月影  








遅いな・・・・・・




マンションのエントランス横の植え込みの影に蹲って、真幸(まゆき)は空を見上げた。
冷たい冬の夜風にピュッと頬を突き刺され、ブルリと身を振るわせる。
時計の針は11時を示していて、春から大学生になりひとり暮らしを始める年齢の男に門限はないとはいえ、そろそろ帰らないとヤバイ時間だった。
膝の上には小さな紙袋。中には1年前と同じ店のチョコレート。違うのは綺麗にラッピングされたキーケースが一緒に入っていることだ。
推薦で大学への進学を決めていた真幸が一生懸命バイトして購入した、瑛司御用達のブランドのキーケース。

バイト代が一瞬にして消えてしまうほどの値段に驚いたけれど、瑛司が喜んでくれるならと思えばどうってことはなかった。





***       ***       ***





今日はバレンタインデー。
真幸が瑛司に想いを告げてから丸1年が経った。
秘めた想いを持て余してどうしようもなくて、ただ行き場のない恋心があまりに憐れで自己満足のためだけに買ったチョコレートを瑛司が受け取ってくれたときは、嬉しいというよりも驚きが先に立ち、しばらく放心状態になってしまった。
それから1年。真幸なりにうまくやってきたと思う。
運悪く、付き合い初めてすぐ入試を控えた3年生になり、学校での補講や予備校に忙しくて毎日会うことはできなかったけれど、社会人である大人の瑛司との付き合いは、真幸にキスもセックスも教えてくれた。





瑛司と迎える2度目のバレンタインデー。
思い切って恋心を告白する日だけれど、カップルにだってバレンタインデーは大切な日だ。
愛する人に想いを伝えたいという気持ちは、片思いでも両思いでも同じなのだから。
だから、真幸は瑛司への愛する気持ちと感謝の気持ちを込めて、プレゼントを買うために慣れないバイトにせっせと精を出したのだ。
そのためにこの1ヶ月はメールでしかコンタクトがとれないでいたのだが、それもこの日のためだと言い聞かせて我慢した。
くしくも瑛司の方も予算の作成などで忙しいらしく、ちょうどよかったと安心もしていた。
しかし、きっちり1ヶ月のバイト代で目当ての品をゲットし、意気揚々と連絡を取ってみたら、しばらくは忙しくて会えないという返事が返ってきたのだ。
一流商社に勤める社会人の瑛司と、進路も決まりのんびり春を待つだけの高校生の真幸。
立場の違いは仕方のないことで、こういうときに我慢するのは自分の方だと真幸も心得ている。
だから、瑛司から連絡があるまでは邪魔しないでおこうと決めたのだ。
だけどやっぱり今日だけはいてもたってもいられなくて。
男のくせにアニヴァーサリーがどうとかこうとか言う気はないけれど、やっぱり特別な日は一目でも会いたいから。
こうやって瑛司の帰りを待っているのだ。





それにしても遅すぎる。
飲みにでも行っているのだろうかと思ったが、仕事の忙しい中、週始めから無理をするような性格ではない。
やっぱり残業なのだろう。
真幸の父親もここのところ残業続きで帰りが遅いから、きっと世間のどの企業でも繁忙期なのだろう。





ちゃんと食事はしているのだろうか。
ちゃんと身体を休めて眠っているのだろうか。





瑛司のことを想うだけで胸が熱くなる。
そういえば、クリスマスもお正月もゆっくり楽しむことができなかった。
クリスマスは瑛司の都合で時間が取れず、まるで義務のように身体を繋げただけだったし、お正月は瑛司が田舎に帰省していた。
そのまま今度は真幸がバイトをすることになり・・・・・・
一体いつから瑛司との時間を楽しんでいないのだろうと考えて、真幸はブルンと首を振った。
やっぱり今日は会いたい。会って顔を見たい。





少しでも部屋に上げてくれるだろうか・・・・・・
早く会いたいな・・・・・・





瑛司のぬくもりを思い出し、ギュッと自分の身体を抱きしめたとき、車の止まる音と同時に、バタンとドアの閉まる音が聞こえた。





タクシー?瑛司だろうか・・・?





