ハンセン病のリンク集

                                           
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判決全文<U> <T><V>
<U>(判決201頁から446頁)では、
裁判所の判断の内、ハンセン病政策の変遷、新法制定後の状況、差別・偏見など、
事実認定部分
についてまとめた部分をご紹介します


第四章 当裁判所の判断

第一節 ハンセン病の医学的知見及びその変遷

<第一 ハンセン病の病型分類と症状の特徴等>
(各箇所で指摘するほか、甲七、八、弁論の全趣旨)
 
一 リドレーとジョプリングの病型分類
 
ハンセン病医学においては、これまで様々な病型分類が用いられてきたが、現在の一般的な病型分類として、昭和四一年に提唱されたリドレーとジョプリングの分類がある。
 右分類による各病型の特徴は以下のとおりである。
  1 I群(未定型群)
 らい菌の感染が成立した「免疫不全個体」が発病したときの初期症状と考えられているものである。I群から更に成熟した病態に移行する場合には、LL型、TT型及びB群の三つの方向がある。
  2 LL型(らい腫型)
 細胞免疫系の抑止力が機能せず、らい菌を多数含有する細胞が全身に播種拡大する傾向を示す病型で、皮疹を始め多彩な症状を呈する。最も重症になりやすい病型である。排菌量も最も多く、塗抹菌検査による菌指数は、五ないし六+程度である。
  3 TT型(類結核型)
 細胞免疫不全のため病態は進行するが、それでも強い類結核性肉芽腫形成が起こり、皮膚病巣は一か所に限局傾向を示して播種傾向に乏しく、境界鮮明でしばしば中心性治癒所見を見る。排菌量はLL型よりはるかに少なく、菌指数は、〇ないし一+程度である。
  4 B群(境界群)
 免疫応答がLL型とTT型の中間に位置し、しかも内容・程度が不安定で、病理組織像は両者の特徴が共存しており、皮膚病巣もしばしば播種が見られるが、病巣が部分的には一か所に限局する傾向が認められ、LL型のように全身に左右対称性に散在することはない。菌指数は、〇ないし五+である。
 この境界群は更に三型(LL型に近いBL型、TT型に近いBT型、中間のBB型)に分けられる。
(注)塗抹菌検査と菌指数について(甲七の一四八頁以下)
  塗抹菌検査とは、皮疹部位等をメスで切開して採取した組織汁をスライドグラスに塗抹し乾燥させ、染色後に顕微鏡でらい菌の有無、個数等を検査するものである。
菌指数とは、塗抹菌検査によって認められる菌の個数を次のような指数で表したものである。
菌指数六+  毎視野中に平均一〇〇〇個以上
菌指数五+  毎視野中に平均一〇〇個から一〇〇〇個
菌指数四+  毎視野中に平均一〇個から一〇〇個
菌指数三+  毎視野中に平均一個から一〇個
菌指数二+  一〇視野中の合計が一個から一〇個
菌指数一+  一〇〇視野中の合計が一個から一〇個
菌指数−(マイナス)   菌を発見できない


 
二 リドレーとジョプリングの分類と他の病型分類との関係
  
1 マドリッド分類
 リドレーとジョプリングの分類以前のマドリッド分類(第六回国際らい会議、昭和二八年)は、L型(らい腫型)、T型(類結核型)に加えて、B群(境界群)、I群(不定型群)の二型二群とした。なお、我が国では、昭和五三年まで境界群を可能な限り減らしてL型とT型の二種類に分ける方法が採られていたため、L型にもT型にも現在のB群が相当程度含まれていたものと思われる(乙八一の三頁)。
我が国における各分類の比率は、証拠上必ずしも明確ではないが、証拠(甲一〇九の一〇頁以下、甲一二四の一一七頁、乙一一五の三頁、乙一一七)及び弁論の全趣旨によれば、L型が七〇パーセント程度であると思われる。
  2 我が国の伝統的分類
 我が国で伝統的に用いられてきた病型分類として、結節型、斑紋型、神経型の三分類がある。これをマドリッド分類と対比すると、結節型はL型とB群の一部を、斑紋型はT型とB群の一部を含むものと考えられる。なお、神経型は、斑紋型で斑紋が消失したものである。
  3 WHO提案の病型分類
 WHOは、多剤併用療法による治療方針決定上のより簡便な病型分類として、MB型(多菌型)とPB型(少菌型)の二分類を提案した。
 これによると、MB型はおおむねLL型、BL型、BB型及び一部のBT型に相当し、PB型はおおむねI群、TT型及び大部分のBT型に相当する。

 
三 症状の特徴
 ハンセン病の症状は、以下のとおり、病型によって大きく異なる。
  1 皮膚等
(1) I群 一個ないし数個の低色素斑(ときに紅斑)が見られる。
(2) TT型 一個ないし数個の低色素斑あるいは紅斑が見られ、病状が進行すると手掌大あるいはそれ以上の大きさとなる。皮疹に一致して知覚障害、発汗障害、脱毛を伴う。
(3) BT型 TT型に似て、低色素斑か紅斑で始まるが、皮疹は小さめで、数は多めである。皮疹に一致する脱毛、発汗障害は余り顕著ではない。
(4) BB型 多数(BL型、LL型よりは少ない)の斑か、集簇性丘疹か、あるいはこれらの混在した病巣が見られる。個疹は大きく、拡大傾向を示して板状疹となることもあり、多形性あるいは地図状で、辺縁は不整である。皮疹に一致して軽度の知覚麻痺、脱毛、発汗障害、皮脂分泌障害が認められる。
(5) BL型 初期は斑で始まるが、間もなくこれらは集簇・融合する。境界不明瞭な紅斑・板状疹・丘疹・結節や、外側の境界が不明瞭な環状斑が多発する。皮疹部分には発汗障害が認められる。
(6) LL型 通常、早期から広範囲・対称性に分布する複数の皮疹が確認できる。病勢が進むと、皮疹の数が増加し、更に進行すると皮膚の肥厚(浸潤)として確認できるようになる。真皮に塊状の肉芽腫が形成されると、丘疹や結節の皮疹となる。集簇性・散在性に分布する段階から全身に播種状に多数散布するものまで様々である。び慢性に浸潤した肥厚部位に結節が混在したり、結節が腫大・融合して巨大な局面や腫瘤が形成されることもあり、斑、丘疹、板状疹、結節が混在してくる。結節は自潰しやすく、潰瘍や痂皮を形成し、顔面の浸潤・結節が高度になると獅子様顔貌となる。早期から発汗障害を認めることもある。特に進行すると、眉毛・睫
毛・頭髪の脱落、爪の変形・破壊が起こる。
  2 末梢神経
(1) I群 皮疹部分の知覚低下以外に特に変化は認められない。
(2) TT型 菌の存在が末梢神経系の一部のみにとどまり、侵されるのは比較的低温の皮膚から浅い部分にある神経幹である。特に、尺骨、総腓骨、顔面神経が侵されやすく、ここから分かれ出る末梢神経はすべてその機能を停止し、運動麻痺と全種類の知覚障害が支配領域に出現する。
(3) BT型 皮疹の出現に先立って、知覚過敏が起こることもある。皮疹に一致して知覚障害が認められるが、TT型より軽度である。神経幹の肥厚は強く、TT型よりも広範囲であるが非対称性である。神経障害による筋萎縮や運動障害を残しやすい。
(4) BB型 非対称性の肥厚を伴った多発神経炎を起こしやすい。
(5) BL型 対称性の神経障害が現れる傾向がある。比較的多くの神経に比較的強い変化が見られ、かなりの機能障害を残すおそれがある。
(6) LL型 全身の皮膚表層の末梢神経を対称性に侵すが、深層の末梢神経は侵されず、皮膚温度の高いところや踵・指先等の角化の強い部分も侵されにくい。このような領域を除いた全身の皮膚表面の知覚の低下(鈍麻)が見られる。さらに、皮膚の浅い部分の神経幹も侵されやすいため顔面筋・小手筋、前脛骨筋等の麻痺が加わる。多くは病期が進行してから現れ、主として知覚鈍麻を呈する。神経の肥厚は顕著ではない。
  3 眼
TT型やBT型は、顔面に病変がある場合に顔面神経麻痺による片側性の兎眼が見られることがある。BL型やLL型では、らい菌が血行性に眼部に到達して、増殖することがある。特に、眼球の前半部は低温のため侵されやすい。顔面神経や三叉神経の麻痺があると多彩な障害が起こる。らい菌の侵入による変化と末梢神経の障害とがあいまって後遺症を残すことが多い。
  4  耳・鼻・口・咽喉
TT型やBT型では、顔面に病変がある場合のみに、顔面神経麻痺による変化が見られる。BL型やLL型では、鼻、口腔、咽喉の粘膜にらい菌の浸潤による病変が見られることもある。
  5 臓器
至適温度が三〇度から三三度であるというらい菌の特性から、ハンセン病では体表に近い低温部が侵されやすく、温度の高い臓器(肝臓、脾臓、腎臓等)に病変が生じてもこれによる障害はほとんど見られない。

 
四 経過、予後、治癒
  1 経過
(1) I群 約四分の三は自然治癒し、四分の一が更に成熟した病態に移行するとされる。
(2) TT型 皮疹出現時期が明確なことが多い。しばしば皮疹部位に知覚過敏が現れ、早期に運動障害を起こすこともある。病変が激しいときは、前駆症として発熱や悪寒を伴う。皮疹は自然治癒することもある。末梢神経障害により高度の後遺症を残すことが少なくない。
(3) B群
末梢神経障害を起こしやすく、病型の変動を起こしやすい。
(4) LL型
未治療のまま放置すると病変が拡大して、重症化する。
  2 予後
ハンセン病そのものはもともと致死的な病気ではない。例えば、昭和六年から昭和二三年までの長島愛生園の死亡統計によれば、ハンセン病による衰弱死は全体の二・九パーセントにすぎず、喉頭のらい腫性病変による喉頭狭窄を来した死亡例を加えても三・六パーセントであり、スルフォン剤による化学療法の出現前においても、ハンセン病が直接的な死因となったものは極めて少なかった。また、リファンピシンやクロファジミンによる治療が登場する以前の昭和四五年に発行された「らい医学の手引き」においても、「らいによる直接的もしくは間接的な死亡の危険性は、スルフォン剤が出現してから進行性の重症らいが激減し、また抗生物質によって感染症が制圧されたため、ますます遠のいてしまった」とされている。(乙一一六)
  3 治癒
国立らい療養所共同研究班(平成元年)は、次の状態(鎮静期)がI群及びTT型で二年以上、B群及びLL型で五年以上続いたときを臨床的治癒としている。
(1) 菌検査 らい菌の消失
(2) 臨床症状 皮疹消失、らい反応なし、知覚障害の拡大や著明な筋力低下なし、眼や鼻に活動性病変なし

 
五 らい反応
  1 意義
ハンセン病の経過は通常緩やかであるが、突然、急激な炎症性変化が起こることがある。これをらい反応という。らい反応には、大きく分けて、境界反応とらい腫らい反応(ENL反応)の二つがある。前者はB群の患者に、後者はLL型やBL型の患者に起こる。
  2 境界反応
境界反応は、抗菌剤の治療中に発生することが多い。DDS単剤療法ではB群患者の約五〇パーセントに、多剤併用療法でも約二五パーセントに起こるとされる。
境界反応が起こると、皮膚と神経で炎症が生じる。皮膚では、既存の境界群病巣の炎症症状の悪化あるいは新しい皮疹の出現が見られる。神経では、炎症性変化により神経内圧が上昇し神経破壊と麻痺を来し得る。兎眼、垂手、垂足を生じることもある。
境界反応が生じても抗菌剤投与は原則として継続する。治療としては、鎮静剤や非ステロイド系消炎鎮痛剤等で対処することもあるが、反応が重篤で皮膚潰瘍や神経炎が起こると、ステロイド剤の適応となる。
  3 ENL反応
ENL反応は、らい菌由来の抗原と抗体、補体とが結合してできた免疫複合体が、組織内や血管壁に沈着して起こる全身の炎症であり、抗菌剤治療を開始した数か月後から生じることが多く、LL型患者の半数以上、BL型患者の約四分の一に起こるとされている。
主症状は皮疹であるが、重症例では末梢神経炎、虹彩毛様体炎、リンパ節炎、さらには睾丸炎、発熱、タンパク尿、関節炎等の全身性変化を起こすことがある。
ENL反応が生じた場合、以前は抗菌剤投与が一時中止されていたが、現在は中止する必要はないとされている。治療には、サリドマイド(ENL治療の第一選択としてよい薬剤であり、昭和四〇年以降広く使用されるようになった。なお、甲七の一八二頁のほか、甲一二四の二〇一頁以下参照)、クロファジミンが著効を示すほか、ステロイドも有用である。軽症患者には、鎮静剤、非ステロイド系消炎鎮痛剤による対症療法で効果が得られることもある。
予後は通常良好であるが、軽症の炎症が数か月から数年にわたって持続し神経障害が進行したり、眼症状を残すこともある。


<第二 ハンセン病の疫学>
(甲七、一三、二一、乙九二、一一三、証人和泉眞蔵、同犀川一夫、弁論の全趣旨)
 
一 ハンセン病の疫学的特徴
 ハンセン病の特徴は、感染と発病の間に大きな乖離が見られることであり、発病するのは感染者のごく一部にすぎず、感染者の中の有病率は高い場合でも通常一パーセントを超えることはないとされる。
 この乖離の原因は、らい菌の毒力が極めて弱いため、感染しても発病に至ることが少なく、この菌に対して抗原特異的免疫異常が起きた場合にだけ発病するからであるとされる。すなわち、ハンセン病は、弱毒菌と人集団の微妙なバランスの上に成り立っている疾患であり、人の集団免疫の変化によって流行が大きく左右されるのである。
 ハンセン病の大流行はまれで、二〇世紀に入ってからは、二〇世紀初めのナウル島やパプアニューギニア、一九五〇年代、六〇年代のミクロネシアのピンゲラップ島等の例が知られている。

 
二 ハンセン病の感染について
  1 感染源
(一) 患者
現在、感染源として確立されているのは患者だけである。
患者は、病型によって排出する菌の量が大きく異なり、TT型やI群の患者の排菌量は少ないが、LL型の患者からは、潰瘍を伴った皮疹、上気道分泌物、母乳等から大量のらい菌が排出される。
多剤併用療法を始めると、らい菌の感染力が数日で失われるので、感染源になる可能性があるのは未治療の患者である。また、DDS単剤療法でも、らい菌の排出量は急速に減少するとされている。
(二) 患者以外
発病前の感染者については、臨床症状が出る前のらい菌の増殖により発病前の一定期間は感染源となる可能性が強いとされている。
人以外のらい菌の感染源としては、生活環境中のらい菌による感染の可能性が考えられている。証人和泉眞蔵(以下「和泉」という。)は、感染源は、生活環境中のらい菌と患者の二つであるが、患者が主要な感染源とは考えられない旨証言している(第四回口頭弁論調書の証人調書九四項以下。なお、以下においては「四回九四項」などと表記する。)。ただ、生活環境中のらい菌による感染の疫学的重要性についてはいまだ不明な点も多い。
ハンセン病が人獣共通伝染病であることは、一九七〇年代、八〇年代の研究で明らかになり、ココノオビアルマジロから人への感染発症例も報告されているが、これは特殊な例で感染源としての野生動物の疫学的重要性はないとされている。
なお、体外でのらい菌の生存期間について、乾燥した日蔭では五か月、湿った土の中では四六日、室温の生理食塩水中では六〇日、直射日光で毎日三時間照射した場合でも七日間感染性を保っていたという研究結果がある。
  2 感染経路
 らい菌の感染経路については、現在でも確固たる結論には達していない。かつては上気道粘膜からの感染が重視され、後になって皮膚の傷からの感染を重視する説が有力になったが、近年は再び経上気道粘膜感染の重要性が指摘されるようになった。母乳中のらい菌による乳児の感染の可能性も否定されてはいないが、疫学的重要性はないようである。
 節足動物を媒介とする感染の可能性も否定されてはいないが、疫学的重要性はないとされている。
  3 感染力
 ハンセン病には結核のツベルクリン反応のような感染を知る皮内反応がないため、感染の判定には血清学的手法が用いられるが、感染を一〇〇パーセント知る方法はまだ確立されていない。したがって、らい菌の感染力の強弱を知ることは困難であるが、最近の疫学的研究では、らい菌の感染力自体はそれほど弱くないともいわれている。

 
三 ハンセン病の発病
   ハンセン病の発病には、種々の疫学的要因が関与していると考えられている。
  1 年齢・性
 ハンセン病の好発年齢については流行状態と関係がある。流行が持続している地域では、一〇歳代と四〇から六〇歳代にピークがあるが、流行が終焉に向かうと、若年の発病が減少するため、高齢発病のみの一峰性分布になる。
 発病者の男女比は一般に二対一といわれるが、年齢や地域差もあり、必ずしも一定ではない。
  2 初発患者の病型及び接触濃度
  家族内接触者の場合、初発患者の病型が発病の危険度に影響する。LL型患者の家族内接触者の発病率は、一〇〇〇分の六・二から五五・八と報告者により大きな違いがある。また、孤発例の発病率を1とした場合、LL型患者の家族の相対危険率は九・五、非LL型患者の家族のそれは三・七であったとの報告もある。また、同じ家族内接触でも接触が濃密であるほど発病率が高まることも知られている。
  乳幼児に対する家庭内感染の危険性については、第二回国際らい会議以降、国際会議等でしばしば取り上げられている(後記第四の一2以下参照)。家庭内接触児童の発病率については、多数の報告があるが、これをまとめた犀川一夫(元日本らい学会会長、沖縄愛楽園名誉園長。以下「犀川」という。)の報告(乙一一三)によると、戦前には四〇パーセント前後という極めて高率のものも散見されるが、戦後のものだけを見ると、最も高いもので一四パーセント、最も低いもので一・四パーセントとなっている(別紙二1参照)。
 これに対し、夫婦間感染は、古くからまれであるといわれている。発病率は、多数の報告があるが、犀川の右報告によれば、最も高いもので七・八パーセント、最も低いもので〇・二六パーセントである(別紙二2参照)。
  3 遺伝素因
 統計によって多少の違いはあるが、ほぼ半数の患者は家族性に発生し、残りの半数は孤発例であるとされ、ハンセン病の発病に遺伝素因が一定の役割を果たしているものと考えられている。
  4 環境要因
 ハンセン病の流行は、社会経済状態と関係していると考えられている。ただ、発病に影響を与える社会経済因子を具体的に特定するには至っていない。
なお、被告は、社会経済状態の発達がハンセン病の感染や発病を減少させることが認識されたのは、一九六〇年代ないし一九七〇年代ころからであると主張し、その根拠として、証人和泉の証言を挙げる。しかしながら、社会経済状態の発達とハンセン病の感染・発病が関係していることは、既に明治三〇年の第一回国際らい会議において確認されている上(後記第四の一1)、その後も国内外で繰り返し指摘されている(例えば、後記第五の一3(一)、4(三)(1)、(3)、乙一一三の一五二頁)ところであって、被告の右主張は失当である。

 
四 WHOのハンセン病制圧基準
 平成三年のWHOの世界保健総会では、「公衆衛生問題としてのハンセン病を平成一二年までに制圧する」との宣言がなされたが、ここでいう「主たる公衆衛生問題としてのハンセン病の制圧」の基準は、有病率を人口一万人当たり一人以下とすることとされた。これは、当時の世界の主なハンセン病蔓延国の平均有病率(人口一万人当たり一〇人程度)を約一〇分の一に下げることを意味する。
 もちろん、世界には様々な公衆衛生水準の国があって、平成三年当時の右基準が我が国の新法制定当時の公衆衛生水準としてそのまま妥当するものではないが、一応の参考にはなるものである。
 なお、後でも述べるが、我が国の有病率は、明治三三年が人口一万人当たり六・九二人、昭和二五年が一・三三人であり、昭和四五年以降は一人を下回っている。


<第三 ハンセン病治療の推移>
(後記一ないし六につき、甲一、七、二四、六六、六八、一一五、一七二、二〇〇、乙一〇〇、一八三の3、証人犀川、弁論の全趣旨)
 
一 スルフォン剤登場前の治療について
 スルフォン剤がハンセン病治療薬として登場するまでは、大風子油による治療がほとんど唯一の治療法であり、ある程度効果があるとの評価もあったことから、我が国の療養所でも使用されていたが、再発率がかなり高く、根治薬というには程遠いものであった。

 
二 スルフォン剤の登場
 アメリカのカービル療養所のファジェットは、昭和一八年、二〇世紀初頭に抗結核剤として開発されたスルフォン剤であるプロミンにハンセン病の治療効果があることを発表した。その治療効果は、「カービルの奇跡」とまでいわれた。
その後、プロミンやその類似化合物であるプロミゾール、ダイアゾンの治療効果は、昭和二一年にリオデジャネイロで開催された第二回汎アメリカらい会議でも取り上げられ、その評価になお慎重な意見もあったが、ファジェットの研究成果が高く評価され、スルフォン剤が、大風子油以来、最も進歩した薬剤とされた。
 我が国でも戦後間もなくプロミン等による治療が開始され、昭和二二年以降、日本らい学会においてプロミンの有効性が次々と報告された。昭和二四年四月には、全患協による運動(プロミン獲得運動)もあって、プロミンが正式に予算化された。
 そして、昭和二六年四月の第二四回日本らい学会において、「『プロミン』並に類似化合物による癩治療の協同研究」が発表され、再発の可能性を検討するために少なくとも一〇年の経過を観察する必要があるとしながらも、プロミン等が極めて優秀な治療薬であると認められた。
 スルフォン剤の登場は、これまで確実な治療手段のなかったハンセン病を「治し得る病気」に変える画期的な出来事であった。

 
三 DDS
 DDSは、スルフォン剤の基本化合物で、らい菌の葉酸代謝を阻害して静菌作用を示す。DDSは、リファンピシン登場前のハンセン病の代表的治療薬であり、現在でも多剤併用療法で用いられている。
 DDSがハンセン病治療に試されたのは昭和二二年ころからであり、昭和二三年にハバナで開催された第五回国際らい学会においては、DDSの少量投与で副作用を起こさず効果があるとの研究成果が報告され、注目を集めた。さらに、昭和二七年のWHO第一回らい専門委員会においても、DDSに恐れられていたほどの副作用がない上、治療効果も高いこと、安価であること、経口投与が可能で使用方法も簡便であることなどが高く評価された。
 我が国でも、昭和二八年ころからDDS経口投与の治療が開始されたが、広く普及するようになったのは、昭和三〇年代後半であった。

 
四 リファンピシン
 リファンピシンは、もともと抗結核剤であったが、らい菌に対して強い殺菌作用を有していることが判明し、我が国でも、昭和四六年ころからハンセン病治療に用いられるようになった。リファンピシンを服用すると、数日で体内のらい菌の感染力を失わせることができるとされており、リファンピシンによって化学療法は更に進歩した。リファンピシンは、現在の多剤併用療法の中心的薬剤である。

 
五 クロファジミン(B六六三)
 クロファジミンは、昭和三二年に合成されたフェナジン系誘導体で、当初抗結核作用が注目されたが、らい菌に対する弱い殺菌作用と静菌作用に加え、らい反応を抑える効果を有している(特に、ENL反応に著効を示す。)ことが判明し、我が国でも昭和四六年ころからハンセン病治療に用いられるようになった(なお、昭和四五年発行の甲一二四の一九七頁には、DDSとクロファジミンを併用すれば効果が増大する旨の報告が紹介されている。)。

