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 感想
明 暗
夏目漱石 


 医者は探りを入れた後で、手術台の上から津田を下ろした。
「矢張穴が腸まで続いているんでした。この前探った時は、途中に瘢痕(はんこん)の隆起があったので、つい其所其処が行き止まりだとばかり思って、ああ云ったんですが、今日疎通を好くする為に、其奴をがりがり掻き落として見ると、まだ奥があるんです」
「そうしてそれが腸まで続いているんですか」
「そうです。五分位だと思っていたのが約一寸程あるんです」
 津田の顔には苦笑の裡(うち)に淡く盛り上げられた失望の色が見えた。医者は白いだぶだぶした上着の前に両手を組み合わせたまま、一寸首を傾けた。その様子が「御気の毒ですが事実だから仕方がありません。医者は自分の職業に対して嘘言(うそ)を吐く訳に行かないんですから」という意味に受取れた。
 津田は無言のまま帯を締め直して、椅子の背に投げ掛けられた袴(はかま)を取り上げながら医者の方を向いた。
「腸まで続いているとすると、癒(なお)りっこないんですか」
「そんな事はありません」
 医者は活[溌]にまた無造作に津田の言葉を否定した。併せて彼の気分をも否定する如くに。
「ただ今までの様に穴の掃除ばかりしていては駄目なんです。それじゃ何時まで経っても肉の上がりはこないから、今度は治療法を変えて根本的の手術を一思いに遣るより外に仕方がありませんね」
「根本的の治療と云うと」
「切開です。切開して穴と腸と一所にしてしまうんです。すると天然自然割かれた面の両側が癒着して来ますから、まあ本式に癒るようになるんです」
 津田は黙って点頭いた。彼の傍には南側の窓下に据えられた洋卓の上に一台の顕微鏡が載っていた。医者と懇意な彼は先刻診療所へ入った時、物珍しさに、それを覗かせて貰ったのである。その時八百五十倍の鏡の底に映ったものは、まるで図に撮影ったように鮮やかに見える着色の葡萄状の細菌であった。
 津田は袴を穿いてしまって、その洋卓の上に置いた皮の紙入れを取り上げたとき、不図この細菌のことを思い出した。すると連想が急に彼の胸を不安にした。診療所を出るべく紙入れを懐に収めた彼は既に出ようとして又躊躇した。
「もし結核性のものだとすると、仮令(たとい)今仰しゃった様な根本的な手術をして、細い溝を全部腸の方へ切り開いてしまっても癒らないんでしょう」
「結核性なら駄目です。それからそれへと穴を掘って奥の方へ進んで行くんだから、口元だけ治療したって役にゃ立ちません」
 津田は思わず眉を寄せた。
「私のは結核性じゃないんですか」
「いえ、結核性じゃありません」
 津田は相手の言葉にどれ程の真実さがあるかを確かめようとして、一寸眼を医者の上に据えた。医者は動かなかった。
「どうしてそれが分かるんですか。ただの診断で分かるんですか」
「ええ、診察(み)た様子で分かります」
 その時看護婦が津田の後に廻った患者の名前を室の出口に立って呼んだ。待ち構えていたその患者はすぐ津田の背後に現われた。津田は早く退却しなければならなくなった。
「じゃ何時その根本的手術を遣って頂けるんでしょう」
「何時でも、貴方の御都合の好い時で宜う御座んす」
 津田は自分の都合を善く考えてから日取を極める事にして室外に出た。


 電車に乗った時の彼の気分は沈んでいた。身動きのならない程客の込み合う中で、彼は釣革にぶら下がりながら只自分の事ばかり考えた。去年の疼痛がありありと記憶の舞台に上った。白いベッドの上に横えられた無残な自分の姿が明かに見えた。鎖を切って逃げる事が出来ない時に犬の出すような自分の唸り声が判然(はっきり)聴えた。それから冷たい刃物の光と、それが互いに触れ合う音と、最後に突然両方の肺臓から一度に空気を搾り出すような恐ろしい力の圧迫と、圧された空気が圧されながらに収縮する事が出来ないために起こるとしか思われない劇しい苦痛とが彼の記憶を襲った。
 彼は不愉快になった。急に気を換えて自分の周囲を眺めた。周囲のものは彼の存在にすら気が付かずにみんな澄ましていた。彼は又考えつづけた。
「どうしてあんな苦しい目に会ったんだろう」
 荒川堤へ花見に行った帰り路から何等の予告なしに突発した当時の疼痛(とうつう)に就いて、彼は全く盲目漢(めくら)であった。その原因はあらゆる想像の外にあった。不思議というよりも寧ろ恐ろしかった。
「この肉体はいつ何時どんな変に会わないとも限らない。そうして自分は全く知らずにいる。恐ろしいことだ」
 此処まで働いて来た彼の頭はそこで留まる事が出来なかった。どっと後から突き落すような勢で、彼を前の方に押し遣った。突然彼は心の中で叫んだ。
「精神界も同じ事だ。精神界も全く同じ事だ。何時どう変るか分らない。そうしてその変る所を己は見たのだ」
 彼は思わず唇を固く結んで、恰も自尊心を傷けられた人のような眼を彼の周囲に向けた。けれども彼の心のうちに何事が起こりつつあるかをまるで知らない車中の乗客は、彼の眼遣に対して少しの注意も払わなかった。
 彼の頭は彼の乗っている電車のように、自分自身の軌道の上を走って前へ進むだけであった。彼は二三日前ある友達から聞いたポアンカレーの話を思い出した。彼の為に「偶然」の意味を説明して呉れたその友達は彼に向ってこう云った。
「だから君、普通世間で偶然だという、所謂偶然の出来事というのは、ポアンカレーの説によると、原因があまりに複雑過ぎて一寸見当が付かない時に云うのだね。ナポレオンが生れるためには或特別の卵と或特別の精虫の配合が必要で、その必要な配合が出来得るためには、又どんな条件が必要であったかと考えて見ると、殆ど想像が付かないだろう」
 彼は友達の言葉を、単に与えられた新らしい知識の断片として聞き流す訳には行かなかった。彼はそれをぴたりと自分の身の上に当て嵌めて考えた。すると暗い不可思議な力が右に行くべき彼を左に押し遣ったり、前に進むべき彼を後ろに引き戻したりするように思えた。しかも彼はついぞ今まで自分の行動に就いて他から牽制を受けた覚えがなかった。為(す)る事はみんな自分の力で為、言う事は悉く自分の力で言ったに相違なかった。
「どうしてあの女は彼所あすこへ嫁に行ったのだろう。それは自分で行こうと思ったから行ったに違ない。しかしどうしても彼所へ嫁に行く筈ではなかったのに。そうしてこの己は又どうしてあの女と結婚したのだろう。それも己が貰おうと思ったからこそ結婚が成立したに違いない。偶然? ポアンカレーの所謂複雑の極致? 何だか解らない」
 彼は電車を降りて考えながら宅の方へ歩いて行った。


 角を曲って細い小路へ這入った時、津田はわが門前に立っている細君の姿を認めた。その細君は此方を見ていた。然し津田の影が曲り角から出るや否や、すぐ正面の方へ向き直った。そうして白い繊い手を額の所へ翳す様にあてがって何か見上げる風をした。彼女は津田が自分のすぐ傍へ寄って来るまでその態度を改めなかった。
「おい何を見ているんだ」
 細君は津田の声を聞くとさも驚ろいた様に急に此方を振り向いた。
「ああ吃驚(びっくり)した。――御帰り遊ばせ」
 同時に細君は自分の有っているあらゆる眼の輝きを集めて一度に夫の上に注ぎ掛けた。それから心持腰を曲めて軽い会釈をした。
 半ば細君の嬌態に応じようとした津田は半ば逡巡して立ち留まった。
「そんな所に立って何をしているんだ」
「待ってたのよ。御帰りを」
「だって一生懸命に見ていたじゃないか」
「ええ。あれ雀よ。雀が御向うの宅の二階の庇に巣を食つてるんでしょう」  津田は一寸向うの宅の屋根を見上げた。然し其所には雀らしいものの影も見えなかった。細君はすぐ手を夫の前に出した。
「何だい」
「洋杖(ステッキ)」
 津田は始めて気が付いた様に自分の持っている洋杖を細君に渡した。それを受取った彼女は又自分で玄関の格子戸を開けて夫を先へ入れた。それから自分も夫の後に跟いて沓脱から上った。
 夫に着物を脱ぎ換えさせた彼女は津田が火鉢の前に坐るか坐らないうちに、また勝手の方から石鹸入(シャボンいれ)を手拭(てぬぐい)に包んで持って出た。
「一寸今のうち一風呂浴びて入らっしゃい。また其所其処へ坐り込むと臆劫になるから」
 津田は仕方なしに手を出して手拭を受取った。然しすぐ立とうとはしなかった。
「湯は已めにしようかしら」
「何故。――薩張(さっぱ)りするから行って入らっしゃいよ。帰るとすぐ御飯にして上げますから」
 津田は仕方なしに又立ち上がった。室を出る時、彼は一寸細君の方を振り返った。
「今日帰りに小林さんへ寄って診て貰って来たよ」
「そう。そうしてどうなの、診察の結果は。大方もう癒ってるんでしょう」
「ところが癒らない。愈(いよいよ)厄介な事になっちまった」
 津田はこう云ったなり、後を聞きたがる細君の質問を聞き捨てにして表へ出た。
 同じ話題が再び夫婦の間に戻って来たのは晩食が済んで津田がまだ自分の室へ引き取らない宵の口であった。
「厭ね、切るなんて、怖くって。今までの様にそっとして置いたって宜かないの」
「矢張医者の方から云うとこのままじゃ危険なんだろうね」
「だけど厭だわ、貴方。もし切り損ないでもすると」
 細君は濃い恰好の好い眉を心持寄せて夫を見た。津田は取り合ずに笑っていた。すると細君が突然気が付いたように訊いた。
「もし手術をするとすれば、又日曜でなくっちゃ不可いんでしょう」
 細君にはこの次の日曜に夫と共に親類から誘われて芝居見物に行く約束があった。
「まだ席を取ってないんだから構やしないさ、断わったって」
「でもそりゃ悪いわ、貴方。切角親切にああ云って呉れるものを断っちゃ」
「悪かないよ。相当の事情があって断わるんなら」
「でもあたし行きたいんですもの」
「御前は行きたければ御出な」
「だから貴方も入らっしゃいな、ね。御厭?」
 津田は細君の顔を見て苦笑を洩らした。


 細君は色の白い女であった。その所為(せい)で形の好い彼女の眉が一際引立って見えた。彼女はまた癖のように能くその眉を動かした。惜い事に彼女の眼は細過ぎた。御負に愛敬のない一重瞼であった。けれどもその一重瞼の中に輝やく瞳子は漆黒であった。だから非常に能く働らいた。或時は専横と云ってもいい位に表情を恣ままにした。津田は我知らずこの小さい眼から出る光に牽き付けられる事があった。そうして又突然何の原因もなしにその光から跳ね返される事もないではなかった。
 彼が不図眼を上げて細君を見た時、彼は刹那的に彼女の眼に宿る一種の怪しい力を感じた。それは今まで彼女の口にしつつあった甘い言葉とは全く釣り合わない妙な輝やきであった。相手の言葉に対して返事をしようとした彼の心の作用がこの眼付の為に一寸遮断された。すると彼女はすぐ美しい歯を出して微笑した。同時に眼の表情が迹(また)方もなく消えた。
「嘘よ。あたし芝居なんか行かなくっても可いのよ。今のはただ甘ったれたのよ」
 黙った津田は猶しばらく細君から眼を放さなかった。
「何だってそんなむずかしい顔をして、あたしを御覧になるの。――芝居はもう已めるから、この次の日曜に小林さんに行って手術を受けて入らっしゃい。それで好いでしょう。岡本へは二三日中に端書(はがき)を出すか、でなければ私が一寸行って断わって来ますから」
「御前は行って可いんだよ。切角誘って呉れたもんだから」
「いえ私も止しにするわ。芝居よりも貴方の健康の方が大事ですもの」
 津田は自分の受けべき手術に就いて猶詳しい話を細君にしなければならなかった。
「手術ってたって、そう腫物の膿を出すように簡単にゃ行かないんだよ。最初下剤を掛けて先ず腸を綺麗に掃除して置いて、それから愈切開すると、出血の危険があるかも知れないというので、創口(きずぐち)へガーゼを詰めたまま、五六日の間は凝っと寝ているんだそうだから。だから仮令この次の日曜に行くとした所で、どうせ日曜一日じゃ済まないんだ。その代り日曜が延びて月曜になろうとも火曜になろうとも大した違にゃならないし、又日曜を繰り上げて明日にした所で、明後日にした所で、矢張(やっぱり)同じ事なんだ。其所へ行くとまあ楽な病気だね」
「あんまり楽でもないわ貴方、一週間も寝たぎりで動く事が出来なくっちゃ」
 細君は又ぴくぴくと眉を動かして見せた。津田はそれに全く無頓着であると云った風に、何か考えながら、二人の間に置かれた長火鉢の縁に右の肘を靠(も)たせて、その中に掛けてある鉄瓶の蓋を眺めた。朱銅の蓋の下では湯の沸(たぎ)る音が高くした。
「じゃどうしても御勤めを一週間ばかり休まなくっちゃならないわね」
「だから吉川さんに会って訳を話して見た上で、日取を極めようかと思っている所だ。黙って休んでも構わないようなもののそうも行かないから」
「そりゃ貴方御話になる方が可いわ。平生からあんなに御世話になっているんですもの」
「吉川さんに話したら明日からすぐ入院しろって云うかも知れない」
 入院という言葉を聞いた細君は急に細い眼を広げるようにした。
「入院? 入院なさるんじゃないでしょう」
「まあ入院さ」
「だって小林さんは病院じゃないって何時か仰ゃったじゃないの。みんな外来の患者ばかりだって」
「病院というほどの病院じゃないが、診察所の二階が空いてるもんだから、其所へ入いる事も出来るようになってるんだ」
「綺麗?」
 津田は苦笑した。
「自宅よりは少しあ綺麗かもしれない」
 今度は細君が苦笑した。


