阿育王の遺跡なぞを探り、更に英国の方へ引返して行く途中で客死した。この学士の記念の絵葉書が、沢山飯山の寺に遺っていたが、熱帯地方の旅の苦みを書きつけてあったのなぞは殊に、私の心を引いた。老僧の子息さんは兵役に服しているとかで、その人には私は逢ってみなかった。旧い朽ちかかったような寺院の空気の中から、とにかくこういう新人物が生まれている。そしてそういう人達の背後には、親であり又た舅(しゅうと)姑(しゅうとめ)である老僧夫婦のような人達があって、幾十年となく宗教的な生活を送って来たことが想像される。
 しかし飯山地方に古めかしい宗教的の臭気が残っていて、二十何ヶ所の寺院が仮令維持の方法に苦みながらも旧態を保存しているということは、偶然でない。私はその老僧から、飯山の古い城主の中には若くて政治的生涯を離れ、僧侶の服を纏い、一生仏教の伝道に身を委ねた人のあったことを聞いた。又、白隠、恵端、その他すぐれた宗教家がそこに深い歴史的因縁を遺していることも聞いた。
 こういうことは高原の地方にはあまり無いことだ。第一そういう土地柄で無いし、そういう歴史の背景も無いし法の残燈を高く揚げているような老僧のような人も見当たらない。私は小諸辺で幾人かの僧侶に逢ってみたが、実際社会の人達に逢っていると殆んど変りがないように思った。養蚕時が来れば、寺の本堂の側に蚕の棚が釣られる。僧侶も労働して、長い冬籠の貯えを造らなければ成らない。

     山に住む人々の二

 学問の普及ということはこの国の誇りとするものの一つだ。多くの児童を収容する大校舎の建築物をこうした山間に望む景色は、一寸他の地方には見られない。そういう建物は何かの折に公会堂の役に立てられる。小諸でも町費の大部分を傾けて、他の町に劣らない程の大校舎を建築した。その高い玻璃窓(ガラスまど)は町の額のところに光って見える。
 こういう土地だから、良い教育家に成ろうと思う青年の多いのも不思議は無い。種々な家の事情からして遠く行かれないような学問好きな青年は、多く国に居て身を立てることを考える。毎年長野の師範学校で募集する生徒の数に比べて、それに応じようとする青年の数は可なり多い。私達の学校にも、その準備の為に一二年在学する生徒がよくある。
 一体にこの山国では学者を尊重する気風がある。小学校の教師でも、他の地方に比べると、比較的好い報酬を受けている。又、社会上の位置から言っても割合に尊敬を払われている。その点は都会の教育家などの比でない。新聞記者までも「先生」として立てられる。長野あたりから新聞記者を聘(へい)して講演を聴くなぞはここらでは珍しくない。何か一芸に長じたものと見れば、そういう人から新智識を吸集しようとする。小諸辺のことで言ってみても、名士先生を歓迎する会は実に多い。あだかも昔の御関所のように、そういう人達の素通りを許さないという形だ。
 御蔭で私もここへ来てから種々な先生方の話を拝聴することが出来た。故福沢諭吉氏も一度ここを通られて、何か土産話を置いて行かれたとか。その事は私は後で学校の校長から聞いた。朝鮮亡命の客でよく足を留めた人もある。旅の書家なぞが困って来れば、相応に旅費を持たせて立たせるという風だ。概して、軍人も、新聞記者も、教育家も、美術家も、皆な同じように迎えられるる傾きがある。
 こうした熱心な何もかも同じように受入れようとする傾きは、一方に置いて一種重苦しい空気を形造っている。強いて言えば、地方的単調……その為には全く気質を異にする人でも、同じような話しか出来ないようなところがある。
 それから佐久あたりには殊に消極的な勇気に富んでいる人を見かける。ここには極くノンキな人もいるが又非常に理窟ッぽい人もいる。
 何故こう信州人は理窟ッぽいだろう、とよく聞く話だが、一体に人の心が激しいからだと重う。槲(かしわ)の葉が北風に鳴るように、一寸したことにも直に激し顫えるような人がある。それにつけて思出すことは、私が小諸へ来たばかりの時、青年会を起そうという話が町の有志者の間にあった。一同光岳寺の広間に集った時は、盛んな議論が起った。私達の学校のI先生なぞは、若い人達を相手に薄暗くなるまでも火花を散らしていたものだ。皆な草臥れて、規則だけは出来たが、到頭その青年会はお流れに成って了ったことが有った。
 一方に、極く静かな心を持った人と言えば、私達の学校で植物科を受持っているT君なぞがその一人であろう。ほんとに学者らしい。そして静かな心だ。どんな場合でも、私はT君の顔色の変ったのを見たことが無い。小諸からすこし離れた西原という村から出た人だ。T君の顔を見ると私は学校中で誰に逢うよりも安心する。

     山に住む人々の三

 警察と鉄道に従事する人達は他郷からの移住者が多い。町の平和を監督する署長さんと言えば、大抵他の地方の人だ。ここの巡査の中にはでも土地から出て奉職する人なぞがあって、ポクポクと親しみのある靴の音をさせる。
 鉄道の方の人達は停車場の周囲に全く別の世界を造っている。忍耐力の強い越後人より外に、この山の上の鉄道生活に堪え得るものは無いとも言われている。大手に住む話好きな按摩から、今の駅長のことを聞いたことが有った。この人は新橋から直江津に移り、車掌を五年勤め、それから助役に七年の月日を送って来たという。同じ山の上に住んでも、こうした懸け離れた生活を送っている人もある。
 以前ある駅長が残して行った話だと言って、按摩はまた次のようなことを私に語って聞かせた。「もと、越後の酒造で、倉番した人ということで御座います。遽(にわか)に出世致しまして、ここの駅長さんと御成んなさいました。ある時、電信掛の技手に向い、葡萄酒罎(びん)の貼紙を指しまして、どうだ君にこの英語が読めるかとそう申しました。読めるなら一升奢ろうというんで御座います。その駅長さんの無学なことは技手も承知しておりましたから、わざと私には読めません、貴方一つ御読みなすって下さい。それこそ私が酒でもこの葡萄酒でも奢りますからと申しました。フムそうか、君はよくこんなものが読めなくて鉄道が勤まるネ、そんな話でその場は分れて了いました。技手はもし譴責(けんせき)でもされたら酒にかこつける下心で、すこし紅い顔をして駅長さんの前に出ました。先刻は大きに失礼致しました、憚りながらこんなものは英語のイロハだ、皆さんも聞いて下さい。この貼紙にはこう云うことが書いてあると言うて、ペロペロと読んで聞かせました。ウンそうかい、そういうことが書いてあるのか、成程君はエライものだ、そういう学力があろうとは今まで思わなかった……」
 こんな口論の末から駅長と技手とはすべて反対に出るように成った。間もなくその駅長は面白くなくて、小諸を去ったとか。
 線路の側に立っているポイント・メンこそはこの山の上で寂しい生活を送る移住者の姿であろう。勤めの時間は二昼夜にわたって、それで一日の休みにありつくという。労働の長いのに苦むとか。私は学校の往還に、懐古園の踏切を通るが、あの見張番所のところには、ポイント・メンが独りでポツンと立っているのをよく見かける。

