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ピンボケの理由

 投稿者:リベル  投稿日:2010年11月 6日(土)01時30分55秒
返信・引用  編集済
  > No.4882[元記事へ]

> 天気の良い日にバス停に座っていると(約20分座っていますが)、北の空高くジェット機が飛んでいくのが見られます。多いときは右の端から左の果てまでに一度に4機 登場しました。「豆粒みたい」という表現が先ず頭に浮かんだのですが、いやもっと小さいぞ、と思うのです。「米粒」いや「胡麻粒」と言うべきかと思いながら、何年か過ぎて昨日遂に辞書を引きました。
>
> 大辞林には「豆粒ほどの機影」という言葉がありますが「米粒のような」とか「胡麻粒ほどの」という用例は見当たりません。いろいろ検索してみても「機影の小ささ」を表現する例は見当たりません。「目指す頂へは、この岩壁の上をひたすら歩いていくんです。この想像を絶するスケール感の中にあっては、人間なんてまるでアリンコ・・・いや、ゴマつぶぐらいにしか見えません!」とか「結局、向こうの姿が米粒大で見えるか?くらいまで距離に差がついてしまいました」と書いている人を見付けて、まあ皆さん苦労なさっているようだと思いましたが。
>
> しかし、子供の頃は「豆粒」で十分小ささを言い表していると素直に感じていたのに、どうして今頃こんな事が気になるのか?そちらの方が不思議で、つい書いてしまいました・・・^^
>
> バス停のベンチで、フト目を上げると見えるのです。いややはり「豆」はデカ過ぎる・・・^^。ピンボケですね。




つらつら考えるにこれはカメラのメカの向上に理由があるようです。奥行きを出そうと思って左の柳を入れたのがいけなかったのです。最近のカメラは「自動焦点」とかの機能で撮影者の意思とは無関係に中央の人物に焦点を当てるとかや・・・^^ どうやらその類の機能が作動して左の柳に自動的に焦点を合わせてしまったようです、それで肝心の機影が文字通り「影」のように暈けてしまった、次の機会には柳を入れないで試します。

人間の不備を補うために備えられた折角の機能が意外な方向に働いてしまいました。生身の人間はつい身近なものに目を奪われて肝心の機影を見失ってしまうものですが、高機能を誇る最新の(?=もう1年も経てば”最新”とは言えないですね)デジカメにもこのようなミステークが有ろうとは・・・^^

流出ビデオの問題でも政府は「犯人探し」に国民の目を引きつけようと企むはずです、この目くらましに気を付けなければ。中国の暴挙が白日の下に曝された以上、国際社会という秩序の中で日本が「国家」として何をなすべきかを、目を皿のようにして見届けねば・・・よも騙されまじ・・・。
 

尖閣列島の出来事に思えらく・・・

 投稿者:リベル  投稿日:2010年11月 5日(金)18時03分22秒
返信・引用  編集済
  下に第一報を投稿しましたが、実は最初の投稿者「sengoku38」(民主党内では「仙石さんや」、「仙石見いや」とか悩んでいるそうですが)は自ら投稿を削除しました。捜査当局から逃れるためか、それとも見つかって強制されたかのどちらかでしょう。下の映像はご覧の様に他の人の投稿です。私は投稿直後「YouTube」を見ていました。午前2時頃だったか続々とコメントの投稿が続いて5000を越えました。朝、「sengoku38」氏は自ら削除したと「YouTubu」には書いてありましたが・・・。

ジャーナリズムでは色々報じられていますが私は問題は二つに絞るべきだと思っています。

(一)これは政府が明らかにしなかったのですが、明らかに中国が悪い!恐らくプロの操船による意図的な攻撃(シカケと言うべきか)です。それを知りながら日本は何故国民や世界に隠したままで船長を中国へ返したのか。いや問題を有耶無耶にしたのか? これは国民に対する大きな背信行為であり、国際社会に対しても真実を秘匿するというとんでもないことをやっていたことになります。今中国を、無闇に刺激することは止めた方が良いという「高度な政治判断」だったのでしょうか。国民には隠しおおせると思っていたからなのでしょう。

(二)このビデオがどこから流出したのか? これを政府関係者は声高に叫びます。勿論これは危機管理に関する大問題ではあります。しかし、私達はこれに惑わされて一番目の問題をおろそかにしてはいけません、これは政府の策略なのですから。上の最も肝要な問題から目を逸らそうという発想です。犯人を突き止めたからと言って何も改善されないのです、国民生活は。

あくまで問題は(一)なのです。「中国との外交関係」を良い形で保つためには、真実を明らかにせず、国民を欺いてでも表面的には穏便に外交関係を維持するべきだという「高度の政治判断」だったのでしょうか? これを「高度」と言うのでしょうか。命がけの海保の人達(一兵卒と昔は言ったのです)の活動を「ゼロ」にするのは昔からの帝国海軍・陸軍・空軍の手法です。

折りから、国会議員の限られた30人だけに映像を公開しました。「一兵卒(私もそうだから許して下さい)」の怒りはここで頂点に達したのではないでしょうか。「sengoku38」というH・Nはそれを巧みに言い表して妙だ、と私は思います。「国家」の有るべき姿を、政府は熟慮すべきだと思います。

ここで一言触れておくべきことが有ります。私は小沢一郎氏招致拒否の問題は某紙の社説などの報じるとおり一つの遁走劇ではありますが、上の問題に比べれば「屁」のようなことだと思っています。国民の眼は真に重要な問題や人物に向けられています。大事なのは、そして案じなければならないのはやはり国の行く末です。そして何が「正義」かと言うことだと思います・・・。


あまり美しいのでチョットあずきさんちから無断で拝借・・・
 

日本の尖閣 海上保安庁5 (YouTubeから)

 投稿者:リベル  投稿日:2010年11月 5日(金)02時05分24秒
返信・引用  編集済
  朝日新聞(2010年11月5日1時34分)から

これは誰が見ても明らかに「閩晋漁5179」が攻撃してきています。中国よ、良く見ろ!!!

 

豆粒ほどの機影

 投稿者:リベル  投稿日:2010年11月 4日(木)17時49分12秒
返信・引用  編集済
  天気の良い日にバス停に座っていると(約20分座っていますが)、北の空高くジェット機が飛んでいくのが見られます。多いときは右の端から左の果てまでに一度に4機 登場しました。「豆粒みたい」という表現が先ず頭に浮かんだのですが、いやもっと小さいぞ、と思うのです。「米粒」いや「胡麻粒」と言うべきかと思いながら、何年か過ぎて昨日遂に辞書を引きました。

大辞林には「豆粒ほどの機影」という言葉がありますが「米粒のような」とか「胡麻粒ほどの」という用例は見当たりません。いろいろ検索してみても「機影の小ささ」を表現する例は見当たりません。「目指す頂へは、この岩壁の上をひたすら歩いていくんです。この想像を絶するスケール感の中にあっては、人間なんてまるでアリンコ・・・いや、ゴマつぶぐらいにしか見えません!」とか「結局、向こうの姿が米粒大で見えるか?くらいまで距離に差がついてしまいました」と書いている人を見付けて、まあ皆さん苦労なさっているようだと思いましたが。

しかし、子供の頃は「豆粒」で十分小ささを言い表していると素直に感じていたのに、どうして今頃こんな事が気になるのか?そちらの方が不思議で、つい書いてしまいました・・・^^

バス停のベンチで、フト目を上げると見えるのです。いややはり「豆」はデカ過ぎる・・・^^。ピンボケですね。
 

続:文明の始まり

 投稿者:リベル  投稿日:2010年11月 4日(木)16時48分24秒
返信・引用  編集済
  昨日「文明の始まり」について書きました。最後に「弥生文明」、「巨石文明」、「インディアン文明」を「最後っ屁」的に書いてまあ50年待ちなはれ・・・と捨て台詞を吐いています。この表現からだけでもお察し頂けるように、いや実は書きっ放しというわけでは決して無く、その後もあれこれ気にはしているのです。

