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メディア雑感

メディアに関連して思いつくことなどを随時記していきます

(ご意見・ご提案をお待ちします)

naniuji0@wao.or.jp

【メディア雑感】INDEX
  NO.1 マルチメディアがもたらす私たちの暮らしの変革 ('98/12/06)
  NO.2 「内面」の終焉 ('98/12/13)
  NO.3 聖書と著作権 ('98/12/20)
  NO.4 『羅生門』と『鼻』にみる「意識」 ('99/11/07)
  NO.5 インターネット時代と都市伝説 ('00/07/13)
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NO.5 ('00/07/13)

インターネット時代と都市伝説

 「デジ委書庫」に掲載している拙論、『現代伝説考』を見て某誌ライターよりコメントの依頼があった。「インターネット時代になぜ都市伝説が流行るのか」というテーマだったので、返事に記したことなどを敷衍してここに掲載してみる。

 質問の主旨は、「インターネットという先端メディアで即時に情報が行きかうこの時代に、なぜ現代版の怪談である都市伝説という怪しげな噂が流行るのか?」といったことであると思う。これは一言では答えられない大きなテーマであるが、インターネット時代と都市伝説というのは、さほど違和感なく連動すると思われる。
 「近代の終焉」が言及され、近代社会のピラミッド型ヒエラルキーが見えにくくなっているこの「現代」というものは、先行きが視えず目標も曖昧なかなり「怪しげな時代」であろう。そのような「怪しげでイカガワシイ時代」という意味においては、両者はむしろパラダイムを共有しているといえよう。

 言うまでもなく、情報としての怪しさ・いかがわしさが都市伝説のエッセンスであるが、考えてみればインターネットというのもきわめて「怪しげでイカガワシイ」メディアであろう。いずれかの権威が管理しているわけではなく、マスメディア情報のように一定のフィルターを通されたものでもなく、いわばどこの馬の骨とも知れない人々が流す情報が氾濫している世界である。
 しかしむしろそのイカガワシサこそが、この現代という「怪しげな時代」のリアリティを体現しているといえるのではないか。"オリジナル/コピー"を同定しがたいこの「複製時代」においては、一元的に「正しい情報」というのはあり得ないわけで、このようなイカガワシサの世界に足場を置いてみると、NHKのアナウンサーの語るもっともらしいニュース口調などの方が、逆にインチキ臭く見えてくるのである。

 もう一つ挙げれば、コミュニケーション構造の類同性というのがあるだろう。
 もはや死語かも知れないが、インターネット・サーフィンと称して特定の目的もなくランダムにリンクをたどってゆくとき、事前に統御された流れもなく人から人へと伝わってゆく都市伝説という噂の伝播と似ているものを感じる。考えてみれば、Webのハイパー・リンクという仕組みは情報の流通経路に関して中立的であり、印刷媒体や電波を通じて特定の経路で一方向的に流されるマスメディア情報とは異なっている。そしてそれは、人と人とのランダムな"リンク"を通じて流れていく噂噺の伝播経路と相同性があるといえるだろう。

 さらには、そこを流れる「コミュニケーションの質」といった点が指摘できる。
 現代人は、かつての伝統社会の村落共同体や近代の家族生活にみられるような「濃密なコミュニケーション」を避ける傾向にある。若者たちも、青春の悩みを打ち明けあって人生を語るといったべっとりとしたヘビーなコミュニケーションは忌避し、もっぱら目先の興味や利害という接点だけで友人付き合いを済ませるという方向にあると思える。
 そのようなライト・コミュニケーション志向においては、都市伝説のようなさし障りのない話題は好適である。これといった生活基盤の共有がなくとも成り立つ性質の話題であり、それ以上に相手の内面に立ち入ることはない。しかも噂を伝え合うことにより、潜在的な不安や孤独感をさりげなく解消できるのである。
 インターネットのようなデジタル・ネットワークも、このようなライト・コミュニケーションにはきわめて好都合である。見ず知らずの他人とも簡単に知り合いになれるし、しかも互いの顔も名前も知らず・知られずともコミュニケーションができる。しかも、仮に不都合が生じれば、一方的に繋がりを断つこともたやすい。

 このように考えてくると、インターネットと都市伝説とは、時代にパラレルな相応性をもっているといえよう。しかしこのことが即、インターネットを通じて現代都市伝説が生成・流布しやすいということを意味するわけではない。ネットには、噂に否定的な情報も同時的に流れるので、都市伝説の流通に制御的にはたらくこともある。たとえば、関東大震災時の流言飛語の増幅といった現象は、ネットワークを流れる情報によって抑制されるはずである。
 また、ひと時代前に隆盛した「口裂け女」や「人面犬」といった都市伝説は、影響力の中規模な子供向け雑誌媒体などが介在して全国版に成っていったという経緯があるが、即時性の強いデジタルメディアの時代では噂の発酵する時間が取れず、むしろ「メジャーな現代伝説」は生まれにくい状況にあるのではないかと思われる。
 一般に、マスメディアが本格的に取り上げ出すと噂は収束に向かうという傾向があるが、即時的なデジタルメディアでは噂の発生と抑制が同時的にはたらくといえよう。したがって、インターネットでも、流通しやすい性質の噂としにくい噂の双方があると考えるべきである。それによって、流布する都市伝説のパターンも今後さらに変質していくと思われる。

2000.07.13 nani記

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NO.4 ('99/11/07)

芥川龍之介――『羅生門』と『鼻』にみる「意識」

 芥川龍之介は『鼻』を漱石に激賞され、当時の文壇に認められる機縁を得たとされている。漱石は龍之介にあてた手紙の中で、「落着があって巫山戯(ふざけ)てゐなくって自然そのままの可笑味(おかしみ)がおつとり出てゐる所に上品な趣があります」と述べている。この「自然そのままの可笑味」はどこから来ているのか。
 ここでは、この「可笑味」を「ユーモア」という意味に理解しておこう。漱石は別のところで「ヒューモアとは人格の根底から生ずる可笑味であるという事になりはせぬかと思ふ」(文学評論)と述べている。「人格の根底から生ずる可笑味」を『鼻』の中にみとめたからこそ、漱石はこの作品を評価した。俗にいわれる「傍観者の利己主義」などには、彼はもうすでにうんざりしていたはずである。
 同時期に書かれた龍之介の処女作とされる『羅生門』においては、このようなユーモアはみられない。「利己主義の心理分析」はあるが「人格の根底から生ずる可笑味」はない。この相違は、作者自身を相対化する視点の有無にかかわってくる。
『鼻』と『羅生門』を分析し、「作者自身を相対化する視点」を明らかにすること、それをこの叙述の課題とする。