     柳田茂十郎

 先代柳田茂十郎さんと言えば、佐久地方の商人として、いつでも引合に出される。茂十郎さんの如きは極端に佐久気質を発揮した人の一人だ。
 諸国まで名を知られたこの商人も、一時は商法の手違いから、豆腐屋にまで身を落したことがある。そこまで思いきって行ったところが茂十郎さんかも知れない。でも、この人が小諸で豆腐屋を始めた時は、誰も気の毒に思って買う人が無かったとのことだ。茂十郎さんの家では、もと酒屋であったが、造酒は金を寝かして商法に働きの少いのを見て取り、それから茶商に転じたという。時間の正しい人で、すこしでも掛値すれば、ずんずん帰って行くという風であったとか。幾人かの子に店を出させ、存命中はキチンキチンと屋賃を取り、死に際にその店々を分けてくれて行った。一度でも茂十郎さんの家へ足踏したもののためには、死後に形見が用意してあったと言って驚いて、他に話した女があったということも聞いた。私達の学校の校長に逢うと、よく故人の話が出て、客に呼ばれて行って一座した時でも無駄には酒を飲まなかったと言って徳利を控えた手付までして聞かせる。
「酒を飲むだけ飲めば、それで可いものです」
 万事に茂十郎さんはこういう調子の人だったと聞いた。

