きっと愛してる




「イブを家でゆっくり過ごすのもいいもんだね」
彼がグラスに口をつけながらにっこり笑う。
グラスの中身は濃厚そうな赤い液体。
アルコールが全くダメな彼は今日は特別だからとワインを飲んだりしない。
「今日は少し上質なものを選んでみたんだ」
いきつけのイタリアンレストランに分けてもらったというブラッドオレンジジュースをおいしそうに飲む彼はご満悦の表情を浮かべている。
ぼくはそんな彼のことをかわいいと思う。
20も年上なのに。








彼はぼくの通う大学でドイツ語を教えている。
第二外国語でドイツ語を選択し、その担当となったのが彼だった。
ドイツの童話を研究対象としている彼は、テキストに有名な『グリム童話』を使用し、学生たちの難易語だという先入観をまず無くした。
わかりやすい解説と余談を取り入れた講義は結構人気があって、欠席する学生も少なかった。
後で知ったことだが、彼は学生の間でかなり人気の教員らしく、彼のもとでドイツ語を学ぼうと入学してくる学生も少なくないらしい。
著作本も年齢の割にはかなり出版されていた。
そんな彼がぼくに話しかけてきたのは、最初の講義の終了直後だった。
学部と名前を問われ、ぼくが答えると、唐突に翌日のランチの約束を取り付けてきた。
断る理由もなかったけれど、出会ったばかりの学生しかも入学したての学生を食事に誘う彼の理由もわからなかったから、ぼくはアルバイトがあるからと丁重に断った。
すると彼は気分を害した素振りもなく、あっさりと引き下がった。
ドイツ語の講義は週に1コマ。水曜日の2時限目だ。
翌週の講義後、再びぼくをランチに誘った彼に、ぼくはストレートに尋ねた。
『どうしてぼくを誘うんですか』と。
すると彼はいたって真面目な顔でこう答えた。
『きみに一目ぼれしたから』








小学生の頃から年上の男性に優しくされることが多かった。
近所の小父さんやスーパーの店員。
ぼくには父親がいないから、彼らにかまってもらえるのは正直嬉しかった。
その優しさに微かな下心が混ざっていることに気付くまでは。
それからは自分からあまり近づかないようにしたけれども、そういう感情がおかしいことだとは思わなかった。
もちろん普通に親切にしてくれる大人のほうが多く、父親のいないコンプレックスなのか、ぼくは見返りの伴わない好意は受け入れたし、嬉しい気持ちには変わりなかった。
ぼくの初恋はぼくよりずっと年上の高校の先生だった。
男性に対して恋愛感情を抱いたことに驚いたけれど、好きという気持ちを素直に受け入れるのに時間はかからなかった。
その恋は叶うことはなかったけれども、ぼくにとっては忘れられない恋となった。
だからだろうか。
自分に向けられるそういう感情に対して嫌悪感は一切ない。
もちろん気持ちを受け入れるかどうかは全く別問題だけれども。








突然の告白は彼の印象を軽い大人の男性だと認識させるに十分で、ぼくは少々きつめの口調ではっきり断った。
しかし彼は全くそんな言葉に屈するような人物ではなかった。
ぼくのどこが気に入ったのかわからないが、彼はぼくに対する好意を隠すことなくぶつけてきて、紆余曲折の後付き合うことになった。
言ってしまえばぼくがほだされてしまった形なのだが、今ではぼくも彼のことが好きだ。
恋人になるまで丸3年半。
つれない態度をとり続けるぼくをよく好きで居続けたものだと感心する。
そして今日は恋人として初めて一緒に過ごすクリスマスイブとなる。
恋人ととして、と但し書きが入るのは、彼と過ごすイブが4回目だからだ。
1年目はサークルの飲み会にそのサークルのOBだという彼が乱入してきた。
2年目はアルバイト先にひょっこり現れた彼に、バイト上がりに拉致されて一緒に食事をした。
3年目の昨年は正面きってデートに誘われ、アルバイトがあるからと何度も断ったのに、いつの間にかバイトには代理が立てられ、結局一緒に過ごす羽目になった。
