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(2006年10月1日〜10月31日)


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高坂健二氏の業績 投稿者:Ichiro 投稿日:10月31日(火)23時34分53秒   引用
Nippon Rai Gakkai Zasshi. 1990 Apr-Jun;59(2):113-9. Links
[Acid-fast bacilli isolated from foot pads of nude mice infected with leprosy bacilli][Article in Japanese]
Mori T, Kohsaka K.
National Institute for Leprosy Research.

もう一つの1983年の業績は題名からしてそれらしくありません。少し、年代が違いますが、上に挙げた論文も抄録をよく読みましたが違うようです。敢えて挙げるなら、私は高坂健二氏の業績でなく森先生の業績と思っていたからです。
Kohsaka Kは一人かどうかわかりませんが、最近の業績を除けばハンセン病ばかりの業績でした。42編もありました。
いきがかりで タクサン投稿しました。お許しください。
Ichiro
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高坂健二氏の業績 投稿者:Ichiro 投稿日:10月31日(火)23時21分31秒   引用
Lepr India. 1983 Oct;55(4):648-53. Links
Growth of Mycobacterium leprae in nude mice.Samuel NM, Loudon J, Kohsaka K.
Athymic nude mice were introduced in our laboratories in 1982. In this paper results over one year period of nude mice inoculated with small numbers of M. leprae are described. In this study we showed that 1 X 10(4) M. leprae with low numbers of viable bacilli inoculated into hind foot pads of nude mice housed both in vinyl plastic isolators and "clean room" conditions had the ability to grow and reach remarkable levels. There was dissemination of the infection to other uninoculated foot pads by six months.

PMID: 6366365 [PubMed - indexed for MEDLINE]

すみません。1983年のは あと一つありました。
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高坂健二氏の業績 投稿者:Ichiro 投稿日:10月31日(火)23時14分6秒   引用
Nippon Rai Gakkai Zasshi. 1990 Apr-Jun;59(2):86-97. Links
[Animal transmission of mycobacterium leprae--experimental leprosy][Article in Japanese]
Kohaska K.
これでしょうかね。検討しましょう。日本語の論文です。Kohaska K.は明らかに間違った発表で、Kohsaka K が正しいスペリングでしょう。なお、これは単著です。
年号が違うのは 最初学会発表にして、あとで正式に発表することがあるので、それにしても、差があるなあ。
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高坂健二氏の業績 投稿者:Ichiro 投稿日:10月31日(火)20時36分7秒   引用
>1983年(昭和58)に、大阪大学の高坂健二氏によって化学療法中の患者の方は感染源と
>ならないと言う事がヌードマウスでの実験で、判明し発表されたそうです。

この年はMedlineで検索可能ですので チェックしましたが 見つかりませんでした。
 Medlineで検索不可能の雑誌に発表されたのかと思います。現在の日本ハンセン病学会雑誌は Medline検索可能です。これは各国の一つの分野での学会雑誌で 英文抄録がついたものは Medlineが採用しているからです。
 もう少し探してみましょう。

 最初の文章を考えてみたのですが、化学療法前ではL型皮疹が、ヌードマウスに植わったのだが、一定の量の化学療法をしたL型皮疹は 植えることが不可能であったということでしょう。化学療法の意味が少々わかりませんが、MDTでしょうかね。少なくとも当時であればリファンプシンが含まれたと思います。
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Re:医療の質 投稿者:Ichiro 投稿日:10月30日(月)21時11分41秒   引用
医療の質と自由な討論

 学会における自由な討論は 医療の質を向上させると思われる。決まった時間をもうけず、ガンガン討論した思い出がらい(ハンセン病)学会にあった。大体水曜の夜であった。小生が出席したのは平成2年以降であるが、後藤先生(鹿児島)とか、尾崎先生が司会をして、病理から治療まで、またハンセン病の型などを討論した。だんだん症例が少なくなってきたようである。
 犀川先生によると昔の光田とか宮崎など、司会者など屁とも思わず、長時間討論していたという。今では予定された時間をオーバーすることはない。
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Re:医療の質 投稿者:はっしー 投稿日:10月30日(月)20時34分35秒   引用
素人としては、良しも悪しきも両方聞いた上で判断したいと思ってます
悪しきには、そこに至る過程があり将来における反省点が見えてくると
思っているので、どちらの情報も出来る限り知っておきたいと。。。

自分のキャパを超えて、望んでいるだけなので欲張りかもしれませんが
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医療の質 投稿者:Ichiro 投稿日:10月30日(月)13時05分30秒   引用
医療の質は なかなか判断が難しい。

 らい夏季大学とハンセン病夏季大学の教本は2冊所有しているが、多磨全生園の 問題の医長も講義していたので ありゃりゃ と思ったが、(私は1回聞いている) 講義しているから質が高いとはいえないと思います。

 私の某療養所時代は、入園者にもう薬は飲まなくていい(DDSが主)といい続けていました。しかし刷り込み現象のせいか、むなしい問答を繰り返していました。私は新患にはMDTばかりでした。T型は、半年でいいということでしたが、患者さんと話しあいながら1年薬を与えて、感覚まで正常化したので やった と思いました。あとは重症が多かったですね。医療の質については もっと古手の先生に聞いた方がよさそうです。(小生は平成元年からハンセン病療養所に勤務しました)
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塔和子さんの詩 投稿者:はっしー 投稿日:10月30日(月)07時25分8秒   引用  編集済
下記の「鯛」と言う詩と一緒に、映画の中でも塔和子さんの詩が読まれました。

「希望の火を」「豊かに身ごもる」「胸の泉に」と言う作品が印象に残りました。
(リベル) これらの詩は、こちらでお読みになれます・・・。
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余談ですが・・・塔和子さん 投稿者:リベル 投稿日:10月30日(月)01時44分16秒   引用  編集済


それは
生き作りの鯛
ぴいんと
いせいよく尾鰭を上げて
祝いのテーブルの上で
悠然と在りながら
その身は
  切られ
    切られて
  ぴくぴくと痛んでいる
人々は笑いさざめきながら
美しい手で
ひと切れ ひと切れ
それを口へはこんでいる
やがて
宴が終わるころ
すっかり身をそがれた鯛は
  すべての痛みから
    解放されて
ぎらりと光る目玉と
清々しい白い骨だけになり
  人々の関心の外で
ほんとうに鯛であることの孤独を
  生きはじめる



これは、放送の中でも読まれた詩ですが、ここにも紹介されています。
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余談ですが・・・茨木のり子 投稿者:リベル 投稿日:10月30日(月)01時22分29秒   引用  編集済
汲む
   −Y.Yに−

 大人になるということは
 すれっからしになることだと
 思い込んでいた少女の頃
 立居振舞の美しい
 発音の正確な
 素敵な女のひとと会いました
 そのひとは私の背のびを見透かしたように
 なにげない話に言いました

 初々しさが大切なの
 人に対しても世の中に対しても
 人を人とも思わなくなったとき
 堕落が始まるのね 堕ちてゆくのを
 隠そうとしても 隠せなくなった人を何人も見ました

 私はどきんとし
 そして深く悟りました

 大人になってもどぎまぎしたっていいんだな
 ぎこちない挨拶 醜く赤くなる
 失語症 なめらかでないしぐさ
 子供の悪態にさえ傷ついてしまう
 頼りない生牡蠣のような感受性
 それらを鍛える必要は少しもなかったのだな
 年老いても咲きたての薔薇 柔らかく
 外にむかってひらかれるのこそ難しい
 あらゆる仕事
 すべてのいい仕事の核には
 震える弱いアンテナが隠されている きっと……
 わたくしもかつてのあの人と同じくらいの年になりました
 たちかえり
 今もときどきその意味を
 ひっそり汲むことがあるのです
(リベル) 今、塔和子さんの番組を見終わって、この詩を思い出して、書きました。「Y.Y」というのは山本安英さんのことだそうです。
塔さんの詩には、泣かされました。言葉を紡ぎ出すというのは、あのような作業を言うのだなあと、改めて塔さんの詩を探して読むことを決めました・・・。言葉の並べ方が、あのような奥深い世界を生み出すことが出来ることに、今頃、今更ながら、驚いています・・・。(10.30 01:29)
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療養所内の医療経過 投稿者:はっしー 投稿日:10月29日(日)14時17分39秒   引用  編集済
多剤併用療法は、抗生物質に対して菌の免疫が出来てしまうのを
防ぐのに有効な方法として後に、確立されましたが単剤療法でも
軽快する方達が居た事を思うと、手段としては効力はあったのだろう

と思います、それは菌種のタイプに応じてという事なのかもしれません
素人には、そこまでは判らないのですが・・・・

どちらの療法でも、耐性菌を作らないと言う事が治療のポイントの様です


また、過去の治療経過に関して最近遅ればせながら感じているのは
医学的文献以外にも、文芸作品などの中にも入所者の方達の実感が
篭められている著作があり、作品の発表年代と作品の発表方法
作品内のエピソードなどを見て、当時の様子を推察していくと
具体的な療養所内の治療経過や諸々が、出ている例がありました。


北條民雄の「いのちの初夜」「眼帯記」などを読み直してみたのですが
実際の治療経過に関する文章は、興味深いものがあるなあと思いました。
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医療の問題 投稿者:Ichiro 投稿日:10月29日(日)09時59分36秒   引用
療養所の医療の質の問題は さておきまして 人数ですが

 先に述べた 早野孝義遺稿集(菊池野に書かれた)の素晴らしいことは 実際の数字を挙げて、論及していることだろうと思います。
 138ページに昭和36年末の従事者数が述べてあります。

 医師は100床あたりの数ですが
 総数 7.9
精神病院 3.3 結核療養所 3.0 らい療養所 1.0 伝染病院 4.1 一般病院 9.9
などが出ています。あと介護員(看護婦と介護人など)もありますが、
 一口にいえば 患者数100人に医師1名(らい療養所も場合)ということです。

 ほかに死亡者数とか 給料(当時は民間が高く、国立は低かった)なども論じられています。私のいいたいのは、従事者数の低さです。それでも当時は元気な人が多く、仕事はいまより少なかったと思います。
 現在私の勤務している老健ですが 100名に医師1名。平均年齢は80をはるかに超えて忙しいのなんの。最高年齢は104歳です。
 (中略、我が家ですが およびがかかった)
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続 オーラ 投稿者:Ichiro 投稿日:10月29日(日)06時48分11秒   引用
思い出しました。大塚薬報という宣伝雑誌にでていたのですが

 ヒットラーを見た という題でした。戦前のドイツに おそらく留学された人でしょう。ある音楽会にヒットラーが入ってきたそうです。がっしりした胸板、髭、御付の人々、それはそれは 凄いオーラがあったとのことでした。
 普通の人がいける 音楽会にいくとは よくわかりませんが 当時は国民的英雄だったのです。

 ヒットラーが権威の階段を登っているさまを調べようとしたのですが よくわかりませんでした。(私)
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Re: じいちゃん 投稿者:リベル 投稿日:10月29日(日)06時36分49秒   引用  編集済
> 実は私の祖父はらい病患者であります。
> もう、五十年近く施設に入っておりますので私が生まれた頃…私は三十ですが…には既に入っておりました。
> 想像を絶する扱いを受けたようです。
> しかし、私は恨み事の一つも聞いた事がありません。あの頃はしょうがない出来事だったと考えているようです。

また書き込んで下さい。

> しかし、私は恨み事の一つも聞いた事がありません。あの頃はしょうがない出来事だったと考えているようです。

この言葉は、深く重い言葉です・・・。
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じいちゃん 投稿者:ネコ 投稿日:10月29日(日)06時20分56秒   引用
はじめましてまして、お邪魔致しますm(__)m。
実は私の祖父はらい病患者であります。
もう、五十年近く施設に入っておりますので私が生まれた頃…私は三十ですが…には既に入っておりました。
母が産まれて発病、入所。
想像を絶する扱いを受けたようです。
しかし、私は恨み事の一つも聞いた事がありません。あの頃はしょうがない出来事だったと考えているようです。
現在でも、入所中で離れる気はないようです。
普通に買い物やドライブ、旅行に出かけたりするのですが、特定の人達が集まる場所…親戚が集まる場所には行きたがりません(-_-)。
色々な思いがあるようです。

…今回の投稿はここまでとします。
また寄らせていただきます。失礼いたしましたm(__)m。
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大阪皮膚病研究会 投稿者:Ichiro 投稿日:10月29日(日)06時03分1秒   引用
大阪皮膚病研究会のあゆみ 1929−2003
 大阪皮膚病研究会史刊行委員会

 編集担当 牧野正直 高坂健二

 という本があります。説明をすると 皮膚病というのは らい のことです。(色々工夫するのですね)その会のことがでていますが はっしーさんが 高坂先生の業績をいわれたので 見直しました。高坂先生は ハンセン病学の学者として超一流の先生です。

 日本らい学会賞に変化した 櫻根賞を 3回とられています。3回は 他にないようです。ライ菌の培養を研究された久留米大学の中村先生と あと多磨研究所にいかれた森先生が2回とっておられます。いろいろ高坂先生の 業績が出ていますが はっしーさん が指摘した業績はでていませんでした。高坂助手として 写真がでていましたが 他の教授の先生と一緒ですが 貫禄十分で オーラが ありました。
(リベル) 菅井竹吉という医学博士は私の祖母の弟です。大阪(外島)で医長をしていたらしいです・・・。
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オーラとは 投稿者:Ichiro 投稿日:10月29日(日)05時46分6秒   引用
ちょっと 説明しにくい 言葉であると 思いますね。

 ぜんぜん貫禄のない私には オーラは ありません。某副学長も 認めていました。

 私は聞いた範囲では、光田健輔は 学会では 凄く輝いていたというか 権威があったようで、東京の国際学会であったジョップリングもそう言っていました。2本の杖をもっていたといいますが、写真などは拝見していないのでよくわかりません。犀川先生に聞いてみましょう。

 中国は中華主義ですから、権威を問題とするでしょう。今でている新潮に、すごい権力闘争をやっていると 出ていました。それこそ 水に堕ちた 犬は 撃て ですから、権威がなくなれば 唯の人どころか 殺されかねない。

 人に会わないことで 権威を保った人は マッカーサーですね。また 昭和天皇が間の前に現れたら その人の業績を知っているので オーラを 感じるでしょう。
(リベル) 光田健輔はオーラが有ったと思います。マッカーサーも昭和天皇も、そして新庄も・・・。
私はこう言っているのです。「今、何を考え、何を行っているか?そういう自信だと思います。オーラの発生源は。」

悪人もオーラを出すのです。だから・・・(笑)
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余談ですが・・・「オーラ」 投稿者:リベル 投稿日:10月29日(日)03時45分7秒   引用  編集済
私の勤めていた会社から、月に一回「社報」が届けられます。今、迎酒(そんな時間か、オイ)をやりながらページをめくると、社長が中国の要人と握手している写真がありました。その社長というのは、入社が同期で、○○、大槻と呼び合っていた仲の男です。

今、自分は中国の要人と握手できるだろうか?と、ふと思いました。肩書きが握手しているのだなあとも思いました。私は、その会社の課長止まりでしたから、とても無理だなあと。

しかし、そういうものなのでしょうか、人間というのは。

たとえば、サウナで北野武(この人選には苦労しました)と二人っきりだったとします。私は、彼が話しかけずに居られないほどのオーラを持っているかなあ?と思うのです。たとえば田中正造が生きていて、顎髭を剃って黙って横に居ても、北野氏は話しかけずには居られなかったのではないかなあ、と。

なぜ私はダメなのか?身分・地位とか人相・風体とか、どんな業績があったか、そういうことではないだろう。今、何を考え、何を行っているか?そういう自信だと思います。オーラの発生源は。

年老いた漁師さん、たたき上げの大工さん、西陣織の職人さん、こういう人はサウナで黙っていても、話しかけたくなるのではないでしょうか?自分が苦しみ、努力して積み重ねて来た人生は、迫力を持って顔や体から滲み出て来るのではないか?そう思います。それがオーラなのでしょう。

私はといえば、ご覧の通りオーラがありません。この一文から何かオーラをお感じになりますか?

「働く」ことだと思います。一心不乱に働く。それが40才以後の「顔」を作り、オーラを生むのだろうと思います。

私はいま、良い顔の老人になろうと、一生懸命です。黙って、襤褸を着ていても、一目置かれるような、そういう顔の人になりたいと。恐らく高い確率で無理でしょうけど。

書きながら、ずっと思っていたのですが、宮沢賢治の「サウイフモノ」って、オーラがあって、つい話しかけたくなるような人だったのでしょうか・・・?


蛇足ながら、その答えは、用意しています・・・。


「雨ニモマケズ」の生原稿です
今気付いたのですが、「欲ハナク、決シテ瞋ラズ」は
仏教で言う「三毒」の内の二つなのですね、驚き!!
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感染性 投稿者:Ichiro 投稿日:10月28日(土)20時17分14秒   引用
はっしー様

 リファンピシン服用後、短期間に感染性は失われるというのは、確か日本での業績ですが
、それが、退園していいかということに結びつくか、時期的な問題は検討を要すると思います。
 菌陰性の場合は、かなり前から、事実上退園する 場合もありました。形の上では、入園しているのですが、事実は自己無断退園という形もあり、それが入所扱いとなっていて、言葉は悪いが、幽霊という名前で呼ばれていました。
 らい予防法での予算執行は、入園者掛ける金額という、形式を踏むものも多く、らい予防法廃止以前は せっせと 幽霊を退治していました。自治会の承認がないと、退園、死亡が進行せず、ある場合は死亡10年して、許可があり、その時に退園処理を行ったのですが、誰もお咎めなし、ということでした。
(リベル) いま丁度、その辺のことを調べながら、「医学的知見の変遷」という年表を作っています。ご意見を頂ければ有り難いと思います。どうぞ宜しくお願いします・・・m(_ _)m

「リファンピシン」は実は熊本判決の中で21回も出てくるのです。結局は多剤併用療法(MDT)までのつなぎ的役割だったようですが、詳しくはお教えください・・・。(10.29 05:29)
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らい詩人集団 投稿者:北風 投稿日:10月28日(土)19時43分24秒   引用
1964年につきだまさし、せいすみお、北河内清、島田静雨、しまだひとし、沖三郎、谺雄二、水島和也、くろだよしたか、小泉雅二、西原桂子、中石としお、黒田淑隆、小林弘明、高田四郎、福島まさみを同人として結成された「らい詩人集団」の機関誌「らい」のバックナンバーを手元にあるぶんを見た限り、一切「ハンセン病」という言葉は使われていない。

その「宣言」に。

1、私たちは詩によって自己のらい体験を追及し、また詩をつうじて他者のらい体験を自己の課題とする人々を結集する。

2、私たちは、私たちの詩がらいとの対決において不充分であり、無力であったことを認める。なぜそうなったかの根を洗いざらし、自己につながる病根を摘発することから、私たちは出発するだろう。

3、私たちは対決するものの根強さをようやく知り始めたところである。それは日本の社会と歴史が背負い続けた課題とひとしいものである。だから私たちはらいに固執するだろう。なぜなら私たちじしんの苦痛をはなれて対決の足場は組めないから。

4、私たちの生の本質と全体性としてのらいとの対決への志向が集団の最低限の拘束である。

サークルと詩誌をその拠点としよう。
1964年8月
                 らい詩人集団
http://cluster.web.infoseek.co.jp/Fjiken/index.html

(リベル) これはやはり、文学者としての考え方と、全患協としての考え方の、両方を理解しなければいけないのかなと、思いますが・・・。

昨日、宝塚の市立図書館で「ハンセン病文学全集」を置いてくれと頼みましたが、予算上無理だと言います。兎に角一冊だけなら用立てますがと言うので「短歌」だけを頼んでおきました。それも、どこかから取り寄せると。一体、自治体は何に金を使っているのか、腹が立ってきましたが、まあ、私の主義としましては、事を荒立てないことにしているので。でもこれって何でしょう・・・ (;`つ´)怒! (10.29 04:15)
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(無題) 投稿者:はっしー 投稿日:10月28日(土)15時46分38秒   引用  編集済
1983年(昭和58)に、大阪大学の高坂健二氏によって
化学療法中の患者の方は感染源とならないと言う事が
ヌードマウスでの実験で、判明し発表されたそうです。

ヌードマウスを使った動物接種実験で、ハンセン病の菌(らい菌)に
感染しても化学療法中であれば、数日で感染力を失う事が判った

とあります、療養所の中でのこの当時所長連盟の事務局長の方が
上記データをもとに、「らい予防法」改正に関して検討をされて
いますが、「入所者の10%前後は菌陽性であり、伝染源になり
得る可能性を残している」と言う発言をされています。

らい菌に対して陽性反応が出る方は、発症の感染源になると
想定していると言う意味に、捉えて考えているのですが

この当時、外出許可に基づいて外に出られた方達も化学療法を
している限りは、治療中であっても感染源にはならないと言う
説がありました。この菌に対して陽性であるかどうかという
発想が療養所内の運営基準だった時期があったとすると
陰性陽性の考え方に、関して若干疑問があるのですが
(リベル) その点に関しては、私も大いに疑問に感じています?
もう一つの疑問は、はっしーさんの投稿は何故「無題」なのか?ということです。面倒だからなのですか・・・(笑)(10.29 05:13)
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(無題) 投稿者:はっしー 投稿日:10月28日(土)12時12分13秒   引用  編集済
療養所の中では、現在でもいろんな政党に入られている方達がいますね

政党のそれぞれのスタイルに関しては、個人の方の考え方の違いが
はっきり出てくるので、機関誌などに投稿されている文章には
その方の主張がはっきり掲載された点は、興味深いことですね。

同じ政党の話題でも、扱われている文献によって捉えている
ニュアンスが違うので、その点の違いなども読み比べて
考えていると面白いものだなと、思います。

神経の再生は、一度失われたものは難しいですね残念ですが。
この点を、多くの入所者の方達は工夫して暮らしておられます。
また大丈夫だったと、安心されていた方が徐々に老化に伴い
少しずつ従来の機能が落ちてしまう場合もある様です。
(高齢化に伴う機能低下現象は、誰にでも平等に起こる事ですが)

この整形外科による再建と言う話題は、特定の状態や
個々人の状態に反映してしまうので、書き方を悩みます。

手足の裏傷の問題ではない問題での話題なのですが
この話題に関する記載は、今は控えさせて頂こうと思います。


後遺症に関する記載は、初めて耳にされた方には
下記のURLの記載が、判り易いかなと思います


私自身は、菌に対して陰性でも陽性でも後遺症対策も含めて
外来通院治療で良いと考えているのですが、陰性と陽性の状態への
対応に関する考え方は、様々な捉え方があるようですね

一般的には、陰性と言わないと完治していないと言う
イメージが出てしまうものなのでしょうか。。。
http://www.jinken-net.com/old/tisiki/gozonji/2001/go_0108.html
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後遺症の問題 投稿者:Ichiro 投稿日:10月28日(土)11時20分4秒   引用
後遺症の問題の続きを書きます。

 神経痛の問題も重要ですが、ハンセン病に特異的と思える ウラキズ(裏傷)(足の裏に深い潰瘍ができる)について述べてみましょう。この問題については専門家は 成田稔名誉園長です。

 特異的といいましたが、糖尿病にもみられます。要するに一旦その部はハンセン病に罹患し、治癒したのですが、神経の再生がないので、感覚がないので、無理に歩いて治りにくい足の裏の傷ができるわけです。ハンセン病自体は治っていますので、歩くわけですが、一旦傷が出来ると、歩くと治らないわけです。たしか成田先生も歩くとなおらないと言われました。もちろん形成外科的とか、リハビリテーション的とか、色々工夫されていました。ギプスで固定して歩かないようにすると治ります。しかし歩くと傷でまたでます。
 糖尿病の場合は 末期で、もう歩くという事は考えない時期です。

 神経の再生がない とかきましたが ハンセン病の皮疹には、早期には 感覚は戻ります。1年以内なら大丈夫かと思われます。T型の方で、治療していて、完全に感覚が戻ってほっとした覚えがあります。しかし、古いハンセン病で瘢痕になっている場合は神経は再生しません。
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菊池野 続き 投稿者:Ichiro 投稿日:10月28日(土)07時09分26秒   引用
すみません。また失敗しました。

 続きを書きます。

 翌日市営バスの営業部長が菊池恵楓園の庶務主任の所にきて、抗議されたそうである。園が対応し、結局しらみに有効なDDTを使って消毒したという話で、民間バスもそうした、という話である。この話を書かれたのは昭和59年で、今はこういうことはありません、と結んであった。
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菊池野 投稿者:Ichiro 投稿日:10月28日(土)06時54分40秒   引用
いろいろ読むにつけ 菊池野(菊池恵楓園自治会機関誌)の存在が 重要であったと思う。
 Ichiroです。

 ただひたすらに 人になりたい 早野孝義遺稿集 2005年

 中の63編のうち62編が「菊池野」に書いた文章である。400ページを越す大冊であるが、タイヘンまじめに当時の状況、自分の意見を堂々と述べておられる。参考になる事が多い。菊池野の年代を調べてみたが昭和20年代 1編、昭和30年代 17編、40年代6編、50年代15編、60年代(平成2年まで) 24編の 合計63編で うち1編は姶良野である。もし全部載せるなら1000ページになる、と書かれている。当時の医療、行政、すべてに亘って鋭いメスを入れている。なお氏は、若いときから共産党に入られている。平成16年、83歳でなくなられた。
 古い話では さつき祭り顛末記 が面白い。熊本市県立体育館に5,6000名も集まる祭りに参加した話である(昭和37年)入園者参加のバス輸送で 行きは市営バスに乗ったのであるが、それが市営バス営業部の幹部会に知られ「無菌証明をもっているか」と意地悪された。帰りは色々交渉して民間バスにした。
 翌日営業部長がきて、「消毒してもらわねば」と難癖をつけた。結局DD
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続↓余談ですが・・・「形容矛盾」とオキシモロン」 投稿者:リベル 投稿日:10月28日(土)06時04分21秒   引用  編集済
他のサイトに書いているのですが、面倒ですから、以下に転載します。


もう随分前のことですが「レコード芸術」という雑誌に吉田秀和さんが「形容矛盾」という言葉を書いて「オキシモロン」とルビをふっていました。

ゲルギエフがブームになっていた頃です。彼を評して「ワイルドな優雅さという形容矛盾がお似合いだ・・・」という風に書いていたのです。「という風に」というのは、その雑誌が手元になくて正確でなく、自信が持てないからなのですが、おおむね間違っては居ません。

私はオキシモロンという言葉を知らなかったので辞書で調べましたが有りません。結局英和辞典で「oxymoron」というのを見つけました。


辞書によればこうなっています。分かり易いのを書き出しました。

「オキシモロン」

  新英和大辞典
     〔修辞学〕撞着語法。両立しない言葉を組み合わせて、修辞的効果を挙げようとする語法

  新英和中辞典
     〔修辞学〕矛盾語法。矛盾した語を並べて特別の効果を狙う
   両方から例を列挙します
     wise fool : cruel kindness : crowded solitude : make haste slowly

「形容矛盾」

  日本国語大辞典
     論理学で、形容する言葉が形容される言葉と矛盾していることをいう。
     たとえば「丸い四角形」 「ガラスの鉄器」など。
     (ラテン語)contradictio in adjecto(リベル注:contradiction in terms という語は英和辞典に有ります)

  大辞林
     〔論理学〕互いに矛盾した二つの概念を結びつけること
     例:丸い三角 熱い冷水 など

英語の例の意味は、それぞれ、「計算し尽くされた賢明な愚かさ」、「残酷なまでの親切さ」、「群衆の中の孤独(チョット違う?)」、最後は「急がば回れ」と和訳されますが「急ぎなさい、でも慌ててはダメですよ」という様なことでしょう。同じようだがチョト違う。

結局「形容矛盾」と「オキシモロン」の違いを分かり易く説明すると

「形容矛盾」は論理学上の概念であって、実在する事象ではない

のに対して

「オキシモロン」は実際に存在する現象を効果的に表現するためのレトリックである

ということです。

だから、やはり、吉田さんは間違っていたのです。「形容矛盾」を使ってはいけなかった。単に「オキシモロン」とだけ書くべきだったのですね。親切が徒になったのでしょう、キット・・・(ノ_・、)グスン
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余談ですが・・・ 投稿者:リベル 投稿日:10月28日(土)00時43分52秒   引用  編集済
昨日、文化勲章を受章された吉田秀和氏の受賞理由を読んでいて、チョット引っかかりました。「美しい文章で音楽評論に新たな一面を切り開いた点・・・」と書いてあったからです。

確かに読み易い、分かり易い文章でしたが・・・昔、ゲルギエフについて書いたものの中で「形容矛盾」に「オキシモロン」とルビを振ってあったので、調べて追求したことがあったのです。こういう「間違い」をしては、美しい文章に傷が付きます・・・。勲章には傷が付いたとは思いませんが・・・

上に詳しく書きましたので、興味がお有りの方はどうぞ・・・。
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差別の道 投稿者:Ichiro 投稿日:10月27日(金)17時31分3秒   引用
昔のことを とやかく言うのは いけないかもしれない。

 以前 菊池恵楓園と再春荘病院の間の細い道を隔てて (今は舗装されているが)
 お互い差別しあったという。
 ハンセン病療養所と 結核療養所である。
 今では行き来がある。
 ハンセン病療養所の方は 簡易郵便局がある
 結核療養所には 保育園がある。

 今は差別がないので、とやかく言わない方がいいか。

 ハンセン病の中では、精神病を患っている人に対する差別があった。昔は結核の人にたいする差別があったという(外国の例)
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Re: 後遺症の問題 投稿者:はっしー 投稿日:10月27日(金)12時53分43秒   引用  編集済
>  後遺症に関しては、確かにおっしゃる通りです。高度のものは 手術は難しいのが多いですね。

難易度はある問題なのだろうと思います、失ったものは戻せませんが
変形に関するものは、外科的再建の可能性がある場合にはご本人の
希望次第で体調を考えて、という事になったら理想的だなと思いました。


> 考え方としては、ハンセン病でない場合とハンセン病後遺症とは区別しないでいいと思います。


そうですね、内臓疾患などで外部病院での手術の場合は後遺症による体温調節面での事
(発熱時の解熱の方法が、部屋全体を冷やす、または頭部を冷やすなどより
 脇の下など、血流の流れの元を直接冷やして頂く方が良いタイプの方の場合)
入院先の病院の天井の明かりが、水晶体の問題などで眩しいと感じる人達への対応を
どうするか等、受入先の病院で事前に了解して頂けたらと思う点がありますが

それ以外の問題に関しては、特別に区別して扱われる必要は
無い事なのだろうなぁと思います、またそうであって欲しいですね。


私のHNは、かなでもカタカナでも問題無いのでお気になさらずにどうぞ
(リベル) 何か医学界のBBSのようになってきて、難しくて追いつけません・・・(>_<)
はっしーさんは、「ハッシー」でも「銀兎」でも「蒼猫」でも良いのではないのですか・・・?(10.28 01:27)
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後遺症の問題 投稿者:Ichiro 投稿日:10月27日(金)12時32分54秒   引用
はっしー様

 以前 はっしー様の名前を カタカナで書き、失礼しました。

 後遺症に関しては、確かにおっしゃる通りです。高度のものは 手術は難しいのが多いですね。顔面の変形、手や足の変形の高度のもの、指の脱落などがあります。
 眉毛脱落の場合手術で、却って毛が生えすぎる場合もあり、目立ちました。ですから、患者様の希望も重要な要素ですが、手術が無理の場合が多いようです。考え方としては、ハンセン病でない場合とハンセン病後遺症とは区別しないでいいと思います。


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お気付きですか? 投稿者:リベル 投稿日:10月27日(金)11時50分48秒   引用  編集済
この画面に二つの変化が生じているのを・・・?