     小作人の家

 学校の小使の家を訪ねる約束をした。辰さんは年貢を納める日だから私に来て見ろと言ってくれた。
 小諸新町の坂を下りると、浅い谷がある。細い流を隔てて水車小屋と対したのが、辰さんの家だ。庭には蓆(むしろ)を敷きつめ、籾を山のように積んで、辰さん兄弟がしきりと働いていた。
 かねて懇意な隠居に伴われて私は暗い小作人の家へ入った。猫の入物とかで、藁で造った行火(あんか)のような物が置いてある。私には珍しかった。しるしばかりに持って行った手土産を隠居は床の間の神棚の前に供え、鈴を振り鳴らし、それから炬燵にあたりながら種々な話を始めた。極く無愛想な無口な五十ばかりの痩せた女も黙って炬燵にあたっていた。その側には辰さんの小娘も余念なく遊んでいた。この無口な女と、竈の前に蹲踞(うずくま)っている細帯〆た娘とは隠居の家に同居する人らしかった。で、私はこれらの人に関わず隠居の話に耳を傾けた。
 話好きな面白い隠居は上州と信州の農夫の比較なぞから、種々な農具のことや地主と小作人の関係なぞを私に語り聞かせた。この隠居の話で、私は新町辺の小作人の間に小さな同盟罷工(ひこう)ともいうべきが時々持ち上がることを知った。隠居に言わせると、何故小作人が地主に対して不服があるかというに、一体にこの辺では百坪を一升蒔(まき)と称え、一ツカを三百坪に算し、一升の籾は二百八十目に量って取立てる、一ツカと言っても実際三百坪は無い、三百坪なくて取立てるのはその割で取る、地主と半々に分けるところは異数な位だ。そこで小作人の苦情が起る。無智な小作人がまた地主に対する態度は、種々なところで人の知らない復讐をする。仮令ば俵の中へ石を入れて目方を重くし、俵へ霧を吹いて目をつけ、又は稲の穂を顧みないで藁を大事にし、その他種々な悪戯をして地主を苦める。こんなことをしたところで、結局「三月四月は食いじまい」だ。尤も、そのうちには麦も取れる。
「しかし私の時には定屋様(地主)がお出なさると、必(きっ)と一升買って、何がなくとも香の物で一杯上げるという風でした。今年は倅に任しときましたから、彼奴はまたどんな風にするか……私の時には昔からそうでした」
 こう隠居は私に話して笑った。
 そのうちに家の外では「定屋さんになア、来て御くんなしょって、早く行って来てくれや」という辰さんの声がする。日の光は急に戸口より射し入り、暗い南の明窓も明るくなった。「ああ、日が射して来た、先刻までは雪模様でしたが、こりゃ好い塩梅だ」と復た辰さんが言っていた。
 細帯締た娘は茶を入れて私達の方へ持って来てくれた。炬燵にあたっていた無口な女は、ぷいと台所の方へ行った。
 隠居は小声に成って、
「私も唯一人ですし、平常は誰も訪ねて来るものが無いんです。年寄ですからねえ……ですから置いてくれというので、ああいうものを引受けて同居さしたところが忰が不服で黙ってあんなものを入れたって言いますのさ」
「飯なぞは炊いてくれるんですか」と私が聞いた。
「それですよ、世間の人はそう思う。ところが私は炊いて貰わない。どうしてそんな事をしようものなら皆な食われて了う……そこは私もなかなか狡いや。だけれども世間の人はそう言わない。そこがねえ辛いと言うもんです」
 古い洋傘の毛繻子の今は炬燵掛と化けたのを叩いて、隠居は掻口説(かきくど)いた。この人の老後の楽みは、三世相に基づいて、隣近所の農夫等が吉兆を卜うことであった。六三の呪禁(まじない)と言って、身体の痛みを癒す祈祷なぞもする。近所でも物識と言われている老農夫である。私はこの人から「言海」のことを聞かれて一寸驚かされた。
「昔の恥を御話し申すんじゃないが、私も若い時には車夫をしてねえ、日に八両ずつなんて稼いだことが有りましたよ。八両サ。それがねえ、もうぱっぱと湯水のように無くなって了う。どうして若い時の勢ですもの。私はこれで、どんなことでも人のすることは大概してみましたが、博奕と牢屋の味ばかしは知らない――ええこればかしは知らない」
 こう隠居が笑っているところへ、黄な真綿帽子を冠った五十恰好の男が地味な羽織を着て入って来た。
「定屋さんですよ」辰さんが呼んだ。
 地主は屋の内に入って炬燵に身を温めながら待っていた。私が屋外の庭の方へ出ようとすると、丁度水車小屋の方から娘が橋を渡って来て、そこに積み重ねた籾の上へ桝を投げて行った。辰さんは年貢の仕度を始めた。五歳ばかりの小娘が来て、辰さんの袖に取縋(とりすが)った。辰さんが父親らしい情の籠った口調で慰めると、娘は頭から肩まで顫わせて、泣く度に言うこともよく解らない位だった。
「今に母さんが来るから泣くなよ」
「手が冷たい……」
「ナニ、手が冷たい? そんなら早く行ってお炬燵(こた)へあたれ」
 凍った娘の手を握りながら、辰さんは家の内へ連れて行った。
 谷に面した狭い庭には枯々な柿の樹もあった。向うの水車も藁囲いされる頃で、樋(とい)の雫は氷の柱に成り、細谷川の水も白く凍って見える。黄ばんだ寒い日光は柿の枯枝を通して籾を積み上げた庭の内を照らして見せた。年老いた地主は白髪頭を真綿帽子で包みながら、屋の内から出て来た。南窓の外にある横木に倚凭(よりかか)って、寒そうに袖口を掻合せ、我と我身を抱き温めるようにして、辰さん兄弟の用意するのを待った。
「どうで御座んすなア、籾の造え具合は」
 と辰さんに言われて、地主は白い柔かい手で籾を掬って見て一粒口の中へ入れた。
「空穂が有るねえ」と地主が言った。
「雀に食われやして、空穂でも無いでやす。一俵造えて掛けて見やしょう」
 地主は掌中の籾をあけて、復た袖口を掻き合せた。
 辰さんは弟に命じて籾を箕(み)に入れさせ、弟はそれを円い一斗桝に入れた。地主は腰を曲めながら、トボというものでその桝の上を丁寧に撫で量った。
「貴様入れろ、声掛けなくちゃ御年貢のようで無くて不可」と辰さんは弟に言った。「さあ、どっしり入れろ」
「一わたりよ、二わたりよ」と弟の呼ぶ声が起った。
 六つばかりの俵がそこに並んだ。一俵に六斗三升の籾が量り入れられた。辰さんは桟俵(さんだわら)を取って蓋をしたが、やがて俵の上に倚凭って地主と押問答を始めた。地主は辰さんの言うことを聞いて、目を細め、無言で考えていた。気の利いた弟は橋の向うへ走って行ったかと思ううちに、酒徳利を風呂敷包にして、頬を紅くし、すこし微笑みながら戻って来た。
「御年貢ですか、御目出度う」と言って入って来たのは水車小屋の亭主だ。
 私は、藁仕事なぞの仕掛けてある物置小屋の方に邪魔にならないように居て、桟俵なぞを尻に敷きながら、この光景を眺めた。辰さんは俵に足を掛けて藁縄で三ところばかり縛っていた。弟も来てそれを手伝うと、乾いた縄は時々切れた。「俵を締るに縄が切れるようじゃ、まだ免状は覚束ないなア」と水車小屋の亭主も笑って見ていた。
「一俵掛けて見やしょう」
「いくらありやす。出放題あるわ。十八貫八百――」
「これは魂消(たまげ)た」
「十八貫八百あれば、まあ好い籾です」
「俵にもある」
「そうです、俵にもありやすが、それは知れたもんです」
「おらがとこは十八貫あれば可いだ」
「なにしろ坊主九分混りという籾ですからなア」
 人々の間にこんな話が交換された。水車小屋の亭主は地主に向って、米価のことを話し合って、やがて下駄穿のまま籾の上を越して別れて行った。
「どうだいお前の体格じゃ二俵位は大丈夫担げる」
 と地主に言われて辰さんの弟は一俵ずつ両手に抱え、顔を真紅にして持ち上げてみたりなぞして戯れた。
「まあ、お茶一つお上り」
 と辰さんは地主に言って、私にもそれを勧めた。真綿帽子を脱いで屋の内に入る地主の後に随いて、私も凍えた身体を暖めに行った。「六俵の二斗五升取りですか」
 こう辰さんが言ったのを隠居は炬燵にあたりながら聞咎めた。地主の前に酒徳利の包を解きながら、
「二斗五升って事が有るもんか。四斗五升よ」
「四斗……」と地主は口籠る。
「四斗五升じゃないや。四斗七升サ。そうだ――」と復た隠居が言った。
「四斗七升?」と地主は隠居の顔を見た。
「ああ四斗七升か」と云い捨てて、辰さんは庭の方へ出て行った。
 私達は炬燵の周囲に集った。隠居は古い炬燵板を取出して、それを蒲団の上に載せ、大丼に菎蒻(こんにゃく)と油揚の煮付を盛って出した。小皿には唐辛子の袋も添えて出した。古い布で盃を拭いて、酒は湯沸に入れて勧めてくれた。
「冷ですよ。燗ではありませんよ――定屋様はこの方で被入(いら)っらしゃるから」
 こう隠居でも気軽な調子で言った。地主は煙管を炬燵板の間に差し込み、冷酒を舐め舐め隠居の顔を眺めて、
「こういう時には婆さんが居ると、都合が好いなア」
 地主の顔には始めて微かな笑が上った。隠居は款待顔(もてなしがお)に、
「婆さんに別れてからねえ、今年で二十五年に成りますよ」
「もう好加減に家に入れるが可いや」
「まあ聞いて下さい。婆さんには子供が七人も有りましたが、皆な死んで了った……今の辰は貰い子でサ……どうでしょう、婆さんが私の留守に、家の物を皆な運んで了う。そりゃ男と女の間ですから、大抵のことは納まりますサ……納まりますが……盗みばかりは駄目です。今ここで婆さんを入れる、あの隠居も神信心だなんて言いながら、婆さんの溜めたのを欲しいからと人が言う。それが厭でサ。婆さんが来ても、直に盗みの話に成ると納まらないや。モメて仕様が無い。ホラ、あの話ねえ――段々卜(うらな)ってみると、盗人が出て来ましたぜ。可恐(おそろ)ろしいもんだねえ」
 隠居の話し振りには実に気の面白い、小作人仲間の物識と立てられるだけのことがあった。地主と隠居の間には、台所の方に居る同居人母子のことに就いてこんな話も出た。
「へえ、あれが娘ですか」
「子も有るんでさあね。可哀そうだから置いて遣ろうと言うんですよ。妙に世間では取る……私だって今年六十七です……この年になって、あんな女を入れたなんて言われちゃ、つまらない――それが口惜しいサ」
「幾歳に成ったって気は同じよ」
 御蔭で私もめったに来たことのない屋根の下で、百姓らしい話を聞きながら、時を送った。菎蒻と油揚の馳走に成って、間もなく私はこの隠居の家を辞した。