おそらくその頃には、すでにぼくの心は彼に傾きつつあったのだろう。
自分の気持ちに気付き、素直に心を開くことができたのは、それから10ヵ月後のことだったのだが。








「なに考えてるの?」
彼はいつも穏やかで優しい。
思い返せばぼくへのアプローチも全く強引ではなかった。
ストレートに好意を示すものの、強引な行動にでることは少なかった。
気がつけばそばにいて、心地いいなと思えばスーッと離れてゆく。
そのさじ加減が絶妙で、時には苛苛したぐらいだ。
おそらく出会った当初から、ぼくは彼に特別な感情を抱いていたのだと思う。
「あなたと出会ったときのこと」
ぼくが答えると彼は驚いたように眉を上げたが、次の瞬間には頬を緩めた。
「きみはぼくに酷いことを言ったよね。『残念ながらぼくにはあなたと食事を共にする理由はありませんし、あなたと食事をしたいとも思いません。それに一目ぼれなんて軽くて都合のいい言葉は大嫌いです』だったっけ」
大仰に苦々しい表情を作った彼に、ぼくは笑いを堪える。
「よく覚えてますね。何年も前のこと」
「そりゃ、酷くショックだったからね。好きになった相手に告白したとたん、あんなこと言われたんだから」
「それにしてはその後もしつこいほどあなたに誘われましたけど」
ぼくが言い返すと、彼は声を出して笑った。
「そりゃあ一度振られたくらいで諦めてちゃあ、恋なんて成就しないだろう?自分が好きになった相手が同じように自分を好きでいてくれる確率なんてそんなに高くない。それに自信があったしね」
「自信・・・?」
「そう、きみをぼくのものにする自信」
それは初耳だ。
ぼくは彼のいうところの自信を、大人の余裕だと思っていた。
しつこいほどアプローチしているようで、さほど不快感を与えない。引き際をわきまえている大人の男。
「それは知らなかったです。自信があったんだ」
「何事も自信がないと成功しないというのがぼくの持論なんだ。自信を持つことは自分を強くする。自信と過信を勘違いする人間は多いけどね」
彼は小さくウインクすると、目の前のテーブルを示す。
「ほら、冷めてしまうから食べてしまおう。デザートもあることだしね」








目の前にはたくさんのごちそうが所狭しと並んでおり、ぼくをウキウキした気分にさせる。
ボールに盛られた瑞々しい野菜のサラダにはきのことカリカリベーコンがトッピングされている。
こんがり焼けたローストチキン。
大好きなトマトクリームパスタと4種類のチーズを使ったシンプルなピザ。
そしてテーブルの真ん中にはフルーツがふんだんにあしらわれた小ぶりのケーキ。
全部彼が用意してくれたものだ。
「本当はドイツのクリスマス料理を用意したかったんだけどね。ドイツ料理はあまり華やかじゃないから」
確かにドイツのクリスマスケーキであるシュトーレンはクリームやフルーツのデコレーションは一切ない焼き菓子のようなものだ。
その他の料理もジャガイモやソーセージがメインで、美味だけれど見た目で楽しむものではない気がする。
ぼくはそれでも全く問題ないけれど、おそらく彼の気分の問題なのだろう。
それに彼が口にしているのはシチリアのオレンジを使ったブラッドオレンジジュースで、ぼくのグラスでゆれているのはジンジャーエールだったりする。
日本のクリスマスなんてしょせんそんなものだ。
家庭環境からぼくもそれなりに料理はするが、ぼくのレパートリーはいわゆる「ごはん」と言われるものばかりだ。
パーティー料理といえば大盛の唐揚げとフライドポテトやちらし寿司ぐらいのもので、それでもぼくらにとってはごちそうだった。
彼と一緒に過ごす夜は外で過ごすことがほとんどだ。
彼の住む場所が、大学の近くにあるぼくのアパートと全く正反対の、山沿いの静かなところだからだ。
ぼくのアルバイトが終わるまで彼は大学の研究室にこもって仕事をし、迎えに来てくれる。