先程それぞれを検索してみました。ごく単純に数だけから見れば「巨石文明」は当然であるかのように頻繁に使われています。ということは、定義が曖昧だと言うことに通じますが。「弥生文明」は大野晋氏「弥生文明と南インド」という本を書いて居られますが、これは日本語のタミル語語源説(内容説明=3000年も前に、遠く離れた南インドの文明が日本に到来、弥生時代という新しい文明の時代を切り開く原動力となった。その見地から、鉄器、墓制、機織等、古代タミルと古代日本の文明面における共通点について比較考察する)を取り上げるという視点が基本にあるので、些かバイアスが感じられて素直には受け入れられません。それ以外にも多少見られますが学問的に正確に「弥生文明」と記したものは見当たりません。「インディアン文明」の方はフィリップ・ジャカン著「アメリカ・インディアン―奪われた大地」(創元社)の第三章に「インディアン文明の崩壊」という言葉が出ていますが、他にはやはり余り見当たりません。

ここでちょっと中断して私が聖書のように過信している(変な言い回しですがこれが正直な気持ち)「世界考古学事典」の「文明」の項を覗いてみます。抜粋しますが「高度の発展段階に達した文化、つまり都市・国家・階級分化・文字をもつような文化をさし(中略)文明の重要な特徴としては、上記の他に直接 食料生産活動に従事しない政治・祭祀・工芸の専門家集団の発生、大宇宙と小宇宙の対応に基づく宇宙論的な世界観、天父地母神話や宇宙卵神話、半陰陽神などの発達した世界起源神話やそれに基づく儀礼などがある。(随分なじみのない言葉を多用する学者ですね、まあ「神話や儀式」と言うことでしょう。フゥーッ!)」

私の定義を繰り返さして下さい。「文明」とは・・・

人類が狩猟採集生活から定住農耕牧畜生活に達し、「向こう三軒両隣」程度が「部族=数百人」に、そして「首長社会=数千人」(「部族社会」、「首長社会」はジャレド・ダイアモンド氏の定義によります)にまで大きくなると、指導者が現れて指揮系統(階層社会)が成立します。こうなると食料の備蓄・再分配が行われ、食料生産に携わらない専門職(土師部・史部・鍛冶部など)が出来て、かなり進んだ 彩色土器を作り、巨石を共同して運び積み上げる作業が可能になります。ここまで到達した社会を私は「文明社会」と称すべきだと思うのです、ここまでの発達で十分だと。些か我田引水を強行しますと「文明の鳥瞰図」を作っていて世界の諸地域での文明に深入りし比較しながら「最大公約数」を模索した結果、こういう結論が言わば「帰納的に」導き出されたのです。昨日取り上げたゴードン・チャイルド(1892〜1957年)はオーストラリア人ですが、「アステカ文明」、「アンデス文明」、「インカ文明」、「マヤ文明」という少し特異な文明を勘考していません。

なので検索した結果を検証するときも、先程ご覧頂いたような取捨選択が発生した訳なのです。この投稿は後から大分見直しを入れて修正すると思いますが、大綱は変わりません。かなり真面目に、歴史学者は「文明」をもっと慎重に細部まで鳥瞰して、帰納的に定義するべきだと、そう思っています。
 

久し振りの「死と乙女」

 投稿者:リベル  投稿日:2010年11月 1日(月)03時55分21秒
返信・引用  編集済
  ご存知シューベルトの「弦楽四重奏曲第14番」です。一時夢中になって「アルバン・ベルク四重奏団」の練習風景などのビデオを繰り返し視聴したものです。今日「YouTube」で見付けて第4楽章まで全部聴きました。お陰様で音楽に対する耳は余り敏感でないので、PCの音源でなんの痛痒も感じませんし、それにオーディオ機器も安上がりで済みます。一時はスピーカーケーブルだけでも音質が違うと聞いて1メートル何千円かのものに変えようかとして、「ガラでもない」と山の神に制御されたこともあったのですが・・・^^

「死と乙女」もしかし年寄り向きの音楽ではないと今は感じます。いわゆる「草食系」になってきたのかなあ・・・

なんて言いながら今視聴し終わりました。米長邦雄似のメンバーが時折チラリと他のメンバーに目をやります、タイミングのためでしょう。最後に四人が華麗にサッと弓を振り上げるところも前と全く変わりませんでした・・・というより昔見ていたのと同じヴァージョンの映像を見ているのだろうと思いますが・・・やはり聞き応えが有った・・・感動しました・・・^^(4:10)


アルバン・ベルク弦楽四重奏団の「死と乙女」(パート6まであります)
 

文明の始まり

 投稿者:リベル  投稿日:2010年10月31日(日)13時01分20秒
返信・引用  編集済
  「文明発祥の地」と言えば・・・私の場合は先ず・・・

●これが定番でした。四大文明(梁啓超の『二十世紀太平洋歌』・1900年江上波夫著「再訂世界史」1952年説もあります。)

中国インドエジプトメソポタミアとされていました。最近まで不勉強にも私はこれを信じてきました。現在の高校の教科書(2009年「世界史B用語集」調べ)では11冊のうち3冊だけがこの用語を用いているようです。

●山川出版社の高校教科書「詳説世界史B」(2008年)ではこう書いています。

ナイル川ティグリス川とユーフラテス川インダス川黄河・長江の各流域に文明が誕生し、またややおくれてアメリカ大陸にも独自に文明が形成された。」

●J.M.ロバーツ著「世界の歴史・「歴史の始まり」と古代文明」(2002年)では・・・

「古代文明の発祥地」として「七つの古代文明」と表わしています。

●青柳正規著「興亡の世界史・人類文明の黎明と暮れ方」(2009年)では・・・

「おもな文明の発祥地」として14の文明を列記しています。これは著者の歴史観や「文明」そのものの捉え方の違いによるものなので、追求はしません。

●中央公論社発行の「世界の歴史」全30巻というのも啓蒙的な世界史の本ですがここでは初期の文明を「人類の起源と古代オリエント」、「中華文明の誕生」、「古代インドの文明と社会」の三冊に分けて扱っており、1冊目で「メソポタミア文明」、「マヤ文明」、「アンデス文明」、「エジプト文明」を2冊目、3冊目でそれぞれ「中国文明」、「インダス文明」を扱っていますが、「世界の歴史・「歴史の始まり」と古代文明」が扱っていた「クレタ文明」には触れて居ません。

以上数冊の歴史啓蒙書(決して専門書的なものではなく)を調べただけでも「文明の発祥地」に定説が有るわけでは無いことはお分かり頂いたと思いますが、それを問題にするつもりはありません。私が問題にしたいのは初期の文明を扱うときの「文明」の基準・定義なのです。一番詳しく取り上げて居るのは「人類の起源と古代オリエント」です。

この本では先ずゴードン・チャイルド(Gordon Childe)の定義を示します。「文明は次のような特徴を持つ」として以下を列挙しています。

@効果的な食料生産、A大きな人口、B職業と階級の分化、C都市、D冶金術、E文字、F記念碑的公共建造物、G合理科学の発達、H支配的な芸術様式

そして大貫良夫他の著者はこう結論を下します・・・

 「では、文明という社会は、そうでない社会とどこがちがうのか。
 大きな人口は効果的な食料生産と、ある種の食料分配の制度があって、これを維持できる。そのような制度のもと、大きな人口は分業体制を持ったり、階層化したりしていて、これら分節化した人口をひとつの大きな社会の体系の中に秩序だてるのが政治のシステムである。そしてその政治のシステムの中には中心的役割を担う個人または機構がある。この中心機構は、行政上の指示を出し、これに従わない者には物理的な力を行使することを含む強制力を持つ。この強制力が公権力である。(中略)
 一般に文明と呼ばれる社会とはこのような特長を備えている。そしてそのもっとも特徴的な点はいま述べた政治のシステムであり、そのような政治システムを国家というのである。したがって文明とは国家という政治システムを持つ社会のことである。」