1)リンクはカーソルを乗せると色が変わります。「ハンセン病のリンク集」と同じにしました。)

2)スクロールバーの色を変えました。(同上)

3)この掲示板は、投稿数2000を越えると、昔のものが消えていきます。なので、【過去ログ(2005.1.1〜6.30)】を上に作りました。
発足当時と言っても去年の元旦ですが、振り返ってみるのも楽しいものです。きょうこさん、よしりんさん、Mayさん、のんさん、トラ千代さんなどが、そういえば近頃トントお見限りで・・・。など、この2年間の移り変わりが見られるのも一興ですし・・・


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(無題) 投稿者:はっしー 投稿日:10月27日(金)09時31分34秒   引用  編集済
宿泊拒否事件の根拠は、ハンセン病に関する誤解が原因で
ネット検索してみても、お子さんの小さい時の感染が原因で
発症すると言う記載が、数多く出てきてしまうので

事前の予備知識が無いと、その点をどういう扱いとして認識するのかが
難しいので、ホテル支配人の方が方向を誤まったと言う事になるのでしょうね

これは医療的レベルで、原因、経過、結果、に関してきちんと伝わっていなかった
(少なくとも、ネット情報を初めて検索する人や初めて情報に接する人にとっては)


と言う点が問題なので、ホテル側だけではなく問題を扱う側の
慎重な姿勢も、問われてしまうと言うことのような気がします
私自身も、医療問題に関して認識を誤まって記憶した時期があり
医療面は、学習しないと正確な掌握が出来ない点がある気がします


学校教育に期待する、と言うのは家族でその問題について
話し合った結果を、クラス内で発表しましょうなどの
宿題があったら、進展があるのかもしれませんね・・・


ただ、その際に家庭内の会話が第三者から非難されない様
考え方の違いがどこから、生まれるのかも授業内で扱う

と言う方向でいって欲しいとも思いますが


補足:

宿泊拒否問題は、経緯が複雑なので全て時系列に沿ってご説明を
していかないと、善悪懲罰論に発展してしまいそうなのですが

この問題は当時、支配人の方だけの判断として扱われてしまえば
後日、個人で背負うには責任が大きすぎるからと心配する入所者の
方達の声が実際にあったのが、その後の対応の中に配慮されていた
という面が、各種メディアの情報だけではうまく世間に伝わらなかった


と言う事が、非常に残念な点です

私の知る範囲内で宿泊拒否問題について、下記に記載してあります
一応、その当時の様子を知らない方達へのご参考までに。。。。
http://members.at.infoseek.co.jp/aoneko_aoneko/kumamoto_hotel.htm

(リベル) 「宿泊拒否問題」はこちらにも詳しいです。手前味噌で恐縮ですが・・・(10.28 00:56)


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(無題) 投稿者:はっしー 投稿日:10月27日(金)08時45分54秒   引用  編集済
少々、意義ありです

ハンセン病が現在は治癒することは、納得なのですが治療経過の中で出来た
後遺症に関しては、現在再度の整形外科手術が受けられるものがあります

後遺症の問題は再手術を受けられるものと、受けられないものに
分かれると言うことなんじゃないでしょうか、この点をどうするかは
任意になりますし、ご本人の希望次第なのですが。。。。

この問題は、専門知識のある医療分野の方からの最新情報が提供され
個々人の選択肢が、もっとあったらいいのにと近頃思う点なんです

それ以外のお話に関しては、ごもっともと言う気がしますが

ウィキペディアは、気がついた人が投稿していくしか無い
システムなので、情報更新をするにはたくさんの専門家の方の
医学的根拠に基づいた見識があれば、きっといいんでしょうね
(リベル) 「少々、意義ありです」に異議ありです・・・(笑)(10.28 00:48)


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差別とは 投稿者:Ichiro 投稿日:10月27日(金)05時31分6秒   引用
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 現在完璧ではないと書いてあるが、差別の種類は多数書かれている。
 ところで何故、病気関連差別、ハンセン病に関する差別は書いてないのかね。
 何を考えているのかな。

 ハンセン病の差別は、感染恐怖と外見の醜形から来ていると考えます。また、以前は、治癒しない(実際は治癒しても、変形は治らない)ことに対する恐怖がありましょう。
 結核、梅毒、エイズ、いろいろな皮膚病(アトピッコといって一時はアトピー性皮膚炎も差別された)も色々な程度で差別されてきました。ある皮膚病に罹ったプロレスの選手がリング上で差別された例もあります。
 病気の性格がわかり、また、治癒できるようになれば、差別の程度は少なくなるか消失するでしょう。


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私の「五題噺」 投稿者:リベル 投稿日:10月27日(金)01時09分44秒   引用  編集済
(1)「F事件から”現代”を考える会」が20日ほど前に「連載7 あらためて「差別」とは」という一文を草しました。その中身の浮薄さに呆れて、私は10月 9日(月)03時18分6秒に『あらためて「差別」とは』というタイトルで「差別」について書きました。

  《「ハンセン病における差別」は、「健康な人」と「病気の人」という「区別」に、病気が移るのではという「恐怖感」と外形に対する「違和感」という二つの主観が加わって、「差別」に転じていたのでしょう。》

(2)次に、10月17日(火)00時19分59秒に「10月9日に「差別」について、書きました・・・が 」というタイトルで、こう書きました。

  《今日、「志村さんとキャッチボール」(10/16 22:24)で下の一文を読んで、心が激しく動きました。どう動いたのかは、下の文と、上の私の文章とを、読み合わせて頂くと、お分かり頂けるかと思います。

『今日、考えさせられることがありました。私の親しい友人のことです。私は、私の問題も含め、世の差別の話をしたのですが、彼女の口から「結局、差別ってなくならないのよね。」という言葉が出て、私はなんて返事をしていいのかわからなかったのですが、少ししてから「差別される側はそんなこと言ってられないのよ。」とだけ言いました。彼女はもちろん私の友人でもあります、自らのことを差別者と思ってるわけでもなく、どちらかといえば人権感覚のあるほうだと思っているようです。でも「差別はなくならない。」と平然と言ってしまえるのは、彼女の中に自分の問題ではなく、ひとごとのような思いがあるからではないかと思えたのです。彼女には痛みはありません。でも差別をされてる側はそんな呑気なことは言ってられません。だって痛みがあるのですから。差別行為をする人だけでなく、外から物事を見るような人たちがいる限り、差別はなくならないんですよね。改めて、彼女にこのことを話そうと思っています。大きなことはできないけれど、「自分達が差別の外野にいると思っている人たちに今後どう訴えていくか!」を考えなくてはと思っています。だって、志村さん、差別は風化しないんですものね。』


俺って、駄目なのかなあ???と強いショックを受けたのです、実は・・・「外野席に座っていて、呑気なんだよお前は・・・」と・・・

自問自答:上の自分の文は「差別する心」の実態を客観的に掴もうとしています。下の文章では、「差別する心」の有無は、「痛み」を共感しているか否かだと言っておられます。
それはよいが、さて自分は、「痛み」を共感しているかのと問われれば、「否」です。共感したいのに出来ていない、というのが正直なところ、なのです・・・。だから「外野席」・・・(>_<) 》

(3)ところが、上に紹介した『今日、考えさせられ・・・』の文章について志村さんはこうレスを書いて居られます。

「心の問題と言うのがありますが、それでは差別の連鎖を断ち切ることは出来ないと思います。それは国連人権宣言が日本国憲法と理念を同じくしており、日本国憲法を共有するしか手立ては無いと現在は思っています。」

(4)ここで、不肖リベル奴は、深い思考に沈んでいった(かなり大袈裟!)のです。

そして志村さんとの遣り取りから学んで目を覚ましました。

(5)『「差別する心」の実態を客観的に掴もうと』するのも良い。『心の問題』として捉え、人の痛みを共感出来るよう心掛けるのも必要だ。しかしそんな「ヤワな」ことをいくら考えようが叫ぼうが、この世の中は、この世の中の差別の実態は、変わらない。それを変えるのは「法」しか無い。「国連人権宣言」や「日本国憲法」が存在するが、それが今の日本の実体(宿泊拒否事件にみられた中傷など)や「教育現場」(いじめも人権意識の低さから来る差別でしょう)に一体どのような影響を持ったか、持っているか?先ず「人権擁護法」のような国内法を整備しなければ、何も動かないし、変わらない。
(注:しっかりした「人権法」が出来れば、教育基本法にもその主旨は盛り込まれなければなりません。そして、先ず幼い子供の教育現場から、改変は始まるのでしょう。長い時間を要するでしょうが、それはやがて「おばあちゃんの教え」に定着して行く筈です。そして最後には、人権意識が全く一変するに至る、そこまで行くには大変な年月が必要であろうけど、でも90年はかからないでしょう・・・。)


これが私の「五題噺」でした・・・おっ!拍手が聞こえてきました???・・・ダメかやっぱり・・・(>_<)

心あるお方の挑戦をお待ちしております・・・m(_ _)m



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三題噺ならぬ・・・ 投稿者:リベル 投稿日:10月26日(木)05時34分4秒   引用
五題噺とでも言いましょうか、こんなのは如何ですか?

お題は「差別」「人権擁護法」「心の問題」「教育現場」「宿泊拒否事件」です。
ただし、意をお汲み頂けるなら、多少の変更も可、ということで、挑戦なさいませんか?

もし自信作が出来上がったら、ここででも発表なさって下さい。

何度も申し上げて、少し恐縮なのですが、「志村康さんとキャッチボール」のNo.69のTAKAKOさんの投稿以後を参考になさって下さい。ヒントが満載です・・・。


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中国は徳の国、日本は慈悲の国 投稿者:Ichiro 投稿日:10月25日(水)20時42分9秒   引用
中国と 日本が どうも しっくりいってない と思う

 一つには 中国は 徳の国であるのに対し、日本は慈悲の国であるからかと思う。
 蛇足を言うと 沖縄も徳のほうである。この違いは私は沖縄にいっている間、悩ませた。
 中華思想というのがある。これは中国は世界の中心という思想で、こちらにいわせると、自己中心的である。
 中国からいわせると田中首相を褒めるが、日本からいわせると、別に田中首相は偉くともなんともないのだが、世界の流れで、日中国交となっただけある。出掛かける時に周首相が絶対に恥はカカサナイという説得に応じて出かけたのである。


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風雲急を 投稿者:Ichiro 投稿日:10月25日(水)20時23分16秒   引用
リベル様

 枠の調整なんでしょうか。ちょっとよくわかりませんでした。

 主語を省いて失礼しました。
 最初の方は 「全患協運動史」 後の方は 「復権への日月」

 いざ決戦という時期で、自分たちの機関の名前なんか 消し飛んでいるのでしょうね。

 調べてみると 全患協運動史の方は いろいろボロがでているようです。普通の看護服など、制服の変更は 昭和47年なのに えらく早い時期に書いてありました。


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Re: あった !? 投稿者:リベル 投稿日:10月25日(水)17時46分35秒   引用
> 最初の方は わかりますが
>
>  後の方は わからない。大体 「復権への日月」という題からして、この意義を知らないといけません。


菊池先生にはお分かりでも、私達(あ、私です)には何のことを指すのか、良く分からなくて、前の投稿を読み返したり、右往左往しています・・・(>_<)


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Re: あった !? 投稿者:Ichiro 投稿日:10月25日(水)13時12分29秒   引用
最初の方は わかりますが

 後の方は わからない。大体 「復権への日月」という題からして、この意義を知らないといけません。

 蛇足ですが 私の隠れファンがいるとしても(笑)
 私の意見は全患協には あまり通らない。80周年記念誌にしても、私のハンセン病の講演だけわざと記録を 省いている。恵楓園の壁を移築せよという意見を 高松宮記念ハンセン病資料館を作る前に言ったのであるが あとで 座談会を読むと ヘンな医者がこういうが というようなことが書いてあった。そんなら 壁を越えて などという題をつけるべきでない。資料館にしても、大分宮崎松記先生のことを載せよといったが これも通らなかった。
 あまり文句をいうと罰があたりますね。菊池野は いつもお世話になっています。ぴょこり。


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(無題) 投稿者:はっしー 投稿日:10月25日(水)08時34分44秒   引用  編集済
1952年は、マヌス島からの戦犯として五人の方が
帰国される際に、一人だけらい病である事を理由に
引き上げ船に、乗船出来ないという事体もありましたね

この一名の方の為に、全らい患協は復員局にその方の
引き上げ促進を訴えて、いたとの事。

沖縄では、琉球政府の創立で療養所の所管が移動
国頭愛楽園が「沖縄愛楽園」へと解消され従来の
らいに関する軍令が廃止されているとの事。

これも時代ですね。


米国の国際らい化学療法臨床研究会の方が入所者の
方に米国の治療薬を投与し研究に入るとありました

熊本では、刺傷傷害のあの事件が起こっています

翌年には、代議士の方たちが各地の療養所を
訪問してらい予防法改正の為にご尽力されて
第一次「らい予防法」改正案が国会に上程
しかけたところ、国会解散により廃案になる


プロミン第一号の退園者が星塚恵愛園から社会復帰
したかと思えば、その後星塚は患者大会でハンストを決定


文字通り目まぐるしく、国内外に渡って動きがありますね
(リベル) フォローを有り難うございます。この時期には厚生省の「第2次増床計画」、藤本事件の発生、プロミンの試用開始、三園長証言など、大きな事件が相次いでいます。大変な時期で、もう「公式記録」云々を言っている時期では無かったと、同感できますね・・・。(10.25 17:39)


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三日前に推測しています Re: あった !? 投稿者:リベル 投稿日:10月25日(水)08時15分36秒   引用
> さて次の問題は なぜ 全患協の資料に 2月1日が出てこないか ということです。
>
>  そんなことまで 考えなくてもいいではないか と思う意見もあるかもしれない。新聞記者なら 特落ち と いう言葉で現すかもしれないが その頃はこの言葉はなかったに相違ない。
>
>  「全患協運動史」の方は 決定のことだけで いいと判断したのであろう。それにしても、お粗末である。
>  「復権への日月」の方は その意義までわかっていたのに 単に2月とした理由は、わからない。興味がある人が こんなに調査するとは 思わなかったのでは?

この日は、「全患協」いや「全癩患協」の歴史にとって、非常に重要な日であることは、当時も十分分かっていたと思います。だから私は、三日前にこんな風に推測しました。繰り返しますと・・・

>前年の三園長証言、翌年の「らい予防法」へ向けての、闘いの準備、藤本事件の発生などと、
>発足直後の全患協も大変な時期ですし、それが引いては「全患協」という名称への正式発表を
>忘れさせたのかも・・・、などと推測しています・・・。

当時の年表を、もう一度ご覧になってみてください。もうそれどころではなかったと、なんとなく納得せざるを得ない、風雲急を告げる空気が渦巻いています・・・大きな流れ、小さな流れが重なり合って・・・


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休憩時間のすすめ 投稿者:はっしー 投稿日:10月25日(水)07時46分40秒   引用  編集済
以前は、カフェインが良くないと言われて珈琲断ちを
考えたりもしていたのですが、最近は香りの効果が
リラックスに良いとか、癌の予防になるとか


身近で、ちょっとした珈琲ブームになりました


皆さん、根を詰めていらっしゃるので一服様に珈琲など
でも写真で香りを届けるのは無理だったかな? ^^:


一つの問題を考えるのにも、いろんなアプローチの
仕方があって、資料も文献も色々あるのですね

それぞれの人の感性や、感受性でどんな風に問題に
係わり合いを持っていくか、色々な考え方がありますね
見る人それぞれに、違った印象があるものなのですね


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Re: あった !? 投稿者:Ichiro 投稿日:10月25日(水)05時55分32秒   引用
さて次の問題は なぜ 全患協の資料に 2月1日が出てこないか ということです。

 そんなことまで 考えなくてもいいではないか と思う意見もあるかもしれない。新聞記者なら 特落ち と いう言葉で現すかもしれないが その頃はこの言葉はなかったに相違ない。

 「全患協運動史」の方は 決定のことだけで いいと判断したのであろう。それにしても、お粗末である。
 「復権への日月」の方は その意義までわかっていたのに 単に2月とした理由は、わからない。興味がある人が こんなに調査するとは 思わなかったのでは?


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ふうっ!疲れました・・・ 投稿者:リベル 投稿日:10月25日(水)05時05分39秒   引用  編集済
約4時間半、「年表 日本のハンセン病」の一部変更に掛かってしまいました。

これが古い方、こちらが変更後です。さあ何処が違うでしょう?

これ、簡単なようで、思いがけず大変でした。最後に出来ているかどうか画面を出すときに思わず「えいっ!」と気合いを掛けてしまったほどです。

実はこれ、「自治会」と「医学的知見と国策」の項目を増やすために必須の作業なのです。古いスタイルだと、本体の表をいじると、即この「SkipBar」に影響がでて、いちいち修正する方に手間取ってしまうので・・・などと、こちらの舞台裏の事情などお話ししても、何にも面白くない!もう止めます。

昨日だったか、書いた「嫌な性格」が又頭を擡げてしまって・・・(恥)
(リベル) 上の、古い方は、もう捨てます。無用の長物と化しましたから。(10.27 04:06)


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Re: あった !? 投稿者:Ichiro 投稿日:10月25日(水)02時17分54秒   引用
スミマセン。本の名前を間違えました。

 近現代日本ハンセン病問題資料集成.....戦前編・戦後編
 解説・総目次

 という本で 要するに それから辿って あの高価な本を 調べる必要があります。菊池恵楓園にはその本があると考えて 行ったのですが、図書館には ありませんでした。197は その本の32ページ 戦後編 第1巻 133ページにあります。ぜひ 原本に当たってください。うまい話もあると存じます。手紙を出すのに 日付は 二月一日とは 書きますが二月とは 書かないでしょう。(この項菊池)

 なお 195 は もっと興味があります。
 195 日誌 一九五二 及び三年
 (一九五二年一○月二三日ー一九五三年一月三一日)
 ●(多磨全生園患者自治会) 一九五三・一

 明らかに 一月三一日と 二月一日の間に大変化が あったと推定する(この項菊池)
 その次に 日誌にあたるものが 何番目にあるのか よくわからないが 続いて調べるといいと思う。例えば 前に述べたように 196,197,98,199,200,201,202,203,204,205,206,207、208などの内容を読むとどこかに団体名改正のことが 触れられていると考える。(想像です)

 例えば 201の題は 斉藤療養所課長との会見について (秘)事務局発 第六三○号・至急報)●全ライ患協議長一九五三・二

 とあります。ははあ今気づいたのですが 二月でもライとありますね。
 一月は もちろん ライが付いています。
 二月をチェックしましょう。
 ライなし 197、
 ライ付き 198,199,201,202、です。
 三月の205から すべて ライなし です。特に205は ライなしの2番目の資料ですので なにか 触れられていると考えます。

 この中途半端な資料でも 色々のことがわかりますね。
(リベル) この書名なら大阪府立図書館に有りました。今チョット忙しいので、その内行って調べます。はて、生きている内に行けるかな???(笑)(10.25 04:51)


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Re: あった !? 投稿者:リベル 投稿日:10月25日(水)00時32分44秒   引用
>  197 第4回書面会議議案採決について 事務局発第598号 ●全患協議長 1953・2

>  196   ●全癩患協議長 1953・2
>
>  とあります。同じ2月でも、全患協議長 と 全癩患協議長と 2つあることに注意。

要するに、こういうことなのでしょうか?菊池先生、判じ物みたいですね。1953年の2月に「全患協」の文書と「全癩患協」の文書がある。だから1953年の2月に呼称の変更が有ったことは確かである、と。その確たる証拠は見つかった訳ですよね。

「文書No196」が2月1日午前中に、「文書No197」が2月1日午後に、それぞれ作成された、等ということが判明すれば、「2月1日」説も裏付けられるのですが・・・そんな旨い話は、やはり見つからないでしょうね・・・(>_<)

菊池先生、有り難うございました・・・m(_ _)m


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あった !? 投稿者:Ichiro 投稿日:10月24日(火)21時31分25秒   引用
近現代ハンセン病問題資料集成 不二出版 2000円タス税 2004を偶然読んでいましたら

 本物は高すぎて 買っていませんが(内容が高価な本物に出ています。誰かチェックしてください)

 197 第4回書面会議議案採決について 事務局発第598号 ●全患協議長
 1953・2

 とあります。その前の196 は ●全癩患協議長 1953・2

 とあります。同じ2月でも、全患協議長 と 全癩患協議長と 2つあることに
 注意。
 この本は、資料そのものでなく、資料のある場所を示すので なかなか いいですよ。お勧めです。


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Re: (無題) 投稿者:はっしー 投稿日:10月24日(火)16時11分23秒   引用  編集済
> これは、昭和23年、1948年に始まります。

10月に、長島愛生園で行われた第一回瀬戸内三園入園者役員懇談協議会開催ですね。




1948年(昭23)5月 優生保護法一部改正により、優生手術が合法化される
          圧縮政策中止、プロミン大量予算化、慰安金増額
          電力の増配、らい予防法改正などを多磨全生園自治会陳情

6月 光田園長胸像序幕式が、長島愛生園で行われる

       7月 第一回らい新薬協議会を厚生省内で開催

       10月 第一回瀬戸内三園入園者役員懇談協議会開催
          第21回日本らい学界で国産プロミンの効果が発表される



1956年(昭26)5月、貞明皇后、薨去。

1952年(昭27)4月、貞明皇后の遺徳を顕彰、記念事業として「藤楓協会」誕生。
         (従来のらい予防協会を改組設立したもの。)


>田中文雄さんの社会復帰者への支援なども、籐楓協会を抱き込んで
>進めるやりかたなど誤解されやすいかもしれませんが


皇族との結びつきを強調し、歩み寄りの象徴として改名されたのが
「藤楓協会」なので、その点で周囲の解釈が分かれたのかもしれませんね。
(リベル) 当時の患者の方々が何に怒り、どう自治会作りに立ち上がって行かれたのか、これは私の作っている年表にも欠如している部分でした。反省して、これから勉強し、追加していこうと思っています。(10.24 18:15)


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これあたりに出ていませんかね。 Re: 電話奇談 投稿者:北風 投稿日:10月24日(火)15時04分3秒   引用
>
> カーヴィルでの呼称変更決定!史実として、重要でしょう、やはり・・・。

請求記号 935.9-cM37c-O
タイトル カーヴィルの奇蹟
責任表示 ベテイ・マーティン著
責任表示 尾高京子訳
出版地 東京
出版者 文芸春秋新社‖ブンゲイ シュンジュウ シンシャ
出版年 1951
形態 288p ; 19cm
(NDLデータ)
http://cluster.web.infoseek.co.jp/Fjiken/index.html

(リベル) 古本のサイトを5つ、アマゾンと紀伊国屋、宝塚、大阪の図書館、全部無しでした。国会図書館などにはあるのかも・・・。そう言えば、赤坂見附の昔の国会図書館には、予備校の帰りによく立ち寄ったものです。中に居るより前庭(草ぼうぼうでした)で寝そべって空を眺めていた時間の方が多かったものです・・・(ああ、懐かしい)(10.24 18:05)


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(無題) 投稿者:しゅう 投稿日:10月24日(火)10時17分7秒   引用
> 田中文雄さんが3園の連携を結んでいたのは、地理的環境がよく似ているので、生活環境の改善の問題点に共通点が多いからです。


これは、昭和23年、1948年に始まります。
(リベル) いずれ、はっしーさんから投稿が有ると見越して、レスを待ちました。正解でした。はっしーさんと同じことを書くところでした・・・(笑)(10.24 18:10)


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Re: (無題) 投稿者:はっしー 投稿日:10月23日(月)20時03分57秒   引用  編集済
> 田中文雄さんが3園の連携を結んでいたのは、地理的環境がよく似ているので、生活環境の改善の問題点に共通点が多いからです。

それもあったかもしれませんが、その前に全患協本部が多磨支部(多磨全生園の自治会)
と一体となって各支部を督励、第一回の支部長会議(各自治会の代表同士の会議)
当時、各療養所ごとに自治会として交渉をしているだけでは現状改正が進まず
全国組織として、結束して統一した基準改正を訴える事を考えられていました。

多磨の林芳信園長が、これを認めようとせずに各施設宛に対して

「多磨当局としてはそういう支部長会議を事前に承認を与えていないし、昭和26年の
 7月医務局通牒もあるので絶対許可しない方針で、貴職(各療養所施設側)に於いても
 右ご了承の上、一時帰省などの方法によっても参加を許可しない様お取り計らい下さい」
(自治会関係者の外出を、理由の遺憾を問わず認めるなと言う意)といった書面を送っています。

これによって、田中文雄さんが苦慮したと言うのは納得がいくと言う意味なんです。
三園の代表者を、多磨全生園に送れば無断出所と言うことになってしまい所謂逃走
扱いをされてしまうので、当時は懲戒検束規定がまだ存続しているので懲罰対象です。

「貴園(多磨全生園)の『患者保管金の問題』で本省よりの調査官、新聞記者らの出入りが
 激しい時期には、今回だけは是非思ひ止まる様に−友園の園長(林園長)からの
 申出があって一時帰省の形式でも認められない』と繰り返されるので
 逃走したとなれば、園籍を失う規定なれば(中略)かかる方法に出るべきでは無く
 寧ろ遺憾乍ら此の度は参加を断念−なんと言っても本土の所在療養所と小島の
 それとは習慣とセンスに大変な差があるものの様で−哀情ご了解願いたく」

と言う報告があった訳です。
(リベル) 上記の内容は、10月23日(月)07時03分30秒のしゅうさんへのレスに記した「全患協運動史」の43頁に書いてあるのです。はっしーさんご紹介有り難うございました。権力側対三園のこのような確執を経て1952年5月24日からの第一回支部長会議が結実し、そこで「癩」を「ハンセン氏病」に改めることが諮られますが、これには瀬戸内三園は出席できませんでした。その間の事情が「運動史」のこの辺りに詳らかにされています。(10.23 23:35)


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ファヂニーかファジェットか? 投稿者:リベル 投稿日:10月23日(月)18時11分52秒   引用  編集済
今日、高松宮記念ハンセン病資料館運営委員会(の西浦さんという女性の方でした)に電話して「ハンセン病資料館」73頁の「ファヂニー」について質問しました。2年前の印刷物では「ファジェット」に直したが、「ハンセン病資料館」まで修正するのは大変ですからというお答に、唖然として、「なるべく善処をお願いします」と電話を切りました。

厚労省健康局疾病対策課ハンセン病係の石川氏に電話しました。療養所の入所者数と「ファヂニー」が、中学生向けパンフレット「わたしたちにできること」のPDF版は修正されていて、HTML版は何度言っても修正されない。「私のところに中学生から問い合わせが来て、返答に窮しています」、と嘘を言いました。

少し慌てて居られたようですから、如何に剛胆な厚労省といえども、お動きになるのではと、少しだけ期待しています。過去に何度、期待を裏切られたことか、ね、ご存知の方もいらっしゃると思います。あまり期待せずに待つことといたします・・・。


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Re: 電話奇談 投稿者:リベル 投稿日:10月23日(月)17時51分22秒   引用
> 今年 イギリスに行きました。観光ですが、ハンナリデル を書かれたボイド女史にぜひ会いたいと思いましたが、(中略)それで携帯ということになりました。ゆっくり話したのは1回だけでした。奥様はいつも運転中でした。

やはり菊池先生にお願いするのがベストではないですか??皆様、一斉にお願いしましょう・・・。こういう呼びかけにどなたかに応えて頂いたことが、これまでは無いのですが・・・今回は是非とも、よろしく・・・m(_ _)m

カーヴィルでの呼称変更決定!史実として、重要でしょう、やはり・・・。


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電話奇談 投稿者:Ichiro 投稿日:10月23日(月)17時28分42秒   引用
今年 イギリスに行きました。観光ですが、ハンナリデル を書かれたボイド女史にぜひ会いたいと思いましたが、旦那様がケンブリッジをお辞めになり、家の関係でどうも、うまく、会うことはできませんでした。それで携帯ということになりました。ご多忙というのは仕方がないもので、最初に出られたのは サーボイドで(大英博物館チェアマンでもある、最近辞められた)、奥様は運転中でした。何回か携帯で話したのですが、ゆっくり話したのは1回だけでした。奥様はいつも運転中でした。その後かかれた本は日本で買いました。

 今は電話代は安いですね。娘は昨日英国から帰ってきましたが、携帯同士で1分20円くらいかな。以前は英国大使館にいるレデイには1時間ぐらい電話していましたが、当時の方が電話代が高い。


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カービル 投稿者:Ichiro 投稿日:10月23日(月)13時03分57秒   引用
カービルに電話ですか。いつかThe Starに投稿した時に 電話したことがありますが さっぱり要領を得ませんでした。私の英語が下手だったのでしょう。

 余り外国の知らない人に電話したことはありませんが、私は 投稿する雑誌の編集長が多いですね。絶対いそうな時間にかけます。心臓がどきどきしますね。
(リベル) 経験者でいらっしゃる。ならばこれは菊池先生に、お願いしましょうよ。第一ネームバリューが、雲泥の差です。よろしくお願いします・・・(10.23 17:13)


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Re: 余談ですが・・・ハンガリー狂詩曲第2番 投稿者:北風 投稿日:10月23日(月)09時15分8秒   引用
>
> どうですか、この話・・・?私って、こういう嫌な人間なのです。何を言い出す?とお思いでしょうけど、でもこのBBSでも随所にお見かけになるでしょう、この嫌な性格の片鱗を・・・。ペダンティック、知ったかぶり、見せたがり屋、威張りたがり屋、気取り屋、キザ、エエカッコシイ、その他又思いついたら追加しますが。全部当りです。この頁だけを読み返していても、我ながら、嫌になります。
>
> こう書いたからと言って、その嫌みが一掃される訳でもないのですが、まあ、いくらか緩和されるかな、と思って、告白したという次第でした・・・(耳の付け根まで真っ赤!)
>

わははははは。おいらのことを言われているのかと思ってしまいました。
それから、リベルさんともう一つ大きな共通点があることがわかりました。これも、ウフフフ。
http://cluster.web.infoseek.co.jp/Fjiken/index.html

(リベル) いやあ、北風さんには、そんな性格は、微塵も見かけられません。これは山陰地方の人間に固有のものかななどと思ったりしています。

それより、「大きな共通点」が、気になります。体育会系?口笛?音楽好き?さあ、何なんだろう・・・???(10.23 12:22)

あっ、あれかなあ・・・ラ○△□◇イ・・・まさか・・・叱られる・・・(>_<)(10.23 12:49)


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Re: Dr.Guy H. Faget 投稿者:Ichiro 投稿日:10月23日(月)08時17分36秒   引用
犀川一夫先生の ハンセン病医療ひとすじ 岩波書店 1996年

