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善の研究
西田幾多郎 

第一編 純粋経験


      第一章 純粋経験

 経験するというのは事実其儘に知るの意である。全く自分の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、豪も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである。たとえば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考のないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。自已の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇なる者である。勿論、普通には経験という語の意義が明に定まっておらず、ヴントの如きは経験に基づいて推理せられたる知識をも間接経験と名づけ、物理学、化学などを間接経験の学と称している(Wundt, Grundriss der Psychologie, Einl. §I)。しかしこれらの知識は正当の意味において経験ということができぬばかりではなく、意識現象であっても、他人の意識は自已に経験ができず、自已の意識であっても、過去についての想起、現前であっても、これを判断した時は已に純粋の経験ではない。真の純粋経験は何らの意味もない、事実其儘の現在意識あるのみである。
 右にいったような意味において、如何なる精神現象が純粋経験の事実であるか。感覚や知覚がこれに属することは誰にも異論はあるまい。しかし余は凡ての精神現象がこの形において現われるものであると信ずる。記憶においても、過去の意識が直に起ってくるのでもなく、従って過去を直覚するのでもない。過去と感ずるのも現在の感情である。抽象的概念といっても決して超経験的の者ではなく、やはり一種の現在意識である。幾何学者が一個の三角を想像しながら、これを以て凡ての三角の代表となすように、概念の代表的要素なる者も現前においては一種の感情にすぎないのである(James, The Principles of Psychology, Vol.I, Chap.VII)。その外いわゆる意義の縁暈 fringe なるものを直接経験の事実の中に入れて見ると、経験的事実間における種々の関係の意識すらも、感覚、知覚と同じく皆この中に入ってくるのである(James, A World of Pure Experience)。しからば情意の現象は如何というに、快、不快の感情が現在意識であることはいうまでもなく、意志においても、その目的は未来にあるにせよ、我々はいつもこれを現在の欲望として感ずるのである。
 さて、かく我々に直接であって、凡ての精神現象の原因である純粋経験とは如何なる者であるか、これより少しくその性質を考えて見よう。先ず純粋経験は単純であるか、また複雑であるかの問題が起ってくる。直下の純粋経験であっても、これが過去の経験の構成せられた者であるとか、また後にてこれを単一なる要素に分析できるとかいう点より見れば、複雑といってもよかろう。しかし純粋経験はいかに複雑であっても、その瞬間においては、いつも単純なる一事実である。たとい過去の意識の再現であっても、現在の意識中に統一せられ、これが一要素となって、新なる意味を得た時には、已に過去の意識と同一といわれぬ(Stout, analytic Psychology, Vol.II, p.45)。これと同じく、現在の意識を分析した時にも、その分析せられた者はもはや現在の意識と同一ではない。純粋経験の上から見れば凡てが種別的であって、その場合ごとに、単純で、独創的であるのである。次にかかる純粋経験の綜合は何処まで及ぶか。純粋経験の現在は、現在について考うる時、已に現在にあらずというような思想上の現在ではない。意識上の事実としての現在には、いくらかの時間的継続がなければならぬ(James, The Principles of Psychology, Vol.I, Chap.XV)。即ち意識の焦点がいつでも現在となるのである。それで、純粋経験の範囲は自ら注意の範囲と一致してくる。しかし余はこの範囲は必ずしも一注意の下にかぎらぬと思う。我々は少しの思想も交えず、主客未分の状態に注意を転じて行くことができるのである。