   その十二

     路傍の雑草

 学校の往還に――すべての物が白雪に掩われている中で――日の映った石垣の間などに春待顔な雑草を見つけることは、私の楽みに成って来た。長い間の冬籠りだ。せめて路傍の草に親しむ。
 南向きもしくは西向の桑畠の間を通ると、あの葉の縁だけ紫色な「かなむぐら」がよく顔を出している。「車花」ともいう。あの車の形した草が生えているような土手の雪間には、必(きつ)と「青はこべ」も蔓(は)いたくっている。「青はこべ」は百姓が鶏の雛にくれるものだと学校の小使が言った。石垣の間には、スプゥンの形した紫青色の葉を垂れた「鬼のはばき」や、平べったい肉厚な防寒服を着たような「きしゃ草」なぞもある。蓬の枯れたのや、その他種々な雑草の枯れ死んだ中に、細く短い芝草が緑を保って、半ば黄に、半ば枯々としたのもある。私達が学校のあるあたりから士族屋敷地へかけては水に乏しいので、到るところに細い流を導いてある。その水は学校の門前をも流れている。そこへ行って見ると、青い芝草が残って、他の場所で見るよりは生々としている。
 どういう世界の中にこれ等の雑草が顔を出し、中には極く小さな蕾の支度をしているか、それも君に聞いて貰いたい。一月の二十七日あたりから三十一日を越え、二月六日頃までは、殆んど寒さの絶頂に達した。山の上に住み慣れた私も、ある日は手の指の凍り縮むのを覚え、ある日は風邪のために発熱して、気候の激烈なるに驚かされる。降った雪は北向の屋根や庭に凍って、連日溶くべき気色もない……私は根太(ねだ)の下から土と共に持ち上って来た霜柱の為に戸の閉らなくなった古い部屋を見たことがある。北向の屋根の軒先から垂下る氷柱は二尺、三尺に及ぶ。身を包んで屋外を歩いていると気息がかかって外套の襟の白くなるのを見る。こういう中で元気の好いのは屋根の上を飛ぶ雀と雪の中をあさり歩く犬とのみだ。
 草木のことを言えば、福寿草を小鉢に植えて床の間に置いたところが、蕾の黄ばんで来る頃から寒さが強くなって、暖い日は起き、寒い日は倒れ萎れる有様である。驚くべきは南天だ。花瓶の中の水は凍りつめているのに、買って挿した南天の実は赤々と垂下って葉も青く水気を失わず、活々と変るところが無い。
 君は牛乳の凍ったのを見たことがあるまい。淡い緑色を帯びて、乳らしい香もなくなる。ここでは鶏卵も氷る。それを割れば白味も黄味もザクザクに成っている。台処の流許(ながしもと)に流れる水は皆な凍り着く。葱の根、茶滓まで凍り着く。明窓へ薄日の射して来た頃、出刃包丁か何かで流許の氷をかんかん打割るというは暖い国では見られない図だ。夜を越した手桶の水は、朝に成って見ると半分は氷だ。それを日にあて、氷を叩き落し、それから水を汲入れるという始末だ。沢庵も、茶漬も皆な凍って、噛めばザクザク音がする。時には漬物まで湯ですすがねばならぬ。奉公人の手なぞを見れば、黒く荒れ、皮膚は裂けてところどころ紅い血が流れ、水を汲むには頭巾を冠って手袋をはめてやる。板の間へ掛けた雑巾の跡が直に白く凍る朝なぞはめずらしくない。夜更けて、部屋々々の柱が凍(し)み割れる音を聞きながら読書でもしていると、実に寒さが私達の骨まで滲透るかと思われる……
 雪の襲って来る前は反って暖かだ。夜に入って雪の降る日なぞは、雨夜のさびしさとは、違って、また別の沈静な趣がある。どうかすると、梅も咲くかと疑われる程、暖かな雪の夜を送ることがある。そのかわり雪の積った後と来ては、堪えがたいほどの凍み方だ。雪のある田畠へ出て見れば、まるで氷の野だ。こうなると、千曲川も白く氷りつめる。その氷の下を例の水の勢で流れ下る音がする。