1.『羅生門』における下人の「正義」と「利己主義」

 或日の暮方「一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待つてゐた」という書き出しで『羅生門』は始まる。この下人はすでに主人から暇を出されており、「行き所がなくて、途方にくれて」いる。この状況をどうにかするには「手段を選んでゐる暇はない」という所で彼の考えは停止し、その先へ進む「勇気が出ずに」いる。
 下人は門の上の楼に上って、そこに死人の髪の毛を抜く老婆を見つける。最初に感じた恐怖が薄れてゆくに連れて、下人の心には「老婆に対する激しい憎悪」の感情が動いてくる。老婆に対すると云うより「寧ろ、あらゆる悪に対する反感」である。下人には「何故老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった」。したがって「合理的には、それを善悪の何れに片づけてよいか知らなかった」。
 しかし「この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くと云う事」は、「それだけで既に許す可からざる悪であつた」。下人は、憎悪に燃えて老婆に迫ってゆく。

 訳もなく「憎悪」が出てくる所には、唐突な飛躍がある。筆者はそれを説明するために「あらゆる悪に対する反感」と言い換えている。さらに補足して、合理的にとはいえなくても下人にとっては「既に許す可らざる悪」であったとする。
しかし、これは論理的ではない。論理であろうとすれば次のようになるであろう。
 まず、下人は「あらゆる悪」を憎む正義の人であった。その彼が、自らの正義に照らして老婆の行為に「許す可らざる悪」をみとめる。そこで、老婆の悪に「激しい憎悪」を抱く。
 しかしこれでは、この小説は成立しない。下人は、正義の人でも利己の人でもないという設定でこの小説は始まっている。そうでないと、下人の心理の移り変わりは展開のしようがない。だからといって、人間は訳もなく突然に「憎悪」を抱くものだ、などという不条理がテーマでもないであろう。とすれば、下人の憎悪の出所が問題となる。
 恐怖が去っていったとき、下人がこの老婆に感じたものは「醜悪に対する不快」にすぎない。下人は目の前の状況に、単なる不快を感じただけだ。にもかかわらず、それがなぜ「はげしい憎悪」となってたち現れてくるのか。それは対象物の有無にかかわっている。
 物語の冒頭から、すなわち「羅生門の下で雨やみを待つて」いるところから、下人はすでに不快である。「行き所がなくて、途方にくれて」いる状況がそもそも不快である。「不快」自体が「行き所」なくて漂っている。しかし「不快」は、その対象物を見つけることによって「憎悪」となり得るし、「快」に転ずることもできる。下人は、醜悪な老婆に恰好の「憎悪の対象」を見つけたのである。この憎悪のもとにはルサンチマンがある。持っていきようのない不満がある。それが、対象を見いだし憎悪となって現れ出たのである。しかし作者の心理学からは、その視点は出てこない。

 もう一つ、指摘しておくべきことがある。
「はげしい憎悪」というたんなる心理の事実を、「あらゆる悪に対する反感」、「許す可らざる悪」という善悪の観念に転化させていることである。作者は「憎悪」と「悪」を、同じ心理のレベルに並べてみせる。そこに読者は、下人の正義を「感じて」しまう。しかし憎悪が下人の心に現れたとしても、そこから直ちに悪を導き出すことはできない。にもかかわらず突然、下人の心に悪が登場している。この悪についても出所を問ってみる必要がある。
 この「悪」は、下人の問題ではなく作者の必要から来ている。「憎悪」の唐突さを補うための必要である。しかし、悪だからこそ憎悪したという論理だと、先に指摘したように、下人を元からの正義の人にしてしまう。したがって論理としては展開し得ず、「はげしい憎悪」と「あらゆる悪に対する反感」を並置するしかない。出所不明の憎悪に、さらに出所不明の悪が重ねられるという結果になっている。
 出所が作者の都合からだとしても、問題はそこにあるのではない。悪が、倫理とは関係なく登場してきているところに留意すべきであろう。なぜこのように安易に悪が出てくるのか。それはこの作者の悪が、たんなる美学上の概念にすぎないからである。それが、心理の合理的説明に拘泥した結果、倫理の問題にすりかわってしまった。そこから混乱が起きる。
 作者の混乱は、たんなる「美醜」の問題を「善悪」の問題として展開したところにある。作者のモチーフは「美醜」にあったはずなのに、以降は下人の「正義」と「エゴイズム」の物語となってゆくのである。

 下人は老婆につかみかかり、簡単にねじ倒す。まもなく老婆の生死が「自分の意志に支配されていると云ふ事を意識」すると、先ほどの憎悪の心は冷め「安らかな得意と満足とがあるばかりである」となる。
 やがて老婆の自己弁護を聞くうちに、次第に盗人になる勇気が生まれてくる。

 下人の正義はたんなる不快から生じた憎悪であった。それは「ルサンチマン=弱者の欲望」の現われにすぎない。老婆が自分の意志の支配下に置かれると、憎悪は「得意と満足」に変わる。「支配の欲望」が満たされたからである。弱者の欲望が、より弱いものを支配して自足しただけである。「あらゆる悪に対する反感」などでなかったことは明白である。下人の正義など、どこにもなかった。ここにあるのは、相対的な強者と弱者の相克という事実性のみである。
 やがて老婆の自己弁護に媒介されて、下人の利己主義が登場する。下人は「一時の正義」を感じてしまったから、利己主義を悪と「感じ」なくてはならない。利己の行為に、自己弁護が必要となる。

 下人は老婆に言う。
「では、己が引剥(ひはぎ)をしようと恨むまいな。己もさうしなければ、餓死をする体なのだ。」

 下人の正義が自足し利己心と移ってゆく心理は、いかにも自然に見える。読者は、この心理の移り変わりに、周囲の条件にあおられて動く生の弱さを見いだす。そして、その生の皮が剥がされたあとに現れてくる醜悪なエゴイズムを見る。しかしエゴイズムとは、それほど醜悪なものなのか。生とは、それほど弱いものなのか。
 心理だけを見れば、たしかに危うく移ろっているかのようである。しかし、その背後にある「作者の意識」をも見なければならない。そこでは作者の意識自体が、美醜から善悪へと怪しく移行している。作者の意識が下人の心理に善悪の観念を挿入したのだ。作者には心理を見る目だけがあって、「意識」自体を批評する視点が欠けている。
 エゴイズムそのものは醜くも美しくもない。正義という美しいベールをかぶせておいてから、それを剥がして見せるから醜悪に見える。生それ自体は弱くも強くもない。心理というベールを、生それ自体と見間違えるから弱々しく思われるにすぎない。

 下人の心理は、一見自然に映る。しかしそこには、作者には自明でない二重の構造が見られる。
 一つは、下人に投影されている作者の意識のレベルである。それは、次のように表現できる。

「私は正義のために生きたい(と思う)」が、生きていくためには「利己的であるより仕方がない(と思う)」

 この意識は徹頭徹尾モノローグの世界に閉じ込められている。この意識の中では「正義」と「利己」のどちらを選ぶわけにもいかない。利己的であることが正義でもあるとき以外には、内部的には決定不能に陥ってしまう。