私はフムフムと読んでいたのですが、「国家」と断定的に表現することには抵抗を覚えます。「黄河文明」や「インダス文明」はどうなるのでしょう。それぞれ「集落」や「都市=モヘンジョ・ダロ、ハラッパー」止まりだと思います。メソポタミア文明はウルやウルク(人口約46000人)という「王国」にまで拡大しましたが。

いずれにしてもジャレド・ダイアモンドのいう「部族社会」(数百人規模)止まりではなく、「首長社会」(数千人規模)にまで拡大し「富の再分配」や「政治システム」を実現した社会であれば、「国家」(5万人以上)にまで達していなくても「文明社会」と呼ぶべきだろうと私は考えます。これが私の「文明」の定義であり捉え方なのです。上のゴードン・チャイルドの定義を借りればCまでで条件を満たすことになります。アンデス文明やインカ文明には文字は有りませんでした。

ここまでは私としては比較的冷静な論理展開をして来たと思うのですが、これから例によって異常に大胆な仮説や発言が飛び出します。曰く・・・

彩色土器」や「巨石記念物」を作る事が出来る集団は「文明社会」である。したがって日本の弥生時代の人々や西ヨーロッパのケルト人達北アメリカ大陸のいくつかのインディアン部族は「文明社会」とみなすべきである。

「弥生文化」ではなく「弥生文明」。「巨石文化」ではなく「巨石文明」。北アメリカには紀元前後から「インディアン文明」が有った。最後のはアメリカの人達が涙を出して喜びそうな話ですが、私は本気でそういう確信に達しました。


如何でしたか? 寝言を言うのもいい加減にしろ!ですね。しかし50年後、これらの仮説のうちのどれかが現実になっている可能性は・・・「無い」とは誰にも言えないのです、日夜考古学者による遺跡の発掘が続く限り・・・^^(15:23脱稿)
 

鳥瞰図って・・・

 投稿者:リベル  投稿日:2010年10月30日(土)14時33分1秒
返信・引用  編集済
  軽井沢の鳥瞰図吉田初三郎



文明の鳥瞰図



これが昨日の不可解な投稿の所以なのです。実は「鳥瞰図」の良い画像を探していたら「清明上河図」にぶつかったというわけでした。つまり本当の意味での「鳥瞰図」と比べて見たかった、いや比べてお見せしたかったのです。大抵の鳥瞰図にはご覧の様に「立て札」が立っています。私の「文明の鳥瞰図」にも「JavaScript」による「立て札」が林立していますでしょ・・・(ほくそ笑み)
 

清明上河図

 投稿者:リベル  投稿日:2010年10月30日(土)02時45分59秒
返信・引用  編集済
  こんな長い絵巻物をアップするのも初めてで、ご迷惑かも知れませんがそこのところはまあ・・・

ウィキペディアを丸写ししますと・・・

「清明上河図(せいめいじょうがず)とは、中国の宋代の都・開封の都城内外の殷賑の様を描いた画巻である。張択端の作品とされ、北宋末期の翰林待詔であり、画家としても著名であった。
清明の時節の、都の東京開封府(開封のことです)の内外の人士が行楽して繁栄する様子を描いている。季節は、春たけなわであり、その絵画的な精細描写の価値とともに、
当時の市街図や風俗図として、極めて資料的価値も高いものである。」

だそうです。


この図は下の図から「中」、「下」、「上」の順に抜き取って並べてあります。


これは上の英語サイト「Along the River During the Qingming Festival」から頂戴してきました。


中国語のWikipedia(维基百科)を見ると北京故宫博物院藏の「原本全図」(クリックすると凄いのが現れます^^)が有って、この長いのは臺北故宮博物院藏の「仿本、仿=似る、真似る」だと書いてあります。
良く見るとこれはシチュエーションは同じなのですが、細部がまるで異なっています。大橋の部分をアップして見て下さい、仿本(漢和辞典でも検索でも読み方が分かりません。
どなたかお教え下さい!)の方は橋の両側に屋台が並んでいるのです。似ているけれどまるで違う絵ですよね。
英語のWikipediaには「原本」が12世紀の作品で、「仿本」は18世紀の「remake」だと書いてありました、ということは日本のウィキペディアは正確ではないことが判明しました、
だって最初に「清院本=remake」の写真を持ってきているのですから・・・ま、どうでも良いけど・・・^^

なんか「remake」の方が美しいようにも思えるのですが・・・、いずれにしろどちらも超大作ですね・・・。

色んなものが有るものです・・・(^o^)お口アングリ!!!
 

Re: 生物の分類はどのようになされているか?

 投稿者:Ichiro  投稿日:2010年10月29日(金)10時16分4秒
返信・引用
  > No.4874[元記事へ]

リベルさんへのお返事。

 すみません。ボノボはこれにはありませんね。
 
    (リベル) Ichiroさんいらっしゃいませ。

おお、感激します、そこまで読んで下さったかと。そうです以前Ichiroさんがこの件で「ボノボ」に触れて居られたのは覚えていましたよ。

折角だからそこまで読んでくださるなら、「一覧表」のページの次の表「現生霊長類の分類T」を良くご覧頂きたかった、そこの「類人猿」のところに記されています。「霊長類の進化図」では「ボノボが略されている」と注に書いています。また一番下の「現生類人猿とヒトの系統関係と推定される分岐年代」の図にもしっかり出ていますからご安心下さい・・・。

こういう分類は学説が入り乱れていてこれが絶対だという図表が無いので、納得できるまで色々並べなければならないのが、実は一苦労なのです・・・^^

そうそうこういう場合はページの一番上の検索窓に「ボノボ」と入れて検索してみてください。画像以外の記述は出てきますから探せますよ、お試し下さい・・・(10.29 11:38)
 

生物の分類はどのようになされているか?

 投稿者:リベル  投稿日:2010年10月29日(金)04時02分42秒
返信・引用  編集済
  少し真面目っぽいタイトルになっています。このタイトルで昨日書いたことを一覧表にしてみました。これで下の系統図も少しは理解しやすくなってきました。ただ二番目の表には「ヒト族」というのが出てきます。調べてみると一般には余り使われないようですがウィキペディアにも書いてあります。英語では「族=tribe」と「属=genus」となっています。この辺の分類は学者によっても様々なようなので、バッサリと大まかに考えておきたいと思います。


Wikipediaから(参考:hylobate=テナガザル、pongo=オランウータン、pan=チンパンジー です。)


「人類進化大全」から
 

「人名歴史年表」のアクセスが・・・!!!

 投稿者:リベル  投稿日:2010年10月28日(木)03時53分32秒
返信・引用  編集済
  何と一夜にして88万も増えてしまいました。なあに何と言うことはないのです。これまではトップページへのアクセスのみをカウントしていたのですが、最近は「日中韓対照年表」「歴史資料室」「中国歴史地図庫」「縮尺:人類史年表」「文明の鳥瞰図」「人類進化の歴史」などへの直行が全アクセスの半分以上になって来たので、これはアクセスを反映しなくなってくるからという尤もらしい理屈(?)を付けて、多い数の方を表示することにしました。まあその方が賑やかで結構ではあります。勿論「全ページTatal」というエクスキューズに実数の表へのリンクを付けて正確を期してはおります・・・^^  

人間は哺乳類か霊長類か?