そして近くの店で食事をするというパターンだ。
だから『クリスマスイブにデートしよう』と誘われた時にも、きっとどこかのレストランで食事するんだろうなぁと思っていた。
乙女チックだと思われようが、やっぱりイブは恋人と一緒に過ごしたいと考えていた。
雑誌で特集されるようなカップル御用達のホテルのレストランやお洒落なリストランテは少し気がひけるけれども、イブに男同士で利用しても違和感のないダイニングや居酒屋なんかでもいい。
アルバイトのシフトも顰蹙をかいながら外してもらい、12月に入ってからはそのことばかり考えていた。
『クリスマスはウチで過ごさない?』
想像していなかった誘い文句に、ぼくは躊躇わずに頷いた。
あまりに早い返事だったものだから、彼も少し驚いたようだった。
実は少し気になっていた。
彼の部屋に一度も呼ばれないことを。
アプローチ中は顔を合わせるたびに『ぼくの部屋においでよ』なんて軽口を叩いてきたくせに、いざ付き合い始めたら一言も言わなくなったのだ。
彼のテリトリーに入れてもらえないことはぼくの心に小さな影を落としていた。
会って食事をするだけで、身体の関係もまだない。
恋愛なんて多種多様だしマニュアルなんてないけれど、初心な年齢でもなくふたりとも大人なのだから、そういう関係になってもおかしくないだろう。
むしろ遅いほうだとぼくは思っていた。
彼は女子学生に人気があった。
少し長めの髪をざっくりとセットしていて、その加減が研究者ぽくて素敵だと誰かが言っていた。
毎日上等そうなスーツをスマートに着こなし、物腰は柔らかく、基本的にフェミニスト。
女性が憧れる大人の男性を体現したようだ。
噂では数年前に離婚したと聞いた。
おそらくは年齢相応の、もしかするとそれ以上の恋愛経験を持っているに違いないとぼくは思っていた。
ぼくにも経験がないわけではない。
初恋は叶わないものだと言うけれど、全くその通り、ぼくの初恋は決して叶うものではなかった。
それを悟ってからも、その人のことを忘れられなくて、寂しさを埋めてくれる人を探した。
女性よりも男性を、しかも歳の離れた大人の男性を求めたのは、初恋の彼の面影を追っていたのかもしれない。
初めてのセックスも20歳以上年上の男性だった。
その男性とはその手のバーで知り合い、結局2ヶ月ほど付き合った。
その後も数人の男性を相手にした。
見た目はおとなしそうに見られるけれども、それなりに経験は積んでいるのだ。
経験豊富な彼とそれなりに経験済みのぼく。
なのにいまだキスさえもまともにしていないのはどういうことだ?
そんな経緯から、ぼくは今日という日を、クリスマスの夜だということを加味しても、とても楽しみにしていたし、一歩進んだ関係になればいいなと期待してるのだ。








こんがりきつね色に焼けたローストチキンをよく切れるナイフで手際よく切り分けてゆく彼の手さばきに見惚れていると、彼が手を止めた。
「そんなにじっと見られていると緊張するじゃないか」
笑いながら彼は解体を再開する。
「すごく器用だなぁと思って」
「これは男の仕事だからね。小さいときは父親がこうやって家族に切り分けてゆくのを見ては憧れてたよ」
ぼくは彼の少し節くれ立った指先を見つめた。
「あなたの家ではクリスマスにはいつも?」
「父の仕事の関係で15歳までドイツに住んでいたからね。知ってる?ドイツではチキンを使わずにガチョウを使うんだよ」
はい、どうぞ、と目の前に置かれたお皿の上には、ジューシーなチキンと中に詰め込まれていた野菜が飾られていた。
「ドイツに?」
ガチョウではなくそこに食いつくのかと少し意外な表情を浮かべた彼は、ナイフを片すとナプキンで指先をぬぐった。
「うん。あれ?講義中に言ったことなかったっけ?」
ぼくはうなずいた。
ぼくは彼のことをあまり知らない。
講義中にはドイツでのエピソードを話したりもしていたけれど、それらは旅行中の出来事だと思い込んでいた。