 寝る前の一時間か二時間を机に向って過ごす習慣になっていた津田はやがて立ち上がった。細君は今まで通りの楽な姿勢で火鉢に倚りかかったまま夫を見上げた。
「又御勉強?」
 細君は時々立ち上がる夫に向ってこう云った。彼女がこういう時には、何時でもその語調のうちに或物足らなさがあるように津田の耳に響いた。ある時の彼は進んでそれに媚びようとした。ある時の彼は却って反感的にそれから逃れたくなった。何方の場合にも、彼の心の奥底には、「そう御前のような女とばかり遊んじゃいられない。己には己でする事があるんだから」という相手を見縊った自覚がぼんやり働いていた。
 彼が黙って間の襖(ふすま)を開けて次の室へ出て行こうとした時、細君は又彼の背後から声を掛けた。
「じゃ芝居はもう御已(おや)めね。岡本へは私から断って置きましょうね」
 津田は一寸振り向いた。
「だから御前は御出でよ、行きたければ。己は今のような訳で、どうなるか分らないんだから」
 細君は下を向いたぎり夫を見返さなかった。返事もしなかった。津田はそれぎり勾配の急な階子段をぎしぎし踏んで二階へ上った。
 彼の机の上には比較的大きな洋書が一冊載せてあった。彼は坐るなりそれを開いて枝折の挿んである頁を目標に其所から読みにかかった。けれども三四日等閑にして置いた咎が祟って、前後の続き具合が能く解らなかった。それを考え出そうとするためには勢い前の所をもう一遍読み返さなければならないので、気の差した彼は、読む事の代りに、ただ頁をぱらぱらと翻して書物の厚味ばかりを苦にするように眺めた。すると前途遼遠という気が自から起こった。
 彼は結婚後三四ヵ月目に始めてこの書物を手にした事を思い出した。気が付いてみるとそれから今日までもう二ヵ月以上も経っているのに、彼の読んだ頁はまだ全体の三分の二にも足らなかった。彼は平生から世間へ出る多くの人が、出るとすぐに書物に遠ざかってしまうのを、さも下らない愚物のように細君の前で罵っていた。それを夫の口癖として聴かされた細君はまた彼を本当の勉強家として認めなければならない程比較的多くの時間が二階で費やされた。前途遼遠という気と共に、面目ないという心持が何処からか出て来て、意地悪く彼の自尊心を擽った。
 然し今彼が自分の前に拡げている書物から吸収しようと力めている知識は、彼の日々の業務上に必要なものではなかった。それは余りに専門的で、又あまりに高尚過ぎた。学校の講義から得た知識ですら滅多に実際の役に立った例のない今の勤め向きとは殆ど没交渉と云っても可い位のものであった。彼はただそれを一種の自身力として貯えて置きたかった。他の注意を惹く粧飾としても身に着けて置きたかった。その困難が今の彼に朧気ながら見えて来た時、彼は彼の己惚(おのぼれ)に訊いてみた。
「そう旨くは行かないものかな」
 彼は黙って煙草を吹かした。それから急に気が付いた様に書物を伏せて立ち上がった。そうして足早に階子段を又ぎしぎし鳴らして下へ降りた。


「おいお延」
 彼は襖越しに細君の名を呼びながら、すぐ唐紙を開けて茶の間の入口に立った。すると長火鉢の傍に坐っている彼女の前に、何時の間にか取り拡げられた美くしい帯と着物の色が忽(たちま)ち彼の眼に映った。暗い玄関から急に明るい電燈の点いた室を覗いた彼の眼にそれが常よりも際立って華麗に見えた時、彼は一寸立ち留まって細君の顔と派出やかな模様とを等分に見較べた。
「今時分そんなものを出してどうするんだい」
 お延は檜扇模様の丸帯の端を膝の上に載せたまま、遠くから津田を見遣った。
「ただ出して見たのよ。あたしこの帯まだ一遍も締めた事がないんですもの」
「それで今度その服装で芝居に出掛けようと云うのかね」
 津田の言葉には皮肉に伴う或冷やかさがあった。お延は何にも答えずに下を向いた。そうして何時もする通り黒い眉をぴくりと動かして見せた。彼女に特異なこの所作は時として変に津田の心を唆かすと共に、時として妙に彼の気持を悪くさせた。彼は黙って縁側へ出て厠の戸を開けた。それから又二階へ上がろうとした。すると今度は細君の方から彼を呼び留めた。
「貴方、貴方」
 同時に彼女は立って来た。そうして彼の前を塞ぐようにして訊いた。
「何か御用なの」
 彼の用事は今の彼に取って細君の帯よりも長襦袢(ながじゅばん)よりも寧ろ大事なものであった。
「御父さんからまだ手紙は来なかったかね」
「いいえ来れば何時もの通り御机の上に載せて置きますわ」
 津田はその予期した手紙が机の上に載っていなかったから、わざわざ下りて来たのであった。
「郵便函の中を探させましょうか」
「来れば書留だから、郵便函の中へ投げ込んで行く筈はないよ」
「そうね、だけど念の為だから、あたし一寸見て来るわ」
 御延は玄関の障子を開けて沓脱へ下りようとした。
「駄目だよ。書留がそんな中に入ってる訳がないよ」
「でも書留でなくって只のが入ってるかも知れないから、一寸待っていらっしゃい」
 津田は漸く茶の間へ引き返して、先刻(さっき)飯を食う時に坐った座蒲団が、まだ火鉢の前に元の通り据えてある上に胡坐を掻いた。そうして其所に燦爛(さんらん)と取り乱された濃い友染模様の色を見守った。
 すぐ玄関から取って返したお延の手には果して一通の書状があった。
「あってよ、一本。ことによると御父さまからかも知れないわ」
 こう云いながら彼女は明るい電燈の光に白い封筒を照らした。
「ああ、矢張あたしの思った通り、御父さまからよ」
「何だ書留じゃないのか」
 津田は手紙を受け取るなり、すぐ封を切って読み下した。然しそれを読んでしまって、又封筒へ収めるために巻き返した時には、彼の手がただ器械的に動くだけであった。彼は自分の手元も見なければ、またお延の顔も見なかった。ぼんやり細君の余所行着の荒い御召の縞柄を眺めながら独りごとのように云った。
「困るな」
「どうなすったの」
「なに大した事じゃない」
 見栄の強い津田は手紙の中に書いてある事を、結婚してまだ間もない細君に話したくなかった。けれどもそれはまた細君に話さなければならない事でもあった。


「今月は何時も通り送金が出来ないから其方でどうか都合して置けというんだ。年寄はこれだから困るね。そんならそうともっと早く云って呉れれば可いのに、突然金の要る間際になって、こんな事を云って来て……」
「一体どういう訳なんでしょう」
 津田は一旦巻き収めた手紙をまた封筒から出して膝の上で繰り拡げた。
「貸家が二軒先月末に空いちまったんだそうだ。それから塞がってる分からも家賃が入って来ないんだそうだ。其所へ持って来て、庭の手入だの垣根の繕いだので、大分臨時費が嵩んだから今月は送れないって云うんだ」
 津田は開いた手紙を、そのまま火鉢の向う側にいるお延の手に渡した。御延は又何も云わずにそれを受取ったぎり、別に読もうともしなかった。この冷かな細君の態度を津田は最初から恐れていたのであった。
「なにそんな家賃なんぞ当にしないだって、送ってさえ呉れようと思えばどうにでも都合は付くのさ。垣根を繕うたって若干掛るものかね。煉瓦の塀を一丁も拵えやしまいし」
 津田の言葉に偽はなかった。彼の父はよし富裕でないまでも、毎月息子夫婦のためにその生計の不足を補ってやる位の出費に窮する身分ではなかった。ただ彼は地味な人であった。津田から云えば地味過ぎる位質素であった。津田よりずっと派出好きな細君から見れば殆ど無意味に近い節倹家であった。
「御父さまは屹度(きっと)私達が要らない贅沢をして、無暗に御金をぱっぱっと遣う様にでも思っていらっしゃるのよ。屹度そうよ」
「うんこの前京都に行った時にも何だかそんな事を云ってたじゃないか。年寄はね、何でも自分の若い時の生計を覚えていて、同年輩の今の若いものも、万事自分のして来た通りにしなければならない様に考えるんだからね。そりゃ御父さんの三十も己の三十も年歯に変りはないかも知れないが、周囲はまるで違っているんだからそうは行かないさ。何時かも会へ行く時会費は幾何だと訊くから五円だって云ったら、驚ろいて恐ろしい様な顔をした事があるよ」
 津田は平生からお延が自分の父を軽蔑する事を恐れていた。それでいて彼は彼女の前にわが父に対する非難がましい言葉を洩らさなければならなかった。それは本当に彼の感じた通りの言葉であった。同時にお延の批判に対して先手を打つという点で、自分と父の言訳にもなった。
「で今月はどうするの。ただでさえ足りない所へ持って来て、貴方が手術のために一週間も入院なさると、また其方の方でも幾何か掛るでしょう」
 夫の手前老人に対する批評を憚った細君の話頭は、すぐ実際問題の方へ入って来た。津田の答は用意されていなかった。しばらくして彼は小声で独言のように云った。
「藤井の叔父に金があると、彼所へ行くんだが……」
 お延は夫の顔を見詰めた。
「もう一遍御父さまの所へ云って上げる訳にゃ行かないの。序に病気の事も書いて」
「書いて遣れない事もないが、また何とか蚊とか云って来られると面倒だからね。御父さんに捕まると、そりゃ中々埒(らち)は開かないよ」
「でも外に当がなければ仕方なかないの」
「だから書かないとは云わない。此方の事情が好く向うへ通じるようにする事はする積だが、何しろすぐの間には合わないからな」
「そうね」
 その時津田は真ともにお延の方を見た。そうして思い切った様な口調で云った。
「どうだ御前岡本さんへ行って一寸融通して貰って来ないか」


「厭よ、あたし」
 お延はすぐ断った。彼女の言葉には何の淀みもなかった。遠慮と斟酌を通り越したその語気が津田にはあまりに不意過ぎた。彼は相当の速力で走っている自動車を、突然停められた時のような衝撃を受けた。彼は自分に同情のない細君に対して気を悪くする前に、先ず驚ろいた。そうして細君の顔を眺めた。
「あたし、厭よ。岡本へ行ってそんな話をするのは」
 お延は再び同じ言葉を夫の前に繰り返した。
「そうかい。それじゃ強いて頼まないでも可い。然し……」
 津田がこう云い掛けた時、お延は冷かな(けれども落付いた)夫の言葉を、掬って追い退けるように遮った。
「だってあたし極りが悪いんですもの。何時でも行くたんびに、お延は好い所へ嫁に行って仕合せだ、厄介はなし、生計に困るんじゃなしって云われ付けている所へ持って来て、不意にそんな御金の話なんかすると、屹度変な顔をされるに極っているわ」
 お延が一概に津田の依頼を斥けたのは、夫に同情がないというよりも、寧ろ岡本に対する見栄に制せられたのだという事が漸く津田の腑に落ちた。彼の眼のうちに宿った冷やかな光が消えた。
「そんなに楽な身分のように吹聴しちゃ困るよ。買い被られるのも可いが、時によると却ってそれが為に迷惑しないとも限らないからね」
「あたし吹聴した覚なんかないわ。ただ向うでそう極めているだけよ」
 津田は追窮もしなかった。お延もそれ以上説明する面倒を取らなかった。二人は一寸会話を途切らした後で又実際問題に立ち戻った。然し今まで自分の経済に関して余り心を痛めた事のない津田には、別にどうしようという分別も出なかった。「御父さんにも困っちまうな」というだけであった。
 お延は偶然思い付いた様に、今まで其方除けにしてあった、自分の晴着と帯に眼を移した。
「これどうかしましょうか」
 彼女は金の入った厚い帯の端を手に取って、夫の眼に映るように、電燈の光に翳した。津田にはその意味が一寸呑み込めなかった。
「どうかするって、どうするんだい」
「質屋へ持ってったら御金を貸して呉れるでしょう」
 津田は驚ろかされた。自分が未だ甞て経験した事のないような遣り繰り算段を、嫁に来たての若い細君が、疾くの昔から承知しているとすれば、それは彼に取って驚ろくべき価値のある発見に相違なかった。
「御前自分の着物かなんか質に入れた事があるのかい」
「ないわ、そんな事」
 お延は笑いながら、軽蔑むような口調で津田の問を打ち消した。
「じゃ質に入れるにした所で様子が分らないだろう」
「ええ。だけどそんな事何でもないでしょう。入れると事が極まれば」
 津田は極端な場合の外、自分の細君にそうした下卑た真似をさせたくなかった。お延は弁解した。
「時が知ってるのよ。あの婢は宅にいる時分能く風呂敷包を抱えて質屋へ使いに行った事があるんですって。それから近頃じゃ端書さえ出せば、向うから品物を受取りに来て呉れるっていうじゃありませんか」
 細君が大事な着物や帯を自分のために提供して呉れるのは津田に取って嬉しい事実であった。然しそれを敢てさせるのは又彼に取っての苦痛に外ならなかった。細君に対して気の毒というよりも寧ろ夫の矜(ほこ)りを傷けるという意味に於て彼は躊躇した。
「まあ能く考えて見よう」
 彼は金策上何等の解決も与えずに又二階へ上って行った。


