|
目次へ
【ハンセン病 癩 らい lepra】(ネットで百科の「世界大百科事典」より)
(注意:この項は少なくとも2001.03.06以後更新されていません。内容が古いことをご承知おきください)
癩菌による慢性伝染病。 レプラまたはハンセン病Hansen's disease ともいう。
日本では以前〈かったい〉〈なりんぼ〉などという俗称も使われていた。
癩菌は抗酸菌の 1 種で,1874 年ノルウェーのA.G.H.ハンセンによって発見された。
幅 0.2 ~ 0.4μm,長さ 2 ~ 7μmの杆菌で,抗酸菌染色により赤く染まる。
酸やアルカリに対して抵抗が強い。菌が多数集まって癩球と呼ばれる塊となる傾向がある点が,
同じ抗酸菌である結核菌との形態的差異として重要である。
分裂速度が遅く,世代時間は 10 ~ 31 日と考えられている。
培養はまだ不可能であるが,動物接種はマウスやラットの足底で成功したのに引きつづき,
最近アルマジロ,ヌードマウスなどにも接種できるようになった。
癩菌は皮膚の小さい傷から侵入し,皮膚の中の神経を通って人体内で徐々に増殖するため,
潜伏期は 3 年から 10 年以上に及ぶものと考えられている。
[癩の疫学]
感染源としては皮膚病変分泌物や鼻汁が主であるが,感染は起こりにくい。
非衛生的な環境が発病を促進する。性別では男女比 2 ~ 3 対 1 で男に多い。
中世ヨーロッパで広く流行がみられたが, 19 世紀に入って激減し,
現在は中央アフリカ,インド,東南アジア,南アメリカなどを中心に,
世界中で約 1000 万人の患者がいると推定されている。
日本では九州,沖縄地方に多く約 9000 人に達するが,多くは高齢者であって,減少しつつある。
[症状]
主として皮膚と末梢神経が侵される。皮膚では斑紋や結節,紅斑などがみられ,
知覚麻痺を伴い,大耳介神経,尺骨神経,橈骨 (とうこつ)神経,腓骨神経などが
紡錘形や数珠状に肥厚する。類結核型,癩腫型,両者の中間に当たる境界群,
初期の未定型群と四つに分けられる。未定型群では軽い知覚異常を伴った淡い紅斑
または不完全白斑を生ずる。類結核型では紅色の斑紋を生じ,知覚麻痺がはっきりしている。
斑紋には癩菌はほとんど見当たらず,マクロファージが増殖して結核性肉芽組織に似た組織像を呈する。
末梢神経の肥厚や手や足の変形が起こりやすい。神経麻痺のために栄養障害を生じ,
手では母指球,小指球の筋肉が萎縮し,猿手や鷲手などの形をとるほか,
進行すれば指先が落ちることもある。足底には治りにくい潰瘍 (足穿孔 (せんこう)症) を生じる。
癩腫型は半球状をした大小の結節を全身各所に多数生じるもので,
多量の癩菌を含んでいるため感染源として注意が必要である。
真皮の中に菌の充満したマクロファージが集合している。
これは空泡様に変性して泡沫細胞とも形容される。肝臓,睾丸,リンパ節,骨なども侵され,
喉頭,気管が侵されると声がかれる。眼では角膜潰瘍や虹彩炎から失明にいたる。
癩腫型の患者に化学療法剤を用いると癩性結節性紅斑,俗にいう〈熱こぶ〉を起こす。
[診断]
皮膚症状,神経症状を詳しく検査したうえで,病巣や鼻粘膜から癩菌の塗抹標本を作る。
病型の決定に重要なレプロミン反応 (光田反応) は,癩結節をすりつぶして滅菌した液
(レプロミン) を皮内に注射し, 3 週後に硬結をつくれば陽性と判定する。正常の成人,
類結核型患者では陽性,正常の乳幼児,癩腫型や境界群の患者では陰性を呈する。
[治療]
ジアミノジフェニルスルフォンなどのスルフォン剤の内服がよく効き,初期ならば完全に治癒する。
リファンピシンも有効であり,どちらも長年継続する必要がある。癩性結節性紅斑には
ランプレン (商品名) が用いられるほかサリドマイドもよいといわれる。
顔面や手足の変形は手術やリハビリテーションによってかなり回復できる。
治療は日本に十数ヵ所ある癩療養所でおもに行われている。
[予防]
従来は隔離が唯一の予防法であったが,現在では患者に接触して感染の可能性のある人に対して,
BCG 接種やスルフォン剤の予防的内服が用いられる。
肥田野 信
[疾病史]
癩はこの世で最も不幸な病気といわれ,また人間が認識した最初の病気であるともいわれる。
すでに前 2400 年ころのエジプトのパピルス文書に癩は記録されており,
ペルシアでは前 6 世紀に知られ,インドでは医書《チャラカ・サンヒター》や《スシュルタ・サンヒター》に,
中国では《論語》などに記述されている。また後 1 ~ 2 世紀のギリシア,ローマの医師たちによっても記録された。