 
六 多剤併用療法
 スルフォン剤に始まる化学療法の進歩は、ハンセン病治療に光明をもたらしたが、昭和三〇年代後半にDDSの、次にリファンピシンの耐性菌が発現し、耐性の問題をいかにして克服するかが世界的に重要な課題となっていた。
 昭和五六年にWHOが提唱した多剤併用療法は、リファンピシン、DDS、クロファジミンを同時併用することでこの問題を解決しようとするもので、前記第二章第二の一3で述べたように、卓越した治療効果、再発率の低さ、らい反応の少なさ、治療期間の短縮等の点で画期的であった。
 ただ、我が国では、当時、新規患者が極めて少なく、多剤併用療法の対象者がほとんどいなかったことから、医療関係者の多剤併用療法に対する関心は薄く、画期的であるとの実感はすぐには持たれなかった。

 
七 再発、難治らいについて(甲七の一一四頁以下、一四〇頁以下、一六二頁以下、三二八頁以下、甲一二四の一九四頁以下、二〇四頁以下、乙二九、八一、一八二、証人長尾榮治、弁論の全趣旨)
  1 再発について
(一) 多剤併用療法の場合の再発率は極めて低いとされているが、スルフォン剤による単剤療法の時代には、LL型、BL型患者の再発が少なくなかった。
なお、治癒前の症状発現・増悪を再燃、治癒後の症状発現を再発ということもあるようであるが、ハンセン病では治癒の判定が難しいことから、ここでは両者を特に区別しない。
(二) 再発率
再発率については、様々なデータがある。
甲一二四(らい医学の手引き、昭和四五年発行)は、昭和三五年までの厚生省共同研究班によるのらい腫型の再燃に関する研究によると、「スルフォン系治らい剤を用いた場合の再燃の比率は五ないし一三%ほど」であったとしている。
また、乙八一(レプラ続刊、平成五年三月発行)は、星塚敬愛園に昭和二〇年から昭和三〇年までに入所した新入所者についての化学療法後の再燃を昭和四一年に調査した報告によれば、調査患者の二〇・三パーセントに再燃が見られたとしている。
また、長尾榮治(大島青松園副園長。以下「長尾」という。)は、乙二九(平成一〇年のハンセン病医学夏期大学講座教本)において、DDS単剤療法の場合の再発率は四ないし二〇人に一人であるとしている。一方、証人長尾は、DDSないしプロミン治療の場合、L型患者の約三〇パーセント前後に再発がある旨証言している。
甲七(三二八頁)は、DDSによる治療について「多菌型患者の場合、世界的にみて三〇%以上の再発者を出す結果となった。」としているが、このデータが我が国に当てはまるのかどうかは明らかでない。
このように再発率のデータにばらつきが見られる。その原因としては、調査時期や再発率を累計する期間の長短などが考えられるが、いずれにしても、長い期間を通してみると再発率は低いとはいえない。
なお、リファンピシンは耐性菌が出現しやすいとされているが(甲七の一一八頁)、乙八一(六頁)によれば、調査した六四症例(昭和四七年から平成四年までに再発したもの)のうち、リファンピシンを服用していたものは、不規則服用の一例のみであったとされており、我が国において、リファンピシン治療による再発が多数生じていたことを認めるに足りる証拠はない。
(三) 再発の原因
再発の原因について、甲一二四(二〇四頁)によれば、薬剤使用量の不足、使用方法の不適、不規則な服用投与、耐性菌の発現、生活環境等が挙げられており、「治療態度が怠惰になる時期と再発の比率が高まる時期とがおおむね一致する」、「プロミン及びプロミゾールともに、これらを計画的かつ規則的に用いて治療した場合の方が、そうでない場合よりも再燃の比率が低くなる」、「プロミンによる治療を何らかの理由で中止した場合に、再燃の比率が高くなる最も重大な要素は、中止した時点での治療効果が不完全なことである。」とされている。
また、甲七(一一四頁)によれば、DDSの耐性発現率は低いとされ、乙八一(一〇頁)でも、「DDS少量服用でらい腫型再発をきたした数例に、化学療法を変更する前にまずDDSを一〇〇ミリグラムに増量して経過を見たことがあるが、ほとんどの場合に皮疹の吸収が起こっている。このことから、DDSの二次耐性も一般に考えられるほどは多くはないと思われる。」とされている。
他方、犀川は、証人尋問において、我が国で多くの再発者を出した要因として、退所後のフォローアップが不十分であった点を挙げ、そのために多くの再入所者が生じた旨証言しており(九回二一六項、四〇二項)、我が国の療養所中心主義ともいうべき政策の矛盾の一端がここに現れているということができる。
以上のとおりであり、スルフォン剤単剤治療において再発が少なくないのは、治療が長期間にわたることや治療を受ける患者側の事情も含む様々な要因によるものであると考えられる。
(四) 再発後の治療
甲一二四(一九五頁)は、「治療に悩まされる再燃例もある。もっともそのような症例に対しても、一応はDDS(または他のスルフォン系薬剤)の与薬方法を変更して二か月ほど経過を観察し、もし効果が期待できないようであればストレプトマイシンなどを用いるが、結局はDDSの有効なことが少なくない」としている。また、乙八一も、再発に対して、DDSを増量しただけで効果のあった症例を紹介している。
再発後の治療については、昭和四六年以降のリファンピシンやクロファジミンの登場により進歩を遂げたことは間違いないであろうが、それ以前においても、DDSを中心にその時々に使用可能な薬剤(ストレプトマイシン、カナマイシン、CIBA一九〇六、エタンブトール等)をも駆使しながら、それなりの治療成果を上げていたものと考えられる。
  2 難治らいについて
 昭和四〇年ころ以降、スルフォン剤によって治療困難な「難治らい」と呼ばれる症例が現れるようになり、学会でもこのことがしばしば取り上げられた(なお、難治らいの定義は必ずしも一定していないが、甲七の一六二頁参照)。
 難治らいの原因としては、DDS耐性が考えられ(ただし、証人和泉は、人体側の要因が強く関わっている旨証言し、その可能性も否定できない。四回二〇二項)、昭和四六年以降のリファンピシンの登場により、この問題はかなり克服されたものと考えられる。
 なお、宮古南静園長であった馬場省二は、甲一四四(昭和五七年発行)に、同園において「医師不在、短期間の派遣医師の入替えにより診療が支えられた期間が長かった為に、一貫した治療方針が維持できず、所謂難治らいとなってしまった症例が一一名もある。」と記述しており、証人長尾も、これを肯定する証言をしている(一三回二四項)。
難治らいの症例数がどの程度あったのかは証拠上明らかではない。難治らいは医学的には重要な問題であったかもしれないが、我が国においてハンセン病政策全体を左右しなければならないほど多数の症例があったとは認められない(前記証人和泉の証言部分参照)。


第四 ハンセン病に関する国際会議の経過>(各箇所で指摘するほか、甲二四、一七二、二三七、証人犀川、弁論の全趣旨)
 ハンセン病に関する国際会議の経過は、その時々のハンセン病の医学的知見やハンセン病政策の世界的傾向を知る上で参考になるので、以下、これについて見る。
 
一 戦前の国際会議について
  
1 第一回国際らい会議(明治三〇年、ベルリン)
 ハンセンが明治七年にハンセン病の伝染説を発表した後も、伝染説はなかなか学会の承認を得られなかったが、この会議でようやく伝染説が国際的に確立された(甲二の四〇頁以下)。
 この会議では、「らい菌は真の病原である。」、「生活条件と人体内への侵入経路は不明。恐らく人に対する侵入門戸は口腔及び鼻腔粘膜である。」、「社会的関係が悪ければ悪い程周囲に対する危険性が大である。」、「らいは今日までこれを癒すあらゆる努力に抵抗した。従ってらい患者の隔離は、特に本疾患が地方病的或は流行病的に存在する地方では望ましい。ノルウェーにおいて隔離によって得られた結果はこの方法の徹底を物語るものである。ノルウェーと似た関係の場合にはらい患者の隔離は法律的の強制において遂行すべきである。」とされた。
 なお、りん菌の発見者でありハンセン病の伝染説の確立に貢献した細菌学者であるナイセル(乙九五)は、この会議において、「らいは疑もなく伝染性であるがその伝染性の程度は而し顕著ではないし又各型によって異なって居る。(中略)総てのらい患者を一つの規格に従って取扱い隔離しようとすることは誤りである。(中略)総てのらい予防は一つの隔離、家庭からの分離から始まる。らいをその初期に絶滅させる事の出来る場所では規則は極端に厳重でなくてよい。」と述べた。
 また、ハンセンは、隔離がハンセン病患者を減少させることを強調しつつ、隔離に在り方について、「もしらい患者が家庭に居るならば彼らは自分の寝床と出来るだけ自分の室をきめ、更に自分の食器をもつことが要求される。これ等のものと洗濯物は特別に洗われる。清潔に対する教育が主である。ただそこを支配する清潔によってらいは北アメリカでは蔓延しない。規則の守られない所では患者は療養所に来なければならない。」と述べた。
 また、他の参加者からは、「強制的に患者を引き渡し拘留すべき必要があるかどうか疑問である。」とか「隔離が唯一の方法ではない。」との意見も述べられた。
  
2 第二回国際らい会議(明治四二年、ベルゲン)
 この会議では、第一回国際らい会議の決議が確認された。そして、隔離は、患者の自発的施設入所が可能であるような状況(家族への生活援助等)の下で行うべきこと、隔離には家庭内隔離措置もあり、家庭内隔離の不可能な浮浪患者の施設隔離は、場合によっては法による強制力の行使もやむを得ないこと、らい菌の感染力が弱いこと、子供は伝染しやすいので患者の親から分離することが好ましいことなどが決議された。
  
3 第三回国際らい会議(大正一二年、ストラスブルグ)
 この会議では、@らいの蔓延が甚だしくない国においては、病院又は住居における隔離は、なるべく承諾の上で実行する方法を採ることを推薦する、Aらいの流行が著しい場所では、隔離が必要である、この場合、a隔離は人道的にすること、かつ、十分な治療を受けるのに支障のない限りは、らい患者を、その家庭に近い場所におくこと、b貧困者、住居不定の者、浮浪者その他習慣上住居において隔離することのできない者は、事情により病院、療養所又は農耕療養地に隔離して十分な治療を施すこと、cらい患者により産まれた子供は、その両親より分離し、継続的に観察を行うことなどが決議された。
 また、この会議では、伝染性患者と非伝染性患者とでハンセン病予防対策を区別する考え方が主張された(甲二三七の一〇頁)。
  
4 国際連盟らい委員会(昭和五年、バンコク)
 この委員会の報告では、治療なくして信頼し得る予防体系は存在せず、隔離がハンセン病予防の唯一無二の方法ということはできないとして、予防対策としての治療の重要性が強調された。また、右報告では、隔離は伝染のおそれがあると認められた患者にのみ適用すべきであることが明記された。
 なお、同委員会が昭和六年に発行した「ハンセン病予防の原則」は、右報告と共通の考え方を示した上、隔離には患者の隠匿を促進し診断・治療を遅らせる欠点があることを指摘し、感染性がない患者や発病初期の患者に対して、可能な限り、外来の治療施設で治療されるべきであるとしている(甲一九四)。
  
5 第四回国際らい会議(昭和一三年、カイロ)
 この会議では、開放性患者の施設隔離について、「強制隔離から徐々に自発的隔離へ推移している国もある。(中略)ある国家では強制隔離がなお実施され、推奨さるべきものとして認められている。このような所では、患者生活の一般的条件は自発的隔離の場合とできる限り同様でなければならず、合理的退所期も保証されねばならない。(中略)自発的隔離組織の国家では衛生当局が公衆衛生に脅威であると思われるらい患者の隔離を強いるよう力づけすることを勧告する。」とされた。また、感染のおそれについては、「らい者と共に働く者でも、感染に対し合理的注意を払えば殆ど感染しないという事実を歴史は示している。」とされた。

 
二 戦後の国際会議について
  
1 第二回汎アメリカらい会議(昭和二一年、リオデジャネイロ)
 この会議において、ファジェットは、スルフォン剤であるプロミン及びダイアゾンの治療効果に関する研究成果を報告した。これによれば、プロミンあるいはダイアゾンの投与を受けた患者は、六か月の治療で二五パーセント、一年で六〇パーセント、三年で七五パーセント、四年で一〇〇パーセントが軽快し、四年間の治療で五〇パーセント以上が菌陰性となるという極めて画期的なものであった。この会議では、スルフォン剤の評価について最終的見解を出すには更に時間を要し多くの症例を見る必要があるとされたが、ファジェットの研究成果が高く評価されたことは間違いのないところである。
  
2 第五回国際らい会議(昭和二三年、ハバナ)
 この会議でも、スルフォン剤の著効が確認され、「一九四六年リオデジャネイロ会議における意見乃至この国際会議を通じて、一九三八年のカイロ会議以来らいの治療に目覚ましい進歩が見られるに至ったことは明白な事実である。」、「らいの治療薬として選出できるものはスルフォン剤である」とされた。また、この会議でDDSの有用性についての報告がなされたことは、前記第三の三のとおりである。
 また、ハンセン病対策については、「らいの対策としては、(1)らい療養所(2)診療所шO来の臨床治療、(3)発病予防所等の根本的機関の提携した活動が必要である。(中略)らい療養所とは(a)らい伝染性患者、(b)社会的、経済的事情により非伝染性患者の両者を隔離するところである。(中略)らい療養所の存在位置は交通の便利な都市間の中央近くがよい。最も近い都市から半径一〇ないし三〇キロメートル内が好ましい。患者を特別な小島に隔離する事は無条件に責められるべきである。」、「施薬所又は外来診療所 この両者ともらい管理には欠くべからざる重要性をもっている。これは交通の便利な、しかも人口密度の高い地域に設けるべき」、「伝染性のらい患者は隔離する。隔離の様式及び期間等は患者の臨床的、社会的条件又は特殊な地方的条件等によって異なる。」、「非伝染性の患者は隔離することなく、一定の正規な監視下におく。」、「らい患者及びその家族の社会的援助は対らい政策に基本的必要性を占めるものである。(中略)らい療養所を退所できる患者に社会復帰上の援助を与えること。」とされた。
  
3 WHO第一回らい専門委員会(昭和二七年、リオデジャネイロ)
 この委員会には、世界を代表するハンセン病学者が参加し、DDSを始めとするスルフォン剤の治療効果が確認され、これを踏まえてハンセン病対策の在り方が議論された。
 以下、同委員会の報告の重要な部分を抜粋する。
(一) スルフォン剤治療
 (1) 総論
委員会は、スルフォン剤治療が嘗ての如何なるらい治療形式よりも非常に優れていると云う意見については異論がない。(中略)ほとんど全てのらいはスルフォン剤治療に良く応ずる。(中略)スルフォン剤は、細菌に作用するものと信じられており、これは細菌の増殖を阻止する様に思われる。又斯くして、人間の体の感染に対する防護力が細菌の侵入を押える事が出来る様な程度に迄、らい菌の感染力を徐々ではあるが減少せしめるのである。らい菌の伝染力が根絶されてしまうかどうかは、疑わしい事であるので、それ故にらいの再発の可能性は考えられる。スルフォン剤治療を中止した後に起るらい再発に関するデーターは少ない。この再発の危険性について正確な評価を下す事はまだ可能でない。(中略)スルフォン剤の使用が行われて以来一一年になり、らい治療の成績は非常に進歩した。この治療は全ての病型について、らいの活動性の症例に使用して偉大な価値を示したのである。
 (2) スルフォン剤の基礎となるDDSをもってする治療について
DDSそれ自身が人体に使用されるとき、毒性が強すぎると今迄長い間信じられて来た。らいに対する一〇〇〇例からの、四年以上に亘る数カ国における治験の結果によると、若しもその量が適当に整えられて使用されるなら、考えられていた様な危険はない事がわかった。(中略)DDSの少量を用いる事は、一般にDDS以外の誘導体を多量に用いる場合に比して治療効果が決して少ない事はないと云うことである。DDSは多くの長所をもっている。即ち、その価額の安い事、その使用法の非常に簡単な事、これは普通経口的に投与出来る事、然し若しも希望なら注射でも投与出来る事、毎日の投与は必ずしも必要ではない事、即ち、一週間一回投与か、週二回投与の治療が広く用いられ、それ故、患者が治療センターより遠い所に住んでいる様な所では、その投与は薬の効果を長く保つために油の中にDDSを懸濁液として月二回法で注射も行う事も出来る。この様なわけで、多くの所で、特に大規模に仕事をしたり集団治療をする場合には、DDSは非常に利用価値が大である。
(二) 疫学
閉鎖型はらいを伝播する事に関して、重要な役割を演じていないと考えている。(中略)開放性型と閉鎖性型との伝染力の著明な相違は、逆に云うならば、開放性型に対して、しっかりした隔離政策を広く行わねばならぬ事を基礎付けている。
(三) らい管理
らいと云う病気は、それだけ単独で扱う病気ではない。特にその流行地においては、一般の公衆保健に関する問題である。(中略)らい管理に関して政策を決定するのはあく迄公衆の保健衛生の立場からであって、決して公衆の恐怖とか偏見から行われるのであってはならない。
 (1) 管理方策としてのらい治療
現代のらい治療は、患者の伝染性を効果的に減少せしめ、患者を非伝染性に変えてしまう。それ故にこのらい治療と云うものはらい管理に最も有力な適した武器として好んで利用されているのである。(中略)
 (2) 隔離
理論的には伝染性のある症例を隔離する事はらい伝染の絆を断つものであって、結局らい根絶の結果をもたらすものではあるが、実際には多くの症例は、らいと診断され、隔離される前の数年間と云うものは他人に対して伝染性をもっていたものである。患者の強制隔離への恐怖は、患者をしてますます出来るだけ長い間一般社会に隠れていようとさせるもので、それが皮肉にも病気の治癒が可能である期間中隠れている様な結果になってしまう。従って、施設に隔離する事のみが、期待する様な結果をもたらすものではなく、厳しく隔離を適当な規模で行った時でさえ、管理方法として失敗する事があるのである。然し適当な症例を撰んで、これを行い、又患者によく話して説得を行い、効果的な治療を併せ行うならば、らい行政において、これはなお重要な意味を残しているのである。隔離に関しては、らい管理の見地からして、病症を二つに分ける事が必要となって来る。(中略)伝染性の症例のみ隔離の形式に従う必要がある。伝染性らいに対する隔離の程度、隔離のよい規準、適用する強制力の度合等は、国や地方によって異つて来る。らいが
流行地でない様な所や、らいが拡がる傾向のない所では、らい患者に対して何等かの監視が必要であると云う届出制度をとって、治療を行って行けばそれでよい。
 (3) 
強制隔離
らいが高度に流行しているが、然し、その国の資源が少なくて、施設内の治療を行うに適していない様な国においては、義務的な隔離は不可能である。然し、この様な場合にも、必要な時、可能な時には何でも適用するために強制隔離の法的の力を残して置く事は、保健当局にとって得策である。資源が充分あり、らいが流行している様な国においてさえ、強制力は説得と云う方法が失敗した時にのみ適用すべきである。(中略)伝染病のらいを、或る施設に強制隔離する事は理論的に効果的な事であるが、実際には非常に好ましくない事である。と云うのは、それは、屡々患者の家族を別々に分離させ、家庭をやぶり、不時の生活不能者を作る事になるから。斯る事に対する患者の恐怖と、或る施設に長く止らねばならない事、又嘗つて施設に居たと云う事だけで汚名がつく事を考えると、ますます患者は己れのらいである事を隠し、その結果、治療を何時迄も受けない事になり、接触者に対してかえって危険をもたらす様になる。らいの軽快の機会を以前にまして与えるようになった最近のら治療の目覚ましい効果を考えると、強制隔離に関する実施については再考慮を必要とする。

 (4) 乳幼児に対するらい予防
らいの流行地においては、らいが一般に乳幼児において、それ以上の年令の者に比べて伝染し易いと云う意見は、すでに一般に認められている事で、それだけに伝染の恐れがあると思われる乳幼児に対しては特別の注意がはらわれ、彼等をらいと接触させないようにまもる必要がある。このためには、隔離と云う方法で患者を移すとか、子供の方を患者から離すとかすべきである。
  
4 第六回国際らい会議(昭和二八年一〇月、マドリッド)
 この会議では、第五回国際らい会議以降のスルフォン剤の追試報告が数多くなされ、副作用や再発についての報告も現れているが、基本的にはスルフォン剤の治療効果が高く評価され、「一般的に観て、全ての病型を含むらいの治療においてスルフォン剤の効力は確定的なものとなって来た」、「スルフォン剤は過去一二年間の臨床実験の結果、過去における他の如何なる治療薬より効果的であると云う証明がなされている」とされた。そして、DDSを用いた在宅治療の可能性が再び強調された。
 なお、この会議では、「殆ど凡ての研究家がスルフォン剤を好んで使用し、大風子油を放置している。」とされた。
  
5 MTL国際らい会議(昭和二八年一一月、ラクノー)
 この会議は、イギリスのMTL(ミッション・ツウ・レパー)とアメリカのALM(レプロシーミッション)主催の合同国際会議であり、ハンセン病医学の世界的権威が集った。
 この会議では、「らいは個別的疾病ではなく、らい流行地においては一般的公衆衛生上の問題である。恐怖及び偏見のない公衆衛生の原理にもとづいてらい管理政策を樹立せねばならない。」、「開放性らい患者の隔離は必要と考えられるが、かかる隔離は専ら自発性に基くものであらねばならない。然し時には当局の権力を必要とするかも知れない。」、「特殊ならい法令は廃止され、らいも一般の公衆衛生法規における他の伝染病の線に沿って立法されることが望ましい。」、「社会復帰態勢は、患者が施設に入所した当時から、彼の能力、可能性、予後を判断して、開始されなければならない」とされ、@強制収容を廃止し、施設入所は患者の合意の下で行うこと、A施設入所は治療を目的とした一時的なものとし、軽快者を速やかに社会復帰させること、B外来治療の場で引き続き十分な治療を行うこととし、療養所だけでなく、一般病院、保健所や一般医療機関でも外来治療を行えるようにすることが強調された。(乙一二九)
  
6 WHO編「近代癩法規の展望」(昭和二九年)
 「近代癩法規の展望」は、WHOが昭和二九年に各国のハンセン病に関する法制度をまとめたものである(なお、新法は検討対象にされていない。)。
 この報告は、「癩隔離の如き、峻烈にして類のない個人の自由の拘束が、医学的、公衆衛生的の理由によって実施されている処では、この問題は定期的に再検討を要する。(中略)現在われわれの持っている本病に関する知識に照らして、若干の現行施策は、その正当さを証明することがむつかしく見えるばかりでなく、或るばあいには、例えば結核よりも伝染性がずっと少いという伝染性に関する事実とは反対の施策であるようにも思える。更にまた、衛生上の初歩的規則が守られている処では、療養所の職員には伝染の危険は殆んどないし、このことは癩患者の配偶者にも当てはまるということも確かなようである。これに関連して注目に値することは、大多数の他の伝染性疾患と異って、未だ実験的感染に成功していないことである。(中略)過去数一〇年間に或る国々で採られた対策を検討すると、次のような矛盾が見られる。隔離政策がどちらかといえば自由な所では、癩は減少し殆ど全く消失しているのに、一方、峻烈な対策が採られたにも拘わらず癩の発生は余り又は全く変りがない所がある。」として、隔離政策の正当性・有効性に疑問を投げかけている。(甲一六)
  