一緒に過ごした時間は結構長いけれど、彼は自分のことを話すよりも、ぼくからいろんな情報を引き出すような巧みな会話で、いつもぼくをリードしたから。
「だからドイツに関する研究を?」
色気のない話題だなぁと思いながらも、ぼくは彼のことをいろいろ知りたかった。
「両親はドイツ語と日本語をそれぞれ使えるようにぼくを教育してくれたからね。通っていた日本人学校では主に日本語を、自宅で本を読むときはドイツ語の本を読むことにしていた。会話は・・・そうだなぁ・・・父親はドイツ語、母親は日本語を主に話していた。帰国して、普段ドイツ語を使う機会は減ったけれど、家ではやっぱりドイツ語が飛び交っていた。あまり苦労しないですむかななんて安易な考えで大学はドイツ語学科に進んだし、せっかくなら活かせる仕事をしようと今の職についたんだ。昔から読書は好きだったし、疑問に思ったことを探究するのも好きだった。会社勤めは考えなかったから。まぁ妥当な線だろう?」
なんだか上流階級の暮らしっぷりを垣間見た気がする。
彼から自然と醸し出されるオーラはそういうところから出ているんだなぁと思うと合点がいった。
ぼくはにこにこ笑顔の彼の視線に促されて、チキンを口に運んだ。
「あ、おいしい!」
丸焼きなんて口にしたことはないし、香草を使用しているとはいえ多少の生臭さは残っているんじゃないかと思っていたけれど、全くそんなことはなかった。
こんがり仕上がった表面の部分はパリパリ香ばしいし、肉の部分はジューシーだ。
「このパンにサラダと一緒に挟んで食べてごらん?マスタードとこのドレッシングを少しだけトッピングして」
言われたとおりにすると、彼はとても嬉しそうに笑う。
それが嬉しくてぼくも笑う。
和やかな雰囲気に押されてぼくは彼にいろいろ尋ねてみた。
ぼくの問いかけに彼は快く答えてくれる。
「やけに今日は饒舌だね」
「そ、そうかな?」
「ぼくに興味を持ってくれるのは嬉しいけどね」
知り合って3年半になるけれど、こんなに話したのは初めてというくらいたくさん話をした。
アルコールを摂っていないのに、楽しくてとてもいい気分。
ぼくも彼も本当に今日は笑ってばかりだ。
「あなたが料理が得意だとは聞いていたけれど、これほどとは思わなかった。もうお腹いっぱい」
普段はたくさん食べられないぼくも今日は食べ過ぎた。まだデザートのケーキが残っているのに。
ぼくの気持ちが伝わったのか、彼が席を立つ。
「そうだ。デザートの前に食器を片づけてしまおうか。手伝ってくれるかい?」
さりげなく気遣ってくれる優しさに胸が熱くなる。
カチャカチャと音を立てる食器と陽気な彼の鼻歌とのハーモニーが、傍らに立つぼくの耳を心地よく響き、ふたりで一緒にいることの意味を教えてくれる気がした。








その後彼はプライベートルームに招待してくれた。
広い洋室は天井が高く、天井まである壁一面の書架は古そうな洋書から流行書で埋まっていた。
少し大きめのライティングデスクにはこの部屋に似つかわしくないノートパソコンが置かれている。
「結構綺麗にしてるんですね」
「きみを招待するから一生懸命片付けたんだ」
大学の研究室のデスクの上には資料が山積みで、よく探し物をしているくせに。
「いまさらだと思うんですけど」
自慢げな彼にぼくが突っ込むと、彼は少し悲しそうな表情を浮かべる。
この人のこういうところにぼくは弱いんだよね・・・・・・
「少し本を見てもいいですか?」
話題を変えようとぼくは書架に目を走らせた。
よく見ると、厚さの様々な色とりどりの背表紙が結構乱雑に並んでいる。
急仕上げの整頓を感じる書架は、先ほどの彼の言葉を裏付けている。
あたふたと部屋を掃除している彼の姿を想像すると、ぼくはフフッと小さく笑った。
少し大きめの洋書ばかりが集められている棚から何気に目に付いた1冊を引き出すと、それは絵本のようだった。