 翌日津田は例の如く自分の勤め先へ出た。彼は午前に一回ひょっくり階子段の途中で吉川に出会った。然し彼は下りがけ、向は上りがけだったので、擦れ違に叮嚀な御辞儀をしたぎり、彼は何も云わなかった。もう午飯に間もないという頃、彼はそっと吉川の室の戸を敲たいて、遠慮がちな顔を半分程中へ出した。その時吉川は煙草を吹かしながら客と話をしていた。その客は無論彼の知らない人であった。彼が戸を半分程開けた時、今まで調子づいていたらしい主客の会話が突然止まった。そうして二人とも此方を向いた。
「何か用かい」
 吉川から先へ言葉を掛けられた津田は室の入口で立ち留った。
「一寸……」
「君自身の用事かい」
 津田は固(もと)より表向の用事で、この室へ始終出入すべき人ではなかった。跋の悪そうな顔付をした彼は答えた。
「そうです。一寸……」
「そんなら後にしてくれ給え。今少し差支えるから」
「はあ、気が付かない事をして失礼しました」
 音のしないように戸を締めた津田は又自分の机の前に帰った。
 午後になってから彼は二返ばかり同じ戸の前に立った。然し二返共吉川の姿は其所に見えなかった。
「何処かへ行かれたのかい」
 津田は下へ降りた序(ついで)に玄関にいる給使に訊いた。眼鼻だちの整ったその少年は、石段の下に寝ている毛の長い茶色の犬の方へ自分の手を長く出して、それを段上へ招き寄せる魔術の如くに口笛を鳴らしていた。
「ええ先刻御客さまと一所に御出掛になりました。ことによると今日はもう此方へは御帰りにならないかも知れませんよ」
 毎日人の出入の番ばかりして暮しているこの給使は、少なくともこの点にかけて、津田よりも確な予言者であった。津田はだれが伴れて来たか分らない茶色の犬と、それからその犬を友達にしようとして大いに骨を折っているこの給使とをそのままにして置いて、又自分の机の前に立ち戻った。そうして其所で定刻まで例の如く事務を執った。
 時間になった時、彼は外の人よりも一足後れて大きな建物を出た。彼は何時もの通り停留所の方へ歩きながら、不図思い出したように、又隠袋(ポケット)から時計を出して眺めた。それは精密な時刻を知るためよりも寧ろ自分の歩いて行く方向を決する為であった。帰りに吉川の私宅へ寄ったものか、止(よ)したものかと考えて、無意味に時計と相談したと同じ事であった。
 彼はとうとう自分の家とは反対の方角に走る電車に飛び乗った。吉川の不在勝な事をよく知り抜いている彼は、宅まで行ったところで必ず会えるとも思っていなかった。たまさか居たにしたところで、都合が悪ければ会わずに帰されるだけだという事も承知していた。然し彼としては時々吉川の家の門を潜る必要があった。それは礼儀の為でもあった。義理の為でもあった。又利害の為でもあった。最後には単なる虚栄心のためでもあった。
「津田は吉川と特別の知り合である」
 彼は時々こういう事実を背中に背負って見たくなった。それからその荷を背負ったままみんなの前に立ちたくなった。しかも自ら重んずるといった風の彼の平生の態度を毫も崩さずに、この事実を背負っていたかった。物をなるべく奥の方へ押し隠しながら、その押し隠しているところを、却って他に見せたがるのと同じような心理作用の下に、彼は今吉川の玄関に立った。そうして彼自身は飽くまでも用事のためにわざわざ此所へ来たものと自分を解釈していた。


 厳めしい表玄関の戸は何時もの通り締まっていた。津田はその上半部に透し彫のように嵌め込まれた厚い格子の中を何気なく覗いた。中には大きな花崗岩の沓脱が静かに横たわっていた。それから天井の真中から蒼黒い色をした鋳物の電燈笠が下がっていた。今までついぞ此所に足を踏み込んだ例のない彼はわざとそこを通り越して横手へ廻った。そうして書生部屋のすぐ傍にある内玄関から案内を頼んだ。
「まだ御帰りになりません」
 小倉の袴を着けて彼の前に膝をついた書生の返事は簡単であった。それですぐ相手が帰るものと呑み込んでいるらしい彼の様子が少し津田を弱らせた。津田はとうとう折り返して訊いた。
「奥さんは御出ですか」
「奥さんは居らっしゃいます」
 事実を云うと津田は吉川よりも却って細君の方と懇意であった。足を此所まで運んで来る途中の彼の頭の中には、既に最初から細君に会おうという気分が大分働らいていた。
「ではどうぞ奥さんに」
 彼はまだ自分の顔を知らないこの新らしい書生に、もう一返取次を頼み直した。書生は厭な顔もせずに奥へ入った。それから又出て来た時、少し改まった口調で、「奥さんが御目にお掛りになると仰っしゃいますからどうぞ」と云って彼を西洋建の応接間へ案内した。
 彼が其所にある椅子に腰を掛けるや否や、まだ茶も莨盆(たばこぼん)も運ばれない先に、細君はすぐ顔を出した。
「今御帰りがけ?」
 彼は卸ろした腰を又立てなければならなかった。
「奥さんはどうなすって」
 津田の挨拶に軽い会釈をしたなり席に着いた細君はすぐこう訊いた。津田は一寸苦笑した。何と返事をして可いか分らなかった。
「奥さんが出来た所為か近頃はあんまり宅へいらっしゃらなくなった様ね」
 細君の言葉には遠慮も何もなかった。彼女は自分の前に年齢下の男を見るだけであった。そうしてその年齢下の男はかねて眼下の男であった。
「まだ嬉しいんでしょう」
 津田は軽く砂を揚げて来る風を、凝として遣り過ごす時のように、大人しくしていた。
「だけど、もう余っ程になるわね、結婚なすってから」
「ええもう半歳と少しになります」
「早いものね、ついこの間だと思っていたのに。――それでどうなのこの頃は」
「何がです」
「御夫婦仲がよ」
「別にどうという事もありません」
「じゃもう嬉しいところは通り越しちまったの。嘘を仰っしゃい」
「嬉しいところなんか始めからないんですから、仕方がありません」
「じゃこれからよ。もし始めからないなら、これからよ、嬉しいところの出て来るのは」
「有難う。じゃ楽しみにして待っていましょう」
「時に貴方御いくつ?」
「もう沢山です」
「沢山じゃないわよ。一寸伺いたいから伺ったんだから、正直に淡泊(さっぱり)と仰ゃいよ」
「じゃ申し上ます。実は三十です」
「すると来年はもう一ね」
「順に行けばまあそうなる勘定です」
「お延さんは?」
「あいつは三です」
「来年?」
「いえ今年」

十一

 吉川の細君はこんな調子で能く津田に調戯(からか)った。機嫌の好い時は猶更であった。津田も折々は向うを調戯い返した。けれども彼の見た細君の態度には、笑談(じょうだん)とも真面目とも片の付かない或物が閃めく事が度々あった。そんな場合に出会うと、根強い性質に出来上っている彼は、談話の途中でよく拘泥(こだわ)った。そうしてもし事情が許すならば、何処までも話の根を掘じって、相手の本意を付き留めようとした。遠慮のために其所まで行けない時は、黙って相手の顔色だけを注視した。その時の彼の眼には必然の結果として何時でも軽い疑いの雲がかかった。それが臆病にも見えた。注意深くも見えた。又は自衛的に慢ぶる神経の光を放つかの如くにも見えた。最後に、「思慮に充ちた不安」とでも形容して然るべき一種の匂も帯びていた。吉川の細君は津田に会うたんびに、一度か二度きっと彼を其所まで追い込んだ。津田は又それと自覚しながら何時の間にか其所へ引き摺り込まれた。
「奥さんは随分意地が悪いですね」
「どうして? 貴方方の御年歯を伺ったのが意地が悪いの」
「そう云う訳でもないですが、何だか意味のあるような、又ないような訊き方をして置いて、わざとその後を仰しゃらないんだから」
「後なんかありゃしないわよ。一体貴方はあんまり研究家だから駄目ね。学問をするには研究が必要かも知れないけれども、交際に研究は禁物よ。あなたがその癖を已めると、もっと人好のする好い男になれるんだけれども」
 津田は少し痛かった。けれどもそれは彼の胸に来る痛さで、彼の頭に応える痛さではなかった。彼の頭はこの露骨な打撃の前に冷然として相手を見下していた。細君は微笑した。
「嘘だと思うなら、帰って貴方の奥さんに訊いて御覧遊ばせ。お延さんもきっと私と同意見だから。お延さんばかりじゃないわ、まだ外にもう一人ある筈よ、きっと」
 津田の顔が急に堅くなった。唇の肉が少し動いた。彼は眼を自分の膝の上に落したぎり何も答えなかった。
「解ったでしょう、誰だか」
 細君は彼の顔を覗き込むようにして訊いた。彼は固よりその誰であるかを能く承知していた。けれども細君の云う事を肯定する気は毫もなかった。再び顔を上げた時、彼は沈黙の眼を細君の方に向けた。その眼が無言の裡に何を語っているか、細君には解らなかった。
「御気に障ったら堪忍して頂戴。そう云う積で云ったんじゃないんだから」
「いえ何とも思っちゃいません」
「本当に?」
「本当に何とも思っちゃいません」
「それでやっと安心した」
 細君はすぐ元の軽い調子を恢復した。
「貴方まだ何処か子供々々したところがあるのね、こうして話していると。だから男は損な様で矢っ張り得なのね。貴方はそら今仰ゃった通り丁度でしょう、それからお延さんが今年三になるんだから、年歯でいうと、余っ程違うんだけれども、様子からいうと、却って奥さんの方が更けてる位よ。更けてると云っちゃ失礼に当るかも知れないけれど、何と云ったら可いでしょうね、まあ……」
 細君は津田を前に置いてお延の様子を形容する言葉を思案するらしかった。津田は多少の好奇心をもって、それを待ち受けた。
「まあ老成よ。本当に怜悧な方ね、あんな怜悧な方は滅多に見た事がない。大事にして御上げなさいよ」
 細君の語勢からいうと、「大事にしてやれ」という代りに、「能く気を付けろ」と云っても大した変りはなかった。

十二

 その時二人の頭の上に下っている電燈がぱっと点いた。先刻取次に出た書生がそっと室の中へ入って来て、音のしないようにブラインドを卸ろして、又無言のまま出て行った。瓦斯暖炉(ガスだんろ)の色の段々濃くなって来るのを、最前から注意して見ていた津田は、黙って書生の後姿を目送した。もう好い加減に話を切り上げて帰らなくてはならないという気がした。彼は自分の前に置かれた紅茶々碗の底に冷たく浮いている檸檬の一切を除けるようにしてその余りを残りなく啜った。そうしてそれを相図に、自分の持って来た用事を細君に打ち明けた。用事は固より単簡であった。けれども細君の諾否だけですぐ決定されべき性質のものではなかった。彼の自由に使用したいという一週間前後の時日を、月の何処へ置いて可いか、其処は彼女にもまるで解らなかった。
「何時だって構やしないんでしょう。繰合せさえ付けば」
 彼女はさも無造作な口振で津田に好意を表してくれた。
「無論繰合せは付くようにして置いたんですが……」
「じゃ好いじゃありませんか。明日から休んだって」
「でも一寸伺った上でないと」
「じゃ帰ったら私から能く話して置きましょう。心配する事も何にもないわ」
 細君は快よく引き受けた。あたかも自分が他の為に働らいてやる用事が又一つ出来たのを喜こぶようにも見えた。津田はこの機嫌のいい、そして同情のある夫人を自分の前に見るのが嬉しかった。自分の態度なり所作なりが原動力になって、相手をそうさせたのだという自覚が彼を猶更嬉しくした。
 彼はある意味に於て、この細君から子供扱いにされるのを好いていた。それは子供扱いにされるために二人の間に起る一種の親しみを自分が握る事が出来たからである。そうしてその親しみを能く能く立ち割って見ると、矢張男女両性の間にしか起り得ない特殊な親しみであった。例えて云うと或人が茶屋女などに突然背中を打やされた刹那に受ける快感に近い或物であった。
 同時に彼は吉川の細君などがどうしても子供扱いにする事の出来ない自己を裕に有っていた。彼はその自己をわざと押し蔵して細君の前に立つ用意を忘れなかった。かくして彼は心置なく細君から嬲(なぶ)られる時の軽い感じを前に受けながら、背後は何時でも自分の築いた厚い重い壁に倚りかっていた。
 彼が用事を済まして椅子を離れようとした時、細君は突然口を開いた。
「また子供のように泣いたり唸ったりしちゃ不可せんよ。大きな体をして」
 津田は思わず去年の苦痛を思い出した。
「あの時は実際弱りました。唐紙の開閉が局部に応えて、その度にぴくんぴくんと身体全体が寝床の上で飛び上った位なんですから。然し今度は大丈夫です」
「そう? 誰が受合ってくれたの。何だか解ったもんじゃないわね。余まり口幅ったい事を仰しゃると、見届けに行きますよ」
「あなたに見舞に来て頂けるような所じゃありません。狭くって汚なくって変な部屋なんですから」
「一向構わないわ」
 細君の様子は本気なのか調戯うのか一寸要領を得なかった。医者の専門が、自分の病気以外の或方面に属するので、婦人などはあまり其所へ近付かない方が可いと云おうとした津田は、少し口籠って躊躇した。細君は虚に乗じて肉薄した。
「行きますよ、少し貴方に話す事があるから。お延さんの前じゃ話しにくい事なんだから」
「じゃその内私の方から伺います」
 細君は逃げるようにして立った津田を、笑い声と共に応接間から送り出した。