7 らい患者救済及び社会復帰国際会議ローマ会議、昭和三一年)
 マルタ騎士修道会によって開催されたこの国際会議では、「らいが伝染性の低い疾患であり、且つ治療し得るものである」として、次の決議をした。
(一)a らいに感染した患者には、どのような、特別法規をも、設けず、結核など他の伝染病の患者と同様に、取り扱われること。従って、すべての差別法は廃止さるべきこと
b (前略)啓蒙手段を、注意深く講ずること
(二)a 病気の早期発見及び治療に対し、種々なる手段を講ずること。患者は、その病気の状況が、家族等に危険を及ぼさない場合には、その家に、留めておくべきこと(以下略)
b (前略)入院加療は、特殊医療、或は、外科治療を必要とする病状の患者のみに制限し、このような治療が、完了したときには、退院させるべきであること
c 児童は、あらゆる生物学上の正しい手段により、感染から、保護される可きこと(以下略)
d 各国政府に対し、高度の身体障害者の為に、厚生省、農林省、文部省等の政府機関を通じ、彼等の保護及び、社会復帰に関し必要な道徳的、社会的且つ医学的援助を与えるよう奨励すること(以下略)
なお、成田稔(元日本らい学会会長、多磨全生園名誉園長。以下「成田」という。)は、東京地裁の証人尋問において、差別法の撤廃や社会復帰の援助を提唱したこの会議は極めて重要な意義を有している旨証言している(甲一〇八の六九頁)。
  
8 第七回国際らい会議(昭和三三年、東京)
 この会議では、ハンセン病治療におけるスルフォン剤の優位が変わらないとの認識の下、ハンセン病予防には患者の早期発見・早期治療、外来治療の整備が重要であることを指摘し、「外来患者治療に必要な病院は、患者の大部分がくるのに便利な位置に置くべきであり、また適切な病院数が必要である。」とされた。そして、社会問題分科化会においては、「政府がいまだに強制的な隔離政策を採用しているところは、その政策を全面的に破棄するように勧奨する。」、「病気に対する誤った理解に基づいて、特別ならいの法律が強制されているところでは、政府にこの法律を廃止させ、登録を行っているような疾患に対して適用されている公衆衛生の一般手段を使用するようにうながす必要がある」との決議がなされた。
 この会議の報告には、「菌を排泄し、隔離に対して満足な条件が他人に対して保てないような患者では、これを収容所へ隔離する要求を行いうる権力を衛生官はもっているべきである」との部分もあるが、基本的には「強制収容は廃止すべき」との見解に立っていることは明らかである。
なお、この会議では、子供に対する家庭内感染を防止するために、未感染の子供の方を患者から遠ざける方策を採ることが勧告されている。(甲二一八)
 ところで、小沢龍厚生省医務局長は、この会議において、現在の患者数が明治三七年の実態調査時と比較して約二分の一に減少し、入院患者、在宅患者とも高年齢となり、日本におけるハンセン病の流行が極期を過ぎたとしながら、「まだ在宅の未収容患者が相当あり、これらが感染源となっているので早期に収容することが望まれ」ると発表した。この報告について、大谷は、その著書の中で「日本だけが隔離こそ唯一のハンセン病対策であるとして、未だに日本の完全隔離主義を間違って誇っていたのだ。」と指摘する(甲一の一九九頁)。
  
9 WHO第二回らい専門委員会(昭和三四年、ジュネーブ。なお、報告書は昭和三五年に発行)
 この委員会の報告では、@従来のハンセン病対策が患者隔離に偏っていたため、療養所の運営、経営に終始していたものを廃し、一般保健医療活動の中でハンセン病対策を行うこと(インテグレーション)、Aしたがって、ハンセン病を特別な疾病として扱わないこと、Bハンセン病療養所はらい反応期にある患者や専門的治療を要する者、理学療法や矯正手術の必要な後遺症患者等の治療のため、患者が一時入所する場であり、入所は短期間とし、可及的速やかに退所し、外来治療の場に移すこと、C家庭において小児に感染のおそれのある重症な特別なケースは治療するために一時施設に入所させることがあるが、この場合も、軽快後は菌陰性を待つことなく、可及的速やかに外来治療の場に移すこと、療養所入所患者は最小限度に止め、らいの治療は外来治療所で実施するのを原則とすることなどが提唱された。そして、「当委員会は、近時の諸会議における次の見解を強く指示する。すなわち、らいは他の伝染病と同じ範疇に位置付けられるべきであり、そうしたものとして公衆衛生当局によって扱われるべきである。こうした原則に適合しない特別の法制度は廃止されるべきである。こうした原則に適合しない特別の法制度は廃止されるべきである。」とされた。(甲二四の一四八頁、甲一九六)
 
10 第八回国際らい会議(昭和三八年、リオデジャネイロ
この会議では、「この病気に直接向けられた特別な法律は破棄されるべきである。一方、法外な法律が未だ廃されていない所では、現行の法律の適用は現在の知識の線に沿ってなされなければならない。(中略)無差別の強制隔離は時代錯誤であり、廃止されなければならない。」として、昭和三一年のローマ会議以降繰り返されてきたハンセン病特別法の廃止が一層強く提唱された。(乙一四一)


<第五 新法制定前後のハンセン病の医学的知見>
 
一 感染・発病のおそれについて
 ハンセン病が感染し発病に至るおそれの極めて低い病気であることは、既に述べたとおりであるが、このことが新法制定前後においてどの程度認識されていたのかについて、以下検討する。
  1 一九世紀までの病因論の状況等(甲一の四三頁以下、甲二、甲二四の七頁以下、乙九五、弁論の全趣旨)
 ハンセン病医学の権威でありハンセンの義父でもある
ダニエルセンは、一八四七年に発表した論文において、疫学調査の結果を基にハンセン病の病因について遺伝説を唱え、以降、伝染説が承認されるまで、ヨーロッパでは、遺伝説が支配的であった。ダニエルセンが、遺伝説の正当性を証明するために、自分や看護婦、看護助士、シスター、梅毒患者らに繰り返しらい結節を接種し、その結果がことごとく陰性であったことはよく知られているが、このエピソードは、多数の症例を見ていたであろうダニエルセンがハンセン病が決してうつらないと確信していたことをうかがわせるものである。
 伝染説が国際的に確立されたのは明治三〇年の第一回国際らい会議においてであるが(前記第四の一1)、この会議において、ナイセルは、ハンセン病の伝染性は顕著でない旨述べており、これに反対する見解が示された形跡はない。
 我が国には、奈良時代以前からハンセン病が流入していたようであるが、大流行の記録はなく、古くからハンセン病は「業病」とか「天刑病」であるとして差別・偏見・疎外の対象とされてきたことからみても、もともと、ハンセン病が伝染する病気であるという認識はなかったか、あったとしても極めて希薄であったと考えられる。明治時代以降も、我が国では、少なくとも第一回国際らい会議まで、遺伝説が支配的で、伝染説は容易に受け入れられなかった。
  2 人体接種の試み
 ダニエルセンと同様の人体接種は多数試みられているが、必ずしも成功していない。陽性となったのは二二五例中わずか五例(約二・二パーセント)といわれており、その陽性例にも疑問視されているものもあって、確実な陽性例はないともいわれている。このことは、「日本皮膚科全書」(昭和二九年発行、乙二六)や「らい医学の手引き」(昭和四五年発行、甲一二四の三二頁)に記載されている。また、日戸修一の「癩と遺伝」(昭和一四年発表、甲六二)、「細菌学各論T」(昭和三〇年発行、乙二三)にも人体接種についての同様の記述がある。
 このような人体接種の結果は、それ自体、ハンセン病が感染し発病に至るおそれが極めて低いことをうかがわせるものであり、また、我が国でも新法制定以前からその認識があったことがうかがわれる。
  3 第一回国際らい会議(明治三〇年)以降の国際的知見
(一) ウルバノビッチは、明治三五年に発表した論文「メーメル地方におけるこれまでのらい治療経験について」において、「らいが接触伝染をすることは、今日では全く確実とみることができる。少数の例外はあるが、らいは貧困な人たちの病気である。これは伝染が起こりにくいので、その実現には過密居住による密接な接触が必要だからである。」旨記述している。
また、キルヒナーも、昭和三九年に発表した「らいの蔓延と予防」において、「らい菌は人体外では比較的急速に死滅するので、かなり長期にわたる接触によってのみ感染が成立する。」旨記述している。(甲二の四四頁)
(二) ハンセン病が感染し発病に至るおそれの極めて低い病気であることは、以下のとおり、国際らい会議等においてもしばしば確認されている。
  (1)第二回国際らい会議(明治四二年)では、らい菌の感染力が弱いことが確認されている(前記第四の一2参照)。
  (2) 第四回国際らい会議(昭和一三年)では、「らい者と共に働く者でも、感染に対し合理的注意を払えば殆ど感染しないという事実を歴史は示している。」とされている(前記第四の一5参照)。
  (3) WHO編「近代癩法規の展望」(昭和二九年)は、「或るばあいには、たとえば結核よりも伝染性がずっと少い」とし、「衛生上の初歩的規則が守られている処では、療養所の職員には伝染の危険は殆どないし、このことは癩患者の配偶者にも当てはまる」としている(前記第四の二6参照)。
  (4) ローマ会議(昭和三一年)でも、決議の冒頭で、「らいが伝染性の低い疾患であり、且つ治療し得るものである」とされている(前記第四の二7参照)。
  4 第一回国際らい会議(明治三〇年)以降の国内の知見
 第一回国際らい会議以降の我が国における知見は、次のようなところから伺い知ることができる。
(一) 戦前の文献等
 (1) 
ドルワール・ド・レゼー神父の見解等(甲一の一〇八頁、甲二の四五頁)
 ハンセン病に関わった多くの人々が、経験的に、ハンセン病が伝染し発病に至るおそれの低い病気であることを認識していたことは想像に難くない。例えば、神山復生病院長のドルワール・ド・レゼー神父は、明治四〇年、その著書の中でハンセン病の伝染力が微弱である旨記述している。
 (2) 北部保養院長
中條資俊の見解(甲四九)
 
北部保養院長中條資俊は、昭和九年に発表した論文「癩伝染の徑路に就て」において、「軒並である一方は癩家族他方は非癩家族であった場合に、此両家が血縁でない限り、非癩家族の方に癩の現れた例はないと見られてる様なこと」や「癩と非癩者の夫婦の場合(中略)判然と伝染を起した実例に乏しい」ことなどを挙げて、「癩の伝染力が極めて弱い」、「癩患者と接触しても、感受性即ち素因の有無に依って伝染を受けると否との別があり、それは恰も物体に可燃質と不燃質があると同じ様に考へられる」とし、更に「癩の隔離は伝染力の微弱なるに鑑み厳格に失せざる様施設すべきである」と記述している。
 (3) 
日戸修一の見解(甲六二)
 
日戸修一は、昭和一四年に東京医事新誌に掲載された論文「癩と遺伝」において、「生長した人間の大部分は、癩といかに密接に接近しやうと大概は未感染に終る。例へば癩療養所に於ける医師、看護婦は未だ嘗て癩に罹患したことはなかったし、癩の家族或は夫婦についても癩に結婚後感染したと思はるやうな例は実に稀である。」、「夫婦感染なぞの率の低さは全く話にならない。五百組の夫婦について高々三ьl%に過ぎない。」などとして、ハンセン病の感染ないし発病に免疫や体質が影響を与えている可能性を示唆し、さらに、ダニエルセンらによる人体接種の試みに言及して「いかに癩が感染し難いかといふ歴史にとどまっている。」と記述している。
 (4) 
小笠原登の見解(甲一の一〇七頁以下、甲二三の八三頁以下、甲四八)
 京都大学皮膚科特別研究室主任の
小笠原登助教授は、1934(昭和九)年に発表した論文「癩の極悪性の本質に就て」において、「癩の伝染性が甚だ微弱である事は、我が国の専門家の多くが認めるに至った所である。結核に比すれば比較し得られぬ程に弱いと考へなければならぬ。」と記述している。また、同人の論文「癩に関する三つの迷信」にも、ハンセン病の感染力が微弱である旨の記述がある。さらに、同人は、1935(昭和一〇)年の第八回日本癩学会において、「癩の如き微弱な伝染病に於ては、病原体の問題よりも感受性の問題が重大である。予はこの条件の最も主要なものの一として、栄養不良の影響の下に築き上げられた体質を考へて居る。」旨論じた。
  隔離政策をあくまで批判し続けた小笠原登は、1936(昭和一六)年の第一五回日本癩学会で徹底的に攻撃されて孤立無援となり、同人のいわゆる佝僂病性体質論も否定された。しかしながら、この学会で小笠原登を攻撃した村田正太も「今頃癩の伝染力をさ程に強いと思っている者はいない」と述べたとされているのであり(甲一の一一七頁)、感染力が微弱であることまで否定されたとは考えられない。ただ、このころから、隔離を強化する国策の遂行上、感染力の微弱さが強調されなくなったものと考えられる(なお、甲五八によれば、少なくとも1932(昭和七)年の第五回日本癩学会の時点では、ハンセン病にかかりやすい体質が遺伝するという体質遺伝説の支持者が少なくなく、小笠原登を攻撃した野島泰治も、右学会では体質遺伝説を支持していたことがうかがわれる。)。
(二) 戦前の内務省の認識
戦前の内務省の認識は次のようなところによく現れている。
 (1) 
窪田静太郎内務省衛生局長の答弁等(甲一の九八頁、甲二〇九の一〇二頁)
 政府委員窪田静太郎(当時の内務省衛生局長。甲二の六九頁)は、明治四〇年二月二六日、「癩予防ニ関スル件」の貴族院における質疑において、次のとおり答弁している。すなわち、「触接性ノ伝染病ト云フコトニナッテ居リマスガ、乞食ナドガ局部ヲ…患部ヲ暴露シテ居リマス所ヲ通ッタト云フ、其クライノコトデ直グ感染スルト云フモノデハナイ、矢張リ直接若クハ間接ニ其患部ニ触レルトカ、或ハ患部ニ触レタ紙キレ…布片デアルトカ云フヤウナモノガ、コチラノ体ニ触レルト云フコトニ依ッテ伝染ヲスルコトニナッテ居リマス、唯空気ガ飛ンデ来ルト云フ訳デ無イヤウナ趣ニ承知シテ居リマス、此伝染ノ力ト云フモノハ直グサウヒドク飛ンデ来テ伝播スルト云フモノデハアリマセヌ、緩慢性ナル趣デアリマスガ、併シ其病気ガ緩慢ダケニ又根柢ガ甚ダ深イ、其点ニ於テハ最モ注意スベキモノデアルト云フヤウニ承知イタシテ居リマス」と述べているのである。
 また、同人は、昭和一一年に発表した論文において、「伝染病には相違ないが、思ふに体質に依って感染する差異を生ずるので、伝染力は強烈なものではない。古来遺伝病と考へられた所以もその辺に存るのであらうと思うた」と記述している。
 (2) 
赤木朝治内務省衛生局長の答弁(甲一の九九頁)
 政府委員赤木朝治(当時の内務省衛生局長。甲二の一八六頁)は、昭和六年二月一四日、貴族院における旧法の質疑において、次のとおり答弁している。すなわち、「此癩菌ト申シマスモノハ非常ニ伝染力カラ申シマスレバ弱イ菌デアルヤウデアリマス、従ッテ癩菌ニ接触シタカラト言ッテ、多クノ場合必ズシモ発病スルト云フ訳デハナイノデアリマス、例ヘバ夫婦ガアリマシテ、一方ガ癩患者デアルニモ拘ハラズ、其配偶者ハ長イ間一緒ニ居ッテ罹ラナイ、斯ウ云フモノモアルヤウデアリマス、(中略)殆ドソコニナカッタモノガポツント出テ来ル、斯ウ云フコトガアルノデアリマス、ソレ等モ矢張リ癩ニ罹リ易イ体質ヲ持ッテ居ル者ガ、何等カノ機会ニ於テ癩菌ニ接触シタト、斯ウ云フコトデナケレバ理論ガ立タナイヤウデアリマス」と述べているのである。(甲一の九九頁)
 右答弁の内容は、感染と発病とを区別していないとはいえ、現在の疫学的知見とかなり近いものであると評価できる。
 (3) 癩の根絶策(甲一八九)
 内務省衛生局が昭和五年一〇月に発表した「癩の根絶策」(甲一八九)については、後記第二節第一の八のとおりであるが、これにも「癩菌の感染力は弱く」と記載されている。
(三 戦後の医学書等
 (1) 
日本皮膚科全書(昭和二九年発行、乙二六)
 この書籍は、「癩の伝染は他の伝染病に比して遙かに弱く、而も個々の場合で非常に違う。幼児期の長期に亘る密接な接触が感染の最好条件となる。併し比較的短期の一寸した接触で感染することもあり得る。」、「重症者と長期に亘り同居しながら感染しなかった例は数多く知られ」、「接触が最密である夫婦間の感染が存外少いのも衆知の事である。」としている。また、「貧困で不衛生な雑居生活が癩の伝播に好都合なのはハンセン以来指摘された処で」、「宮崎、高島は今次の太平洋戦争と癩発生との関係を論じ、殊に宮崎は潜伏又はそのままの状態で発病迄に至らなかったかも知れない状態の人が戦争と云う困難な状況下に遂に発病に至ったと断じ」ているとしている。さらに、ハンセン病に「何等か罹患し易い素質の存在が考えられる」とし、遺伝的素因の存在を肯定する国内外の見解を多数紹介している。なお、ハワイのナウル島などにおける大流行については、「癩が離島殊に熱帯地方の癩処女地に入った時の急速な流行」例として紹介している。
 (2) 
細菌学各論T(昭和三〇年発行、乙二三)
 この書籍は、癩菌の培養、動物実験、人体接種試験がいずれも成功の域に達していないことを指摘し、「本菌は体外にては抵抗力の極めて微弱なものであ」るとしている。ただ、隔離については、「癩は癩者を中心として起る。それ故その撲滅は隔離に惹くはない。それはノルウェーで既に実験済みである。」と簡単に結論付けている。
 (3) 
内科書中巻(昭和三一年改訂第二四版発行、乙二八)
 この書籍は、「昆虫あるいは器具等の媒介によることは極めて少い。(中略)本病の感染には本病患者と永く共棲することが最も必要な条件である。貧窮・不潔、その他の非衛生的生活は、その誘因となる。」、「一般の衛生的規則を厳重に施行すれば、本病の伝染は余り恐るるに足らない。これは医師並びに看護婦の感染例がまれなことから見ても明らかである。本病患者の小児は出産と共に母から隔離しなければならない。本病患者は初期の者でも、直ちに癩病院に隔離して適当に治療することが最も必要である。」としている。
 なお、現代内科学大系感染症U(昭和三四年発行、乙二四)の書籍のハンセン病予防についての記述は、右内科書中巻の「一般の衛生的規則を」以下の記述とほとんど同じである。
 (4) 
らい医学の手引(昭和四五年発行、当時の長島愛生園長高島重孝監修、甲一二四の三二頁以下、三三九頁以下)
 この書籍は、「現在までに報告されたらい菌の人体接種実験は、その大半が陰性であり、日本の六〇年に及ぶ歴史をもつ各地のらい療養所から、職員が感染して発病したという症例はほとんどないことをみても、らい患者との単なる直接間接の接触による発病はきわめて稀であって、らいの伝染発病力はらいの伝染発病力は―少なくとも成人に対しては―一般に考えられているほど強くはない。」としている。
 また、「一九〇〇年からの三〇年間に患者総数は約三分の一に減少していた」とし、「日本のらいに対する絶対隔離政策は、一九三一年のらい予防法改正と共に行われたが(中略)絶対隔離政策はまさにナンセンスであり、らい患者の減少にあずかって力があったのは、文化的生活水準の向上ということになろう。(中略)@らいは不治でなく、A変形は単なる後遺症に過ぎず、B病型によっては伝染の恐れが全くないばかりか、C乳幼児期に感染しないかぎり発病の可能性はきわめて少ないことが明らかな現在では、らい予防法に旧態依然としてうたわれている隔離が、問題視されるのも当然である。」としている。
 いずれも、現在の知見とほとんど遜色のない的確な指摘というべきである。
 (5) 厚生大臣山縣勝見の答弁(甲六の26四頁)
 厚生大臣山縣勝見は、昭和二八年七月二日、衆議院厚生委員会における新法の質疑において、入所勧奨の説明として、「患者の療養所への入所後におきまする長期の療養生活、緩慢な癩の伝染力等を考慮いたし、まず勧奨により本人に納得を得て療養所へ入所させることを原則といたし」と答弁している。
  5 以上のとおりであって、ハンセン病が感染し発病に至るおそれが極めて低い病気であることは、国内外を問わず、明治三〇年の第一回国際らい会議以降一貫して医学的に認められてきたところであり、戦前の内務省もその認識を有していたことが優に認められ、これを覆すに足りる証拠はない。
 被告も、この点を積極的に争うものではないと考えられるが(被告の答弁書第二の二1参照)、以下、被告が指摘する点について若干の検討を加える。
(一) 被告は、幼児期における濃厚接触による感染の可能性が高いとし、家庭内接触児童の発病率を四〇パーセント前後とするいくつかの報告(乙二五、二六)を指摘する。
確かに、家庭内接触児童の発病率が夫婦間の場合などと比べて高いとする報告があることは否定できない。しかしながら、家庭内接触児童の発病率の報告には、前記第二の三2(別紙二1)のとおり、様々なものがあり、その中で被告の指摘するものは他と比べて突出して高いものばかりであって、新法制定までの報告に限定してみても、一〇パーセント代あるいはそれ以下のものも少なからず見られる。新法制定当時において、家庭内接触児童の発病率を四〇パーセント前後ととらえる見解が一般的であったかどうかについては、大いに疑問が残るというべきである。
(二) また、被告は、成人への感染や夫婦間の感染も恐れられていたとして、感染例をるる指摘する。
しかしながら、感染症である以上、感染例があるのは当然である。むしろ、疫学的には、最もらい菌による感染の危険にさらされているはずの患者の配偶者の発病率が極めて低いことや、同様の危険にさらされているはずの療養所の職員の発病例が我が国の療養所の長い歴史の中でもほとんど出ていないことに着目されるのが通常であって、被告の右指摘が反論として特段の意味を持つものと認めることはできない。
(三) さらに、被告は、新法制定当時の我が国の社会経済状況の下では、ナウル島などでの流行が我が国においては絶対に起こらないとはだれも考えていなかったと主張する。
しかしながら、ナウル島で起こったような流行については、「癩が離島殊に熱帯地方の癩処女地に入った時の急速な流行」(乙二六の二三頁)であるとか、「我々にはかかる爆発的流行は珍しいのであるが限られた島嶼其他癩処女地にはこれを見る事がある」(乙一三一)などと説明されているのであり、ハンセン病が流入して千年以上という歴史を持ち、一定の有病率を保ちながらも一度も大流行が記録されておらず、二〇世紀に入ってからは患者の顕著な減少傾向が見られていた我が国において(後記第二節第二の四参照)、このような大流行が起こる可能性は、絶無とまではいえないとしても、公衆衛生上ほとんど無視して差し支えない程度に低いものであったというべきである。新法制定当時の国会審議においても、我が国でこのような大流行が起こる可能性があることは指摘されておらず、かえって、患者は自然に減少するなどと指摘されているのである(後記第二節第二の六1の宮崎及び参議院厚生委員長の発言部分等)。新法制定当時、我が国でナウル島のような大流行が起こるかもしれないと真剣に考えていた専門家がどれだけいたかは大いに疑問である。