たとえば一生懸命に断岸を攀ずる場合の如き、音楽家が熟練した曲を奏する時の如き、全く知覚の連続 perceptual train といってもよい(Stout, Manual of Psychology, p.252)。また動物の本能的動作にも必ずかくの如き精神状態が伴うているのであろう。これらの精神現象においては、知覚が厳密なる統一と連絡とを保ち、意識が一より他に転ずるも、注意は始終物に向けられ、前の作用が自ら後者を惹起しその間に思惟を入るべき少しの亀裂もない。これを瞬間的知覚と比較するに、注意の推移、時間の長短こそあれ、その直接にして主客合一の点においては少しの差別もないのである。特にいわゆる瞬間知覚なる者も、その実は複雑なる経験の結合構成せられたる者であるとすれば、右二者の区別は性質の差ではなくして、単に程度の差であるといわねばならぬ。純粋経験は必ずしも単一なる感覚とはかぎらぬ。心理学者のいうような厳密なる意味の単一感覚とは、学問上分析の結果として仮想した者であって、事実上に直接なる具体的経験ではないのである。
 純粋経験の直接にして純粋なる所以は、単一であって、分析できぬとか、瞬間的であるとかいうことにあるのではない。かえって具体的意識の厳密なる統一にあるのである。意識は決して心理学者のいわゆる単一なる精神的要素の結合より成ったものではなく、元来一の体系を成したものである。初生児の意識の如きは明暗の別すら、さだかならざる混沌たる統一であろう。この中より多彩なる種々の意識状態が分化発展し来るのである。しかしいかに精細に分化しても、何処までもその根本的なる体系の形を失うことはない。我々に直接なる具体的意識はいつでもこの形において現われるものである。瞬間的知覚の如き者でも決してこの形に背くことはない。たとえば一目して物の全体を知覚すると思う場合でも、仔細に研究すれば、眼の運動と共に注意は自ら推移して、その全体を知るに至るのである。かく意識の本来は体系的発展であって、この統一が厳密で、意識が自ら発展する間は、我々は純粋経験の立脚地を失わぬのである。この点は知覚的経験においても、表象的経験においても同一である。表象の体系が自ら発展する時は、全体が直に純粋経験である。ゲーテが夢の中で直覚的に詩を作ったという如きは、その一例である。或は知覚的経験では、注意が外物から支配せられるので、意識の統一はいえないように思われるかも知れない。しかし、知覚的活動の背後にも、やはり或無意識統一力が働いていなければならね。注意はこれに由りて導かれるのである。またこれに反し、表象的経験はいかに統一せられてあっても、必ず主観的所作に属し、純粋の経験とはいわれぬようにも見える。しかし表象的経験であっても、その統一が必然で自ら結合する時には我々はこれを純粋の経験と見なければならぬ、例えば夢においてのように外より統一を破る者がない時には、全く知覚的経験と混同せられるのである。元来、経験に内外の別あるのではない、これをして純粋ならしむる者はその統一にあって、種類にあるのではない。表象であっても、感覚と厳密に結合している時には直に一つの経験である。ただ、これが現在の統一を離れて他の意識と関係する時、もはや現在の経験ではなくして、意識となるのである。また表象だけであった時には、夢においてのように全く知覚と混同せられるのである。感覚がいつでも経験であると思われるのはそがいつも注意の焦点となり統一の中心となるが為であろう。
 今なお少しく精細に意識統一の意義を定め、純粋経験の性質を明にしようと思う。意識の体系というのは凡ての有機物のように、統一的或者が秩序的に分化発展し、その全体を実現するのである。意識においては、先ずその一端が現れると共に、統一作用は傾向の感情としてこれに伴うている。我々の注意を指導する者はこの作用であって、統一が厳密であるか或は他より妨げられぬ時には、この作用は無意識であるが、しからざる時には別に表象となって意識上に現われ来たり、直に純粋経験の状態を離れるようになるのである。即ち統一作用が働いている間は全体が現実であり純粋経験である。而して意識は凡て衝動的であって、主意説のいうように、意志が意識の根本的形式であるといい得るならば、意識発展の形式は即ち広義において意志発展の形式であり、その統一的傾向とは意志の目的であるといわねばならぬ。純粋経験とは意志の要求と実現との間に少しの間隙もなく、その最も自由にして、活発なる状態である。勿論選択的意志より見ればかくの如く衝動的意志に由りて支配せられるのは反って意志の束縛であるかも知れぬが、選択的意志とはすでに意志が自由を失った状態である故にこれが訓練せられた時にはまた衝動的となるのである。