十三

 往来へ出た津田の足は次第に吉川の家を遠ざかった。けれども彼の頭は彼の足程早く今まで居た応接間を離れる訳に行かなかった。彼は比較的人通りの少ない宵闇の町を歩きながら、やはり明るい室内の光景をちらちら見た。
 冷たそうに燦つく肌合の七宝(しっぽう)製の花瓶、その花瓶の滑らかな表面に流れる華麗な模様の色、卓上に運ばれた銀きせの丸盆、同じ色の角砂糖入と牛乳入、蒼黒い地の中に茶の唐草模様を浮かした重そうな窓掛、三隅に金箔を置いた装飾用のアルバム、――こういうものの強い刺激が、既に明るい電燈の下を去って、暗い戸外へ出た彼の眼の中を不秩序に往来した。
 彼は無論この渦まく色の中に坐っている女主人公の幻影を忘れる事が出来なかった。彼は歩きながら先刻彼女と取り換わせた会話を、ぽつりぽつり思い出した。そうしてその或部分に来ると、あたかも炒豆を口へ入れた人の様に、咀嚼しつつ味わった。
「あの細君はことによると、まだあの事件に就いて、己に何か話をする気かも知れない。その話を実は己は聞きたくないのだ。然し又非常に聞きたいのだ」
 彼はこの矛盾した両面を自分の胸の中で自分に公言した時、忽ちわが弱点を曝露した人のように、暗い路の上で赤面した。彼はその赤面を通り抜ける為に、わざとすぐ先へ出た。
「若しあの細君があの事件に就いて己に何か云い出す気があるとすると、その主意は果して何処にあるだろう」
 今の津田は決してこの問題に解決を与える事が出来なかった。
「己に調戯うため?」
 それは何とも云えなかった。彼女は元来他に調戯う事の好な女であった。そうして二人の間柄はその方面の自由を彼女に与えるに充分であった。その上彼女の地位は知らず知らずの間に今の彼女を放慢にした。彼を焦らす事から受け得られる単なる快感のために、遠慮の埒を平気で跨ぐかも知れなかった。
「もしそうでないとしたら、……己に対する同情のため? 己を贔負にし過ぎるため?」」
 それも何とも云えなかった。今まで彼女は実際彼に対して親切でもあり、又贔負にもしてくれた。
 彼は広い通りへ来て其所から電車へ乗った。堀端を沿うて走るその電車の窓硝子の外には、黒い水と黒い土手と、それからその土手の上に蟠(わだか)まる黒い松の木が見えるだけであった。
 車内の片隅に席を取った彼は、窓を透してこのさむざむしい秋の夜の景色に一寸眼を注いだ後、すぐ又外の事を考えなければならなかった。彼は面倒になって昨夕はそのままにして置いた金の工面をどうかしなければならない位地にあった。彼はすぐ又吉川の細君の事を思い出した。
「先刻事情を打ち明けて此方から云い出しさえすれば訳はなかったのに」
 そう思うと、自分が気を利かした積で、こう早く席を立って来てしまったのが残り惜しくなった。と云って、今更その用事だけで、また彼女に会いに行く勇気は彼には全くなかった。
 電車を下りて橋を渡る時、彼は暗い欄干の下に蹲踞(うずく)まる乞食を見た。その乞食は動く黒い影の様に彼の前に頭を下げた。彼は身に薄い外套を着けていた。季節からいうと寧ろ早過ぎる瓦斯暖炉の温かい[焔]をもう見て来た。けれども乞食と彼との懸隔は今の彼の眼中には殆ど入る余地がなかった。彼は窮した人のように感じた。父が例月の通り金を送ってくれないのが不都合に思われた。

十四

 津田は同じ気分で自分の宅の門前まで歩いた。彼が玄関の格子へ手を掛けようとすると、格子のまだ開かない先に、障子がすうと開いた。そうしてお延の姿が何時の間にか彼の前に現われていた。彼は吃驚したように、薄化粧を施こした彼女の横顔を眺めた。
 彼は結婚後こんな事で能く自分の細君から驚ろかされた。彼女の行為は時として夫の先を越すという悪い結果を生む代りに、時としては非常に気の利いた証拠をも挙げた。日常瑣末の事件のうちに、よくこの特色を発揮する彼女の所作を、津田は時々自分の眼先にちらつく洋刀(ナイフ)の光のように眺める事があった。小さいながら冴えているという感じと共に、何処か気味の悪いという心持も起った。
 咄嗟の場合津田はお延が何かの力で自分の帰りを予感したように思った。けれどもその訳を訊く気にはならなかった。訳を訊いて笑いながらはぐらかされるのは、夫の敗北のように見えた。
 彼は澄まして玄関から上へ上がった。そうしてすぐ着物を着換えた。茶の間の火鉢の前には黒塗の足の付いた膳の上に布巾を掛けたのが、彼の帰りを待ち受ける如くに据えてあった。
「今日も何処かへ御廻り?」
 津田が一定の時刻に宅へ帰らないと、お延は屹度(きっと)こういう質問を掛けた。勢い津田は何とか返事をしなければならなかった。然しそう用事ばかりで遅くなるとも限らないので、時によると彼の答は変に曖昧なものになった。そんな場合の彼は、自分のために薄化粧をしたお延の顔をわざと見ないようにした。
「中ててみましょうか」
「うん」
 今日の津田は如何にも平気であった。
「吉川さんでしょう」
「能く中(あた)るね」
「大抵容(ようす)子で解りますわ」
「そうかね。尤も昨夜吉川さんに話をしてから手術の日取を極める事にしようって云ったんだから、中る訳は訳だね」
「そんな事がなくたって、妾(あたし)中てるわ」
「そうか、偉いね」
 津田は吉川の細君に頼んで来た要点だけをお延に伝えた。
「じゃ何時から、その治療に取りかかるの」
「そういう訳だから、まあ何時からでも構わないようなもんだけれども……」
 津田の胸には、その治療にとりかかる前に、是非金の工面をしなければならないという屈託があった。その額は無論大したものではなかった。然し大した額ではないだけに、これという簡便な調達方の胸に浮かばない彼を、猶(なお)焦(いら)つかせた。
 津田は神田にいる妹の事を一寸思い浮べて見たが、其所へ足を向ける気にはどうしてもなれなかった。彼が結婚後家計膨張という名義の下に、毎月の不足を、京都にいる父から填補して貰う事になった一面には、盆暮の賞与で、その何分かを返済するという条件があった。彼は色々の事情から、この夏その条件を履行しなかったために、彼の父は既に感情を害していた。それを知っている妹は又大体の上に於て寧ろ父の同情者であった。妹の夫の手前、金の問題などを彼女の前に持ち出すのを最初から屑(いさぎ)よしとしなかった彼は、この事情のために、猶更堅くなった。彼は已を得なければ、お延の忠告通り、もう一返父に手紙を出して事情を訴えるより外に仕方がないと思った。それには今の病気を、少し手重に書くのが得策だろうとも考えた。父母に心配を掛けない程度で、実際の事実に多少の光沢を着ける位の事は、良心の苦痛を忍ばないで誰にでも出来る手加減であった。
「お延昨夜お前の云った通りもう一遍御父さんに手紙を出そうよ」
「そう、でも……」
 お延は「でも」と云ったなり津田を見た。津田は構わず二階へ上って机の前に坐った。

十五

 西洋流のレターペーパーを使いつけた彼は、机の抽斗(ひきだし)からラヴェンダー色の紙と封筒とを取り出して、その紙の上へ万年筆で何心なく二三行書きかけた時、不図気がついた。彼の父は洋筆(ペン)や万年筆でだらしなく綴られた言文一致の手紙などを、自分の伜から受け取る事は平生からあまり喜こんでいなかった。彼は遠くにいる父の顔を眼の前に思い浮べながら、苦笑して筆を擱(お)いた。手紙を書いて遣った所で到底効能はあるまいという気が続いて起った。彼は木炭紙に似たざらつく厚い紙の余りへ、山羊髯(やぎひげ)を生やした細面の父の顔をいたずらにスケッチして、どうしようかと考えた。
 やがて彼は決心して立ち上った。襖を開けて、二階の上り口の所に出て、某所から下にいる細君を呼んだ。
「お延お前の所に日本の巻紙と状袋があるかね。あるなら一寸お貸し」
「日本の?」
 細君の耳にはこの形容詞が変に滑稽に聞こえた。
「女のならあるわ」
 津田は又自分の前に粋な模様入の半切(はんきれ)を拡げて見た。
「これなら気に入るかしら」
「中さえ能く解るように書いて上たら紙なんかどうでも可(よ)かないの」
「そうは行かないよ。御父さんはあれで中々むずかしいんだからね」
 津田は真面目な顔をして猶半切を見詰めていた。お延の口元には薄笑いの影が差した。
「時を一寸買わせに遣りましょうか」
「うん」
 津田は生返事をした。白い巻紙と無地の封筒さえあれば、必ず自分の希望が成功するという訳にも行かなかった。
「待っていらっしやい。じきだから」
 お延ばすぐ下へ降りた。やがて潜り戸が開いて下女の外へ出る足音が聞こえた。津田は必要の品物が自分の手に入るまで、何もせずに、ただ机の前に坐って煙草を吹かした。
 彼の頭は勢い彼の父を離れなかった。東京に生れて東京に育ったその父は、何ぞというとすぐ上方の悪口を云いたがる癖に、何時か永住の目的をもって京都に落ち付いてしまった。彼がその土地を余り好まない母に同情して多少不賛成の意を洩らした時、父は自分で買った土地と自分が建てた家とを彼に示して、「これをどうする気か」と云った。今よりもまだ年の若かった彼は、父の言葉の意味さえよく解らなかった。所置はどうでも出来るのにと思った。父は時々彼に向かって、「誰のためでもない、みんなお前のためだ」と云った。「今はその有難味が解らないかもしれないが、己が死んで見ろ、屹度(きっと)解る時が来るから」とも云った。彼は頭の中で父の言葉と、その言葉を口にするときの父の態度とを描き出した。子供の未来の幸福を一手に引き受けたような自信に充ちたその様子が近づくべからざる予言者のように、彼には見えた。彼は想像の眼で見る父に向って云いたくなった。
「御父さんが死んだ後で、一度に御父さんの有難味が解るよりも、お父さんが生きているうちから、毎月正確にお父さんの有難味が少しずつ解る方が、どの位楽だか知れやしません」
 彼が父の機嫌を損(そこね)ないような巻紙の上へ、なるべく金を送って呉れそうな文句を、堅苦しい候文で認め出したのは、それから約十分後であった。彼はぎこちない思いをして、漸くそれを書き上げた後で、もう一遍読み返した時に、自分の字の拙いことにつくづく愛想を尽かした。た。文句はとにかく、こんな字では到底成功する資格がないようにも思った。最後に、よし成功しても此方で要る期日までに金はとても来ないような気がした。下女にそれを投函させた後、彼は黙って床の中へ潜り込みながら、腹の中で云った。
「その時はその時の事だ」

