Library 感想
ひとりすまう
織田作之助 


  奇妙なことは、最初その女を見たとき、ぼくは、ああこの女は身投げするに違いないと思い込んで了ったことなのだ、――と彼は語りだした。彼が二十一歳の時の話という。

 ――その女を見たのは、南紀白浜温泉の夜更けの海岸だった。その頃京都高等学校の生徒であったぼくは疾患の療養のためその温泉地に滞在していた。恐らく病気のためだったろうが、その頃は毎夜の様に不眠に苦しめられていて、その晩も、夜更けてから宿を抜け出ると、海岸の砂浜に打ち揚げられた漁船の艫に腰を掛けて、何となく海を見ていた。白良浜という名があるほどで、その砂浜の砂の白さは実に美しい鮮やかさで、月の夜など、月光を浴びた砂浜は、まるで雪が降ったかの様で、不気味なほどの白さだが、その夜も確か、五月の満月に近い夜だった。砂浜は吐き出す莨の煙よりも白く、海は恐ろしいほど黒い色をしていた。人影は無かった。静寂の音が耳の奥で激しく鳴っている様だった。海では、五つ六つの漁船の灯がじっと位置を動かなかった。潮の香が強く、もう初夏であったから、風は冷たいというより、熱にほてったぼくの皮膚に快かった。というのは初めの内のことで、夜露に当ったのか、次第に皮膚が冷たくなり、急に、ぞっと寒気がした。それで、もう帰えろうと思ったが、宿に帰えっても仲々寝つかれないことが分っているので、腰を上げる気はしなかった。といって、帰えらぬ訳には行かぬ。いつ迄も夜更けの浜でじっとしている気もなかったのだが、腰を上げるという簡単な動作の弾みがつかない、そんな状態だった。
 と、漁火の一つが、動き出した。静かに辷って行く灯を眼で追っていると、小さな浮島の陰に隠れてしまった。やがて、浮島の反対側の端から姿を現すだろう、そうしたら、宿に帰えろう、とぼくは決めた。そして、漁火の速度で浮島の大きさを割る計算を始めた。割り出された時間が過ぎたが、漁火は姿を見せなかった。何故姿を現さないのかと妙に不安になった。宿に帰えれなくなった、と思った。恐らく、漁火は、島の影で止っていたのだろうが、そんなことに気が付く余裕が無かった。自分の計算が疑わしくなった、と同時にもう帰えれないと決めてしまったのだ。孤独というものが感覚的に来るのは、こう言う時だろう。恐らくぼくは随分情けない顔をしていた事と思う。その泣き面のまま、ふと首を傾むけると、その女の姿が眼にはいったのだ。
 黒っぽい着物を着て、半町ほど離れた波打際に、すくっと立っていた。
(――そう言って、彼はにやりと微笑した。彼が心を惹かれる女は例外無しに背が高くすらっとしている。黒っぽい着物が似合うのは、すらっとした女である。すくっと立っている、と言った以上、恐らく、背が高かったのであろう。この彼の好みを良く知っている筆者に照れたので、彼は思わず微笑したのだろうと思われる)

