beloved




広すぎるマンションでひとり暮らし始めてかれこれ8年。
学生時代、レポートを仕上げるのに必死だった夜も、飲み会で立つのも儘ならないほど酔っ払った夜も、教師となり教材準備やテストの採点に追われた夜も、おれはひとりで過ごしてきたし、それでも平気だった。
オンナに押しかけられたことも少なくないし、露骨な誘いをかけられたこともしばしばだったが、おれはここでオンナを抱いたこともなければ、オトコのダチでさえ泊めたこともない。
ここは、おれと叔父だけの空間だった。
誰にも侵されたくない、いちばん安らげる、唯一無二の場所だった。
そんな、おれのかけがえのないこの場所に、今日彼が越してくる。
待ち遠しくてそわそわする心を静めるために、おそらくこの広いリビングで味わうであろう最後の一本に火をつけた。
大きく息を吐き出すと、ゆらゆらと燻る紫煙が空気を汚してゆくのをぼんやり眺めた。




『大学に受かったら、ここに住まないか?』




卒業式の夜、おれはずっと心に抱いていた想いを彼に打ち明けた。
彼と出会い、彼を好きになり、そして告白し、半ばごり押しに始まった付き合いだった。
一緒にいる時間が多くなればなるほど、彼に対する愛しさは募り、そして彼もおれの気持ちを享受し愛してくれるようになった。
おれが守り続けていたこの心地よい空間に、彼は自然と入り込み、そして溶け込んでいった。
帰したくない・・・そんな欲求を抱いては心の奥底に押しやる毎日を過ごし、定時になると彼が後にしたこの場所は、なんとも淋しく味気なく、あんなに好きだった静寂な空気でさえも、おれの心を癒すどころか落ち着かなくさせた。
教師という立場にいながらも生徒に告白した時点で、この恋愛を大っぴらにできないことは理解していた。ましてや同性同士の恋愛だ。世間に迷惑をかけているとは思わないが、理解してもらえるとも思っていない。
この小さな街では些細なことでも噂になりかねないと、会うのは万全のセキュリティを擁するこのマンションで、制約された付き合いに文句のひとつも言わない彼があまりに愛しくて、何度か一緒に朝を迎えたこともある。
それでも彼は、最後は自分の家へと帰ってゆき、おれはそれを笑顔で送り出すしかなかった。
早くに父親を亡くした彼は、ことのほか家族を大事にしている。
おれには何の意味も持たない、ただ忌々しいだけの家族という存在を、彼がかけがえのないものだというのなら、おれはその想いを大切にしてやりたいし、その思いが永遠に続くように協力してやりたい。
だから、おれは彼が家族のもとへ帰ってゆくのを引き止めることが出来なかった。



『高校を卒業したら家を出て下宿しようかな』



彼が冗談ぽくそう言ったとき、おれは驚きのあまり声を失った。だったらここに住めばいいと、考える間もなく結論は出た。
しかし、おれがその想いを言葉にしたのは卒業式の後。
ずっと迷っていた。彼はそれ以後一人暮らしについては口に出さなかったし、あれはやはり冗談だったのかと、そして彼が家族と別れて暮らすことなんてありえない話を鵜呑みにして、もし拒否されたら、何言ってんのと笑って誤魔化されたらと、それでも一緒に暮らしたい想いばかりが膨れ上がり、ひとり悶々とした日々を過ごした。
結局、最悪の結果を想像しながらも同じ時間を過ごすという甘い誘惑に負けて、それなら教師と生徒という関係が終わるその時に告げようと、ずっと待ち続けた。



『おれもうれしい』




そう答えてくれた彼を抱きしめたとき、おれの心は何ともいえない幸福感に支配された。
伝わる彼のぬくもりは、8年間忘れていた感情を呼び覚まし、おれを優しく包んでくれた。
おれの迷いはなんだったのかと呆れるくらいにとんとん拍子に話は進み、そして今日を迎えた。
伯父と暮らしていた時におれが使っていた、ずっと物置状態になっていた部屋を、8年の一人暮らしにピリオドを打つためにピカピカに磨き上げる時間は、とてつもなく充実した時間だった。
おれのためにと伯父が買ってくれたライティングデスクの埃を払いながら、柄にもなく鼻歌まじりに雑巾掛けする自分を認めたとき、あまりの浮かれように呆れ果ててしまったほどだ。
何も持ってくるなと彼には告げてあるから、おそらく彼は身の回りのものしか持ってこないだろう。
ふたりで始める新しい生活は、それなりに新鮮な気持ちで始めたい。
自分自身、何に対してもこだわりのない、冷めた性格だと思っていた。
けれど今、おさえられないほど高鳴る気持ちを抱え、インターホンが鳴るのを心待ちにしている自分がいる。
おれって、つくされれるより、つくすタイプなのかもしれないな・・・・・・
短くなった煙草を灰皿に押し付けると、タイミングよくインターホンが鳴り響いた。
ニヤケそうな顔にパンパンと気合いを入れ、いつもの澄ました顔に戻すと、おれはあえてゆっくり玄関へと向かった。

 

                                                                       









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