十六

 翌日の午後津田は呼び付けられて吉川の前に立った。
「昨日宅(うち)へ来たってね」
「ええ一寸御留守へ伺って、奥さんに御目に掛って参りました」
「また病気だそうじゃないか」
「ええ少し……」
「困るね。そう能く病気をしちゃ」
「何実はこの前の続きです」
 吉川は少し意外そうな顔をして、今まで使っていた食後の小楊子を口から吐き出した。それから内隠袋(うちがくし)を探って莨入を取り出そうとした。津田はすぐ灰皿の上にあった燐寸(マッチ)を擦った。あまり気を利かそうとして急いたものだから、一本目は役に立たないで直ぐ消えた。彼は周章(あわ)てて二本目を擦って、それを大事そうに吉川の鼻の先へ待って行った。
「何しろ病気なら仕方がない、休んでよく養生したら可いだろう」
 津田は礼を云って室を出ようとした。吉川は煙りの間から訊いた。
「佐々木には断ったろうね」
「ええ佐々木さんにも外の人にも話して、繰り合せをして貰う事にしてあります」
 佐々木は彼の上役であった。
「どうせ休むなら早い方が可いね。早く養生して早く好くなって、そうしてせっせと働らかなくっちゃ駄目だ」
 吉川の言葉は能く彼の気性を現わしていた。
「都合が可ければ明日からにし給え」
「ヘえ」
 こう云われた津田は否応なしに明日から入院ししなければならないような心持がした。
 彼の身体が半分戸の外へ出掛かった時、彼は又後から呼び留められた。
「おい君、お父さんは近頃どうしたね。相変らずお丈夫かね」
 振り返った津田の鼻を葉巻の好い香が急に冒した。
「へえ、有難う、お蔭さまで達者で御座います」
「大方詩でも作って遊んでるんだろう。気楽で好いね。昨夕も岡本と或所で落ち合って、君のお父さんの噂をしたがね。岡本も羨ましがってたよ。あの男も近頃少し暇閑(ひま)になったようなものの矢っ張、君のお父さんの様にゃ行かないからね」
 津田は自分の父が決してこれ等の人から羨やましがられているとは思わなかった。もし父の境遇に彼等を置いてやろうというものがあったなら、彼等は苦笑して、少なくともう十年はこのままにして置いて呉れと頼むだろうと考えた。それは固より自分の性格から割り出した津田の観察に過ぎなかった。同時に彼等の性格から割り出した津田の観察でもあった。
「父はもう時勢後れですから、ああでもして暮らしているより外に仕方が御座いません」
 津田は何時の間にか又室の中に戻って、元通りの位置に立っていた。 「どうして時勢後れどころじゃない、つまり時勢に先だっているから、ああした生活が送れるんだ」
 津田は挨拶に窮した。向うの口の重宝なのに比べて、自分の口の不重宝さが荷になった。彼は手持無沙汰の気味で、緩く消えて行く葉巻の烟りを見詰めた。
「お父さんに心配を掛けちゃ不可いよ。君の事は何でも此方に分ってるから、もし悪い事があると、僕からお父さんの方へ知らせて遣るぜ、好いかね」
 津田はこの子供に対するような、笑談とも訓戒とも見分のつかない言葉を、苦笑しながら聞いた後で、漸く室外に逃れ出た。

十七

 その日の帰りがけに津田は途中で電車を下りて、停留所分から賑やかな通りを少し行った所で横へ曲がった。質屋の暖簾だの碁会所の看板だの鳶の頭の居そうな格子戸作りだのを左右に見ながら、彼は彎曲した小路の中程にある擦硝子張の扉を外から押して内へ入った。扉の上部に取り付けられた電鈴(ベル)が鋭どい音を立てた時、彼は玄関の突き当りの狭い部屋から出る四五人の眼の光りを一度に浴びた。窓のないその室は狭いばかりでなく実際暗かった。外部から急に入って来た彼にはまるで穴蔵のような感じを与えた。彼は寒そうに長椅子の片隅へ腰を卸して、たった今暗い中から眼を光らして自分の方を見た人達を見返した。彼等の多くは室の真中に出してある大きな瀬戸物火鉢の周囲を取り巻くようにして坐ってい。その中の二人は腕組のまま、二人は火鉢の縁に片手を翳したまま、ずっと離れた一人は其所に取り散らした新聞紙の上へ甜(な)めるように顔を押し付けたまま、又最後の一人は彼の今腰を卸した長椅子の反対の隅に、心持身体を横にして洋袴の膝頭を重ねたまま。
 電鈴の鳴った時申し合せた様に戸口を振り向いた彼等は、一瞥の後又申し合せた様に静かになってしまった。みんな黙って何事をか考え込んでいるらしい態度で坐っていた。その様子が津田の存在に注意を払わないというよりも、却って津田から注意されるのを回避するのだとも取れた。単に津田ばかりでなく、お互に注意され合う苦痛を憚(はば)かって、わざとそっぽへ眼を落しているらしくも見えた。
 この陰気な一群の人々は、殆んど例外なしに似たり寄ったりの過去を有っているものばかりであった。彼等はこうして暗い控室の中で、静かに自分の順番の来るのを待っている間に、寧ろ華やかに彩られたその過去の断片のために、急に黒い影を投げかけられるのである。そうして明るい所へ眼を向ける勇気がないので、じっとその黒い影の中に立ち疎むようにして閉じ籠っているのである。
 津田は長椅子の肱掛に腕を載せて手を額に中てた。彼は黙祷(もくとう)を神に捧げるようなこの姿勢のもとに、彼が去年の暮以来この医者の家で思い掛なく会った二人の男の事を考えた。
 その一人は事実彼の妹婿に外ならなかった。この暗い室の中で突然彼の姿を認めた時、津田は吃驚した。そんな事に対して比較的無頓着な相手も、津田の驚ろき方が反響したために、一寸挨拶に窮したらしかった。
 他の一人は友達であった。これは津田が自分と同性質の病気に罹っているものと思い込んで、向うから平気に声を掛けた。彼等はその時二人一所に医者の門を出て、晩飯を食いながら、性と愛という問題に就いてむずかしい議論をした。
 妹婿の事は一時の驚ろきだけで、大した影響もなく済んだが、それきりで後のなさそうに思えた友達と彼との間には、その後異常な結果が生れた。
 その時の友達の言葉と今の友達の境遇とを連結して考えなければならなかった津田は、突然衝撃を受けた人のように、眼を開いて額から手を放した。
 すると診察所から紺セルの洋服を着た三十恰好の男が出て来て、すぐ薬局の窓の所へ行った。彼が隠袋から紙入を出して金を払おうとする途端に、看護婦が敷居の上に立った。彼女と見知り越の津田は、次の患者の名を呼んで再び診察所の方へ引き返そうとする彼女を呼び留めた。
「順番を待っているのが面倒だから一寸先生に訊いて下さい。明日か明後日手術を受けに来て好いかって」
 奥へ入った看護婦はすぐ又白い姿を暗い室の戸口に現わした。
「今丁度二階が空いておりますから、何時でも御都合の宣しい時にどうぞ」  津田は逃れるように暗い室を出た。彼が急いで靴を穿いて、擦硝子張の大きな扉を内側へ引いた時、今まで真暗に見えた控室にぱっと電燈が点いた。

十八

 津田の宅へ帰ったのは、昨日よりは稍早目であったけれども、近頃急に短かくなった秋の日脚は疾くに傾いて、先刻まで往来にだけ残っていた肌寒の余光が、一度に地上から払い去られるように消えて行く頃であった。
 彼の二階には無論火が点いていなかったし玄関も真暗であった。今角の車屋の軒燈を明らかに眺めて来たばかりの彼の眼は少し失望を感じた。彼はがらりと格子を開けた。それでもお延は出て来なかった。昨日の今頃待ち伏せでもするようにして彼女から毒気を抜かれた時は、余り好い心持もしなかったが、こうして迎える人もない真暗な玄関に立たされて見ると、矢張り昨日の方が愉快だったという気が彼の胸の何処かでした。彼は立ちながら、「お延お延」と呼んだ。すると思い掛けない二階の方で「はい」という返事がした。それから階子段を踏んで降りて来る彼女の足音が間こえた。同時に下女が勝手の方から馳け出して来た。
「何をしているんだ」
 津日の言葉には多少不満の響きがあった。お延は何にも云わなかった。然しその顔を見上けた時、彼は何時もの通り無言の裡に自分を牽き付けようとする彼女の微笑を認めない訳に行かなかった。白い歯が何より先に彼の視線を奪った。
「二階は真暗じゃないか」
「ええ。何だか盆槍して考えていたもんだから、つい御帰りに気が付かなかったの」
「寝ていたな」
「まさか」
 下女が大きな声を出して笑い出したので、二人の会話はそれぎり切れてしまった。
 湯に行く時、お延は「一寸待って」と云いながら、石鹸と手拭を例の通り彼女の手から受け取って火鉢の傍を離れようとする夫を引き留めた。彼女は後ろ向になって、重ね箪笥の一番下の抽斗から、ネルを重ねた銘仙の褞袍(どてら)を出して夫の前へ置いた。
「一寸着て見て頂戴。まだ圧が好く利いていないかも知れないけども」
 津田は烟に巻かれたような顔をして、黒八丈の襟のかかった荒い竪縞の褞袍を見守もった。それは自分の買った品でもなければ、拵(こしら)えて呉れと誂えた物でもなかった。
「どうしたんだい。これは」
「拵えたのよ。貴方が病院へ入る時の用心に。ああいう所で、あんまり変な服装をしているのは見っともないから」
「何時の間に拵えたのかね」
 彼が手術のため一週間ばかり家を空けなければならないと云って、その訳をお延に話したのは、つい二三日前の事であった。その上彼はその日から今日に至るまで、ついぞ針を持って裁物板の前に坐った細君の姿を見た事がなかった。彼は不思議の感に打たれざるを得なかった。お延は又夫のこの驚きを恰(あたか)も自分の労力に対する報酬の如くに眺めた。そうしてわざと説明も何も加えなかった。
「布は買ったのかい」
「いいえ、これあたしの御古よ。この冬、着ようと思って、洗張をしたまま仕立てずに仕舞っといたの」
 成程若い女の着る柄だけに、縞がただ荒いばかりでなく、色合も何方かというと寧ろ派出過ぎた。津田は袖を通したわが姿を、奴凧(やっこだこ)のような風をして、少し極り悪そうに跳めた後でお延に云った。
「とうとう明日か明後日遣って貰う事に極めて来たよ」
「そう。それであたしはどうなるの」
「御前はどうもしやしないさ」
「一所に随いて行っちや不可いの。病院へ」
 お延は金の事などをまるで苦にしていないらしく見えた。

十九

 津田の明る朝眼を覚ましたのは何時もよりずっと遅かった。家の内はもう一片付かたづいた後のようにひっそり閑としていた。座敷から玄関を通って茶の間の障子を開けた彼は、其所の火鉢の傍にきちんと坐って新聞を手にしている細君を見た。穏やかな家庭を代表するような音を立てて鉄瓶が鳴っていた。
「気を許して寝ると、寝坊をする積はなくっても、つい寝過すもんだな」
 彼は云い訳らしい事をいって、暦の上に懸けてある時計を眺めた。時計の針はもう十時近くの所を指していた。
 顔を洗って又茶の間へ戻った時、彼は何気なく例の黒塗の膳に向った。その膳は彼の着席を待ち受けたというよりも、寧ろ待ち草臥(くたび)れたといった方が適当であった。彼は膳の上に掛けてある布巾を除ろうとして不図気が付いた。
「こりや不可い」
 彼は手術を受ける前日に取るべき注意を、かつて医者から聞かされた事を思い出した。然し今の彼はそれを明らかに覚えていなかった。彼は突然細君に云った。
「一寸訊いてくる」
「今すぐ?」
 お延は吃驚して夫の顔を見た。
「なに電話でだよ。訳やない」
 彼は静かな茶の間の空気を自分で蹴散らす人のように立ち上ると、すぐ玄関から表へ出た。そうして電車通りを半丁程右へ行った所にある自動電話へ駆け付けた。其所から又急ぎ足に取って返した彼は玄関に立ったまま細君を呼んだ。
「一寸二階にある紙入を取って呉れ。御前の蟇口でも好い」
「何になさるの」
 お延には夫の意味がまるで解らなかった。
「何でも可いから早く出して呉れ」
 彼はお延から受取った蟇口を懐中へ放り込んだまま、すぐ大通りの方へ引き返した。そうして電車に乗った。
 彼が可なり大きな紙包を抱えて又戻って来たのは、それから約三四十分後で、もう午に間もない頃であった。
「あの蟇口の中にゃ少しっきゃ入っていないんだね。もう少しあるのかと思ったら」
 津田はそう云いながら腋に抱えた包みを茶の間の畳の上へ放り出した。
「足りなくって?」
 お延は細かい事にまで気を遣わないではいられないという眼付を夫の上に向けた。
「いや足りないという程でもないがね」
「だけど何をお買いになるかあたし些とも解らないんですもの。もしかすると髪結床かと思ったけれども」
 津田は二カ月以上手を入れない自分の頭に気が付いた。永く髪を刈らないと、心持番の小さい彼の帽子が、被るたんぴに少しずつきしんで来るようだという、つい昨日の朝受けた新らしい感じまで思い出した。
「それに余まり急いでいらっしったもんだから、つい二階まで取りに行けなかったのよ」
「実は己の紙入の中にも、そう沢山入ってる訳じゃないんだから、まあ何方にしたって大した変りはないんだがね」
 彼は蟇口の悪口ばかり云えた義理でもなかった。
 お延は手早く包紙を解いて、中から紅茶の缶と、麺麹(パン)と牛酪(バタ)を取り出した。
「おやおやこれ召しやがるの。そんなら時を取りに御遣りになれば可いのに」
「なに彼奴じや分らない。何を買って来るか知れやしない」
 やがて好い香がするトーストと濃いけむりを立てるウーロン茶とがお延の手で用意された。
 朝飯とも午飯とも片のつかない、極めて単純な西洋流の食事を済ました後で、津田は独りごとのように云った。
「今日は病気の報知旁(かたがた)無沙汰見舞に、一寸朝の内藤井の叔父の所まで行って来ようと思ってたのに、とうとう遅くなっちまった」
 彼の意味は仕方がないから午後にこの訪問の義務を果そうというのであった。