 もう一つは、強者と弱者の相対的差異に規定される事実性のレベルである。
 下人の正義は、彼が老婆に対して相対的強者であり得るかぎりにおいて実現される。また下人の利己的行為も、強者であるかぎりにおいて可能なのである。この事実性においてのみ、下人の正義も利己主義も成り立つ。
 しかし、このような状況がいつも保証されているわけではない。作者の必要に応じて設定されているだけである。下人がもし相対的に弱者ならばどうなるか。死体の髪の毛を抜く「鶏の脚のやうな、骨と皮ばかりの腕」の老婆の代わりに、筋骨たくましい大入道でも想定してみればよい。下人の正義も利己主義も吹っ飛んでしまうに違いなかろう。作者の意識は、次のようになってしまう。

「私は正義のために生きたい(と思うが実現できない)」し、生きてゆくためには「利己的であるより仕方がない(と思うが、それも実現できない)」

 作者の意識を相対化すると、このようなイロニーが顕われてくる。しかし作者自身の意識には、このようなイロニーは隠れたままである。その意味において、『羅生門』には「作者自身を相対化する視点」が欠けていると言える。したがって「人格の根底から生ずる可笑味」は涌いてこないのである。

 それでは、禅智内供の『鼻』の「可笑味」はどこから来るのだろうか。

2.禅智内供の『鼻』と「意識」

「禅智内供の鼻」は近隣に知れ渡っている。「長さは五六寸」あって「云はゞ細長い腸詰のやうな物が、ぶらりと顔の真中からぶら下がってゐるのである」。「五十を超えた内供」は高僧の地位にのぼった今日まで、「内心では始終この鼻を苦に病んできた」。「内供が鼻を持て余した理由は」実際的の不便さだけではない。それより以上に「この鼻によつて傷つけられる自尊心の為に苦しんだ」のである。
 内供は「積極的にも消極的にも、この自尊心の毀損を恢復しようと試みた」。
 鼻を短く見せる工夫をしてみたり、自分のような鼻の持ち主を見つけて安心を見いだそうとしたり、さらには積極的に鼻の短くなる方法を試みたりした。「しかし何をどうしても、鼻は依然として、五六寸の長さをぶらりと脣(くちびる)の上にぶら下げてゐる」のである。

 内供の長い鼻はそれ自体で滑稽だ。高僧たる内供が鼻に悩まされるという自意識のありようも滑稽である。しかし、それらが直ちにユーモアであるわけではない。内供の自意識が「鼻」によって批評されるところから「可笑味」が涌いてくるのである。
 作者は内供の意識全般にわたって書いてはいない。あくまで鼻に付きまとわれる自意識についてのみ書いている。したがって、『羅生門』の下人にあった心理の突飛な飛躍はない。内供の心理は一貫している。内供は一貫して不快であり続ける。しかし読者は内供の不快に付き合う必要はない。「作者の意識」に振り回されなくても良い。「おつとりとした可笑味」を眺めているだけでよいのである。作者に強いられて下人の心理に付き合わされるのと対照的である。

「所が或年の秋、内供の用を兼ねて、京へ上った弟子の僧が、知己の医者から長い鼻を短くする方法を教はつて来た」。「その法と云ふのは、唯、湯で鼻を茹でゝ、その鼻を人に踏ませると云ふ、簡単なものであつた」。この弟子の僧に勧められるという形で、それを実行に移すことになる。
 鼻は見事に短くなる。「かうなれば、もう誰も哂ふものはいないにちがひない」。
 翌朝、目がさめて鼻が依然として短いのを確かめると、内供は「幾年にもなく、法華経書写の功を積んだ時のやうな、のびのびした気分」になる。

 鼻が短くなったので内供の不快ははれた。内供の自意識が「鼻の意識」から解放されたのである。しかし内供は、「鼻」から手酷い報復を受ける。「鼻」は以前にも増して自らの「存在」を主張し始める。長い鼻は短くされたことによって、より一層その存在を露わにするのである。

 短い鼻の内供を見て「池の尾の僧俗」たちは「前より一層可笑しさうな顔」をする。「同じ哂ふにしても、鼻の長かった昔とは、哂ふのにどことなく容子がちがふ。見慣れた長い鼻より、見慣れない短い鼻の方が滑稽に見えると云へば、それまでである。が、そこにはまだ何かあるらしい」
「前にはあのやうにつけつけとは哂はなんだて」
 内供は「鼻の長かった四五日前の事を憶ひ出して」ふさぎ込んでしまう。

 ここで「傍観者の利己主義」が登場する。

「――人間の心には互に矛盾した二つの感情がる。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。所がその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこつちで何となく物足りないやうな心持ちがする。少し誇張して云へば、もう一度その人を、同じ不幸に陥れて見たいやうな気にさへなる。さうして何時の間にか、消極的ではあるが、或敵意をその人に対して抱くやうな事になる」。
「――内供が、この理由を知らないながらも、何となく不快に思ったのは、池の尾の僧俗の態度に、この傍観者の利己主義をそれとなく感づいたからに外ならない」。

 この説明は蛇足である。作者の心理主義が、欠点として現れている。
 内供の心理は、常に「鼻」によって対象化されていた。内供の意識は、一貫して「鼻」に批評されていた。しかし「池の尾の僧俗」の心理は、内供の鼻に「対して」のものであっても、「鼻」によっては対象化されない。池の尾の僧俗の心理は、「鼻」に拘束されず自由である。彼らの意識は「鼻」によっては批評されない。彼らの「心理一般」については語れない。
 にもかかわらず、作者は「心理一般」から説明する。「人間の心」にある「互に矛盾した二つの感情」から説明しようとする。あるときは「同情」となり、あるときには「敵意」となる感情があるとする。しかしこの二つの感情は恣意的である。鼻の不幸に悩む内供に同情する者が、鼻の不幸を切り抜けた内供を心から祝福(=同情)してもよいのである。かならずしも、同情が敵意に変わる必然性はない。心理一般は、恣意的であるほかはない。「傍観者の利己主義」とは、作者が恣意的な心理に与えた一つの名称にすぎないのである。

 池の尾の僧俗の心理を対象化するならば、高位者としての「内供の地位存在」を視なければならない。彼らの意識は、内供の前では抑圧された「弱者の意識」として現象する。内供が抑圧するのではなく、内供の存在自体がそのように作用する。相対的な弱者と強者の意識の問題である。
 内供の長い鼻は、両者を均衡させる結節点として機能していた。その鼻が消えると均衡が破れる。弱者の側に、不安が生じる。不安は必要以上の「哂ひ」を呼び寄せる。池の尾の僧俗の心理は内供の鼻からは自由でも、その意識は内供の鼻を必要としていた。彼らの意識は「鼻なき内供」を前にして、「傍観者ではいられない」のである。
 内供の意識にとって「鼻」は、居心地を悪くさせる物質として存在した。この物質性は、内供の意識にとって他者性として機能する。一貫して彼の意識を批評して意識に違和を唱える。内供はこの違和を排除したい。しかも鼻は、方法さえあれば排除し得る「物質」でもあった。
 池の尾の僧俗の意識においては、内供の鼻はたんなる「物質」ではなく観念性を帯びたものであった。内供との共存を居心地よく保ってくれる契機として機能していた。この「物象化された鼻」は、物質としての鼻が消えても、彼らの「必要」によって実在を主張する。内供の短くなった鼻の前に、彼らの「内供の鼻」はより一層リアルに姿を現わす。
 内供の意識と池の尾の僧俗の意識は、「鼻」を媒介として逆接している。その逆接のあり方は、内供の意識を「鼻」のもつ物質性にそって相対化してゆくとき、齟齬として顕われる。その齟齬を一般的に語ることはできない。内供の心理からも池の尾の僧俗の心理からも説明できないし、また説明する必要もない。齟齬を齟齬として表現することが作者の仕事である。そのとき、「ヒューモア」が出てくるのである。