 投稿者:リベル  投稿日:2010年10月28日(木)03時15分40秒
返信・引用  編集済
  バカなことを言うとまあ仰有るかも知れませんが聞いて下さい。実はこんなページを作っていたのです。最初の「現生類人猿と人類の進化系統図」は約2000万年前のプロコンスルという類人猿から「ホモ・サピエンス」という私達までの間にどういう進化があったのか、そしてチンパンジーオランウータンと私達の関係(分岐点)はどうであったかを教えてくれます。

その下の表へ行くと「霊長類」の分類が二種類有ります。これを見比べていて分かり難いなあと首を傾げました。私達も猿も「哺乳類」であることは知っています、がその下の方の「真猿類」というのも私達の先輩だし一体この「」というのはどういう使われ方をしているのか、訳が分からない、とまた詮索癖が頭を擡げて来ました。「動物の分類」いや「生物の分類」ってどうなっているのか、その基本的な知識が有りません、というか忘れてしまっています。高校で生物を習ったのですが教科書は無くなってしまって、数年前に講談社のブルーバックス「新しい高校生物の教科書」というのを買っていたのを引っ張り出して読みました。

生物の発生から、「原核生物」、「真核生物」の分類にさしかかってそういえば、とこのページを思い出しました。35億年前に「原核生物」が出現して「真核生物」、「多細胞生物」と来て「哺乳類」、「霊長類」が現れるのが約6500年前、ということは分かりました。ここに親切に付いている(誰が書いたのかな?)「」を読めば一応理解できる仕組みにはなっています。

しかし決定的に不親切なのは「動物の分類」です。こういう分類は整然と行われていて「」だとか「」だとか「」とかが有るはずです(参考サイト)。そこのところをウィキペデイアがハッキリさせてくれました。生物の分類はこういう順になされます。

生物→ドメイン→界→門→綱→目→科→属→種

結論を急ぎます。生物界「生物」の中での人間「現生人類=ヒト」はここに位置しています。(10月30日訂正)

ドメイン:真核生物(他に「真正細菌」と「古細菌」)
界 :    動物界(諸説がありますが「動物界」、「植物界」、「菌界」が分かり易いですね)
門 :    脊索動物門 (以下興味がある方はこちらへどうぞ)
亜門 :   脊椎動物亜門(厳密にはこの下位に「顎口上綱」がある)
綱 :    哺乳綱(哺乳類)(厳密にはこの下位に「真獣亜綱」、「正獣下綱」、「真主齧上目」がある)
目 :    霊長目(サル目)(霊長類)
亜目 :    真猿亜目
下目 :    狭鼻下目
上科 :    ヒト上科(Hominoidea)
科 :    ヒト科 (Hominidae)
亜科 :    ヒト亜科 (Homininae)
属 :    ヒト属 (Homo)
種:    ホモ・サピエンス(ヒト)(H. sapiens)

ちなみに「ヒト属」には下の「」が有ります。(参考

●ホモ・ハビリス (H. habilis)
●ホモ・ルドルフエンシス (H. rudolfensis)
●ホモ・エルガステル (H. ergaster)
ホモ・エレクトス (H. erectus)
  ●ホモ・エレクトス・エレクトス(ジャワ原人) (H. e. erectus)
  ●ホモ・エレクトス・ペキネンシス(北京原人)(H. e. pekinensis)
  ●ホモ・マウリタニクス(ホモ・エレクトス・マウリタニクス)(H. mauritanicus)
  ●ホモ・エレクトス・ユァンモウエンシス (元謀原人) (H. e. yuanmouensis)
●ホモ・アンテセッサー H. antecessor)
●ホモ・ハイデルベルゲンシス(ハイデルベルグ人)(H. heidelbergensis)
●ホモ・ローデシエンシス (H. rhodesiensis)
●ホモ・ケプラネンシス (H. cepranensis)
●ホモ・ゲオルギクス(ドマニシ原人)(H. georgicus)
●ホモ・ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)(H. neanderthalensis)
●ホモ・フローレシエンシス(フローレス人)(H. floresiensis)
ホモ・サピエンス(ヒト)(H. sapiens)
注:「クロマニヨン人」は「ホモ・サピエンス」です

これで良く分かりました。生物の分類に「」という項目は無いのです。かなり便宜的用法なのに、当たり前のように使われていたのです。「哺乳類」は正しくは「哺乳綱」、「霊長類」は正しくは「霊長目」だったのですね。人間は生物学的には「哺乳綱」の中の「霊長目」に属しているのです。めでたしめでたし・・・ですがこの表は冒頭の表の下あたりに挿入しておかなければいけません!


丸山茂徳他著「生命と地球の歴史」から。「ドメイン」と「(動物、植物、菌類)」の概念が捉えやすい図です。
 

恐れ入りました、鳩山さん・・・

 投稿者:リベル  投稿日:2010年10月25日(月)13時14分54秒
返信・引用  編集済
  今日の各紙が一斉に報じていますが、鳩山さんがやはり辞めるの止しましたと仰有っているそうです。このフニャフニャした言辞は既に普天間問題でも国民は存分に耳にしましたので今更驚くことは無いのですが、人間的な嫌悪感を誘われるのには参ってしまいます。

「綸言汗の如し」とか「武士に二言はない」などと昔から教えられてきました。そうそう「嘘つきは泥棒の始まり」なんてのも叩き込まれた言葉です。まあ鳩山さんは天子でも君子でも武士でもない、ただの「ええしのぼんぼん」ですからそれでよいのでしょうけれど、子供達に与える影響を考えるとゾツとします。「総理大臣やった人だって舌の根も乾かないうちに前言を翻すんだから、僕だってあたしだって翻して良いでしょ!」なんて気分がジワジワと子供の心に住み着いていくのですよ。何をやっても良いでしょうけど他の人や子供達に悪い影響を与えることはどうか自粛して頂きたいですね。

もし憎悪を募らせても構わないよというお方はこちらをどうぞ・・・(>_<)


話は違いますがこちらは何か良いムードで・・・今年はヒョッとしたら口に入るかも・・・♪♪♪
 

辻井伸行 ショパンへの旅路

 投稿者:リベル  投稿日:2010年10月24日(日)02時50分42秒
返信・引用  編集済
  昨日この番組を視ていました。地中海のマヨルカ海岸の崖の上に辻井さんが立って海を眺めます。おふくろさんが付き添っていて空の色、海が青いこと、少し波が立っていることなどを話します。
恐らく聴覚・嗅覚・触覚(風が当たりますから)だけでは分からない部分を選んで、経験を踏まえた独特の選択で補助をなさるのだろうなあと耳を欹てていました。

そうすると一瞬辻井さん自身になった錯覚を感じました。風の音波の音海鳥の鳴き声潮の香風の感触、それを補うおふくろさんの短い言葉

ああ辻井さんは今幸せだろうな」そう感じさせる映像を提供してくれたNHKに感謝・・・。


マヨルカの海
 

日本人がパセリを食べない理由

 投稿者:リベル  投稿日:2010年10月24日(日)02時21分46秒
返信・引用  編集済
  かく申す私自身が洋食などの付け合わせのパセリを食べるようになったのは50歳台のしかも後半だったような気がします。或る同僚が食堂で飯を食っている時だったかに「カレーライスの福神漬け」、「刺身の妻」、「寿司のガリ」、「ステーキのクレソン」などの「付け合わせ」というのは実は栄養学的にしっかりした根拠があるものであって、単なるお飾りではないんだから必ず食べるべきだというようなことを、至極説得力のある口調で説きました。どういう訳か以後彼の言うとおり実践しています。田舎の法事などでは疑わしいなあと思う品も有ったのですが。というわけで私はパセリを食べます、あれはあれで食べ始めると一種美味ではありますし。