二 スルフォン剤の医学的評価について
 スルフォン剤(プロミン、DDS等)の医学的評価については、既に、前記第三の二、三、第四の二で触れているが、ここでは、これらをまとめつつ、更に検討を加える。
  1 スルフォン剤の国際的評価(前記第四の二参照)
(一) プロミンがハンセン病に著効を示すとのファジェットの報告は、既に第二回汎アメリカらい会議(昭和二一年)において高く評価されている。しかしながら、この時点では、プロミンの試験が世界各地で十分に行われていなかったこともあって、プロミンの評価について最終的見解を出すには時期尚早であるとの慎重論が強かった。
(二) 第五回国際らい会議(昭和二三年)においては、ハンセン病治療に目覚ましい進歩があったとされ、プロミンの国際的評価はより進んだものとなった。これは、多くの研究者が実際にプロミンを試し、その著効を目の当たりにした結果であろうと思われる。
また、この会議までには、DDSも、世界各地で試され、懸念されていたほどの副作用もなく、少量でプロミンに劣らぬ著効が認められることが確認されるようになっていた。
(三) スルフォン剤の国際的評価は、WHO第一回らい専門委員会(昭和二七年)の報告において、更に確実なものとなった。すなわち、この報告では、スルフォン剤治療が他のいかなる治療形式よりも非常に優れており、ほとんどすべての病型に効果的であるとされた。また、この報告では、DDSについても高い評価がなされ、外来治療の可能性を拡げるものとして、非常に利用価値が高い
この報告においては、スルフォン剤の評価を踏まえたハンセン病予防に対する考え方の大きな転換が見られる。すなわち、この報告では、強制隔離は決して望ましいものではなく、これを認めるとしても、ごく限られた範囲にとどめるべきであるとの考えが示されているのである。
しかしながら、この報告が強制隔離の実施について再考慮を必要とするという控え目な表現をするにとどまっているのは、一つには、大風子油治療がハンセン病に有効とされながらも数年後に高い頻度で再発を起こしたという経験があり、スルフォン剤治療についても、再発の頻度がいまだ明らかになっていない時点で確定的評価を下すことができないと考えられたためであろうと思われる。
MTL国際らい会議(昭和二八年一一月)においても、世界の医学者の間では、スルフォン剤の真価は一〇年の経過を見ないと分からないとの意見が少なくなかった。(甲二四の一〇一頁以下)
(四) しかしながら、右報告の後の国際会議でも、スルフォン剤の優位は全く動かず、スルフォン剤治療の実績が積み重ねられるにつれ、ますます確実なものとなっていき、強制隔離否定の方向性が次第に顕著になっていった。特に、ローマ会議(昭和三一年)以降においては、ハンセン病に関する特別法の廃止が繰り返し提唱され、第八回国際らい会議(昭和三八年)では、無差別の強制隔離は時代錯誤であるとまでいわれるようになった。
  2 スルフォン剤の我が国における評価(各箇所で指摘するほか、甲七、六六、証人犀川、弁論の全趣旨)
 スルフォン剤の我が国における評価が、前記1の国際的評価と大きく異なっていたわけではない。
(一) 昭和二一年、GHQのサムス公衆衛生部長により、ファジェットのプロミン等に関する文献が日本のハンセン病医療関係者に紹介されたことを契機に、我が国でもプロミン等による治療が開始された。そして、早くも昭和二二年一一月の第二〇回日本らい学会において、長島愛生園、栗生楽泉園及び東京大学におけるプロミンの研究報告がなされ、いずれもプロミンの治療効果を認めた。また、昭和二三年、昭和二四年の日本らい学会においても、プロミンの治療効果を認める報告が続いた。(甲二の二六一頁以下、甲二四の一一二頁以下、乙六六の二九頁)
 このころ、長島愛生園でプロミン治療を行っていた犀川は、皮膚の結節が自潰してできる慢性潰瘍や鼻道の閉鎖、咽喉頭の狭窄等による呼吸困難の症状が日をおって軽快し、皮膚結節の病理組織検査でも病変が見事に吸収され、らい菌が消失していくなどのプロミンの著効を目の当たりにし、いよいよハンセン病が治る時代を迎えたことを実感した旨述べている(犀川八回一七項以下、甲六六、乙一〇〇の一〇九頁以下、一三〇頁以下。なお、当時のプロミン治療の効果の一端を示すものとして、甲六九の写真@ないしE参照)。
(二) さらに、昭和二六年四月の第二四回日本らい学会において、「『プロミン』並に類似化合物による癩治療の協同研究」が発表され、プロミン、プロミゾール及びダイアゾンが極めて優秀な治療薬であると認められた。
 ただ、この時点においては、再発の可能性を検討するために少なくとも一〇年の経過を観察する必要があるとして、スルフォン剤の評価になお慎重な意見が学会内では根強かった。(甲六八、二〇〇、乙一〇〇の一三四頁以下)
(三) しかしながら、我が国でプロミンの治療研究が開始されてから一〇年を経過した昭和三一年ころ以降も、我が国におけるスルフォン剤の優位性は揺るがず、スルフォン剤の評価が見直されたとか、見直さなければならない状況にあったことはうかがわれない。
最も懸念された再発についてみても、前記第三の七1で検討したとおり、昭和三五年までの再発率は、L型のせいぜい一〇パーセント前後であったことがうかがわれる上(甲一二四の二〇四頁)、再発の原因も、不規則服用等様々なものがあって、スルフォン剤の治療効果に限界があることを示すものばかりとはいえなかったのであり、また、再発後の治療も多くの症例についてそれなりの成果を上げることができたのであるから、昭和三〇年代に再発の問題がスルフォン剤の評価を根本的に見直さなければならないようなものであったとは認められない。
もちろん、スルフォン剤の登場によって、ハンセン病医療の問題がすべて解決したというわけではない。しかしながら、進行性の重症患者が激減したことも事実であって(甲一二四の一七〇頁参照)、スルフォン剤の登場は、不治の悲惨な病気であるという病観を大きく転換させるものであったというべきである。
  3 被告指摘の事情の検討
 被告が指摘する点のうち、スルフォン剤単剤治療における再発や難治らいについては、前記第三の七、第五の二2ウで検討したので、以下、被告が指摘する新法制定前後に発行された医学書の記述について検討する。
(一) 一般醫の癩病学(昭和二六年発行、乙二五)
被告は、この書籍に「プロミンによつてよく軽快はするが、未だ全治と断定する迄に至つているものはない。」との記述があることを指摘する。
全治の定義にもよるが、昭和二六年の時点で全治と断定できる症例がなかったことは否定できないとしても、プロミン治療によって、これまで悲惨な病状を呈しなすすべのなかったものが著しく軽快していることは明らかであって、この書籍も、プロミンの効果について「一大進歩を与えている」と評している。
(二) 日本皮膚科全書(昭和二九年発行、乙二六)
被告は、この書籍の執筆者が行ったプロミンによる治療成績(なお、治療期間は明らかでない。)の中に、神経らいが増悪した例、結節らい及び斑紋らいに対して稍々効にとどまった例、効果が不明とされた例があることを指摘する。
しかしながら、被告が指摘しているような例は全体の中では多数とはいえず、特に重症化しやすい結節らいや斑紋らいに対するプロミンの有効性は右実験結果からも十分にうかがわれるのであり、この書籍でも「プロミンは結節、斑紋等の皮膚症状に対しては大風子油が遠く及ばないほどの卓効を示す」とされているのであるから、プロミンの評価を大きく揺るがすものとは考えられない。
(三) 内科書中巻(昭和三一年発行、乙二八)
被告は、この書籍に「確実な治療法は未だ無い」と記述されていることを指摘する。
しかしながら、この書籍には「結節癩に関する限りは多数の症例がこれ等によって明らかに著明な軽快を示し、これまでの各種の薬剤に比較すると格段の優秀性を具えたものの如くに見える。」とされているのであり、これまたプロミンの評価を大きく揺るがすものとは考えられない。
なお、乙二八の改訂版である乙六四(昭和五三年発行)にも同様の「確実な治療法は未だ無い」との記載がある。しかしながら、この時点でリファンピシンの記載もなく、いまだに大風子油(甲一二四の一九七頁参照)の有効性をるる述べる医学書の右記載にどれほどの医学的な意義があるのかは疑問というほかない。

 
三 「らいの現状に対する考え方」(乙一一二)
 厚生省公衆衛生局結核予防課は、昭和三九年三月、「らいの現状に対する考え方」をまとめており、これには、この当時までの医学的知見及び厚生省の認識が端的に現れている。
 これによれば、「従来の医学においては、らいは全治はきわめて困難であり、隔離以外に積極的な予防手段はないとされていたので、患者の隔離収容に重点をおいてきたのであるが、最近におけるらい医学の進歩は目覚ましいものであり、細部においては未だ不明な点は多々あるものの、らいは治ゆするものであること、らいが治ゆした後に遺る変型は、らいの後遺症にすぎないこと、らい患者それ自体にも病型により他にらいを感染させるおそれがあるものと、感染させるおそれがないものとがあること、らいの伝染力は極めて微弱であって、乳幼児期に感染したもの以外には、発病の可能性は極めて少ないことという見解が支配的となりつつあり(中略)らい治療薬の発達により、早期治療を行なったものについては、変型に至るものが少く、又菌陰性になるまでの期間も随分短縮されてきた。」、「こうした医学の進歩に即応したらい予防制度の再検討を行なう必要があるが、その検討の方向としては、第一に患者の社会復帰に関する対策であり、第二は他にらいを感染させるおそれのない患者に対する医療体制の問題であり、第三は現行法についての再検討であろう」、「本病についての特性として、社会一般のらいに対する恐怖心は今なお極めて深刻なものがあるので、まずこれについて強力な啓蒙活動を先行的に行わなければ、上記各検討結果による措置も実を結ぶことは困難である」とされている。


第二節 我が国のハンセン病政策の変遷等

第一 戦前の状況について(各箇所で指摘するほか、甲一、二、二四、弁論の全趣旨)>

 
一 「癩予防ニ関スル件」の制定
 我が国において、ハンセン病は、古くから「業病」とか「天刑病」として差別・偏見・迫害の対象とされてきた。そのため、ハンセン病患者の中には、故郷を離れて浮浪徘徊する者が少なくなく、そのような者は社寺仏閣等で物乞いをするなど、悲惨な状況にあった。これに対し、宗教家が救らい事業に乗り出し、特に、明治二〇年代以降、神山復生病院、慰廃園、回春病院、待労院等の私立療養所が開設されて、ハンセン病患者の療養に当たった。
 ところで、ハンセン病は、明治三〇年に制定された伝染病予防法の対象疾病に含まれていなかったが、伝染説が確立された第一回国際らい会議(明治三〇年)以降、ハンセン病予防に対する関心が高まり、明治四〇年に「癩予防ニ関スル件」が制定された。
 この「癩予防ニ関スル件」では、財政上の理由もあって、療養の途がなく救護者のない者のみが隔離の対象とされ、公衆衛生の点からは徹底を欠き、むしろ、ハンセン病が文明国として不名誉であり恥辱であるとする国辱論の影響を強く受けたものともいえるが、同時に、浮浪患者の救済法としての色彩を持つものでもあった。

 
二 療養所の設置
 内務省は、「癩予防ニ関スル件」を制定した明治四〇年、まず二〇〇〇人の浮浪患者を収容する方針を決め、「癩予防ニ関スル件」四条一項所定の療養所の設置方針として、市街地への距離が遠くなく交通の便利な土地を選ぶことなどを決めた。
しかしながら、実際の療養所建設は地元住民の反対運動で難航し、結局、次のとおり、全国五か所に府県連合立療養所(以下「公立療養所」という。)が設置されたが、これらは必ずしも右方針どおりの立地条件ではなく、特に、大島療養所は、瀬戸内海の孤島に置かれた。
   第一区   全生病院(東京都東村山市所在。後の多磨全生園)
   第二区   北部保養院(青森市所在。後の松丘保養園)
   第三区   外島保養院(大阪市所在。なお、昭和九年九月の室戸台風により壊滅的被害を受け、そのまま復興されなかった。)
   第四区   大島療養所(香川県木田郡庵治町所在。後の大島青松園)
   第五区   九州療養所(熊本県菊池郡合志町所在。後の菊池恵楓園)
 なお、大正四年ころ以降、療養所長から、入所患者の逃走防止等のために離島に療養所を設置すべきであるとの意見が度々出された。また、沖縄県の西表島に大療養所を建設するという構想もあったが、これは、地元住民の反対にあって実現しなかった。さらに、昭和一〇年三月一四日、衆議院で、療養所は外部との交通が容易でない離島又は隔絶地を選定して設置すべきであるという建議案が提出され、可決された。

 
三 懲戒検束権の付与
 設置当初の療養所内では、風紀が乱れ、秩序維持が困難な状況にあった。そこで、大正三年に全生病院長であった光田が所内の秩序維持のための意見書を提出したことなどをきっかけとして、大正五年法律第二一号による「癩予防ニ関スル件」の一部改正により、「療養所ノ長ハ命令ノ定ムル所ニ依リ被救護者ニ対シ必要ナル懲戒又ハ検束ヲ加フルコトヲ得」(四条ノ二)とされ、療養所長の懲戒検束権が法文化された。
また、これに伴い、大正五年内務省令第六号により、「癩予防ニ関スル件」の施行規則(明治四〇年内務省令第一九号)が一部改正され、懲戒検束権について、次のとおり定められた(なお、右規則五条ノ二第一項三号は、昭和二二年五月二日に厚生省令第一四号により削除された。)。
  五条ノ二 療養所ノ長ハ被救護者ニ対シ左ノ懲戒又ハ検束ヲ加フルコトヲ得
  一 譴責
  二 三〇日以内ノ謹慎
  三 七日以内常食量二分ノ一マデノ減食
  四 三〇日以内ノ監禁
  前項第三号ノ処分ハ第二号又ハ第四号ノ処分ト併科スルコトヲ得。第一項第四号ノ監禁ニ付イテハ、情況ニ依リ管理者タル地方長官又ハ代用療養所所在地地方長官ノ認可ヲ経テ其ノ期間ヲ二個月マデ延長スルコトヲ得
  五条ノ三 前条ノ外懲戒又ハ検束ニ関シ必要ナル細則ハ管理者タル地方長官又ハ代用療養所所在地地方長官ノ認可ヲ経テ療養所ノ長之ヲ定ム
 さらに、大正六年、右規則五条ノ三所定の施行細則が定められたが、右細則における懲戒検束事由の定めは極めて抽象的であり、恣意的な運用の危険をはらむものであった。例えば、風紀を乱したとか、職員の指揮命令に服従しなかったという理由で、減食等の処分の対象とされ、また、逃走し又は逃走しようとしたとか、他人を煽動して所内の安寧秩序を害し又は害そうとしたという理由で、監禁等の処分の対象とされた。
 このような懲戒検束権の法制化により、療養所長の取締りの権限が大幅に強化され、療養所の救護施設としての性格は後退して、強制収容施設としての性格が更に顕著になった。

 
四 断種(ワゼクトミー)の実施
 我が国の公立療養所では、当初、男女間の交渉を厳重に取り締まったが、それでも所内での男女交渉は絶えず、出産に至ることも少なくなかった。そのため、療養所内での出生児の養育を許さない方針であった療養所側は、その扱いに苦慮するようになった。それでも、男女間の交渉を認めることが療養所の秩序維持に役立つと考えた光田(当時全生病院長)が、大正四年から、結婚を許す条件としてワゼクトミー(精管切除)を実施したことをきっかけとして、全国の療養所でこれが普及するようになり、昭和一四年までに一〇〇〇人以上の患者にワゼクトミーが実施され、妊娠した女性に対しては、人工妊娠中絶が実施された。
 なお、昭和二三年の優生保護法制定前に患者本人及び配偶者の同意を得ないで優生手術が行われることが少なからずあったこと並びに優生保護法制定後も同様のことが皆無ではなかったことは、昭和二四年九月一〇日付け国立癩療養所長あて国立療養所課長通知(甲二一二の2)によって、十分にうかがわれる。
 なお、国民優生法(昭和一五年法律第一〇七号)には、ハンセン病患者に対する優生手術や人工妊娠中絶の規定が設けられず、ハンセン病患者に対する優生手術や人工妊娠中絶を認める旧法の改正案も不成立に終わったことから、右のような優生手術は、昭和二三年の優生保護法制定まで、法律に明文の根拠なく行われていたものであった。

 
五 第一期増床計画
 大正八年に政府が行ったらい患者一斉調査によれば、患者数が約一万六二〇〇人であり、このうち療養の資力がない患者は約一万人とされた。これに対し、療養所の収容能力は十分ではなく、収容患者数はまだ一五〇〇人にも満たなかった(別紙五参照)。
 そこで、内務省は、大正一〇年、大正一九年(昭和五年)までの一〇年間に、初の国立療養所を新設するとともに既存の五か所の公立療養所を拡張して、病床数を五〇〇〇床とする第一期増床計画を策定した。
 右計画の実現は遅れたが、昭和一一年ころまでにはその目標を達成するに至った。

 
六 入所対象の拡張等
 内務省は、大正一四年、衛生局長の地方長官あて通牒により、「癩予防ニ関スル件」三条一項の「療養ノ途ヲ有セズ」の解釈については、「なお未だいずれの患者といえども、ほとんど療養の設備を有せざるものと考うるの外なき状況にこれあり。なお救護者なる字句については、扶養義務者なると否とを問わず、常に患者を扶養するにとどまらず、療病的処遇を与うるものなることのいいと解すべく、かたがた患者の入所資格は相当広きものと解せられ」として、事実上すべての患者を入所の対象とすることとした。
なお、内務省衛生局予防課長の高野六郎は、大正一五年五月発行の「社会事業」に掲載された「民族浄化のために」という論稿(甲一八)において、次のとおり記述している。すなわち、「癩病は誰しも忌む病気である。見るからに醜悪無残の疾患で、之を蛇蝎以上に嫌い且怖れる。(中略)こんな病気を国民から駆逐し去ることは、誰しも希ふ所に相違ない。民族の血液を浄化するために、又此の残虐な病苦から同胞を救ふために、慈善事業、救療事業の第一位に数へられなれなければならぬ仕事である。(中略)要するに、癩予防の根本は結局癩の絶対隔離である。此の隔離を最も厳粛に実行することが予防の骨子となるべきである。」と記述しているのである。このような「民族浄化」の発想は、過酷な人権侵害を生んだその後の隔離政策に少なからぬ影響を与えたものと考えられる。

 
七 旧法の制定
 昭和六年に「癩予防ニ関スル件」がほぼ全面的に改正され、「癩予防法」との題名を附された上、旧法が成立した。主な改正点は、次のとおりである。
   入所対象の拡張
 右改正により、療養所の入所対象に「療養ノ途ヲ有セス且救護者ナキモノ」(「癩予防ニ関スル件」三条一項)との限定がなくなり、「癩患者ニシテ病毒伝播ノ虞アルモノ」が隔離の対象とされた(旧法三条一項)。
   従業禁止規定等の新設
 右改正により、行政官庁は、らい予防上必要と認めるときは、「癩患者ニ対シ業態上病毒伝播ノ虞アル職業ニ従事スルヲ禁止スルコト」ができ(旧法二条ノ二第一号)、また、「古着、古蒲団(中略)其ノ他ノ物件ニシテ病毒ニ汚染シ又ハ其ノ疑アルモノノ売買若ハ授受ヲ制限シ若ハ禁止シ、其ノ物件ノ消毒若ハ廃棄ヲ為サシメ又ハ其ノ物件ノ消毒若ハ廃棄ヲ為スコト」ができる(同条ノ二第二号)とされた。

 
八 「癩の根絶策」
 内務省衛生局は、旧法成立前の昭和五年一〇月、「癩の根絶策」(甲一八九)を発表した。
 これによれば、ハンセン病は「惨鼻の極」であり、「癩を根絶し得ないやうでは、未だ真の文明国の域に達したとは云へ」ず、「癩を根絶する方策は唯一つである。癩患者を悉く隔離して療養を加へればそれでよい。外に方法はない。欧州に於て、古来の癩国が病毒から浄められたのは、何れも病毒に対する恐怖から、患者の絶対的隔離を励行したからである。(中略)現今も患者の隔離が唯一の手段であり、最も有効なる方法なのである。若し十分なる収容施設があって、世上の癩患者を全部其の中に収容し、後から発生する患者をも、発生するに従って収容隔離することが出来るなれば、十年にして癩患者は大部分なくなり、二十年を出でずして癩の絶滅を見るであらう。(中略)然しかくの如き予防方法が講ぜられない場合は、癩はいつまで経っても自然に消滅することはない。過去の癩国は永久に癩国として残る。」とされ、癩根絶計画案として、二〇年根絶計画、三〇年根絶計画、五〇年根絶計画の三つを挙げている。
 これは、ハンセン病に対する恐怖心・嫌悪感をいたずらに煽り立て、国辱論も交えながら、ハンセン病患者をことごとく隔離する絶対隔離政策が唯一の正しい方策でありこれを行わなければハンセン病の恐怖からは永久に逃れられないとの強迫観念を国民に植え付けるものである。
癩根絶計画は直ちには実施されなかったが、昭和一〇年に二〇年根絶計画の実施が決定され、昭和一一年からの一〇年間に療養所の病床数を一万床とし、さらにその後の一〇年間でハンセン病を根絶することとされた。

 
九 療養所の新設
 第一期増床計画、旧法制定、二〇年根絶計画等に伴い、昭和五年三月に初の国立療養所である長島愛生園が岡山県邑久郡邑久町の瀬戸内海の小島に開設されたのを始めとして、次のとおり、国立療養所の開設が続いた。
   昭和七年一一月  栗生楽泉園(群馬県吾妻郡草津町所在)
   昭和八年一〇月  宮古療養所(沖縄県平良市所在。後の宮古南静園)
   昭和一〇年一〇月  星塚敬愛園(鹿児島県鹿屋市所在)
   昭和一三年一一月  国頭愛楽園(沖縄県名護市所在。後の沖縄愛楽園)
   昭和一四年一〇月  東北新生園(宮城県登米郡迫町所在)
   昭和一六年七月   松丘保養園、多磨全生園、邑久光明園、大島青松園及び菊池恵楓園が国立療養所に組織変更
   昭和二〇年一二月  駿河療養所(静岡県御殿場市所在)

 
一〇 無らい県運動
 無らい県運動は、昭和四年における愛知県の民間運動が発端になり、その後、岡山県、山口県などでも始まった。しかしながら、日中戦争が始まった昭和一一年ころから、この運動の様相が変化し、全国的に強制収容が徹底・強化されるようになった。昭和一五年には、厚生省から都道府県に次の指示が出された。すわなち、「らいの予防は、少なくとも隔離によりて達成し得るものなる以上、患者の収容こそ最大の急務にして、これがためには上述の如く収容、病床の拡充を図るとともに、患者の収容を励行せざるべからず。しかして患者収容の完全を期せんがためには、いわゆる無らい県運動の徹底を必要なりと認む。(中略)これが実施に当たりては、ただに政府より各都道府県に対し一層の督励を加うるを必要とするのみならず、あまねく国民に対し、あらゆる機会に種々の手段を通じてらい予防思想の普及を行ない、本事業の意義を理解協力せしむるとともに、患者に対しても一層その趣旨の徹底を期せざるべからず。」と指示されたのである。
 こうして、戦時体制の下、全国津々浦々で、無らい県運動により、山間へき地の患者をもしらみつぶしに探索するなどの徹底的な強制収容が行われ、これまで手が付けられていなかったハンセン病患者の集落もその対象となった。例えば、昭和一五年七月には、多くのハンセン病患者によって形成されていた熊本県のいわゆる本妙寺部落で強制収容が行われ、一五七名が検挙された。
このような無らい県運動の徹底的な実施は、多くの国民に対し、ハンセン病が恐ろしい伝染病でありハンセン病患者が地域社会に脅威をもたらす危険な存在であるとの認識を強く根付かせた。