「前にはあのやうにつけつけ哂はなんだて」
 この内供の独白に、すでに「人格の根底から生ずる可笑味」がある。「自然そのままの可笑味がおつとり」と出ている。「傍観者の利己主義」などは必要ないのである。

 以上、「作者自身を相対化する視点」ににそって述べてきた。『羅生門』では、「正義と利己主義」という観念性で下人の心理が捉えられていた。そこでは、作者の恣意によって下人の心理が翻弄されている。他方『鼻』では、「鼻」という「物質」のもつ他者性・事実性により、作者の恣意は介在しようがなく、内供の意識がリアルに客体化されている。むしろ、「鼻」からは自由な池の尾の僧俗の心理を説明するときに、「傍観者の利己主義」という作者の恣意性が登場したことが、その反証となるであろう。
 作者を相対化する視点とは、作品の中で他者性が機能する場を確保することである、と結論しておこう。

1990年 nani記

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NO.3 ('98/12/20)

聖書と著作権

 先日、向いにあるキリスト教会の牧師さんと話す機会があった。そんなきっかけで、ネットで聖書は読めないのかと思いつき検索してみた。するとすぐさま見つかったのであるが、覗いてみると公開が休止中とのこと(*1)。なんと電子テキスト化された聖書にも著作権問題が絡んでいるそうである。これは日本語口語訳の新約聖書の話で、ギリシャ語版や英語版でどう扱われているのかは知らない。

 翻訳という作業に著作権があるのは当然であり、「日本聖書教会」のページ(*2)を見るとその趣旨が詳述されていた。これも納得いく説明であるのだが、せっかく個人の手で入力された電子版が読めないというのは、デジタル図書館をめざす我々としてはやはり残念な事である。

 グーテンベルク印刷術による普及の成果をみるまでもなく、聖書のような文書は広く誰にでも読まれるべきものである。ならばデジタルネットワークというメディアは、それに最も適した手段の一つであろうと思われる。聖書のみならず仏典やコラーンが手軽に読めるということは、教団・信徒のみならず我々一般人にとっても望ましいことだろう。

何がそれを妨げているのか? それぞれの立場をふまえながら、著作権とデジタルテキスト化の問題を考えてみたいものである。

(*1)【新約聖書(口語訳)】
(*2)【日本聖書協会/聖書の著作権】

p.s.ちなみに、マルクス『資本論(第一巻)』の日本語訳電子テキスト版も作成されているのですが、これも著作権問題で公開休止中です。これは、さる出版社版訳をもとに個人的に改訳を施して公開されたものですが、訳のオリジナリティ性が元著作権をクリアするかどうかで論議になりました。

NIFTY-SERVE「現代思想forum」(FSHISO_MES16)で、当の訳者をまじえてなされた論議のポインタを貼っておきます。(NIFTYのIDが必要)

https://iw.nifty.ne.jp/iw/nifty/fshiso/mes/16/509.html

(了)
1998.12.20 nani記

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NO.2 ('98/12/13)

「内面」の終焉

――酒鬼薔薇少年にみる現代の精神風土――

【少年Aの内面と外面】

 神戸児童連続殺人事件の犯人、少年Aの検事調書が『文芸春秋』三月号誌上に公開され、四月号には何人かの識者による考察が掲載された。調書の誌上公開の是非を問うものをのぞけば、やはり関心は少年の犯行動機をめぐるところにあつまっている。そして共通してうかがえるのは、少年Aの内面心理の不可解さへのとまどいである。
 供述調書は、犯行の具体的事実とその動機をあきらかにする目的をもつであろうし、その方向をめざして質問はおこなわれている。そして具体的行為事実に関しては、少年Aは隠すことなくたんたんと語っているようにみえる。
 しかし、心理的動機となるととたんに曖昧な供述となってくる。これは少年が意図的に隠そうとしているのではなく、問われるまではそのようなことをまったく考えたこともなかったからだと想像される。
 小学生のとき親しんでいた祖母が亡くなり、それから死について考えるようになったという。身近な死に遭遇し、それを契機に死を見つめはじめるということはよくあることだ。しかし、この少年が見つめはじめその後追求し続けた「死」は、われわれ一般が考える方向とはまったく違っていた。

 通常われわれが死というものを考えるとき、「誰もが死ぬ。自分が死ねばどうなるか。死後の自分とは……」というふうに内面化させていくものだ。ところがこの少年は、徹底して死の「外面」をたどっていくことになる。
 人間が死ぬときどのように反応するか、その後死体はどのように変化していくか、このような「死の外面」に対する好奇心が少年Aに宿った。手はじめにナメクジを殺してみる。次にはカエル、そして猫……。
 このような好奇心の延長上で、現実に複数の小学児童を死に至らしめる犯行が行われてしまった。通り魔的に女子児童たちを襲った犯行では、ハンマーやナイフなど、凶器をいろいろと意図的に変えて手ごたえの違いを確認してみたという。
 そしてついには、男子児童を殺害して首を切断するという猟奇的な犯行に至るが、このときは首を絞めて殺すという行為を試したかったと供述している。
 その後の被害者の男児の首を切り落とす場面では、すくなくとも供述書にみるかぎり冷静そのものだ。首を切る作業は解剖医の手際であり、切り落とした頭部を観察する視線は科学者をもおもわせる。
 このような少年の冷静さは、むしろわれわれをして冷酷と感じせしめる。なぜなら、少年の心理には行為の異常さにたいする躊躇や懸念がいささかもみられないからだ。そして人はおもう、彼には「人間の心」というものがないのであろうかと。
 そう、人々の想いにぴったり収まるような「内面」が欠落しているのである。それが人をして恐怖に追いやる。自分の身辺にもこのような内面を欠落させた人間が何食わぬ顔で生きているとすれば……。

 しかし考えてみればいい。人々が想定するような「内面」をもった人間というものが、太古から普遍的であったのかどうか。罪の意識だの良心の呵責といったものを、いつの世の犯罪者ももったのであるかどうか。むしろそのような「内面」こそ、「われ思う」というデカルトの一節とともに、われわれ近代人が獲得したひとつの思考パターンにすぎないのではないか。
 柄谷行人は『日本近代文学の起源』で、「内面の発見」ということについて書いている。近代文学に描かれる人間の内面性というものは、けっして普遍的に存在したものではない。近代文学の誕生とともに「発見」されたものである、と。
 もちろんこれは、以前からあった「内面」を見つけ出したということではなく、近代文学をになう口語文、口語文学の誕生とともに「創り出された」ものだという意味だ。われわれがあたりまえの前提としている「内面性」というものは、じつは歴史的な起源をもつものであって、それはたかだか近代という最近の出来事でしかないというのである。