「あれ・・・これって・・・・・・」
ぼくはつぶやくと彼が傍にやってきて手元を覗き込む。
「あぁ、こんなところにまぎれていたのか」
彼はぼくの手からするりと本を奪うと、大きなフランス窓のそばに置かれているソファに腰かける。
テーブルの上には先ほど手を付けなかったケーキとティーセットが用意されていた。
「あなたって本当に手際がいいんですね」
ぼくがクスリと笑うと、彼は大真面目な顔で「きみのそういう笑顔が見たいからね」と答える。
気障な言葉も彼の言葉だと思うと心臓が高鳴るぼくは、相当彼に参っているらしい。
「あなたの本ですか?」
ぼくは彼の隣りの腰を下ろして、今度は彼の手にある絵本を覗き込んだ。
「ぼくが初めて出版した本だ。12年前・・・だったかな?」
彼は懐かしそうにパラパラと絵本をめくってみる。
「どこに行ってしまったんだろうと思ってたんだよ。まさか洋書の中に挟まっていたとはね」
その本を見つけたのはぼくの身長からしても結構低い段だったから、ぼくよりかなり身長のある彼には目のつかない死角だったのかもしれない。
「あなたが訳を?」
「ぼくのところに話がきたのもほんの偶然だった。だけどぼくはこの原作がとても気に入ってね。出版社の方もぼくの訳を気に入ってくれたんだ」
そう言うと彼は優しい眼差しを絵本に向けた。
さっきはすぐに取り上げられたし、内容まではわからなかったけれど、とても印象的な絵だった。
引き込まれるような深い蒼色の空と、目にまぶしい位の黄色の地面。その境目に立つピンク色のスカートを履いた女の子。
女の子の周りに小さな白い鳥が飛んでいて、それがバックの蒼と絶妙のコントラストになっていた。
センスのいいイラストの絵本は子どもだけでなく大人にも愛される。
内容は全くわからないけれど、この絵本を書いた作家はとても素敵なセンスの持ち主のように思えた。
「どんなストーリーなんですか?」
身を寄せてさらに覗きこもうとすると、彼は絵本を閉じてしまった。
彼の性格からするともっといろいろ語ってくれそうなのにどうしてだろう。
なぜだか少し不安になって顔を上げると、瞳に見たことのない色が浮かんでいた。
何かを懐かしんでいるような、それでいて淋しげな・・・
「どうしたんですか?」
彼の大きな手に手を重ねる。
歳の差の分だけぼくよりたくさんのことを知っているこの手がぼくは好きだ。
片思いが苦しくて、だけどその苦しい気持ちをぶつける場所がなくて、何度となく彼に当たったことがある。
そのたびにこの優しい人は、ぼくのどうしようもない思いを受け止めてくれた。
この大きな手で優しく包み込んでくれた。
だから今度はぼくが彼を癒してあげたい。
いつも強く願っていることだ。
「・・・なんでもないよ」
いつものように彼はニコリと笑った。
その笑顔にぼくの小さな不安がスーッと引いてゆく。
「きみの、そういうところ、ぼくはすごく好きだよ」
彼はぼくの手を恭しく握ると、指先に小さなキスをした。
こういうことをスマートにやってのけるのには恐れ入る。
もちろん嫌な気分ではなく、とても大切にされているんだなぁと嬉しい気持ちになるが、物足りないのも事実で。
ぼくは彼の首にギュッとしがみついた。
「おいおい、どうしたんだい、突然」
ソファに背をあずけた彼はぼくの重みを丸ごと受け止めると、背中をあやすようにポンポンとたたく。
ぼくは無言で彼の首筋に鼻先をすりつけた。
まだ馴染みの薄い彼のにおい。
煙草とも酒とも無縁の彼からはうっすら柑橘系の香りがした。
「ね、しようよ」
ぼくもそれなりの経験を積んでいて初心ではないから、自分から誘うことに躊躇いはなかった。
それよりも、彼と抱き合いたいという欲求が強くて、そんなことを考えるヒマがなかったというべきか。
彼は返事をしない。
黙り込んでしまった彼の口から零れたのは、微かな・・・ため息・・・?
もしかして引かれた・・・・・・?
