「え〜っと、じゃあこの問題を前に出て解いてもらおうか」
そう言った瞬間、いくつもの視線がおれから逸らされたのを感じ、内心でクスリと笑う。
近県内では名の知れたお坊ちゃま学校であり、大半の生徒が内部進学するこの学校は、授業妨害するような品のない生徒はいないかわりに、全体的にのんびりムードが漂っている。
内部進学にもボーダーラインがあるから、授業にもそれなりに集中し、教師の言葉も静かに聞くが、如何せん真剣さと積極性が足りない。
国立進学コースのこの時間も然り。
2学年からコースわけされるのだが、全員が全員国立大学への進学を希望しているわけではない。
1学年時の成績上位者に対して、他生徒よりも若干レベルの高い授業を行なうためのコースであり、真剣に国立大学への進学を希望しているものは若干名に過ぎない。





まぁ、おれも、平穏無事に自分の授業が終わればそれで満足だし、そんなもの求めちゃいないんだけどな・・・・・・





けれど、ここまであからさまだと苦笑せざるを得ない。
見渡せば、机に肘を突いて俯いている生徒、窓の外をボーっと眺めている生徒など、誰一人としておれと視線を合わせようとしない中、廊下側の席で、ノートに鉛筆を走らせている生徒に目が止まる。
少し長めの漆黒の髪に隠れてはいるが、数式と格闘している瞳は真剣そのものに違いない。
入学当初からそうだった。
中学から内部進学してきた新入生は、高校生活に期待するでもなく、敷かれたレールに乗って入学してきた、そんな印象を受ける。
それは毎年のことであって、卒業生であるおれ自身もおそらくそうであったのだろうと思う。
そんな中で、彼―――成瀬は異質の存在だった。
誰と馴れ合うでもなく、年齢よりも少しばかり大人っぽい雰囲気を漂わせている彼は、何よりも優秀で真面目な生徒だった。
高校生活をエンジョイしている生徒の中で、ある意味浮いた存在だったのだ。
たとえ浮いた存在だとしても、クラス内に問題を持ち込まないのなら別に構わないと、冷めた感情しか抱いてなかったのに、クラス担任として成瀬のことを理解していくうちに、どんどん惹かれていった。
白いカッターシャツから伸びる腕に、しばし目を奪われる。
あの腕が意外と細くてしなやかだと知ったのは、つい最近のことだ。
ずっと胸にしまいこんでいた、叶うはずのなかった想いを成瀬にぶつけ、受け入れてもらえたのは奇蹟に近い。
いや、少々強引だったのとは認めざるを得ないが・・・・・・
鬱陶しい月曜の1時間目。
昨年度までは板書するのも面倒で、生徒のブーイングを承知で小テストと称してのプリント授業にしていた。
しかし、今年に入ってからはかなり気合いが入っている。
もちろん成瀬のクラスの授業だからという邪な理由からなのだが。
視線を感じたのか、ふと顔を上げた成瀬と視線が合う。
その双眸になんとも言えない綻んだ眼差しを垣間見て、おれもつられて頬を緩めかけた刹那、すぐに成瀬は目を背けてしまった。
そんな成瀬の態度に、おれは落胆するでもなく、反対に可愛いと思ってしまう。
廊下ですれ違っても、学食でばったり出くわしても、成瀬のほうはいつだって知らん振りだ。
ある意味不自然なくらいの勢いで無視を決め込むのだ。





ほんっとにあいつは・・・・・・
おそらくは照れているのだろう。





それを証拠に、いつでもおれを無視した後は頬を赤らめているのだから。
そしておれが気にするでもなくスルーすると、背中に縋るような視線を感じたりするのだから。





ふたりでいるときには結構甘えてきたりするくせに・・・・・・





そう思えば思うほど可愛くてつい意地悪をしたくなってしまう。
おれは何事もなかったかのようにもう一度ぐるりと教室を見渡した。
「じゃあ・・・笹島、これやってみて?」
おれは、学内でも可愛らしい顔つきで人気のある生徒を指名した。
実は彼からバレンタインデーにチョコレートをもらったことがある。もちろん丁重に断ってやったのだが。
「は、はい!」
おれに指名されたことに嬉しさを隠しきれないらしく、満面の笑みで教壇へとやってきて、おれの隣りで黒板に向かう。
黒板に書いた数式は、かなり難解な問題だ。
少し頭を捻れば驚くほどにスラスラと解けるのだが。
この生徒も数学は学内でも5番以内の成績を保っているためか、意気揚々とここまでやってきたものの、カツカツとチョークで黒板を鳴らしてはキュキュッと消している。
「どうした?笹島」
「えっ、あ、どうしても途中で行き詰まってしまって・・・・・」
背中に感じる刺すような視線の主は、確かめるまでもなくあいつだろう。
おれと笹島の会話が気になるのだろうか。
妬いてくれたら・・・嬉しいぞ?
ニヤけてしまいそうな表情を抑えて、おれはますます意地悪くなってしまう。
「どの辺から・・・?」
そう言ってさりげなく背中に手をやれば、笹島は真っ赤になって俯いてしまった。
そのまま肩越しにチラリと後ろを見やれば、すごい形相で成瀬が睨んでいた。
「まぁ、これはかなり難解だからな。ここまで解けたら、うん、上出来だ」
ポン、と頭に手のひらを乗せて、席に戻るように促すと、笹島は小さく頭を下げて戻っていった。
痛いくらいの視線に成瀬の方を見やれば、予想通りプイッとそっぽと向かれた。