 いまこの説を子細に検証している余地はない。しかし、われわれが、「内面性」という歴史特殊的な枠組みの中で思考し判断していると想定してみることはできる。そして、われわれが普遍的に同等な「内面」を共有していると考えるのは、たまたま同じ文脈上で思考しているからにすぎないのではなかろうか。
 とすれば、少年Aに「普遍的なこころ」が欠落しているのではなく、たんにわれわれが誰にでもあると思いこんでいる「歴史特殊な内面」が欠けているというだけのことになる。そして少年は別な内面をもっているのだと考えてもおかしくはない。

 当然ながら、少年に心理過程がまったく無いなどいうことはありえない。さまざまな行動目的にそってあれやこれや思いめぐらし、そのつどわれわれよりも的確とおもえるようほどの判断をくだしている。おのれの行為の異常さに慄きうろたえるかも知れないわれわれよりも、少年はきわめて合目的な判断にもとづいて行動しているとおもわれる。
 「殺している時の気持ちはどうなのか」ということに興味があったと少年は言う。これはすでに観察者の視線だ。自分の気持ちを、オブジェとして外面から眺める目付きである。人を殺すことの意味や殺される相手の気持ちなどには、少年の関心は向かわない。なぜなら、そのような意味での「内面」などはそもそも少年の側にないからだ。
 となれば、われわれが自分の心を「内省」することによっては、少年の「内面」と出くわすことはありえない。逆に、少年の行動や言動という「外面」から再構成してみるしかないだろう。

 「バモイドオキの神」だとかナチスドイツのハーケンクロイツェルをもじったマークだとか、たぶんにマンガやテレビゲームからの連想が考えられる。それらに散見される死の映像は、ふんだんに彼の頭に定着していたであろう。それらと、他方で祖母の死からはじまった具体的な肉体の死とのイメージのギャップが、彼をして「実験」に向かわせたと考えられる。そして、現実の犯行によって具体的にダメージ度や手応えを確認することになる。
 ここで、殺される相手や殺す自分への思慮はまったくみられない。小さな子供がカブト虫の頭と動体を引きちぎるとき、カブト虫のココロや自分のココロの痛みとは無縁なのと同じである。それを人は子供の無意識の残虐性と呼ぶが、それはすでに「われわれの内面」から想定したものにすぎない。
 むりやりに少年Aの内面というものを想定してみると、そこにあるのは、インプットされたさまざまなイメージと、それを現実化させる好奇心と、そして目的指向的な思考とでしかない。そして、人は通常それらだけでは「内面性」とは呼ばないだろう。

 かように、少年Aはわれわれが想定するような「内面性」とはまったく無縁なところで思考している。それでも人は、彼の供述の中から「内面」の断片でも読み取ろうと努力する。
 「もう一人の僕」の中で被害者男児が文句を言っているように感じた、というような供述がある。そこに、わずかながらも彼の良心の呵責が残っていると期待することができるかもしれない。しかしこのような少年の「感じ方」自体が、すでにわれわれの「内面」とは位相が逆転しているのだ。
 供述では、殺されたB君の心の内を想像するのではなく、「僕の中」にB君の魂が登場してきて文句を言うという形をとっている。彼にとって現実感をもてるものは、目の前にある「死体とその魂」であって、被害者の「内面」というようなものは想像すべくもない。

 被害者の「内面」を思いやれば、それを自分の「内面」に取りこむことになり「良心の呵責」という方向にすすむだろう。しかし、少年から相手の心の内に入り込んでいくことはなく、目の前にある死体の「魂」の方から文句を言ってくると感じられるのだ。この場合の「魂」は、被害者の「心」や「内面」とはまったく別のものである。

 これは少年にとっては物理的現象に近いものであって、いわば彼は「外面性」とだけ向かい合っている。だから「死体にまだ魂が残っているので文句を言う」のだと思い、死体から「魂を取り出せば黙るだろう」と考える。
 現に彼は被害者の血を飲むという形で、徹底して外面行動で対処する。「僕の血は汚れているので、純粋な子供の血を飲めば、その汚れた血が清められる」と考えて実行するのである。物理的な「血」が汚れているのであって、けっして自分の「心=内面」が汚れているとは考えないところに注目すべきだろう。
 「幼い子供の命を奪って、気持ちよいと感じている自分自身に対する嫌悪感」というのも、そのまま良心の呵責の顕われなどと受け取ることはできない。そこには取調べ官の無意識の誘導というものが介在していると考えられる。聴取検事やわれわれ読者が前提とする「内面の物語」と和解させるために、そのような供述が必要だったというだけのことであろう。

【われわれの「内面」の行方】

 さて、このような「内面の不在」は、このA少年だけに特殊なものであろうか。A少年の異常性格というふうに、この事件をわれわれの「あちら側」に置いてしまえばいささかの安心はできる。
 たしかに殺すことや死体への彼の関心は異常なものである。しかしそれは関心の方向性の違いだけであって、「内面の不在」そのものはわれわれの身辺にあまねく存在しているのではないか。

 たとえば、栃木県の中学校で女性教師を刺殺してしまったバタフライナイフの中学生はどうか。多くの教師たちが、これはいつ自分の学校で起こってもおかしくない事件だと感想を述べている。それほど、現場教師にとっては普通の状況だと考えられているわけだ。
 この中学生は、普段は「普通の少年」だったと報じられている。ところが教師の忠告に、突然キレて事件を起こしてしまった。普段はかろうじて維持していた「内面性」が維持できなくなりキレてしまった、と一応は考えられる。しかし、そのように簡単にキレてしまう内面性とはなんだろうか。
 そこには、われわれが想定するような善悪の判断といった倫理に結びつくようなものはなにもない。彼らにとってそのようなものは一向にリアリティをもたず、たんにルールを踏み外すと面倒だといった、まわりの目に対する意識でしかない。したがって、周囲の目や事後の面倒さを考える余裕がなくなるとさっさとキレてしまうのだろう。

 それはわれわれが思っているような「内面」などではなく、外面的な規制に対して取り繕っているだけのたんなる「体面」だと考えたほうが間違いない。
 このような状況は、学校や教師に対する関係だけではない。中高生一般の交友を観察してみると、お互いの内面に深く入り込むような関係をもつことはほとんどない。彼らは、かつてのように思春期の悩みを語り合い共有するといった交友を拒否しているようにみえる。
 興味や関心が共通する部分だけで付きあっているのだ。交友関係までもが、さしあたっての「体面」だけで維持されている。というより、立ち入りあうような「内面」など、そもそもが彼らにはあり得ないのであろう。