意志の本質は未来に対する欲求の状態にあるのではなく、現在における現在の活動にあるのである。元来、意志の伴う動作は意志の要素ではない。純心理的に見れば意志は内面における意識の統覚作用である。而してこの統一作用を離れて別に意志なる特殊の現象あるのではない、この統一作用の頂点が意志である。思惟も意志と同じく一種の統覚作用であるが、その統一は単に主観的である。然るに意志は主客の統一である。意志がいつも現在であるのもこれが為である(Schopenhauer, Die Welt als Wille und Vorstellung, §54)。純粋経験は事実の直覚その儘であって、意味がないといわれている。かくいえば、純粋経験とは何だか混沌無差別の状態であるかのように思われるかも知れぬが、種々の意味とか判断とかいうものは経験其者の差別より起るので、後者は前者によりて与えられるのではない、経験は自ら差別相を具えた者でなければならぬ。例えば、一の色を見てこれを青と判断したところが、原色覚がこれによりて文明になるのではない、ただ、これと同様なる従来の感覚との関係をつけたまでである。また今余が視覚として現われたる一経験を指して机となし、これについて種々の判断を下すとも、これによりてこの経験其者の内容に何らか豊富をも加えないのである。要するに経験の意味とか判断とかいうのは他との関係を示すにすぎぬので、経験其者の内容を豊富にするのではない。意味或は判断の中に現われたる者は原経験より抽象せられたるその一部であって、その内容においてはかえってこれよりも貧なる者である。勿論原経験を想起した場合に、前に無意識であった者が後に意識せられるような事もあるが、こは前に注意せざりし部分に注意したまでであって、意味や判断によりて前に無かった者が加えられたのではない。
 純粋経験はかく自ら差別相を具えた者とすれば、これに加えられる意味或は判断というのは如何なる者であろうか、またこれえと純粋経験との関係は如何であろう。普通では純粋経験が客観的実在に結合せられる時、意味を生じ、判断の形をなすという。しかし純粋経験説の立脚地より見れば、我々は純粋経験の範囲外に出ることはできぬ。意味とか判断とかを生ずるのもつまり現在の意識を過去の意識に結合するより起るのである。即ちこれを大なる意識系統の中に統一する統一作用に基づくのである。意味とか判断とかいうのは現在意識と他との関係を示す者で、即ち意識系統の中における現在意識の位置を現わすに過ぎない。例えば或聴覚についてこれを鐘声と判じた時は、ただ過去の経験中においてこれが位置を定めたのである。それで、いかなる意識があっても、そが厳密なる統一の状態にある間は、いつでも純粋経験である、即ち単に事実である。これに反し、この統一が破れた時、即ち他との関係に入った時、意味を生じ判断を生ずるのである。我々に直接に現われ来る純粋経験に対し、すぐ過去の意識が働いて来るので、これが現在意識の一部と結合し一部と衝突し、ここに純粋経験の状態が分析せられ破壊せられるようになる。意味とか判断とかいうものはこの不統一の状態である。しかしこの統一、不統一というもことも、よく考えて見ると畢境程度の差である、全然統一せる意識もなければ、全然不統一なる意識もなかろう。すべての意識は体系的発展である。瞬間的知識であっても種々の対立、変化を含蓄しているように、意味とか判断とかいう如き関係の意識の背後には、この関係を成立せしむる統一的意識がなければならぬ。ヴントのいったように、すべての判断は複雑なる表象の分析に由りて起るのである(Wundt, Logik, Bd.I, Abs.III, Kap.1)。また判断が漸々に訓練せられ、その統一が厳密となった時には全く純粋経験の形となるのである。例えば技芸を習う場合に、始は意識的であった事もこれに熟するに従って無意識となるのである。さらに一歩進んで考えて見れば、純粋経験とその意味または判断とは意識の両面を現わす者である。すなわち同一物の見方の相違にすぎない。意識は一面において統一性を有すると共に、また一方には分化発展の方面がなければならぬ。しかもジェームスが「意識の流」において説明したように、意識はその現われたる処についているのではなく、含蓄的に他と関係をもっている。現在はいつでも大なる体系の一部とみることが出来る。いわゆる分化発展なる者は更に大なる統一の作用である。