     学生の死

 私達の学校の生徒でOという青年が亡くなった。曾て私が仙台の学校に一年ばかり教師をしていた頃――私はまだ二十五歳の若い教師であったが――自分の教えた生徒が一人亡くなって、その葬式に列なった当時のことなぞを思出しながら、同僚と共にOの家をさして出掛けた。若くて亡くなった種々な人達のことが私の胸を往来した。
 Oの家は小諸の赤坂という町にある。途中で同僚の老理学士と一緒に成って、水彩画家M君の以前住んでいた家の前を通った。その辺は旧士族の屋敷地の一つで、M君が一年ばかり借りていたのも、矢張古めかしい門のある閑静な住居だ。M君が小諸に足を停(とど)めたころは非常な勉強で、松林の朝、その他の風景画を沢山作られた。私がよく邪魔に出掛けて、この辺の写生を見せて貰ったり、ミレエの画の話なぞをしたりして、時を送ったのもその故家(ふるや)だ。
 細い流について、坂の町を下りると、私達は同僚のT君、W君なぞが誘い合せてやって来るのに逢う。Oは暮に兄の仕立屋へ障子張の手伝いに出掛け、身体の冷えてゾクゾクするのも関わす、入浴したが悪かったとかで、それから急に床に就き、熱は肺から心臓に及び、三人の医者が立合で、心臓の水を取った時は、四合も出たという。四十日ほど病んで十八歳で、亡くなった。話好きな理学士を始め、同僚の間には種々とOの話が出た。Oは十歳位の頃から病身な母親の世話をして、朝は自分で飯を炊き、母の髪まで結って置いて、それから学校に行ったという。病中も、母親の見えるところに自分の床を敷かせてあった、と語る人もあった。
 葬式はOの自宅で質素に行われるというので、一月三十一日の午前十時頃には身内のもの、町内の人達、教師、同窓の学生なぞが弔いに集った。Oは耶蘇(やそ)信者であったから、寝棺には黒い布を掛け、青い十字架をつけ、その上に牡丹の造花を載せ、棺の前で讃美歌が信徒側の人々によって歌われた。祈祷、履歴、聖書の朗読という順序で、哥林多(コリンタ)後書の第五章の一節が読まれた。私達の学校の校長は弔いの言葉を述べた。人誰か死ならかん、この兄弟のごとく惜まれむことを願え、という意味の話なぞがあった時は、年老いたOの母親は聖書を手にして泣いた。
 士族地の墓地まで、私は生徒達と一緒に見送りに行った。松の多い静な小山の上にOの遺骸が埋められた。墓地でも賛美歌が歌われた。そこの石塔の側、ここの松の下には、Oと同級の生徒が腰掛けたり佇立んだりして、この光景を眺めていた。

     暖かい雨

 二月に入って暖い雨が来た。
 灰色の雲も低く、空は曇った日、午後から雨となって、遽(にわ)かに復活(いきかえ)るような温暖さを感じた。こういう雨が何度も何度も来た後でなければ、私達は譬えようの無い烈しい春の饑渇(きかつ)を癒すことが出来ない。
 空は煙か雨かと思うほどで、傘さして通る人や、濡れて行く馬などの姿が眼につく。単調な軒の玉水の音も楽しい。
 堅く縮こまっていた私の身体もいくらか延び延びとして来た。私は言い難き快感を覚えた。庭に行って見ると、汚れた雪の上に降りそそぐ音がする。屋外へ出て見ると、残った雪が雨のために溶けて、暗い色の土があらわれている。田畠も漸く冬の眠から覚めかけたように、砂まじりの土の顔を見せる。黄ばんだ竹の林、まだ枯々とした柿、李(すもも)、その他眼にある木立の幹も枝も、皆な雨に濡れて、黒々と穢(きたな)い寝恍顔(ねぼけがお)をしていない物は無い。
 流の音、雀の声も何となく陽気に聞えて来る。桑畠の桑の根元までも濡らすような雨だ。この泥濘(ぬかるみ)と雪解と冬の瓦解の中で、うれしいものは少し延びた柳の枝だ。その枝を通して、夕方には黄ばんだ灰色の南の空を望んだ。
 夜に入って、淋しく暖い雨垂の音を聞いていると、何となく春の近づくことを思わせる。

     北山の狼、その他

 生徒と一緒に歩いていると、土地の種々な話を聞く。ある生徒が北山の狼の話を私にした。その足跡は里犬よりも大きく、糞は毛と骨で――雨晒しになったのを農夫が熱の薬に用いる。それは兎や鳥なぞを捕まえて食うためだという。お伽話の世界というものはこうした一寸した話のはしにも表れているような気がする。
 野蛮な話を聞くこともある。ここには鶏を盗むことを商売にしている人がある。雄鶏と雌鳥と遊ぶところへ、釣針で餌をくれ、鳥の咽喉に引掛けて釣取るという。犬を盗むものもある。それは黒砂糖で他の犬を呼び出し、殺して煮て食い、皮は張付けて敷物に造るとか。
 土地の話の序(ついで)だ。この辺の神棚には大きな目無し達磨の飾ってあるをよく見掛ける。上田の八日堂と言って、その縁日に達磨を売る市が立つ。丁度東京の酉の市の賑いだ。願い事が叶えば、その達磨に眼を入れて納める。私は海の口村の怪しげな温泉宿で一夜を送ったことがあったが、あんな奥にも達磨が置いてあるのを見た。
 ここは養蚕地だから、蚕祭というのをする。その日は繭の形を米の粉で造り、笹の葉を載せて祭るのだ。
 二月八日の道祖神の祭は、いかにも子供の祭らしいものだ。土地の人は訛って「どうろく神」と呼んでいる。あの子供の好きなと言い伝える路傍の神様の小さな祠のところへ藁の馬に餅を載せて曳いて行くのは、古めかしい無邪気な風俗だ。幼いものの楽みとする日だ。

     御辞儀

 私達の学校の校長が小諸小学校の講堂に演説会のあったのを機会として、医者仲間の無能を攻撃したという出来事があった。先生の演説は直接には聞かなかったが、それがヤカマしい問題を惹(ひき)起こしたことを、後で私は理学士から聞いた。一体先生がこの地方に退いて青年の教育を始めるまでには長い経歴を持って来た人で、随分町の相談にも預って種々な方面に意見の立てられる人だし、守山あたりの桃畠が開けたのも先生の力だと言われている位だ。とにかく、先生はエナアゼチックな勇健な体[躯]を具えた、何か為ずにはいられないような人だ。こういう気象の先生だから、演説でもする場合には、ややもするとその飛沫(とばしり)が医者仲間なぞにまで飛んで行く。細心な理学士は又それを心配して私のところへ相談に来るという風だ。
 ある晩、岡源という料理屋からの使で、警察の署長さんの手紙を持って来た。開けて見ると、私に来てくれとしてある。私はこの署長さんが仲裁の労を取ろうとしていることを薄々聞いていた。果して、岡源の二階には小諸医会の面々が集っていた。その時私は校長に代って、さきの失礼を謝して貰いたいと言われた。何しろ私は先生の演説を知らないのだから、謝して可いものかどうかの判断もつきかねた。謝すべきものなら先生が来て謝する、一応私は先生の意見を聞いてからのことにしようとした。この形成を看て取った署長さんは、いきなり席を離れ、町の平和というものの為に、皆なの方へ向いて御辞儀をした。急に医者仲間も坐り直した。何事も知らない私は譲る気は無かったが、署長さんの行為に対しても頭を下げずに入られなかった。御辞儀をしてこの二階を引取った時、つくづく私は田舎教師の勤めもツライものだと思った。
 その翌日、私は中棚に校長を訪ねて、先生のために御辞儀をさせられたことを話して笑った。すると先生は先生で忌々しそうに、そんな御辞儀には及ばなかったという返事だ。実に、損な役廻りを勤めたものだ。