二十

 藤井というのは津田の父の弟であった。広島に三年長崎に二年という風に、方々移り歩かなければならない官吏生活を余儀なくされた彼の父は、教育上津田を連れて任地々々を巡礼のように経めぐる不便と不利益とに痛く頭を悩ました揚句、早くから彼をその弟に託して、一切の面倒を見て貰う事にした。だから津田は手もなくこの叔父に育て上げられたようなものであった。従って二人の関係は普通の叔父甥の域を通り越していた。性質や職業の差違を問題の外に置いて評すると、彼等は叔父甥というよりも寧ろ親子であった。もし第二の親子という言葉が使えるなら、それは最も適切にこの二人の間柄を説明するものであった。
 津田の父と違ってこの叔父はついぞ東京を離れた事がなかった。半生の間始終動き勝であった父に比べると、単にこの点だけでも其所に非常な相違があった。少なくとも非常な相違があるように津田の眼には映じた。
「緩慢なる人世の旅行者」
 叔父がかつて津田の父を評した言葉のうちにこういう文句があった。それを何気なく小耳に挟んだ津田は、すぐ自分の父をそういう人だと思い込んでしまった。そうして今日までその言葉を忘れなかった。然し叔父の使った文句の意味は、頭の発達しない当時能く解らなかったと同じように、今になっても判然(はっきり)しなかった。ただ彼は父の顔を見るたんびにそれを思い出した。肉の少ない細面の腮(あご)の下に、売卜者(うらないしゃ)みたような疎髯(そぜん)を垂らしたその姿と、叔父のこの言葉とは、彼に取って殆んど同じものを意味していた。
 彼の父は今から十年ばかり前に、突然遍路に倦(う)み果てた人のように官界を退いた。そうして実業に従事し出した。彼は最後の八年を神戸で費やした後、その間に買って置いた京都の地面へ、新しい普請をして、二年前にとうとう其所へ引き移った。津田の知らない間に、この閑静な古い都が、彼の父にとって隠栖(いんせい)の場所と定められると共に、終焉の土地とも変化したのである。その時叔父は鼻の頭へ皺を寄せるようにして津田に云った。
「兄貴はそれでも少し金が溜ったと見えるな。あの風船玉が、じっと落ち付けるようになったのは、全く金の重みのために違ない」
 然し金の重みの何時まで経ってもかからない彼自身は、最初から動かなかった。彼は始終東京にいて始終貧乏していた。彼は未だかつて月給というものを貰った覚のない男であった。月給が嫌いというよりも、寧ろくれ手がなかった程我儘だったという方が適当かも知れなかった。規則ずくめな事に何でも反対したがった彼は、年を取ってその考が少し変って来た後でも、やはり以前の強情を押し通していた。これは今更自分の主義を改めたところで、ただ人に軽蔑されるだけで、一向得にはならないという事を能く承知しているからでもあった。
 実際の世の中に立って、端的な事実と組み打ちをして働らいた経験のないこの叔父は、一面に於て当然迂闊(うかつ)な人生批評家でなければならないと同時に、一面に於ては甚だ鋭利な観察者であった。そうしてその鋭利な点は悉(ことごと)く彼の迂闊な所から生み出されていた。言葉を換えていうと、彼は迂闊の御蔭で奇警な事を云ったり為(し)たりした。
 彼の知識は豊富な代りに雑駁であった。従って彼は多くの問題に口を出したがった。けれども何時まで行っても傍観者の態度を離れる事は出来なかった。それは彼の位置が彼を余儀なくするばかりでなく、彼の性質が彼を其所に抑え付けて置く所為でもあった。彼は或頭を有っていた。けれども彼には手がなかった。若くは手があっても、それを使おうとしなかった。彼は始終懐手をしていたがった。一種の勉強家であると共に一種の不精者に生れ付いた彼は、遂に活字で飯を食わなければならない運命の所有者に過ぎなかった。

二十一

 こういう人にありがちな場末生活を、藤井は市の西北にあたる高台の片隅で、この六七年続けて来たのである。ついこの間まで郊外に等しかったその高台の此所彼所に年々建て増される大小の家が、年々彼の眼から蒼い色を奪って行くように感ぜられる時、彼は洋筆を走らす手を止めて、能く自分の兄の身の上を考えた。折々は兄から金でも借りて、自分も一つ住宅を拵えて見ようかしらという気を起した。その金を兄はとても貸してくれそうもなかった。自分もいざとなると貸して貰う性分ではなかった。「緩慢なる人生の旅行者」と兄を評した彼は、実を云うと、物質的に不安なる人生の旅行者であった。そうして多数の人の場合に於て常に見出される如く、物質上の不安は、彼にとってある程度の精神的不安に過ぎなかった。
 津田の宅からこの叔父の所へ行くには、半分道程川沿の電車を利用する便利があった。けれどもみんな歩いたところで、一時間と掛らない近距離なので、たまさかの散歩がてらには、却ってやかましい交通機関の援(たすけ)に依らない方が、彼の勝手であった。
 一時少し前に宅を出た津田は、ぶらぶら川縁を伝って終点のほうに近づいた。空は高かった。日の光が至る所に充ちていた。向うの高みを蔽(おお)っている深い木立の色が、浮き出したように、くっきり見えた。
 彼は道々今朝買い忘れたリチネの事を思い出した。それを今日の午後四時ごろに呑めと医者から命令された彼には、一寸薬種屋へ寄ってこの下剤を手に入れて置く必要があった。彼は何時もの通り終点を右へ折れて橋を渡らずに、それとは反対な賑やかな町の方へ歩いて行こうとした。すると新らしく線路を延長する計劃でもあると見えて、彼の通路に当る往来の一部分が、最も無遠慮な形式で筋違に切断されていた。彼は残酷に往来の家屋を掻き[毟](かきむし)って、無理にそれを取り払ったような凸凹だらけの新道路の角に立って、その片隅に塊まっている一群の人々を見た。群集はまばらではあるが三列もしくは五列位の厚さで、真中にいる彼と略同年輩位な男の周囲に半円形をかたちづくっていた。
 小肥りにふとったその男は双子木綿の羽織着物に角帯を締めて爼下駄(まないたげた)を穿いていたが、頭には笠も帽子も被っていなかった。彼の後に取り残された一本の柳を盾に、彼は棉フラネルの裏の付いた大きな袋を両手で持ちながら、見物人を見廻した。
「諸君僕がこの袋の中から玉子を出す。この空っぽうの袋の中からきっと出して見せる。驚いちゃ不可い、種は懐中にあるんだから」
 彼はこの種の人間としては寧ろ不相応な位横風な言葉でこんな事を云った。それから片手を胸の所で握って見せて、その握った拳をまたぱっと袋の方へぶつけるように開いた。「そら玉子を袋の中へ投げ込んだぞ」と騙さないばかりに。然し彼は騙したのではなかった。彼が手を袋の中へ入れた時は、もう玉子がちゃんとその中に入っていた。彼はそれを親指と人さし指の間に挟んで、一応半円形をかたちづくっている見物にとっくり眺めさした後で地面の上に置いた。
 津田は軽蔑に嘆賞を交えた様な顔をして、一寸首を傾けた。すると突然後から彼の腰のあたりを突っつくもののあるのに気が付いた。軽い衝撃を受けた彼は殆んど反射作用のように後を振り向いた。そうして其所にさも悪戯小僧らしく笑いながら立っている叔父の子を見出した。徽章の着いた制帽と、半洋袴と、背中にしょった背嚢(はいのう)とが、その子の来た方角を語るには充分であった。
「今学校の帰りか」
「うん」
 子供は「はい」とも「ええ」とも云わなかった。

二十二

「お父さんはどうした」
「知らない」
「相変わらずかね」
「どうだか知らない」
 自分が十位であった時の心理状態をまるで忘れてしまった津田には、この返事が少し意外に思えた。苦笑した彼は、其所へ気が付くと共に黙った。子供は又一生懸命に手品遣いの方ばかり注意しだした。服装から云うと一夜作りとも見られるその男はこの時精一杯大きな声を張り揚げた。
「諸君もう一つ出すから見ていたまえ」
 彼は例の袋を片手でぐっと締扱いて、再び何か投げ込む真似を小器用にした後、麗々と第二の玉子を袋の底から取り出した。それでも飽き足らないと見えて、今度は袋を裏返しにして、薄汚い棉フラネルの縞柄を遠慮なく群衆の前に示した。然し第三の玉子は同じ手真似と共に安々と取り出された。最後に彼はあたかも貴重品でも取扱うような様子で、それを丁寧に地面の上へ並べた。
「どうだ諸君こうやって出そうとすれば、何個でも出せる。然しそう玉子ばかり出してもつまらないから、今度は一つ生きた鶏を出そう」
 津田は叔父の子供を振り返った。
「おい真事(まこと)もう行こう。小父さんはこれからおまえの宅へ行くんだよ」
 真事には津田よりも生きた鶏の方が大事であった。
「小父さん先へ行ってさ。僕もっと見ているから」
「ありゃ嘘だよ。何時まで経ったって生きた鶏なんか出て来やしないよ」
「どうして? だって玉子はあんなに出たじゃないの」
「玉子は出たが、鶏は出ないんだよ。ああ云って嘘を吐いて何時までも人を散らさないようにするんだよ」
「そうしてどうするの」
 そうしてどうするのかその後の事は津田にも些(ちっ)とも解らなかった。面倒になった彼は、真事を置き去りにして先へ行こうとした。すると真事が彼の袂を捉えた。
「小父さん何か買ってさ」
 宅で強請られるたんびに、この次この次といって逃げて置きながら、その次行く時には、つい買ってやるのを忘れるのが常のようになっていた彼は、例の調子で「うん買って遣るさ」と云った。
「じゃ自動車、ね」
「自動車は少し大き過ぎるな」
「なに小さいのさ。七円五十銭のさ」
 七円五十銭でも津田には慥かに大き過ぎた。彼は何にも云わずに歩き出した。
「だってこの前もその前も買って遣るっていったじゃないの。小父さんの方があの玉子を出す人より余っ程嘘吐きじゃないか」
「彼奴は玉子は出すが鶏なんか出せやしないんだよ」
「どうして」
「どうしてって、出せないよ」
「だから小父さんも自動車なんか買えないの」
「うん。――まあそうだ。だから何か外のものを買って遣ろう」
「じゃキッドの靴さ」
 毒気を抜かれた津田は、返事をする前に又黙って一二間歩いた。彼は眼を落して真事の足を見た。さ程見苦しくもないその靴は、茶とも黒とも付かない一種変な色をしていた。
「赤かったのを宅でお父さんが染めたんだよ」
 津田は笑い出した。藤井が子供の赤靴を黒く染めたという事柄が、何だか彼には可笑(おか)しかった。学校の規則を知らないで拵えた赤靴を規則通りに黒くしたのだという説明を聞いた時、彼は又叔父の窮策を滑稽的に批判したくなった。そうしてその窮策から出た現在のお手際を擽ぐったいような顔をしてじろじろ眺めた。

二十三

「真事、そりや好い靴だよ、お前」
「だってこんな色の靴誰も穿いていないんだもの」
「色はどうでもね、お父さんが自分で染めて呉れた靴なんか滅多に穿けやしないよ。有難いと思って大事にして穿かなくっちや不可い」
「だってみんな尨犬(むくいぬ)の皮だ皮だって揶揄(からか)うんだもの」
 藤井の叔父と尨犬の皮、この二つの言葉をつなげると、結果は又新らしい可笑みになった然しその可笑みは微かな哀傷を誘って、津田の胸を通り過ぎた。
「尨犬じやないよ、小父さんが受け合ってやる。大丈夫尨犬じゃない立派な……」
 津日は立派な何といって可いが一寸行き詰った。其所を好い加滅にして置く真事ではなかった。
「立派な何さ」
「立派な──靴さ」
 津囲はもし懐中が許すならば、真事のために、望み通りキッドの編上を買って遣りたい気がした。それが叔父に対する恩返しの一端になるようにも思われた。彼は胸算で自分の懐にかみいれある紙入の中を勘定して見た。然し今の彼にそれだけの都合を付ける余裕は殆んどなかった。もし京都から為替が届くならばとも考えたが、まだ届くか届かないか分らない前に、苦しい思いをして、それだけの実意を見せるにも及ぶまいという世間心も起こった。
「真事、そんなにキッドが買いたければね、今度宅へ来た時、小母さんに買ってお貫い。小父さんは貧乏だからもっと安いもので今日は負けといて呉れ」
 彼は賺(すか)すように又宥(なだ)めるように真事の手を引いて広い往来をぶらぶら歩いた。終点に近いその通りは、電車へ乗り降りの必要上、無数の人の穿物で絶えず踏み堅められる結果として、四五年この方町並が生れ変ったように立派に整のって来た。所々のショーウィンドーには、一概に場末のものとして馬鹿に出来ないような品が椅麗に飾り立てられていた。真事はその間を向う側へ馳け抜けて、朝鮮人の飴屋の前へ立つかと思うと、又此方側へ戻って来て、金魚屋の軒の下に佇立んだ。彼の馳け出す時には、隠袋の中でビー玉の音が屹度じやらじやらした。
「今日学校でこんなに勝っちゃった」
 彼は隠袋の中へ手をぐっと挿し込んで掌一杯にそのビー玉を載せて見せた。水色だの紫色だのの丸い硝子玉が迸ばしる様に往来の真中へ転がり出した時、彼は周章(あわ)ててそれを追い掛けた。そうして後を振り向きながら津田に云った。
「小父さんも拾ってさ」
 最後にこの目まぐるしい叔父の子のために一軒の玩具屋へ引き摺り込まれた津田は、とうとう其所で一円五十銭の空気銃を買って遺らなければならない事になった。
「雀なら可いが、無暗に人を狙っちゃ不可いよ」
「こんな安い鉄砲じや雀なんか取れないだろう」
「そりやお前が下手だからさ。下手ならいくら鉄砲が好くったって取れないさ」
「じゃ小父さんこれで雀打ってくれる? これから宅へ行って」
 好い加減をいうとすぐ後から実行を逼られそうな様子なので、津田は生返事をしたなり話を外へそらした。真事は戸田だの渋谷だの坂口だのと、相手の知りもしない友達の名前を勝手に並べ立てて、その友達を片端から批評し始めた。
「あの岡本って奴、そりや狡滑()いんだよ。靴を三足も買って貰ってるんだもの」
 話は又靴へ戻って来た。津田はお延と関係の深いその岡本の子と、今自分の前でその子を評している真事とを心の中で比較した。