 かく意味という者も大なる統一の作用であるとすれば、純粋経験はかゝる場合において自己の範囲を超越するのであろうか。例えば記憶において過去と関係し意志において未来と関係するとき、純粋経験は現在を超越すると考えることが出来るであろうか。心理学者は意識は物ではなく事件である、されば時々刻々に新であって、同一の意識が再生することはないという。しかし余はかゝる考は純粋経験説の立脚地より見たのではなく、反って過去は再び還らず、未来は今だ来らずというの時間性質より推理したのではないかと思う。純粋経験の立脚地より見れば、同一内容の意識は何処までも同一の意識とせねばなるまい。例えば思惟或は意志において一つの目的表象が連続的に働くとき、我々はこれを一つの者と見なければならぬ様に、たといその統一作用が時間上には切れていても、一つの者と考えねばならぬと思う。


      第二章 思 惟

 思惟というのは心理学から見れば、表象間の関係を定めこれを統一する作用である。その最も単一なる形は判断であって、即ち二つの表象の関係を定め、これを結合するのである。しかし我々は判断において二つの独立なる表象を結合するのではなく、かえって或一つの全き表像を分析するのである。たとえば「馬が走る」という判断は、「走る馬」という一表象を分析して生ずるのである。それで、判断の背後にはいつでも純粋経験の事実がある。判断において主客両表象の結合は、実にこれに由りてできるのである。勿論いつでも全き表象が先ず現われて、これより分析が始まるというのではない。先ず主語表象ががあって、これより一定の方向において種々の聯想を起し、選択の後その一に決定する場合もある。しかしこの場合でも、いよいよこれを決定する時には、先ず主客両表象を含む全き表象が現われて来なければならぬ。つまりこの表象が始から含蓄的に働いていたのが、現実となる所において判断を得るのである。かく判断の本には純粋経験がなければならぬということは、啻に事実に対する判断の場合のみではなく、純理的判断というような者においても同様である。たとえば幾何学の公理の如き者でも皆一種の直覚に基づいている。たとい抽象的概念であっても、二つの者を比較し判断するにはその本において統一的或者の経験がなければならぬ。いわゆる思惟の必然性というのはこれより出てくるのである。故に若し前にいったように知覚の如き者のみでなく、関係の意識をも経験と名づくることができるならば、純理的判断の本にも純粋経験の事実があるということができるのである。また推論の結果として生ずる判断について見ても、ロックが論証的知識においても一歩一歩に直覚的証明の結果がなければならぬといったように(Locke, An essay concerning Human Understanding, Bk. IV, Chap. II, 7)連鎖となる各判断の本にはいつも純粋経験の事実がなけらばならぬ。種々の方面の判断を綜合して断案を下す場合においても、たとい全体を統一する事実的直覚はないにしても、凡ての関係を綜合統一する論理的直覚が働いている(いわゆる思想の三法則の如きも一種の内面的直覚である)。たとえば種々の観察より推して地球が動いていなければならぬというのも、つまり一種の直覚に基づける論理法に由りて判断するのである。
 従来伝統的に思惟と純粋経験とは全く類を異にせる精神作用であると考えられている。しかし今凡ての独断を棄てて直接に考え、ジェームスが「純粋経験の世界」と題せる小論文にいったように、関係の意識をも経験の中に入れて考えて見ると、思惟の作用も純粋経験の一種であるということができると思う。知覚と思惟の要素たる心像とは、外より見れば、一は外物より来る末端神経の刺戟に基づき、一は脳の皮質の刺戟の基づくというように区別ができ、また内から見ても、我々は通常知覚と心像とを混同することはない。しかし純心理的に考えて、どこまでも厳密に区別できるかというに、そは頗る困難である。つまり強度の差とかその外種々の関係の異なるより来るので、絶対的区別はないのである(夢、幻覚等において我々はしばしば心像を知覚と混同することがある)。原始的意識にかかる区別があったのではなく、ただ種々の関係より区別せられるようになったのであろう。また一見、知覚は単一であって、思惟は複雑なる過程であるように見えるが、知覚といっても必ずしも単一ではない、知覚も構成的作用である。思惟といってもその統一の方面より見れば一の作用である、或統一者の発展と見ることができる。