<第二 戦後、新法制定までの状況について(各箇所で指摘するほか、甲一ないし三、二四、弁論の全趣旨)>
一 栗生楽泉園特別病室事件の発覚

 戦後間もなく、戦時体制下における療養所内での過酷な人権侵害の実態が明らかになったのが栗生楽泉園特別病室事件である。
 この特別病室は、昭和一四年に設置された重監獄で、厳重な施錠がなされ、光も十分に差さず、冬期には気温がマイナス一七度にまで下がるという極めて過酷な環境であり、全国の療養所で不良患者とみなされた入室者の監禁施設として利用された。特別病室に監禁された九二人の監禁期間は、平均約四〇日で、施行規則で定められた二か月の期間(前記第一の三参照)を超えて監禁されていた者も多く、監禁期間は最長で一年半にも及んでいた。被監禁者は、右のような厳寒の環境において、十分な寝具や食料も与えられず、九二人のうち一四人が監禁中又は出室当日に死亡しており、監禁と死亡との間に密接な関係があると厚生省が認めた者は計一六人に上る。監禁された理由については、書類不備のため明らかでないものが多いが、他の被懲戒者と連座的に監禁された者もいるなど、懲戒検束規定の運用が極めて恣意的に行われていたことがうかがわれる。
 この特別病室事件は、昭和二二年八月に大きく報道され、厚生省や国会による調査団が現地に派遣された。そして、同年一一月六日の衆議院厚生委員会において、厚生大臣及び東龍太郎医務局長(以下「東局長」という。)がこの問題についての答弁をし、右実態が明らかになったのである。
 なお、東局長は、同日の厚生委員会において、「最近におきましては、癩治療ということに対して、非常に大きな光明を見出しつつありますから、治療を目的とするところの全癩患者の収容ということを、一つの国策としてでも取上げていくようにいたしたい」と述べており、厚生省において既にプロミン治療効果を認識していたことがうかがわれる。(甲二二一、二三九)

二 優生保護法の制定
 
昭和一五年に制定された国民優生法は戦後間もなく廃止され、これに代わるものとして、昭和二三年、らい条項を含む優生保護法が制定された。
 戦前の国民優生法にらい条項は設けられず、ハンセン病患者に対する優生手術や人工妊娠中絶を認める旧法改正案も、様々な議論を経て結局可決されなかったが、この優生保護法の審議過程においてらい条項が特に問題視された形跡はない。
 なお、昭和二四年から平成八年までに行われたハンセン病を理由とする優生手術は一四〇〇件以上、人工妊娠中絶の数は三〇〇〇件以上に上る(別紙三参照)。(甲六の21、二三〇)


 
三 プロミンの予算化
 
我が国においても、昭和二二年以降プロミンの有効性が明らかになっていったが、このことは、国会審議でも取り上げられ、東局長は、昭和二三年一一月二七日の衆議院厚生委員会において次のとおり答弁している。すなわち、「幸いにこの患者が一日千秋の思いでおりますプロミンの製剤は、国内において生産がされるように相なりましたし、またプロミンよりも一歩進みましたプロミゾールも、最近はその生産ができて、そのサンプルを数日前私どもいただいております。(中略)もし十分な予算を獲得することを得ましたならば、癩患者の全部に対して、この進んだ治療薬による治療を与えることもできる。その日の遠からざることを私は信じておるのでありまして、癩というものは、普通の社会から締め出して、いわゆる隔離をして、結局その隔離をしたままで、癩療養所に一生を送らせるのだというふうな考えではなく、癩療養所は治療をするところである、癩療養所に入って治療を受けて、再び世の中に活動し得る人が、その中に何人か、あるいは何百人かあり得るというようなことを目標としたような、癩に対する根本対策癩のいわゆる根絶策といいますか、全部死に絶えるのを待つ五〇年対策というのではなく、これを治癒するということを目標としておる癩対策を立てるべきじゃないかと私ども考えております。」と述べているのである
 また、プロミンの登場は、患者に大きな希望を与えたが、当初、プロミンを広く普及させるだけの予算措置が採られていなかった。これに対し、まず、昭和二三年に多磨全生園で
プロミン獲得促進委員会が結成され、これを中心にプロミン獲得運動が全国に波及し、ハンスト等も行われた。その結果、昭和二四年度予算で、患者らのほぼ要求どおりのプロミンの予算化が実現した。(甲三、二四〇)

 
四 戦後の第二次増床計画と患者収容の強化
 
厚生省は、昭和二五年八月に全国らい調査を実施した。これによると、登録患者が一万二六二八人、このうち入所患者が一万〇一〇〇人、未収容患者が二五二六人であり、未登録患者を合わせた患者数は一万五〇〇〇人と推定された。五〇年前の明治三三年の調査で患者総数が三万〇三五九人(なお、把握漏れも相当あると思われる。)とされたのと比較すると、ハンセン病の患者数が五〇年間で半減あるいはそれ以下に減少したことになる。また、有病率は、人口一万人当たり六・九二人(明治三三年)から一・三三人(昭和二五年)と約五分の一になった。
 厚生省は、昭和二五年ころ、すべてのハンセン病患者を入所させる方針を打ち立て、これに基づき、全患者の収容を前提とした増床を行い、患者を次々と入所させていった(後記六の三園長発言のほか、昭和二四年六月の全国所長会議のメモである甲二一〇。なお、右メモについては、甲一〇八の六五頁以下における成田の証言参照)。昭和二四年五月一九日付けの新聞記事(甲八〇)によれば、「厚生省は、三〇年計画で日本からライ病を根絶するためその潜在患者を発見すべく全国的にライの一せい検診に乗出した。」、「全国六八九の保健所を動員して潜在患者の発見に努めるわけだが厚生省ではこれと併行して今年度中に国立療養所の病床を二〇〇〇増床して、とりあえず発見患者を入所保養させ、さらに明年度は二六〇〇床を増床する一方近く癩予防法を改正して三〇年計画でライを絶滅させる」、「各市町村の衛生官と警官が協力してライ容疑者名簿を作る」、「結核や乳幼児の集団検診の際保健所係員が現場へ出張して容疑者を発見する一方、保健所では一般住民からの聞込みや投書で容疑者発見につとめる」とされている。
   増床の状況は、別紙四のとおりであり、昭和二四年度から昭和二八年度までに五五〇〇床の増床が実現し、療養所の収容定員が一万三五〇〇人となった。そして、昭和二八年の調査で、未登録患者を含む推定患者数が約一万三八〇〇人とされたので、この時点でほぼ全患者の収容が可能になり、増床が終了した。
 また、昭和二六年度から昭和三〇年度までの新入所者は、次のとおりであり、療養所の増床に合わせて患者収容の強化が図られ、在宅患者が二七六九人(昭和二五年一二月末)から一一一二人(昭和三〇年一二月末)に減少した(甲一の一八頁参照)。(甲二二七、二三八)
   昭和二六年度  一一五六人
   昭和二七年度   六五四人
   昭和二八年度   五六三人
   昭和二九年度   五六六人
   昭和三〇年度   六〇八人
 
なお、明治三三年から平成六年までの患者数、在所患者数、有病率、新発見患者等の推移は、別紙五のとおりである。

 
五 栗生楽泉園殺人事件とその影響
 
昭和二五年一月一六日、栗生楽泉園で入所者同士の反目から三人の入所者が殺害されるという事件が発生した。
 このことは、同年二月一五日の衆議院厚生委員会で取り上げられ、光田(当時長島愛生園長)らが患者の取締りの強化を訴えた。
 また、同年三月一七日の衆議院厚生委員会では、同月七日から同月一〇日まで栗生楽泉園の実地調査を行った丸山直友委員が、楽泉園殺人事件のような不祥事が起こらないようにするためには、園の周囲に柵をめぐらせ患者が自由に外出できないようにすること、現行の懲戒検束規定が憲法違反でないとの明確な解釈を加えることなどが必要である旨述べた。これに対し、佐藤藤佐刑政長官は、「癩患者の特殊性にかんがみまして、療養所の中で脱走を防ぐため、あるいは園内の秩序を維持するために、ある程度の懲戒処分をしなければならぬという必要は、当然認められるのでありまして、癩予防法の法律の委任を受けて、現在は癩予防法施行規則というものを省令で規定されておりますが、この法令の根拠がありますれば、必要なる限度において懲戒処分を行うことは適法である。」として、新憲法下でも旧法の懲戒検束規定に基づき懲戒処分を行うことができる旨の答弁をした。(甲二四一、二四二)

 
六 三園長発言
  1 三園長発言の内容国会議事録
管理人による
 参議院では、新たなハンセン病政策を検討するため、厚生委員会に「らい小委員会」が設けられたが、昭和二六年一一月八日、同委員会において、林芳信多磨全生園長(以下「林」という。)、光田長島愛生園長、宮崎松記菊池恵楓園長(以下「宮崎」という。)を含む五人の参考人からの意見聴取が行われた。ここでの三園長の発言が、いわゆる三園長発言(三園長証言)であり、その内容は以下のとおりである。
 まず、
は、患者の収容強化について、「まだ約六千名の患者が療養所以外に未収容のまま散在しておるように思われます。でありますから、これらの患者は周囲に伝染の危険を及ぼしておるのでございますので、速やかにこういう未収容の患者を療養所に収容するように、療養施設を拡張して行かねばならんと、かように考えるのであります。」、「癩予防は現在のところ伝染源であるところの患者を療養所に収容するということが先ず先決問題でございますが(中略)、時勢に適合するように改正されることが妥当であろうと考えます。」と述べている。一方、治療については、「現在相当有効な薬ができまして、各療養所とも盛んにこれを使用して(中略)治療の効果も相当に上りまして、各療養所におきましても患者の状態が一変したと申しよろしいのでございます。(中略)もう一歩進みますれば全治させることができるのではないかと思うのであります。只今も極く初期の患者でありますれば殆ど全治にまで導くことができておるような状態でございます。」と述べている。
 次いで、
光田は、患者の収容強化について、「癩は家族伝染でありますから、そういうような家族に対し、又その地方に対してもう少しこれを強制的に入れるような方法を講じなければ、いつまでたっても同じことであると思います。(中略)強権を発動させるということでなければ、何年たっても同じことを繰返すようなことになって家族内伝染は決してやまない」、「手錠でもはめてから捕まえて、強制的に入れればいいのですけれども(中略)ちょっと知識階級になりますと、何とかかんとか言うて逃がれるのです。そういうようなものはもうどうしても収容しなければならんというふうの強制の、もう少し強い法律にして頂かんと駄目だと思います。」、「神経癩であろうと、癩と名のつくものは私どもはやはり隔離しておかねばこれはうつるものだというふうに考えるのであります。」と述べている。また、断種等については、「予防するにはその家族伝染を防ぎさえすればいいのでございますけれども、これによって防げると思います。又男性、女性を療養所の中に入れて(中略)結婚させて安定させて、そうしてそれにやはりステルザチョン即ち優生手術というようなものを奨励するというようなことが非常に必要があると思います。」と述べている。また、治療については、「ひどく癩菌が増殖して潰瘍をつくる、その潰瘍を治癒せしめるということだけはできるのでありますけれども(中略)神経繊維の再生はできないのであります。それでありまするから依然として癩菌が少くなったから、これを出すことができるものならいいが、依然として、そういうような患者さんは外部において又いろいろの職業に従事いたしまするというと、又ひどく破壊が起るのであります。現在の有力なる治療でも再発を防ぐということはなかなか私は難しいように思うのであります。」と述べている。また、療養所内の秩序維持については、「療養所の中にいろいろ民主主義というものを誤解して患者が相互に自分の党を殖やすというようなことで争いをしているところがございますし、それは非常に遺憾なことで、患者が互に睨み合っているというようなことになっておりますが、これは患者の心得違いなのでありますが(中略)こういうような療養所の治安維持ということについて、いろいろ現状を調べましたり、強制収容の所をこしらえたり、各療養所においてしておりますけれども、まだまだこれが十分に今のところ行届きませんので、こういうようなことをもう少し法を改正して闘争の防止というようなことにしなければ、そういうような不心得な分子が院内の治安を紊し、そうして患者相互の闘争を始めるようなことになるのでありますから、この点について十分法の改正すべきところはして頂きたい」、「逃走罪という一つの体刑を科するかですね、そういうようなことができればほかの患者の警戒にもなるのであるし(中略)逃走罪というような罰則が一つ欲しいのであります。これは一人を防いで多数の逃走者を改心させるというようなことになるのですから、それができぬものでしょうか。」と述べている。
 さらに、
宮崎も、患者の収容強化について、「癩の数を出しますことは古畳を叩くようなものでありまして、叩けば叩くほど出て来る」、「癩は努力すればするほどそれに比例して効果が挙るものだと思っております。反対に折角やった癩予防対策も中途半端なものでありますれば、いつまでも解決いたしませんで長く禍根を残す。癩問題はやるならば徹底的にやるという方針をとって頂きたい(中略)徹底的にいわゆる完全収容、根本的に解決をして頂くということにして頂きたいのでございます。」、「戦争状態の回復に従いまして癩も又当然減少して来るとは考えますが、この際癩予防対策の度を決して緩めないように、最後の完全収容に向って努力を傾注して頂きたいのであります。」、「現在の法律では私どもはこの徹底した収容はできないと思っております。(中略)いわゆる沈殿患者がいつまでも入らないということになれば、これは癩の予防はいつまでたっても徹底いたしませんので、この際本人の意思に反して収容できるような法の改正ですか、そういうことをして頂きたいと思っております。」と述べている。一方、治療については、「癩の治療医学は最近非常に進歩して参りまして、林園長もお話になりましたように、私ども今までにない画期的な希望を持っております。」としつつ、「如何に特効的な治療薬ができましても、すでに欠損した体の一部分は再生して参りませんし、畸形になった部分は元に復するということは困難であります。(中略)医学的にこれは治癒したと申しましても社会復帰ができない状態になります。(中略)社会的復帰ができないということは、不治と同じであります。(中略)治りましたならば直ちにこれが社会復帰のできるような状態で早期の治療をするような国としての措置をとって頂きたい」と述べている。
 なお、委員長は、冒頭に「我が国癩予防は最近著しく進歩を遂げ、患者も夥しく減少して参りました」、「幸いに治療法も進んで参りましたようであります」として、「癩予防法も時代に即応いたしまして改正、改善等の必要を考えておるのであります」と述べている。
 この三園長発言は、結果として、新法の内容に反映されることになり、また、その後のハンセン病行政にも大きな影響を与えた。(甲六の22)
  2 三園長発言の評価
 三園長発言は、患者の完全収容の徹底とそのための強制権限の付与、懲戒検束権の維持・強化、無断外出に対する罰則規定の創設等を求めるものであり、その内容もさることながら、ハンセン病患者を「古畳の塵」に例えるなど、表現の端々にも患者の人権への配慮のなさが如実に現れており、当時の療養所運営の在り方をもうかがわせるものである。
 当然のことながら、この三園長発言に対する後の評価も厳しい。例えば、大谷は、「(当時の国際的な知見から見て)本当に信じられないような発言であります。」、「新しい時代というものを全然認識していなかった発言だと思います。」、「ステレオタイプ以外の何者でもない。」と証言し、また、その著書(甲一の一四一頁、一八三頁)の中でも「新しい時代に全く逆行して患者の解放に歯止めをかけようとする証言」、「当時の日本のらい医学専門家の時代錯誤の見解」と評している。また、犀川は、その著書(乙一〇〇の一三六頁)の中で「三園長が揃いも揃って、なぜ『強制収容』とか『消毒の実施』『外出禁止』などを強調されたのか、その真意のほどは理解に苦しむし、残念なことである。」と記述している。また、成田は、意見書(甲一五九)において、「手錠でもはめてから捕まえて強制的に入れればいい」との光田の発言について、「医師としての認識からするとかけ離れ」たものであり、「患者を罪人扱いして取り締まるという潜在意識が働いたと言われても仕方がない。」とし、その著書(乙六六の四一頁)の中でも、三園長発言からの印象として「光田と宮崎は非常識で頑迷」と評している。
 なお、光田の著書(甲二〇七の二一五頁)によると、三園長は、右発言後、入所者から糾弾を受け、光田以外は発言をあっさりと撤回したとのことである。

 
七 予防法闘争
 日本国憲法施行に伴い、療養所入所者の人権意識が高まり、栗生楽泉園特別病室事件、プロミン獲得運動等を契機に入所者が団結して隔離政策からの解放を求める動きが活発になった。そして、昭和二六年二月、患者らの全国組織である全患協が結成され、これを中心として、旧法の改正運動が盛んになった。この運動は、時代に逆行するものというべき三園長発言によって、一層の盛り上がりを見せ、三園長を糾弾する動きに発展した。
 昭和二八年三月に内閣が提出したらい予防法案を入手すると、入所者らは、旧法と比べてほとんど改善されていないとして強く反発し、予防法闘争と呼ばれるハンストや作業スト、国会議事堂前での座り込み等の激しい抗議行動に入った。

 
八 衆議院議員長谷川保の質問に対する内閣総理大臣の答弁書
 衆議院議員長谷川保は、「癩予防と治療に関する質問主意書」において、「現行癩予防法は、その精神において人権を無視したきわめて非民主的なものと考えられ、且つ、現下の癩行政に適合しない法律として、多くの疑義がある」として、一五項目の質問をした。
 これに対し、内閣総理大臣吉田茂は、昭和二七年一一月二一日付けで、これに対する答弁をしたが、その内容は、次のとおりである(なお、四ないし九、一四、一五項は省略。甲六の23)。
  1 癩予防法は、憲法に抵触するとは考えない。
  2 現行法第三条第一項の規定により、患者をその意思に反して療養所に収容することは可能である。癩患者の収容については、あたう限り、勧奨により患者の納得をまって収容するように努め、大部分はこれによって目的を達しているが、この勧奨に対してもがん迷に入所を拒否する少数の患者については、癩病毒の伝播を防止し、公共の福祉を確保するために入所命令書を交付し、入所せしめた例もある。
  3 現行法第四条ノ二の規定により、国立療養所の長が懲戒検束を行うことは可能である。
    癩療養所は、一つの特殊な会社集団であって、この集団の中において秩序を乱すものに対しては、集団からの退去を求めることが、秩序維持のために通常とられる措置であるが、癩及び癩療養所の特殊性から癩患者を癩療養所から退所させることは、公共の福祉の観点から適当でないと認められるので、国立療養所の長に療養所の秩序を維持するための懲戒検束の職権を与えることが必要である。
    この職権の行使については、慎重を期するように特に強く指導しているが、この懲戒検束の方法等については、今後とも充分検討致したい。
  10 患者が治ゆした場合において、退所の措置がとられるのは、当然のこととして規定せられていない。
  11 癩の伝染力については、種々の学説があるが、伝染性の疾病であることについては一致しており、特に小児に対する伝染力は相当強いものと考えられる。
  12 現行法については、新憲法施行後においてもこれに抵触するとは認められなかったので、改正を行わなかった。
  13 現在のところ改正法案を提案する予定はないが、今後とも慎重に検討致したい。

 
九 新法の国会審議
  1 らい予防法案の提出と提案理由
 昭和二八年三月一四日、内閣かららい予防法案が提出されたが、同日の衆議院解散により、同法案は廃案となった。
 同法案は、同年六月三〇日、内閣から再び提出された。
 同法案の提出理由は、次のとおりである。すなわち、「癩は慢性の伝染性疾患であり、一度これにかかりますと、根治することがきわめて困難な疾病でありまして、患者はもちろん、その家族がこうむります社会的不幸ははかり知れないものがあるのであります。」、「(癩予防法は)今日の実情にそぐわないと認められる点もありますので、これを全面的に改正したらい予防法を新たに制定しようとするものであります。」というものである。また、新法六条については、「癩を予防しますためには、患者の隔離以外にその方法がないのでありまして、(中略)患者の療養所への入所後におきまする長期の療養生活、緩慢な癩の伝染力等を考慮いたし、まず勧奨により本人の納得を得て療養所へ入所させることを原則といたし、これによって目的を達しがたい場合に入所を命じ、あるいは直接入所させる等の措置が特例的にとられることと相なっておるのであります。」と説明された。
  2 衆議院における審議
 衆議院では、まず、昭和二八年七月三日及び同月四日の二日間、厚生委員会において審議が行われた。
 この中で、曾田長宗厚生省医務局長(以下「曾田局長」という。)は、「癩を伝染させるおそれがあるものについて、癩予防上必要があると認めるときに限ってこの積極的な勧奨をいたすということになっておりますので(中略)この必要以外の者で入所を希望しない者は、入所の義務がないということになるわけでございます。」、「(ただ、入所義務がない)にもかかわらず本人が希望して在所いたしますという場合には、将来他にそういういわば回復者の収容施設というもの、これは予防上の見地というよりも、むしろ純粋に社会福祉的な施設というようなものが設けられるようになれば、そういう施設に収容さるべき人たちであると思うのでありますが、また私どももそういう施設が将来においては必要になって来るものと予想いたしておりますが、今日においてはまだそういう人たちは数がきわめて少うございますので、非常にお気の毒ではありますが、もしも御本人が希望されるならば、一般の患者と同じ規律に従っていただきたいということになっております。その規律に従うことが意に反するならば、さような方々は自由に退所できるということになっております。」と述べている(乙五六の一一頁以下)。ただ、伝染のおそれの有無の判断については、「感染の危険性がある者、ない者というふうに、はっきりわけるわけにも行かない」、「ただちに採用し得る基準が求められない」と述べている(乙五六の一三頁)。また、山口正義厚生省公衆衛生局長(以下「山口局長」という。)も、「感染の危険性というものは相対的なもので」とし、伝染の危険性のない患者は「非常に数が少い」と述べている(乙五六の一二頁)。
 他方、山口局長は、治療について、「最近の医学の進歩によりまして、治療が非常に進歩して参りましたので、相当これはяS然菌をなくし得るかどうか、全治ということにつきましては異論もございますが、非常に軽快させ得るものであるという立場に立ってこれを取扱っております。」、「プロミンの注射によりますと、結節、浸潤などは、効果は治療開始後一箇月前後から現われて参りまして、六箇月前後で非常に軽快いたします。」と述べている(甲六の艾黶Z頁)。
 衆議院厚生委員会は、以上の審理を経た上、同日、自由党及び改進党の議員が賛成意見を、日本社会党の議員が反対意見を述べ、採決により多数をもって原案どおり可決すべきものと議決した。
 これを受けて、同日、衆議院において、らい予防法案が採決され、賛成多数で可決された。(甲六の28、29、乙五六)
  3 次いで、衆議院かららい予防法案の送付を受けた参議院では、昭和二八年七月六日から厚生委員会において審議が行われた。
 この中で、山口局長は、同月九日の厚生委員会において、「伝染させるおそれ」の解釈について、「らい菌を証明いたしますか、或いはらい菌を証明いたしませんでも、臨床的にらい菌を保有すると認められる患者(中略)例えば皮膚及び粘膜にらい症状を呈するもの、神経らいで神経の肥厚を伴うもの、神経らいで肥厚を認めないけれども、萎縮麻痺を認める、それが限局していないというようなものを考える」と述べている(甲六の34一頁)。また、曾田局長は、「例えば菌が一回、二回或いは一カ月というような程度証明されませんでも、まだその二カ月後、三カ月後に出る虞れがあるというふうに考えられます限り、病院としては感染の虞れが全くな
なったというふうには断定いたさないような状況であります。」と述べている(甲六の33二頁)。
 また、山口局長は、伝染させるおそれがある患者の扱いについて、「やはりどうしてもそれが療養所に入所を肯んじないようなときには無理にでも入所させて治療を受けさせ、そうして公衆衛生上の害を取除かなければならないというふうに考えておるのでございます。」(甲六の32四頁)、「伝染させる虞れがあるという患者はやはり収容するという方針をとるわけでございます。」と述べ、伝染させるおそれがある患者がそのまま入所の対象になるとの見解を明らかにしている(甲六の33三頁)。
 また、山縣勝見厚生大臣(以下「山縣大臣」という。)は、強制入所について、「やはり勧奨によってできるだけやりたい(中略)抜かざる宝刀によりまして空文に帰しましたら結構なことでありまするが」と述べつつも、勧奨にどうしても応じない場合のために強制収容の規定が必要である旨述べている(甲六の39四頁)。これに対して、山下義信議員は、「伝家の宝刀ということは極めてあいまいだ。(中略)いつでも伝家の宝刀をひらめかし、聞かなければ強制収容するぞと(中略)その実態は強制じゃないですか。」などと批判している(甲六の39九頁以下)。
 他方、曾田局長は、治療について、根治させることができると断定することはまだまだ難しい段階にあるとしながらも、「プロミンその他の新らしいらい治療剤が広く使用されるようになりまして、患者の治療成績は非常に上って参りました。で、恐らく戦前の状況に比べますれば、著るしい効果を挙げつつあるということが申上げられると思います。殊に病気の進行をとどめまして、病気を抑えるという意味におきましては極めて顕著な効果がある。」と述べ(甲六の32五頁)、山口局長も、同旨の答弁をしている(甲六の33一頁以下)。藤原道子議員は
「治療よろしきを得るならばこれは退院することができるのだ。こういう時代になってこれがもう我々の間では常識になっている」と述べている(甲六の39三頁)。
 また、廣瀬久忠議員は、「日本のらい患者の数がだんだんに数は減りつつあるという実情もある」と述べている(甲六の38六頁)。
 ところで、山口局長は、「先般医務局長が出席されましたWHOの総会におきましてらいに関する特別委員会の報告がございますが」と述べており、厚生省が当時既にWHO第一回らい専門委員会の報告を入手していたことが明らかであるが、その内容については「患者の収容ということについて強制力をどの程度使うかということについては、その国々の状況によって異なるというふうになっている」という程度の極めて不十分な説明に終わっている(甲六の32三頁)。
 厚生委員会では、退所規定を設けるなどの修正案が検討されたが、結局、各党派の意見調整ができず、改進党、自由党、緑風会等の議員が賛成意見を、日本社会党の議員が反対意見を述べ、採決により多数をもってらい予防法案を可決すべきものと決定されるとともに、新法附帯決議が全会一致で採択された。
 これを受けて、同年八月六日、参議院において、らい予防法案が採決され、賛成多数で可決された。(甲六の27、30,32ないし39、41ないし44)
  4 衆参両議院での審議を通じて、病型によって伝染の危険性の程度に差があることは議論に上っているが、そもそもハンセン病が伝染し発病に至るおそれの極めて低い病気であるということに着目した議論はほとんどなされていない。
 