二十四

「御前近頃岡本の所へ遊びに行くかい」
「ううん、行かない」
「又喧嘩したな」
「ううん、喧嘩なんかしない」
「じや何故行かないんだ」
「どうしてでも──」
 真事の言葉には後がありそうだった。津田はそれが知りたかった。
「彼所へ行くと色んなものを呉れるだろう」
「ううん、そんなに呉れない」
「じゃ御馳走するだろう」
「僕こないだ岡本の所でライスカレーを食べたら、そりや辛かったよ」
 ライスカレーの辛い位は、岡本へ行かない理由になりそうもなかった。
「それで行くのが厭になった訳でもあるまい」
「ううん。だってお父さんが止せって云うんだもの。僕岡本の所へ行ってブランコがしたいんだけども」
 津田は小首を傾けた。叔父が子供を岡本へ遣りたがらない理由は何だろうと考えた。肌合の相違、家風の相違、生活の相違、それ等のものがすぐ彼の心に浮かんだ。始終机に向って沈黙の間に活字的の気[焔](きえん)を天下に散布している叔父は、実際の世間に於て決して筆程の有力者ではなかった。彼は暗にその距離を自覚していた。その自覚は又彼を多少頑固にした。幾分か排外的にもした。金力権力本位の社会に出て、他から馬鹿にされるのを恐れる彼の一面には、その金力権力のために、自己の本領を一分でも冒されては大変だという警戒の念が絶えず何処かに働いているらしく見えた。
「真事何故お父さんに訊いて見なかったのだい。岡本へ行っちや何故不可いんですって」
「僕訊いたよ」
「訊いたらお父さんは何と云った。──何とも云わなかったろう」
「ううん、云った」
「何と云った」
 真事は少し羞耻かんでいた。しばらくしてから、彼はぽつりぽつり句切を置くような重い口調で答えた。
「あのね、岡本へ行くとね、何でも一さんの持ってるものをね、宅へ帰って来てからね、買って呉れ、買って呉れっていうから、それで不可いって」
 津田は漸く気が付いた。富の程度に多少等差のある二人の活計向(くらしむき)は、彼等の子供が持つ玩具の末に至るまでに、多少等差を付けさせなけれはならなかったのである。
「それで此奴(こいつ)自動車だのキッドの靴だのって、無暗に高いものばかり強請んだな。みんな一さんの持っているのを見て来たんだろう」
 津田は揶揄い半分手を挙げて真事の背中を打とうとした。真事は跋の悪い真相を曝露された大人に近い表情をした。けれども大人の様に言訳がましい事はまるで云わなかった。
「嘘だよ。嘘だよ」
 彼は先刻津田に買ってもらった一円五十審空気銃を担いだままどんどん自分の宅の方へ逃げ出した。彼の隠袋の中にあるビー王が数珠を劇しく揉むように鳴った。背嚢の中では弁当箱だか教科書だかが互に打つかり合う音がごとりごとりと聞こえた。
 彼は曲り角の黒板塀の所で一寸立ち留まって鼬(いたち)のように津田を振り返ったまま、すぐ小さい姿を小路のうちに隠した。津田がその小路を行き尽して突き中りにある藤井の門を潜った時、突然ドンという銃声が彼の一間ばかり前で起った。彼は右手の生垣(いけがき)の間から大事そうに彼を狙撃している真事の黒い姿を苦笑をもって認めた。

二十五

 座敷で誰かと話をしている叔父の声を聞いた津田は、格子の間から一足の客靴を覗いて見たなり、わざと玄関を開けずに、茶の間の縁側の方へ廻った。もと植木屋ででもあったらしいその庭先には木戸の用心も竹垣の仕切もないので、同じ地面の中に近頃建て増された新らしい貸家の勝手口を廻ると、すぐ縁鼻(えんばな)まで歩いて行けた。目隠しにしては少し低過ぎる高い茶の樹を二三本通り越して、彼の記憶に何時までも残っている柿の樹の下を潜った津田は、型の如く某所に叔母の姿を見出した。障子の嵌入硝子(はめガラス)に映るその横顔が彼の眼に入った時、津田は外部から声を掛けた。
「叔母さん」
 叔母はすぐ障子を開けた。
「今日はどうしたの」
 彼女は子供が買って貰った空気銃の礼も云わずに、不思議そうな眼を津田の上に向けた。四十の上をもう三つか西っ越したこの叔母の態度には、殆んど愛想というものがなかった。その代り時と場合によると世間並の遠慮を超越した自然が出た。その中には殆んど性(セックス)の感じを離れた自然さえあった。津田は何時でもこの叔母と吉川の細君とを腹の中で比較した。そうして何時でもその相違に驚ろいた。同じ女、しかも年齢のそう違わない二人の女が、どうしてこんなに違った感じを他に与える事が出来るかというのが、第一の疑問であった。
「叔母さんは相変らず色気がないな」
「この年齢になって色気があっちゃ気狂だわ」
 津田は縁側へ腰を掛けた。叔母は上れとも云わないで、膝の上に載せた紅絹(もみ)の片(きれ)へ軽い火熨斗(ひのし)を当てていた。すると次の間からほどき物を持って出て来たお金さんという女が津田にお辞儀をしたので、彼はすぐ言葉を掛けた。
「お金さん、まだお嫁の口は極りませんか。まだなら一つ好い所を周旋しましょうか」
 お金さんはえヘへと人の好さそうに笑いながら少し顔を赤らめて、彼の答に座蒲団を縁側へ持って来ようとした、津田はそれを手で制して、自分から座敷の中に上り込んだ。
「ねえ叔母さん」
「ええ」
 気のなさそうな生返事をした叔母は、お金さんが生温るい番茶を形式的に津田の前へ注いで出した時、一寸言をあげた。
「お金さん由雄さんによく頼んでお置きなさいよ。この男は親切で嘘を吐かない人だから」
 お金さんはまだ逃げ出さずにもじもじしていた。津田は何とか云わなければ済まなくなった。
「お世辞じやありません、本当の事です」
 叔母は別に取り合う様子もなかった。その時裏で真事の打つ空気銃の音がぼんぼんしたので叔母はすぐ聴耳を立てた。
「お金さん、一丁見て来て下さい。バラ玉を入れて打つと危険(あぶな)いから」
 叔母は余計なものを買って呉れたと云わんばかりの顔をした。
「大丈夫ですよ。能く云い聞かしてあるんですから」
「いえ不可せん。屹度あれで面白半分にお隣りの鶏を打つに違ないから。構わないから丸(たま)だけ取り上げて来て下さい」
 お金さんはそれを好い機に茶の間から姿をかくした。叔母は黙って火鉢に挿し込んだ鏝(こて)を又取り上げた。皺だらけな薄い絹が、彼女の膝の上で、綺麗に平たく延びて行くのを何気なく眺めていた津田の耳に、客間の話し声が途切れ途切れに聞こえて来た。
「時に誰です、お客は」
 叔母は驚ろいたように又顔を上げた。
「今まで気が付かなかったの。妙ね貴方の耳も随分。此所で聞いてたって能く解るじゃありませんか」

二十六

 津田は客間にいる声の主を、坐ったまま突き留めようと力(つと)めて見た。やがて彼は軽く膝を拍った。
「ああ解った。小林でしょう」
「ええ」
 叔母は嫣然(にこり)ともせずに、簡単な答を落付いて与えた。
「何だ小林か。新らしい赤靴なんか穿き込んで厭にお客ざん振ってるもんだから誰かと思ったら。そんなら僕も遠慮しずに彼方へ行けば可かった」
 想像の眼で見るにはあまりに陳腐過ぎる彼の姿が津田の頭の中に出て来た。この夏会った時の彼の異な服装(なり)もおのずと思い出された。自縮緬の襟のかかった襦袢の上へ薩摩絣(さつまがすり)を着て、茶の千筋の袴に透綾(すきや)の羽織をはおったその拵えは、まるで傘屋の主人が町内の葬式の供に立った帰りかけで、強飯の折でも懐に入れているとしか受け取れなかった。その時彼は泥棒に洋服を盗まれたという言訳を津田にした。それから金を七円程貸して呉れと頼んだ。これはある友達が彼の盗難に同情して、若し自分の質に入れてある夏服を受け出す余裕が彼にあるならば、それを彼に遣っても可いと云ったからであった。
 津田は微笑しながら叔母に訊いた。
「彼奴又何だって今日に限って座敷なんかへ通って、堂々とお客振を発揮しているんだろう」
「少し叔父さんに話があるのよ。それが此所じゃ一寸云い悪い事なんでね」
「ヘえ、小林にもそんな真面目な話があるのかな。金の事か、それでなければ……」
 こう云い掛けた津田は、不図真面目な叔母の顔を見ると共に、後を引っ込ましてしまった。叔母は少し声を低くした。その声は寧ろ彼女の落ち付いた調子に釣り合っていた。
「お金さんの縁談の事もあるんだからね。此所であんまり何かいうと、あの子が極りを悪くするからね」
 何時もの高調子と違って、茶の間で聞いていると一寸話だか分らない位な紳士風の声を、小林が出しているのは全くそれがためであった。
「もう極ったんですか」
「まあ旨く行きそうなのさ」
 叔母の眼には多少の期待が輝やいた。少し乾燥ぎ気味になった津田はすぐ付け加えた。
「じや僕が骨を折って周旋しなくっても、もう可いんだな」
 叔母は黙って津田を眺めた。たとい軽薄とまで行かないでも、こういう巫山戯(ふざ)た空虚(からっぽ)うな彼の態度は、今の叔母の生活気分とまるで懸け離れたものらしく見えた。
「由雄さん、お前さん自分で奥さんを貰う時、矢っ張りそんな料簡で貫ったの」
 叔母の質問は突然であると共に、どういう意味で掛けられたのかさえ津田には見当が付かなかった。
「そんな料簡って、叔母さんだけ承知しているぎりで、当人の僕にゃ分らないんだから、一寸返事のしようがないがな」
「何も返事を聞かなくったって、叔母さんは困りやしないけれどもね。──女一人を片付ける方の身になって御覧なさい。大抵の事じやないから」
 藤井は四年前長女を片付ける時、仕度をして遣る余裕がないので既に相当の借金をした。その借金が漸く片付いたと思うと、今度はもう次女を嫁に遺らなければならなくなった。だから此所でもしお金さんの縁談が纏まるとすれば、それは正に三人目の出費に違なかった。
 娘とは格が違うからという意味で、出来るだけ倹約した所で、現在の生計向(くらしむき)に多少苦しい負担の暗影を投げる事は慥(たしか)であった。

二十七

 こういう時に、せめて費用の半分でも、津田が進んで受け持つ事が出来たなら、年頃彼の世話をしてきた藤井夫婦に取っては定めし満足な報酬であったろう。けれども今の所財力の上で叔父叔母に捧げ得る彼の同情は、高々真事の穿きたがっているキッドの靴を買って遣る位なものであった。それさえ彼は懐都合で見合せなければならなかったのである。まして京都から多少の融通を仰いで、彼等の経済に幾分の潤沢を付けて遣ろうなどという親切気は天で起らなかった。これは自分が事情を報告した所で動く父でもなし、父が動いた所で借りる叔父でもないと頭から極めてかがっている所為(せい)でもあった。それで彼はただ自分の所へさえ早く為替が届いて呉れれば可いという期待に縛られて、叔母の言葉には余り感激した様子も見せなかった。すると叔母が「由雄さん」と云い出した。
「由雄さん、じゃどんな料簡で奥さんを貰ったの、お前さんは」
「まさか冗談に貰やしません。いくら僕だってそう浮ついた所ばかりから出来上ってるように解釈されちゃ可哀相だ」
「そりや無論本気でしょうよ。無論本気には違なかろうけれどもね、その本気にもまた色々段等があるもんだからね」l
 相手次第では侮辱とも受け取られるこの叔母の言葉を、津田は却って好奇心で聞いた。
「じゃ叔母さんの眼に僕はどう見えるんです。遠慮なく云って下さいな」
 叔母は下を向いて、ほどき物をいじくりながら薄笑いをした。それが津田の顔を見ないせいだか何だか、急に気味の悪い心持を彼に与えた。然し彼は叔母に対して少しも退避(たじろ)ぐ気はなかった。
「これでもいざとなると、中々真面目な所もありますからね」
「そりや男だもの、何処かちゃんとした所がなくっちゃ、毎日会社へ出たって、勤まりっこありゃしないからね。だけども──」
 こう云い掛けた叔母は、そこで急に気を換えたように付け足した。
「まあ止しましょう。今更云ったって始まらない事だから」
 叔母は先刻火熨斗を掛けた紅絹の片を鄭寧に重ねて、濃い渋を引いた畳紙(たとう)の中へ仕舞い出した。それから何となく拍子抜けのした、しかも何処かに物足らなそうな不安の影を宿している津田の顔を見て、不図気が付いたような調子で云った。
「由雄さんは一体贅沢過ぎるよ」
 学校を卒業してから以来の津田は叔母に始終こう云われ付けていた。自分でも亦(また)そう信じて疑わなかった。そうしてそれを大した悪い事のようにも考えていなかった。
「ええ少し贅沢です」
「服装(なり)や食物ばかりじやないのよ。心が派出で賛沢に出来上ってるんだがら困るっていうのよ。始終御馳走はないかないかって、きょろきょろ其所いらを見廻してる人みた様で」
「じゃ贅沢どころかまるで乞食じゃありませんか」
「乞食じゃないけれども、自然真面目さが足りない人のように見えるのよ。人間は好い加減な所で落ち付くと、大変見つとも好いもんだがね」
 この時津田の胸を掠めて、自分の従妹に当る叔母の娘の影が突然通り過ぎた。その娘は二人とも既婚の人であった。四年前に片付いた長女は、その後夫に従って台湾に渡ったぎり、今でも某所に暮していた。彼の結婚と前後して、ついこの間嫁に行った次女は、式が済むとすぐ連れられて福岡へ立ってしまった。その福岡は長男の真弓が今年から籍を置いた大学の所在地でもあった。
 この二人の従妹の何方も、貰おうとすれば容易く貰える地位にあった津田の眼から見ると、決して自分の細君として適当の候補者ではなかった。だから彼は知らん顔をして過ぎた。当時彼の取った態度を、叔母の今の言葉と結び付けて考えた津田は、別にこれぞと云って疾ましい点も見出し得なかったので、何気ない風をして叔母の動作を見守っていた。その叔母はついと立って戸棚の中にある支那鞄の蓋を開けて、手に持った畳紙をその中に仕舞った。