突然猛烈な後悔に襲われる。
考えてみろ。
彼がぼくとキス以上の関係を持たないことにはおそらく理由があるはずだ。
ぼくは好きな人とは抱き合いたいという欲求をもっているけれども、彼はそうではないのかもしれない。
友人にもセックスレスで交際しているカップルがいる。
心さえ通じあっていれば満足なんだと語る彼らの気持ちがぼくには理解できなかったけれども。
だけどもしかすると彼もそういう類の人間なのかもしれない。
いや、それよりもぼくたちには同性だという壁がある。
まさか同性とのセックスには抵抗があるとか・・・・・・?
思い起こせば彼から性的な求愛を受けたことはなかった。
恋人同士になる前もなってからも。
啄ばむようなキスを時折交わすだけ。
まるで親子のようだ・・・・・・
ぼくは恐くなって、彼から身体を離そうとした。
この20歳も年上の、親子ほど歳の離れている大人の男に恋するあまり、衝動を抑えられなくなった自分が恐くなった。
求めすぎて嫌われたくない。
嫌われるくらいなら今以上のものを求めない。
「ごめんなさい、じ、冗談だから」
震えそうな声を一生懸命抑えて平静を装おうとするのに、無言の彼はぼくを抱きしめたまま離さない。
「ごめ、なさい、離して―――」
身をよじるぼくの言葉を飲み込んだのは、彼の荒々しいくちづけだった。
「ンッ・・・・・・・」
舌先でくちびるを突かれ、自然に彼を口内に招き入れる。
かみつかれ、かきまわされて、本能のままに舌を絡ませた。
粘膜の接触は生々しいけれど、むき出しの感情がぶつかるようで興奮する。
くちびるを離して気付いたのは、至近距離にある彼の熱い眼差し。
その中に獰猛な雄を感じて身体が震えた。
「まさか君から誘われるとはね」
唾液で濡れたくちびるを彼の指先が辿る。
「だってそうでもしないとあなたは何もしないでしょう?」
「ぼくはね、本当に大切なものはあせらずじっくり堪能したいタイプなんだ」
余裕たっぷりな態度が癪に障る。
「だからって、キスしかしないなんて・・・いい大人なんだからおかしな風に考えたって仕方ないでしょう?」
あくまで冷静さを保つ彼の前ではぼくはまだまだ子供だ。
22歳でそれなりに経験を積んで、恋愛においては彼とは対等でいたつもりだったけれど。
「・・・一瞬引かれたかと思って焦りました・・・」
ぼくの気持ちなんてまるでわかっていないと、恨みがましい口調なってしまう。
「そういう子供っぽいところも魅力的だ」
よいしょと彼はぼくを抱き上げる。
「よいしょって・・・腰痛めますよ?」
「これからもっと腰を使うことをするんだろう?」
耳元で囁かれて身体が震えた。
これから始まる行為を身体が勝手に期待する。
「意外と俗物的なんですね。それってエロオヤジ発言ですよ?」
「好きな人の前では気取ってなんかいられないよ。きみにみっともなくがっつく姿を見られたくないから、紳士的に振舞ってただけさ。でも今日で終わり。言っただろ?『デザートは後で』って」
「デザートってぼくのことですか?ほんとあなたって・・・案外普通の男なんですね」
「そうだよ。20歳も年下の同性に惚れたただの男だよ」
がっついてくれればよかったのに。
年上の男って本当に面倒だ。
プライドや経験が本能的衝動の邪魔をする。
だけど、余裕のない、ただ気持ちのままに行動する若々しさを売りにしているような同年代あるいは年下の男は苦手だし相手にしたくもない。
やっぱりぼくは、いつだって余裕を持っていて冷静で、だけど時折見せる可愛らしさや焦り顔にときめいてしまう。
今だってこの男が可愛くて仕方がないのだ。
彼はぼくを大きなベッドに下ろした。
高い天井をバックに見る彼は、見たこともないほど欲情を滾らせていた。
「焦らした分頑張ってもらいますよ?たぶん1回じゃ満足できない」
「・・・善処しよう」
待ちに待った男の重みを感じて、ぼくは彼を抱きしめた。
照明が落とされた部屋の隅で、クリスマスツリーのライトがチカチカと輝いていた。









〜Fin〜





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