 では、大人たちはどうか。たしかに現実社会と直面しているだけに、生徒・学生とはちがって維持しなければならない「体面」は多いだろう。企業人であれば企業人として保たなければならない体面があるだろう。
 しかし企業や組織からはずれて体面が不要になったとき、はたしてそれでも残る「内面」というものがあるかどうか。会社人間が長年勤めあげて定年退職したとき、はたと突き当たるのが自らの「空虚な内面」だろう。
 人は、向かい合っていた外面がなくなったとき、自らの内面を覗き込む。そして、その内面の空虚さと直面する。しかし自らの「内面」があると信じて生きていて、いざとなれば「内面」を参照して行動指針を見出せるという信仰こそ、無意識にうながされた「内面の思考」に沿ったものだといえる。
 また、自らを規制する「外面」が消えさったときだけではなく、外面的な物事がうまく行かなくなったときにも「内面」と相談することになるだろう。しかし、そのような場合に「倫理とは、善とは何か」と考えたところで現実の役にたつことはほとんどない。むしろ、現実的・外面的な努力をかさねて打ち勝っていくしかないことを経験上知っているはずだ。

 われわれは日常生活のうえでは、さほど「内面」を重視しているわけではない。自動車を運転しているとき、まわりの車の流れにそって走れば自動的に速度オーバーになるし、所用で車を止めれば駐車違反になる。そのようなときに、いちいち罪の意識をもって煩悶しているわけではないだろう。となれば、何のために内面性を信じているのか。
 結局は、どこかで分かり合える「同じ人間」だという安心を得たいためではないか。毎日顔をあわせる家族や職場の同僚は、同じような内面性をもちなんとなく分かり合えるはずだし、突然に突拍子もない行為にでることはないだろう。そのような、安心のもとに日常を生きている。
 そのような漠然とした安心のもとにあるとき、いとも簡単に内面を放棄してキレてしまう若者たちをみて不安に苛まれる。そして、なんら内面性のかけらも感じさせない少年Aの行為に遭遇して慄然とするのである。

 少年Aの通常でない死への関心は、性格の特異性として、われわれの埒外に排除してすますことはできるだろう。しかし、少年Aが純化モデルとして示してしまった「内面の欠落」という問題は、すでにわれわれの周辺に蔓延しているし、またわれわれ自身がその兆候をはらんでしまっていると考えるべきであろう。
 「内面の発見」ということで、それがけっして普遍的なものではなく歴史的始原があったと気づいたとき、それは同時に歴史的終焉があるものだということをも意味している。そもそもそのような「発見」は、その終末期におよんでこそ見出されるものなのだ。われわれはすでに、「内面の終焉」に遭遇しているのである。
 となれば、いたずらに内面のノスタルジーに逃げ込むのではなく、いま現前しつつある「内面なき世界」を前提にものごとを捉えなおしてみる必要があるだろう。

 このような前提に立つとき、むやみに教育の復権をとなえることの無力さが明らかになってくる。われわれが家庭や学校の教育力に期待するところは、とどのつまり社会性の内面化であり、それによって社会の安心と安全が確保されることであったはず。ところが、そのような「内面」の受け皿自体がもはや期待できないのであるから。
 家庭や学校の教育が無力であるのは、「内面性欠落」の原因ではなく、逆に「結果」なのである。となれば、いまや家庭の両親や学校の教師を人身御供としてやり玉にあげるだけでは問題は進展しない。むろんそれは彼らを免責する理由にはならない、とはいえ。

 もちろん「内面無き世界」というのは、ひとつの極端な仮定であろう。しかし、このような想定をすることによってはっきりしてくる問題がある。
 まず当面は「内面信仰」ではなく「外面」を重視せざるを得ないであろう。近代における法や契約という概念は、そもそも土着的な共同性がくずれて「何処の馬の骨か分からない」者とも付き合っていくために出てきたものだ。「内面」を期待できない相手でも、「外面」の一貫性が維持されれば折り合いをつけることができるわけである。
 他方、個の自立という方向で「内面」をもった近代の「人間」というものが誕生してきた。そのような人間が、ひたすらエゴのみを追求すれば「万人が万人にとって狼」となってしまう。そこで、法や規範を内面化した「人間」が必要とされる。そのような「内面形成」が期待されるのである。
 前近代の土着的共同社会では、このような「外面」と「内面」が未分化で一体化していたと考えられる。他方、両者を分化させてしまった近代では、それらの再統合が必要となってくる。そして、「子供の教育」という問題もそこに発生する。

 近代の教育は、アイデンティティの確立という「個の自立」側面と、「規範の内面化」という二つの側面を担ってきたのである。ところが生徒たちがそのような「内面」を拒否しだしたとすれば、そこに「教育の無力」という問題が噴出してくるのは当然である。

 これまでなんとか教育が成り立っていたのは、前代から持ち越された共同性が残っており、その上に学級経営というような共同性が組み立てられていたと考えられる。それは地域社会の共同性であり、家庭における共同性であったはず。その上に乗るかたちで「内面の教育」も可能であったのだ。ところが、それらの共同性がいまや崩壊しつつあるのである。

 アメリカのように校内で生徒が銃を乱射するといった状況になれば、これはスカートの丈を測るといった校則のレベルで対応できるはずがない。そして我が国でも、中学校に生徒がバタフライナイフを持ち込んでいるのである。「外面」は外面として規制を徹底しなければらないのは、緊急の要として自明であろう。
 他方で将来の展望として、「新たな内面形成」が可能かという課題が残される。前述したように、「純粋な個の内面」というようなものは幻想であって、それはなんらかの「共同性」のもとに形成されるものであった。
 歴史的に残存していた地域的な共同性はすでに風化しつくしている。唯一近代において存在をゆるされた「家庭」という最小単位の共同体でさえも、核家族化・共働き・離婚の増大という流れの中で、共同性を維持できなくなっているのである。
 となれば、ほかに共同性の基盤を見つけられるかどうか。既存基盤がないとすれば、まったくゼロの地点からなんらかの共同性が創り出せるのかどうか。われわれは、このような困難な課題を担っていく地点に立たされているのである。

 「内面の終焉」という視座をもち込んでみれば、連続児童殺人事件の少年Aがわれわれに突きつけた問題は極めて深刻である。それは事件の残酷さ・悲惨さだけのことではなく、われわれの社会自体が「少年A」を孕んでしまっているという深刻さなのである。

 あの事件がわれわれに呼び起こす不安と恐怖は、われわれの自身の「内面」における不安と恐怖なのである。

(了)
1998.04.06 nani記

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NO.1 ('98/12/06)

マルチメディアがもたらす私たちの暮らしの変革

――技術やシステムから人々の生活へ――

 1980年、アルビン・トフラーの『第三の波』がベストセラーになり、ニューメディアと来たるべき社会の関係が話題になった。このころ我が国でもベーシックを搭載したパーソナルコンピュータが市販され、われわれ一般人でもコンピュータを所有できる時代になった。その後もエレクトロニクス技術の進展はめざましく、われわれがニューメディアを利用する場面が増え続けていることは間違いない。