 かく思惟と知覚的経験の如き者とを同一種と考えることについては種々の異論もあるであろうから、余はこれより少しくこれらの点について論じて見ようと思う。普通には知覚的経験の如きは所動的で、その作用が凡て無意識であり、思惟はこれに反し能動的でその作用が凡て意識的であると考えられている。しかしかように明なる区別はどこにあるであろうか。思惟であっても、そが自由に活動し発展する時には殆ど無意識的注意の下において行われるのである、意識的となるのはかえってこの進行が妨げられた場合である。思惟を進行せしむる者は我々の随意作用ではない、思惟は己自身にて発展するのである。我々が全く自己を棄てて思惟の対象即ち問題に純一となった時、更に適当にいえば自己をその中に没した時、始めて思惟の活動を見るのである。思惟には自ら思惟の法則があって自ら活動するのである。我々の意志に従うのではない。対象に純一になること、即ち注意を向けることを有意的といえばいいうるであろうが、この点においては知覚も同一であろうと思う、我々は見んと欲する物に自由に注意を向けて見ることができる。勿論思惟においては知覚の場合よりも統一が寛であり、その推移が意識的であるように思われるので、前にこれを以てその特徴として置いたが、厳密に考えて見るとこの区別も相対的であって、思惟においても一表象より一表象に推移する瞬間においては無意識である、統一作用が現実に働きつつある間は無意識でなければならぬ。これを対象として意識する時には、己にその作用は過去に属するのである。かく思惟の統一作用は全然意志の外にあるのであるが、ただ我々が或問題について考える時、種々の方向があってその取捨が自由であるように思われるのである。しかしかかる現象は知覚の場合にもないのではない。少しく複雑になる知覚においては如何に注意を向けるかは自由である、たとえば一幀の画を見るにしても、形に注意することもできまた色彩に注意することもできる。その外、知覚では我々は外から動かされ、思惟では内より動くなどいうが、内外の区別というも要するに相対的に過ぎずぬ、ただ思惟の材料たる心像は比較的変動し易く自由であるからかく見えるのである。
 次に普通には知覚は具象的事実の意識であり、思惟は抽象的関係の意識であって、両者全然その類を異にする者のように考えられている。しかし純粋に抽象的関係というような者は我々はこれを意識することはできぬ、思惟の運行も或具象的心像を籍りて行われるのである、心像なくして思惟は成立しない。たとえば三角形の統べての角の和はニ直角であるということを証明するにも、或特殊なる三角形の心像に由らねばならぬのである、思惟は心像を離れた独立の意識ではない、これに伴う一現象である。ゴール Gore は、心像とその意味との関係は刺戟とその反応との関係と同一であると説いている(Dewey,Studies in Logical Theory)。思惟は心像に対する意識の反応であって、而してまた心像は思惟の端緒である、思惟と心像とは別物ではない。いかなる心像であっても決して独立ではない、必ず全意識と何らかの関係において現われる、而してこの方面が思惟における関係の意識である、純粋なる思惟と思われる者も、ただこの方面の著しき者にすぎないのである。さて心像と思惟との関係を右の如く考えた所で、知覚においてはかくの如き思惟的方面がないかというに、決してそうではない。凡ての意識現象のように知覚も一の体系的作用である、知覚においてはその反応はかえって顕著であって意志となり動作となって現われるのであるが、心像においては単に思惟として内面的関係に止まるのである。されば事実上の意識には知覚と心像との区別はあるが、具象と抽象との別はない、思惟は心像間の事実の意識である、而して知覚と心像との別も前にいったように厳密なる純粋経験の立脚地よりしては、どこまでも区別することはできないのである。
 以上は心理学上より見て、思惟も純粋経験の一種であることを論じたのであるが、思惟は単に個人的意識の上の事実ではなくして客観的意味を有(も)っている、思惟の本領とする所は真理を現すにあるのである、自分で自分の意識現象を直覚する純粋経験の場合には真妄ということはないが、思惟には真妄の別があるともいえる。これらの点を明にするにはいわゆる客観、実在、真理等の意義を詳論する必要はあるが、極めて批評的に考えて見ると、純粋経験の事実の外に実在なく、これらの性質も心理的に説明ができると思う。前にもいったように、意識の意味というのは他との関係より生じてくる、換言すればその意識の入り込む体系に由りて定まってくる。同一の意識であっても、その入り込む体系の異なるに由りて種々の意味を生ずるのである。