ちょっとやりすぎたかな・・・・・・





机に肘を付いて、廊下側を向いてしまった成瀬は、チャイムが鳴るまでおれの方を見ようとはしなかった。













さすがに後味が悪くて、二ノ宮を使って成瀬を呼び出してみたものの、放課後になっても現れなかった。
週に一度の教科会議も司会だったことを利用して早い目に切り上げ、成瀬のバイト先まで車を飛ばしてきた。
少し離れた場所で待つこと30分。
弁当屋の細い路地から出てきた成瀬を見つけて、おれは車を飛び出した。
「成瀬っ」
呼び止めた声は聞こえたはずなのに、おれの姿を確かめると早足で通り過ぎようとする。
「ち、ちょっと待てって!」
慌てて腕を掴めば、それを振りほどこうと成瀬は大きく腕を振り上げた。
「なに?」
「何って・・・迎えにきたんだが」
「別に頼んでないから」
視線を合わさず俯いたまま、抑揚のない声でそれだけ言うと、駅へと歩き出してしまう。
「いいから乗れって!」
おれは再度強引に腕を掴むと、引きずるように止めてあった車まで連れて行き、助手席に押し込んだ。
「ほら、シートベルト」
座ったまま動こうとしない成瀬の代わりにシートベルトを引き出そうと覆いかぶされば、ビクリと身を引かれてしまった。
それに気付かなかったふりをして、車を発進させる。
「成瀬、あのな―――」
「運転に集中しろ」
「運転してても話くらい―――」
「いいから!前見ろって!」
聞く耳を持たないというのか、あまりの勢いに圧されて、おれは黙り込んだ。
カーステも付いてない車内は、息づかいが聞こえそうなほど静かだ。
数十分でいつも成瀬と別れる公園に着いた。
いつもの場所に車を停めるとサイドブレーキを引いた。
「今日は・・・悪かったな」
とにかく謝ってしまえと開口一番謝罪の言葉を口にする。
「何が・・・?」
「何がって」
「アンタに謝られるようなこと、何もないから」
それだけ言うとドアに手を伸ばしたから、おれは慌ててロックをかけた。
「何すんだよ!」
「まだ話は終わってない」
「おれは別にアンタと特別話すことなんてない」
ドアロックを解除しようとした手に手を重ねて阻止すれば、必然的に身体が密着する。
至近距離で見上げた成瀬の表情は歪んでいて、怒った投げやりの口調とは裏腹に弱々しい色を含んでいた。
ほんの冗談のつもりだったのだ。学校では無関心を装う成瀬を可愛いと思いこそすれ、腹立たしく思ったことなど一度もない。
傷つけるつもりなどは断じてなかったのだ。
ちょっとしたイジワル心、ヤキモチなんて妬いてくれたいいなぁなんて軽い気持ちだった。
まさか、成瀬がこんな態度に出るなんて思ってもみなかった。
「成瀬」
読んでみても返事をせず、視線は斜め下に落ちたまま。
おれは重なったままの手をそっと掴むと、そのまま自分のくちびるまで持っていき、指先に口付けた。
驚いた成瀬が顔を上げれば、やっと視線が絡まった。
「成瀬」
もう一度呼んで、視線を捕らえたまま顔を近づけた。
そっとくちびるを重ねて、頬を擦りあわすように抱きしめる。
成瀬は逃げもしなければ抵抗もしなかった。
素直におとなしくおれのキスを受けてくれた。
「アンタ、おれのこと好きなんだろ?」
躊躇いを含んだ弱々しい声は成瀬らしくなく、おれの胸がキュッと痛んだ。
「今さらそんなこと聞くか・・・?」
指先で優しく髪を撫でながら、ありったけの愛情を込めて、おれは成瀬の耳元で囁いた。
「だったら・・・他のヤツに優しくすんな」
そう言って成瀬は背中に回していた手でおれの背中を、パシンとひとつ打った。





『ムカツクんだよ!』





付けたしのように囁かれた言葉は消え入りそうな小さな声だったけれども、おれの耳にはしっかりと届いた。
ってことは、おれっておれが思ってる以上に惚れられてるってことなのか・・・?
おれから始めた恋愛だから、成瀬がいくら承知してくれたからといって、成瀬の気持ちまで手中に収めたという自信なんてない。
たくさんの経験をしてきたからこそ、、流されて受け入れてしまうことがあることも知っている。
人の気持ちが変わってゆくことも。
だけどこの瞬間、成瀬はおれの気持ちを受け入れ、こうして身を委ねてくれている。
もっと自信を持っていいのかもしれない。
薄いシャツ越しの温もりを感じ、腕の中の大切な人の存在を確かめ、おれは幸せでいっぱいになった。
「こんな風に抱きしめたいと思うのは成瀬だけだよ。おれはおまえのものだから」
真っ赤になった成瀬を愛しく思いながら、おれはもう一度くちびるを重ねた。
しっとりと長く、愛というエッセンスを注ぎ込むように。