 しかしそれから20年近くになろうという今日、はたしてトフラーが描き出した「エレクトロニック・コティジ」での生活が具現しているかというとそうでもない。今日でも一般的なサラリーマン家庭では、夫は毎朝満員の通勤電車で出社するし、妻はいそいそとパートタイマーに出かける。そして子供たちは学校で一日の大半の時間をすごすというのが現状である。

 たしかにオフィスではパソコンが何台も導入され、本支店間のネットワーキングなども進んでいる。他方で在宅勤務が唱えられ、一部専門技能をもった者は自宅で業務をこなす場面もでてきている。しかしわれわれ一般人の家庭はというと、いまだ電話とテレビジョンが主要な情報メディアであって、パソコンも普及したとは言えいまだ充分に使いこなされているとは言い難い状況であろう。

 1990年代前半にはマルチメディアが取りざたされ、CDドライブを搭載したマルチメディアパソコンと称するものが店頭に並べられた。たしかに音と画像が処理できるパソコンは、それまでの文字処理が主体のものと比べると画期的ではあった。

 しかし画像処理能力は静止画像を表示するのが関の山で、大量のデータ処理を必要とする動画は既存のテレビジョンやVTRには及ぶべくもなかった。目玉として囃されたビデオ・オン・ディマンドなどは、なによりも情報通信インフラの未整備により夢の夢におわり、パソコンメーカーの口実に利用されただけであった。

 その後、1995年のウィンドウズ95のリリースとともに、一挙にインターネットブームがやってきた。マウス操作で使いやすさを売り物にするウィンドウズと、画像音声を文字情報とともに扱えるインターネットWWWの登場は、相伴ってインターネットをわれわれに親しみやすいものとした。

 光ファイバー網などの大量情報通信媒体の全面普及を待つまでもなく、既存の電話線などを縦横に活用して各家庭が世界中とネットワーキングしてしまった。居ながらにしてホワイトハウスのホームページにアクセスし、クリントン米大統領に電子メールも送れてしまうのである。

 インターネットそのものの使用料は無料であり、必要な通信費用は電話料とプロバイダー接続費用等せいぜい一分間あたり数十円程度。しかも世界のどこと接続しようとも一律であり、このコスト面での世界の一体化はきわめて大きい。使用言語の問題を除けば、インターネット上では世界との距離感が消失してしまうのである。

 このようにして、とにもかくにも世界とのネットワークが身近になった今、私たちの暮らしの周辺でマルチメディアはどのように展開してゆくのであろうか。

 言うまでもなく、私たちの暮らしのマルチメディア化で要石となるのはパーソナルコンピュータであろう。

  テレビ・VTR・電話・ファクシミリ・ワードプロセッサー、これらの画像・音声・文字情報処理機器が一体化するためには、パーソナルコンピュータによるデジタルネットワーク化が不可欠である。また、そのように一体化したコントロールができなければ真のマルチメディア化とは言いようもない。

 パーソナルコンピュータは、画像・音声・文字といった異種類の情報を統合して処理可能な「汎用性」をもつ。また、ハード的な機能だけではなくソフトウェアによりどんどん機能が増加するという「進化性」をももつ。

 この二つの特性が相伴ってマルチメディア化のコントローラーとしての重要な役割を担うのである。ところがこの両特性こそが、パーソナルコンピュータの「家庭化」をはばむ原因ともなっている。

 電話は受話器を取りダイヤルするだけで相手につながる。テレビは電源を入れてチャンネルを選択するだけで見たい番組が登場する。このような簡便化は、それぞれが単機能に特化しているからこそ可能である。

 ところが汎用性・多機能を前提とするパーソナルコンピュータではそうはいかない。100以上ものキーがあるボードから複雑な入力をしなければならない。マウス操作が標準となったウィンドウズでも、幾つものアイコンボタンをクリックしたりアプリケーションソフトの操作をマスターする必要からは免れることができない。

 パーソナルコンピュータの「進化」も、扱い慣れていない人には厄介なしろものである。ハード面での急速な進化でしょっちゅう買い替えなければならないという脅迫観念をもたされるのも問題であるが、それ以上にアプリケーションの進化に悩まされる。

 常にソフトのバージョンアップを心がけねばならないし、新しいアプリケーションもどんどん出現する。このままの機能で充分だと考えていても、嫌でも対応を迫られることが多い。たとえば、旧いインターネットブラウザだと表示されないページが主流になってきた場合、これはバージョンアップしないで済ませるわけにはいかないだろう。

 このような「汎用性」と「進化性」はパーソナルコンピュータの宿命でもある。しかしながら、電話をかけるために「電話送受信教室」に通う人がいるだろうか。テレビを見るために、複雑なメンテナンスの負担を担おうという人がいるだろうか。そういう意味では、パソコンは「便利な機械」ではあるがけっして「使いやすい機械」ではないのである。

 一般家庭人がマルチメディアの提供する利便・娯楽を享受しようとするとしても、パソコンを操作したり使いこなしたりすることそのものは目的にはなり得ない。一般人はパソコンそのものには何の関心もない、ということを前提にしておかなければならないであろう。

 さてホームユースのマルチメディアを考えるにあたって、パーソナルコンピュータの機能は必須であるが一般家庭人にとってパーソナルコンピュータは扱い難いという問題が浮上した。一般家庭にいまのような形態のパソコンを持ち込むには無理があると考えた方が間違いないであろう。

 人間の生活感覚はきわめてアナログ的なものである。腕時計の文字盤でさえ、数字によるデジタル表示は減少している。時針によるアナログ表示の方が直感的に時間が把握しやすからであろう。となれば、人間が係わるインプット・アウトプットのインターフェイス部分は極力アナログ的であることが望ましいと考えられる。

 ここで近い将来のマルチメディア・コティジを俯瞰してみよう。ちょっと広めのリビングルームにはテレビジョンがあり電話機がある。ひょっとしてステレオ装置もあるかもしれない。一見してみて今とほとんど変わらない居間である。

 テレビを見るには、直接受像機のパネルをいじるか今と同じようなリモコン端末で操作するだけ。電話をかけるにも、当然ながら電話機のプッシュボタンを押す。せいぜい液晶パネルが付いていてテレビ電話機であることがわかる程度の違いである。部屋にはパソコンの姿は見えない。部屋の隅の簡易デスクにそれらしいものがあるが、よく見ればワープロ入力用のキーボードであって文書処理をしない家庭ではこれも必要ではない。

 キッチンやダイニングルームも特別な変化は見られない。ようするに、今とほとんど変わらない生活感覚でのホームライフが行われている。この「急激に変わらない」ということが近未来のマルチメディア化の要諦である。テレビジョンや電話が登場したときのような余程ドラスティックな利便性ないし娯楽性を提供するようなメディアでないと、安直には家庭人の保守性を変革させることはないからである。

 ではパソコン本体はどこへ行ったのであろうか。ホーム・コントロールサーバーとしてのパソコン(もはやそうは呼ばないだろうが)は家の玄関口あたりのボックスに収納されたままで、家人が直接手を触れることはほとんどない形態となっている。サーバーのメンテナンスは専門の保守会社がすべて担当する仕組みである。