たとえば意味の意識である或心像であっても、他に関係なく唯それだけとして見た時には、何らの意味も持たない単に純粋経験の事実である。これに反し事実の意識なる或知覚も、意識体系の上に他と関係を有する点より見れば意味を有っている、ただ多くの場合にその意味が無意識であるのである。然らば如何なる思想が真であり如何なる思想が偽であるかというに、我々はいつでも意識体系の中で最も有力なる者、即ち最大最深なる体系を客観的実在と信じ、これに合った場合を真理、これと衝突した場合を偽と考えるのである。この考より見れば、知覚にも正しいとか誤るとかいうことがある。即ち或体系よりして見て、よくその目的に合うた時が正しく、これに反した時が誤ったのである。勿論これらの体系の中には種々の意味があるので、知覚の背後における体系は多く実践的であるが、思惟の体系は純知識的であるというような区別もできるであろう。しかし余は知識の究意的目的は実践的であるように、意志の本に理性が潜んでいるといえると思う。この事は後に意思の処に論じようと思うが、かかる体系の区別も絶対的とはいえないのである。また同じ知覚的作用であっても、聯想とか記憶とかいうのは単に個人的意識内の関係統一であるが、思惟だけでは超個人的で一般的であるともいえる。しかしかかる区別も我々の経験の範囲を強いて個人的と限るより起るので、純粋経験の前にはかえって個人なる者のないことに考え到らぬのである(意志は意識統一の小なる要求で、理性はその深遠なる要求である)。
 これまで思惟と純粋経験とを比較し、普通にはこの二者が全く類を異にすると思うている点も、深く考えて見ると一致の点を見出し得ることを述べたのであるが、今少しく思惟の起源および帰趨について論じ、更に右二者の関係を明にしようと思う。我々の意識の原始的状態または発達せる意識でもその直接の状態は、いつでも純粋経験の状態であることは誰しも許す所であろう。反省的思惟の作用は次位的にこれより生じた者である。しからば何故に此の如き作用が生ずるのであるかというに、前にいったように意識は元来一の体系である、自ら己を発展完成するのがその自然の状態である、しかもその発展の経路において種々なる体系の矛盾衝突が起こってくる、反省的思惟はこの場合に現れるのである。しかし一面より見て斯の如く矛盾衝突するのも、他面より見れば直に一層大なる体系的発展の端緒である。換言すれば大いなる統一の未完の状態ともいうべき者である。たとえば行為においてもまた知識においても、我々の経験が複雑となり種々の聯想が現われ、その自然の行路を妨げた時我々は反省的となる。この矛盾衝突の裏面には暗に統一の可能を意味しているのであって、決意或は解決の時已に大いなる統一の端緒が成立するのである。しかし我々は決して単に決意または解決という如き内面的統一の状態にのみ止まるのではない、決意はこれに実行の伴うは言をまたず、思想でも必ず何らかの実践的意味をもっている、思想は必ず実行に現れなければならぬ、即ち純粋経験の統一に達せねばならぬ。すなわち純粋経験の統一に達せねばならぬ。されば純粋経験の事実は我々の思想のアルファでありまたオメガである。要するに思惟は大いなる意識体系の発展実現する過程に過ぎない、若し大なる意識統一に住してこれを見れば、思惟というのも大なる一直覚の上における波瀾にすぎぬのである。たとえば我々が或目的について苦慮する時、目的なる統一的意識はいつでもその背後に直覚的事実として働いているのである。それで思惟といっても別に純粋経験とは異なった内容も形式も有っておらぬ、ただその深く大ではあるが未完の状態である。他面より見れば真の純粋経験とは単に所動的ではなく、かえって構成的で一般的方向を有っている、即ち思惟を含んでいるといってよい。
 純粋経験と思惟とは元来同一事実の見方を異にした者である。かつてヘーゲルが力を極めて主張したように、思惟の本質は抽象的なるにあるのでなく、かってその具体的なるにあるとすれば、余が上にいった意味の純粋経験と殆ど同一となってくる、純粋経験は直に思惟であるといってもよい。具体的思惟より見れば、概念の一般性というのは普通にいうように類似の性質を抽象した者ではない、具体的事実の統一力である、ヘーゲルも一般とは具体的なる者の魂であるといっている(Hegel,Wissenschaft der Logik,III,S.37)。而して我々の純粋経験は体系的発展であるから、その根底に働きつつある統一力は直に概念の一般性その者でなければならぬ、経験の発展は直に思惟の進行となる、即ち純粋経験の事実とはいわゆる一般なる者が己自身を実現するのである。感覚或は聯想の如き者においてすら、その背後に潜在的統一作用が働いている。これに反し思惟においても統一が働く瞬間には、前にいったようにその統一自身は無意識である。ただ統一が抽象せられ、対象化せられた時、別の意識となって現れる。しかしこの時は已に統一の作用を失っているのである。純粋経験とは単一とか所動的とかいうことは相反するでもあろうが、経験とはありのままを知るという意ならば、単一とか所動的とかいうことはかえって純粋経験の状態とはいわれない、真に直接なる状態は構成的で能動的である。