先日テレビで日本人はパセリを食べない習慣があるみたいなことを言っているのを耳にしました。私が長年そうでしたし、学食でも社員食堂でも皿の返却の時大抵パセリも「返却」している光景を目にしていたのでそうだなあ、でも何故なのかなあと考え込みました。そして実はその理由を発見したのです。

答えは「はらん(葉蘭)」のせいです。今はほとんどがプラスティックの人造バランでこれはスーパーの食品売り場の花形のようなものですが、本来は植物であるのはご存知の通りで、私の生家のお向かいが寿司屋さんだったので板前さんが実に見事な模様を出刃を巧みに使って切り出すのを飽かずに眺めていたものです。この「はらん」は暦とした植物だったのですが食べられませんでした。昔は寿司や刺身に限らず和食には「間仕切り」や「飾り」・「彩り」として良く使われていました。

日本に「洋食」が登場し、パセリが洋食に添えられて出てきた時、当時の日本人はこれも飾りであって食べるのは恥ずかしいと、そう思ったのではないでしょうか。子供の頃年に一二度「洋食」を食べに連れて行って貰ったとき、「そんなものは食べるものじゃありません、行儀が悪い!」と貴方も叱られたのを思い出されたのではありませんか? そうですそのトラウマが長じて知識を得て以後も、あなたをパセリから遠ざけているのです・・・すべては「はらん」が巻き起こした「波瀾」なんてオチはつけません・・・^^


昔はここの常連で・・・嘘に決まってます・・・^^。「はらん」は本物ですが。
 

続:一つの大きな邪推

 投稿者:リベル  投稿日:2010年10月23日(土)02時18分38秒
返信・引用  編集済
  まず2週間ほど前にこのようなことを書きました。昨日の朝日新聞の夕刊はこう報じています。

『 大坪弘道・前大阪地検特捜部長の弁護団が22日の記者会見で読み上げた前部長の談話の内容は次の通り。

 特捜部長在任中、(厚生労働省元局長で無罪判決が確定した)村木(厚子さん)事件の捜査終結後、(証拠隠滅罪で起訴された)前田(恒彦)元主任検事がひそかに証拠品のフロッピーディスクのデータを改ざんするという、にわかに信じがたい事件を起こしました。これにより、検察捜査への信頼を大きく失墜させるとともに、多数の関係者に多大なご迷惑をおかけしたことにつきまして心からおわび申し上げ、監督者としての責任を痛感しております。

 前田元検事によるデータ改ざんは、今でも魔が差したとしか考えられません。私の厳しさと彼への期待が彼を追い込んだとしたら、申し訳ない気持ちであります。

 前田元検事の改ざん事件に端を発し、佐賀元明・元特捜部副部長とともに逮捕されましたが、事件の対応については、私たちには一片の私心もなかったことを明確に申し上げたいと考えております。

 検事任官以来、日夜努力を傾注し、長じては検察組織のため、いささかなりとも貢献し得たとのささやかな自負を持っております。このような形で検察を去ることになり、誠に残念です。』


私は私の「邪推」が「邪推」ではなかったのではないかとの気持ちを強くしはじめています。仮にも特捜部長といえば百戦錬磨の検察のベテランであることは間違い有りません。犯罪を追求する立場も追求される立場も十二分に弁えたプロフェショナルであることは誰もが認めるところでしょう。私が先ず腑に落ちないのはその彼等が、酸いも甘いも知り尽くした彼等が、依然として否認を貫いていることなのです。司法試験の難関をくぐり、公務員の世界でそして法曹の世界で幾多の荒波を掻い潜ってきた人物が、これだけ嘘を吐き続けるでしょうか? 「男らしくない」とか「潔くない」というような倫理観を持ち合わせておいででないとは、どうしても思えないのです。まして、嘘は、不正は必ず暴かれるということを身を以て知り尽くしておられる二人です。

私はこの二人は「故意の改竄」を本当に知らなかったのではないかと思っています。もしそうだとした場合二つのシナリオが必然的に組み上がります。

(一)「村木冤罪」の二の舞です。検察(いや、ややこしいですから最高検と言いましょうか)はまたもや罪のない二人を罪人に仕立てようとしている。破綻は火を見るより明らかです。

(二)最高検(或いは検事総長)は二人の無実を知っている。ある程度まで推移を見守った上で「誤認逮捕」を認めて謝罪する。そうすれば「検察」による「組織的犯罪」はやはり存在しなかったということが判明し、晴れて検察の公明正大さが世間に示され、かくて「検察」の権威は守られた。

こうなります。第二のシナリオこそが私の「一つの大きな邪推」なのです。検事総長も菅首相も極秘裏に承知の上で進められているシナリオです。しかしこれが日本の国民にとって最も幸せな結論なのでしょう。さ、あれかし!!!


しかしこの裏金問題はダメです。これは謝罪もなく揉み消されようとしている「検察の闇」です・・・。
 

続:ホームページの大移動終了

 投稿者:リベル  投稿日:2010年10月21日(木)12時27分15秒
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  実は・・・実はお恥ずかしいのですが「インフォシーク」正確には「インフォシーク・iswebライト」の「広告非表示版」を使っていました、年間3,150円。それが突如中止になって「インフォシーク・iswebベーシック」年間6,300円に乗り換えなければいけなくなった、それで怒っていたのですが、ややこしいのでどうでも良い話はもうお読み頂かなくても結構ですが・・・続けます。「広告非表示版」の料金は来年の9月まで支払い済みなのです。さあどうしてくれる!!!と開き直ろうとしたら、まあ良く読まなければいけなかったのです。そういう人は、その契約の終了までは「iswebベーシック」が利用できるとのことでした。というわけで「人類歴史年表」と「人名歴史年表」は当面「三本立て」興行と相成りました。下に記した以外にこれこれが加わります。なあに見た目は何も変わりません、URLが違うだけです、あ、「ジオシティーズ」は広告が入りますね・・・(>_<)

日付けの更新は3サイトやらなければなりません。痛し痒し・・・とでもいうのでしょうか???
 

改訂:ホームページの大移動終了

 投稿者:リベル  投稿日:2010年10月19日(火)07時35分43秒
返信・引用  編集済
  私の運営しているホームページの主なもの三つを大移動しました。10月16日にここに書きましたが、「インフォシーク」が勝手にサービスを中止しました。悪質なのは長い間一年に3,150円取って「広告非表示」にしてきた我々に、更に倍の金額のものに乗り換えろと強要してきたことです。これが楽天の商法なのでしょうか?全く腹が立ったのでこちらから願い下げにいたしました。冗談もホドホドにしないといけません。

「人類歴史年表」はこちらへ・・・。
「人名歴史年表」はこちらへ・・・。
「ハンセン病のリンク集」はこちらへ・・・。

と移動しました。「ジオシティーズ」を選んだのは前にも書いたとおり、こちとらが死のうが生きようが淡々と流し続ける、そんな気がするのでまあ保険のようなものです。勝手に変更致しましてご迷惑をおかけする向きが少々発生するかも知れません、どうかお許しくださるようお願い致します。

なお細部に関しては修繕を要する箇所が全ページに有りますので、取り敢えずはトップページだけは治しましたが残る200ページばかりはコツコツと作業して参ります・・・なかなかどうして「旅支度」もそう簡単ではありませんでした・・・(>_<)


改訂点:「人類歴史年表」と「人類歴史年表」は来年の9月6日まで現状維持が可能と判明しましたので、二本立てとします。なおこの二つは夫婦とも死にそうになった時「eonet」から「geocities」に移行します。(以上10月23日04:33)
 