 その女は今にも波に吸い込まれそうに見えた。そう見えたのは、恐らくその女が自殺しかけていると直感した為だったろう。いや、そう見えたから、自殺すると考えたのかも知れない。とにかく、ぼくは夢中でその女の方へ走り出した。自殺を防ごうとする気持ちもあったが、同時に又、その時のぼくの平衡を失った孤独な気持ちが、何か人恋しさの心で、ぼくを走らせたのであろう。走り出して失敗(しま)った、と思った。病気の事が頭に浮かんだのだ。勿論走ったりできる身体ではなかった。少し坂を登っても、咳にむせび、息苦しくハアハアと呼吸しなければならなかった程だから。失敗った、と思ったが、一気に走ってしまった。女の傍まで来た時、急に激しい咳が起った。胸の中がガラガラ鳴った。ぼくは蹲った。生温いものがこみ上って来たかと思うと、ドロッと口の中に咳出された。吐くと、白い砂の上に鮮やかに赤かった。頭上で声がした。
「どうか成さいまして?」
 ぼくは勿論返答出来なかった。ただじっと息をこらして、喀血の止まるのを待っていた。二三度吐いた。全く情無かった。喀血その事よりも、見知らぬ女の前でそんな醜態を演じてしまったことが情無かった。その女は暫く呆然としていたらしいが、やがて海水を手ですくって、ぼくの口にのませてくれた。食塩水が止血に効くことを知っていたのだろう。綺麗な手だった。しなやかで色が白かった。その手を握って海水を啜った。今にして思えばありがたい喀血だが、その時は、砂を掘ってもその中に入ってしまいたい位だった。海水をのむと安心したのか、心が静まって、胸のガラガラ鳴る音が止んだ。ぼくは漸く頭をあげてその女の顔を見た。そして突然、
「あなたは死ぬんじゃありませんか?」
 と言った。随分恥しいことを言ったものだ。ぼくは先ず、ありがとうとお礼を言う可きだった。それを、顔を見るなり、死ぬんじゃありませんか、とはひどく気障っぽい言い方だし、それに失礼過ぎる。だが、そんな事をぼくに言わせたのは、その女の美しさなのだ。

 一体、白浜は自殺者の多いところで、その土地で温泉小唄を募集した時、「南紀白浜自殺の本場、お湯の中でもコーリャ人が死ぬよ」という唄を応募した者があったほどだ。その数日前のことだが、ぼくのいる宿に泊った若い女の二人連れが心中した。廊下でちらと見たが、二人とも醜い女で、安っぽい銘仙の着物を着て黄色なメリンスの兵古帯をしめていた。夜遅くまで海に面した廊下で「大磯心中」の唄を合唱していたが、それがぼくの部屋まで聞こえて来るので、それで無くとも眠れぬぼくは癇癪を立てて、喧しい、と怒鳴った。それで静かになったと思ったら、翌朝白良浜に二人の身体が打揚げられていたのだ。見なかったが、宿の番頭が知らせてくれた。余り騒がれもしなかったし、新聞にも出なかった様だが、醜い女であったからかも知れない。心中するとは知らず、その前夜、邪険に怒鳴って済まないと思っていた。美しい女だったら、怒鳴らなかったろう。あるいは、ぼくも一緒に歌ったかも知れない。