 我々は普通に思惟に由りて一般的なる者を知り、経験に由りて個体的なる者を知ると思うている。しかし個体を離れて一般的なる者があるのではない、真に一般的なる者は個体的実現の背後における潜勢力である、個体の中にありてこれを発展せしむる力である、たとえば植物の種子の如き者である。もし個体より抽象せられたほかの特殊と対立する如き者ならば、そは真の一般ではなくして、やはり特殊である、かかる場合では一般は特殊の上に位するのではなく、これと同列にあるのである、たとえば、色ある三角形より見れば色は特殊であるだろうが、色より見れば三角形は特殊である。かくの如き抽象的で無力なる一般ならば推理や綜合の本となることはできぬ。それで思惟の活動において統一の本たる真に一般なる者は、個体的実現とその内容を同じうする潜勢力でなければならぬ、ただその含蓄的なると顕現的なるとに由りて異なっているのである。個体とは一般的なる者の限定せられたのである。個体と一般との関係を斯の如く考えると、論理的にも思惟と経験との差別がなくなってくる。我々が現在の個体的経験といっている者も、その実は発展の途中にある者と見ることができる、即ちなお精細に限定せらるべき潜勢力を有っているのである。たとえば我々の感覚の如き者でもなお分化発展の余地があるのであろう、この点より見てなお一般的となすこともできる。これに反し一般的の者でも、発展をその処にかぎって見れば、個体的ということもできるであろう。普通には空間時間の上において限定せられた者をのみ個体的と称えている、しかしかかる限定は単に外面的である、真の個体とはその内容において個体的でなければならぬ、即ち唯一の特色を具えた者でなければならぬ、一般的なる者が発展の極処に到った処が個体である。この意味より見れば、普通に感覚或は知覚といっているような者は極めて内容に乏しき一般的なるもので、深き意味に充ちたる画家の直覚の如き者がかえって真に個体的といいうるであろう。凡て空間時間の上より限定せられた単に物質的なる者を以て、個体的となすのはその根底において唯物論的独断があるであろうと思う。純粋経験の立脚地より見れば、経験を比較するにはその内容を以てすべきものである。時間空間という如き者もかかる内容に基づいてこれを統一する一つの形式にすぎないのである。或はまた感覚的印象の強く明なることと、その情意と密接の関係をもつことなどがこれを個体と思わしめる一原因でもあろうが、いわゆる思想の如きも決して情意に関係がないのではない。強く情意を動かす者が特に個体的と考えられるのは、情意は知識に比して我々の目的その者であり、発展の極致に近いからであると思う。
 これを要するに思惟と経験とは同一であって、その間に相対的の差異を見ることはできるが絶対的区別はないと思う。しかし余はこれが為に思惟は単に個人的で主観的であるというのではない、前にもいったように純粋経験は個人の上に超越することができる。かくいえば甚だ異様に聞えるであろうが、経験は時間、空間、個人を知るが故に時間、空間、個人以上である、個人あって経験あるのではなく、経験あって個人あるのである。個人的経験とは経験の中において限られし経験の特殊なる一小範囲にすぎない。

      第三章 意 志


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入力  philo
校正  nani
公開サイト 書籍デジタル化委員会
http://www.wao.or.jp/naniuji/
2000/05/11/掲載途中
NO.018
底本 『善の研究』岩波文庫/1968/岩波書店
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(註)
コード外の文字は[ ]で示し、別字またはカナで表記。
ウムラウト、アクサンなどは省略。