 によると 米国の ファジェット とあります。
 小生も ファーストネームを ガイ と 呼べば ファジェットというのが自然な読み方と思いますが、最終的な確信はありません。文献によると 日日が記載されていますが、あれは、最初に服用させた日日でしょうかね。はっきりと文章を読めません。

 蛇足ですが、ステロイド剤は 日本では戦後輸入になったのですが、文献を調べていたら日本最初の使用の日時どころか 時間まで でてきたのには びっくりしました。そういうことであれば、あの日日は最初に使用した日日でしょうね。
(リベル) あ、「ガイ」の着目には恐れ入りました。なるほどGuyはフランス語ではギですね。有名ブランドの「ギ・ラロシュ」は「Guy Laroche」ですから・・・。それと、杉山判決でもファジェットなのですよ・・・。
最終的には、カーヴィル(現在の「Gillis W Long Hansen's Disease Center」」)に手紙か電話ですね。私は「スタコラサッサ」・・・(笑い)(10.23 08:48)


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田中文雄さんの見直しを Re: 皮留久佐乃皮斯米之刀斯 投稿者:しゅう 投稿日:10月23日(月)07時33分55秒   引用
> しゅうさんと北風さんの「田中文雄」のお話を拝読して、「歴史」を書き換えるのは、木簡の発掘や、炭素測定法だけではないのだなあと、感じていました。あらためて、準備書面、杉山判決、訴状、最終報告書などを読み返したり、検索したりしましたが、機関誌や文学に根拠を求めたものは、何も見つかりません。

昨年、田中文雄の原稿用紙2000枚の手記、約半世紀眠っていたものが、「失われた歳月」として発刊されました。
それをハンセン病図書館で展示しましたが、その展示を私が担当させて頂きました。それまで、わたくしも、田中文雄を知りませんでした。いままで私が目にしてきた文献にはほとんど出てこない人で、いま、これほどの人がどうしてここまで忘れ去られ、ハンセンの検証の中で取り上げられないのか?不思議でなりません。
(ただ、森田竹次さんが、「死に行く日にそなえて」に総代との対立について書いていてこの総代はどういう人かな?と興味を持っていましたら、それが田中文雄でしたね。)

田中さんの社会復帰者への支援なども、籐楓協会を抱き込んで進めるやりかたなど誤解されやすいかもしれませんが、しかし、私は、彼の手記を読んで、そこには一筋の彼の純粋な「社会」に対する信念があり、それは評価されなければならないように思うのですが。田中さんについては見直しがあって良いのではないでしょうか。
(リベル) また、ゆっくり読ませて頂きますが、取り敢えず「籐楓協会」は「藤楓協会」ですって、この前も申し上げていますのに、もうっ・・・(笑)(10.23 12:16)


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Re: (無題) 投稿者:しゅう 投稿日:10月23日(月)07時03分30秒   引用
> この頃、東京に本部を置くことに、行政官庁が同じ都道府県であり
> その影響力や加えてくる圧力を考えて、危機感を感じられたとしたら
>
> 全生園(東京)中心に抵抗感を持たれたと考えると、当時管理締め付けの
> 厳しかった離島の入所者の方達の、行政に対する不信感の現われとして
> そういう発想があったとしても、納得のいく面がありますね。
>



田中文雄さんが3園の連携を結んでいたのは、地理的環境がよく似ているので、生活環境の改善の問題点に共通点が多いからです。

それに「全らい患協」は、光田批判が強かったので心理的に同調できなかったのではないでしょうか。田中文雄は小笠原理論も周到に読んでいましたが、マスコミに誤って報道されていたため小笠原理論が正しく伝わっていなかったので、田中文雄も小笠原理論にいっぱい疑問点を持っていて、昭和40年頃実際に逢ってそれを本人から聞いて確認するまで、正しい理解をしていませんでした。その当時、田中は社会復帰したい人の手助けを全面的に支援して苦労していますが、それでも光田理論を肯定していました。

それが、加盟に踏み切ったのは、予算の申請が、3園が出した額より「全らい患協」が出した申請額の方がはるかに高く、そして、それが通ってしまったことによります。田中としては、園の生活環境を良くすることがすべてだったので、加盟に踏み切らざるをえなかったと思います。
これらのことは、「失われた歳月」書かれていたので、それだけです、リベルさん、文学にそれほど詳しいわけではありません。
(リベル) 拝読していて「全患協運動史」にその辺のことが書いてあったと、43頁でした。読んでいてさらに、各療養所の自治会の発足にも触れるべきだと言うことに気が付きました。今夜、年表に反映させる作業に入ります。患者さんが虐待の中から如何に反撃のための団結に至るか、これも大切なことだと思いますし・・・。(10.23 12:12)

いや、私は「短歌」、「俳句」は文学だ、と思いこんでいますので・・・、川柳は文学ではないと・・・間違いなのかなあ・・・???(10.23 17:10)


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余談ですが・・・ハンガリー狂詩曲第2番 投稿者:リベル 投稿日:10月23日(月)04時12分47秒   引用  編集済
ボートの合宿所では、2チーム(ボートではクルーと言いますが)20人ほどが、広い部屋に万年床を並べて2ヶ月ほど同居していました。関西弁で「エエシのぼんぼん」と言いますが、東京出身の気障な男がいて、口笛でその曲を吹き始めたのです。結構長いですよね、これ。

途中で間違えたら、「あ、そこ違うじゃん!」と待ち構えていたら、結局小節(こぶしって言わないか)まで間違えずに終わりました。で「すげえ、完璧だったぜ!」と私は言ったかどうか・・・?忘れましたが・・・。

どうですか、この話・・・?私って、こういう嫌な人間なのです。何を言い出す?とお思いでしょうけど、でもこのBBSでも随所にお見かけになるでしょう、この嫌な性格の片鱗を・・・。ペダンティック、知ったかぶり、見せたがり屋、威張りたがり屋、気取り屋、キザ、エエカッコシイ、その他又思いついたら追加しますが。全部当りです。この頁だけを読み返していても、我ながら、嫌になります。

こう書いたからと言って、その嫌みが一掃される訳でもないのですが、まあ、いくらか緩和されるかな、と思って、告白したという次第でした・・・(耳の付け根まで真っ赤!)

やはり付け加えますが、年を取るに連れて減ってはいるのです。自分で「嫌」なのですから、勿論減らそうと、努力はしているのです。三つ子の魂・・・いや、チョット違うか・・・なかなか、消えるものではないのですね、こういう「性格」というのは・・・(ノ_・、)グスン


追記:この曲ここへ行けば聴けます。今途中ですが、どうやら全曲。・・・ですね。でした。



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皮留久佐乃皮斯米之刀斯 投稿者:リベル 投稿日:10月23日(月)03時14分33秒   引用  編集済
難波宮跡でこう書かれた木簡が見つかったことで、万葉仮名文は7世紀末ごろに柿本人麻呂が完成させたという説に疑問が生じています。数年前には弥生時代の開始の年代についての新説が発表されました。

しゅうさんと北風さんの「田中文雄」のお話を拝読して、「歴史」を書き換えるのは、木簡の発掘や、炭素測定法だけではないのだなあと、感じていました。あらためて、準備書面、杉山判決、訴状、最終報告書などを読み返したり、検索したりしましたが、機関誌や文学に根拠を求めたものは、何も見つかりません。

これは、恐らく「労力」の問題だと思います。とてもそこまでは手が回らない、勉強できない。歴史の検証に際して「文学」を見落とすのは、今に始まったことではなく、そして無理からぬことなんだろうなあと、感じました。

今回は心強いお二人の文学通の存在によって、その盲点が埋められた、そのように思って感動したりしています。

調べてみましたが、残念ながらカーヴィルで「Leprosy」から「Hansen's Disease」に変えた年は未だ見つかりません(英語のサイトしか無いし!)。それも年表に加えられれば面白いと思ったのですが。1950年5月に田中文雄が改称を主張した、と追加させて頂きました。

お陰様で有り難うございました・・・m(_ _)m  また、何かお気付きのことが有りましたら、宜しくお願い致します・・・_(_^_)_


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(無題) 投稿者:はっしー 投稿日:10月23日(月)02時16分30秒   引用
意図して最初にドイツ語読みにして、途中から変えたりはしない
でしょうが、ドイツ語は良い印象が無いって言うのは無いんですか?


判らないんですが、その辺りは。。。。
(リベル) 面白い発想ですね・・・。私は、ドイツ語は好きなんです・・・。「優」「良」「可」「不可」の「不可」でしたが・・・。それも有ってか、大学に8年在学しました・・・(笑)(10.23 03:36)


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そんな難しい話ではなく。 投稿者:北風 投稿日:10月23日(月)01時09分30秒   引用
人名や地名はその国の読み方を使うということさ。
ハンセンはノルウェーの人だから、ノルウェーの発音によっただけさ。


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(無題) 投稿者:はっしー 投稿日:10月22日(日)20時42分16秒   引用  編集済
> 全患協(全国国立ハンゼン氏病療養所患者協議会)に名称変更になるときですから、田中文雄は戦後、3園(長島、大島、邑久)の連携を深めていて、全生園中心の「全らい患協」から加盟を強力に勧められるけれどなかなか応じませんでした。たしか昭和27年頃、全患協に名称変更になる頃、3園が加盟したと思うので、田中さんに上のような文章があるのでしたら、多分、彼の存在感からして、それぐらいのことは、提案し、それを通させただろうと思います。



この頃、東京に本部を置くことに、行政官庁が同じ都道府県であり
その影響力や加えてくる圧力を考えて、危機感を感じられたとしたら

全生園(東京)中心に抵抗感を持たれたと考えると、当時管理締め付けの
厳しかった離島の入所者の方達の、行政に対する不信感の現われとして
そういう発想があったとしても、納得のいく面がありますね。


政府がドイツに公費医療留学生を、送っていた実績があっても
医療面で療養所内でのはかばかしいと感じられる進展が無く
正しい処方によって治療出来るのが、世界標準になっている頃も
遅れをとった感があり、医療不信が強かったのではないでしょうか。


ナチスドイツ(国家社会主義ドイツ労働者党)がドイツを支配していたのは
1933年から1945年(昭和8年から昭和20年)なので、その当時の優生思想に
対する抵抗感でドイツ語読みを止めるべきだと言う発想もあったかもしれません。

ナチスドイツの優生思想は、ユダヤ民族だけに向けられたものではなく
ヒトラーの指示の下で、障害者も安楽死させると言う発想があったそうです。

戦後の日本の医療の在り方が、あの頃のドイツの優生思想とは
別な道を歩むべきだと言う願いが篭められていたのかもしれません。


ドイツ語を基に採用した読み方を、途中で変えると言うのは
医療的質の向上を訴えて、経過の説明を問われた際に
付け加えていくには有効な手段だったのかもしれませんね。



あ、ちなみにこれから下記は憶測なので確認はしてないんですけど。。。。


どなたか、お詳しい方に教えて欲しいのですが

Gerhard Henrik Armauer Hansen

英語読み、もしくは北欧式だと「ハンセン」ドイツ語読みだと「ハンゼン」だとしたら
ドイツ語読みを止めて英語読みを採用したと言うのは、米国標準のプロミンの
療養所内での公費導入を訴える側としては説得力があった様な気がするのですが?


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病名と組織の名称の変遷について雑感。 投稿者:北風 投稿日:10月22日(日)11時38分42秒   引用  編集済
雑感二三。

全患協が「国立療養所」をとって「全国ハンセン病患者協議会」としたということを指摘されてはじめて知りました。(略称があまりに一般的で正式名称の変遷に目が行っていなかった)これは、運動の視野に「私立療養所」と「退所者」さらに「非入所者」が入ったということを意味するならば、大きな意義を持つと思います。
逆に今の「全療協」の正式名称は「全国ハンセン病療養所入所者協議会」で、予防法廃止、裁判勝利後に「原告」を含めた少なからぬ退所者が出たのに「入所者」と限定している点が気になります。

また病名の変遷では、成田先生はそういう論考を行っていますが、全患協が「ハンセン病」を主張したのにたいし、成田さんを含む「日本らい学会」はずっと「らい」を用いてきた点は紛れもない事実です。かつて小生も療養所の医者に「ハンセン病というけれど学問的には「らい菌」だし、学会もらい学会だ言われたことがあります。この医学・行政の側の「らい」へのこだわり(「らい予防法」との整合性か?)は、「らい詩人集団」のこだわりと同質ではありえない。
http://cluster.web.infoseek.co.jp/Fjiken/index.html

(リベル) 雑感とは、ご謙遜で・・・。このレベルのものは、既に「考察」の域に達しているのではと愚考致します。
冗談抜きに、深い洞察に、正に感服仕りました・・・。

学会の動機は、詩人のこだわりとは全く別次元のものだと、同感します。学会は、特に意味なく、惰性か、行政への慮りで、延び延びになったのではなかろうか、と思っていますが・・・。(10.23 02:42)


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言い出しは田中文雄さんではないかと、わたくしも思いますRe: ハンゼン氏病からハンセン氏病へ 投稿者:しゅう 投稿日:10月22日(日)10時11分41秒   引用
> > 長島愛生園の田中文雄さんが愛生誌の昭和25年5月号の「ペンに寄せて」というエッセイの中で「ライ病をハンゼン氏病と改称する事」として、カーヴィルの例を挙げて改称を主張しています。(ちなみに英語読みのハンゼンは、北欧ではにごらないと指摘したのは山室静だと聞いたことがあるが確証はない)


北風さんが、ハンセン病という名称を言い出したのは田中文雄ではないかと言っておられますが、私も、その説を推します。

全患協(全国国立ハンゼン氏病療養所患者協議会)に名称変更になるときですから、田中文雄は戦後、3園(長島、大島、邑久)の連携を深めていて、全生園中心の「全らい患協」から加盟を強力に勧められるけれどなかなか応じませんでした。たしか昭和27年頃、全患協に名称変更になる頃、3園が加盟したと思うので、田中さんに上のような文章があるのでしたら、多分、彼の存在感からして、それぐらいのことは、提案し、それを通させただろうと思います。
(リベル) 遅くなりました、纏めて上にレスを書きましたので・・・。いろいろ、調べたりしていて、つい遅くなってしまいました。有り難うございました。(10.23 03:31)


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F事件から”現代”を考える会のHPの写真 投稿者:リベル 投稿日:10月22日(日)07時25分32秒   引用  編集済
この写真の大津警察署前の交差点は恵楓園の傍にあります。


GoogleMapから



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全患協への名称変更 投稿者:リベル 投稿日:10月22日(日)02時51分21秒   引用  編集済
「年表 日本のハンセン病」及び「病名の変遷」には変更を加えました。

そして「『復権への日月』及び菊池一郎博士の調査に依ります。2006.10.21」と注を付けておきました。今回のように、自分で書いておいて、出典が分からないという不様な事態を繰り返さないように・・・(恥)

その上、これは結構エポックメイキングな出来事なので、キチントしておかないと、後の世の人々(何度も言うなよ!)に迷惑の種を残すことになりかねませんから・・・。経緯も記録しておきました。こちらです。

ああ、さぼっていたので、一気に沢山書かなければなりませんでした。一息入れて、本来の作業に戻らなければ・・・「医学的知見の変遷」と「起源と歴史」がいずれも未完成で、死んでも死に切れませんから・・・また言っている・・・そう言う奴に限って「くたばり損ない」と罵られるまで、生き残るんだよ・・・(o_ _)oパタッ!


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ハンゼン氏病からハンセン氏病へ 投稿者:リベル 投稿日:10月22日(日)02時24分38秒   引用
> 長島愛生園の田中文雄さんが愛生誌の昭和25年5月号の「ペンに寄せて」というエッセイの中で「ライ病をハンゼン氏病と改称する事」として、カーヴィルの例を挙げて改称を主張しています。(ちなみに英語読みのハンゼンは、北欧ではにごらないと指摘したのは山室静だと聞いたことがあるが確証はない)

「ハンゼン」はドイツ語読みであったそうです。(「復権への日月」73頁)それが1959年まで続いたと同書には書いてあります。

先日(10月20日(金)01時03分53秒)「先送り」した「ハンゼン氏病」と「ハンセン氏病」の件は、はっしーさんがご指摘(10月20日(金)02時03分55秒)の通り、1959年9月1日まで前者、その後、後者で現在に至っています。


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Re: Dr.Guy H. Faget 投稿者:リベル 投稿日:10月22日(日)01時58分37秒   引用  編集済
>  ファジェの写真が出ていましたが、もちろんプロミンのことも出ていますが、あまりくわしくない。同様の写真がインターネット検索ででてきます。カービルの職員なので、海軍軍人の白い軍服姿です。フランス生まれといわれる、とあります。この写真は カービルで複写されたようです。

Fagetは「ファジェ」か「ファジェット」かと「Wikipedia」で論争したことがあります。厚生省の「中学生向けのパンフレット」では未だに「ファヂニー」となっています。何度も投稿したり電話したりした結果、ようやくPDFからは名前自体を削除するという、あくまでも自説は枉げないという、対応ぶりでした。厚労省もいけませんが、そもそも高松宮記念ハンセン病資料館運営委員会発行の「ハンセン病資料館」の年表(73頁)が「ファヂニー」としているからいけないのです。

実は、アメリカ大使館のレファランス資料室というところへ調査を頼みました。2時間ほど待たされて、@普通は「ファジェット」です。Aしかしフランス人の名前なので「ファジェ」と読むかも知れませんB彼の先祖がアメリカへ来たときに、発音を決めているので、ご子孫に確認するほか有りません。という解答が来ました。

それ以後、私は「ファジェット」に固執しています。カービル(今は「Gillis W Long Hansen's Disease Center」)へ手紙か、電話すれば分かるかも知れませんが、もう後の世の人にお委せしようと・・・ネグッテいます・・・(>_<)


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長谷川議員が提出した法案の名前は・・・ 投稿者:リベル 投稿日:10月22日(日)01時38分19秒   引用
> 関連して思うのは、全患協は長谷川保を通じて議員立法で出そうとした法案を、なぜ「ハンセン病予防法」としなかったんだろうということです。
> 全患協が運動の用語と法律・医学用語を使い分けた不徹底ないし限界をもっていたのか、外に理由があったのか。

この答えは、意外に簡単だと思います。長谷川保議員が「癩予防と治療に関する質問主意書」を提出したのは1952年11月13日です。この年の5月の第一回支部長会議で協議されはしましたが、未だ「ハンセン氏病」への呼称変更が正式に決定していない段階ですから、これはやむを得ないと思います。

前年の三園長証言、翌年の「らい予防法」へ向けての、闘いの準備、藤本事件の発生などと、発足直後の全患協も大変な時期ですし、それが引いては「全患協」という名称への正式発表を忘れさせたのかも・・・、などと推測しています・・・。

参考:年表 日本のハンセン病


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病名に思う 投稿者:Ichiro 投稿日:10月21日(土)17時34分24秒   引用
ある学会に頼まれて、病名について喋ったことがあります。

 らい から ハンセン病というのは 当然と思いますが、それでも 成田先生は多磨誌に6回かけてエッセイを書くだけの 内容がありました。

 いい病名、悪い病名 というのがありましょう。誰が聞いても 原因とか 症状とかが
想像されるのもあり、患者さん自身が聞いていや というのもあり、いろいろあります。
その中で人名が着くのがありますが、ハンセン病は これに当たります。
 川崎病は いちはやく 川崎病となりました。川崎先生自身が提唱された病名が長すぎること、原因をいち早く追究するのに名前が必要なこと、そういうことで川崎病となりました。モットモ正確な原因は今もって不明です。
 ベーチェット病(海外ではベーチェット症候群)もこれに当たります。
 ハンセン病は ご存知の通り、らい に含まれる悪い感じを払拭するためと思います。光田先生自身、最初は反対であり、その後 不承不承に同意されたようですが その文章の中にも らい という言葉でたくさん出てきた と 成田先生が記載されています。最近でも痴呆とか 精神分裂病などが 変更になっています。
 若い人々は この歴史は どう思うでしょうか。ハンセン病に関して 基本的なことは 中学校高等学校で教える必要がありましょう。


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Re: 政治と文学 投稿者:しゅう 投稿日:10月21日(土)16時14分57秒   引用
> 「癩」から「ハンセン病」への経緯も興味深いものがあります。
> 成田さんの文章は読んでいませんが、僕の推測では、犀川→田中文雄ラインで、カーヴィルの言い換えが伝わり(あるいは田中独自に情報入手したか)、田中文雄あたりが主張したようなカンがしますね。
>
> 一方、前述のように谷川雁はガンとしてその言いかえをナンセンスだといい、「季刊らい」によった島田、月田らの「らい詩人集団」はハンセン病の呼び方を受け入れなかった。
> 小生は、このことのほうに興味があります。


私は、谷川の説に注目をするより、谷川の檄に応えた「らい詩人集団」がいかに強者であったかという事、彼らが凄すぎるのだというふうに思うのですが・・。

「多磨」にも一部でしょうが、「菊池野」の抜粋が載っています。

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「ハンセン氏病」への疑問
      ――続々 らい の表記について――
                谷川雁

…・私は「癩」という言葉が好きである。そのひきつつた指のゆ
がみは夕暮のかまどの前に立ちまよう煙を思いださせるし、一節ご
とにすぎた夏の空虚な熱を封じこめている竹のようでもあり、まだ
判読されない文字で書かれた形而上学を空想することもでさる。
もちろんそれは癩の事実そのものからではなく、事実が象徴と意
味と記号をかねそなえた言葉として析出される瞬間の反応から生れ
るものである……
ところが「癩」という発音や字画のよびおこす反応をまつたく無
視して「ハンセン氏病とよびましよう」と唱えるような運動は社会
的偏見すなわち固定した常識との戦いを一つの言葉に対する感覚の
戦.いとして推進できない弱さをみずから承認するにひとしい。
「癩」について百人中九十九人が感じる恐怖や忌避の心を、言葉
をすりかえることではなく、まさにその言葉そのものによつてくつ
がえすことこそ、「癩」に対する詩の戦いである……。
(詩人・「菊池野」三月号より)

「多磨」昭和三五年六月号
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谷川が言う

「そのひきつつた指のゆ
がみは夕暮のかまどの前に立ちまよう煙を思いださせるし、一節ご
とにすぎた夏の空虚な熱を封じこめている竹のようでもあり、まだ
判読されない文字で書かれた形而上学を空想することもでさる。」

煙であったり、熱であったり、空想であったり、それは、ハンセン病では、そういうイメージが無いというのはそれはその通りですが、そういうことは世俗の中にはどうなんでしょうか、問題にならないように思います。
一般的には、「ハンセン病」へと名前の変更は、当然の運動だったように思いますが・・。
森幹郎さんは、医学者の名前が病名に付くことに反対の意見を述べておられますけれど。

現在、文学の中で使うと言うことは、谷川の説を引いても、あって良いことではないかと思います。
ただ、昔を懐かしんで「らい」を使っただけでは、谷川の言う
「まさにその言葉そのものによつてくつ
がえすことこそ、「癩」に対する詩の戦いである……。」
これに、今となっては、応えることは出来ませんが、現在、医学的な検証と啓蒙が進んで「恐怖や忌避」は拭われつつあるのではないでしょうか?
藤本事件がF事件と呼ばれなければならないのは、まだまだ偏見があるという証左でしょうが、これには、まだそんなことがと半分戸惑いを正直持ちます。


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Dr.Guy H. Faget 投稿者:Ichiro 投稿日:10月21日(土)14時26分24秒   引用
宿願の旅路 武市匡豊 心泉社 平成12年

 ファジェの写真が出ていましたが、もちろんプロミンのことも出ていますが、あまりくわしくない。同様の写真がインターネット検索ででてきます。カービルの職員なので、海軍軍人の白い軍服姿です。フランス生まれといわれる、とあります。この写真は カービルで複写されたようです。当時のプロミンの写真も本にありました。
 この本にはハンセンの事が詳しく出ています。


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Re: 私の説 投稿者:Ichiro 投稿日:10月21日(土)13時49分45秒   引用
北風様

 言葉を変えるというのは 相当 エネルギーが要ることかもしれません。同意を得られるかどうか。
 らい から ハンセン病に変わった経緯も 面白かったですが 俳人が反対したというのは 初めて知りました。らい の2字でいいのに ハンセン病は 字数が多いですね。
 エッセイを書いた頃ですが 外国のこともたくさん調べました。私が不思議に思っていることは 梅毒も らい も そう症状は違わないのに(両者共 鼻が欠ける)らいは 用語を変える必要がある位悪い印象であるのに反し 梅毒は言葉を変える必要はない。
 西欧では 宗教が からんでいるといわれます。小生はよくわかりませんが、ダミアン神父が迫害された当時は らい と 梅毒は 混合して 考えられたそうです。らいを発症したダミアン神父に 女たらしの悪口がありました。これは梅毒は性病ですので そのような悪口を言われたと思います。もちろん 女たらしでないことは ご自身言われていますす。ダットン神父(ダミアン神父の心を許した人)も わかっていたと思います。
 (ついでですが ダミアンーダットン賞はこれから来ています)
 当時、らいを発症した神父は ほかに いたかどうか知りません。熊本では 高い位置にある僧侶が発症し 本妙寺から 他の地に運ばれていき、(昭和15年)、そこに信者が行ったという話しがあります。


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Re: 私の説 投稿者:北風 投稿日:10月21日(土)11時56分25秒   引用
>
> ハンセン病(ハンセン氏病)にすべきという機関が ライを名乗っていたのでは ナンセンスしかなりません。名目ともにハンセン病を主張したということになるからです。
>

関連して思うのは、全患協は長谷川保を通じて議員立法で出そうとした法案を、なぜ「ハンセン病予防法」としなかったんだろうということです。
全患協が運動の用語と法律・医学用語を使い分けた不徹底ないし限界をもっていたのか、外に理由があったのか。

菊池先生はどう思われますか?
http://cluster.web.infoseek.co.jp/Fjiken/index.html



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政治と文学 投稿者:北風 投稿日:10月21日(土)10時50分55秒   引用
「癩」から「ハンセン病」への経緯も興味深いものがあります。
成田さんの文章は読んでいませんが、僕の推測では、犀川→田中文雄ラインで、カーヴィルの言い換えが伝わり(あるいは田中独自に情報入手したか)、田中文雄あたりが主張したようなカンがしますね。

一方、前述のように谷川雁はガンとしてその言いかえをナンセンスだといい、「季刊らい」によった島田、月田らの「らい詩人集団」はハンセン病の呼び方を受け入れなかった。
小生は、このことのほうに興味があります。
http://cluster.web.infoseek.co.jp/Fjiken/index.html



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Re:私の説 投稿者:Ichiro 投稿日:10月21日(土)09時52分55秒   引用
追加

 通常であれば、関係各機関に、この日から、この名前にしますよとの、挨拶があっていいと思います。それであれば、この重要な日が、何日かという議論もおこらなかったと思います。

 私が、らい病から ハンセン病へ というエッセイを 満を持して書きたかったのは、クリテイカルの日を知りたかったからです。再度言いますが、ハンセン病(ハンセン氏病)にすべきという機関が ライを名乗っていたのでは ナンセンスしかなりません。名目ともにハンセン病を主張したということになるからです。

 成田先生の多磨誌の らいからハンセン病へ には タイヘン面白いこともかいています。国内では 誰が最初にいいだしたか 菊池恵楓園の ことも出ています。なおスケッチブックの第4号は手元にありませんが(3号しかない)これに私の最初の記録があります。私は多磨全生園にいったときは、たいてい、資料館で色々調べることにしています。お隣の研究所には、南静園70周年誌を書く為の資料を調べに2度ほどきたこともありました。

 日誌というか、原本は現在でもあるはずですから、全療協の方に出してもらってチェックしてもらってください。


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Re:私の説 投稿者:Ichiro 投稿日:10月21日(土)09時15分0秒   引用
Ichiroです。

 なんだか他人が、勝手に日誌を盗み見したようですが、実際の話は、これこれを調べたいので、日誌だったか 原本の記録を見せてくださいといって、許可を得て、読みました。
 ですから、大体の話は、全療協自体が、発表すべきなんでしょう。筋からいえば。

 幸い、全療協が、2月としか、書いていませんが、発表してくれて という状況なんです。その原本によると、決定した日でなく、判子や、文書をその日から そういう名前で使い出した日と解釈できます。その日が何曜日かわかりませんが、日曜だったりしたら、何も記録が無いかもしれませんね。

 重要な記録ですから、間違うといけません。最新の菊池野の座談会によると、ある資料の写真で宮様の名前を間違えて、ま、そのまま、今頃話題となったのは、ハンセン病療養所自治会を恐れて? 文句をいわなかったのかもしれませんね。


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Re: 私の説 投稿者:リベル 投稿日:10月21日(土)01時20分23秒   引用  編集済
> > 『1953年2月1日 全患協は「全国国立ハンゼン氏病療養所患者協議会」に名称変更(厚生省は「癩」を「らい」に修正するのみ)』

> 1952年の第一回支部長会議で病名を「ハンセン氏」に改めることが討議されています。また、同じころ略称の「全らい患協」を「全患協」に改めるとあります(全患協運動史)
> また「運動史」にはそのこの日名称変更したという記述がありません。
(中略)
> 全患協の最高議決機関は「支部長会議」ですが、1953年のこの日支部長会議は開かれていないわけでこの日「名称変更」されたのか、変更した名称がはじめて文書に使われたのか、微妙なところですね。菊地先生がおっしゃるように始めてこの名称が使われた日でしょうね。
(後略)

なにか、私が誘導しているように、錯覚されそうな展開になっています。が、その意図は全くないのです。

この辺が、非常に真っ当な結論ではないかと、皆様もお考えになっているのではないでしょうか?