立ち上がり、植え込みの向こうを窺えば、そこには愛しい人の姿。






「えい・・・・・・」





呼びなれた名前が喉の奥で燻り、真幸はそのまま飲み込んだ。
反射的に植え込みに身を隠したのはどうしてなのか、真幸にもわからなかった。





瑛司はひとりではなかった。
真っ白なコートを上品に着こなした女性の肩を抱き、寄り添って歩くふたりはどこからどう見ても仲睦まじい恋人同士にしか見えなかった。
残業の疲れどころか、とても楽しそうな瑛司の笑顔。
そしてその瑛司に大事そうに守られるように肩を抱かれている女性は・・・・・・





「さ、寒いだろ。早く入ろう、ユキ」





カツカツと響くヒールの音がエントランスに消えてゆく。
冷えた空気に身も心も包まれて、真幸の中のすべてが崩壊していった。





***       ***       ***





真っ黒な水面に映っているのは月影だけ。
どうやってここまで来たのかも覚えていない。
真幸は暗闇に揺れる白い照り返しを見つめていた。
何をひとりで浮かれていたのだろう。

何度も何度もあのバレンタインデーの日を思い返していたはずなのに。
ちょうど1年前のあの日から。
真幸の想いを瑛司が受け入れてくれたあの日から、こんな日がくるのはわかっていたはずなのに。





瑛司は言ったのだ。
『きみの気持ちが嬉しいのは事実だが、きみの想いに応えられるかわからない』と。





それでもいいと言ったのは真幸自身だ。
同性の自分の恋心を気持ち悪いとつっかえさず、嬉しいと思ってくれたことは奇蹟だった。
今その瞬間、真幸のことを少しでも受け入れようとしてくれるのなら、先のことなんてどうでもよかった。
一緒の時間を過ごすようになって、真幸はますます瑛司が好きになったし、少なからず瑛司も真幸に気持ちを傾けてくれていると思っていた。
だからこそ、キスもしたし、セックスもした。
初めて抱かれた時、真幸は確かに瑛司に愛されていると感じたし、瑛司も真幸に優しく触れてくれた。
『ユキ・・・』と真幸を呼ぶ瑛司の声は、何故だか甘く切なく、呼ばれるたびに瑛司を愛しく思い、真幸は瑛司を抱きしめたものだ。





気付いてしまったのはいつのことだったろうか。
瑛司が真幸を通して、違う誰かを見ていることに。
『ユキ』というのが真幸のことではなく、知らない誰かのことだということに。






それでも真幸は気付かないフリをした。
変わりでもよかったから。
その人よりも自分のほうが瑛司に近い場所にいるんだと言い聞かせて。
瑛司が自分の中に違う誰かを見ていても、実際に抱かれているのは真幸なのだから。
好きになった人に抱かれるなんて一生無理だと諦めていたのに、手に入れた幸運をそうやすやすと手放す気もなかった。





何よりも・・・・・・瑛司が好きだったから。





そのぬくもりを失くしなくなかったから。





瑛司に優しく肩を抱かれていた彼女は、悲しいかな真幸に似ていた。
かわいいと言ってくれた黒目がちの大きな瞳も、すべすべして気持ちがいいと言ってくれた柔らかな頬も、真幸の持っているもの全てを、雪の様に真っ白なコートの似合う女性は持っているのだ。
彼女の持っている柔らかな身体や、無理なく受け入れることができる器官を、真幸は持っていないというのに。





勝ち目なんてあるはずがなかった。
同じ土俵にさえ上がることもできないのだから。
微かに聞こえた彼女を『ユキ』と呼ぶ瑛司の声音は、真幸の知っているものよりも穏やかで優しく、幸せに満ち溢れていた。
真幸が感じていた切なさなんてこれっぽっちも含んではいなかった。





瑛司はホンモノの『ユキ』を手に入れたのだ。
どういう経緯があったのか、それはふたりの問題であって真幸の知るところではない。
納得して付き合っていたのは真幸なのだから。





なんて自分勝手で高慢なんだろう。
勝手に恋をして、勝手に傷ついて、勝手に・・・・・・





きっと今ごろ、ふたりは楽しい時間を過ごしているのだろう。
瑛司の持っていた紙袋は、真幸がキーケースを買った店と同じものだった。
ただ、あちらの方が真幸のものよりも・・・大きかった。
握りしめていた袋を、真幸は冬空に放り投げた。
月影がゆらゆらと揺れたと同時に、ポチャンという間抜けな音が冷たい空気を伝わり、真幸の耳に届いた。



おしまい






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