一〇 「伝染させるおそれがある患者」の解釈
 新法六条一項等の「伝染させるおそれがある患者」についての厚生省の解釈は、前記九3の山口局長の答弁からすれば
  @ らい菌を証明するか、又は
  A 臨床的にらい菌を保有すると認められる者(例えば、皮膚及び粘膜にらい症状を呈する者、神経らいで神経の肥厚を伴う者、神経らいで神経の肥厚を認めないが知覚麻痺・筋萎縮がありそれが限局していない者)
  ということになる。
 この解釈は、昭和二八年八月一九日付け法務省入国管理局長あて厚生省医務局長回答(甲二一二の12)にもそのまま反映されている。すなわち、右回答では、病状の進行が停止している神経らい患者のうち、「菌を証明せず且つ神経の肥厚がなく、知覚麻痺及び筋萎縮が限局性、停止性で少範囲にしか認められない」者を、伝染の危険がない者として隔離を行わないと回答しているのである。
   なお、昭和二九年ころ作成されたとされる「らい患者伝染性有無の判定基準」と題する書面(乙一四〇)には、次の記載がある。
  1 らいを伝染させる恐れのある患者とは、
    らい菌を証明する者及びらい菌は証明しないが活動性のらい症状を認める者
  2 らいを伝染させる恐れのない患者とは、
    相当の期間にわたってらい菌を証明せず、且つ活動性のらい症状を認めない者
  3 活動性のらい症状とは、
   (一) 皮膚及び粘膜にらい症状のあるもの
   (二) 神経らいで神経の肥厚の著明なもの
   (三) 神経らいで麻痺及び筋萎縮の著明なもの
右書面の基準によれば、山口局長の答弁や右医務局長回答の基準よりも、「伝染させるおそれがある患者」の範囲がわずかに狭くなるが、右書面の体裁等からみて、この書面の基準が厚生省の正式な解釈基準として各療養所長や都道府県知事、新法五条の指定医師に周知・徹底されていたとは認められない。
 いずれにしても、未治療のハンセン病患者は、病型のいかんを問わず、何らかの皮膚症状や神経症状を呈することによってハンセン病であると診断されることがほとんどなのであるから、曾田局長や山口局長も認めるように(前記九2)、ハンセン病であるとの診断を受けながら、厚生省の基準によって「伝染させるおそれがない」と判断される未治療の患者は、ほとんど存在しないと考えられる。昭和二四年から昭和六一年まで国立らい療養所で勤務していた元松丘保養園長荒川巖(以下「荒川」という。)は、意見書(甲一一六)において、新法は条文上感染のおそれがある者のみを収容することとなっているが、現実の運用は、ハンセン病と診断されれば、感染のおそれがあるかどうかにかかわらず入所させなければならなかったと述べている。
 また、厚生省は、いったん「伝染させるおそれがある患者」と認められた者が、治療を経るなどして一度や二度の菌検査で陰性となっても、直ちに伝染のおそれがない患者になるとは考えておらず、相当長期間の経過観察による厳格な審査を経なければ、伝染のおそれがない患者とは判断されないとしている。この考え方は、参議院厚生委員会における曾田局長の答弁(前記九3)に端的に現れており、後述する「らい患者の退所決定暫定準則」(乙五五)にも反映されているのである。
 被告は、昭和二八年七月八日の参議院厚生委員会において曾田局長が伝染のおそれの判断を厳格に行う旨言明している(乙五一の二頁)と主張する。確かに、曾田局長は、同日に「入所いたします場合には入所を強制しなければならんというに足りる相当確たる根拠がなければならん問題でありまして、この入所を命じますときにはより厳密なと申しますか、確かに感染の虞れがあるということがかなり高い程度に至りませんと必ずしも強制はしないというような立場をとっております。」、「入りますときにはらいの患者で、感染力あるらいの患者であることが十分確実でなければこれを強いない。」と答弁している。しかしながら、その翌日である同月九日の山口局長の答弁が前述のとおりなのであるから、厚生省の伝染のおそれの解釈は限定的なものとは到底評価し得ない。なお、曾田局長は、同月八日において、「患者が十分治りきったというふうに断定するのにはよほど慎重にかからなければ、逆の意味で慎重に考えなければなりません」とも答弁しているのである。


<第三 新法制定後の状況について(各箇所で指摘するほか、甲一、三、二四、弁論の全趣旨)>
 
一 新法制定後の通達の定め
 ハンセン病患者に対する隔離政策は、新法制定により継続されることになり、細目的事項が次のとおり通達によって定められた。
  1 「らい予防法の施行について」と題する昭和二八年九月一六日付け国立らい療養所長あて厚生事務次官通知(甲二一二のメj
 この通知は、「患者に対しては、この疾病についての国の施策の趣旨をよく理解させ、外出の制限その他患者として守るべき義務を遵守して療養に専念するよう十分指導すること」としている。また、新法一五条については、「この規定の施行の適否は、公衆衛生に重大な影響を与えるものであるから、外出の許可にあたっては、特に慎重を期するとともに、患者に対しては、この規定の趣旨を徹底せしめ、違反することのないよう指導すること」とし、同条一項一号の「その他特別の事情がある場合」を、「患者の家庭における重大な家事の整理等であって本人の立会がなければ解決できない」ような場合に厳しく限定し、かつ、許可を受けて外出する患者に対して「外出許可証明書を交付し、携行させるよう配意すること」としている。さらに、秩序の維持についても、患者が当然に守るべき事項を「患者療養心得」において定め、飲酒、風紀をみだすような言動等の禁止、物品の持ち込み、持ち出し、文書、図画等の配布、回覧、掲出の制限など、私生活にわたる事項も事細かに規制している。
  2 「らい予防法の運用について」と題する昭和二八年九月一六日付け国立らい療養所長あて厚生省医務局長通知(甲二一二の14)
 この通知は、療養所長が入所患者の外出を許可する場合における新法一五条三項の必要な措置として、「着衣及び所持品の消毒、経由地及び行先地における注意事項の指示等により、個々の患者について適当な措置をとること」、「外出の許可期間は必要なる最短期間とし、経由地についても、目的地への最短経路を標準にして定めること」、「外出目的、外出期間、行先地及び経由地を詳細に記載した台帳をそなえつけ、許可の条件に違反したと認められる患者がある場合には、行先地の本人に連絡をする等必要な措置を講ずること」としている。
  3 「らい予防法の施行について」と題する昭和二八年九月一六日付け各都道府県知事あて厚生事務次官通知(甲二一二の13)
 この通知は、新法六条について、「患者が入所するのについて物心両面からの準備ができるよう、本人の病状及びその生活環境を考慮し、それぞれの実状に応じて懇切に説得を行うこと」、「勧奨に応じない者に対しては、法第六条第二項の規定による命令が出されるわけであるが、これは、患者の基本的人権に関係するところも大きいので、直ちに、この命令を発するという措置にでることはなく、先ずできるだけ患者及びその家族の納得をまって、自発的に入所させるよう勧奨し説得すること」、「法第六条第三項の規定により強制入所の措置がとられるのは、患者が入所命令を受けて正当な理由がなく、その期限内に入所しないとき、及び浮浪らい患者、国立療養所からの無断外出患者、従業禁止の処分を受けて、これに従わない患者等につき、公衆衛生上療養所に入所させることが必要であると認められ、しかも入所勧奨及び入所命令の措置をとるいとまがないとき等であること」としている。また、「法第一五条第一項の規定に違反して無断外出した場合、又は外出の許可を受けた者であっても許可の条件(目的、期間、行先地、経由地等)に違反している場合、その者については、法第六条の規定により、情況によって、入所勧奨、入所命令等の措置をとり、或は入所の即時強制を行いうるものであること。なお、無断外出患者等については、法第二八条の規定により拘留又は科料の刑が科されることになったことに注意すること」としている。

 
二 新法改正運動の経過
 全患協は、昭和二八年の予防法闘争に挫折したが、その後も新法附帯決議を軸に療養所内の処遇改善等の運動を継続した。
 そして、昭和三八年には、大規模な新法の改正運動が行われることとなり、次の一九項目からなる
らい予防法改正要請書が作成された。
  1 「らい予防法」を「ハンセン氏予防法」と改められたい。(「ハンセン氏予防法」でしょう:リベル)
  2 「目的」(一条)及び「義務」(二条)の中に治癒者の更生福祉を明確にされたい。
  3 「医師の届出」(四条)は指定医の診断による患者のみにされたい。

  
4 「指定医の診察」(五条)は強制診察にならないように改められたい。
  5 「国立療養所への入所」(六条)は、強制入所にならないよう改め入所でき難い者には指定医療機関を設けて管理できるようにされたい。
  6 「従業禁止」(七条)は期間を定め、その範囲を最小限度にとどめ禁止期間の補償をされたい。
  7 「汚染場所の消毒」「物件の消毒、廃棄等」並びに「質問及び調査」(八条ないし一〇条)は廃止されたい。
  8 BCG接種による予防措置を法文化されたい。
  9 医療の確立を期するために、その具体的措置を法文化されたい。
  10 治癒した者には証明書を交付されたい。
  11 「国立療養所」は、医療システムを確立し、医学リハビリテーションを行われたい。
  12 入所者の外出(一五条)は、予防上重大な支障をきたす恐れがある者を除いては、制限をしないように改められたい。
  13 「秩序の維持」(一六条)に関する特別の規制は廃止されたい。
  14 「物件の移動の制限」(一八条)は廃止されたい。
  15 退所者の保障を法文化されたい。
  16 各都道府県に指定医療機関を設け、在宅患者の医療を行われたい。
  17 「親族の援護」(二一条)に医療扶助を加え、在宅患者並びに退所者にもこれを適用されたい。
  18 現行法「第二七条」二項より七項「第二八条」を廃止されたい。
  19 「優生保護法」の中のらいに関する規定を削除されたい。
 全患協は、新法改正運動の一環として、まず、同年八月、厚生省、衆参両議院の社会労働委員等に対する陳情を行った。この際、若松厚生省公衆衛生局長は、全患協の陳情団に対し、「昔と現在のらいの状態は、学問の進歩によって大きく変ってきている。(中略)学問の進歩に伴って予防法を改正するのは当然であるが、長い伝統があるので一挙に国民の理解を得ることは難かしいし、結核より伝染力が弱いからといっても一ぺんにそこまでかえることは難かしい。」、「昔の政策が誤っていたからと云って、今責任をとれと云われても難かしいし、わたしとしては国の政策が誤っていたと考えていない。尚、予防法は進歩した医学に基づいて改正したい。しかし改正しなければ何事も出来ないということではなく、出来ることはどんどんやって行きたい。」と述べた。
 また、同年一〇月には、厚生省、大蔵省及び参議院社会労働委員に対する陳情が行われ、厚生大臣及び参議院社会労働委員全員に新法の改正要請書を提出された。この際、小西宏厚生省公衆衛生局結核予防課長は、「三九年度にらい予防制度調査会を作るべく予算要求している。その調査会において制度の改正について考えたい。」、「長く続いている制度を替えることは時間がかかる。厚生省としても早く改正したいと思うが、長く療養所に関係している者の頭が変らないから難かしい。」、「偏見除去については、予算をとることがPRになり、法律改正とPRは表裏一体と考えている。」と述べた。
 さらに、昭和三九年三月には、国会議員及び厚生省に対するより大規模な陳情が行われた。この際、長谷川保議員は、「患者さんもこのように治るようになったので、政府も早急に法改正に努力しなければならない。」と述べ、また、田口衆議院社会労働委員長は、同委員会開会中に陳情に訪れた全患協の代表に対し、「このような予防法があることは国として恥かしい。いっぺんにはいかないが長谷川さんとも相談して、一歩一歩よくなるように努力したい。」と述べた。他方、小林厚生大臣は、「公衆衛生局長から種々の学術書を読ませられており、役所の者も進んだ考え方を持っているが、一挙に予防法を改正することは問題がある。世の中の偏見を無くすることは急にはいかない。また法改正だけでは不充分で法律以外にも努力する途があるように思う。」と述べた。また、若松厚生省公衆衛生局長も、「最近の新しい医学の進歩はよく知っているが一挙に改正しては世間の理解が追いつかない点もあるので、小さい改正を何回か積重ねて、その後で大きく改正する方が一般の人に不安なく受け入れられると思う。」と述べた。

   しかしながら、この運動は、新法改正には結び付かず、平成八年に至るまで、新法の改正法案が提出されたり、国会で新法の改廃について審議された形跡はない。そして、二度にわたる運動の挫折や入所者の高齢化もあって、その後の全患協の運動の重点は、新法の改正要請から療養所内での処遇改善に向けられるようになった。(乙一〇九、特に五七一ないし六一〇頁)

三 退所について

  1 退所者の現れ
 戦後、プロミンの治療効果によって療養所内の菌陰性者が増え、昭和二三年には二六パーセントであった菌陰性者の割合が、昭和二五年には三七パーセント、昭和三〇年には七四パーセントにまでなり、多くの症状固定者、治癒者が現れるようになった。(甲二一九別表四)
 これに伴い、昭和二六年に全国で三五人の軽快退所者を出し、以降、次第に軽快退所者が増加していった。昭和二六年以降の軽快退所者数は、別紙六のとおりである。
  
2 暫定退所決定準則(乙五五)
(一) 暫定退所決定準則の内定
厚生省は、昭和三一年に「らい患者の退所決定暫定準則」なる文書を作成し、各療養所長に示した。その記載内容は、次のとおりである。
らいの治癒又は略治、その再発並びに伝染のおそれの有無の判定は、現段階においては、かなり問題とされる点がある。これがため従来各国立療養所における患者の退所決定にあたってその基準が区々となり、その結果、不測の紛議が生じた例もあるので、次のように暫定的に退所決定準則を定める次第である。
本症の特質に鑑み、本準則はあくまでもその必要最小限を示すものであって各療養所長が本準則よりも一層高度のものを定め、それに基いて退所の決定を与えることを妨げるものではなく、また本準則を定めたことによって積極的に患者の退所を行わせる意図を含むものでもない。また、本準則の実施によって将来是正すべき諸点を発見する場合も絶無とは云い難いので、本準則は厳秘としてあくまで療養所長単独の資料として活用し、部内外に対して漏示しないよう固く留意されたい。
    (1) 斑紋型及び神経型
     (イ) 病状固定を判定するためには、少くとも一年上の期間について観察すること
     (ロ) 皮疹が消褪してから一年以上当該部位における知覚麻ヒが拡大しないこと
     (ハ) (ロ)の知覚麻ヒの拡大がなくなってから二ケ月に一回づつ皮疹の消褪した部位のなるべく多数のところからスミヤーを作って検鏡し三回以上ことごとくらい菌陰性であること
     (ニ) 大耳、正中、尺骨、橈骨、後脛骨、各神経及びその他の皮膚神経の腫脹が著明でないこと
     (ホ) 光田氏反応 一〇×一〇ミリメートル以上であること
    (2) 結節型
     (イ) 病状固定を判定するためには、少くとも二年以上の期間について観察すること
     (ロ) らい性結節及びらい性浸潤が吸収され消失していること
     (ハ) (ロ)のらい性結節及びらい性浸潤が吸収され、消失してから二ケ月に一回づつ結節又は浸潤のあった部位のなるべく多数の所からスミヤーを作って検鏡し六回以上ことごとくらい菌陰性であること
     (ニ) (ハ)の検査でらい菌陰性であった場合更に結節又は浸潤のあった部位の一ケ所以上からバイオプシーを試みてらい菌陰性であること
     (ホ) その他斑紋型及び神経型の検査方法中(ロ)及び(ニ)に適合すること
       光田氏反応 六×六ミリメートル以上であること
    (3) その他(希望事項)
    (イ) 顔面、四肢等に著しい畸形、症状を残さないこと
    (ロ) 退所後家族又は隣人との不調和のおそれがないこと
(ニ) 暫定退所決定準則の位置付け及び周知性
この文書の位置付けは、必ずしも明らかでない。大谷は、その著書(甲一の二二〇頁)の中で「この文書が本当に公式文書であったかどうかについて、そうでなかったと解釈している人もあり、存在を知らなかったという人もあり、未だにその間の経緯は謎めいている。」と記述している。また、例えば、宮古南静園長や沖縄愛生園長を歴任している長尾は、この文書の存在を知らなかったと証言している(一二回一六八項。乙一七三も同旨)。
当初療養所長以外に厳秘とされたこの準則は、間もなく全患協の知るところとなった(甲一の二二〇頁)。しかしながら、この準則の退所基準が入所者らに広く周知されたと認めるに足りる証拠はない。被告は、右準則が入所者に周知されていたことの根拠として全患協ニュース(昭和三三年一二月一五日発行。乙一〇九の三五九頁)の記事を挙げるが、これにも右準則の存在・内容についての記載はない(後記3(二)参照)。
(三) 
暫定退所決定準則の評価
この準則の退所基準は、長期間の経過観察や頻回の菌検査を要求する極めて厳しいものである。大谷は、その著書(甲一の二二〇頁)の中で「厳格きわまりないもの」と評しており、証人尋問でも同旨の証言をしている(五回三五三項以下)。また、昭和二四年以降星塚敬愛園や松丘保養園で勤務し、昭和五三年以降は同園長であった荒川は、意見書(甲一一六)において、「この基準は基準通りに適用すれば、到底基準を満たして退所することなど困難な厳しい規定で」あり、「患者の退所は、基準の適用によってではなく、いわば勝手に出ていったまでのことであり、これを退所基準によって積極的に退所させたかのように言うのはおかし」いと述べている。さらに、瀧澤英夫(奄美和光園名誉園長。以下「瀧澤」という。)も、陳述書(乙一八二)において、右基準が厳しいものだったと述べている。しかも、注意すべきは、この準則が、退所の必要最小限の要件を定めたものにすぎず、各療養所においてより厳しい要件を設けることを妨げないとし、積極的に患者の退所を行わせる意図がないとまで付け加えていることである。
厚生省が退所基準について厳しい態度を取ったのは、新法六条の「伝染させるおそれがある患者」を極めて広く解釈し(前記第二の一〇参照)、これに該当するすべてのハンセン病患者を隔離の対象とする厚生省の見解からすれば、当然のことともいえる。もちろん、厚生省は、少なくとも昭和三一年の時点においては、「伝染させるおそれがある患者」を退所の対象とは考えていなかったのであり、その後も、新たな退所基準を定めたことはなく、ましてや、「伝染させるおそれがある患者」に退所を認めると公式に表明したことは、一度もなかった。
  3 昭和三〇年代、昭和四〇年代の退所許可の実情
(一) 昭和三〇年代、昭和四〇年代に暫定退所決定準則にとらわれないで退所を許可することもなかったわけではないであろうが(乙一八二の五頁参照)、退所基準が昭和三〇年代あるいは昭和四〇年代に一気に緩和されたことを認めるに足りる証拠はない。むしろ、スルフォン剤単剤治療を受けたL型患者の再発が目立つようになったことなどから、治癒の判定や退所基準が慎重になる傾向もないではなかった(乙六六の三〇頁。なお、乙二九、答弁書第二の三3(三)参照)。
厚生省公衆衛生局結核予防課が昭和三九年三月にまとめた「らいの現状に対する考え方」(乙一一二)には、暫定退所決定準則の改正案を検討中である旨記載されており、厚生省においても退所基準を見直す必要があると認識していたことがうかがわれるが、結局、厚生省が新たな退所基準を示すことはなかった。
(二) 療養所の中には独自の退所基準あるいは退所手続規定を定めていたところもある。
例えば、菊池恵楓園では、昭和三三年一一月、療養所と自治会との協議により、「治癒軽快退園希望者取扱い規定」が定められており(乙一七一の四六頁)、このことは同年一二月一五日発行の全患協ニュース(乙一〇九の三五九頁)にも掲載されている。この右全患協ニュースには、一か月ないし二か月に一ないし二回の菌検査を四ないし五回実施すること、必要箇所の病理組織検査を行うこと等が記載されているが、最終的な退所許否の判断は療養所長にゆだねられていたようであり、ここには具体的な退所基準は記されていない。
また、長島愛生園でも、同年一〇月に軽快退所基準が明らかにされ、昭和三四年三月二四日にこの基準による最初の退所者を出した(乙一八六の一六七頁以下、乙二二八の九八頁)。しかしながら、同年八月一日発行の「愛生」(乙二三二)によれば、右基準は次のとおりであり、厳格さにおいては暫定退所決定準則とほとんど変わらないものであった。
    @ 病状固定を判定する期間
       結節型    少くとも二年間
       神経斑紋型  少くとも一年間
    A 癩性皮疹、結節、浸潤が吸収、消褪して後一年以上その部の知覚麻痺が拡がらないこと
    B 大耳神経、尺骨神経及びその他の神経の肥厚していないこと
    C 皮膚の塗抹標本に於て左の如く連続ことごとく菌陰性であること
       結節型    二カ月おきになるべく多くの箇所より採り、連続一〇回以上ことごとく陰性であること
       神経斑紋型  二カ月に一回なるべく多くの箇所より採り、ことごとく陰性であること
    D 前項の検査で菌陰性であった場合、病巣部の皮膚一カ所以上から切片標本を作り菌陰性であること
    E 光田氏反応(一五日目)が結節型の場合、七ミリ以上、神経斑紋型が一〇ミリ以上であること
なお、被告は、星塚敬愛園入園者機関誌である「姶良野」(昭和三一年一〇月号。乙一二七)に当時の星塚敬愛園長の「癩の伝染しない人達は勇気をもって社会復帰すべきである」との発言が掲載されたことを指摘するが、伝染させるおそれがない者に退所が許されるのは当然のことであり、どのような場合に「伝染させるおそれ」がないと判断されるのかが重要なのである。
  4 昭和五〇年代以降の退所許可の実情
 昭和四〇年代後半にリファンピシンが数日の服用でらい菌の感染力を失わせることが明らかになり、「伝染させるおそれ」を理由に患者を隔離することはおよそ無意味となった。このような医学の進歩は、昭和五〇年代以降の退所許否の判断にも影響を与えたものと思われる(乙一七八の六頁参照)。
 昭和五〇年四月に大島青松園に赴任した長尾は、意見書(乙一七三の四頁)において、当時既に大島青松園で伝染させるおそれを理由に退所を妨げるようなことはなく、菌検査が陽性である患者や再発の懸念がある場合などに、治療上、療養上の観点から医師として入院の継続が望ましいとアドバイスする程度であったと述べ、証人尋問でも同旨の証言をしている(一二回六一項以下)。
  昭和五六年に大島青松園に赴任した今泉正臣(星塚敬愛園長。以下「今泉」という。)は、陳述書(乙一七四の七頁)において、退所が自由であると考えてきたと述べている。
  昭和五八年から平成一二年まで星塚敬愛園で勤務した後藤正道(鹿児島大学医学部助教授。以下「後藤」という。)は、陳述書(乙一七八の七頁)において、入所者の病状から入院治療の必要がある場合には療養所にとどまるよう説得することはあったが、入所者が退所を希望する限り自由に退所させていたと述べ、東京地裁の証人尋問でも同旨の証言をしている(乙二六三の二三頁以下)。
 昭和五二年四月以降栗生楽泉園副園長、奄美和光園副園長、同園長を歴任した瀧澤は、陳述書(乙一八二)において、栗生楽泉園でも奄美和光園でも、軽快退所を希望する者に積極的に勧めはしたが、これを制限したことはなく、退所後の生活を慮って退所を思いとどまるよう助言したことはあるが、退所するかどうかの最終判断は入所者本人の意思を尊重していたと述べ、東京地裁の証人尋問では、活動性区分を基準に軽快退所を認めていたが、これに当てはまらなくても入所者が希望すれば自己退所を認めていた旨の証言をしている(乙二六四の二三頁以下)。
このように、昭和五〇年代以降、多くの療養所において、退所を強く希望する入所者に対し是が非でも退所を許可しないということはなくなった。しかしながら、このような療養所の方針が公式に表明されたことを認めるに足りる証拠はなく、入所者にだれもが自由に退所できることが周知されていたと認めるに足りる証拠もない。長尾も、証人尋問において、「私自身がみんなに退所できるんだよというような意味のアナウンスはしたことはございません。(中略)もう治ったよとか、退所できるんだよということを今までは言わなかったんじゃないかということを書いております。その意味で、やっぱり知らなかったという方がときどきおられました。」と証言している(一三回四四四項)。また、長尾は、平成八年九月一日発行の「すむいで」において、「(「癩予防ニ関スル件」が制定された明治四〇年以来)九〇年間、患者さんは、病気の真実とは掛け離れて扱われ、国民としての多くの権利を剥奪され、義務として療養所に隔離をされ続けてきました。」、「予防法が廃止されて『入園者が自由になり、自らの権利として住む場所を選べる』と言っても、この愛楽園での生活を選ぶことは、ほとんどの人々にとって、苦汁を飲む選択・やむを得ぬ選択であります。」と記述している(甲一一二)。かえって、後記四3の昭和五七年の国会答弁でも見られるように、厚生省は、昭和五〇年代以降も、ハンセン病患者に対する人権制限の必要性を公式には否定していない。
ところで、昭和五〇年代以降、軽快退所者数については、逆に減少の傾向が見られる。その要因としては、入所による生活基盤の喪失のほか、入所期間の長期化、入所者の高齢化、社会に根強く残る差別・偏見の存在、社会復帰支援事業の不十分さが挙げられる。また、社会的差別・偏見とも関係するが、後遺症の存在が退所を妨げる要因となっている場合が多い(後記第四の四1参照)。入所者の中には、退所を積極的には希望しない者も現れてくるが(乙三〇参照)、これも退所をめぐる厳しい現実の現れといえる。
  5 社会復帰支援事業について
 多くの入所者は、療養所への入所により、家族とのつながりが断ち切られたり、職を失ったり、学業を中断せざるを得なくなるなど、社会での生活基盤を著しく損なわれており、ハンセン病に対する社会的差別・偏見が根強く存在する状況にあって、何の公的援助も受けずに療養所を出て社会復帰を果たすことは極めて困難であった。入所期間の長期化、入所者の高齢化、後遺症による身体障害等の要因が加われば、その困難さは一層増した。
 ところで、新法附帯決議の第七項は、「退所者に対する更生福祉制度を確立し、更生資金支給の途を講ずること」としている。そして、その趣旨に沿うものとして、昭和三三年に
軽快退所者世帯更生資金貸付事業が、昭和三九年にらい回復者に対する就労助成金制度が、昭和四七年に沖縄における技能指導事業が、昭和五〇年に相談事業がそれぞれ創設された。しかしながら、例えば、軽快退所者世帯更生資金貸付事業による貸付限度額は、生業資金五万円、支度資金一万五〇〇〇円、技能修得資金月額一五〇〇円(六か月間)であり、昭和三五年度の実績でも、一四件計四〇万円(うち生業資金三七万円、支度資金三万円)の貸付けが行われたにすぎない。また、らい回復者に対する就労助成金制度についても、その支給額は、生業資金が三万円以内、支度資金が一万五〇〇〇円以内にすぎない。なお、昭和四八年度予算では、退所患者支度給与金が総額で九四万五〇〇〇円、退所患者旅費が総額で三一万一〇〇〇円であった。
 このように、退所者のための社会復帰支援事業は、入所者の置かれた状況に照らすと、到底十分なものであったとはいえなかった。(甲二一二の35、乙三八ないし四二)