誰もが、確信を持って、記事や文章にしなかったことを、菊池先生は自分が高松宮ハンセン病資料館へ行って調べて書いたと、仰有っています。ただ一人の生き証人です。

ここで、歴史に一頁を、あ、一行を、太い字で書き込むことをお許し頂けるでしょうか・・・?
どうか、是非、ご意見をお寄せください・・・お願いします・・・m(_ _)m

実は「年表 日本のハンセン病」には大分前から、明記してはいたのですが・・・(>_<)


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再度「全患協」の名称は何月何日からか? 投稿者:リベル 投稿日:10月21日(土)00時08分8秒   引用  編集済
やや、オタク的になって、いけないかも知れませんが、纏め直してみました。ここでもお知恵を拝借したいと思いまして・・・。

「全癩(らい)患協」が「全患協」に名称変更したのは何月何日かということを、調べていきますと、これがどうも文献によって様々で、難儀をしています。現在の各文献の記述を列挙しますので、何か例証やヒントなど、頂ければ幸いです・・・。


1)『全患協運動史』年表199頁

1952年11月26日 「全らい患協」の名称(略称)を「全患協」と改める

2)『倶会一処』年表67頁

1952年5月24日 全癩患協第1回支部長会議開催。七支部出席。(26日まで)

本文(181頁)には名称変更の記述なし。「癩の名称を廃し、ハンセン氏病と改める。(中略)等、その後ながく運動の原則となった事項を決定した」とあります。

3)『壁をこえて』年表170〜171頁

1952年

5月 全癩患協第1回支部長会議開催(多磨)、癩予防法改正促進、三園長の国会証言問題などを協議。7支部参加(24日〜26日)

10月 全癩患協、癩予防法改正促進委員会発会式

12月 予防法改正運動の展開を期し、事務局機構を拡充、局部長制とし、「全国国立療養所ハンセン氏病患者協議会(全患協)となる(初代局長/光岡良二)

4)『復権への日月』73頁(新しく菊池先生からご紹介頂いたものです)

1953年2月 病名の変更を主張しながらいつまでも全らい患協を名乗っているのはおかしいと、各支部からの要請もあり書面会議を開いて規約を改正。第1条で本会は全国国立療養所ハンゼン氏病患者協議会(略称・全患協)と称するとし、翌1953(昭和28年)2月から実施することにした。

注:10月19日Ichiroさんの投稿「私がわざわざ発表しています。それは 私が高松宮ハンセン病資料館にいって、調査したのですが、はて、どこに発表したのかな。1953年2月1日です。(すけっちぶっく、2000年)これは原本にあたっているので確かです。名前を変えた日であって、名前を変えるのを決定した日ではありません。すなわち その前の日は全らい患協です。」(菊池先生、懐かしいでしょう、すけっちぶっく2000年8月号。そのサイトで、当時の新聞記事も読めますよ。「菊池園長らが健筆をふるう」と・・・。)

5)『らい予防法廃止の歴史』150頁(リベルが拾っていたものを昇格させました)

1952(昭和27)年 全らい患協は全患協と名称を改めた。

6)『リベルの年表』

・1952年5月24日 全癩患協第1回支部長会議が施設側の妨害を排除して開催され
@「らい」を「ハンゼン氏病」に改める
A「らい予防法」の改正試案(強制収容条項の削除、懲戒検束規定の廃止、退園・一時帰省の促進等)を決議し政府に要望する
B「全癩患協」を「全患協」に改称(10.21 01:57現在、削除)

注:@Aは「らい予防法廃止の歴史」148頁
  Bは出所不明。リベルの推測かも。

・1953年2月1日 全患協は「全国国立ハンゼン氏病療養所患者協議会」に名称変更(厚生省は「癩」を「らい」に修正するのみ)

注:上の1952年5月24日の記述と矛盾しています。


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Re: 癩の字義 投稿者:リベル 投稿日:10月20日(金)11時15分12秒   引用  編集済
> これも専門家に伺いたいのですが、癩は「形声文字」で「頼る」という意味はないのではないですか?
> 単に「音」を借りただけ。

おやまあ、折角申し上げているのに「ハンセン病の起源と歴史」をお読み頂いていませんね!【注14】と【注16】に良いヒントが有ります。

「字通」の「癩」の項にこうあります。「癩・癘・痢 lat は同声。」「氏@liat も声が近い。」と・・・。

四声に無知なのが口惜しいですが、「Lepra、leprosy」からの「音」の借用だと思われますが、どうなのでしょう・・・?


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癩の字義 投稿者:北風 投稿日:10月20日(金)10時35分54秒   引用
これも専門家に伺いたいのですが、癩は「形声文字」で「頼る」という意味はないのではないですか?
単に「音」を借りただけ。

それを俗流説教屋が意味ありげに言っただけでしょう。こういう手合いはいっぱいいますね。
http://cluster.web.infoseek.co.jp/Fjiken/index.html



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氏にはたいした意味がない。 投稿者:北風 投稿日:10月20日(金)09時41分48秒   引用  編集済
これは菊池先生が一番ご存知だろうけれど、学術用語で「発見者」などの名前をつけるとき、以前は「氏」をつけていたけれど、いつからか「氏」をとるようになっただけでただの歴史的変遷で、混在して使っていない。

昔、川崎氏病といったのが今は川崎病というのと同じ。川崎医大が川崎にないのに何で?と思っていたおいらだ。
そういや昔、石原慎太郎の小説でバルトリン氏腺という言葉を覚えたなあ。リベルさん知ってる?
http://cluster.web.infoseek.co.jp/Fjiken/index.html

(リベル) 知ってますともお・・・。これでも学生時代、ボート部きってのワルだったのですから・・・(シ、シ、シマッタァッ!)(10.20 11:22)


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忙しい、忙しい・・・ 投稿者:リベル 投稿日:10月20日(金)02時31分42秒   引用  編集済
「ハンセン病の起源と歴史」というのを作っているのですが、その作業に関連して「医学的知見の変遷」を年表に纏めたくなり、目下進行中なのです。

上↑から、ご意見、ご批判など賜りたく、お願い致します・・・m(_ _)m

どうせ、どなたも、してくださらない、だろうなあ・・・(>_<)


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(無題) 投稿者:はっしー 投稿日:10月20日(金)02時03分55秒   引用  編集済
ハンセン氏病ではなく、「ハンゼン氏病」と称されたのは

『復権の日月』72ページ下段の後ろから二行目から
73ページの上段、前から17行目に記載があります

その中にあるのは、最初はドイツ語読みの為に「ハンゼン氏病」とし
 全国国立療養所ハンゼン氏病患者協議会(略称:全患協)と称して


その名称はその後6年間続いて1959年9月1日に濁点を取って
 全国国立ハンセン氏病患者協議会に変更されたと記載があります
(リベル) 有り難うございます。それは「年表」や「病名の変遷」にも掲載しているのですが、私が分からないのは「全患協運動史」43頁に1952年に「ハンセン氏病」と改めると書いてあることなのです。本来は「ハンゼン氏病」と書かれるべきではないか?と・・・
さきほど、「復権への日月」をアマゾンに発注しました。このところエラク物入りで・・・(>_<)(爆)


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全患協運動史 投稿者:リベル 投稿日:10月20日(金)01時03分53秒   引用  編集済
今日、到着しました。はい、今まで持っていなかったのです。2650円は高くって・・・(>_<)

飛び付くようにむさぼり読みましたが、よし分かったぞ!という喜びと、なんだこれもか!という落胆が、綯い交ざったような気持ちです。


1)喜びの報告

兎に角、先ず「全国国立癩療養所患者協議会(全癩患協)」が発足したのは1951年1月12日である。これだけは確認できました。北風さんのご指摘通り、1952年5月24日〜26日の全癩患協第一回支部長会議で「癩」を廃し「ハンセン氏病」にしようと討議されたところまでは、決定です。

しかし「全国国立癩療養所患者協議会」が「全国国立ハンゼン氏病療養所患者協議会」と呼称変更したという確たる記録が未だ見当たりません(菊池先生、ご免なさい。公式記録が見当たらないという意味です)。しかし、これは今はペンディングとさせて頂きたく、お願いします。

注:
@北風さんご指摘の「略称の「全らい患協」を「全患協」に改める」は1952年11月26日となっていますが、もしこの日付が正しければ、これまでに正式名称が変更になっていたことになります。下に書いたようなことがあるので、少し疑心暗鬼気味なのです・・・(笑)
A「ハンセン氏病」と「ハンゼン氏病」の問題に気がついていないわけではありませんが、これは、「先送り」にさせて下さい・・・(笑)

2)落胆の報告

@年表の1951年8月1日(198頁)に「全国癩患者一斉調査」が出ています。これは「判決」も「倶会一処(年表64頁)」も「壁をこえて(168頁)」も1950年としています。

A本文の107頁に「この制度を一番早くとり入れた菊池恵楓園では1930(大正5)年「所内通用表」制度をわずか二、三年で廃止している」と書いていますが、「1916(大正5)年」の間違いです。菊池先生、こんなのが出て来てしまいましたよ、菊池恵楓園自治会80年史「壁をこえて」149頁の記述と合致するのです・・・トホホ。

なにも、粗探しに汲々としていた訳ではないのに、もうこれだけ出てきたのには、些かガックリです・・・(o_ _)oパタッ!



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(無題) 投稿者:はっしー 投稿日:10月19日(木)20時21分32秒   引用  編集済
ハンセン病問題や、社会問題に興味を持って調べてくれる人達は
若い世代であっても、当然病名の変遷に関して調べてくれるでしょう
病名の変遷の意味が、何であったのかが後世にも伝わるといいと思います

ハンセン病と言う疾患名を使わずに、癩と言う病名を長い期間に
渡って使い続けていた一番の原因はなんだったのでしょうか?


強制隔離政策を推し進める中で、日本から施設団を送って療養所の
関係者も含めて三名が、1956年のローマ会議にも出席していますし、
その時点で疾患に対する認識が改まっても良かった筈なのに何故
後世になってから病名の使い分けを、考える事になったのでしょうか。

ローマ会議の内容は、日本でのハンセン病対策と真っ向から
対立する趣旨で、政府はそれを入所者の方達には伝えず
入所者の方達は、それをキリスト教関係者から伝え聞き
強制隔離は、医学的根拠が無く矛盾していると知る訳ですが

入所者の方達が、疾患名ハンセン氏病に関して考えていたのは
1952年3月1日付けの「全患協ニュース」で現状を問う形で話題になり

日本では、癩と言う文字をレプラの翻訳として採用した訳ですが
レプラは、忌むべきものとして描かれたりしがちな点が
西洋では使うべきではないと言う認識なのでしょうか。

明治以前から、癩と言う文字は存在していましたがこの時点で
特定疾患として、癩と言う疾患名が差別意識が既に強かったと
言う認識があれば当初から、使うべきでは無かった気がするのですが。


「らいは『やまいだれ』に『頼る』と書くが昔から患者が物乞いとなって
 露命を繋いできた証拠であり、療養所に入っても人に頼って感謝する
 ことを知らなければ、やはり、そう言われても仕方が無い」という
 説教を入所者の方達の前で、説教する僧侶の方が居たのだそうですね。




社会復帰の条件なども、治癒の基準が1956年5月に
「退所決定暫定準則」として入所者の方には非公開で内定し

・病型にもよるが、治癒の観察機関を一年乃至二年
・臨床的には症状の消失
・細菌学的及び病理学的には、ハンセン病の菌の消失
・免疫反応としては、光田氏反応の陽転を規定

観察期間、臨床的所見、細菌学的所見、病理学的所見
免疫反応の各欄以外にも、その他(希望事項)として

@顔面及び四肢に著しい、後遺症を残さないこと
A退所後、家族または隣人との不調和のおそれがないこと



などの付帯があり、希望事項に関しては

@が医学的に矛盾があり、後遺症が重い人は一生出られない規定
Aは親族とのプライバシーの問題に、行政が立ち入っている


とも言える状況での社会復帰なので、どうも矛盾が大きすぎる気がします


以上は、「復権の日月」を読んでの感想なのですが読み方を誤ってますか?
(リベル) 退所決定暫定準則については「判決」にも詳しく書いてあります。ご参考までに・・・。


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病名について 投稿者:Ichiro 投稿日:10月19日(木)20時15分31秒   引用
ハッシー様

 ふと気がついたのですが、時の流れるのは早いものですね。私が”らい”の語感について書いたのは1987年(Star誌上)、成田先生が多磨誌上で、らいからハンセン病へ、を6回のシリーズで書かれたのが2001年です。若い人は、それらの歴史を知っているのでしょうか。志村さんのブログの方で若い人がヨーロッパではらいという言葉は禁止されていると書かれて、ちょっと書こうかと思ったのですが、やめました。leprosyはヨーロッパでは普通です。
 病名については復権の日月も かなりのページを割いています。

 2月1日が重要というのは、ハンセン病(当時はハンゼン氏病)を使うべきという団体が、らいという名前を名乗っていてはおかしいからです。


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Re: 文献追加 投稿者:はっしー 投稿日:10月19日(木)19時13分17秒   引用  編集済
>  2月1日とは書いていませんが、この資料で、ほとんど、2月1日説は立証できたようなものと思います。
>  ですから、この日は重要な記念日としていい日ではないかと、前から言っています。

癩病と言う病名が、ハンセン病と言う病名に変わったとしても
病の本質が変わる訳ではないので、ハンセン病と言う病名だけに
耳慣れてしまった近代の若い世代の人達にとっては、癩病と言う
疾患名の頃の政策矛盾や歴史を、辿っていくのに何か文献を調べるには

癩病と、ハンセン氏病と、ハンセン病と三項目に渡ってしまいますね。

一番、病気に対して誤解のある世代の人達にとって疾患の認知度は癩病として
病気を知らなかった若い世代の人達にとっては、疾患の認知度は小泉首相が
握手をした時の相手の側として、ハンセン病の回復者さん達として存在している。


この辺りの矛盾は、学問的にどうあるべきだとお考えになりますか?


若い世代の人達に「ハンセン病」という疾患について尋ねてみると
一番に浮かぶ印象が、小泉首相との控訴断念の際の握手のシーンで
疾患そのものに関する詳細は、判らなくてもその場面は覚えている


と言うことが多かったと街頭インタビューのシーンで流れていました。


癩と言う言葉は、もう義務教育の教科書でも出てきませんので
この字を読めるかどうかも、若い世代の人達では難しい面があります。


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文献追加 投稿者:Ichiro 投稿日:10月19日(木)18時53分52秒   引用
全療協の資料からみてみましょう。

 2月1日とは書いていませんが 2月とは書いています。
 復権への日月 光陽出版社 2001

 73ページ 病名の変更を主張しながらいつまでも全らい患協を名乗っているのはおかしいと、各支部からの要請もあり書面会議を開いて規約を改正。第1条で本会は全国国立療養所ハンゼン氏病患者協議会(略称・全患協)と称するとし、翌1958(昭和28年)2月から実施することにした。
 2月1日とは書いていませんが、この資料で、ほとんど、2月1日説は立証できたようなものと思います。
 ですから、この日は重要な記念日としていい日ではないかと、前から言っています。
(リベル) >翌1958(昭和28年)2月から実施することにした。

これは、「翌1953(昭和28年)」ですね・・・?(10.20 23:40)


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あはは 私が教えたのです 投稿者:Ichiro 投稿日:10月19日(木)17時47分14秒   引用
リベル様

 思い出されたでしょうか。あはは。
 資料は 日誌だったか 何か忘れましたが 全療協の人に お願いして 出していただきました。なぜか判りませんが、全療協の資料も 2月とは ありますが 2月1日とは ありません。

 その後 世界ハンセン病の日の話題になって、それが1月の最終の日曜だったので
(これは行事を行う都合です)、あれ、2月1日に近いなあ という話になりました。その元々というのは ハンセン病にも関係あるガンジーが 暗殺された日なのです。インドですね。ですから この偶然の一致に 私は ひそかに ほくそえみました。

 日本医事新報のエッセイは 私は満を持して書いたもので、その前の多磨誌の 成田先生のらいからハンセン病へ を完了してから書いたものです。


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Re: 私の説 投稿者:北風 投稿日:10月19日(木)12時40分43秒   引用  編集済
>
> 『1953年2月1日 全患協は「全国国立ハンゼン氏病療養所患者協議会」に名称変更(厚生省は「癩」を「らい」に修正するのみ)』
>

1952年の第一回支部長会議で病名を「ハンセン氏」に改めることが討議されています。また、同じころ略称の「全らい患協」を「全患協」に改めるとあります(全患協運動史)
また「運動史」にはそのこの日名称変更したという記述がありません。
長島愛生園の田中文雄さんが愛生誌の昭和25年5月号の「ペンに寄せて」というエッセイの中で「ライ病をハンゼン氏病と改称する事」として、カーヴィルの例を挙げて改称を主張しています。(ちなみに英語読みのハンゼンは、北欧ではにごらないと指摘したのは山室静だと聞いたことがあるが確証はない)

全患協の最高議決機関は「支部長会議」ですが、1953年のこの日支部長会議は開かれていないわけでこの日「名称変更」されたのか、変更した名称がはじめて文書に使われたのか、微妙なところですね。菊地先生がおっしゃるように始めてこの名称が使われた日でしょうね。

厚生省や学会は名称変更の意志はなく、「ハンセン病って言ったって学問的には「ライ」だ」といって、つい最近まで「ハンセン病」は「俗称」扱いだったと思います。
このことや田中さんの例から、ハンセン病への改称は決して医学界や行政から出た話ではなく、患者運動の中からでたことであることは明らかですね。かーヴィルなどの情報も、患者独自に入手していた。

医学界や行政は、谷川雁や島田さんたちがこだわったのとは反対の立場から「ライ」にこだわっていた。
http://cluster.web.infoseek.co.jp/Fjiken/index.html



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Re: 私の説 投稿者:リベル 投稿日:10月19日(木)12時07分27秒   引用  編集済
> 私がわざわざ発表しています。
>
>  それは 私が高松宮ハンセン病資料館にいって、調査したのですが、はて、どこに発表したのかな。1953年2月1日です。(すけっちぶっく、2000年)これは原本にあたっているので確かです。名前を変えた日であって、名前を変えるのを決定した日ではありません。

菊池先生が何かご存じなのではと、心に期してはいました。
しかし、またまた新説か、と些か困惑の念を抱きもしたのですが・・・。

そして、その年月日を再び調べて行くと、まあ驚きました。

『1953年2月1日 全患協は「全国国立ハンゼン氏病療養所患者協議会」に名称変更(厚生省は「癩」を「らい」に修正するのみ)』

というのを発見したのです。しかも自分の年表の中にです。

早速、元原稿を引っ張り出したのですが、その書き込みの跡は見当たりません。年表の完成後、これはと思う事実は、直接PCに追加記載しているので、なにか、どこかに信頼すべき記載が有ったに違いないのですが・・・。
さあ、どこに書いてあったのやら・・・誰か助けて下さいなあ・・・m(_ _)m・・・<(_ _)>・・・_(._.)_・・・_(_^_)_


いつも、こんなに苦労して作りました、と言わんばかりに、自慢たらしく見せびらかす「元原稿」をご覧ください。
やはり「02/01」に書き込んだ形跡は有りません・・・(>_<)



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Re: 図書館友の会も生祭りに参加します 投稿者:北風 投稿日:10月19日(木)10時22分26秒   引用
> > ◇全生園まつり◇ 2006年11月1日(水)〜3日(金・祝日)
>
> 「ナマ祭り」ではなく「全生園まつり」です。念のため。
>
> ハンセン病への名称変更については、当時水俣にいた谷川雁がナンセンスだと批判した文章を何度も『菊池野』に発表していますね。
>
> 小生も「癩はらいだべ。第一ハンセン病じゃあ歌にならねえ」というのを何人もからじかに聞いたことがあります。

島田等さんらの「らい詩人集団」が出していた『季刊らい』の二十数冊の中にも一語も「ハンセン病」の文字がなかったと思います。
http://cluster.web.infoseek.co.jp/Fjiken/index.html



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Re: 図書館友の会も生祭りに参加します 投稿者:北風 投稿日:10月19日(木)10時12分20秒   引用
> ◇全生園まつり◇ 2006年11月1日(水)〜3日(金・祝日)

「ナマ祭り」ではなく「全生園まつり」です。念のため。

ハンセン病への名称変更については、当時水俣にいた谷川雁がナンセンスだと批判した文章を何度も『菊池野』に発表していますね。

小生も「癩はらいだべ。第一ハンセン病じゃあ歌にならねえ」というのを何人もからじかに聞いたことがあります。
http://cluster.web.infoseek.co.jp/Fjiken/index.html



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(無題) 投稿者:はっしー 投稿日:10月19日(木)10時06分28秒   引用  編集済
ハンセン病と言う病名が、医学界では普及していなかった時代
らい病と言う病名を外すと、趣旨が通じなくなる事が団体名の変更に
際しても、時間的な誤差が出てしまったと言う事は無いのでしょうか

高松宮ハンセン病資料館の冊子の中の、ハンセン病に関する
説明文の中にも病因の説明は「らい菌」と言う呼び方になっていて
今でも、医学的な扱いでは菌種に関してはらい菌と呼びます
と言う注意書きが書いてありました(白黒版)


医学界では、らい病と言う病名は通例のものであった訳ですが


先にあげた健康保険での受診の際に、病名に関する記載に関しては
抗酸菌の一種である事をいかして「皮膚抗酸菌症」神経炎が必発で
あるので「多発性神経炎」あるいは「単発性神経炎」等の病名を
保険適用症例として、記載するなどの工夫があったのだそうです。


文芸作品などの中にも、ハンセン病の記載は出てくるのですが
遠藤周作の「私が棄てた女」は、ハンセン病の疾患を患った方に
生涯貢献した方がモデルでは無いかと一般に言われていますが
1963年に書かれたこの著作で、ハンセン氏病と言う名称が出てきます。


テーマとして扱われた年代が、10年後なので1953年当時の
問題を語る要因には、ならないかもしれませんが


一般に浸透するには、時間がかかる分切替えの時期も
慎重を要したと言うことは、なかったのでしょうか?


またハンセン病ではなく、ハンセン氏病と言う風に使っていた方達も
居た様ですので、病名の変遷はニュアンスがそれぞれに違う様ですね。

らい病と言う病名を使わないと言う事は、当事者の方達にとって
悪い思い出を、払拭する為の配慮と言うニュアンスもありますが

政策側にとっては従来起こって来た、らい病としての扱われ方の矛盾に関して
病名が変わってしまう事で、忘れられると言う面もあるかもしれません。


「無らい県運動」と言う運動名称が起こした波紋が、疾患名の変遷に繋がって
 いるのでしょうから、その事実そのものが隠蔽されない事が大切かもしれません。


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私の説 投稿者:Ichiro 投稿日:10月19日(木)08時16分44秒   引用
私がわざわざ発表しています。

 それは 私が高松宮ハンセン病資料館にいって、調査したのですが、はて、どこに発表したのかな。1953年2月1日です。(すけっちぶっく、2000年)これは原本にあたっているので確かです。名前を変えた日であって、名前を変えるのを決定した日ではありません。
 すなわち その前の日は全らい患協です。
 私はこの日は、最も意義深い日と思っています。らい病からハンセン病へ というエッセイ(日本医事新報  4056,59−60,2002)にも発表していますが、すけっちぶっくへの記載が最初と思います。ハンセン病を使えといっても、ご本尊が らい の字を使っていたのでは これまた おかしなことです。
 この私の趣旨は 色々の所で述べました。

Ichiro


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「全患協」の名称は何月何日からか? 投稿者:リベル 投稿日:10月19日(木)02時00分50秒   引用  編集済
やや、オタク的になって、いけないかも知れませんが、ここでもお知恵を拝借したいと思いまして・・・。

「全癩(らい)患協」が「全患協」に名称変更したのは何月何日かということを、調べていきますと、これがどうも文献によって様々で、難儀をしています。現在の各文献の記述を列挙しますので、何か例証やヒントなど、頂ければ幸いです・・・。


1)『全患協運動史』

1952年11月26日 「全らい患協」の名称(略称)を「全患協」と改める

2)『倶会一処』年表67頁

1952年5月24日 全癩患協第1回支部長会議開催。七支部出席。(26日まで)

本文(179頁)には名称変更の記述なし。

3)『壁をこえて』

1952年

5月 全癩患協第1回支部長会議開催(多磨)、癩予防法改正促進、三園長の国会証言問題などを協議。7支部参加(24日〜26日)

10月 全癩患協、癩予防法改正促進委員会発会式

12月 予防法改正運動の展開を期し、事務局機構を拡充、局部長制とし、「全国国立療養所ハンセン氏病患者協議会(全患協)となる(初代局長/光岡良二)

4)『リベルの年表』

1952年5月24日 全癩患協第1回支部長会議が施設側の妨害を排除して開催され
@「らい」を「ハンゼン氏病」に改める
A「らい予防法」の改正試案(強制収容条項の削除、懲戒検束規定の廃止、退園・一時帰省の促進等)を決議し政府に要望する
B「全癩患協」を「全患協」に改称

@Aは「らい予防法廃止の歴史」148頁
Bは出所不明。リベルの推測かも。同著には、単に「一九五二(昭和二七)150頁 とあります。


1952年だということは確かなのですが、結局、諸説まちまちで、「11月」、「明記せず」、「12月」、「5月」とどれが正しいのやら・・・?
それに私としましては「病名の変遷」の「5月24日」も訂正する必要が出てきますし・・・。

どうぞよろしく、お願いしまあす・・・m(_ _)m


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図書館友の会も生祭りに参加します 投稿者:宣伝させてください 投稿日:10月18日(水)19時50分13秒   引用  編集済
◇全生園まつり◇ 2006年11月1日(水)〜3日(金・祝日)


【開場時間】
 11月1日:AM 10:00〜PM 4:00[AM 10:00オープニング]
 11月2日:AM 10:00〜PM 4:00
 11月3日:AM 10:00〜PM 3:00

【会場1】 国立療養所多磨全生園 コミュニティセンター
      東京都東村山市青葉町 4-1-10

 ◇会場1:コミュニティセンター展示◇
  “「人間回復」をめざして”と題して、戦後から1953年の「らい予防法」闘争に
    いたる、入園者の「人間回復」への道を年表で示すとともに、ハンセン病図書館の
    貴重な収蔵図書資料を展示して、戦後の歩みをたどります。



【会場2】 国立療養所多磨全生園 ハンセン病図書館資料室

【開館時間】
 11月1日(水)〜3日(金・祝日)ともAM 11:00〜PM 3:00

 ◇会場2:ハンセン病図書館資料室展示◇
  “花ひらいた文学”と題して、ハンセン病療養所という隔離空間の中で
   鍛えられ花ひらいた文学の足跡を、ハンセン病図書館所蔵図書資料と
   園誌、年表でたどります。


*** 会場1と会場2は、開館時間が違うのでご注意ください ***

ハンセン病図書館友の会のHPへは、こちら から


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松本馨さんの講演記録集が刊行されます 投稿者:宣伝させてください 投稿日:10月18日(水)19時48分43秒   引用  編集済
松本馨さんの講演記録集が刊行されます


2005年10月に、多磨全生園コミュニティーセンターで行われた
松本馨さんの講演会の内容を、ハンセン病図書館友の会の発行で
今度の全生園祭りまでに記録集を刊行することになりました。

詳細は、ハンセン病図書館友の会 HP内の談話室をご覧下さい

●松本馨さん講演会の内容

 講演1 松本馨の闘い−らい予防法に抗して
      講師:大谷藤郎氏
 講演2 松本馨の信仰−信仰と受難
      講師:野上寛次氏(多磨誌元編集長)
      司会:森田外雄氏

      主催:ハンセン病図書館友の会
      協力:国立療養所多磨全生園入所者自治会
(リベル) わざわざ、お出かけ頂いて、お探し頂くのもお手間かもと、「入手方法」をご紹介しておきます。「友の会HPの談話室」からコピペします。

『「松本馨追悼講演会の報告書」

ハンセン病図書館友の会の発行で今度の全生園祭りまでに記録集を刊行することになりました。

60頁ほどの小冊子ですが、中身は充実。1部300円でお分けします。
送料その他の扱いは未定ですが、ご希望の方はとりあえず、紙魚あてにメール(fuji@libro-koseisha.co.jp)をください。』


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『公孫樹』 投稿者:北風 投稿日:10月18日(水)19時23分8秒   引用  編集済
俳句の巻編集中です。


太田あさし
『公孫樹』より。


癩と云ふ字を言海に見し夜寒
永き夜のいたづら書きや薬包紙
病人の爪切り廻はる夜永かな
見舞客露けき義足脱ぎにける
父母に海へだて病む窓の月
音頭とりしてゐる盲婢かな
盲人の音頭に合せ踊りけり
年々の子規忌のころは病快き
蓮飯や父はとく逝き母は老ゆ
病人に啼く秋鴉叱りけり
萩の径とつとと通ふ義足かな
薬飲むコツプの水を菊に遣る
http://cluster.web.infoseek.co.jp/Fjiken/index.html

(リベル) 私ごとですが、最近しゅうさんの「東風吹かば」で「きょうの一首」を拝読するようになってから、こういう短詩が少しずつ身近になってきまして、いえ、分かるようになってとは申しておりませんが(笑)、興味を引かれます。

北風さん、頑張って、金字塔の仕上げを・・・祈ご健闘!