     春の先駆

 一雨ごとに温暖さを増して行く二月の下旬から三月のはじめへかけて桜、梅の蕾も次第にふくらみ、北向の雪も漸く溶け、灰色な地には黄色を増して来た。楽しい春雨の降った後では、湿った梅の枝が新しい紅味を帯びて見える。長い間雪の下に成っていた草屋根の青苔も急に活き返る。心地の好い風が吹いて来る。青空の色も次第に濃くなる。あの羊の群でも見るような、さまざまの形した白い黄ばんだ雲が、あだかも春の先駆をするように、微かな風に送られる。
 私は春らしい光を含んだ西南の空に、この雲を注意して望んだことがあった。ポッと雲の形があらわれたかと思うと、それが次第に大きく、長く、明らかに見えて南へ動くに随って消て行く。すると復た、第二の雲の形が同一の位置にあらわれる。そして同じように展開する。柔かな乳青の色の空に、すこし灰色の影を帯びた白い雲が遠く浮かんだのは美しい。

     星

 月の上るは十二時頃であろうという暮方、青い光を帯びた星の姿を南の方の空に望んだ。東の空には赤い光の星が一つ掛った。天にはこの二つの星があるのみだった。山の上の星は君に見せたいと思うものの一つだ。

     第一の花

「熱い寒いも彼岸まで」とは土地の人のよく言うことだが、彼岸という声を聞くと、ホッと溜息が出る。五ヵ月の余に渡る長い長い冬を漸く通り越したという気がする。その頃まで枯葉の落ちずにいる槲(かしわ)、堅い大きな蕾を持って雪の中で辛抱し通したような石楠木(しゃくなぎ)、一つとして過ぎ行く季節の記念でないものは無い。
 私達が学校の教室の窓から見える桜の樹は、幹にも枝にも紅い艶を持って来た。家へ帰って庭を眺めると、土塀に映る林檎や柿の樹影は何時まで見ていても飽きないほど面白味がある。暖くなった気候のために化生した羽虫が早や軒端に群を成す。私は君に雑草のことを話したが、三月の石垣の間には、いたち草、小豆草、蓬、蛇ぐさ、人参草、嫁菜、大なずな、小なずな、その他数え切れないほどの草の種類が頭を持ち上げているのを見る。私は又三月の二十六日に石垣の上にある土の中に白い小さな「なずな」の花と、紫の斑(ふ)のある名も知らない草の小さな花とを見つけた。それがこの山の上で見つけた第一の花だ。

     山上の春

 貯えた野菜は尽き、葱、馬鈴薯(じゃがいも)の類まで乏しくなり、そうかと言って新しい野菜が取れるには間があるという頃は、毎朝々々若布(わかめ)の味噌汁でも吸うより外に仕方の無い時がある。春雨あがりの朝などに、軒づたいに土壁を匍(は)う青い煙を眺めると、好い陽気に成って来たとは思うが、食物の乏しいには閉口する。復た油臭い凍豆腐(しみどうふ)かと思うと、あの黄色いやつが壁に釣るされたのを見てもウンザリする。淡雪の後の道をびしょびしょ歩みながら、「草餅はいりませんか」と呼んで来る女の声を聞きつけるのは嬉しい。
 三月の末か四月のはじめあたりに、君の住む都会の方へ出掛けて、それからこの山の上へ引返して来る時ほど気候の相違を感ずるものは無い。東京では桜の時分に、汽車で上州辺を通ると梅が咲いていて、碓氷峠を一つ越せば軽井沢はまだ冬景色だ。私はこの春の遅い山の上を見た眼で、武蔵野の名残を汽車の窓から眺めて来ると、「アア、柔かい雨が降るナア」とそう思わない訳には行かない。でも軽井沢ほど小諸は寒くないので、汽車でここへやって来るに随って、枯々な感じの残った田畠の間には勢よく萌え出した麦が見られる。黄に枯れた麦の旧葉(ふるは)と青々とした新しい葉との混じったのも、離れて見るとナカナカ好いものだ。
 四月の十五日頃から、私達は花ざかりの世界を擅(ほしいまま)に楽むことが出来る。それまで堪えていたような梅が一時に開く。梅に続いて直ぐ桜、桜から李、杏、茱萸(ぐみ)などの花が白く私達の周囲に咲き乱れる。台所の戸を開けても庭へ出掛けて行っても花の香気に満ち溢れていないところは無い。懐古園の城址へでも生徒を連れて行って見ると、短いながらに深い春が私達の心を酔うようにさせる……

   「千曲川のスケッチ」奥書

 このスケッチは長いこと発表しないで置いたものであった。まだこの外にも私があの信濃の山の上でつくったスケッチは少なくなかったが、人に示すべきものでもなかったので、その中から年若い人達の読み物に適しそうなもののみ選み出し、更にそれを書き改めたりなぞして、明治の末の年から大正のはじめへかけ当時西村渚山君が編輯(へんしゅう)している博文館の雑誌「中学世界」に毎月連載した。「千曲川のスケッチ」と題したのもその時であった。大正一年の冬、佐久良書房から一巻として出版したが、それが小冊子にまとめてみた最初の時であった。
 実際私が小諸に行って、饑(う)え渇いた旅人のように山を望んだ朝から、あの白雪の残った遠い山々――浅間、牙歯(ぎっぱ)のような山続き、陰影の多い谷々、古い崩壊の後、それから淡い煙のような山巓(さんてん)の雲の群、すべてそれらのものが朝の光を帯びて私の目に映った時から、私はもう以前の自分ではないような気がしました。何んとなく私の内部には別のものが始まったような気がしました。
 これは後になってからの私の回顧であるが、それほど私も新しい渇望を感じていた。自分の第四の詩集を出した頃、私はもっと事物を正しく見ることを学ぼうと思い立った。この心からの要求はかなりはげしかったので、そのために私は三年近くも黙して暮すようになり、いつ始めるともなくこんなスケッチを始め、これを手帳に書きつけることを自分の日課のようにした。ちょうどわたしと前後して小諸へ来た水彩画家の三宅克巳君が袋町というところに新家庭をつくって一年ばかり住んでおられ、余暇には小諸義塾の生徒をも教えに通われた。同君の画業は小諸時代に大に進み、白馬会の展示会に出した「朝」の図なぞも懐古園附近の松林を描いたもののように覚えている。私は同君に頼んで画家の用いるような三脚を手に入れ、時にはそれを野外に持ち出して、日に日に新しい自然から学ぶ心を養おうとしたこともある。浅間山麓の高原と、焼石と、砂と、烈風の中からこんなスケッチが生れた。