『これからの「正義」の話をしよう』をお奨めする理由

 投稿者:リベル  投稿日:2010年10月18日(月)01時45分12秒
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  ようやく第2章を読み終わりました。そうですようやくなのです、トイレの中だけで読むからではなく、私にはこういう理論的な書き物は取っつきにくくてなかなかスイスイと先へ進まないからなのです。ベンサムとジョン・スチュアート・ミルの「功利主義」について第2章は取り上げて居ました。同じ所を何度も読み返してようやく意味が良く分かるようになってきました、翻訳者の癖にも慣れてきたこともあるのでしょうか。

政治哲学者が書いていると思うからいけないんだと気付き初めても来ました。ベンサムの説はこうで、反論が二つ出てきて、ミルがそれに対してこう妥協案を提示して、というような学問的な段取りを丁寧に追いかけるのがいけません。以下のようなところは良く分かるのです。ここでは快楽にも「上質な快楽」と「下劣な快楽」が有ることを説いています。以下はどうぞ「トイレの神様」を聴きながら気楽にお読みくださいませ・・・

その前に私がここで「下劣な快楽」と、本には出て来ない表現を使った理由を一つ。私は若い頃から「下劣な快楽」と知りつつそれらの快楽に耽りました。「それら」の中味はご想像に任せるとして、「下劣」を避けて「上質」を選ぼうと努力する「不満足なソクラテス」連中を私は私の中で「キザ」とか「自分に正直でない野郎」と決めつけて排斥してきました。今この本を読んで反省しきりでございます。では本題へどうぞ・・・

「われわれは、プラトンを読んだりオペラに行ったりするよりは、ソファにくつろいでテレビのホームコメディを見る方を好むことがないだろうか。そしてこうした気楽な行動を大した価値はないと思いつつ選んでしまうこともあるのではないだろうか。」

とか・・・

「ミルはきわめて優秀な人でも「ときには、誘惑に負けて」質の高い快楽より質の低い快楽を優先させてしまうことがあるのを認めている。誰でもときには、長椅子に横になってスナックでも食べながらテレビを見ていたいという欲望に屈してしまうものだ。だからと言ってレンブラントとテレビの再放送番組の違いがわからないということではない。ミルはこの点を印象的な一節で強調している。「満足した(満ち足りた)であるより不満足な(満ち足りた思いではない)人間であるほうがよく、満足した愚か者であるより不満足なソクラテスであるほうがよい。そして、愚か者や豚の意見がこれと異なるなら、それは彼らがこの問題について自分自身の側しか知らないからだ(レンブラントの良さを考えようともしないからだ)。」
 ミルのこうした言葉には説得力がある。そこで表明されているのは、人間の高い能力が持つ基準への信頼である。しかし、こうした基準に頼ることにより、ミルは(本来の)功利主義の前提から逸脱している。何が高貴で何が卑しいかを判断する唯一の基準は、もはや現実の欲求ではない(ベンサムは願望や欲求が基準だと言うのですが)。いまやその基準は、われわれの願望や欲求とは無関係な人間の尊厳という理念から引き出されているのだ。質の高い快楽は、われわれがそれを好むから質が高いのではない。われわれがそれを好むのは、より質が高いと認識するからである。われわれが「ハムレット」を偉大な芸術と判断するのは、質の低い娯楽よりも「ハムレット」のほうが好きだからではなく、この作品がわれわれの最高の能力に訴え、われわれをより豊かな人間にしてくれるからなのだ。
 個人の権利についても、事情は質の高い快楽と同じことだ。ミルは、あらゆるものを快楽と苦痛による大雑把な計算に還元してしまうという(ベンサムに対する)非難から功利主義を救っている。だがそれには、効用そのものとは無関係な人間の尊厳や人格という道徳的理念に訴えるしかなかったのだ。」(以上太字や括弧内は転記者によります)

そうなのです「なんだ、なんてことはないじゃねえか。当たり前のことを言ってるだけなんだ」ということなのです。「あんまり漫画ばかり読んでないで、さ、勉強勉強!」というおばあちゃんの教えのことを言っているだけなのです。ただそれは人間の中のどういう部分のどういう働きが、おばあちゃんにそう言わせるのかということを、分かり易く分析してくれている、そういう本なのです。「正義」というのはおばあちゃんの教えであることは間違いない。翻訳者(か編集者)が何故「これからの正義(原題は”Justice-What's the Right Thing to Do ?"なのですが)・・・」という題名にしたか? それは現代の日本の若者が余りにも親やおばあちゃんの言うことをまともに聞き入れなくなったからではないかと私は思っています。これからは少し考え直しなさいよと。おそらく考えすぎでしょうけど・・・。私の言いたいのはこの本は「新しい正義」の概念を定義しようとしているのかな、という誤解を招く題名だけれどそうではありませんよということです。

それはさておきこの本がここで言っているのは・・・嫌な仕事を避けたりしないでコツコツと日々の勤めに励むことが自分を磨くことになるのです、だから「それ、おトイレを綺麗にしてきなさい」という・・・はい、つまりは「トイレの神様」なのですね・・・♪
不満足なソクラテス」というのは「トイレにいる女神様」のことかな・・・違うのにそう思えてくるのはなぜなんだろう・・・。
やっぱり泣いてしまいました・・・^^
 

プロ棋士対コンピューター

 投稿者:リベル  投稿日:2010年10月17日(日)11時05分49秒
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  天声人語(朝日新聞2010年10月13日)から転記します。

 阿伽羅(あから)とは10の224乗のことで、とんでもない数らしい。「あから2010」というコンピューター将棋ソフトが、大きい名に恥じず、女流王将の清水市代さん(41)に勝った。コンピューターがプロを退けたのは初めてという▼敗者として科学史に名を刻むリスクを承知で、清水さんは受けて立った。まずはその勇気をたたえたい。敵は情報処理学会が手塩にかけた最強システムである。さすがの第一人者も持ち時間を使い切り、秒読みに追われてミスが出たらしい▼創立50年の記念事業を快挙で飾り、学会は大喜びだ。まさに阿伽羅ほどもある将棋の局面から、一流どころの棋譜を徹底的に覚え込ませたという。詰めに入って相手のうっかりを見逃すはずもない▼しかも、コンピューター将棋の世界選手権で鳴らした四つのプログラムが、各自の考えを多数決にかける合議型。清水さんは、手ごわい4人組と戦ったに等しい。将棋ソフトの進化を目の当たりにして、偶然も幸運もない理詰めの世界を実感した▼日本将棋連盟は、プロが公の場で許可なくソフトと対戦することを禁じている。だが、トップ級の勇気がソフトを磨き、強いソフトが棋士を鍛える。この競い合いに愛好者も酔うのだから、連盟は「頂上決戦」をためらうことはない▼秒読みに焦り、長時間の対局に疲れ、練達の士も過ちを犯す。ファンはそうした人間味を含めての名勝負に期待する。いわば敵陣の東大工学部で、清水さんは白い着物で機械を相手にした。その指し姿は、勝敗を超えて十分に美しかった。

今NHKのテレビ棋戦を視ていて数日前のこの記事を思い出しました。これも久し振りに読ませて呉れました。

ご存知のように朝日新聞は一時将棋の「名人戦」を独占掲載する契約を日本将棋連盟と結んでいました。後に毎日新聞にその権利を奪われましたが現在は共同契約の形で両紙が掲載しているのです。そういうわけで将棋についての関心は人ごとでなく強いわけですが、今回の天声人語の記事は少し裏を読まなければならないな、と、私は思っているのです、少し憤りを交えながら…。

何故憤りなのか?清水市代さんに打たせるからです。これは日本将棋連盟が逃げやがったなと直感しました。男の一流棋士を起ててこれがコンピューターに負けると、それこそ沽券に関わるからです。そういう無様なことを取り敢えず避けて様子を見ようと清水さんをスケープゴートにした、ケシカラン、卑劣です、男らしくない、やり方が・・・。