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余談 投稿者:はっしー 投稿日:10月18日(水)19時00分51秒   引用  編集済
小笠原氏の医学会での、軋轢の問題ですが

日本の近代ハンセン病対策を批判し始めた1931年(昭和6)から数年間は
同様の専門家もあり同じ傾向の論調があった為に、それほど大きな軋轢は
無かったようです。しかし、無らい県運動の高まりで「絶対隔離絶滅政策」が
強化されるに従って、様子が一変してきて1941年(昭和16)11月に行われた
日本らい学会では、小笠原学説を糾弾する会の如き様子になってしまったそうです。

体質説の撤回を迫られた小笠原氏が、自説を曲げなかった為学会代表が
京都帝大の医学部長に、小笠原氏の処分を迫りましたが京大はそれを拒否。

ハンセン病患者に対する小笠原氏の診療態度と病院論は基本的に京大で認められていた様です。

しかし、その京大内での学術研究も「無らい県運動」以後は様々な困難を極め
意欲有る研究者の人達も、家族の知れる処となると、実家に連れ戻されたり
同じ学内でも偏見があったりと、苦労も多かった様です。そんな中で小笠原氏の
人柄や学説に傾倒して協力する医学生として現れたのが、後に厚生省で医療行政を
進めた大谷藤朗氏で、1972年(昭和47)ハンセン病療養所を所轄する国立療養所課長に
なると入所者の方達の処遇改善に、力を注ぎ医務局長として退職後はらい予防法の
廃止に尽力されました。国家賠償請求訴訟で、原告・被告双方から申請された
証人として熊本地裁の法廷に立ち、国の絶対隔離政策は人権侵害だったと
証言し、後に結果として出てくる原告勝訴に貢献される事となりました。


小笠原氏の学説は、漢方医でもあり、愛知県円周寺の次男として生まれられた事で
独自の宗教的生命観や、漢方医としての発想も含まれていた面が西洋医学全盛で
あった当時の日本の医学会とは、何かと反発を呼ぶ面があったのかもしれません。


強制隔離政策を押して、政策を維持したい行政側としては
小笠原氏の学説は不都合な面が、多すぎたのかもしれませんね。
(リベル) 第5回日本らい学会の模様は、杉山判決のこの部分にも詳しいです。(10.19 00:46)


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余談 投稿者:はっしー 投稿日:10月18日(水)18時38分59秒   引用  編集済
ハンセン病の臨床医として6年間診療した小笠原氏は、1931年(昭和6)
『診断と治療』誌に「らいに関する三つの迷信」と題する論考を発表し
迷信を脱却して正しい見解に基づいて正しいハンセン病対策を立てるように
訴えました。

この時、小笠原氏の訴えた三つの迷信とは

1.ハンセン病を不治の病とする迷信
2.ハンセン病を遺伝とする迷信
3.ハンセン病を強烈な伝染病とする迷信

1.について小笠原氏は、ハンセン病は結核と比べて治りやすい病気と主張しています。

  現在でも、プロミンと言う薬が現れるまでは不治であったと考える人が少なくありませんが
  これは誤りで、プロミン以外でも自然治癒する患者は少なくなかったし、ある程度進行して
  後遺症を残して病勢の進行が止まることがあり、大風油子が効く患者さんも居たからです

  小笠原氏は、病変が一定の度を超えると病気そのものは治っても完全に元に戻らない
  面があるが、これは後遺症であって病気そのものが不治と考えるのは誤りであると
  指摘していましたが、一般病院で治癒した患者の方も決して例外的な症例ではなく
  この頃ハンセン病の治癒について考察した論文も多かったのだそうです。


2.についてはわが国におけるハンセン病の背景は、江戸時代にも遡れるもので
  家族内伝染が主になっていたような誤解を生んたことに対し反論したものです

  この学説を前面に、打ち出していった事で訴訟問題その他を入所者の方達は
  乗り越えてこられた訳ですが、近代になって遺伝病では無いと強調される
  事が遺伝病に関する偏見の助長に、繋がってはいないかと言う声もあがっており
  疾患に関する理解を求める事の、難しさを実感させられる新たな問題を生んでいます。


3.伝染性については、「古き時代からの病気でありながらこれが伝染病である事が
  観破せられなかった。千有余年の間何等予防施設を施す事なく放置せられたにも
  かかわらず、全国民尽くらいによって犯されるには至って居らぬ」と述べて
  日本でのハンセン病有病率は、人口3500人に一人に過ぎず、人々がハンセン病に
  無関心だった明治時代にすら、患者数は着実に減少しており、結核とは比較に
  ならないほど有病率も感染率も低いと、述べられています。



患者の方と接触してもごく少数の特定の人だけが、発病するとした小笠原氏は
発病について解明しようと、生育環境や、身体計測を行った結果に基づいて
1933年(昭和8)に「くる病性体質説」を発表しました。


これは、幼少期に動物性たんぱく質を充分に摂取出来なかった人がビタミンD不足に
なって感染に弱い体質になり、その様な体質の人にらい菌が感染発病すると言う説でした。

この論争が、八年後に大論争を巻き起こすきっかけとなりますが
当時、動物性食品を摂れなかったお子さんが多かった日本の食事情を
考え、結核などの慢性感染症の発病にくる病性体質が関係するという
考えは広く認められていて、それを小笠原氏はハンセン病に導入しました。

すなわち、ハンセン病の予防策は感受性破壊の方策のほうが隔離よりも
適切であり、その目的の為に国民の栄養状態、特に農民のそれを
改善することが急務であると主張しました。

今日、貧困によって発生する病と一般に称されがちなのはこの学説の
動物性食品を摂れなかった事に対する反省が、きっかけの様です。


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余談     投稿者:はっしー 投稿日:10月18日(水)18時16分20秒   引用  編集済
日本で京大医学部が、ハンセン病患者の診療を始めたのは、皮膚科学教室が開講した
百五十年前で、はじめは皮膚科第五診察室と呼ばれ1938年(昭和13)8月からは
小笠原昇氏を主任とする皮膚科特別研究室と呼ばれるようになりました。

小笠原氏の時代は、助教授までしかなかったのが後継者の西占貢氏が教授に
就任されたと同時に皮膚科から離れて「皮膚病特別研究施設」となりました。

しかし、西占教授退官後は大学組織再編に伴って再び皮膚科の一部となり
皮膚科特別診療室と呼ばれるようになり、1988年(昭和63)からは
「皮膚神経外来」として皮膚科の専門元来になって今日に至っているそうです。

皮膚科学教室が開講と同時にハンセン病の診療が始まった際に、明治から
大正時代の京大皮膚科外来通院患者の2%前後はハンセン病患者の方であり
当時は、ほかの大病院皮膚科でも通院患者の数パーセントはハンセン病患者の
方であったとの記載があり、京大だけが特別多かった訳では無いようです。

今日おいては、疾患の後遺症のイメージばかりが考えられがちですが昔の
ハンセン病の疾患に関しては、軽度の抹消神経麻痺と皮疹だけの軽症者の方も
少なくなかった為、1900年(明治33)の全国調査では3万人余り報告されていますが
これは警察官の方の調査であり、軽症の患者の方の実数は含まれておらず実際には
もっと多くの患者さんがいらっしゃっただろうと言われています。

そのような患者さんたちは、大きな病院の皮膚科に通院していたのです。

1972年(昭和47)頃から香川の大島青松園の入所者の方々で
園内治療の難しい方には、京大皮膚特研の病棟に入院して貰い
そこから京大病院の各科で必要な検査や治療を行う事業を始めました。

瀬戸内海から、船による移動での通院や移動は入所者の方にとっても
付き添いの方にとっても、大きな負担ではありましたがそれまで
療養所では、出来なかった放射線治療や手術、高度な検査などで
難しい病気の診療や治療が出来る様になり、質の高い医療を入所者の
方達にも提供できることとなりました。

この事業が、後に委託治療費として予算化されて他の療養所でも
同様に外部病院との連携で、治療が行われるきっかけとなりました。

戦後健康保険制度が普及し、昭和30年代になって国民皆保険制度が出来ても
厚生省はハンセン病の保険診療を認めなった為、抗ハンセン病薬は保健医療品に
入っていませんでした。京大は、療養所には入所すれば無料で入手できる
抗ハンセン病薬の中心であるダンプソンを、外来で来られる患者の方達にも
療養所外でも無料にすべきと考え、病院の薬局を通して購入し代金は自分達の
研究費から支払って患者さんに無料で手渡していたりもしたそうです。

この保険診療として優遇する為に、疾患名も「皮膚抗酸菌症」という病名を用いて
抗ハンセン病薬を処方したり、入院病名として用いて健康保険で入院できるように
する等の配慮があったそうです。この当時はまだ毎年80名前後の患者さんが
京大を何でも相談できる砦として、通院されていたそうです。

後に、この京大のハンセン病施設が上記の1988年(昭和63)3月末に、京大の
皮膚科の中に完全統合され、皮膚科の専門外来として毎週、月、木の
午後に診療と学生実習をする事となったのだそうです。

しかし、日本ハンセン病学会のホームページにあるように

回復者の方達の一般外来の受診に際しては、ハンセン病の診察をした
経験がある場合は、一般市内5区の医師会員のアンケートの経験無し97%に
代表されるように、ハンセン病に関してご存知のお医者様は多くありません。

大学病院での受診率の表を見て頂いても、皮膚科が58%と半数以上ですが
その他は、3分の1ないし4分の1程度。社会復帰に最も影響してくる
整形外来の受診が、3%ととても低い数字になっています。

本来、後遺症に対する多くの問題を考えると整形外科も大切な
受診科目の一つと思われますが、その点では現状に於いてまだ
様々な面で、課題が残されており通院しにくい面がある事や
ハンセン病回復者の方達が、ご自身の状態を今よりも良い方向に
持っていける最新の医療技術がある事の情報不足があると思います。


一般外来を、受診しながら生活をしてこられた方達が居たと言う事実は
隔離政策の当否や、ハンセン病対策の意義について考えるていく上で重要な
意味があると述べられている方も居ます。小笠原登氏が、差別偏見の強かった
時代に、ハンセン病に関して独自の学説を唱えられていたのは医師であった
祖父の方のハンセン病に関する考え方が影響を与えていると言われています。



●参照文献 「医者の僕にハンセン病が教えてくれたこと」 和泉眞蔵氏
(リベル) 興味深く読ませて頂きました。有り難うございました。

京大の「皮膚科特別研究所」は、一時「皮科特別研究所」と呼ばれていたそうです。「愛媛県の年表(1941年)」や「毎日新聞の記事」をご参照ください。


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文雄さんですね。Re: でも。 投稿者:しゅう 投稿日:10月18日(水)10時46分18秒   引用
> 下記の田中文男さんの文章は、『多磨』誌に掲載され京大の皮膚科教室から出された『小笠原登業績抄録』(ちょっとタイトルが正確でないかもしれません)にも再録されています。


「失われた歳月」にも収録されていますが、多磨誌に掲載された田中文雄の小笠原医師に関する文章は
「京大皮膚科特別研究室・阪大微生物研究所訪問記」S42.8月
「京都大学ライ治療所創設者―小笠原登博士の近況―」S42.12月
この二つですね。
特に後者は、小笠原医師がその当時なお誤解されていることに義憤して小笠原医師の年次を追って業績・医学論を紹介しているように思います。
田中文雄は、愛生ですから、光田派の医学をずっと信奉してきますが、昭和40年頃、小笠原医師に直接会い、そして、自分の足で京大を訪ね、カルテまで直接見て、ハンセン病の医学的な見知を確信しています。
その後ですね、田中文雄が鈴木重雄にもどって、あの「すばらしき復活」と言われた、社会復帰へ邁進してゆくのは。
多分、自分にとって長島での30年間は何だったのか、と悔しい思いが彼を駆り立てたのではないかと思うのですが。

>
> やっぱり、少し都合のいい資料を選んだ感じは否めませんね。

「京都大学ライ治療所創設者―小笠原登博士の近況―」S42.12月

この中に、「馬場省三先生は『三顧の礼を尽くしてでも小笠原先生の奄美にお願いするつもりですよ』と言っていた。」という和光園に赴任に決まったエピソードも書かれています。
(リベル) あっという間に、こういう貴重な資料が飛び出してくるとは・・・絶句してしまいます。
ほんとうに、有り難うございます・・・_(_^_)_


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Re:報告書 その2 投稿者:Ichiro 投稿日:10月18日(水)05時11分14秒   引用
リベル様

 その通りです。あれは報告書とはいいませんね。すみません。

 話は変わりますが、菊池恵楓園で資料整理にあたっている人に質問しましたが、菊池恵楓園で使用されたという(?)園内通用券(園券)の情報は別になく、現在我々が考えていることが正解のようです。
 療養所では、右へ倣えという性格が強いのでヘンな情報があるのではないかと思います。 菊池だけ、つれづれの の 歌碑がないということもあります。つれづれの の 屏風がありますが。回春病院や宮古南静園にも 歌碑があり、宮古では唯一の名前がついた公園です。
 代理通貨に関しては、外島保養院のように、通帳を使い、2重のテマのようですが、貧困の差の対策に資するようにしたこと、(邑久光明園につづく)など、工夫して対応したようですね。


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Re: 当事者でなく、またなれない以上 Re: 10月9日に「差別」について、書きました・・・が 投稿者:リベル 投稿日:10月18日(水)01時04分18秒   引用  編集済
> あまりどっぷり「共感」をしてしまうと、ものが見えなくなって、他の「痛み」に対して想像力が及ばなくなってしまう。差別は重層的ですから、われわれはハンセンに対する差別ばかりではなく、いろいろな内なる差別意識を克服しなくてはなりません。
> われわれはハンセン病の当事者でなく、またなれなない以上、ある距離感があるのは仕方がないし、逆に必要なことだと思います。

あ、その通りですね。自分の頭ではとても整理できなかったことです。ホットしました、有り難うございました・・・m(_ _)m


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Re: 報告書 その2 投稿者:リベル 投稿日:10月18日(水)01時01分3秒   引用
>  数人で作った文章は らい予防法を廃止すべきというらい学会の文章が有名です。これはたしか5名で作った(?)のですが、作り方としてはファックスが行ったり来たりするんだそうですが、この文章には、光田先生の記載について、牧野先生が不満を漏らしています。

法廃止の前年に日本らい学会が「「らい予防法」についての見解」というのを出していますが、これ以外の「有名な文章」を知りません。是非お教えください。よろしくお願いします・・・。


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報告書 その2 投稿者:Ichiro 投稿日:10月17日(火)21時28分34秒   引用
 数人で作った文章は らい予防法を廃止すべきというらい学会の文章が有名です。これはたしか5名で作った(?)のですが、作り方としてはファックスが行ったり来たりするんだそうですが、この文章には、光田先生の記載について、牧野先生が不満を漏らしています。

 9名で書いたとなれば、全員が満足しているとは思えません。私の勝手な想像ですが松尾先生が主に書かれたのではないでしょうか。なおこの中では尾崎先生は熊本大学出身ですが医局は京都大学です。ですから小笠原先生の資料はアクセスしやすいのではないかと思います。


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でも。 投稿者:北風 投稿日:10月17日(火)20時31分50秒   引用
下記の田中文男さんの文章は、『多磨』誌に掲載され京大の皮膚科教室から出された『小笠原登業績抄録』(ちょっとタイトルが正確でないかもしれません)にも再録されています。

やっぱり、少し都合のいい資料を選んだ感じは否めませんね。
http://cluster.web.infoseek.co.jp/Fjiken/index.html



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報告書 投稿者:Ichiro 投稿日:10月17日(火)19時11分10秒   引用
報告書:

 >回答書起草委員会(伊崎、石井、石橋、尾崎の各幹事、後藤、中嶋、畑野、松尾、牧野の各評議員の計9名)を設立し、可能な限り過去の記録や事実関係を調査した。

 正式な回答と考えます。
 引用している文献が、学会本部にある文献に偏っているので、小笠原先生のことがわからなかったのでしょう。小生も知りませんでした。少し歩けば高松宮記念ハンセン病資料館があります。


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当事者でなく、またなれなない以上 Re: 10月9日に「差別」について、書きました・・・が 投稿者:北風 投稿日:10月17日(火)13時33分18秒   引用  編集済
> それはよいが、さて自分は、「痛み」を共感しているかのと問われれば、「否」です。共感したいのに出来ていない、というのが正直なところ、なのです・・・。だから「外野席」・・・(>_<)

全くの共感は難しいし、それがよいかもわからない。

昔『偏見差別』という本があって、尊敬する大先輩が編集していました。
内容は、朝鮮人被爆者の声を集めて、行政はもとより同じ被爆者同士でも朝鮮人被爆者に「偏見差別」していると訴えるものだったと思う。あいまいで申し訳ないのですが、何しろ20年以上も前だったので。ただ鮮明に覚えていることが一つあります。

それは「まえがき」で、朝鮮人被爆者の代表が「われわれをまるで癩病やみのように扱う」と抗議していたことです。被爆者に「共感」していた「先輩」は、これについてまったく問題意識をもたないで指摘してもきょとんとしていたことを思い出します。

誤解を恐れずにいえば、あまりどっぷり「共感」をしてしまうと、ものが見えなくなって、他の「痛み」に対して想像力が及ばなくなってしまう。入園者だって被差別者であると同時に差別者ではないと言い切れない。差別は重層的ですから、われわれはハンセンに対する差別ばかりではなく、いろいろな内なる差別意識を克服しなくてはなりません。
われわれはハンセン病の当事者でなく、またなれなない以上、ある距離感があるのは仕方がないし、逆に必要なことだと思います。
http://cluster.web.infoseek.co.jp/Fjiken/index.html



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Re: 隣のオジサン 投稿者:はっしー 投稿日:10月17日(火)09時37分19秒   引用
>  あなたの隣のオジサンは ?

安部晋三氏と大学時代同級生だったと言う人が、学生当時のエピソードを聞かせてくれます
あんまり、興味を持って聞いてなかったりもしてますが。。。。


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10月9日に「差別」について、書きました・・・が 投稿者:リベル 投稿日:10月17日(火)00時19分59秒   引用  編集済
> 一体、自分は「差別」をどう考えているのか?それを確かめるために辞書を引いてみました。各辞書とも数項目立ててありますが、その中で今回問題になっている意味でのものだけ書き出しました。
>
> 大辞林
>
> 偏見や先入観などをもとに、特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをすること。また、その扱い。「人種―」 「―待遇」
>
> 広辞苑
>
> 差をつけて取りあつかうこと。わけへだて。正当な理由なく劣ったものとして不当に扱うこと。「―意識」
>
> 新明解国語辞典
>
> 優越感を味わおうとしての偏見に基づいて、自分より弱い立場にある人や何らかの不利な条件を負っている人に不当に低い待遇を強いる(侮蔑(ブベツ)的な扱いをする)こと。
> 「障害者を―することは許されないことだ/人種による―/男女―・学歴―・―語 」
>
>
> 余談ですが、こうして並べると「広辞苑」の「手抜き」が判然とするでしょう。「広辞苑」は概してこうです。不親切なのです。だから嫌いです。
> これは「差別」なのか「区別」なのか、さあどうなのでしょう・・・?
>
>
> 私は、「人種差別」の場合、例えば「黒人」と「白人」は人類学上別の物ですから、「区別」されます。そこに人間の主観が加わると「差別」に変じるのだと思っています。「優越感」とか「嫌悪感」とかいう主観が・・・。
>
> 「男女差別」も生理学上の「区別」は歴然と有るのですが、そこに歴史上(農耕・狩猟)、生理学上(お産など)の役割分担が誘発する「女性観という主観」(とでも言うのでしょうか)が加わると「参政権」などにかつて見られた「差別」が発生するのでしょう。
>
> ここでは、「部落差別」には触れません。「ハンセン病における差別」は「健康な人」と「病気の人」という「区別」に病気が移るのではという「恐怖感」と外形に対する「違和感」という二つの主観が加わって「差別」に転じたのでしょう。
>
> 前の二つの「差別」と同様、ここに加えられた「主観」は間違ったものです。理性で抑止できるものです。にもかかわらず、「国」や、「国際的知見を無視する医師達」他が「間違った主観」を防ぐどころか、逆に煽ってしまう。しかも国を挙げてです。これが「ハンセン病における差別」の実態だと私は思っています。
(後略)


今日、「志村さんとキャッチボール」で下の一文を読んで、心が激しく動きました。どう動いたのかは、下の文と、上の私の文章とを、読み合わせて頂くと、お分かり頂けるかと思います。

『今日、考えさせられることがありました。私の親しい友人のことです。私は、私の問題も含め、世の差別の話をしたのですが、彼女の口から「結局、差別ってなくならないのよね。」という言葉が出て、私はなんて返事をしていいのかわからなかったのですが、少ししてから「差別される側はそんなこと言ってられないのよ。」とだけ言いました。彼女はもちろん私の友人でもあります、自らのことを差別者と思ってるわけでもなく、どちらかといえば人権感覚のあるほうだと思っているようです。でも「差別はなくならない。」と平然と言ってしまえるのは、彼女の中に自分の問題ではなく、ひとごとのような思いがあるからではないかと思えたのです。彼女には痛みはありません。でも差別をされてる側はそんな呑気なことは言ってられません。だって痛みがあるのですから。差別行為をする人だけでなく、外から物事を見るような人たちがいる限り、差別はなくならないんですよね。改めて、彼女にこのことを話そうと思っています。大きなことはできないけれど、「自分達が差別の外野にいると思っている人たちに今後どう訴えていくか!」を考えなくてはと思っています。だって、志村さん、差別は風化しないんですものね。』


俺って、駄目なのかなあ???と強いショックを受けたのです、実は・・・「外野席に座っていて、呑気なんだよお前は・・・」と・・・


自問自答:上の自分の文は「差別する心」の実態を客観的に掴もうとしています。下の文章では、「差別する心」の有無は、「痛み」を共感しているか否かだと言っておられます。
それはよいが、さて自分は、「痛み」を共感しているかのと問われれば、「否」です。共感したいのに出来ていない、というのが正直なところ、なのです・・・。だから「外野席」・・・(>_<)


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Re: 自己批判なき報告 投稿者:リベル 投稿日:10月16日(月)23時32分18秒   引用  編集済
> >小笠原が京都大学皮膚科特研退職後に勤めた病院の職を失ったとき、国立療養所奄美和光園の職を斡旋されたのも療養所の医師達の努力によるものであった。(日本ハンセン病学会)

この報告書の中の、「隔離政策との関わりについて」、「光田健輔の主張への学会の関わり」、「世界のハンセン病医療との見識のずれ」など、一連の内容には、逃げていこうとする後ろ姿しか見えないので、憤慨しました・・・ (;`つ´)怒!


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F事件から”現代”を考える会が・・・ 投稿者:リベル 投稿日:10月16日(月)23時21分19秒   引用
更新されました。
こちらです。


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隣のオジサン 投稿者:Ichiro 投稿日:10月16日(月)22時43分56秒   引用
ちょっと変わった話題を提供します。

 昭和25年。私は中学2年生。熊本市九品寺(くほんじ)に転居した。そこは熊本の城下町と違って白川の東側、昔は農村地帯だったらしい。九品寺という、寺が中世にあったのかもしれない。白川の端にいくと、昔は刑場だったそうだ。
 隣にデップリ太ったオジサンが住んでいた。この人が昭和史のターニングポイントに居合わせたなんて、信じられないことである。この人は2・26事件で裁判を受けたことは知っていた。
 突然平成14年の本で、判明したことであるが 松本清張さんに関する本ですが、その前に昭和史発掘に出ているらしい。

 湯川康平(旧姓清原少尉)の昭和史発掘のための座談会での発言です。
”本庄侍武官長の存在が大事なのです。本庄さんが天皇に上奏して、そこで内意をうけたら、それを侍従武官府を通じて中橋中尉に連絡する。中尉が私に連絡してわが歩兵第三連隊の大部隊が堂々と宮城に入り昭和維新を完成する。これがあらかじめ組んであったプログラムなんですよ”
 天皇は激怒して連絡はなかった。清原少尉は兵隊は実弾を持たなかったことを明らかにしている。”つまり陛下が2・26事件を失敗に追い込んだのですね”

 反乱軍は実にいいかげんだったらしい。

 戦後、鳩山さんが分派を起こして選挙したことがありましたね。この人はその党から出て落選しました。奥さんが選挙違反で引っ張られました。韓国の某大統領の同期?だとかで、日韓貿易の黒幕などと噂されましたが事実は知りません。

 あなたの隣のオジサンは ?


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(無題) 投稿者:はっしー 投稿日:10月16日(月)21時52分23秒   引用
リベルさん、Ichiroさん、ありがとうございました


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北風様 投稿者:Ichiro 投稿日:10月16日(月)21時03分25秒   引用
失われた歳月は読んでいませんでした。

 光仰ぐ日あるべし 柏書房 滝澤英夫他編集 平成5年 (和光園の記念誌)

 この本によると年表には、小笠原が入って年、出た年の記載がありません。ただ、昭和40年6月25日 小笠原医官がらい事業功労者として表彰される、とあります。小笠原がおられた時の所長は(馬場省二)大西基四夫のようです。光田が亡くなったのは昭和39年です。
 小笠原が和光園を退職したのは昭和41年です。

 奄美大島はたしかに僻遠ではありますが、現在でも日本で最も有名な皮膚科医 Ken Hashimotoは 奄美大島と米国の間を行ったりきたりされている。


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自己批判なき報告 投稿者:北風 投稿日:10月16日(月)13時02分24秒   引用  編集済
>小笠原が京都大学皮膚科特研退職後に勤めた病院の職を失ったとき、国立療養所奄美和光園の職を斡旋されたのも療養所の医師達の努力によるものであった。(日本ハンセン病学会)

「博士の豊橋国立病院勤務に対して、厚生省医務局長だった浜野規矩男先生に妨害の手紙が届けられ、執拗な反対運動が行われたということだ。学問上の意見の相違から、相手を仇敵視する執念の激しさには、驚くとともに悲しくさえある。
 それから十年、確か昭和三十二年の五月、奄美和光園の臨時園長だった馬場省二先生が長島愛生園に立ち寄った折『厚生省の了解も得たので、小笠原博士を、奄美にお願いするため、これから豊橋にいくところです』と先生からわたしは聞かされた。僻遠の奄美和光園は、当時は、園長をえるのにさえも困っていた」(田中重雄『失われた歳月』)

京大退職後には引き続きハンセン病の治療に関わりたいと希望し、駿河療養所、次いで栗生楽泉園に決まりかけていた就職を妨害し、自分達の都合で、小笠原が70過ぎてもハンセン病の診療研究を希望していたのをいいことに、老体を「僻遠の地」に引っ張り出したように思えますが。

それが「国立療養所奄美和光園の職を斡旋されたのも療養所の医師達の努力」ですかね。

それはさておき、奄美で小笠原登は、「異端」の日本画家田中一村と親友になり、その縁で『和光』誌の表紙をしばらく一村が描いている。
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リベル様へ 投稿者:Ichiro 投稿日:10月16日(月)12時29分29秒   引用
小笠原登の就職のことでしょうか。
 参考文献にも、うまく書けていないので おかしいと思いました。大体医師の就職や退職は、小さい療養所では大事なことですが。
 蛇足ですが昭和8年の宮古療養所には なぜか 臨時という名前がついていたようです。なお、南静園の命名については、公募ということですが、当選した人については2つの説がありました。


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Ichiro様 投稿者:リベル 投稿日:10月16日(月)11時17分51秒   引用
「日本ハンセン病学会」のHPからです。ただここからは辿れないようみたいです。

「ハンセン病アトラス」です。


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ハッシー様 投稿者:Ichiro 投稿日:10月16日(月)08時14分39秒   引用
らい夏期大学以外でしょうか。

 まだ らいが使われていますね。変わったかな。

 ハンセン病アトラス を推薦します。CD付きです。

 責任編集 小野友道、尾崎元昭、石井則久 の本で 金原出版 です。7000円プラス税で
 少々高いですが、大学の皮膚科でさえ、ハンセン病の教育が不十分という声に応えてつくられたものです。
(リベル) なにか宛先の書き間違いのようで・・・(笑)


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余談もいいとこですが・・・ 投稿者:リベル 投稿日:10月16日(月)05時55分33秒   引用  編集済
パズルを一つ、ご提供します。朝日新聞の10月7日出題、14日解答のものなので、ご存じの方もいらっしゃるかと思いますが・・・。

この中の[7]、[9]、[11]以外は、ご参考までです。[7]、[9]、[11]の内、二つは同じ絵で、一つだけ違う絵なのです。それはどれか?という易しい問題です。

答えがお分かりの方は上の「投稿フォーム」からご投稿ください。正解者には粗品を差し上げません・・・(笑)
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「日本ハンセン病学会」の資料発見 投稿者:リベル 投稿日:10月16日(月)05時12分20秒   引用  編集済
一昨年、全原協、全国弁連、全療協の三者からの「申し入れ書(質問書)」に対する調査報告としてこんな文書が作成されています。これには学会の小史もあって、参考になり「年表 日本のハンセン病」にもかなり手を入れました。

後半の「隔離政策との関わりについて」以後、「光田健輔の主張への学会の関わり」、「小笠原 登の件」、「世界のハンセン病医療との見識のずれ」など興味を引く見出しが有りますが、皆様はどうお読みになるでしょう・・・???


付録:これに関連して皓星社さんの年表に一カ所間違いを発見しましたヨ・・・。


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余談ですが・・・壁紙に如何ですか・・・? 投稿者:リベル 投稿日:10月15日(日)17時55分20秒   引用  編集済
こんなのを発見しました。なかなか日本では見つからない写真です。アングルが特殊ですし・・・。

私は毎年、これで行こうと思いましたが・・・いかがですか・・・無断使用ですが・・・(>_<)

クリックして拡大→右クリック→背景に設定で「壁紙」になります・・・
出典:こちら



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Re: これは興味深い。 投稿者:リベル 投稿日:10月15日(日)17時41分39秒   引用
> その他、ハンセン病というだけで思考停止して、おんなじ方向を向いてしまうことが無数にあるような気がします。

そうなのですね。目から鱗という感じがあります。流石、広い視野でものを見ていらっしゃる。

他にも同じことが有る・・・そう思います。「大村益次郎」、「ベルリンの壁」、「コロンバイン」・・・どうですか?・・・結構思考停止に陥るのでは・・・(゚ー゚)(。_。)(゚-゚)(。_。)ウンウン


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これは、古い話題かもしれませんが 投稿者:はっしー 投稿日:10月15日(日)16時13分53秒   引用  編集済
社会復帰された方達が、何に苦労されたのかを聞いてみると

戸籍の取り寄せ、本籍・住民票の移動は手続きの煩わしさはあっても
所定の手順を踏めば、問題なく出来る事の様なのですが

国民健康保険の手続きが、難しく算定基準の下記の所得の問題が
出てくるので、入所者の方の場合には労働所得がある訳ではなく
年金に該当するものだけなので、その点の判断が各市町村ごとに
初めてのケースの場合には、個別対応する事になり面倒な様です。


国民保険料の計算方法

【保険料】=【(前年世帯総所得−基礎控除額)×所得割保険料率】+【均等割額×被保険者人数】+【世帯平等割額】
 保険料率は各地方自治体によって異なるが、概ね5〜10%程度である。
 賦課限度額や保険料軽減制度が設定されていることが多い。


また、本人の自己申告が役所窓口の手続きの通例なので
遠方に転居する方の場合は、手続きだけで何度も通ったり
ご夫婦の場合には、あくまでもご本人が申告するようにと
窓口で言われたりする場合には単身で手続きに行くと断られる事も。

そういう場合も、交渉次第でケースワーカーや弁護士さんに立ち会って貰う
代理権を任せて、委任するなども出来る様ですが、この点は行政の管理として
市町村レベルにも、所定マニュアルを通達出来るシステムがあれば良かった。

将来的には、高齢化が進み社会復帰される方が増える事は無いのでしょうけれど
らい予防法改正直後、社会復帰者が増加した時点でこ点も考えて欲しかったですね。

まだ、年代に関係なく一度は外へ出てみたいという方がいらっしゃったら
そういう方達が、苦慮しなくていい社会システムが欲しいです。


現在は、入所者の方達の外部の病院への通院も可能になってきて
多磨全生園などは、立地条件の良さから他の病院へ通院する方も
出てきたとの事なのですが、自由診療を受けられる様にするには
入所者の方にも、国民健康保険に相当するような保険証が欲しい
処ですが、現状ではハンセン病の手帳だけなのでは無いでしょうか。

この手帳が、保険証代わりになるのですが一般の国民保険証と
同じもので、欄外に何かの記号などで事務処理される方達が
判別出来る程度の目立たないものにして貰えたら窓口で見せる
際に抵抗が無くて良いだろうと言うご意見を聞いたことがあります。

一般外来へかかる際に、診療費の扱いに違いがあるとは言え現在の
在園者の方達の人数は、三千人程であり保険証の発行が然程難しい
とも思えず他の方たちと遜色なく、自由に外部通院も出来る
システムが出来るとそれが、一番理想的だろうと思うのですが。。。。

例えば、郷里に一時帰郷した際に風邪をひいても気楽に通院出来る様に。
(リベル) また夜中に参上して、ユックリ拝読します。もう我が「就眠時間」になって・・・眠い、眠い・・・(笑)


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Re: 園外の方の医療問題 投稿者:はっしー 投稿日:10月15日(日)14時23分34秒   引用  編集済
近年、社会復帰された方もご自身の郷里だから帰郷と言う程に
単純には、なかなか話が進まないのは、やはりこの通院の問題で
外来で通える一般病院を、入所していた療養所のケースワーカーの
方達や、療養所内のお医者様の紹介や、帰郷先の近くの療養所へ
問合せをしたりなど、色々と大変な面が多い様ですね。



現在は、退所者の方が近隣の療養所へ外来通院という形を取れるので
その点では安心ですが、郷里の近くに療養所が無い方の場合には
外部の病院で、ハンセン病に関する予備知識があるお医者様が居る
もしくは、専門医の方が居る病院を探すとなると大変そうですね。

後遺症に関する予備知識が無いと、他の疾患でかかった場合にも
不慮の事体が起こりうるような気がするのですが。。。。


ハンセン病の一般外来での知識に関して、国立病院や公立病院内では
何か定期的な学習会のようなものは開催されているのでしょうか?

又、ハンセン病研究所で年に一度開かれる定期講座以外にもどこかで
受講できる機会や、医療関係者以外に受講出来る講座はあるのでしょうか?