 過ぎ去った日のことをすこしここに書きつけてみる。わたしたちの旧い「文学界」、あの同人の仕事も私が仙台から東京の方へ引き返す頃にはすでに終りを告げたが、五年ばかりも続いた仕事が今日になって反って意外な人々に認められ、若いロマンチックと呼ばれる声をすら聞きつける。今日からあの時代を振り返ってみたら、それも謂れのあることであろう。いかに言ってもわたしたちは踏み出したばかりで、経験にも乏しく、殊に自分なぞは当時を追想する度に冷汗の出るようなことばかり。それにしても、わたしたちの弱点は歴史精神に欠けていたことであった。もしその精神に欠くるところがなかったなら、自国にある古典の追求にも、西洋ルネッサンスの追求にも、あるいはもっと深く行き得たであろう。平田禿木(とくぼく)君も言うように、上田敏君は「文学界」が生んだ唯一の学者である。その上田君の学者的態度を以てしてもこの国独自な希臘(ギリシヤ)研究を残されるところまで行かなかったのは惜しい。西欧ルネッサンスに行く道は、希臘に通ずる道であるから、当然上田君のような学者にはその準備もあったろう。しかし同君はそちらの方に深入りしないで、近代象徴詩の紹介や翻訳に歩みを転ぜられたように思われる。

 このスケッチをつくっていた頃、私は東京の岡野知十君から俳諧雑誌「半面」の寄贈を受けたことがあった。その新刊の号に斎藤緑雨君の寄せた文章が出ている。緑雨君の筆は私のことにも言い及んである。
「彼も今では北佐久郡の居候、山猿にしてはちと色が白過ぎるまで」
 緑雨君はこういう調子の人であった。うまいとも、辛辣とも言ってみようのない、こんな言い廻しにかけて当時同君の右に出るものはなかった。しかし、東京の知人等からも離れて来ている私に取っては、おそらくそれが最後に聴きつけた緑雨君の声であったように思う。私は文学の上のことで直接に同君から学んだものとても殆んどないのであるが、しかし世間智に富んだ同君からいろいろ啓発されたことは少くなかった。[鴎]外、思軒(しけん)、露伴、紅葉、その他諸家の消息なぞをよく私に語って聞かせたのも同君であった。同君歿後に、馬場孤蝶君は交遊の日のことを追想して、こんなに亡くなった後になってよく思い出すところを見ると、やはりあの男には人とは異ったところがあったと見えると言われたのも同感だ。

 紅葉山人の死を小諸の方にいて聞いたことも忘れがたい。私は一年に一度くらいしか東京の友人を訪ねる機会もなかったから、したがって諸先輩の消息を知ることも稀になって行ったが、おそらく[鴎]外漁史なぞはあの通り休息することを知らないような人だから、当時その書斎とする観潮楼の窓から、文学の推し移りなどを心静かに、注意深くも眺めておられたかと思う。そして柳浪、天外、風葉等の作者の新作にも注意し、又、後進のものの成長をも見まもっていてくれたろうと思う。明治文学も漸く一変すべき時に向って来て、誰もが次の時代のために支度を始めたのも、明治三十年代であったと言っていい。
 旧いものを毀(こわ)そうとするのは無駄な骨折だ。ほんとうに自分等が新しくなることが出来れば、旧いものは既に毀(こわ)れている。これが仙台以来の私の信条であった。来るべき時代のために支度するということも、私に取っては自分等を新しくするということに外ならない。この私の前には次第に広い世界が展けて行った。不自由な田舎教師の身には好い書物を手に入れることも容易ではなかったが、長く心掛けるうちには願いも叶い、それらの書物からも毎日のように新しいことを学んだ。わたしはダルウィンが「種の起原」や「人間と動物の表情」なぞのさかんな自然研究の精神に動かされ、心理学者サレエの児童研究にも動かされた。その時なってみると、いつの間にか私の書架も面目を改め、近代の詩書がそこに並んでいるばかりでなく、英語で読める欧州大陸の小説や戯曲の類が一冊ずつ順にふえた。トルストイの「コサックス」や「アンナ・カレニナ」、ドストイエフスキイの「罪と罰」に「シベリアの記」、フロオベルの「ボヴァリイ夫人」、それにイブセンの「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」はわたしの愛読書になった。一体、わたしが初めてトルストイの著作に接したのは、その小説ではなく、明治学院の旧い学窓を出た翌年かに厳本善治氏夫妻の蔵書の中に見つけた英訳の「労働」と題する一小冊子であったが、そんな記憶があるだけでも旧知にめぐりあう思いをした上に、その正しい描写には心をひかれ、千曲川の川上にあたる高原地の方へ出掛けた折なぞ、トルストイ作中の人物をいろいろに想像したり、見ぬ高加索(コーカサス)の地方へまで思いを馳せたりしたものであった。当時わたしは横浜のケリイという店からおもに洋書を求めていたが、その店から送り届けてくれたバルザックの小説で、英訳の「土」も長くわたしの心に残った。不思議にもそれらの近代文学に親しんでみることが反って古くから自分等の国にあるものの読み直しをわたしに教えた。あの溌剌として人に迫るような「枕の草紙」に多くの学ぶべきもののあるのを発見したのも、その時であった。