 
四 外出制限について
   新法一五条による極めて厳しい外出制限は、すべての入所患者に対し法律上当然に課せられているものであり、これに違反した場合の罰則も設けられているのであるから、右規定が存続する以上、外出制限自体が全くなくなるものではない。
   外出制限は、運用上徐々に緩やかになっていったが、以下のような事情からもうかがわれるように、まだ昭和三〇年代ころまでは、厳格な取扱いも存した。
(一) 多磨全生園長は、昭和二八年一〇月一六日付けで、厚生省医務局長に対し、昭和二五年より行われていた同園と栗生楽泉園との間の患者親善団の交歓について、「患者の往復は園の事業として職員附添いの下に途中下車を認めず、らい予防上支障のない方法を執れるので親善団派遣を行っても差し支えない様に思われますが、然し新予防法制定後の今日些か疑義ありと存じますので念のためにお伺い致します。」と照会をした。
これに対し、厚生省医務局長は、同月三〇日付けで、「患者の療養上不適当と認められるから取り止められたい」と回答し、かつ、このことを同日付けで各療養所長に通知した。
これは、職員付添いの下で行われる療養所間の親善団の派遣についてまで、厚生省が厳しく制限する場合があったことを示すものであって、当時の外出制限の実情をうかがわせるものである。(甲二一二の16)
(二) 全患協ニュース(昭和三〇年一一月一日発行)には、「最近所内高校の開校式に前後して愛生園を訪ねた他園の療友が園の職員によって入園を拒否され追い帰された事件が起った。訪問した療友らはそれぞれの園が発行した正規の外出証明書を所持していたにもかかわらず、その行先地が愛生園となっていない理由で、また『患者が患者に面会することは許可されない』とかの理由で、目指す園を目の前にして引き返さねばならなかった。」との記事が掲載されている。
なお、右記事に関連するものと思われるが、厚生省医務局国立療養所課長は、昭和三一年四月九日付けで、各療養所長に対し、「そく聞するところによれば、来る四月一六日の長島愛生園における入所患者の高等学校入学式に、各国立らい療養所の入所患者の一部が参加し、更に同園において会合を催す目的のもとに、入学者の附添又は長島愛生園の患者に面会の名目で同園に赴くやの趣であるが、いうまでもなく、このような目的又は名目による外出は、らい予防法第一五条の規定により認められないものであるから御了知の上処理されたい。なお、右の外出のために、らい予防法第一五条の規定に適合する外出目的によって許可を求めることも予想されるので、この期間の前後において、外出許可の申請があった場合には、外出の目的、行先地及び経由地等について十分に検討を加えることは勿論更に入学式又は会合に参加するおそれがないことを確認する等その取扱には特に慎重を期されたい。」と通知をした。(甲二一二の18、乙一〇九の一九五頁)
(三) 熊本簡易裁判所は、昭和三三年三月二八日、菊池恵楓園のある入所者を無断外出の罪(新法二八条一号)により科料に処した。これを報じた全患協ニュース(同年五月一日発行)によれば、無断外出の期間は約二か月であり、「昨年秋農繁期に一時帰省し、家事の手伝いをすませて帰園の途中、当時問題になった『脱走患者一斉検束』の網に引っかかった」とのことであるが、この事件だけがなぜ略式起訴にまで至ったのか、その具体的経緯は明らかでない。
被告は、無断外出に対する刑罰適用例がこの一件だけであると主張するが、この事件がもたらした抑止的効果には相当なものがあったと推察される。(甲八二の3)
(四) 昭和三五年一月一一日の読売新聞には、多磨全生園に入所していた女性の死体が発見された事件に関連して、
「野放しのライ患者」との見出しで、「同園の収容患者たちは園の周囲のいけガキにいくつも穴をあけて、無断外出用通用門をつくり、買い物から飲酒、競輪がよいまでしており、地元民の心配顔をよそに野放し状態にあることが分かり、問題となっている。」、「外出は親族の死亡、財産処分、相続など特殊な事情がある者以外は許されない。それも厳密な健康診断を行ない、感染の恐れがないと認められた軽症者にかぎって園長から許可書が発行されている。これ以外はすべて違反外出というわけだ。(中略)同園では係り員五人を昼夜の別なく巡視させており、禁をおかして外出しようとして発見されるものが毎月一〇人ないし二〇人もいる。(中略)周囲には約二メートルの高さでヒイラギのいけガキがあるが、患者はノコギリやナタでカキを破り、係り員は修理するヒマもないほどだ。(中略)地元民のあいだでは早くからこれが問題となっており、こんな野放し状態の記事が掲載され、多磨全生園庶務主任は「まったく困っている」、「患者の人権は守らねばならず、といって野放しにして一般社会に迷惑をかけてはならない。それだけに運営がむずかしい。違反外出にはまったく頭を痛め職員一同はつねに気をつかっている。」と述べ、厚生省医務局国立療養所課は「無断外出が多いということが本当なら施設、患者に厳重に注意する」と述べたとしている。(甲一二二)
(五) 多磨全生園の自治会長である平沢保治の著書「人生に絶望はない」(平成九年発行。乙一五)には、次のようなエピソードが紹介されている。すなわち、「園内のわたしの友人も社会復帰をするので何か技能を身に付けて外に出たいということで、外の学校に通っていました。でも当時の園はそれを許さない。そこでわたしとその友人は園を囲う垣根のところまで行き、友人はそこで服と靴を着替えてこっそりと出て行く。わたしは、そのことがばれないように彼の脱いだものを持って帰る役でした。これに対して園は、職員が犬を連れて巡回して外出を阻止しようとしていました。一度犬に追いかけられて(中略)犬にかみつかれたこともありました。
自立して社会に出ようとする人たちに対しても、園はそういう対応をとっていたのです。(中略)六〇年代後半になるとようやくゆるやかになりましたが、それまでは予防法で規定する『無断外出』として処罰されたのです。」(六八頁以下)というものである。
なお、無断外出を取り締まるための物理的な障壁は、次第になくなる傾向にあったが、多くの療養所は、交通の便が極めて悪いへき地にあり、実際上外出に相当の困難の伴うところもあった。特に、大島青松園は、療養所の施設以外は何もない瀬戸内海の孤島にあり、療養所が運行する船を利用する以外に島外に出る正規の手段はなかった。また、長島愛生園と邑久光明園も、ほぼ同様の立地条件で、昭和六三年に本州と架橋されるまでは、島外に出るには船を利用するほかなかった。これらの療養所は、正に隔離施設と呼ぶにふさわしい立地条件を備えていた。
   これに対し、主に昭和五〇年ころ以降の外出制限の実情をうかがわせる事情として、被告は、次のような点などを挙げる。
(一) 入所者の著書等
(1) まず、被告は、星塚敬愛園の元入所者である原告六番が、昭和五四年四月発行の「火山地帯」(乙六〇)において、「現在の癩療養所は外出も自由になり、病友たちはマイカー、単車を乗り廻している。生活処遇も悪くはない。最低拠出制障害年金一級が保障されている。有名無実となっている予防法を下手につついて、一般障害者並みに生活処遇が切り下げられては叶わない。本音はそこにあったのだ。」と記述していることを挙げる。
しかしながら、右の部分は、当時の入所者の中にあった新法改正慎重論の根拠を
これを批判する立場から推測して述べたものにすぎず、当時の療養所の実情をある程度うかがわせるものではあるが、自己の実感をそのまま表現したものではない。
(2) また、被告は、多磨全生園の自治会長であった松本馨の「戦後、特効薬の出現によってハンセン病から解放され、政府はまた、隔離収容所から解放療養へと政策を転換し、外出が自由になった。かくて人間復帰の道がひらかれた時、私は失明し、一切の自由を奪われた。」という文章(甲一の四二七頁)を挙げる。
しかしながら、この文章は、甲一の中での紹介部分が余りにも短く、外出の自由というのがどの程度のことをいうのか、その真意はつかみ難い。
(3) さらに、被告は、平沢保治の前記「人生に絶望はない」の中の「一九六三年には全生園を囲っていた二メートルもの柊の垣根も低く切られ(中略)今まで閉ざされた世界で生きていたのが外に自由に出て行けるという喜びを、そのとき感じました。」(七八頁)、「社会復帰できない人も『労務外出』という形で外に働きに出るようになった。」(九六頁)、「予防法は事実上空洞化しているрサういう意見が主流でした。」(九七頁)、「昔のように強制的に収容したり、患者が外出するのを強権で罰したりすることはなくなった。」(九七頁)などの文章を挙げる。
以上からは、特に昭和五〇年代以降、療養所が外出に対する積極的な規制を行わなくなり、これに伴い少なからぬ入所者がかつてに比べて外出が自由になったと実感していたことがうかがわれるが、外出の制限が全くないと感じていたかどうかは定かではない。入所者らが新法の「死文化」とか「空洞化」というのも、新法六条に定める強制措置、同法一五条、二八条に定める無断外出に対する療養所の積極的な規制や罰則の適用がなくなったことなどを指しているにすぎないと考えられる。
(二) 昭和五〇年代以降に療養所で勤務した医師らの証言等
(1) 長尾は、意見書(乙一七三)において、「私の時代には、外出は全く自由であり、外出の制限事例など聞いたことはない。菌検査はしていたが、その結果が陽性かどうかにより外出させるかどうかを判断するというようなこともなかった。外出許可証というものがあり、これを取得して外出していた者もいるが、これは主にバスレクなどの公式行事の場合に用いる形式的なものであり、入所者が園外で何らかのトラブルに巻き込まれた際に園が対応できるように、入所者の所在をつかんでおく必要から発行されたものである」と述べ、証人尋問でも同旨の証言をしている。
(2) 今泉は、陳述書(乙一七四)において、「私の経験する限りでは外出は自由である。」、「(外出許可)申請を拒否した経験はない。」、「無許可での外出に刑罰を科し得る条文があることも念頭になく、懲戒など考えたこともなかった。」と述べ、証人尋問でも同旨の証言をしている。
(3) 後藤は、陳述書(乙一七八)において、「昭和五八年当時は自家用車を持っている入園者も多数いて、自由に外出していた。」、「園のほうで外出を取り締まるというようなことはなく、園が本来罰するべき無断外出を黙認しているというような状況ではなかった。私自身としては、入園者の話を聞いたりその生活を見たりしていて、入園者が、びくびくしながら外出していたとは思わない。」、「菌が陰性であるかどうかは外出許可の基準にはなっておらず、菌が陽性であっても『感染のおそれがほとんどない』に○をつけて、許可証を出していた」と述べ、東京地裁における証人尋問でも同旨の証言をしている。
(4) 瀧澤は、陳述書(乙一八二)において、「私には施設管理者として外出を取り締まるという発想は全くなく(中略)仮に許可を得ないで外出した場合でも、刑罰を科せられるような状況ではなかったし、入所者の意識としても、無断で外出すれば刑罰を科せられるかもしれないことを恐れながら外出していたという状況にはなかったと思う」と述べ、東京地裁における証人尋問でも同旨の証言をしている。
以上からは、昭和五〇年代ころから、療養所においては、入所者の無断外出を積極的に取り締まることがなくなり、また、外出許可申請があった場合には、伝染させるおそれの有無にかかわらず、また、新法一五条一項各号の許可事由の有無にかかわらず、これを許可する方向で運用していたことが認められ、入所者の拘束感・被害意識もこれに伴い次第に軽減されてきたものと考えられる。
しかしながら、新法廃止のころまでに、厚生省や療養所が外出制限を事実上撤廃するなどということを公式に表明したことは一度もない。かえって、昭和五七年三月一八日の衆議院社会労働委員会において、
三浦大助厚生省公衆衛生局長は、「新患の発生が、しかも若い層にもあるという以上、やはりこれは一つの伝染病として対策をしなければならぬと思っております。」、「対策の手は緩めるわけにはまいらぬというふうに考えております。」と述べ、隔離政策が誤りでなかったのか新法が空洞化し死文化しているのではないかとの質問に対しても、「隔離のお話が大分出ておるのですが、伝染力が弱いとはいえこれは伝染病でございますので、ある程度の一定の制限というのは仕方ないと思うのですけれども、ただ人権につきましては、私ども本当に十分に注意を払っておるわけでございます。」と述べており、この時点においてもなお、厚生省は、ハンセン病患者に対する人権制限の必要性を公式には否定していないのである。(甲三五)

 五 優生政策について

 昭和二三年の優生保護法の制定によって、ハンセン病を理由とする優生手術や人工妊娠中絶は、本人及び配偶者の同意を得て行われることになった。昭和二四年から平成八年までに行われたハンセン病を理由とする優生手術が一四〇〇件以上、人工妊娠中絶の数が三〇〇〇件以上に上ることは前記第二の二のとおりである。
 ところで、我が国の療養所においては、ある時期まで、優生手術を受けることを夫婦舎への入居の条件としていたことから、入所者は、結婚して通常の夫婦生活を営むために優生手術を受けることを甘受するか、あるいは、結婚して通常の夫婦生活を営むことを断念するか、そのどちらかを選択せざるを得ない状況に置かれていた。
 このことは、平成八年三月二五日の衆議院厚生委員会でも取り上げられ、松村明仁厚生省保健医療局長は、「かつて療養所の夫婦寮への入居の条件として優生手術に同意をせざるを得ない状況であったという指摘がされており、そのような意味での半強制的な優生手術につきましては、おおむね昭和三〇年代前半、遅くとも昭和四〇年代以降には行われていないという関係者の共通の認識でございます。(中略)昭和二四年から昭和四〇年までのハンセン病患者またはその配偶者に対する優生手術件数を申し上げますと、男性二九五件、女性一一四四件、合計一四三九件である、こういう数字がございます。」と答弁している(乙五九)。
 なお、星塚敬愛園では、昭和六〇年一〇月発行の「入園者五〇年史」には、昭和二八年三月以降、ワゼクトミーを受けなくても夫婦舎に入居できるようになった旨の記載があるが、これで優生政策を利用した産児コントロールが終わったわけではない。右「入園者五〇年史」には、当時の星塚敬愛園長が、入所者自治会と協議をした際に、「今後は、ワゼクトミーを夫婦療の入居条件としない。ただし、妻が妊娠した場合は、夫に断種手術を施すことは当然である。また、女性が妊娠したときは、早く申出て、不幸を招かぬよう入園者側も協力してもらいたい」と述べたことが記されているのである(乙一九〇の四三、三二二頁)。

 六 患者作業について

 戦前、入所者には身体的に可能である限り患者作業と呼ばれる労働が割り当てられ、職員の人員不足が恒常化していた当時の療養所の運営を支えていたが、戦後になっても、このような状況はなかなか改善されず、療養所運営は、患者作業に依存するところが大きかった。
 新法施行当時の患者作業は実に多種多様で、治療・看護部門から、給食、配食、清掃、理髪、火葬など、生活全般に及んでおり、中にはハンセン病患者に行わせることが不適当な重労働も含まれていた。新法施行後、患者作業を拒否すれば懲戒処分をするといったような意味での強制はなくなった。しかしながら、療養所運営のかなりの部分を患者作業に依存していた状況で、患者作業の放棄は、入所者自身の生活・医療に直結する問題であったことから、多くの入所者は好むと好まざるとにかかわらずやらざるを得ないというのが実情であった。
 全患協は、このような患者作業を療養所職員に返上するいわゆる作業返還を運動の大きな柱として、ねばり強く活動を続けた。その結果、特に、昭和四〇年代以降に作業返還が進んだ。例えば、長島愛生園では、昭和三八年に屎尿汲取等七種類の作業が、昭和四七年に看護作業が、昭和四八年に火葬、薬配、雑工等一一種類の作業が、昭和五〇年に残飯回収、焼却、金工、塵芥集、木工、塗工の六種類の作業の返還が完了するなど、昭和三六年から昭和五五年までに四一種類の作業返還が行われた(乙一八六の二二〇頁)。また、星塚敬愛園では、昭和四四年一〇月に不自由舎付添作業が返還されるなど、昭和四一年から昭和六〇年四月までに四二種類の患者作業が返還され(乙一九〇の二五〇頁)、大島青松園でも、昭和五〇年二月に看護作業の返還が完了した(乙一八九の一五六頁以下)。
なお、和泉は、証人尋問において、患者作業によって後遺症を残した入所者が多く、「日本の療養所ほど障害の強い患者というのはありません。で、これは、患者さんに聞いてみると、大部分の所で作業によって病気を悪くしたというふうなことを言われておりますので、所内作業というのが、相当日本の患者さんの症状を悪くしたと思っています。」と証言している(四回三七項、七回二四五項以下)。また、長尾も、証人尋問において、患者作業によって後遺症を残した患者がいることを認めている(一三回一四一項以下)。