その間の事情を熟知している朝日新聞なのですが連盟との関係を悪くしては、又名人戦があちらへ行ってしまいかねない。案の定人間が負けてしまいました。天人は連盟に成り代わって清水さんにお詫びを言っているのではないかと、私は邪推してしまいます。勿論そのあたりを全て承知の助でお引き受けになった清水女流王将には心からの賛辞を呈するものですが・・・^^

「第15期倉敷藤花戦」挑戦者決定戦から(2007年9月28日)
 

井上順さん

 投稿者:リベル  投稿日:2010年10月17日(日)01時00分43秒
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  「ごきげんよう」という番組を良く視聴き(みきき)します。というのは大体番組の半分のあたりで立ち上がって散歩に出るからです、散歩中はイヤフォーンで聴くので、だから「視聴きします」なのですが。数日前井上さんが話しました。今7人家族だ、と。独身の筈なのですが。なあに彼お得意の表現でこれはいわゆる「つかみ」です。飾ってある福助人形は「ふくちゃん」と言う名の家族、縫いぐるみは「ジャッキー」とか(この辺は良く聴いていなかったのでいい加減ですが)・・・ゴムの木が二本あって右のは「ミミ」左のは「メアリ」・・・つまらない話をしていると思ったら・・・「壁にあり障子に目あり」ってね、と。思わず爆笑しました、いつもこの人には一杯食わされます・・・(笑)


おとぼけの順さん♪♪♪
 

(無題)

 投稿者:エリカ  投稿日:2010年10月16日(土)13時29分6秒
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  >されど息も絶え絶え2006年の5月に購入しているのでもう寿命なのでしょうか、いや先日メーカーに電話相談(2000円取られましたが)した時にサポーターの口ぶりに「ん?そんなに古い製品か」というニュアンスが感じられたので実は憤っております・・・^^

わたしは2002年の12月にパソコンを購入し、今年2010年の7月に買い換えました。買い換えるまで、いろいろトラブルがあり、ウイルスに感染したり、1回修理に出しました。はなしは変わりますが。

リベルさんは棺桶に片足とか、あの世に行くとか自分のことを年寄り扱いしてられますが、お年は75歳くらいでしょうか。まだまだ若い。笑

>生は六十歳から・・・

七十歳にしてお迎えが来たら「留守だ!」と言え

八十歳にしてお迎えが来たら「まだ早い!」と言え

九十歳にしてお迎えが来たら「さよう急(せ)かずともよい!」と言え

百歳にしてお迎えが来たら「よい折りを見てこちらからボツボツ出掛けて行く!」と言え

わたしはあまり長生きしたくないので

70歳でお迎えがきたら、「はい、すぐ行きます!」
80歳でお迎えがきたら、「待ってました!」
90歳でお迎えがきたら、「やっときた。!」
100歳でお迎えがきたら、「まちくたびれたよ」

わたしは思うのですが、人は自分で命を延ばすことも縮めることもできないと思うんです。
自ら命を絶つ(自殺)する人もいますが、助かってしまう場合もあります。
たしか生まれるに時があり、死ぬに時があるという言葉があったと思います。

仏教の教えでは死んだら、三途の川を渡るときに六文銭がいるのでしょうか。
わたしのお父さんがこんなことを言ったのを覚えています。
「金は大切にせなアカン。死んでも金がいるんや」と
 
    (リベル) エリカさんこんにちは。

面白いお話しを興味深く拝読しました。

>わたしは思うのですが、人は自分で命を延ばすことも縮めることもできないと思うんです。

私は悲観、楽観どちらの主義者でもないのですが、でも何でしょう妙に思い込んでいるのは、心の持ちようで命の長さを調節できるのではということです。出来るだけ前向きに明るく生きると長生きできるのではないかと・・・。

>「金は大切にせなアカン。死んでも金がいるんや」と

そんなことを言わないで下さい。私は死ぬことが出来なくなってしまいます・・・(笑)(10.16 17:08)
 

旅支度

 投稿者:リベル  投稿日:2010年10月16日(土)03時25分12秒
返信・引用  編集済
  そろそろ私も支度を始めなければなりません、はい「死出の旅路」のです。私が去って連れ合いもその後去ると現在のプロヴァイダとの契約が切れます。そうすると必然的にそれに伴ってサイトが消滅します。一番長持ちしそうなのはどうやらYahoo!の「ジオシティーズ」ではなかろうかと見極めを付けました。この判断が間違っているとお気付きの方は何卒お教え下さい、宜しくお願いします。

「人類歴史年表」「人名歴史年表」「ハンセン病のリンク集」をそれぞれクリックしていただくと新しいサイトが出ます。現在同じサイトが二つのプロヴァイダから見られるということです、ダブって存在を続けます。前の二つはトップページのリンク先を変更して置かなければなりませんが、それは簡単な作業で済みます。

お気付きかも知れませんが、今回ジオシティーズからスペースを得るために新しいIDを申請しました、「HistorySuburb」です。「歴史の近郊」というような気持ちで作りました。自分はあくまで歴史の専門家ではありませんし、そうなろうと思っても今から大学で勉強は無理です。と言うより自分の立場は「歴史」そのものを研究するのではないのです。「歴史」の読み方、見方を工夫しようとしているのです。市街地の真ん中ではなく外から、近郊から「歴史」を眺めて見ようとしているのです。まあそういう意味からこう名乗っています、とても謙虚な姿勢なのです・・・どうかな・・・(^^;)

さあ後は遺言を書けば、はいいつでもOK という案配です。ここで思い出しました、現役時代にメモ帳に書き留めていた面白いものを紹介させていただきます。メモ帳には「高野山普門院の高僧」としていましたが、今検索してみるとどうやら日本最初の禅寺聖福寺の住職で絵もよくした仙厓和尚(1750〜1837年)の言らしいです・・・

人生は六十歳から・・・

七十歳にしてお迎えが来たら「留守だ!」と言え

八十歳にしてお迎えが来たら「まだ早い!」と言え

九十歳にしてお迎えが来たら「さよう急(せ)かずともよい!」と言え

百歳にしてお迎えが来たら「よい折りを見てこちらからボツボツ出掛けて行く!」と言え


実際には87才で亡くなっていますからチョット目算が外れたようですが、でも当時としてはご長命だったのでしょう。私なんぞは、「まだまだ早い・・・」のですね・・・^^


仙厓和尚の円相図。(参考)解説にこう書かれています。「筆のかすれを気にとめることもなく、円相が一筆で描かれている。禅宗では、円相は悟りの境地や宇宙観を表すものである。しかし、仙厓はそれを餅に見立て、そんなものは茶菓子にして食べてしまえと言うのである。「世人くふ」、仙厓の禅の精神が表れたものと言えよう。画賛「れくふて 茶のむされ 左筆」」
 

これからの「正義」の話をしよう

 投稿者:リベル  投稿日:2010年10月15日(金)02時33分10秒
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  10日の夕方でしたっけ、寝る前にPCに向かっていたらマイケル・サンデル氏の声がしました。「ハーバード白熱教室 in Japan」をやっていました。前に番組を観たときは進行の物珍しさに目を奪われて話の内容が把握しにくかったのですが「二角取り」というゲームの画面に目をやって聴いていると(勿論英語の所は別にして)話がとても良く飲み込めて・・・。話は違いますが連れ合いが「ナンパラ」というパズル雑誌の懸賞に応募していて2000円の図書券に当選、私に呉れました、で400円ほど足して書店で遂に垂涎の標題の本を買ってしまったというわけです。

案の定面白いです。アメリカ・インディアンの歴史はしばらく置いて、読み始めました。何を語るのかを先ず説明しているところに注目しました。もちろん「正義」について語るのに決まっているのですがそのアプローチには三つの方法があると言います。「幸福の最大化」、「自由の尊重」、「美徳の涵養」の三つだと。