癩はもともと熱帯地方の疫病で,西ヨーロッパには中世初期になって侵入した。
その後おそらく十字軍による大移動によって流行状態がつくられたと考えられ,
とくに貧民層に蔓延 (まんえん)し,13 世紀にその頂点に達した。
当時癩に対して医学はまったく無力であったので,この病気を防ぐ唯一の手段は
社会的規制によるほかなかった。このとき,キリスト教会は癩者を社会的に
排除されるべき者とみなしたが,それは旧約聖書《レビ記》13 ~ 14 章に,
すでに癩者を〈汚れた者〉とし,社会から追放する律法が定められていたからである。
中世のヨーロッパの都市においては,癩に罹患した者は当局に届け出たうえ,
厳重に審査され,癩者と診定が下されると,市民権を影奪 (はくだつ)され,
市外の癩者専用の収容所レプロサリウムleprosariumに送られた。
ここはラザレットlazaretto (《ルカによる福音書》16 : 19 ~ 31 に出てくる,
全身はれものに侵された乞食ラザロに由来する語。乞食収容所,
後には検疫所をも意味した) とも呼ばれ,癩が蔓延しはじめた 11 世紀以後,
ヨーロッパ各地に設立された。このラザレットは市壁内のホスピティウム hospitium とともに,
ヨーロッパにおける病院設立運動の起源となった。ラザレットの住民は決まった日にここを出て,
施しを請うて歩いたが,そのときは遠くからでもわかるように,
手の形をした白い布切れをつけた黒のマント,高い帽子など,目立った服装をして,
ガラガラを鳴らしたり,拍子木をたたいたりしなければならず,ふつう市民と接触することを固く禁じられていた。
いっぽう,福音書にはイエスが癩者をいやす奇跡が伝えられているが,
中世の修道会たとえばフランシスコ会などが救癩活動を行った。
とくにハンガリーの聖女エリーザベトは名高く,宗教画にも描かれるようになる。
13 世紀にその盛期に達した癩は,14 世紀から減退期に入る。
おそらく厳しい癩隔離策が功を奏しはじめたからと思われるが,
流行にとどめを刺したのは 1348 年の黒死病 (ペスト) の大流行で,
これによってラザレットの収容者が一掃されたからである。
日本でも,古代の律令のなかで癩は最重度の篤疾のなかに入れられ,
厳しい規制が課せられていた。のちには天刑病ともいわれ,不治の業病とされた。
光明皇后が癩者の膿を吸ったという伝説があり,鎌倉時代の僧忍性 (にんしよう)は
奈良の北山十八間戸 (けんと)と鎌倉の極楽寺に癩宿をつくり,救癩活動を始めている。
江戸時代には癩は〈かったい〉と呼ばれ,社会から締め出された癩者は,
四国や九州の霊場や寺院を遍歴・徘徊していた。明治になっても,
癩に対する偏見と恐怖はかわることなくつづき,救癩事業に最初に手をつけたのは外人宣教師であり,
多くの癩病人は昭和初期まで乞食の姿で全国を放浪していたのである。
立川 昭二
[らい予防法]
〈らいの予防,およびらい患者の医療・福祉を図るため〉に,旧法 (1907 年) に代わって
1953 年に制定された法律。癩,すなわちハンセン病に対する特効薬 (プロミンなど) が発見され,
かつきわめて感染力の弱い伝染病であることが判明したにもかかわらず,
全国 13 ヵ所の国立療養所などへの強制入所や優生手術その他の差別的規定が残っており,
〈強制隔離を容認する世論の高まりを意図するもの〉と従来から強い社会的批判の対象となっていた。
全国ハンセン病患者協議会などの入所者団体の運動 (〈予防法闘争〉) の成果もあって
入所者の実質的処遇は徐々に改善されてはいたが,国際的非難が高まってきたことなどをきっかけとして,
1995 年 4 月日本らい学会 (1996 年に〈日本ハンセン病学会〉と改称) が
〈長期にわたって現行法の存在を黙認したことを深く反省する〉として長年の方針を転換,
予防法廃止を求める見解を発表し,96 年 3 月に同法は遅まきながら廃止された。
しかし,長年の隔離政策の結果として社会的偏見も根強く,肉親から絶縁された人も少なくないばかりか,
その約 90 %は全快しているが後遺症などがあり,また平均年齢約 70 歳と著しく高齢化も進んでいる
などの理由から,入所者の社会復帰には実際上大きな困難が予想されるため,
これまでの医療・福祉面での措置継続を定めるとともに,社会復帰を支援する旨の附帯決議が国会でなされた。
なお,最近では,将来的には規模縮小や統廃合が予想されるハンセン病医療施設を,
外来や入院患者も受け入れる一般病院に転換して存続させることによって,
入所者に対する従来の処遇を継続維持させようという取組みも始まっている。
黒田 満
|