 
七 療養所における生活状況の変遷
 新法施行当時の療養所の生活状況は、極めて厳しいものであった。
 住環境については、一二畳半に八人あるいは夫婦四組が居住するということも珍しくなかった。菊池恵楓園では昭和四〇年に一人四・五畳の個室を備えた居住棟が新設されたが、これは他の療養所よりも早い個室の導入であり、当時、六畳二人制であった長島愛生園などでは、同年以降、一人四・五畳の個室整備を要求する運動が起こった。こうして、少しずつ居室の個室化が進み、夫婦舎も一室から二室になるなど、徐々に改善が行われた。
 医療面では、人員不足が深刻で、十分な整備がなされるまで長い年月を要した。昭和五八年当時の全患協ニュースによれば、同年一月一日現在の医師数は定員の一三六人に対して一一六人で(乙一一一の二八三頁)、「全国一三の施設のうち一施設だけが充員され、残る施設は定員を充員できずに四苦八苦しているのが実状」(乙一一一の二七四頁)であったとのことであり、高齢化により様々な疾患を抱える入所者の医療充実を願う切実な思いと不安感が伝わってくる。とはいえ、療養所における医療の充実は少しずつではあるが着実に進んでいった。高齢者、視覚障害者、身体障害者のためのいわゆる三対策経費は、年々増額され、昭和五九年から平成八年にかけて約二倍に増額された(乙二六七)。国立らい療養所全体の予算も同様で、昭和四八年から平成八年までにかけての予算額は、入所者数が約五分の三に減少する中で、約八七億〇九〇〇万円から約四〇一億五二〇〇万円と約四・六倍に増額された(乙二六五)。
 また、昭和四八年には、入所者に給付される患者給与金が障害基礎年金一級と同額に引き上げられ、入所者の経済状態の向上が図られた。
 このような入所者に対する処遇改善は、大谷が国立療養所課長となった昭和四七年以降の厚生省の一貫した政策の流れであった。これは、入所期間の長期化や入所者の高齢化により多くの入所者にとってもはや社会復帰が極めて困難な状況となり、隔離政策を廃止するだけでは到底妥当な解決が図られないという軌道修正の困難な現実を踏まえて、入所者に療養所で少しでも充実した余生を送らせたいという考えの現れでもあった。
 ただ、他方、厚生省は、このような処遇改善に必要な予算を獲得するために、大蔵省に対し、新法の隔離条項の存在を強調し、これを最大限利用してもいた。この点について、大谷は、「多少小役人的ではありますけれども、やはりらい予防法によって強制隔離しているんだから、国としては当然これだけのことをしなければならないのではないかということは、大蔵省のお役人方に対しての説得が非常に楽であったということですが、今日になってみますと、やはりそれは本質をちょっと誤っていたなという反省はあります」と証言し(五回七八項)、その著書「現代のスティグマ」(甲二三の四四頁)等でも「当時の私はらい予防法をフルに利用して、大蔵省に療養所改善の要求をし」たなどとして、同旨の記述をしているが、これは、公的には隔離政策を掲げつつも、入所者の退所や外出を黙認する形で開放的な取扱いをしていた当時の厚生省の立場を如実に表している。前記四3で述べた昭和五七年三月一八日の衆議院社会労働委員会における厚生大臣や厚生省公衆衛生局長の答弁も、右のような厚生省の立場からは、むしろ当然の内容といえるのである。

 
八 療養所以外の医療機関での治療等について(沖縄以外について、甲九、三五、二五六、乙六二、一三五、一八二、二六四、二八三、証人和泉)
  1 療養所以外の医療機関での治療の実情
 新法は、療養所以外の医療機関によるハンセン病の治療を明文で禁止してはいない。しかしながら、「伝染させるおそれがある患者」を極めて広く解釈して未治療のハンセン病患者のほとんどすべてをこれに該当するものとし、そのすべてを療養所への入所対象としていた厚生省のハンセン病政策からすれば、ハンセン病の治療を行う療養所以外の医療機関がごくわずかであったのは当然である。
 のみならず、抗ハンセン病薬は保険診療で正規に使用できる医薬品に含まれていなかった。この点については、証人和泉がその実情を詳しく述べているが、三浦厚生省公衆衛生局長も、昭和五七年三月一八日の衆議院社会労働委員会において、「どこかの大学病院へ行ったというような場合(中略)らい専門の治療薬は保険の適用になっておりませんので使えないわけでございます。」と答弁している。これもまた、療養所中心主義ともいうべき厚生省のハンセン病政策の現れであって、ハンセン病の治療が受けられる療養所以外の医療機関は極めて限られたものとならざるを得なかった。
 新法の下で、療養所以外の医療機関でハンセン病の治療を行っていたのは、京都大学、大阪大学等の大学病院や愛知県の外来診療所等、数か所であり、しかも、この中で、入院治療が可能であったのは、京都大学だけであった。京都大学では、ハンセン病との病名をあえて付けず、末梢神経炎、皮膚抗酸菌症等の病名で診断していた。また、大阪大学では、すべて自費診療であった。愛知県の外来診療所は、財団法人藤楓協会の事業として昭和三八年に開設されたものであるが、診療の対象は主に元療養所入所者であり、療養所に入らないで治療を受けた患者は、二〇年間で一五人程度であった。これらの医療機関でハンセン病の治療が受けられることも、一般にはほとんど知られていなかった。
 このような状況について、厚生省医務局国立療養所課が昭和五〇年九月に発行した「国立療養所史(らい編)」(国立療養所史研究会編集)において、石原重徳(当時駿河療養所長)は、「治療を受けるためにはどうしてもらい療養所へ入らねばならないのである。このことは(中略)らいの強制隔離にほかならないのである。」と記述しているが(甲九の六〇頁)、これが、当時の少なからぬハンセン病医療関係者の現状認識であったと考えられる。
  2 療養所における外来治療
 療養所における外来治療は、昭和四〇年代から少しずつではあるが、行われていた。
 別紙七は、沖縄愛楽園及び宮古南静園の二園を除く療養所における外来治療患者数と新規入所者数を対比したものであるが、これによれば、昭和四〇年度から昭和四九年度までは、外来治療だけの患者が六八人であったのに対し、新規入所者が五八八人と圧倒的に多いが、昭和五〇年度から昭和五九年度までは、外来治療だけの患者が一一九人で、新規入所者が一五三人となり、昭和六〇年度から平成八年度までは、外来治療だけの患者が三八人で、新規入所者が六八人となっている。
 このように、医学的には在宅治療が可能な症例がほとんどであったろうと思われる昭和五〇年代以降に少なからぬ新規入所者が生じているのは、多くの療養所が交通の便の極めて悪いへき地にあったことが大いに影響していると考えられる。(乙一三五)

 
九 新法廃止までの経過
 全患協は、昭和三八年以降も新法改正を運動方針の中に掲げ続けていたが、運動の重点は、次第に処遇改善に移っていった。特に、昭和四八年以降、入所者に対する処遇改善が進み、外出制限等も運用上厳格でなくなってくると、新法改正が実現しても現在採られている福祉的措置が後退するのではないかとの懸念から、全患協の中でも、新法改正に消極的な考えが現れるようになっていた。
 大谷は、厚生省医務局国立療養所課長となった昭和四七年当時から、新法が国際的にみてその学問的根拠を失っていることは明らかであると考えていた(甲一の二五二頁、証人大谷六回九項)。しかし、大谷は、昭和四九年ころ、当時の全患協の事務局長であった鈴木禎一から、「先生が法律改正をやるといわれるのなら、全患協は全面的に協力して闘う。」旨持ち掛けられた際、新法改正の動きが療養所での入所者の処遇の後退につながることを危惧し、迷った末に、新法の改廃を訴えるよりも事実上の部分的開放化と処遇改善を図る方が実利が大きいと考えて、新法改正に賛同しなかった(甲一の二五三頁以下、甲二三の四四頁、甲二三二、証人大谷)。この決断について、大谷は、後にその著書(甲一)の中で、事実上の開放化や処遇改善が「それなりの成果は挙げ得たと思う。」(二五四頁)としつつも、「患者さんに対する国の強圧的隔離政策の基本政策は変わることがなかった。私が出来たことといえばせいぜい微温的な政策の改善にとどまって」いたとし、さらに「ハンセン病差別の基本である予防法改正問題に身を挺して取り組むべきであったと悔やまれた。」、「実体を改善していけばそれで前進になるのではないかと考えて努力し、自らを慰めてきたのは、やはり姑息的で小役人的モノの考え方にとらわれていたとしか言いようがなかったと今でも悔やまれる。」(二七一頁)と振り返り、証人尋問でも同旨の証言をしている。
 その後、昭和六二年三月に所長連盟の新法改正要請書が、また、平成三年四月に全患協の新法改正要請書がそれぞれ厚生大臣に提出されたが、大きな反響を呼ぶには至らなかった。
しかし、平成六年に大谷見解が発表されてから事態は一変した。大谷見解は、新法を廃止し、在園者に対しては今までどおりの処遇を保障するというものであり、全患協ニュースにも掲載された(甲一の二九三頁以下)。
 これに対して、全患協を始め入所者らは当初とまどいを見せた。しかし、全患協は、平成七年一月、九項目の要求が充たされることを条件に大谷見解を指示することを明らかにした。その後の新法廃止に至る経過の概略は、第二章第二の二6イのとおりである。


<第四 ハンセン病患者等に対する社会的差別・偏見について>(前記認定事実に加え、各箇所で指摘するほか、甲一ないし三、弁論の全趣旨)
 
一 旧来からの差別・偏見について
 我が国において、ハンセン病が、明治時代以前から、差別・偏見・迫害の対象とされてきたことは、前記第二節第一の一で述べたとおりであり、このことは、程度の差こそあれ、ハンセン病の存在する国々に共通するところである(甲二の一ないし一五頁、甲二四の四ないし三一頁)。
 しかしながら、伝染説が確立されるまで、我が国では、ハンセン病を遺伝病であると信じている者が多く、ハンセン病が伝染する病気であるとの認識はなかったか、あったとしても極めて希薄であったことから、伝染に対する恐怖心からくる偏見はほとんどなかった。そのような時代における差別・偏見の根源は、ハンセン病患者を穢れた者、劣った者、遺伝的疾患を持つ者と見る考えからのものであった。
 我が国で、医学的知見として伝染説が確立され、伝染説に依拠する「癩予防ニ関スル件」が制定された後も、社会一般には、ハンセン病が伝染病であるとの認識はすぐには広がらず、なお遺伝病であると信じている者も多かったのであり、また、実際にも、ハンセン病が次々と伝染するような状況ではなかったことから、社会一般の伝染に対する恐怖心はそれほど強いものではなかった。

 
二 無らい県運動以降の戦前の差別・偏見について
 ところが、このような状況は、昭和四年ころから終戦にかけて全国各地で大々的に行われた無らい県運動による強制収容の徹底・強化により、大きく変わった。無らい県運動により、山間へき地の患者までもしらみつぶしに探索しての強制収容が繰り返され、また、これに伴い、患者の自宅等が予防着を着用した保健所職員により徹底的に消毒されるなどしたことが、ハンセン病が強烈な伝染力を持つ恐ろしい病気であるとの恐怖心をあおり、ハンセン病患者が地域社会に脅威をもたらす危険な存在でありことごとく隔離しなければならないという新たな偏見を多くの国民に植え付け、これがハンセン病患者及びその家族に対する差別を助長した。このような無らい県運動等のハンセン病政策によって生み出された差別・偏見は、それ以前にあったものとは明らかに性格を異にするもので、ここに、今日まで続くハンセン病患者に対する差別・偏見の原点があるといっても過言ではない。

 
三 戦後の差別・偏見について
   厚生省は、昭和二五年ころ、すべてのハンセン病患者を入所させる方針を打ち立て、これに基づき、全患者の収容を前提とした増床を行い、患者を次々と入所させていった(前記第二の四参照)。これにより、患者総数のうちの入所患者の割合は、昭和二五年には約七五パーセントだったが、昭和三〇年には約九一パーセントになった(別紙五参照)。このような患者の徹底した収容やこれに伴う患者の自宅の消毒、「ライ患者用」などと明記された列車を仕立てての患者の輸送(甲一の一二七ないし一三一頁)等は、ハンセン病が強烈な伝染力を持つ恐ろしい病気であり患者は隔離されなければならないとの偏見を更に作出・助長した。
   昭和二八年に制定された新法には、即時強制を含む伝染させるおそれがある患者の入所措置(六条)、外出制限(一五条、二八条)、従業禁止(七条)、汚染場所の消毒、物件の消毒・廃棄・移動の制限(八条、九条、一八条)等の規定がある反面、退所の規定がないが、このような新法の存在は、ハンセン病に対する差別・偏見の作出・助長・維持に大きな役割を果たした。このような法律が存在する以上、人々が、ハンセン病を強烈な伝染病であると誤解し、ハンセン病患者と接触を持ちたくないと考えるのは、無理からぬところであり、法律が存在し続けたことの意味は重大である。この点について、厚生大臣は、平成八年の廃止法の提案理由の説明の中で、「旧来の疾病像を反映したらい予防法が現に存在し続けたことが、結果としてハンセン病患者、その家族の方々の尊厳を傷付け、多くの苦しみを与えてきたこと」等について、「誠に遺憾とするところであり、行政としても陳謝の念と深い反省の意を表する」と述べており、衆参両厚生委員会も、廃止法の審議の際の附帯決議において、「『らい予防法』の見直しが遅れ、放置されてきたこと等により、長年にわたりハンセン病患者・家族の方々の尊厳を傷つけ、多くの痛みと苦しみを与えてきたことについて、本案の議決に際し、深く遺憾の意を表するところである。」としているのである。
   瀬戸内海の孤島等のへき地に置かれた療養所の存在も、新法の存在とあいまって、人々にハンセン病が恐ろしい特別な伝染病であることを強く印象付け、差別・偏見の作出・助長・維持に大きな役割を果たした。療養所の近隣の住民その他療養所の存在を知る者が、療養所をハンセン病患者が法律によって隔離されている場所と考え、その療養所の入所者が恐ろしい伝染病の危険な伝染源であるとの偏見を抱くのは、療養所を隔離施設と位置付ける新法の存在からすれば、極めて自然な成り行きである。ハンセン病患者を見たこともなく、ハンセン病のことを全く知らなかった者が、療養所の存在を知ったとき、そこにどのような偏見が生まれるのかを考えれば、新法によって隔離施設として位置付けられている療養所の存在が偏見を生み出す契機となったことの重大性は明らかである。
   外出制限規定が徐々に弾力的に運用されるようになり、昭和五〇年代以降はこれによる実際上の制約が著しく減退するなど、療養所の運営は、人権を制約しない方向で改善がされていったが、このことは、ほとんど公にはされず、社会一般のハンセン病に対する認識を大きく変えるものではなかった。厚生省が、隔離の必要性がなくなった昭和三五年以降においては、すべてのハンセン病患者及び入所者が隔離されるべき危険な存在ではないことを積極的に明らかにすべきであったことは後述するが、厚生省は、このような表明をせず、かえって、昭和五七年の国会答弁でも見られるように(前記第三の四3イ)、隔離政策を掲げ続け、これを療養所の予算獲得のためにも利用した(前記第二節第三の七)。このことは、入所者の処遇改善に役立ったという点で評価すべきことはもちろんあるが、同時に、ハンセン病患者及び元患者に対する根強い差別・偏見を助長し、維持することにもつながった。
   昭和四五年以降、新発見患者数が年間数十名程度に激減し(別紙五参照)、しかも、スルフォン剤の登場以降、ハンセン病が治し得る病気になり、かつてのような悲惨な病状の患者がほとんどいなくなっていたのであるから、ハンセン病に対する過度の恐怖心からくる偏見・差別は、自然に任せれば、人々に忘れ去られ、なくなってしかるべきものであった。そして、実際にも、人々は、ハンセン病患者や入所者、元入所者と関係する機会がない限り、ハンセン病患者が危険な伝染源であるとの偏見をもともと抱かないか、あるいは、時の経過とともにそのような偏見が薄れていったであろう。しかし、ハンセン病患者や入所者、元入所者と関係しないところで、いかに偏見が薄れていったところで、これらの者にとっては、何の意味もないのであって、問題は、これらの者が、社会と接する場面において、いかに認識され、扱われていたかということにある。そして、そのような場面においては、なお、厳然として、ハンセン病に対する過度の恐怖心からくる根強い差別・偏見が残ってきたといわざるを得ない。そして、その原因のすべてが新法の存在や厚生省の政策の在り方にあるとまではいえないとしても、重要な役割を果たしたことは否定し難いところである。

 
四 後遺症と園名について
  1 後遺症と差別・偏見
 ハンセン病の後遺症は、単に機能障害をもたらし得るだけでなく、ハンセン病患者として差別・偏見を受ける契機となることが多い。これは、機能障害がないか、さほど重大でないちょっとした顔面の変形や手足の曲がりであっても、同様である。
 特に、退所者は、目に見える後遺症があれば、入所歴があることを完全に隠し通すことは困難であり、激しい差別・偏見にさらされることにつながる。
 また、在園者にとっては、これがただでさえ困難な社会復帰の大きな障害となってきたのである。暫定退所決定準則が希望事項として「顔面、四肢等に著しい畸形、症状を残さないこと」を掲げているが(前記第三の三2ア)、これも、厚生省が、外見にハンセン病の痕跡を残す者の退所に極めて消極的であったことを示すものである。宮崎菊池恵楓園長が、左手の指がかすかに曲がっている入所者の社会復帰の申出に対し、「君、その手では社会的に治癒してないから社会復帰は無理だ。」と述べた(原告一二番一一回一〇六項)というのも、当時の療養所の態度をよく現している。証人長尾によれば、実に約八割もの在園者が、何らかの後遺症を持っているとされ(一二回一四項以下)、社会の差別・偏見の存在が後遺症を持つ在園者の社会復帰を妨げてきたことを端的に示している。
  2 園名等について
 入所者の中には、入所時に園名と呼ばれる異名を付けられた経験を持つ者が少なくない。平成八年に九州の五つの療養所の在園者を対象に実施したアンケートの結果(甲一四二の一五〇頁)によれば、約四五・六パーセントが園名の使用経験を持ち、約三一・一パーセントが現在でもこれを使用しているという。そして、本件訴訟においても、本名を明らかにすることをためらう原告が多い(当裁判所に顕著な事実)。
 園名の由来は、必ずしも明らかではないが、家族に差別・偏見が及ぶのを防ぐことのほか、これまでの人生と決別させるというような心理的な意味合いが含まれていたことも想像される。
 園名は、常に療養所から強制的に付けられたものとまではいえないが、このような園名を多くの者が使わざるを得ないこと自体、ハンセン病患者及びその家族に対する極めて強い差別・偏見の存在をうかがわせる。
 由布雅夫菊池恵楓園長は、平成一〇年四月九日の熊本日日新聞において、「(昭和六一年四月に赴任した)当時恵楓園には約千百人の元ハンセン病の人がいて、らい予防法があり、入所者は古里にも帰れないという事実を初めて知った。(中略)古里に帰れないのは、社会にハンセン病に対する偏見・差別が根強く残っているためであることも初めて知った。」と記述し、また、同月一六日付けの同新聞において、「多くの人が入所と同時に古里とのきずなが途切れている。子供のころ入所した人の多くは古里で死んだことになっている。中には位牌までつくっているところがある。これは自分の家族からハンセン病が出たことを隠すためである。親兄弟から、家族のために死んでほしいと言われた人もいる。子供の将来を考えた上でのこととはいえ自分から離婚して入所した人、『これは君の家の遺伝病だ』と一方的に子供と共に離婚された人もいる。」と記述している。(甲四六の1、2)

 
五 差別・偏見の現れ
   ここでは、差別・偏見の存在を示す象徴的な出来事のいくつかを取り上げる。
  1 竜田寮児童通学拒否事件
 竜田寮は、菊池恵楓園の入所患者の扶養児童を養育する同園附設の児童福祉施設(熊本市所在。新法二二条参照)であり、昭和二八年度までここの児童は一般の小学校(黒髪小学校)への通学が認められていなかったが、宮崎園長の働き掛けもあって、昭和二九年四月からこれが認められるようになった。
 ところが、同月の入学式当日、PTA会長ら一部の保護者が、竜田寮の新一年生四人の通学に反対して、小学校の校門に立ちふさがり、「らいびょうのこどもといっしょにべんきょうせぬよう、しばらくがっこうをやすみましょう」等と書かれたポスターを貼るなどして、児童らの登校を阻止する挙に出た。
 この問題は、昭和三〇年四月、熊本商科大学長が里親となって児童を引き取り、そこから通学させるという形で決着するまで、通学反対派と療養所・入所者側が激しく対立して紛糾した。(甲三の一六八頁、甲四六の7)
  2 「野放しのライ患者」の新聞記事
 昭和三五年一月一一日付けの「野放しのライ患者」の見出しの新聞記事については、前記第三の四2(四)のとおりであるが、この記事には、ハンセン病の伝染・発病に関する医学的知見からかけ離れた偏見の存在がよく現れており、これを読んだ多くの者が抱いたであろう誤解・偏見を考えると、その影響は計り知れない。ただ、この記事は、あくまでも、新法一五条や同条の運用状況が忠実に記載されているのであり、法の建前からすれば、このような記事が現れるのはむしろ当然である。この記事は、新法の外出制限規定の存在が、ハンセン病の伝染に対する一般公衆の恐怖心をあおる結果となった典型例であるということができる。
  
3 バスの運行拒否
 長島愛生園の一団体が  、昭和四七年四月、バス会社に配車を依頼したところ、一度は了解したバス会社が、配車の三日前になって、組合が消毒等を問題としていることを理由に、配車を断ってきた。(甲三の一八三頁)
 同様のことは、昭和四五年五月、大島青松園でも起こっている。入所者の団体旅行のため、貸切バスの配車を申し込んだところ、伝染のおそれ等を理由に断られた。このときには、結局、バスの配車を受けられたが、昭和五三年以降は、貸切観光バスの利用はなくなった。(乙一八九の一五九頁、三三六頁)
  
4 「せいしょう」の職員席・患者席の区別
  昭和四七年五月、大島青松園が保有する船舶「まつかぜ」が進水されたが、その造船に先立って、同園自治会は、従前の職員席・患者席の区別の廃止を申し入れていた。しかし、右区別が廃止されないまま「まつかぜ」が設計され、この区別は、昭和六〇年まで存続した。
 リファンピシンも登場していた昭和四七年にこのような区別を設けなければならない医学的な理由は見いだせない。療養所の職員ですら容易に偏見を払拭できなかったところに、ハンセン病に対する偏見の根深さが現れている。(甲三の一八三頁、乙一八九の一七七頁、長尾一三回二一〇項以下)
  
5 名護市ゲートボール協会加盟
 沖縄愛楽園のゲートボール協会は、昭和五八年四月以降、数回にわたって、名護市ゲートボール協会への加盟を申し入れたが、同協会から拒否され続け、新法廃止のころにようやく加盟を認められた。(甲一四九、長尾一三回三九項以下)
  6 心中事件
(一) 昭和二五年九月一日、熊本県で、ハンセン病患者の父を抱えた息子が、将来を悲観して、父を銃殺した上で、自殺するという事件が起こった。(乙一〇九の六二頁)
(二) 昭和二六年一月二九日、山梨県で、ハンセン病患者を抱える家族九人の心中事件が起こった。この事件は、保健所にハンセン病患者発見との報告があり、消毒の準備をしていた矢先の出来事であった。(乙一〇九の六三頁以下)
(三) 昭和五六年一二月ころ、秋田県で、軽い皮膚病をハンセン病と思い込み、二人の子供を絞殺し、自分も自殺を図ったが未遂に終わったという事件が起こった。(乙一一一の二三二、二九三頁)
(四) 昭和五八年一月、香川県で、自分と娘がハンセン病にかかっていると思いこんだ女性が、娘をガス中毒で死なせ、自分も自殺を図ったが未遂に終わるという事件が起こった。(乙一一一の二九三頁)
プロミン登場後において、このような痛ましい事件が絶えないのは、いかにハンセン病が医学的な意味を超えて恐れられていたかを示すものである。とりわけ、右(三)、(四)は、多剤併用療法が登場していたころの事件であり、ハンセン病に関する誤った認識がいかに根深いものであったかを示すとともに、ハンセン病にかかったと思っても、社会的な差別・偏見を恐れて、あるいは、隔離されることを悲観して、気軽に病院や療養所にも行けない実情があることを示すものである。


判決全文<T><V>

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