ネットなどで調べられる範囲内では、このハンセン病研究所の年に一度の
夏の講習以外に、学習会の機会があるのかどうか判らないのですが。


素人には、なかなか医療関係のことは調べられないので
ご存知の事がありましたらご教授いただければ幸いです。


補足:
ハンセン病研究所じゃなくて、国立感染症研究所ハンセン病研究センターでした(ぺこり)


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Re: これは興味深い。 投稿者:北風 投稿日:10月15日(日)12時24分53秒   引用
> 藤本事件の映画化の「製作・上映協力券」のことでしょう、と書いてしまうと身も蓋も無いのでしょうか?なにも「自戒」をおこめにならなくても、と思いますが・・・(笑)

その他、ハンセン病というだけで思考停止して、おんなじ方向を向いてしまうことが無数にあるような気がします。
http://cluster.web.infoseek.co.jp/Fjiken/index.html



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園外の方の医療問題 投稿者:Ichiro 投稿日:10月15日(日)06時33分56秒   引用
社会復帰とはいうものの

 園外の方の医療問題は、らい予防法廃止前は タイヘンでした。
 ハンセン病施設に勤務していた私は、いつも患者さん、元患者さんに質問していました。病気になったら、どうされますか。某島の人は、その島の医療機関にはいけない、いきたくない、といわれるので、医療品をたくさん出して、必要の場合は、出来るだけ近くの病院医院を利用するように、言いましたが、なかなか難しかったようです。現在は誤解偏見が少なくなりつつありますが、昔はタイヘンでした。
 療養所ではない、普通の医療機関を利用することは、大分昔から関係者の間で努力されていました。
 元患者さんは、病気の場合は療養所に無料で入れるシステムですが、外にでられた種々の恩恵が放棄ということになるので(再入所になる)、そうでなく、療養所に入院する制度を検討されているようですね。画期的なことと思います。


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余談ですが・・・不協和音 投稿者:リベル 投稿日:10月15日(日)03時34分49秒   引用  編集済
武満徹という人は、言葉に関しても完璧主義者なのか、「不協和音」という言葉は使うのを避けているようです。そんな「音」も「和音」も存在しないとでも言いたげに。その代わりに「不協和な響き」と表現します。

先日書いた、20円で買った本「音、沈黙と測りあえるほどに」の中に、こんな一節があります。
「鳥の啼声を自然の環境のなかで聞く時には、人間は他の自然の音(雑音)をも、鳥の声と同じ価値のものとして聞いてしまう。自然の環境のなかでは自然の雑音は聴く行為を妨げるものではない。むしろ、無数の響きあう音たちが聴く行為をたすけている。」

「静けさや、岩にしみいる蝉の声」の情景を想像してみると、石清水のせせらぎが有っても違和感を覚えません。さらに、どうでしょう。青葉をそよがせる風の音。遠くから聞こえる読経の響き。木魚の音。ときたま鐘楼の鐘がゴーンと鳴っても、まあいいか・・・となるのではないでしょうか?

強さ・高低・音色の違う音がこのように混じり合っていても、人の耳には「不協和な響き」とはなりません。

掲示板(BBS)はこのように有るのが理想的なのではないかと思います。

さきほどの情景の中に、ではカナリアの鳴声や、ケイタイの呼び出し音が入ったら、どうなのでしょう?うーん・・・。

それも許容して行こうというのが、「Web・2.0」のパースペクティブには、入っているべきなのかなあと考えてしまいます。

武満徹の「ノヴェンバー・ステップス」で、オーケストラと尺八と琵琶が「共生」しているのに耳を傾けていると、そんな風に思えてくるのでした・・・。


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Re: (無題) 投稿者:リベル 投稿日:10月15日(日)03時27分40秒   引用  編集済
> 社会復帰した方達の中で、また療養所へ戻って来られた方達がいるのは
> この医療面での問題が大きく影響しています、医療対策をしっかり考える。
> 昔も今も、その点は変わり無い問題だと思います。

これは社会復帰した方だけの問題ではないと思っています。以前にも書きましたが「在園保障」の問題が一番の焦眉の急だと私は思っているのです。

弁護団は去る8月23日の対策協議会に向けてこのような「要求書」を突きつけましたが、それに対して厚労省は「財団法人日本医療機能評価機構」なるものを持ち出して、逃げ道を作り始めています(弁護団HP)。

どうにも、官僚のやり口は、潔さがなく、薄汚れていて嫌悪感を覚えます。この行方は、よくよく注視していなければならないと思っています。


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Re: これは興味深い。 投稿者:リベル 投稿日:10月15日(日)00時58分31秒   引用
> 現代の「十坪住宅」ってなんだべと、自戒をこめて思いますね。

解説に
『当時の「十坪住宅運動」を宣伝する為に作られたパンフレットには、「十坪住宅運動」とは「愛国献金」という項目が記載されています。要は、建設資金を民間の寄付に求め、建物は患者作業で建設し、建設後は国に寄付するという運動でした。』
と、書いてあります。

藤本事件の映画化の「製作・上映協力券」のことでしょう、と書いてしまうと身も蓋も無いのでしょうか?なにも「自戒」をおこめにならなくても、と思いますが・・・(笑)
http://www.eonet.ne.jp/~libell/nenpyou.htm#1932



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これは興味深い。 投稿者:北風 投稿日:10月14日(土)10時04分15秒   引用  編集済
>講演会は何故か女学校で行われることが多かったが、「小島の春」と関係があるのではないか、と書かれている。

いま、(おいらを含めてですが)熱心にハンセンに関わりを持つ人たちのうち、その時代にあったら「十坪住宅」の募金に熱中しなかったと断言できる人は多くはないだろう。
現代の「十坪住宅」ってなんだべと、自戒をこめて思いますね。

(註)十坪住宅
http://ww32.tiki.ne.jp/~jitikai/totubojyuutaku.htm


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無癩県運動 投稿者:Ichiro 投稿日:10月14日(土)02時13分47秒   引用
リベル様

 コメント有難うございます。書き方が悪かったですが、山口県においては という意味のようです。
(リベル) なるほど、ご免なさい。お察し申し上げるべきでした・・・(>_<)


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Re: 無癩県運動 投稿者:リベル 投稿日:10月14日(土)00時16分1秒   引用  編集済
> 筆者は長崎純心大学の先生。山口県を選んだ理由は光田の出身地だからである。この運動は1930年からである。

「無らい県運動」の始まりは愛知県での民間運動で、1929年だとされています。どうもこれが定説のようです・・・。

参考:杉山判決、国賠弁護団サイトの年表


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無癩県運動 投稿者:Ichiro 投稿日:10月13日(金)17時32分3秒   引用
山口県におけるハンセン病対策の展開  無癩県運動期を中心に 杉山博昭
 山口県史研究 14号 41−58、平成18,3

筆者は長崎純心大学の先生。山口県を選んだ理由は光田の出身地だからである。この運動は1930年からである。中国、四国地方で、その前の関心事は各県のハンセン病政策に必要な負担金であった。この事は九州も同様であった。(前項のみIchiroの所見)
 山口県とハンセン病の係わりは光田や山根が仲立ちする形で進んでいた。ハンセン病対策は必ずしも歓迎されるものではなかった。しかし1930年代の無癩県運動は強力に実行された。とくに光田が山口県出身であったために県民の関心を高めることになった。大半の患者が入所を余儀なくされたが一部は唯々諾々とは、従わなかった患者もいた。外来治療を主張する京都大学派とのトラブルも書かれている。
 講演会は何故か女学校で行われることが多かったが、「小島の春」と関係があるのではないか、と書かれている。文献を50も挙げている労作である。


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雑誌の目次 投稿者:Ichiro 投稿日:10月13日(金)05時52分26秒   引用
リベル様 有難うございました。

 小笠原登は153編でて、その内 82編が 癩 が付いて、なお 癩 でも
 97編でてきますが 小笠原先生以外のは 15編でした。

 なお 美人 というのも でてきましたよ(笑)これは キーワード検索なのですね。

 リデルは0編。


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余談ですが・・・世相を映す雑誌の目次 投稿者:リベル 投稿日:10月13日(金)01時34分53秒   引用  編集済
「明治・大正・昭和雑誌記事索引データベース」というのが、制作進行中です。しゅうさんが「東風吹かば」で紹介しておられました。
ここでは「北風」のHNでお馴染みの皓星社の藤巻さんが、この仕事をやっておられます。

たとえば、「小笠原登」「癩」で82件の記事が検索できます。いつ、何という雑誌に出ていたかが瞬時(大体0.5秒)で出るという凄さです。

「競馬」は昭和7〜8年頃から、盛んに論じられ始めますが、古くは明治40年に登場しているなど、興が尽きません。一度お遊びになれば・・・。ただし「ミス日本」「吉永小百合」など柔らかいものは、未だ出ません。オット、これは戦後でしたか・・・・(笑)

おとといの日経に大きく出ています。



これが検索画面です



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山下氏の第四稿批判 投稿者:リベル 投稿日:10月12日(木)02時42分0秒   引用  編集済
↑上に「山下氏の第四稿批判」をダイレクトに出しました。「藤本事件」から行くのは面倒なので・・・。

未だ、間違いなど有るかも知れません。お教え頂ければ助かります。どうぞよろしくお願いします・・・m(_ _)m


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F事件から”現代”を考える会が・・・ 投稿者:リベル 投稿日:10月12日(木)00時57分11秒   引用  編集済
皆様ご存じの古賀弁護士のBlogにこんな投稿をしておられたのを、発見しました。右の「Recent Comments」欄に有ります。

『「F事件」当時の資料と映画シナリオを取り上げたホームページを開設しました。
いま、いろいろ取り上げられている「F事件」と映画企画。議論をされる時に役立てて欲しいと願って、「F事件」当時の資料を提供します。ご活用ください。

Posted by: F事件から現代を考える会 | Sep 7, 2006 8:23:50 PM  』

私が「速報!朗報!」に取り上げたのもこの日でした。が、どうやって見付けたのか、忘れてしまいました・・・。

『※藤本事件のHP「F事件資料集」オープン!(9.7)
    #「F事件から゛現代"を考える会」が立ち上がり、サイトを制作しておられます。
    #資料は「全患協ニュース」と「菊池野」誌から。
      シナリオ(第四稿)全文とそれをめぐる対談も有ります。
    F事件資料集                      』
(リベル) >どうやって見付けたのか、忘れてしまいました・・・。

今発見しました。このBBSにも投稿が有ったのでした・・・。

『F事件と映画を考えるホームページ開設 投稿者:F事件から現代を考える会 投稿日: 9月 7日(木)07時33分3秒   引用
F事件と映画の資料提供のホームページを開設しました。「会」の見解、意見ものせています。
ホームページアドレスは下記の通りです。ご訪問ください。
http://cluster.web.infoseek.co.jp/Fjiken/index.html 』


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「新・あつい壁」シナリオ、第四項批判 投稿者:リベル 投稿日:10月11日(水)17時44分7秒   引用
山下峰幸氏によるものを、北風さんのご好意によるテキスト化原稿で、ご紹介します。拙速を重んじて、校正中のものを公開しています。逐次校正中なので、どうかお許しください・・・m(_ _)m

山下峰幸氏のご好意に対し、私の方からもお礼申し上げます。有り難うございました・・・。


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Re: 森さんの本による濫救惰眠論 投稿者:しゅう 投稿日:10月11日(水)17時32分43秒   引用
Ichiroさん、ご本を教えて下さってありがとうございました。古書で出展がありましたのでそちらを申し込みしました。


> 濫救惰眠論
>
>  森さんの本に 要約してありました。若い時代に鋭い論評と思います。(惰眠をわざと惰民と書いている人、全患協ニュースなど、もあるので注意)


「惰民」という言葉は、森さんは使われておられませんか? 多磨誌を読んでいますと、惰眠症をむさぼる人を「惰民」と表しているようですが。


>
>  らい予防法には退所の規定がないが、らいを感染させる恐れのない入所者をそのまま入所させるのは行政の濫救である。行政の濫救は入所者を惰眠にする。行政の濫救と入所者の惰眠を解決するには、現在の療養所を再編成して1)病院 2)中間施設 3)福祉施設や養老院 にする。


野谷寛三さんの評論によると、森さんの論は二つ、濫救惰民論とライ療養所の分化再編成論 であるとされています。

そのうち、濫救惰民論について、批判が出たようです。

「今日のライ療養所には日の沈まない内からテレビの前にしがみつき、毎週1,2回は映画を見、野球、ピンポンやバレーボールの熱戦に体力を消耗するだけの 気力や体力のある患者は軽快者に少なくない」

森さんの論文に対して、森田竹次さんが完全に反論し、森さんの論は覆ってしまいました。

健康者と変わりがないように見えても病気が治ったと即断できない。予防法自体が患者を療養所にくくりつけておく仕組みになっている。肉親、社会との交流を断ち切られており、社会生活に必要な職業技能、住居、友人、社会的地位、信用など有形無形の条件を喪失している。社会的な偏見がありらい回復者と知って雇ってくれるところがあるだろうか?当局は無対策である。


> 森さんの論文は、入所者に向けて書かれていて、もちろん猛烈な反論が邑久光明園だけでなく、他園の機関誌にまで次々に掲載されたけれど、入所者から排斥するような動きはなかったと思う。むしろある種の親しみをもたれていたように感じますが。(北風さん)


入所者さんからは排斥は無かったと私も思います。 森さんの論の根底は潔癖性と論理性にあり。(野谷さんの評論から)、患者に対して悪意がないことは、みんなわかっていたのではないでしょうか。
ただ、森田さんのように森さんに反論することは出来ても、「惰眠をむさぼる」ことの自省を深く促されたのではないかと思います。社会復帰へ国の無策な中、私からすると自殺行為のように思われる社会復帰を、多くの方がしています。多磨に載っている「社会復帰者の座談会」なんどを読んでいますと。


> 行政の末端の人間として直接責任を問われたのではなく、職場の「いじめ」にあったとしたらそれはまた別な問題かもしれない。また、略歴を見ても厚生省との縁が切れたわけでもない。(北風さん)


森さんの論は、森田さんによって覆ってしまったわけですが、北風さんは、そのことで「職場のいじめ」にあったと取られるのでしょうか?

籐楓協会の浜野規矩雄さんが嫌味なことを言いに来るくらいですから、厚生省から相当のお叱りがあったのかもしれませんね。よく分かりませんが。
(リベル) この辺のお話は、全く未知の部分で、とても興味深く拝読しています。手探りの部分が少しずつ少なくなってきます。
入所者さんの行動や心事が、身近に感じられるだけでなく、初めて知る驚きも新鮮で、おや?とかへえ!とか呟きながら拝読しています。

「籐楓協会」は「藤楓協会」では・・・(笑)(10.11 17:56)


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濫救惰眠論を聞いて思い出すこと 投稿者:Ichiro 投稿日:10月11日(水)13時17分34秒   引用
濫救惰眠論を聞いて思い出すこと

 Ichiroです。

 1)韓国のハンセン病患者の自助努力
   韓国では救世主とも思われている柳博士の著書にある、患者自身コロニーを作り経済的自立を図ったこと。柳博士は日本のハンセン病学会にもよく出席される。手紙を貰ったこともある。九州大学細菌学教室におられたころは、菊池恵楓園にもこられていた。
 2)南静園の松村老
   南静園の50周年誌に詳しいが、西表島で治った人々と共にコロニーを作ろうとしたこと。島人の反対に会い、失敗したが、成功したら全国から健康になった人を招いて一大楽園を目指した。老は 現在は愛楽園で透析をされていると伺っている。
 3)中国におけるある日本人の発言
   給与金が月8万と発言した。理解は得られないようであった。(菊池野に書きました)


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筆禍 投稿者:北風 投稿日:10月11日(水)09時38分49秒   引用  編集済
森さんの論文は、入所者に向けて書かれていて、もちろん猛烈な反論が邑久光明園だけでなく、他園の機関誌にまで次々に掲載されたけれど、入所者から排斥するような動きはなかったと思う。むしろある種の親しみをもたれていたように感じますが。

行政の末端の人間として直接責任を問われたのではなく、職場の「いじめ」にあったとしたらそれはまた別な問題かもしれない。また、略歴を見ても厚生省との縁が切れたわけでもない。

ベトナム戦争のときには、「ハンセン病療養所を反戦療養所に」(イシガ・オサム)という論考を発表した職員もいたけれどそれが問題になったという話も聞かない。

まあ。いろいろですね。
http://cluster.web.infoseek.co.jp/Fjiken/index.html



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訂正 投稿者:Ichiro 投稿日:10月11日(水)07時54分20秒   引用
まだ 訂正の方法がよくわかりません。

 現代書館 でした。
(リベル) もう一度、ご説明します。

この頁の左下の「管理者メニュー」をクリック→直したい項の「削除」「編集」の「編集」をクリック→文章を修正→「投稿」→「戻る」を3回クリック→ブラウザの「更新」をクリックで修正完了です。
勿論、「戻る」と「更新」はツールバーの左上です。今後ご利用頂くととても便利ですヨ・・・。


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森先生の本 投稿者:Ichiro 投稿日:10月11日(水)07時51分18秒   引用
しゅうさん おはようございます。

 証言・ハンセン病 森幹郎 現代書店 2400+税金
 サブタイトル 療養所元職員がみた民族浄化

 2001年の発行ですからまだ入手できるでしょう。目次は 森幹郎を検索すると
 作品集があり、でています。

 Ichiro
(リベル) こちらです。


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菊池先生、しゅうさん! 投稿者:夕焼け 投稿日:10月11日(水)06時55分35秒   引用
 とても貴重と思える、お話を、読みづらくしてしまいました。

 しっかり、お話は耳を立てていますので・・・。
 深まれば・・・、と、思っています。


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百実さんだったら・・・。 投稿者:夕焼け 投稿日:10月11日(水)06時46分49秒   引用
 貴重な提案をしてくださっています・・・、百実さん!

 何度も読み返しました。そして、「もし、百実さんだったらどんな一行のフレーズにされるのだろう?」と、考えてしまいました。

 あなたの 気付き が、私に、山下さんの「慟哭」を理解できる方! そして、

 藤本松夫さんを救う会の思想をしっかり受け継いでいる・・・、現世にも要る!という事実を、発見できました!!


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ありがとうございました。Re: 惰眠論ではありません 投稿者:しゅう 投稿日:10月11日(水)06時37分44秒   引用
Ichiroさま

丁寧なレス、ありがとうございました。お礼申します。


> 誤解を与えた文章をお詫びします。アカの方です。
>
> 森先生の 証言 ハンセン病 によりますと(p271)

これは森氏のご本でしょうか?すみません、途中から割り込みましたので分からないのですが。ご本でしたら、本の紹介をお願いします。

>  森さんは「人を殺すのは刃物などいらないんです。アカのレッテルさえ貼れば、それで十分なんですよ」と笑っていました。(中略)藤楓協会の理事長に天下っているハマノさんが来園したときのことです。入園者事務所まで案内してきた森さんに向かって、ハマノさんは「このアカが、患者を扇動しやがって!」とと迎えに来た自治会幹部に聞こえよがしに、憎憎しげに面罵しました。私もその場に居合わせたから、よく覚えています。
>  (入園者が書かれた形になっているが、この作者はどなたかよく判らなかった)
>  そんなこともあってか、1957年、森さんは事務本館の会計課物品係りに配置換えになりました。そしてその時以降、森さんと話す機会はなくなりました。(中略)私たちは館長に森さんの分館留任を懇願しました。(中略)療養所の幹部は森さんに幹部になってもらいたい、ということでしたが、アカい職員を入所者に接触させてはいけないという、東京方面からの意向があったに違いない。(中略)本館に移った翌月、厚生省事務官に任官したそうですが、間もなく島を去りました。その時1958年、森さんは30歳をちょっと過ぎていたと思います。


退職は昭和33年ですね。濫救惰眠論は昭和30年に出されているので、北風さんが「森さんは惰眠論の「筆禍」でやめたとは初耳ですが。」と書かれていますが、籐楓協会の浜野規矩雄氏が邑久にやってきて、正に怒鳴り込んだ感じではないかと思いますが「アカ発言」で退職されたのでしたら、筆禍ということではないでしょうか?

籐楓協会の浜野氏は、たいへんハンセン病患者に尽くされた方で、田中文雄(鈴木重雄)の良き理解者、鈴木重雄の社会復帰も浜野氏の後押しでカミングアウトして社会復帰して行きます。(「すばらしき復活」)
「交流の家」建設の時は、浜野氏が建設費用を用意すると学生たちに申し出ますが、学生たちはそれを断りました。学生たちは、完全な、カンパのキャンペーンで費用を作り完成させましたが、浜野氏は、建築中は、ホテルを断って、学生と一緒に現地に寝泊まりして汗を流しています。


>
>  本の略歴によると東京の視力障害者リハビリテーションセンターに行かれている。
>  厚生省社会局老人福祉専門官を経て、長野大学、奈良女子大学、花園大学に転じ、その後
> 年金生活に入っておられます。


その後のご活躍をお聞きしてほっとしました。ありがとうございました。

森氏のことも、「濫救惰眠論」のこともそうですが、ハンセンの歴史は奥が深いです。いろいろなことがもっともっと知られて再検討されるべきのように思います。


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リベルさんが、丁寧な言葉で代弁してくださっています・・・。 投稿者:夕焼け 投稿日:10月11日(水)06時35分38秒   引用
>中山監督は「冤罪を正面に打ち出してやると行政の協力が難しくなる」と仰有っています。その時点で映画化を諦めるべきであった。さもなくば行政と抗ってでも、「冤罪」を追求する映画を作るべきであった、と・・・。<

 この想いは、私のこのオモイと、相通ずるもの一人合点しています!

 当時の私の云いたかった事を、リベルさんが上記のように、わかり易く「提起」してくださっています。



映像!を見せて頂きました。 投稿者:夕焼け 投稿日:2006/08/24(Thu) 23:00


 韓国のSBSニュース 動画映像・・・見ました。ラストに映し出された子どもの顔は、かすかなぼかしは入れていますが、しっかりとした顔がホルマ・・・・・・・・・・・・・・・・。

 今後、どのような 蛮行 が政府容認の下に犯していったのか・・・!?まだまだ事実は闇の中であるのかもしれません!

 今、しきりに「藤本事件」の深層の真相を、実録化したい願望に駆られていますが、1962年(松夫さん没)といえば日本国が高度経済成長期の真っ只中に入った時期です。世界(WHO)の方針にはそぐわない隔離政策(強制・絶対)を推進・容認してきたのは、この経済成長期からの大国論が大きなかかわりとして挙げられるようです。
 高度経済成長の国策の一環として、隔離政策論が、なぜ?人権蹂躙(侵害)を承知の下に、日本国憲法に抵触しているにも拘らず・・・、なぜ?
 この経済成長で財閥系企業が立ち直ったのもこのころだと言われています。
 その要因は、政治と経済の深い結びつきと、財閥とされる子孫の現在を今一度探っておく必要があると思っています。 安倍・麻生・谷垣すべて、小泉の同階層とされ、後に「憲法改正を踏み切った先駆者達!」と、後世の未来人がこのことをどのように評価されるのか?といった様相も考えられそうです。

 腹をくくって、時期政権下での 戯れの阻止 を!と、松夫さんは黄泉の国から叫んでいるのかもしれません!!その声を聞き留める 一市民 の励みが、求められているのでは?と、思います!

 「藤本事件」から脱線したかのように思えますが、“藤本松夫さんがなぜ?死ななければならなかったのか!?”の探求の果てに結びつく・・・、決して空論・空想なんかではないと思っています。
 弱者とされる階層はいつの世にも存在します。今、現在に於いての弱者階層を他人事と思えている間は、権力・搾取側の思う壺です。そう言った観点からも、もし、「藤本事件」の映画化を唱えるとするなら、私は再審後の「ドキュメンタリー」としての映像化にして欲しいと思います。
 このまま推し進めた映画化にするのであれば、「藤本事件」を抜きにした、ハンセン病啓発映画の域であって欲しいと思います。
 今、私の頭上にこのお二方の言霊が重く圧し掛かっています。


 風見治さんが言う、
>刑は執行されてしまったら、刑そのものの重みによって正当化され、刑は自己の正当性を主張します。


 関原さんの『悼む 藤本松夫 ―二十三回忌追悼講演―』に、引用してくださった 森長英三郎「冤罪の証明」・旺文社文庫・解説より、
>「どうもわが国民の気風は、国家が無罪と判決しないうちは、無罪と認めない体制順応の傾向が強い。しかし無罪判決がマスコミではなばなしく報道される裏には、無罪判決のない無罪が、夜空の星の数よりも多いことを知らなければならない。これがほんとうの冤罪である。今後はそういうものの発掘にこそ努力しなければならない。そして体制側の刑事訴訟手続きでは、どうしようもないものは、私たちによって、人民の名において無罪の判決をすることになるであろう。それはあるいはすでに刑が終ったのちの裁判になるかもしれないが、そういったものであっても、現在の裁判をただすためには、決して無意義ではないとおもう」

 この両者の言葉を何度も噛み締めています・・・。


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リベルさんに、触発されて・・・ 投稿者:夕焼け 投稿日:10月11日(水)06時20分10秒   引用
 大事な友人より、本年8月22日に転送がありました。 その転送の「転送」・・・です!!

『死刑台のメロディ』 (ビデオ/71年伊・仏/ジュリアーノ・モンタルド監督)
《解説》

恐らくは世界で最も有名な冤罪事件として知られる“サッコ/ヴァンゼッティ事件”を元に、二人の無実の人間が国家権力の思惑によって死に至らしめられるまでを描いた“恐怖映画”。

監督は『明日よさらば』のジュリアーノ・モンタルド。



第一次世界大戦後、何度目かの発狂を起こしたアメリカでは、司法長官パーマーの指揮の下での赤狩りと、差別や偏見を原動力とした移民排斥という“異分子排除”の動きが本格化。

ロシアでの共産主義革命の発生も影を落としていたのだろうが、直接的には金融街やパーマーを含む政府高官を標的とした爆弾テロが引き金となり、1920年には共産主義者・社会主義者・無政府主義者を主な標的とした、弾圧と呼んでイイほどに苛烈な一斉検挙が行われるコトとなる。



パーマーの強引なやり口は各所からの批判を招くが、保守層の支持を受けて排斥方針は徹底され、多数(万単位らしいが、資料によって記述がマチマチ)の逮捕者と国外追放者が出る結果となった。

そんな中、拳銃の不法所持を理由に靴職人のニコラ・サッコ[〜リカルド・クッチョーラ]と、魚屋のバルトロメオ・ヴァンゼッティ[〜ジャン・マリア・ヴォロンテ]という二人のイタリア系移民が警察に逮捕される。



微罪による逮捕のため、スグに釈放されるだろうと二人は考えていたのだが、警察は二人を暫く前にマサチューセッツ州サウス・ブレントリの靴工場で発生した強盗殺人事件の容疑者に仕立て上げてしまう。

身に憶えの無い疑惑に二人は反駁するが、二人共がアナーキスト(無政府主義者)であり、尚且つ移民であったコトが時代の空気に毒された捜査側の心証を著しく害し、強盗殺人の犯人として法廷に立たされるハメになる。



あからさまなデッチあげ裁判のため、二人はスグに無罪が証明されるだろうと踏んでいたのだが、強盗事件の目撃者は揃ってサッコとヴァンゼッティを犯人と指摘し、同時に検察官のカッツマン[〜シリル・キューザック]も二人がいかに反社会的で危険思想の持ち主かを論い、判事のタイア[〜ジェフリー・キーン]と陪審員に容疑者としてではなく“危険極まりない移民のアナーキスト”として印象付けようと画策。



更にカッツマンは、ヴァンゼッティから徴兵逃れのためにメキシコに逃亡した事実や、現在のアメリカの制度に対する不平不満などを引き出し、被告二人が実際の事件を離れた部分でも万死に値するような人間であるかのようにアピール。



サッコとヴァンゼッティの弁護を請け負ったムーア弁護士[〜ミロ・オーシャ]は、そんなカッツマンの差別と偏見に満ちた言動と、陪審に予断を抱かせるための狡猾な論法に苦戦しながらも、目撃者の証言における曖昧な点を突いたり、矛盾点を指摘して証言を撤回させたり、証言者と司法関係者間の裏取引による偽証を暴露するなど、的確な反証で二人の無罪を主張してゆくのだが、陪審員は最終的に二人を有罪と見做し、サッコとヴァンゼッティには強盗殺人での死刑判決が下される。



当然ながら再審請求が行われ、ムーアの後を引き継いだ弁護士のトンプソン[〜ウィリアム・プリンス]の調査によって、真犯人の指摘を始めとするサッコとヴァンゼッティに有利な証拠・証言は次々に発見されるのだが、事件はただの強盗殺人事件ではなく、政治的な色合いを多分に帯びた象徴的なモノへと変質してしまっていたため、司法側は二人の無罪を知りつつも“反社会的な人間への見せしめ”としてに処刑を強行せざるを得なくなっていたのだった。



裁判のデタラメさが知れ渡ると共に、世界各地で二人の釈放を求める動きが活発化するが、事態の推移に絶望したヴァンゼッティは、アナーキズムのために捨石となる覚悟を決める。

しかし、一方のサッコは迫り来る死の恐怖によって、極度の神経衰弱に陥ってしまう…



他の主な登場人物に、サッコの妻ローザ[〜ロザンナ・フラテッロ]など。



《感想》

“犯罪によってではなく、生まれや思想で人が裁かれた”という絶望的な事実を映画化した作品であり、しかも悲劇的な結末が用意されている話ですから、全体のトーンはとことん陰鬱です。

しかしながら、底知れぬ悪意によってサッコとヴァンゼッティが追い詰められてゆく過程と、そのために検察側の出してくる証人・証言・証拠を弁護士が各個撃破で迎え撃つ法廷劇は良く練られていて、映画としての出来は水準以上ですよ。



で、映画を支えるクッチョーラとヴォロンテの演技も、名演と言ってイイ熱の入りようです。

サッコを演じたクッチョーラのみが、カンヌで主演男優賞を受賞しておりますが、それは恐らく雄弁で毅然としたまま死に赴いたヴァンゼッティよりも、多くを語らずに死んでいったサッコの苦悩や家族とのやりとりなどが、作品の訴えているテーマをより鮮明に(政治色から離れて)表現していたからだと思われます。



最近では世界史の教科書にさえ載るような有名な話ですから、良く知らないという方は基本教養としてコレを観ておくというのもイイかも知れません。

気になる点としては、サッコの所持していた銃は強盗に使われたモノと同一だったという鑑定もあったりする(それも捏造の可能性がありますが)らしいので、劇中でなされる主張の全てを鵜呑みにしてしまうのはやや危険性があります。



ですが、劇中で権力をバックにした人間がどこまでもデタラメを押し通し続ける様子や、自分の正義を信じて疑わない人間が他者の価値観を全否定して憚らない姿のどうしようもない醜さと、それに対峙して一歩も引かずに闘う人々の気高さは、間違いなく感動を与えてくれると思いますよ。

法廷でヴァンゼッティが語る「裁判長の体がチリになり、皆さんの名や(現在の)制度が不幸な過去の記憶でしかなくなった時にも、ニコラ・サッコの名は人々の心に生きているだろう」という演説は、何度観ても心を打ちます。



エンニオ・モリコーネによる音楽も文句の付けようが無く、ジョーン・バエズの歌う主題歌もまた印象的。

そんなワケで泣かせる映画ではあるのですが、問題は感動よりも憤りの方が上回ってしまう可能性が非常に高いコトですかねぇ。

司法制度や冤罪事件に興味のある方や、権力者に対する懐疑を抱いているような方には一度は観ておいて貰いたい作品です。

「別にそんなん興味ねぇよ」って方にも、良質の映画としてオススメです。


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Re: 山下さんから。 投稿者:リベル 投稿日:10月11日(水)02時37分54秒   引用  編集済
> シナリオ第4稿批判が届きました。
> 大げさかもしれないけれど、粛然としたなあ。

いや、全く同感です。粛然としました。実はたった今、読み終えました。

> シナリオの側と山下さんと、人間への理解と共感、先人への敬意、思索の深み、志操の堅固さ、精神の高みにおいて差がありすぎる。

もう一つ、私の心を打ったのは、全編から溢れ出す「慟哭」でした。特に最後の詩が・・・。

> こういう場合、もしかしたらシナリオの側からは山下さんの言うことに理解が追いつかないで「対話」が成立しないのではないかとさえ思ってしまう。

いろいろ考えさせられるところが多かったのですが、結局私が最も強く思ったのは、こうでした。

中山監督は「冤罪を正面に打ち出してやると行政の協力が難しくなる」と仰有っています。その時点で映画化を諦めるべきであった。さもなくば行政と抗ってでも、「冤罪」を追求する映画を作るべきであった、と・・・。

イタリアの映画「死刑台のメロディー」がサッコとバンゼッティーを描いています。ハリウッドでも、問題の真髄に肉薄する冤罪映画はいくつもみられます。こんな映画を製作するのは、日本の公権力の下では不可能なのでしょうか?そうではありますまい。


反省:ご免なさい。ウッカリしていましたが、山下さんの「第四稿批判」はまだネット上にアップされていませんでした。少しお待ちください・・・って2・3日かかるかも知れませんが・・・。


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森さんの本による濫救惰眠論 投稿者:Ichiro 投稿日:10月11日(水)02時34分13秒   引用
濫救惰眠論

 森さんの本に 要約してありました。若い時代に鋭い論評と思います。(惰眠をわざと惰民と書いている人、全患協ニュースなど、もあるので注意)

 らい予防法には退所の規定がないが、らいを感染させる恐れのない入所者をそのまま入所させるのは行政の濫救である。行政の濫救は入所者を惰眠にする。行政の濫救と入所者の惰眠を解決するには、現在の療養所を再編成して1)病院 2)中間施設 3)福祉施設や養老院 にする。

 当時の平均年齢と今の平均年齢は違うのですが、再評価したらどうなのでしょうね。それから、社会に存在する誤解偏見についての考慮が少ないような気がします。


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惰眠論ではありません 投稿者:Ichiro 投稿日:10月11日(水)01時20分39秒   引用
誤解を与えた文章をお詫びします。アカの方です。

森先生の 証言 ハンセン病 によりますと(p271)
 森さんは「人を殺すのは刃物などいらないんです。アカのレッテルさえ貼れば、それで十分なんですよ」と笑っていました。(中略)藤楓協会の理事長に天下っているハマノさんが来園したときのことです。入園者事務所まで案内してきた森さんに向かって、ハマノさんは「このアカが、患者を扇動しやがって!」とと迎えに来た自治会幹部に聞こえよがしに、憎憎しげに面罵しました。私もその場に居合わせたから、よく覚えています。
 (入園者が書かれた形になっているが、この作者はどなたかよく判らなかった)
 そんなこともあってか、1957年、森さんは事務本館の会計課物品係りに配置換えになりました。そしてその時以降、森さんと話す機会はなくなりました。(中略)私たちは館長に森さんの分館留任を懇願しました。(中略)療養所の幹部は森さんに幹部になってもらいたい、ということでしたが、アカい職員を入所者に接触させてはいけないという、東京方面からの意向があったに違いない。(中略)本館に移った翌月、厚生省事務官に任官したそうですが、間もなく島を去りました。その時1958年、森さんは30歳をちょっと過ぎていたと思います。

 本の略歴によると東京の視力障害者リハビリテーションセンターに行かれている。
 厚生省社会局老人福祉専門官を経て、長野大学、奈良女子大学、花園大学に転じ、その後
年金生活に入っておられます。


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Re: さてカツモクして待つといった 投稿者:リベル 投稿日:10月10日(火)17時08分9秒   引用
> 例のサイトはどうコメントするかな。
> A:噂によると、シナリオ批判を真摯に続けておられるYさんが、第4稿についてもなされているようですが?
> B:近いうちに発表されるようですから、刮目(かつもく)して、お待ちしましょう。

今のところ、動きはありませんね。じっくりお読み頂いて、さあ、どういうリアクションが出てくるのか・・・?