 今から明治二十年代を振り返ってみることは、私に取って自分等の青年時代を振り返ってみることであるが、あの[鴎]外漁史なぞが「舞姫」の作によって文学の舞台に登場せられたのは二十年代も早い頃のことであり、「新著百種」に「文づかい」が出たのも二十四年の頃であったと思う。だんだん時がたった後になってみると、当時の事情や空気がそうはっきりと伝わらなくなり、多くの人に残る記憶も前後して朦朧としたものとなり勝ちであるが、明治の文学らしい文学はあの二十年代にはじまったと言っていい。今日明治文学として残っているものの一半は殆どあの十年間に動いた人達の仕事であるのを見ても、明治二十年代は筆執り物書くものが一斉に進むことの出来たような、若々しい一次代であったことが思われる。これには種々な理由があろう。当時は新日本ということが多くの人々によって考えられ、新しい作者を求める社会の要求の強かったことも、その理由の一つとして数えられよう。長谷川二葉亭の「浮雲」があれほどの新しさを私達の胸中に喚び起したのも、その要求をみたし得たからであって、あれほど鮮やかに当時を反映し、当時を批評した作品もめずらしかった。一方にはまた、[鴎]外漁史のような人があって、レッシングの「俘(とりこ)」、アンデルゼンの「即興詩人」、その他の名訳をつぎつぎに紹介せられたことも、当時の文学の標準を高める上に、少なからぬ影響を多くの作者に与えた。「水沫(みなわ)集」一巻は、青春の書と言うにはあまり老成なような気もするが、明治二十年代の早い春はあの集のどの頁にも残っている。
 もし明治二十年代の文学があの調子で進むことが出来たら、その発達には見るべきものがあったろうに、それが最初のような純粋を失い、新鮮を失うようになって行ったに就いては、種々な原因がなくてはならない。
 ともあれ、当時発達の途上にあった言文一致の基礎工事がまだまだ不十分なものであったことも争われない。紅葉山人のような作者ですら雅俗折衷の文体をと言文一致の間を往来した。何と言ってもあの頃は、古くからある文章の約束がまだ重く残って、言葉の感情とか、その陰影とかの自然な流露を妨げていた。この状態はどうしても行き詰る。そこでだんだん変化と自由とを求めるようになって行って、これまで物を書いていた作者達も今までの表現の方法では、やりきれなくなって行ったかと思う。私は斎藤緑雨君のような頭の好い人がそういう点で苦しみぬいたことを知っている。同君も文章そのものの苦労が大き過ぎて、「油地獄」や「かくれんぼ」に見せたような作者としての天禀(てんぴん)を十分に延ばし切ることが出来なかったのではなかろうかと思う。
 その後に、[鴎]外漁史はめずらしく創作の筆を執って、「そめちがえ」一篇を「新小説」誌上に発表した。私はそれを読んで漁史のような人の上にもある一転機の来たことを感じた。「そめちがえ」の砕けた題目が示すように、漁史は最早あの「文づかい」や「うたかたの記」に見るような高い調子で押し通そうとする人ではなったらしい。その頃には、透谷君や一葉女子の短い活動の時はすでに過ぎ去り、柳浪にはやや早く、蝸牛庵主は「新羽衣物語」を書き、紅葉山人は「金色夜叉」を書くほどの熟した創作境に達している。[鴎]外漁史の「そめちがえ」を出されたころに明治二十年代のはじめを顧みると、文壇は実に隔世の感があった。十年の月日は明治の文学者に取って短い時ではなかった。
 おそらく二十年代の末から三十年代のはじめへかけては、明治文学者の生涯の中でも特に動きのある時代で、あの緑雨君が[鴎]外漁史や幸田露伴氏等との交遊のあったのもあの頃であり、諸先輩が新進作家の作品に対して合評会なぞを思い立ったのもあの時代であったかと思う。
 思えば、明治文学の早い開拓者の多くは、欧羅巴(ヨーロッパ)からの文学を取り入れる上に就いて、何れも要領の好い人達であった。そこに自国の特色がある。これは徳川時代の文学者が遺産を受けついだからでもあり、支那文学の長い素養からも来ていると思う。ともあれ、他の当時の文学者の多くがまだ十八世紀の英吉利(イギリス)文学を目標としていた中で、独逸(ドイツ)本国の方から十九世紀にあるものを感知して帰って来たところに[鴎]外漁史の強味があった。その人自身ですら自国に芽ぐんで来た言文一致の試みを採りあげるに躊躇していたほどの時代を考えると、山田美妙、長谷川二葉亭二氏などの眼のつけかたはさすがに早かったと思われる。
 私は明治の新しい文学と、言文一致の発達を切り放しては考えられないもので、いろいろの先輩が歩いて来た道を考えても、そこへ持って行くのが一番の近道だと思う。我々の書くものが、古い文章の約束や言い廻しその他から、解き放たれて、今日の言文一致にまで達した事実は、決してあとから考えるほど無造作なものでない。先ず文学上の試みから始まって、それが社会全般にひろまって行き、新聞の論説から、科学上の記述、さては各人のやり取りする手紙、児童の作文にまで及んで来たに就いてはかなり長い年月がかかったことを思ってみるがいい。何んと云っても徳川時代に俳諧や浄瑠璃の作者があらわれて縦横に平談俗語を駆使し、言葉の世界に新しい光を投げ入れたこと。それからあの国学者が万葉、古事記などを探求して、それまで暗いところにあった古い言葉の世界を今一度明るみへ持ち出したこと。この二つの大きな仕事と共に、明治年代に入って言文一致の創設とその発達に力を添えた人々の骨折と云うものは、文学の根柢に横たわる基礎工事であったと私には思われる。私がこんなスケッチをつくるかたわら、言文一致の研究をこころざすようになったのも、一朝一夕に思い立ったことではなかった。

 到頭、私は七年も山の上で暮した。その間には、小山内薫君、有島生馬君、青木繁君、田山花袋君、それから柳田国男君を馬場裏の家に迎えた日のことも忘れがたい。わたしはよく小諸義塾の鮫島理学士や水彩画家の丸山晩霞君と連れ立ち、学校の生徒等と一緒に千曲川の上流から下流の方までも旅行に出掛けた。このスケッチは、いろいろの意味で思い出の多い小諸生活の形見である。
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入力  まっきい
校正  nani
公開サイト 書籍デジタル化委員会
http://www.wao.or.jp/naniuji/
1999/08/02/完成版ver1.01
NO.016
底本 『千曲川のスケッチ』新潮文庫/1993/新潮社
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(註)
コード外の文字は[ ]で示し、別字またはカナで表記。
ウムラウト、アクサンなどは省略。