二十八

 奥の四畳半で先刻からお金さんに学課の復習をして貰っていた真事が、突然お金さんにはまるで解らない仏蘭西語の読本を浚(さら)い始めた。ジュ、シュイ、ポリ、とか、チュ、エ、マラード、とか、一字一字の間にわざと長い句切を置いて読み上げる小学二年生の頓狂な声を、例ながら可笑しく聞いている津田の頭の上で、今度は柱時計がポンポンと鳴った。彼はすぐ袂に入れてあるリチネを取り出して、飲みにくそうに、どろどろした油の色を眺めた。すると、客間でも時計の音に促がされた様な叔父の声がした。
「じゃ彼方へ行こう」
 叔父と小林は縁伝いに茶の間へ入って来た。津田は一寸居住居を直して叔父に挨拶をしたあとで、すぐ小林の方を向いた。
「小林君大分景気が好いようだね。立派な服を拵えたじゃないか」
 小林はホームスパンみた様なざらざらした地合の背広を着ていた。何時もと違ってその洋袴(ズボン)の折目がまだ少しも崩れていないので、誰の眼にも仕立卸としか見えなかった。彼は変り色の靴下を後へ隠すようにして、津田の前に坐り込んだ。
「ヘへ、冗談云っちゃ不可い。景気の好いのは君の事だ」
 彼の新調は何処かのデパートメント、ストアの窓硝子の中に飾ってある三つ揃に括り付けてあった正札を見付けて、その価段(ねだん)通りのものを彼が注文して拵えたのであった。
「これで君二十六円だから、随分安いものだろう。君みたいな賛沢やから見たらどうか知らないが、僕なんぞにやこれで沢山だからね」
 津田は叔母の手前重ねて悪口を云う勇気もなかった。黙って茶碗を借り受けて、八の字を寄せながらリチネを飲んだ。某所にいるものがみんな不思議そうに彼の所作を眺めた。
「何だいそれは。変なものを飲むな。薬かい」
 今日まで病気という病気をした例のない叔父の医薬に対する無知は又特別のものであった。彼はリチネという名前を聞いてすら、それが何の為に服用されるのか知らなかった。あらゆる疾病と殆んど没交渉なこの叔父の前に、津田が手術だの入院だのという言葉を使って、自分の現在を説明した時に、叔父は少しも感動しなかった。
「それでその報知にわざわざ遣って来た訳かね」
 叔父は御苦労さまと云わぬばかりの顔をして、胡麻塩(ごましお)だらけの髯(ひげ)を撫でた。生やしていると云うよりも寧ろ生えていると云った方が適当なその髯は、植木屋を入れない庭のように、彼の顔を所々爺々むさく見せた。
「一体今の若いものは、から駄目だね。下らん病気ばかりして」
 叔母は津田の顔を見てにやりと笑った。近頃急に「今の若いものは」という言葉を、癖のように使い出した叔父の歴史を心得ている津田も笑い返した。余程以前この叔父から惑病は同源だの疾病は罪悪だのと、さも偉そうに云い聞かされた事を憶い出すと、それが病気に罹(かか)らない自分の自慢とも受け取れるので、猶のこと滑稽に感ぜられた。彼は薄笑いと共に又小林の方を見た。小林はすぐ口を出した。けれども津田の予期とは全くの反対を云った。
「何今の若いものだって病気をしないものもあります。現に私なんか近頃ちっとも寝た事がありません。私考えるに、人間は金が無いと病気にゃ罹らないもんだろうと思います」
 津田は馬鹿々々しくなった。
「詰らない事をいうなよ」
「いえ全くだよ。現に君なんかがよく病気をするのは、するだけの余裕があるからだよ」
 この不論理な断案は、云い手が真面目なだけに、津田を猶失笑させた。すると今度は叔父が賛成した。
「そうだよこの上病気にでも罹った日にゃどうにもこうにも遣り切れないからね」
 薄暗くなった室の中で、叔父の顔が一番薄暗く見えた。津田は立って電燈のスウィッチを捩った。

二十九

 何時の間にか勝手口へ出て、お金さんと下女を相手に皿小鉢の音を立てていた叔母が又茶の間へ顔を出した。
「由雄さん久し振だから御飯を食べておいで」
 津田は明日の治療を控えている考ので断って帰ろうとした。
「今日は小林と一所に飯を食う筈になっている所へお前が来たのだから、ことによると御馳走が足りないかも知れないが、まあ付合って行くさ」
 叔父にこんな事を云われつけない津田は、妙な心持がして、又尻を据えた。
「今日は何事かあるんですか」
「何ね、小林が今度──」
 叔父はそれだけ云って、一寸小林の方を見た。小林は少し得意そうににやにやしていた。
「小林君どうかしたのか」
「何、君、なんでもないんだ。いずれ極ったら君の宅へ行って詳しい話をするがね」
「然し僕は明日から入院するんだぜ」
「なに構わない、病院へ行くよ。見舞かたがた」
 小林は追い掛けて、その病院のある所だの、医者の名だのを、さも自分に必要な知識らしく訊いた。医者の名が自分と同じ小林なので「はあそれじやあの堀さんの」と云ったが急に黙ってしまった。堀というのは津田の妹婿の姓であった。彼がある特殊な病気のために、つい近所にいるその医者の許へ通ったのを小林はよく知っていたのである。
 彼の詳しい話というのを津田は一寸間いて見たい気がした。それは先刻叔母の云ったお金さんの結婚問題らしくもあった。又そうでないらしくも見えた。この思わせ振な小林の態度から、多少の好奇心を唆られた津田は、それでも彼に病院へ遊びに来いとは明言しなかった。
 津田が手術の準備だと云って、折角叔母の拵えて呉れた肉にも肴(さかな)にも、日頃大好な茸飯(たけめし)にも手を付けないので、流石の叔母も気の毒がって、お金さんに頼んで、彼の口にする事の出来る麺麭と牛乳を買って来させようとした。ねとねとして無暗に歯の間に挟まる此所いらの麺麹に内心辟易(へきえき)しながら、又贅沢だと云われるのが少し怖いので、津田はただ大人しく茶の間を立つお金さんの後姿を見送った。
 お金さんの出て行った後で、叔母はみんなの前で叔父に云った。
「どうかまああの子も今度の縁が纏まるようになると仕合せですがね」
「纏まるだろうよ」
 叔父は苦のなさそうな返事をした。
「至極宣さそうに思います」
 小林の挨拶も気軽かった。黙っているのは津田と真事だけであった。
 相手の名を聞いた時、津田はその男に一二度叔父の家で会ったような心持もしたが、殆んど何等の記憶も残っていなかった。
「お金さんはその人を知ってるんですか」
「顔は知ってるよ。ロは利いた事がないけれども」
「じや向うも口を利いた事なんかないんでしょう」
「当り前さ」
「それでよく結婚が成立するもんだな」
 津田はこういって然るべき理窟が充分自分の方にあると考えた。それをみんなに見せるために、彼は馬鹿々々しいというよりも寧ろ不思議であるという顔付をした。
「じゃどうすれば好いんだ。誰でもみんなお前が結婚した時のようにしなくっちゃ不可いというのかね」
 叔父は少し機嫌を損じたらしい語気で津田の方を向いた。津田は寧ろ叔母に対する積でいたので、少し気の毒になった。
「そういう訳じやないんです。そういう事情のもとにお金さんの結婚が成立しちや不都合だなんていう気は全くなかったのです。たといどんな事情だろうと結婚が成立さえすれば、無論結構なんですから」

三十

 それでも座は白けてしまった。今まで心持よく流れていた談話が、急に堰き止められたように、誰も津田の言葉を受け継いで、順々に後へ送ってくれるものがなくなった。
 小林は自分の前にある麦酒の洋盃(コップ)を指して、内所のような小さい声で、隣りにいる真事に訊いた。
「真事さん、お酒を上げましょうか。少し飲んで御覧なさい」
「苦いから僕厭だよ」
 真事はすぐ跳ね付けた。始めから飲ませる気のなかった小林は、それを機にははと笑った。好い相手が出来たと思ったのか真事は突然小林に云った。
「僕一円五十銭の空気銃を有ってるよ。持って来て見せようか」
 すぐ立って奥の四畳半へ馳け込んだ彼が、其所から新しい玩具を茶の間へ持ち出した時、小林は行きがかり上、ぴかぴかする空気銃の嘆賞者とならなければ済まなかった。叔父も叔母も嬉しがっているわが子のために、一言の愛嬌を添える必要があった。
「どうも時計を買えの、万年筆を買えのって、貧乏な阿爺を責めて困る。それでも近頃馬だけはどうかこうか諦めたようだから、まだ始末が好い」
「馬も存外安いもんですな。北海道へ行きますと、一頭五六円で立派なのが手に入ります」
「見て来たような事を云うな」
 空気銃の御蔭で、みんなが又満遍なく口を利くようになった。結婚が再び彼等の話頭に上った。それは途切れた前の続きに相違なかった。けれどもそれを口にする人々は、少しずつ前と異った気分によって、彼等の表現を支配されていた。
「こればかりは妙なものでね。全く見ず知らずのものが、一所になったところで、きっと不縁になるとも限らないしね、又いくらこの人ならばと思い込んで出来た夫婦でも、末始終和合するとは限らないんだから」
 叔母の見て来た世の中を正直に纏めるとこうなるより外に仕方なかった。この大きな事実の一隅にお金さんの結婚を安全に置こうとする彼女の態度は、弁護的というよりも寧ろ説明的であった。そうしてその説明は津田から見ると最も不完全で又最も不安全であった。結婚に就いて津田の誠実を疑うような口振を見せた叔母こそ、この点にかけて根本的な真面目さを欠いているとしか彼には思えなかった。
「そりゃ楽な身分の人の云い草ですよ」と叔母は開き直って津田に云った。「やれ交際だの、やれ婚約だのって、そんな贅沢な事を、我々風情が云ってられますか。貰ってくれ手、来てくれ手があれば、それで有難いと思わなくっちゃならない位のものです」
 津田はみんなの手前今のお金さんの場合に就いてかれこれ云いたくなかった。それをいう程の深い関係もなく又興味もない彼は、ただ叔母が自分に対して有つ、不真面目という疑念を塗り潰すために、向うの不真面目さを啓発して置かなくては不可ないという心持に制せられるので、黙ってしまう訳には行かなかった。彼は首を捻(ひね)って考え込む様子をしながら云った。
「何もお金さん場合をとやかく批評する気はないんだが、一体結婚を、そう容易く考えて構わないものかしら。僕には何んだか不真面目な様な気がして不可(いけな)いがな」
「だって行く方で真面目に行く気になり、貰う方でも真面目に貰う気になれば、何処と云って不真面目なところが出て来よう筈がないじゃないか。由雄さん」
「そういう風に手っとり早く真面目になれるかが問題でしょう」
「なれればこそ叔母さんなんぞはこの藤井家へお嫁に来て、ちゃんとこうしているじゃありませんか」
「そりゃ叔母さんはそうでしょうが、今の若いものは……」
「今だって昔だって人間に変りがあるものかね。みんな自分の決心一つです」
「そう云った日にゃまるで議論にならない」
「議論にならなくっても、事実の上で、あたしの方が由雄さんに勝ってるんだから仕方がない。色々選り好みをした揚句、お嫁さんを貰った後でも、まだ選り好みをして落ち付かずにいる人よりも、此方の方がどの位真面目だか解りゃしない」
 先刻から肉を突ッついていた叔父は、自分の口を出さなければならない時機に到着した人のように、皿から眼を放した。
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