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さてカツモクして待つといった 投稿者:北風 投稿日:10月10日(火)13時15分44秒   引用  編集済
例のサイトはどうコメントするかな。




A:噂によると、シナリオ批判を真摯に続けておられるYさんが、第4稿についてもなされているようですが?

B:近いうちに発表されるようですから、刮目(かつもく)して、お待ちしましょう。
http://cluster.web.infoseek.co.jp/Fjiken/index.html



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北風さん 投稿者:リベル 投稿日:10月10日(火)12時36分22秒   引用
今、催促させるお積りですか?と書いているところへ、山下さんから、それ、届きました。

これから、散歩に出ます。さあ、考えることが増えた、増えた・・・。マーチに乗って考えることにします。

爽やかな、爽やかな秋晴れです・・・。


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山下さんから。 投稿者:北風 投稿日:10月10日(火)12時22分27秒   引用
シナリオ第4稿批判が届きました。
大げさかもしれないけれど、粛然としたなあ。

シナリオの側と山下さんと、人間への理解と共感、先人への敬意、思索の深み、志操の堅固さ、精神の高みにおいて差がありすぎる。

こういう場合、もしかしたらシナリオの側からは山下さんの言うことに理解が追いつかないで「対話」が成立しないのではないかとさえ思ってしまう。
http://cluster.web.infoseek.co.jp/Fjiken/index.html



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Re: 濫救惰眠論 Re: 療養所のお金7 投稿者:北風 投稿日:10月10日(火)12時09分59秒   引用
> 「濫救惰眠論」は、森氏としては、真情で書かれたことと思いますが、それが、ご自身の進路まで変えてしまったのですね。ほんとうに身の縮む思いがします。

こういう事実はあるのですか?
無教会の正池仁の相弟子で一緒に森さんは邑久光明園に、オカノユキオさんは長島愛生園に奉職して数年ののち相次いで退職しましたが、森さんは惰眠論の「筆禍」でやめたとは初耳ですが。確かやめた後、療養所の「評論活動」が低調だと若干の基金を出して、評論の賞を創設したんじゃなかったっけ。
http://cluster.web.infoseek.co.jp/Fjiken/index.html



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Re: リベル様 投稿者:リベル 投稿日:10月10日(火)11時55分2秒   引用  編集済
> ひとつだけ質問をさせていただいてよろしいでしょうか?
>
> 事実の伝達ということですが、リベル様はなぜ、藤本松夫さんが「不当な裁判により処刑され」たとお思いになったのか、ご教示いただけますでしょうか。

「処刑された」のは間違いない事実です。従って、百実さんのご質問は、「裁判が不当だ。というのは何故か?」と言う意味だと受け取るしか有りません。


それについては、ご自身が前のご投稿(10月 9日(月)06時55分58秒)の中で

「藤本松夫さんが裁判の中で正しく裁かれたとは思いません」
「検証会議が指摘しているように「憲法的要求を満たした裁判とは言えない」ものだったとも思います」

とお書きになっています。


これは「裁判が不当だ」というのと同じだと、私の乏しい日本語の知識では、思わざるを得ません。

ご理解頂けることを祈ります・・・。


それから、もう一つ、(この部分は10.10 15:24追加です)

> 事実の伝達ということですが、リベル様はなぜ、藤本松夫さんが「不当な裁判により処刑され」たとお思いになったのか

というお訊ねは、厳密さを欠いていると思います。私は「事実の伝達」と書いています。正確に質問なさるとしたら、「何故『不当な裁判』を事実であると認定したか?」であるべきだと思います。

そしてその答えは、私は書き残されたものからしか知ることは出来ませんが、少なくとも書かれたものを読む限り、あの裁判を「不当ではない」、「正当である」としたものには、未だお目に掛かりません。それで私はあの裁判は「不当」なのだろうと認定し、伝達した次第です。(その当時、藤本松夫さんにも会い、現場にも行き、当事者として生きていれば「正当」か「不当」かを体感出来たかも知れませんが・・・。この節加筆 10.11 01:10)

ただし、法律上或いは文法上更には道義上、専門的には瑕疵があるという場合は、どうぞご遠慮なくご指摘ください。未熟者の私ゆえ、修正・削除するに吝かでは、決してありません。正しいことには、進んで従うのがこういう私の身上ですから・・・。


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濫救惰眠論 Re: 療養所のお金7 投稿者:しゅう 投稿日:10月10日(火)10時27分29秒   引用
>  療養所内では 日本では 職員は 使っていたのかどうか。外部で買い物が出来る職員は使っていなかったのではないか。もし使っていたら 森先生は 何らか書いていたと思われる。森先生の言論の厳しさは タイヘンなもので アカだといわれ 追い出されてしまった。また 入所者に対しても歯に絹を着せない言葉を使っている。(たしか惰眠論)先生の著書は独特の位置を占めていると私は思っている。


Ichiro さま

はじめまして。
私は横浜に住んでいますので、全生園のハンセン病図書館を利用しています。全生園でながく出されてきた園誌はたいへん興味深く、読んで尽きることのない深さがあると思います。昭和30年代の園誌を読んでいますと、森幹郎氏の「濫救惰眠論」は大きな波紋を呼びました。矜持を持って生きようとする人たちの多くは、森氏の論に応えて、国からの支援が何もない中、無理にも社会へ出て行ったようすが多磨から伺えます。
文芸特集号では、評論で伊藤武「濫救惰眠」多磨S32.12月号、野谷寛三「惰眠論の限界と効用」多磨S36年3月号があります。
多磨を読んでいるだけでは、森氏の退職は分かりませんでした。森氏は、いつ退職されたのでしょうか?
「濫救惰眠論」は、森氏としては、真情で書かれたことと思いますが、それが、ご自身の進路まで変えてしまったのですね。ほんとうに身の縮む思いがします。


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(無題) 投稿者:Ichiro 投稿日:10月10日(火)08時14分20秒   引用
北風様

 >最大の代用貨幣は「軍票」ですね。

 私はタイ・ミャンマー国境の町(メーソン)で 山岳民族の少女から大日本帝国政府の100ルピー、10、ルピー、5ルピーの軍票を買いました。現地の塔とか、椰子の木が入っています。
 文献によると現在は普通のものが1枚100円しかしませんが、触ってみると歴史を感じますね。


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最大の代用貨幣は 投稿者:北風 投稿日:10月10日(火)08時03分30秒   引用
「軍票」ですね。


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Re: リベル様 投稿者:百実 投稿日:10月10日(火)07時30分30秒   引用
> >藤本松夫さんの死をただ一行で象徴的に伝えようとするとき、「不当な裁判により処刑された」としてしまうことは、もっと重要な事件の真実(を知ろうとすること、知ってもらうこと)への扉を閉ざす、あるいは狭くしてしまうように思えてならないのですが・・・ いかが思われますでしょうか。
>
>
> お答します。
>
> 私は、藤本松夫さんの死をただ一行で象徴的に伝えることが出来ようとは、全く考えてはいません。そのためには別のページを設けています。
>
> また、私はあの一行で事実を伝達しただけなのです。何か「メッセージ」を伝えようとは思っていません。
> 「今から44年前(1962年)の9月14日、藤本松夫が不当な裁判により処刑されました」
> という言葉に、メッセージ性が有るのなら
> 「今から44年前(1962年)の9月14日は、藤本松夫が不当な裁判により処刑された日です」
> と言い換えれば良いのでしょうか?
>
> こういう考え方もあると思います。単
なる事実の伝達であっても、それが9月14日当日だけでなく、長期に及べば、メッセージ性を帯びてくるのではと?
>
> 私は10月に入るときにこの存続の可否を考えました。そして今問題にもなっている話題だし、一ヶ月(10月13日まで)は続けようか、と連続掲載に踏み切ったわけです。だから、メッセージ性を感じると仰有るのなら、それは百実さんのお気持ちの問題、と割り切らせて頂くほか有りません。
>
> このような本質と事情をご理解の上、ご納得頂ければと思っています・・・。


レスありがとうございました。

ひとつだけ質問をさせていただいてよろしいでしょうか?

事実の伝達ということですが、リベル様はなぜ、藤本松夫さんが「不当な裁判により処刑され」たとお思いになったのか、ご教示いただけますでしょうか。


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余談ですが・・・「ノヴェンバー・ステップス」 投稿者:リベル 投稿日:10月10日(火)00時34分39秒   引用  編集済
先ほど「ノヴェンバー・ステップス」を聴きました。現代音楽というのを聴くのは初めてです。映画の中では、聴いたことがありそうですが。

待機電力の流れる音しか聞こえない秋の夜の静寂の中で聴きました。げえっと思いました。へええとも。私には、やはり新しい音楽です。

沈黙が長いので、終わったのかな?と思いました。約19分があっという間に過ぎていました。もっと聴いていたいと思わせるから、「芸術」なのかな?と思いました。悲しいかな私の耳はその程度なのです。

聴きながら読んでいた「解説」にこう書いてありました。「得体の知れない現代音楽に気乗り薄のまま最初のリハーサルに臨んだ(ニューヨーク・フィルの)団員から、演奏後には拍手が起こった」

これで、少し安心しました。まあ、私が経験したのと近い感覚が、やはり有ったのだなあ、と。


「ノヴェンバー・ステップス」のCD
 解説から



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療養所のお金9 投稿者:Ichiro 投稿日:10月 9日(月)21時29分5秒   引用
リベル様

 ちょっと脱線しました。しかし、一つ重要なポイントを述べたいと思います。
 代用貨幣が、強制収用的な所で使用された例です。私はこの例しか知りませんが、他にもあるのではないかと思います。参考文献 三木健編著 西表炭鉱写真集 ニライ社
2003年、沖縄.西表炭鉱史 三木健 日本経済評論社 1996年

 使用開始ははっきりしないが大正時代と思われる。賃金として受け取った鉱夫たちは、炭鉱会社の経営する売店で日常生活物資を購入した。米、味噌、石油、しょう油、酒、タバコにいたるまで何でも購入できたが、本土からたどりつくまでの船賃と会社のマージンが加算されて価格は割高であった。名称は炭鉱切符という。脱走を図って、骸骨化した人は後をたたなかったという。
 一応採炭領収書として交付し、毎月通貨をもって交換す と書いてはあったが、そういう事はなかった。
 本の著者に直接尋ねてみたが、現物はなくなったとの事であるが、本には綺麗に写真が出ている。正に、これは代用紙幣である。

 私はこの炭鉱を訪ねたことがある。正に廃鉱の名にふさわしい ジャングルの中のガジュマルが噛み付いた建物、その外昔は栄華を極めたものが色々あった。積み出し港は川である。そこに資材なども捨ててあった。面白い物としては オリオンビールのビンが捨ててあった。丁度廃止されたのはオリオンビールが出た直後である。これはオリオンビールに知らせようと思ったが忘れてしまった。この廃鉱は宇多良鉱というが、もう一つ内離島という所にも船に乗せてもらっていった。炭鉱の入り口で写真を撮影したら、昔の恨みのような光がたくさん写っていた。

 炭鉱が潰れると一文の価値もなくなったという。


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Re: リベル様 投稿者:リベル 投稿日:10月 9日(月)17時24分20秒   引用  編集済
>藤本松夫さんの死をただ一行で象徴的に伝えようとするとき、「不当な裁判により処刑された」としてしまうことは、もっと重要な事件の真実(を知ろうとすること、知ってもらうこと)への扉を閉ざす、あるいは狭くしてしまうように思えてならないのですが・・・ いかが思われますでしょうか。


お答します。

私は、藤本松夫さんの死をただ一行で象徴的に伝えることが出来ようとは、全く考えてはいません。そのためには別のページを設けています。

また、私はあの一行で事実を伝達しただけなのです。何か「メッセージ」を伝えようとは思っていません。
「今から44年前(1962年)の9月14日、藤本松夫が不当な裁判により処刑されました」
という言葉に、メッセージ性が有るのなら
「今から44年前(1962年)の9月14日は、藤本松夫が不当な裁判により処刑された日です」
と言い換えれば良いのでしょうか?

こういう考え方もあると思います。単なる事実の伝達であっても、それが9月14日当日だけでなく、長期に及べば、メッセージ性を帯びてくるのではと?

私は10月に入るときにこの存続の可否を考えました。そして今問題にもなっている話題だし、一ヶ月(10月13日まで)は続けようか、と連続掲載に踏み切ったわけです。だから、メッセージ性を感じると仰有るのなら、それは百実さんのお気持ちの問題、と割り切らせて頂くほか有りません。

このような本質と事情をご理解の上、ご納得頂ければと思っています・・・。


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ひつじさんの掲示板がリニューアル 投稿者:リベル 投稿日:10月 9日(月)11時53分6秒   引用  編集済
「かえで共和国の掲示板」が「緑の牧場の掲示板」へ変更です。

こちらからどうぞ。

(ライバル会社のURLを拒絶するようなので、こんな方法を・・・)


「かえで共和国」HPは今月いっぱいで終了するそうです。長いお付き合いでしたが、サーバーが無くなるらしく、残念です・・・(>_<)


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療養所のお金8 投稿者:Ichiro 投稿日:10月 9日(月)09時26分50秒   引用
療養所のお金は研究されていない

 先日福岡で、紀伊国屋書店にいって 本を探してきました。

 お金の歴史全書 Money A History
Jonathan Williams 湯浅赳男訳 東洋書林 1998

著者は大英博物館のコイン・メダル部門の責任者。たしかに大著ではあるが(365ページ)
 文献を見ても療養所のお金は 載っていない。また、私の持っているソロモン諸島の生活史 文化、歴史、社会 (秋道智弥など、明石書店、1996)に詳しい、貝貨についても さっぱり載っていない。
 蛇足であるが私は貝貨は大好きで、原實博士からたくさん頂いて海宝館(宮古島)に運んできました。原料はシャコガイで、ソロモン群島から手に入れられたものです。なお、たくさん見たい方はどうぞ沖縄愛楽園にみにいってください。展示してあります。
 また中国で発見された貝貨の原料であるキイロタカラガイを探して、生きているキイロタカラガイを宮古島で、発見しました。もっとも、自慢にも何にもなりませんが。
 ソロモン諸島の生活史 には 貝貨のところに

 ビーズ編み貝貨
 ドーナツ型貝貨 (これが普通です)
 円筒型貝貨
 イルカ歯貨
 羽毛貨   など 面白いのが出ていますので ご参考に。
(リベル) 菊池先生、あまり深入りし過ぎないでくださいよ・・・(笑)。園券の問題は「療養所のお金6」で恵楓園の問題以外はほぼ完結したと、私は感じておりますが、いかがでしょうか・・・。(10.9 17:40)


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リベル様 投稿者:百実 投稿日:10月 9日(月)06時55分58秒   引用  編集済
 藤本事件に関心を寄せている者です。
 この「ハンセン病のリンク集」のトップページや「速報・朗報」を開きますと、一番上に
「※今から44年前(1962年)の9月14日、藤本松夫が不当な裁判により処刑されました」
とあります。
 たしかに藤本松夫さんが裁判の中で正しく裁かれたとは思いません。藤本松夫さんを救う運動は、裁判の不当性、差別性を訴え、公正裁判を要求する運動でもあったと思います。検証会議が指摘しているように「憲法的要求を満たした裁判とは言えない」ものだったとも思います。
 でもそれは、藤本事件のひとつの面にしか過ぎないと申しますか、第三次再審請求理由補充書に至るまでの経緯をもってすれば私たちは確信をもって無実を信じることができますし、当時のライというものが松夫さんの無実に闇を作り、その闇からどのように真実は引き出されたのか、やっと明かりが射したその時に当局が刑の執行を急いだのはなぜなのか、とか・・・ 藤本松夫さんの死をただ一行で象徴的に伝えようとするとき、「不当な裁判により処刑された」としてしまうことは、もっと重要な事件の真実(を知ろうとすること、知ってもらうこと)への扉を閉ざす、あるいは狭くしてしまうように思えてならないのですが・・・ いかが思われますでしょうか。
(リベル) ここに二度にわたってレスした内容を、まとめて上にお答しましたので、ここは削除させて頂きました。(10.9 17:30)


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療養所のお金7 投稿者:Ichiro 投稿日:10月 9日(月)06時44分55秒   引用
コロニーの大きさと貨幣経済

 私は、菊池恵楓園に勤務していました。車で一周すると3.7キロあります。仮に1キロ四方だと 30万坪になりますが 四角でも円でもないので それより狭く19万坪です。長島は100万坪だったかな。
私はドイツの観光旅行でいくつか都市国家をみてきましたが 菊池恵楓園より随分狭いので吃驚しました。
 クリオン島はその数倍。島であるので中での経済は特殊貨幣でやっていた。本を読んでみると職員も使っていたようだ。日本との戦争でマニラとの連絡が絶たれ、マニラで造っていた貨幣が入らず、現地で紙幣を発行したのは なるほどと思われる。
 療養所内では 日本では 職員は 使っていたのかどうか。外部で買い物が出来る職員は使っていなかったのではないか。もし使っていたら 森先生は 何らか書いていたと思われる。森先生の言論の厳しさは タイヘンなもので アカだといわれ 追い出されてしまった。また 入所者に対しても歯に絹を着せない言葉を使っている。(たしか惰眠論)先生の著書は独特の位置を占めていると私は思っている。


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あらためて「差別」とは 投稿者:リベル 投稿日:10月 9日(月)03時18分6秒   引用  編集済
一体、自分は「差別」をどう考えているのか?それを確かめるために辞書を引いてみました。各辞書とも数項目立ててありますが、その中で今回問題になっている意味でのものだけ書き出しました。

大辞林

偏見や先入観などをもとに、特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをすること。また、その扱い。「人種―」 「―待遇」

広辞苑

差をつけて取りあつかうこと。わけへだて。正当な理由なく劣ったものとして不当に扱うこと。「―意識」

新明解国語辞典

優越感を味わおうとしての偏見に基づいて、自分より弱い立場にある人や何らかの不利な条件を負っている人に不当に低い待遇を強いる(侮蔑(ブベツ)的な扱いをする)こと。
「障害者を―することは許されないことだ/人種による―/男女―・学歴―・―語 」


余談ですが、こうして並べると「広辞苑」の「手抜き」が判然とするでしょう。「広辞苑」は概してこうです。不親切なのです。だから嫌いです。
これは「差別」なのか「区別」なのか、さあどうなのでしょう・・・?


私は、「人種差別」の場合、例えば「黒人」と「白人」は人類学上別の物ですから、「区別」されます。そこに人間の主観が加わると「差別」に変じるのだと思っています。「優越感」とか「嫌悪感」とかいう主観が・・・。

「男女差別」も生理学上の「区別」は歴然と有るのですが、そこに歴史上(農耕・狩猟)、生理学上(お産など)の役割分担が誘発する「女性観という主観」(とでも言うのでしょうか)が加わると「参政権」などにかつて見られた「差別」が発生するのでしょう。

ここでは、「部落差別」には触れません。「ハンセン病における差別」は、「健康な人」と「病気の人」という「区別」に、病気が移るのではという「恐怖感」と外形に対する「違和感」という二つの主観が加わって、「差別」に転じていたのでしょう。

前の二つの「差別」と同様、ここに加えられた「主観」は間違ったものです。理性で抑止できるものです。にもかかわらず、「国」や、「国際的知見を無視する医師達」他が「間違った主観」を防ぐどころか、逆に煽ってしまう。しかも国を挙げてです。これが「ハンセン病における差別」の実態だと私は思っています。

私は社会学者でもありませんし、叙述に不完全なところも多いと思いますが、なるべく目を瞑っていただいて、意とするところだけ、巧みにお汲み取り頂くよう願うのみです(チョット狡いですか・・・笑)。

「F事件から”現代”を考える会」さんが「あらためて・・・」と仰有るので、こういう辺りの議論に踏み込まれるのかなと思っていましたが、またしても期待はずれでした・・・。しかし、藤本事件と「差別」とは切り離して考えるべし、というご意見には全く同感です。ええ、「タイトル」がいけないんでしょう。

いつもお願いすることですが、遠慮会釈のないご意見・ご批判をください・・・m(_ _)m

「広辞苑を差別するとはけしからん。何故2番目に書いてあるのだ!!」などと・・・(笑)


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F事件から”現代”を考える会のHP 更新 投稿者:リベル 投稿日:10月 9日(月)01時32分59秒   引用  編集済
「あらためて「差別」とは」と題して、第7回対談です。

「太政官布告」(解放令)を1971年(明治4年)としているのは、リップサービスのお積りなのでしょうか・・・(笑)


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Re: 療養所のお金6 投稿者:リベル 投稿日:10月 9日(月)01時18分39秒   引用  編集済
> 園内通貨のところで たしかに この制度を一番早くとり入れた菊池恵楓園では1930(大正5年)「所内通用票」制度を僅か2,3年で廃止している。

恵楓園自治会の「壁をこえて」には「1916(大正5年)所内通用票制度廃止」と記されていますから、この点では符合します。「2・3年前から存在したと言う記述が正しければ、これは新事実で、歴史が書き換えられなければなりません。(1930(大正5年)は明らかな誤記ですね)

これまでは、「倶会一処」の「全生病院で1919(大正8年)9月28日使用開始」がもっとも古いと考えられていたからです。

>その後大正8年5月から36年間にわたって実施され

全生園では1952(昭和27年)に廃止されましたが、邑久光明園では1955(昭和30年)に廃止されているので、菊池の話を無視するならば、療養所全体の記述としては、「36年間」であり、正しい記述だと言えると思います。

今「全患協運動史」を発注しました。良く読んでみて、判断したい、分からなければ、お知恵を拝借したいと思っています。その折りには何卒よろしくお願いします・・・m(_ _)m

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4752895315/ref=sr_11_1/249-1280369-3313163?ie=UTF8



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療養所のお金6 投稿者:Ichiro 投稿日:10月 8日(日)21時18分1秒   引用
福岡の天神コアの紀伊国屋で色々本を見付けてまいりました。
 Ichiroです。
 全患協運動史が ありましたので求めてきました。

 園内通貨のところで たしかに この制度を一番早くとり入れた菊池恵楓園では1930(大正5年)「所内通用票」制度を僅か2,3年で廃止している。 とあります。その後大正8年5月から36年間にわたって実施され とあります。西暦と日本年号の不一致があり、信用できないのですが この本の編集者は5人いるのですが 菊池恵楓園からは出ていないので照合がうまくいってなかったと思われます。現在恵楓園で 調査されている愛さんに聞いてみたいと存じます。
 この本も、森先生の本も 外国の方が早くスタートされていることには言及されていませんね。またこの本では菊池恵楓園で廃止した理由も書いていません。
 昭和27年3月、全生園での日本銀行券との交換の最中に70万円の大穴があいていることが判明、不正究明委員会に進展したが担当の事務官の配転と穴埋めの個人的支弁を当局が公約することで終わったとあります。(クエ一処にもでていた)。70万円といえば 現在のいくらにあたるのでしょうか。


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ルドンなど。 投稿者:あずき 投稿日:10月 8日(日)14時14分0秒   引用  編集済
リベルさん、闖入者のおせっかいを喜んでいただけただけでうれしいです。
「Closed Eyes」は、幾通りものパターンがありまして、わたしはこの線描画が好きです。

>「大事件が出来すれば、まずあちこちでおずおずとものを言い、互いの胸のうちが読めたところで、わーっと同じことを叫び立てる・・・」

井上ひさし氏の痛烈な言葉ですね。本当に「私家版」???


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余談ですが・・・「私家版 日本語文法」 投稿者:リベル 投稿日:10月 8日(日)01時37分26秒   引用  編集済
一昨日の古本バザーで、これも手に取って目次で気に入って、20円で買いました。家に帰ってリュックから出して、見ると、何か見覚えがある。広いところで見るのと、家で見るのとでは、印象が変わるでしょう。つまり同じ物を、昔買っていたのに気付きました。本棚で確認すると、案の定・・・。

これに、のっけから面白いことが書いてありました。

「大事件が出来すれば、まずあちこちでおずおずとものを言い、互いの胸のうちが読めたところで、わーっと同じことを叫び立てる・・・」

これは四半世紀も前の実はマスコミ批判なのですが、私はまるで自分のことをズバリと言い当てられたようで、心の底から、ドッキリしてしまいました・・・(;´д`)ハァハァ


二冊有ってもなあ・・・しかし、実に痛快な本です。
この表紙の絵は安野光雅さんです。これがまた判じ絵ですね・・・
尼さんとハンドバッグ・・・?