 その心中した女たちに比べて、その夜の女の美しさ。死ぬんじゃありませんか。とぼくが言うと、彼女はすかさず、
「あなたこそ、死にそうですわよ」
 と言って、ニッと笑った。その微笑は、ぼくの心にまるで針の様につきささった。と言うのは……。
 いったい、ぼくの悪い癖なのだが、その頃のぼくには、相手が若い女性である時には、ぼくの如何なる行動からも「男性」としてのぼくを見られたくない、言いかえると、その女からは何も求めていない、その女を問題にしていない、即ち、その女を「女性」として見ていない、という風に見てほしいという本能がある。この本能はぼくがその女を問題にしている時でも、問題にしていない時でも、絶えず意識の中に網の様に張られているのだ。恐らく、自尊心と羞恥心から来るものと思う。この本能は愛の駆け引きに非常に役立つものらしいけれど、それは結果としてである。さてその時もこの奇妙な本能が意識の先にあったのだ。ぼくはこんな風に思っていた。――この女は、死ぬんじゃありませんか、というぼくの言葉を純粋に彼女の自殺を心配した上での真実の疑問だと思うだろうか。そう思うにしても彼女をそんな風に見たのは、若しそうで無いなら随分間の悪いことだが、とにかく、そう思うだろうか。それとも、もっと不純な質問と見るだろうか。――と。だから彼女が、あなたこそ死にそうですわよ、と言って微笑した時、今から思うと、恐らく、彼女は喀血したぼくの身体のことを言ったのであろうが、ぼくはそう思わず、彼女は、――あなたは私を自殺する女と早合点成すったらしいけど、私がそう見えるなら、夜更けの海岸で私と同じ様に海をみていらっしゃるあなただって、そう見える筈じゃない? 死ぬんじゃありませんか、とは仲々この夜更けの海岸に適わしい言葉だけど――と言っている様に思ったのだ。そう思い込むと、ぼくは急に顔が赤くなった。言葉に窮した。誇張して言うと、出番を間違えて舞台に登場した役者の様な間の悪さだった。だが今から考えると、ぼくはそんなに恥しい想いをする必要はなかったのだ。何故なら、ぼくが赧くなり不器用に黙りこんでいる間の悪さは、喀血したというその時の事情が救ってくれていた筈だから。彼女にとっては、ぼくが喀血したということが非常な驚きであって、その他のことは何一つ意に介する余裕はなかった筈だ。
 ぼくが尚もじっと蹲ったままでいると、彼女は、ぼくの宿を訊き、とにかく宿へ知らせて医者を呼びに行ってもらうか、迎えの者に来てもらうことにしようと言った。それには及ばぬ、大丈夫歩いて帰えれるからと言って立ち上ると、彼女はそれでは宿まで送って行こうといい、それで二人並んで歩き出した。一口に白浜と呼んでいるが、その土地は、白浜温泉と湯崎温泉の二つに分れていて、その砂浜を横切り、左へ折れれば湯崎温泉、右は白浜温泉であり、浜ぞいにバスの走る道が通じ、白浜湯崎間は八丁なのだ。ぼくの宿は湯崎にあったが、その女のも湯崎だった。浜を横切ってその道に出ると、温泉の湯気の香が強かった。それで始めて、彼女のからだから漂うている香料のことを考えた。道端の電柱の灯がその薫を照らしている様だった。鈍い光であったから、それは秋の花の匂いを想わせた。ぼくは木犀らしいと思ったが、後できいたら、ホワイトローズだった。それは愉しい一刻には違いなかった。夜更けの海辺の道を見知らぬ美しい女と肩を並べて歩くなどという秘かな喜びは、病気が約束した短い一生にとってはまことに貴ぶ可きものなのだ。この喜びに陶酔しなければならぬ、とその時ぼくも思った。併し、陶酔しなければならぬと思うことが、陶酔をさまたげることになるし、率直に言えば、ぼくはその秘かな喜びに苛立っていたのだ。ぼくらは始終黙々としていたが、情無いことには、ぼくは、黙っていることがやり切れなかったのだ。好奇心というものは多少とも人を苛立たせるものだが、ぼくはその時、彼女が何故こんな夜更けに海岸に出ていたのか、と訊ねたくてしかもそれを聞く勇気はなかった。その勇気の出ないことが少し情無くもあったし、又そう思われることが恥しかったのだ。黙っていることが絶えず意識されて辛かった。その場合、ぼくの身体の状態から考えれば、黙っていることこそ自然であったに違いなかったのだが、ぼくは自分が絶対安静を必要とする病人であることを忘れていたのだ。恐らく彼女の方は、ぼくに喋らせまいとして、又、ぼくの神経を疲労せしめまいとして黙っていたのだったろうけど。
 急に、彼女が、ハッとしてぼくの側を離れた。跫音がしたと思うと、もう次の瞬間には一人の逞しい男の身体が、ぼくらの眼の前に突っ立っていた。その巌丈な肩が動いたので、ぼくは思わず両手で胸の辺りを防いだ。と、ピシャリと音がして、彼女の身体がよろめいた。その男は彼女の手をとると、サッサと歩き出した。彼女は唇をかみしめてふっと空をみつめたまま、その男が引っ張るのに任せていた。ぼくは呆然として、二人の背後姿を見ていた。

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入力  rica
校正  nani
公開サイト 書籍デジタル化委員会
http://www.wao.or.jp/naniuji/
2000/05/11/掲載途中
NO.033
底本 『講談社 織田作之助全集 1』1970/講談社
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(註)
コード外の文字は[ ]で示し、別字またはカナで表記。
ウムラウト、アクサンなどは省略。