 基盤の取り替えなどのハード保守以外ほとんどがソフト操作で済み、必要に応じて保守会社のオペレーターがオンラインで済ませてくれる。もちろんハード進化でサーバー本体の入れ替えサイクルも短いであろうから、すべて3年から5年程度のリース契約となっている。

 もちろんデータ処理から各端末機器のコントロールまで、実質的な統合処理はこのサーバーが「目に見えない所」で行っている。しかし、マルチメディアホームで生活する家族はそんなことを意識する必要はない。いままで通りテレビに向かってのスイッチを入れ、受話器を取って電話をかけるという生活スタイルを大幅に変更することはないのである。

 変わっているのは、受像機であれ電話機であれすべてサーバーと接続されており、デジタルデータ処理が目にみえないところでサーバーによって行われている点である。人間が直接対面する家庭内の機器は文字通り「端末」として、入出力のヒューマンインターフェイス部分と機械的駆動部分だけに特化しているのである。特化・分化すればこそ、「人に優しいインターフェイス」が実現できるのである。

 出力機能には、それぞれのメディアによって特性があるが当然である。テレビ・VTRはディスプレィ・モニター出力が当然であろうし、電話器は送受話器を通して行う。スイッチオン・オフなどの入力操作においても、それぞれの端末によって重宝な様式があろうし、利用する機器に直接向かって行う方が分かりやすいはずである。

 当然、リモート端末からも基本的な操作はすべてできるようになっている。携帯電話機程度の入力端末であり、キーの数も電卓や電話機のテンキー程度に限定されている。もちろん電話の送受話機能は付いているから、寝転びながらでも携帯電話と同じ感覚で使えるだろう。

 もちろん風呂場・トイレ・空気調節設備などの家庭諸設備から家庭用電化製品まで、すべてホームサーバーで統合コントロールされる。エアコン・洗濯機・冷蔵庫・電子レンジ・照明器具などもソフトコントロール機能はサーバーが担っており、各メーカからオンライン供給されるソフトのバージョンアップにより「進化成長する家電」になっていることであろう。

 これまで、テレビ・電話を中心に家庭情報メディアを述べてきた。それは、現時点でほとんどの家庭で受けいれられているメディアであるからである。インターネットのようなオープンネットワークも、既存の両メディアから独立した形で「すべての家庭」に割り込むことは考えにくい。というのは、それがパソコン操作を前提にしたメディアとして発展してきているからである。

 インターネットがテレビ・電話を取り込むというより、むしろ既存のテレビ・電話の補完機能として連動してくることが考えられる。もちろん事実上はオープンネットワークに入り込むことになるのだが、一般家庭人としてはテレビ・電話という既存のメディアを操作しているという意識のまま「いつの間にか入り込んでいる」という形になるであろう。

 言うまでもなくテレビジョンはマスメディアとして発展してきた。電波を通じて配信される情報はあくまでも一方向性が基本になっている。そこでCATVなどの双方向性が注目されてきたわけであるが、一般家庭から発信する情報としてどれだけのものがあるかということが問題になる。

 WWW上にホームページをあげればそのまま世界に発信していることになるのだが、それにはかなり能動的でクリエイティブな意識が必要である。ところが一般人がテレビを見ているときというのは、なんとなく流れてくる番組を眺めているといったきわめて受動的な状況が多い。さしあたってこちら側から発信しようという意識は少ないのである。

 したがって事実上一般家庭から発信される情報というのは、きわめて単純な情報が大半を占めると思われる。たとえばテレビショッピング番組でふと買いたいと思ったときに、TV画面に向けてリモコン端末のボタンを押すだけで買えるというような簡便性であったり、あるいは、番組がおもしろいと思ったときにボタンを押すと自分の投票が「一票」として即時に画面に反映された表示が出るとか、そのような単純な参加の仕方が中心となるであろう。

 もちろん番組製作者側にも、オープンネットワークでの視聴者参加を意識した番組作りが要請される。たとえば、クイズ番組などでタレントが解答者として出演して賞金とギャラを両方もらっていくのを眺めているよりも、インターネットを通じて即時に解答者として参加できる方が楽しいに決まっているし、現時点のインフラでもすぐにできるはずである。

 あるいは、深夜の長時間討論番組などで電話・ファックスでの視聴者意見を受け付けているが、オンラインチャットでリアルタイムに参加させればもっと面白い「視聴者参加」になるに違いない。視聴者が番組を見ながら商用パソコン通信やインターネットwwwなどのチャットボードでやり取りをする仕組みにして、それがテレビモニターの一部に表示させるようにすれば、現時点の技術でも充分可能なはずである。

 退屈な国会議事中継を延々と放送するのなら、同様にチャットボードから議事への意見が即時にモニター表示できるようにすれば、それこそ飛躍的に視聴率は上がるに違いないであろう。現状ではそのように双方向性を積極的に取り込もうとする意識が、決定的にテレビ放送製作者側に欠けているとしか言いようがない。

 一方電話はもとより「双方向通信」であるが、あくまでも一対一の私信の範疇にあり公開性がない。インターネットやパソコン通信のように見知らぬ人と知り合いになるという機会はまったくない。

 これには逆にチャットボードのように多人数同時トーキングのような「場」を提供すればよいだろう。たとえば「本日の料理」などという場があれば、夕食の献立にこまった主婦(夫)がそこに電話をかける。そこでは同じような主婦(夫)があれこれ検討している。それに参加して話している内にヒントを得れば、即座に惣菜の買い物に出かければよいのである。こういう利用法であれば、テレビ電話のように顔が見えるという機能も役に立ってくる。

 ようするに井戸端会議とテレビ会議が融合したような場が即座に成り立ってしまうのである。もちろん、ローカルのCATV局などが積極的にそのような「場=番組」を提供し、そっくりそのままTV番組として流すならば、その公開参加性はさらに広がるであろう。

 加速度的な技術発展をベースにした近未来のマルチメディア化予測が巷に氾濫している。しかしそれらには、普通の人間が普通の家庭で自然に使いこなすメディア、という視点が欠落しているものが多いのが現状である。

 「普通の人間」はパソコンを使いこなすことを目的としてはいない。あらたなマルチメディア機器が登場しても、今までの生活様式を大幅に変革するという苦痛を担ってまで飛びつくわけでもない。いつの間にか自然にデジタル統合環境とオープンネットワークが生活に入り込み、自然にその利便性と娯楽性を享受しているという流れが必然とされるであろう。

 マルチメディアは、我々の家庭生活にドラスティックに割り込んでくるのではない。静かに入り込み、静かに家庭生活を変革する。そのような流れの中で、自然に我々の生活様式も変わっていき社会も変化していく。喧騒なハイテクノロジー情報とは裏腹に、我々の生活に密着して「静かな革命」を引き起こすものこそ、手に届く近未来の「真のマルチメディア社会」の見取り図を提供するであろう。

(了)
1997.12.30 nani記

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