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4101168148



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余談ですが・・・「Closed Eyes」 Odilon Redon画 投稿者:リベル 投稿日:10月 8日(日)00時01分55秒   引用  編集済
あずきさん、有り難うございました。凄く好きになりました、この絵・・・。ルドンという名前すら知らなかったのです・・・。

「じっと目を閉じて、水の面に浮かぶ人物は、ルドンの夫人カミーユ・ファルトであると言われています。言われてみてはじめてモデルが女性であると気づくほど、シンプルな印象です。
静謐さの漂うこの作品は、ルドンのごく初期の油彩画であるとともに、彼の画歴の中でも、明るい色彩への転換点を示すものとして注目されています。ルドンと言えば、花や神話の世界を多く描き、その絵画的トーンの表現力を完成させていったことで有名ですが、それと同時に、内面の世界を描くことを大切にし続けた画家でした。」

こんな解説付きで、良い絵や彫刻を紹介しているサイトを、お陰様で見つけました。とても、とても楽しめます、是非どうぞ・・・。


「目を閉じて」ルドン画(必、クリック!)

http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/redon/



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リベルさん、こんばんは。 投稿者:あずき 投稿日:10月 7日(土)22時31分11秒   引用  編集済
おせっかいにお邪魔しました。なんかヘンだと思ったら。。。
「武満徹」です。リベルさん、恋の道を間違えないで(^^)。
すみませぬ。飛び入りで。
おわびに「武満徹 Visions in Time 展」の時の絵を。
ルドンの「目を閉じて」です。



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余談ですが・・・「音、沈黙と測りあえるほどに」 投稿者:リベル 投稿日:10月 7日(土)02時27分1秒   引用  編集済
昨日、いつも立ち寄るスーパー前の広場で、近所の主婦の方達主催の古本バザーがありました。覗いてみると、おやっ、有るではないか!結構良さそうなのが目につきます。

武光徹の「音、沈黙と測りあえるほどに 」は今まともに買えば4200円です。それが古本とは言え、帯封付きで20円です。飛びついて買いました。

私は武光徹という人を、食わず嫌いで文字通り「敬遠」していました。近付くとのめり込んで面倒だという気持ちと、とても理解する段階にまで近寄れないだろうという恐れとからです。

心の中では、反面、機会が有れば傍へ行って匂いでも嗅いでみるかと、そんな風に思っていました。取り敢えず、”文章から音が聞こえて来る”という、この有名な本を読んでみます・・・。

危ないなあ・・・新しい女性に憧れ、好きになって、のめり込んで行く時のような、そんな気持ちです・・・。歓びと不安・・・。
いや、察するに・・・ですが・・・。



小澤征爾さんと武光さん。「November Steps」と書いてあります・・・

http://www.gtr.co.jp/hobby-site/mma/classic/cla-18-1.htm



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歌碑公園 投稿者:Ichiro 投稿日:10月 6日(金)22時41分12秒   引用
宮古南静園のセルロイド・コインにでてきた 俳人について

 天覧になった俳句がわかりました。

 行幸啓 待つ磯香の地 年始涌く(わく)  涌川新一  注:天皇皇后の訪問

 皇后歌碑 かしこみて園(えん) 春を待つ

 両陛下もパネルで示された俳句について 「見せていただきました。どうもありがとう」
 と声を掛けられた(宮古毎日新聞)(平成16年1月26日)

 皇后歌碑は 戦前作られた貞明皇后の歌碑、どこの療養所でもある(除 菊池恵楓園)
現在は高松の宮が植えられた椰子が立つ(先ほどの台風で倒れそうになった)海岸の方角
 1800キロはなれて 向かう方角は 東京の方角である。
(リベル) restricted money で面白い読み物が一本出来るのではないですか?期待してお待ちしております・・・。(10.7 07:51)


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訂正 投稿者:Ichiro 投稿日:10月 6日(金)21時10分39秒   引用
本文 3行目

 入選者 は 入園者 の 間違いです。
(リベル) チョットした修正は、
頁左下の「管理者メニュー」をクリック→直したい項の「編集」をクリック→文章を修正→「投稿」→「戻る」3回→「更新」で修正完了です。
勿論、「戻る」と「更新」はツールバーの左上です。今後ご利用頂くととても便利です・・・。(10.7 12:09)


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療養所のお金5 投稿者:Ichiro 投稿日:10月 6日(金)21時02分53秒   引用
宮古南静園のセルロイド・コイン

 中国にもプラスチック・コインがあります。(別の所で述べましょう)
戦前にはプラスチックという言葉はありませんでしたので、セルロイド・コインという言葉を使います。作られたのは昭和8年12月のようです。臨時国立、宮古療養所時代ですね。私は入選者の方から3枚頂きました。2.7 センチ と 3.4センチの楕円形の、白いコインは墨で一とあり(1銭と推定)、茶色の方は10と横にあります。(10銭か)あれ、確認しようと思ったが、写真はどこにいったのかな。高松宮ハンセン病資料館には赤(5銭か)と緑色のコインがある。絵葉書のコインに二というのがあり、入園者が5種類というので、別に書いたように1,2,5,10,50銭と思われます。コインは消毒していました。それでセルロイドが曲がっていたこともあるそうです。熱を加えたのでしょうか。
 入手した1枚には かろうじて宮古療養所と読めるが、それには数字がなく、数字がある2枚には 宮古療養所 は 読めない。
 患者さんは入所当時、日本通貨をコインに強制的に替えられました。また作業をするとコインが与えられました。売店で物を買うことができます。当時は黒砂糖、ソーメン、昆布、タバコなどが売られていました。
 コインの材料は何でしょうか。文房具屋で売っている札かな。通す穴があります。このように容易に偽者が作れるコインでも、外出制限があり、鉄条網がある療養所ですので、貨幣として通用したのでしょう。
 終戦直前、昭和20年3月、療養所は爆撃を受け炎上、入園者と職員は四散しました。海岸の洞窟や自分で掘った防空壕に隠れたのですが、悲しむべきことに入園者の4割は、マラリアなどで亡くなられました。一方、3万人やってきた日本の軍隊でも1割が死亡しています。その後、物々交換の経済となり、米軍の軍票からドルになりましたが、結局、コインは日本の貨幣には変わりませんでした。
 セルロイド・コインの信用が地に落ちたというエピソードがあります。現在は失明された俳人が作ったという俳句です。

   猫首に 古(いにしえ)の 金(かね) つけし春

 同じ俳人は、平成になり、天皇皇后の前で すばらしい俳句を2句 披露しました。
 さすが俳人である。ハンセン病療養所の代用貨幣という無粋な言葉は使っていません。
 なお、ハンセン病療養所の無聊を慰めるために猫は飼ったよかったが、危険な犬は飼うのは禁止されていた。私の想像では、猫の首につけたのは 赤いコインではなかったろうか。
 その色が映えるであろう。

 なお頂いたコインは現在の園長に寄贈してきました。


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追加 投稿者:Ichiro 投稿日:10月 6日(金)19時56分53秒   引用
すみません。宮古療養所の所は小生の推定です。


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療養所のお金4 投稿者:Ichiro 投稿日:10月 6日(金)19時46分53秒   引用
森先生の本

 直接代用貨幣を使用している時の職員で、最初に記載されたと思われるのが森先生です。
 前に書いた本は2001年発行であるが、初出は「楓」の1957年1月「使われなかったお金」でした。
 1909年に創立された療養所のうち菊池恵楓園(九州療養所とは書いていません)を除いた4園では現金の使用を禁止し園内通用券と通帳制度を採用しました。(注;全部が両方ではない)。菊池では患者集落が近くにあったので実効が伴わないと考えられたのでしょう。園内通用銭の呼称と種類と制度廃止の年は次の通りである。(多磨がかかれていない)

 松ヶ丘保養園 通知銭 1,5,10,50銭,1,5円,1954
 長島愛生園  園金  1,5,10,50銭,1,5,10円、1948
邑久光明園  コマ  1,5,10,50銭,1,5,10,50,100,200円、1954
大島青松園  ナシ  1,2,5,10,20,50銭,1931
星塚敬愛園  園金  1,5,10,50銭,1円,1946

宮古療養所  フダジン 1,2,5,10,50銭,1945 (推定)

 通帳制度:森先生がおられた光明園での制度で、分厚いボール紙製の紙幣をお金とし、実際は自治会に通帳を作り、そこの売店で使える制度で、患者給与金もそれを使った。併用した。いくら厳重にしても家族から隠れて現金が送ってくるが、それは現金で手元に置いたそうです。
 戦後のインフレも悪影響があり、1954年に制度は廃止された。
 (別の本には 貧乏な人への小遣いをアゲル制度がこれで行われたという)

 園内通用銭の目的

 1)感染の予防 (実験はしていないようである。)
 2)脱走の予防  統計を使って、これには影響がなかったと森先生は書かれている
 3)酒類の密売防止 現金を持っていないから 買えないと森先生は書かれている
   なお、菊池でも塀を越えて酒を買う話はいつも聞いていた(小生)ここでは特殊な金はなかった。
 4)賭博の防止
   「クエ一処」という本にも、多磨全生園もそうだと書かれている。すみません、出せません。
 5)現金の盗難予防
   コマは現金と同じですが、通帳制度は盗難予防になる、特に盲人には、と森先生は
   書かれている。


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療養所のお金3 投稿者:Ichiro 投稿日:10月 6日(金)08時16分7秒   引用
リベルさん 有難うございました。私もそう感じていました。
森先生も 日本の療養所がスタートしてすぐ発行した、と書かれていましたが、はっきりしているのは多磨全生園の発行ですが(10年後)、他に何かわかったでしょうか。

 私の発言の参考文献を挙げておきます。
 Maa DF:Leprosarium Numismatica. The use of restricted money in HD facilities.
The Star. July/August 10-11,1987.
菊池一郎:宮古南静園のセルロイド・コイン
 日本医事新報 3930,61-62,1999.
菊池一郎;ハンセン病療養所の代用貨幣 その歴史と隔離政策との関連
 青松 553,28-32,1999.
森幹郎:証言・ハンセン病 現代書館 2001.
McFadden RR, Grost J, Marr DF:The numismatic aspects of leprosy Money, Medals and Miscellanea
D.C.McDonals Association, Inc. 1993.


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療養所だけに流通したお金2 投稿者:Ichiro 投稿日:10月 5日(木)12時59分15秒   引用
         貨幣の発行は国の許可がいるか 法律の問題

 正規のお金の発行は国の主権(仕事)でありますので、特殊な代理貨幣を発行するだけでも、憲法を改正した国がありました。日本では、当時は内務省管轄でありましたので、その許可はあったでありましょう。しかし実際は各々の施設が発注したのであります。熊本の菊池恵楓園では発行していませんので(注:異論あり)日本においては総ての療養所の足並みが揃ったわけではありません。
 米国政府も発行しています。カービルで使用したのでなく、パナマ運河地帯のコロニーにおいてでした。当時は米国が主権を握っていました。(注:今はどうだったかな)貨幣の大きさが米国の貨幣と同じというのも面白いですが、穴を開けていました。
 それは大正8年に発行され、昭和27年まで使われ、昭和30年にまとめて溶かされました。
 蛇足ですが、多磨全生園では大正8年に、特殊貨幣が発行され、昭和30年には邑久光明園で、そこが発行したお札が土中に埋められました。
 日米で タイミングが良すぎる。偶然の一致でしょうか。
 なお、代用貨幣を発行する場合の法的な面はどうなんでしょうね。私は直接財務省に電話で質問しました。その答えはタイヘン明瞭で「代用貨幣は金券と同じで、日本においては法的に問題ない」ということでした。あまり明確なので ハンセン病の療養所の貨幣を知っているか という質問をするのを 忘れました。
(リベル) 「法的に問題ない」でしたか。昔はそうではなかったようです。「倶会一処」の41ページに、こんな風に書いてあります。「こういう施設内で仮のお金を使うというのは厳密にいえば法律に触れることであろうから、院(全生病院)の年報など公式な文書には全くといってよいほど記録はない云々」と・・・。この辺はしかし、もう確かめようが有りませんね・・・。(10.6 01:27)


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訂正します 投稿者:Ichiro 投稿日:10月 5日(木)07時44分27秒   引用
すみません。

 代理貨幣は 通常 代用貨幣といいます。


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療養所だけに流通したお金 投稿者:Ichiro 投稿日:10月 5日(木)07時36分36秒   引用
Ichiroです。善意ある批判をお願いします。

 ハンセン病療養所(コロニーも含む)では、人が触るお金ですから、病気が外に伝染することを恐れ、その地域だけに流通する特殊なお金(代理貨幣、紙幣)を使った歴史があります。
 フィリッピンの隔離の島、クリオン島には、六千人の隔離された人々がおられ、通貨の必要性が感じられました。大正二年から、五回にわたって特殊貨幣がフィリッピンの首都、マニラで鋳造されました。また昭和十七年には、日本軍がきて、首都との連絡が絶たれて、自分たちで紙幣を作ったそうです。それには通しナンバーが打たれていました。なおフィリッピンでは国が作ったので、クリオン島以外の施設でも使われたそうです。

             本当にお金で病気は伝染するか

 実際に貨幣や紙幣で病気が伝染するのでしょうか。お金は実際、消毒されていました。犀川博士は、勤務されている医局のガラス戸の上に、消毒で濡れたお札をかわかしていた、と語られました。多磨全生園でも、消毒の匂いに関する記述があるし、宮古南静園でも消毒していたということは、後で述べます。
 マレーシアのライリー博士は汚れた紙幣を実験的にクアラルンプールの研究所に送って調べてもらったそうです。結果は、らい菌は検出されなかったそうです。それにも係わらず同国では 紙幣は燃やしてしまったといいます。わざわざ実験しなくても、貨幣や紙幣から伝染しない、ということが、次第にわかってきました。


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余談ですが・・・Celestia 投稿者:リベル 投稿日:10月 5日(木)02時17分41秒   引用  編集済
これには魂消ました。ご存じ「Google Earth」で出てくる地球のロング。あれを更に引いたらどうなる?つまりあれ以上遠ざかっていかないのは何故か?そう思って「Google Universe」なんてものが有っても良いではないか、と検索していたら、出くわしたのがこれ、「Celestia」でした。

celestialが「天空の」という意味だとしりませんでしたが、そこからの命名です。

これは凄い!!遊べます!!宇宙旅行です!!恐らく近い内にまたGoogleが買収して、「Google Earth」とドッキングさせて、それこそ「Google Universe」が出現するのはそう遠くはないと思います。

ここからダウンロード出来ます。


この画像の右上に書いてあるのは「2006 10.04 16:54:17 UTC」
つまりリアルタイムの映像なのです。誰が、どこから撮っている・・・?
下のURLでは地球の右上に小さく月が見えます・・・

http://www.eonet.ne.jp/~libell/moon.htm



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(無題) 投稿者:はっしー 投稿日:10月 4日(水)15時00分35秒   引用  編集済
以前、こちらで 全患協運動史 の記載が話題になっていたので
その後、確認にいってみたところ全生園の図書館内では貸し出し中で
販売用のものも、丁度売り切れになっていたので確認出来ませんでした。

全患協運動史は、初版からその後増刷して現在は改訂版が出ています


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失礼しました 投稿者:Ichiro 投稿日:10月 3日(火)18時33分6秒   引用
ご尊名を間違えて申し訳ありません

 そろそろボケてきました。
 今のうちに書きたいことは 書いておこう

 Ichiro
(リベル) 「ご尊名」などと仰有られると益々恐縮してしまいます。そもそもが実は、ハンナ・リデルさんからのもじりで「リベル」ですので・・・(笑)(10.4 00:32)


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Re: 住所と電話なら 投稿者:北風 投稿日:10月 3日(火)18時20分38秒   引用  編集済
> >森氏はメールアドレスが変わったらしく、メールが送れません。どなたかご存じの方がいらしたら、メールでお教え下さい。よろしくお願いします。
>
> メールは存じ上げませんが。

森先生のメールは存じ上げませんが、ご住所と電話なら。

どうも舌足らずでいけません。
http://cluster.web.infoseek.co.jp/Fjiken/index.html

(リベル) 参りました。ご免なさい。未だ分からないのです。このURL「F事件資料集」に森幹郎氏の住所が・・・???
完全に耄碌現象か??? (10.4 00:36)

分かりました、北風さん。恐らく先日の投稿の時(10月 2日(月)17時32分1秒)のURLがそのままになっていて、新しいのが出ていないのだと思いますが・・・お手数をお掛けして済みません、よろしくお願いします・・・(10.4 00:48)


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住所と電話なら 投稿者:北風 投稿日:10月 3日(火)16時30分45秒   引用  編集済
>森氏はメールアドレスが変わったらしく、メールが送れません。どなたかご存じの方がいらしたら、メールでお教え下さい。よろしくお願いします。

メールは存じ上げませんが。
http://cluster.web.infoseek.co.jp/Fjiken/index.html

(リベル) げ、げ、げえっ!!!ど、ど、ど、どういう意味ですか・・・??? (10.3 16:52)


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園券の発行なし 投稿者:Ichiro 投稿日:10月 3日(火)12時07分54秒   引用
リデル様

 準備書面の情報は知りませんでした。
 森先生が関与されているようですが、先生の最初のものとは思えません。(初出は
 相当古い療養所の雑誌)
 森先生はある老人施設に入所されていると思います。私とコンタクトしたのは 私が宮古にいた時です。
(リベル) >リデル様

光栄・・・を通り越して・・・なんと申し上げて良いやら・・・(笑) (10.3 16:39)


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Re: Re:恵楓園に園券の発行なし 投稿者:リベル 投稿日:10月 3日(火)11時43分41秒   引用  編集済
>私は「法治国家つまみぐい」の中の「我が国におけるハンセン氏病をめぐる事実関係」から「1916年菊池恵楓園で「園内通貨の使用が始まる」と信じて、年表と解説を作成したのですが、これが正しいかどうか、疑問に感じてきたのです。
>
> この作者長嶺超輝氏と、森幹郎氏(幸いかねてからメールの交換がありますし)にメールを書いて、その出典を確認しようと思います。

森氏はメールアドレスが変わったらしく、メールが送れません。どなたかご存じの方がいらしたら、メールでお教え下さい。よろしくお願いします。

長嶺超輝氏から古賀弁護士のサイトだとお知らせを頂き、調べたら有りました。「準備書面」の中です。第二章、第二、六、3、(六)園内通貨 の項に「一九一六(大正五)年、菊池恵楓園で導入されたこの制度は、全国に広がり、戦後も園によっては残っていた。」と記されています。

これは、生産的でないので、これ以上はフォローしないつもりでいますが・・・。新しい情報があったら、是非お教え下さい・・・m(_ _)m


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(無題) 投稿者:Ichiro 投稿日:10月 3日(火)07時49分13秒   引用
リベル様

 住所を小生のメールアドレスに密かに教えてください。コピーを送ります。ついでに Star の方のペーパーも送ります。

 Ichiro
(リベル) 有り難うございました。メールしましたので、よろしくお願い致します・・・m(_ _)m (10.3 11:05)


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Re: A brief history of Hansen's disease 投稿者:リベル 投稿日:10月 3日(火)06時24分8秒   引用
> Hansen's disease in Japan: a brief history
> Int J Dermatol 36(8): 629-633, 1997.

これを見つけました。でも読むのに39ドルもかかるのではありませんか?チョット手が出ません・・・(>_<)


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A brief history of Hansen's disease 投稿者:Ichiro 投稿日:10月 3日(火)03時30分27秒   引用
名著の題名を 盗んで 小生も 書いています。
a brief historyというのは 大好きです。

 A brief history of Kikuchi Keifuen (National Leprosarium, Japan)
Tha Star, 8, Nov-Dec. 1990.

Hansen's disease in Japan: a brief history
Int J Dermatol 36(8): 629-633, 1997.


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リベルさん・・・。 投稿者:のん 投稿日:10月 3日(火)03時02分5秒   引用
「エンコード」が何故かイベント情報の所だけクリックすると西ヨーロッパになりますがリベルさんのご指摘ど〜り直りますたm(_ _)m
こんな時間リアルタイムでの返信まことにど〜〜もでした
(o_ _)o)) <(_ _)><(_ _)><(_ _)>


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@マークいっぱい(涙) 投稿者:のん 投稿日:10月 3日(火)02時45分36秒   引用
うう〜〜何故かイベント情報だけ@マ〜クいっぱいです(つへ≦)。久々に来た罰?罰なのでしょ〜〜か??(笑)
(リベル) それでもダメな場合、「エンコード」の「自動選択」にチェックが入っていないか確かめて、もし入っていたら「日本語(自動選択)」にチェックを入れ直してみて下さい。如何でしたか・・・?(10.3 02:49)


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イベント情報・・・。 投稿者:のん 投稿日:10月 3日(火)01時52分43秒   引用
文字化けしているのは僕だけ???リベルさん・・・。
(リベル) そうではないかと思います。私は普通に見られます。今念のためソースを確認しましたが「charset=Shift_JIS」となっていますので、大丈夫のはずです。もう一度おためしになってみてください・・・m(_ _)m

それでもダメな場合、「エンコード」の「自動選択」にチェックが入っていないか確かめて、もし入っていたら「日本語(自動選択)」にチェックを入れ直してみて下さい。如何でしたか・・・?(10.3 02:21)


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再び、アミノ酸研究の権威 古武弥四郎氏 投稿者:リベル 投稿日:10月 3日(火)00時14分1秒   引用  編集済
古武弥四郎氏の言葉にこんなのがあるのを見つけました。と下の文章を紹介したのは8月10日でした。

「本も読まなくてはならぬ
 考えてもみなくてはならぬ
 しかし働くことはより大切である
 凡人は働かなくてはならぬ
 働くとは天然に親しむことである
 天然をみつめることである
 こうしてはじめて天然が見えるようになる」

ご自分のこの夏を夕焼けさんが総括(9月29日(金)06時29分9秒)して居られました。私も顰みに倣ってみることにします。


藤本事件という夏の嵐が通り過ぎた一夏でした。「天然」がなかなか見えてこない一夏でした。「何が正しいか」は見えました。が、「何を為すべきか」が見えません。

「実行委員会・支援賛同者等名簿」に「呼びかけ先を含む:50音順・敬称略」、「*もし誤った記載がありましたら事務局までご一報をお願い申しあげます。」と注記してあったことにお気付きになったと思います。

このような「やり方」は好きではありません。それもあって、私は「製作支援に関するお願い」には応えません。


しかし、私には人には余り明かさない、処世訓があります。「誰の得にもならないことは、しない」です。

私の中で嵐は終わりました。とうとう見えなかった「天然」を求めて、昨夜から「働き」始めました。「ハンセン病の歴史」が途中だったので・・・。

やはり私は、やれポンペイウスがシリアを制圧したときに部下が運んだかどうか、知りあしねえやだの、華佗が書いた本だか、なんだかだと、下らないことをやっているのが、性に合っているのかも・・・(笑)


秋の空の下で、さあ働こう・・・



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Re: このホームページは。 投稿者:リベル 投稿日:10月 2日(月)23時11分45秒   引用
> いかがでっしゃろか?

全くもって、お説の通りです。早速、下に投稿したものの題名を「F事件資料集」から「F事件から現代を考える会HP」に変更しました。

どうも書いていて、ムズムズ違和感を感じてはいたのに・・・ああ、情けない・・・(笑)


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いい論文ですね 投稿者:Ichiro 投稿日:10月 2日(月)22時18分42秒   引用
リベル様

 引用されていた論文、
Trautman JR, A brief history of Hansen's disease はどこかで読んだと思ったら
Star Nov-Dec 1985にでていました。全く同じ文章でなかったのですが、何回も書き直したらしいですね。こっちは 1990 ですか。文献の数が少し増えている。

 いいものは何回も書く、喋るということを私の恩師がいっていました。もう 耳がたこになるくらい、聞いていました。

 Starには 1983年のシンポジウムに出したと書かれていました。トラウトマンはカービルの親分で、Starに 写真がたくさんでています。ここは海軍の組織なので、海軍の制服をきています。勲章も一杯つけています。
 蛇足ですが、私の知った先生は現役時代の自衛隊の病院医長で、将軍服で国際学会にでてきました。勿論勲章をつけていました。
(リベル) 先生のお説を承って、自信がつきました。これを資料に使っても良いのかな?権威有る、信頼できる論文なのかな?と一抹の不安があったのですが、安心して使います。有り難うございました・・・m(_ _)m (10.02 23:17)


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このホームページは。 投稿者:北風 投稿日:10月 2日(月)17時32分1秒   引用  編集済
「F事件資料集」ではなく「F事件から現代を考える会HP」と呼ぶことを提案します。

先ず「資料集」は、元来、関原弁護士が作った「資料集」の名称です、そしてそれを掲げていますが、これは関原氏の了解を得たものか不明です。「シナリオ」も掲載していますが、こちらも実行委員会から掲載許可を取ったかも不明です。

更に、「匿名座談会」と称して怪しげな議論を展開し、挙句、資料を提供すると称して、恣意的にあっちこっちの資料を勝手にアップし、今度は「匿名」のメールをアップし、実態も目的も責任者も不明です。

実態や目的は、続けている限り必ず明らかになると思いますが、今は推測でしかいえませんし、推測はできるだけ慎みたいとおもいます。

したがって、せいぜい自ら名乗っている「F事件から現代を考える会」ホームページと呼ぶべきで、「F事件資料集」と呼ぶのは「もったいない」気がいたしますが。

いかがでっしゃろか?
http://cluster.web.infoseek.co.jp/Fjiken/index.html



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「F事件から現代を考える会HP」更新↓ 投稿者:リベル 投稿日:10月 2日(月)17時05分38秒   引用  編集済
匿名対談第6回「はじめて療養所訪問、将来構想に関して」 です。


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保護という名の隔離 投稿者:北風 投稿日:10月 2日(月)16時27分50秒   引用
対策が遅れていると感じたのは、どこからでも出入り自由な園の状態です。

(略〕

 どこからでも立ち入ることができる環境では、物見遊山で療養所に立ち入り、興味本位で生活空間、庭、あるいは室内をのぞき込む人が出てくることが考えられます。

 この状態のもとで、仮に「映画」が上映されると、興味本位の見学者が療養所にやってくるでしょ。それは「交流」とは無縁の訪問者です。生活者・入所者にとんでもない迷惑、わざわいをもたらすことになるのは間違いありません。

 同時に、まじめに交流し、学ぼうと訪問する人を歓迎する受け入れ体制を整えることも必要だなあと感じました。いずれにしても、現存の生活者を守る、配慮した対策に不十分さがあると感じました。
http://cluster.web.infoseek.co.jp/Fjiken/index.html



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間違えました 投稿者:Ichiro 投稿日:10月 2日(月)08時16分28秒   引用
園券というのも 私が最初に教えてもらった多磨全生園の ことでしたね。

 Ichiroです。

 九州らい療養所ー九州療養所でした。ということで 所内通用券というべきでしょうか。

 宮古南静園も ここは 公募で そうなったのですが(昭和16年)
 所内通用券には 宮古療養所とありましたね。国立になってからです。
 ところが多磨は1919年ですから、府県立の時代です。
 宮古療養所の券は当時何といっていたか 忘れました。
 蛇足ですが セルロイド(現在はプラスチックというべきか)の券は 宮古療養所と
 現在(?)の中国にあります。
 先進的というべきか。

 恵楓園の名前の方は 当時存在していた 保育園の名前をとって きました。


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余談ですが・・・華佗という人 投稿者:リベル 投稿日:10月 2日(月)02時01分52秒   引用  編集済
ハンセン病の歴史を調べていると、色々面白い人物やエピソードに出会います。

三国志で、曹操の頭痛を治す名医として仕えていた華佗は、有らぬ疑いを受けて殺されてしまいますが、彼の著書(実際には「青嚢書」という本を書いたが、獄吏が焼いてしまって彼の書いた本は一冊も残っていません)に、「信ずべき記述が有る」とカービル研究所のトラウトマンという学者が書いています。華佗は英語で「Hua To」です。

心細い記述が多くて、困ります。「所内通貨」にしろ・・・昔の本を調べていると・・・。つい、出た、愚痴・・・・(笑)

でも、Wikipediaの「関羽」の項に使われている写真が、華佗の手術中の絵であることの発見が、
それも帳消しにしてくれました・・・ヽ(´ー`)ノ

http://www.eonet.ne.jp/~libell/kada-kannu.htm



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言葉遊び Re: 恵楓園に園券の発行なし 投稿者:北風 投稿日:10月 1日(日)15時16分3秒   引用
> 菊池恵楓園に 園内通用銭の発行はなかった。
>

これは、まったく正しい。だって菊池恵楓園になったのは、一九四一年ですもの。
それ以前は九州療養所・・・・。
(リベル) ありゃあ・・・。こんなところで、足をすくわれてしまいました。スッテンコロリです。

確かに、仰有るとおり・・・ええい、「商売柄」とか、又言っておきますか・・・(笑)(10.01 22:45微修正)


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Re: まあ。 投稿者:リベル 投稿日:10月 1日(日)14時21分0秒   引用
> いくつか指摘できるのは、大して必然性のないところに聖書の引用、事件の現場となったS村らしい写真の掲載

同感です。あそこに出てくる何枚もの写真。いずれも、何かその土地の人には一目瞭然のような、もの語りたげな写真です。HPの作者は恐らく得意になっているのではないでしょうか?お前ら何も知らないだろうが、これは実は・・・なあんて・・・


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恵楓園に園券の発行なし 投稿者:Ichiro 投稿日:10月 1日(日)11時44分57秒   引用
リベル様

 早速 反応ありがとうございます。
 若干 疑問が残りますか。森先生は 昔から関心をもたれたようで(実際 自分の勤務されていた所の 貨幣の歴史を経験されている)間違いないと思います。しかし 再度
 菊池恵楓園で 調べる必要があるかもしれません。

 森先生に 先生の著書に、なぜ宮古南静園の園券の記載がないか 質問したことがあります。高松宮記念ハンセン病資料館に実物があるので ご存知ではないかと思ったのです。

 その答えは 自治会に何回問い合わせても返事がなかったといわれました。
 森先生は 現在はお元気でしょうか。お元気なら質問したいこともありますね。

 Ichiro
(リベル) 恵楓園の自治会80年史「壁をこえて」149ページに「1916年、所内通用券(所内通貨)制度廃止」と書いてあるのは動かせない事実です。これは、一体どう考えれば良いのか?その辺りを、先生、お調べ頂ければ、有り難いのです。どうかよろしくお願いします・・・。(10.01 14:26)


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まあ。 投稿者:北風 投稿日:10月 1日(日)11時31分11秒   引用  編集済
自分の言葉で語ると襤褸が出ることに気がついたんでしょうね。

いくつか指摘できるのは、大して必然性のないところに聖書の引用、事件の現場となったS村らしい写真の掲載。

わざわざ、このホームページの為にS村まで写真をとりに行く奇特な人も少ないだろうから、この写真がほんとうにS村とすれば、既にS村の写真をもっている人なんでしょうね。


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「F事件資料集」更新 投稿者:リベル 投稿日:10月 1日(日)07時01分22秒   引用  編集済
匿名対談第5回「見つかった坂本久夫さんの訴え」

日本国民救援会福岡県本部事務局長の坂本久夫氏の「Fさんを救おう」です。


読後感:読んで損したっ!!
    何一つ、得るところが有りません。新しい事実も無し。
    この文章を、ここで取り上げた意味が不明です。


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Re: 『新あつい壁』制作に向けて 投稿者:リベル 投稿日:10月 1日(日)03時00分35秒   引用  編集済
> ずっと藤本事件を語りながら、最後の段落でトーンが変わる。
>
> >現在もあるハンセン病への差別の問題を、私たち一人ひとりの問題として考えていただけるような作品として、この度の映画『新・あつい壁』をつくりたいと思っています。

志村さんもこう仰有っています。

「新・あつい壁については「F事件」としての映画は出来ません、モチーフまでが許される範囲です」と。「志村さんとキャッチボール」

そこへ舞い込んだのが、市民学会からの「お願い」です。夕焼けさんの仰有る通り、甚だしく「落胆させるもの」ではありました。


  愛想をつかしかねをりアキアカネ  戻鈴



困惑気味の表情で背中を丸める老秋茜

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Re:恵楓園に園券の発行なし 投稿者:リベル 投稿日:10月 1日(日)00時01分26秒   引用  編集済
Ichiro先生の飽くなき追求のお陰で、新事実を知ることが出来、少し昔に戻って色々調べてみました。私の記述に間違いが有ると分かったので、「年表 日本のハンセン病」と「園内通貨」の解説に大幅な修正を加えました。厚くお礼申し上げます。

金券は「倶会一処」41頁によると、1919年9月28日から使用を始めたそうです。私は「法治国家つまみぐい」の中の「我が国におけるハンセン氏病をめぐる事実関係」から「1916年菊池恵楓園で「園内通貨の使用が始まる」と信じて、年表と解説を作成したのですが、これが正しいかどうか、疑問に感じてきたのです。

この作者長嶺超輝氏と、森幹郎氏(幸いかねてからメールの交換がありますし)にメールを書いて、その出典を確認しようと思います。

「菊池恵楓園に園券の発行なし」と断定できるかどうか、これにも疑問があります。自治会80年史「壁をこえて」149ページに「1916年、所内通用券(所内通貨)制度廃止」と書いてあるのです。そこからさかのぼって1909年、九州療養所が出来た年まで、「所内通用券」に関する記述もまた全く有りません。「制度廃止」するからには、制度が有ったと思うのですが・・・これは、ひょっとすると闇の中に閉ざされるかも知れませんね・・・。

菊池先生、どうか助けてください・・・(悲鳴)


年表作成当時の資料。1916年に、追加記入の跡が見えます・・・
この土台にさせて貰った年表は「etoileさんの年表」です。


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