先ず「最大多数の最大幸福」が正義なのだという考え方、次に「幸福」は保証されてもそれは「自由な状態」の中で得られたものでなければならない、そしてもう一つは「不道徳」なものは正義とは言えない。無理矢理簡単に言えばこういう事です。これから一冊を費やしてそれを論じようとしているのですから、こんな行き届かない説明でご勘弁願うしか有りません、何とぞお許しの上言いたいことをお汲み取り下さい。

具体的な例を挙げて説明してくれますから、とても分かり易いのは放送をお聞きになった方はご存知の通りです。ゴムボートで漂流している四人の話があります。一人我慢できなくて海水を飲んだため身体を壊してしまって息も絶え絶えとなった。食料も水も底をついた。本人を除く多数決で、殺してカリバニズムということになり、ギリギリで救助されたという実例があります。一人を犠牲にして三人が生き延びるのだから「最大多数の最大幸福」で「正義」であると言って良いのか?自分が生きるために人を殺すという「道徳上の問題」はどうなる?・・・とまあこんな風に考えさせ、何が真の「正義」かを探ろう、知ろうとするのです。本当だなあ、議論が発生するのは当然な問題です。そんなとき下の記事が目にとまりました・・・

朝日新聞2010年10月13日夕刊から二つの記事です。

中国共産党の引退幹部ら、「言論の自由」求め公開書簡

【北京=古谷浩一】中国共産党の引退幹部ら23人が、中国の憲法が定める「言論の自由」などが政府や党によって否定されているとして、その自由化を求める公開書簡を12日までにインターネット上に発表した。服役中の人権活動家、劉暁波(リウ・シアオポー)氏のノーベル平和賞の受賞決定を受けての行動とみられる。

 23人は故・毛沢東主席の元秘書で党組織部副部長だった李鋭氏や、共産党機関紙の人民日報元社長の胡績偉氏ら。書簡の文書は中国の複数のネット上で転載されたが、すでに当局の指示によるとみられる削除も始まっている。

 書簡は、中国の国会に当たる全国人民代表大会(全人代)あてに、憲法35条は言論や出版、集会、結社などの自由を定めているのにもかかわらず、党や政府の細則によって、これが否定されているとし、「世界民主主義の歴史上の醜聞だ」と強く批判。そのうえで、記者の取材や報道の自由、党中央宣伝部の検閲の廃止、ネット上の言論封鎖や監視の廃止などを求めた。

中国、ノルウェーに次々「制裁」 ミュージカルも中止

【ロンドン=伊東和貴】ノーベル平和賞が中国の人権活動家、劉暁波(リウ・シアオポー)氏に決まったことを巡って、中国がノルウェーへの「制裁」措置を次々と繰り出している。訪中したノルウェーの閣僚と中国政府高官の会合を取りやめたのに続き、12日には、北京で来月催されるノルウェー人歌手のミュージカルを中止に追い込んだ。制裁が文化交流にまで発展した形だ。

 このミュージカルは「ある晴れた夜」と題し、ウェブサイトによると、肺の難病を抱えたノルウェー人マラソンランナーと足の不自由な中国人男性の友情を描いている。実話に基づく物語で2005年にも中国で上演され、今年は11月1、2日に北京で予定されていた。ノルウェーの著名な歌手に加え、中国のオーケストラやダンサーも演じることになっていた。

 ミュージカルの作曲者は「中止は(劉氏への)平和賞に対する罰で、ノルウェー人は中国で演じてはいけないと(中国当局に)言われた」とロイター通信に語った。

 平和賞を選考するノルウェーのノーベル賞委員会は政府から独立した存在。ノルウェー側は、その事実を何度も強調してきた。

 しかし、中国政府はここにきて、ノルウェー政府の複数の高官が劉氏の授賞を祝福する発言をしたことも問題視。ノルウェーのバルグハンセン漁業・沿岸問題相と、漁業と食の安全を担当する2次官との間で13日に予定されていた会談をいずれも中止にした。


先日は尖閣列島の問題で幼児性を遺憾なく発揮した中国ですが、またやっています。これは倫理観の問題だと先日私は言いました。儒教発祥の国が何を考えてんだか?と。でもそうですね倫理観とか幼児性の観点の他に、上に書いたことも視野に入れなければいけないと気付きました。中国の方程式は「幸福の最大化」、「自由の尊重」いずれのアプローチからも「正義」からほど遠いのだなあということが、明確に浮き彫りにされてきます。

上の最初の記事は自浄作用の予兆と言えるでしょうし、国際世論に鈍感な国でも無いようですから、まあ「悪ガキ」と見做して唾棄しておきましょう。正義は必ず実現されると信じて・・・^^


こちらは未だ直っていません・・・
 

PCの若返り

 投稿者:リベル  投稿日:2010年10月13日(水)17時27分17秒
返信・引用
  前に書いたことがありますがPCがダウン寸前で、いやそれには違いなく「リカヴァリ」はもう一刻も早くやらなければならない状態ではあるのですが、でもどういう訳か色々な機能が蘇ってきているのです。先ず「スキャナ」はキャノンに電話して簡単に回復。次にOCRの「読取革命」これは「スタート・メニュー」の「読取革命」のアイコンが真っ白になったままなのですがクリックしたら正常に使えて、OK。年賀状制作のソフト「筆ぐるめ」も電話して数分で解決。最後に「PDF」、これはインストールしても「インストールに失敗しました」というメッセージが出るのですが「エイッ!」とばかりにトライしたらなんとチャント起動するではありませんか。久し振りにPDFの画面を目にして実は涙目になってしまいました。

されど息も絶え絶え2006年の5月に購入しているのでもう寿命なのでしょうか、いや先日メーカーに電話相談(2000円取られましたが)した時にサポーターの口ぶりに「ん?そんなに古い製品か」というニュアンスが感じられたので実は憤っております・・・^^

されど・・・PCもいや「若返る」という言葉とは縁遠いのが現実なので御座います、はい・・・(^^;)
 

You make me want to be a better man.

 投稿者:リベル  投稿日:2010年10月12日(火)06時55分26秒
返信・引用  編集済
  映画「恋愛小説家」の話(10月11日)を修正しましたのでどうぞ↓。面白いです♪♪♪  

Re: 棺桶に入った話

 投稿者:Ichiro  投稿日:2010年10月11日(月)15時06分19秒
返信・引用
  > No.4850[元記事へ]

リベルさんへのお返事。

  面白い話有難うございました。
 小生は一時沖縄にいたので、戦時中は、大きな沖縄の墓地に、米軍の攻撃を避けてはいる話はたくさん聞きました。もっともそこも危ないので、宮古島では昔の風葬の跡に入り込む話も聞きました。頭蓋骨などがあるので、戦後は大きな碑を作って、骨などをまとめていました。碑というのが観音像でした。宮古島では、そういう風習はないのですが、本土の人が募金して作っていました。

 Ichiro
 
    (管理人) Ichiroさんこんばんは。

風葬といえば、先史時代のインディアンの化石が無いのは彼等の風習として、亡骸は岩の上に晒したからという説もあるようですね・・・。(10.11 17:53)
 

棺桶に入った話

 投稿者:リベル  投稿日:2010年10月11日(月)13時36分54秒
返信・引用  編集済
  小学5年生の時私は後醍醐天皇の籠城で有名な笠置山の麓の笠置小学校へ通っていました。当時住んでいた福知山は実は京都からの集団疎開で旅館や学校が満室状態だったのですが、近くに軍港舞鶴や川崎航空機の工場が有ったので考えすぎた父が徹底的に空襲の無さそうな笠置へ疎開させたのです。

悪ガキだった私は物干し竿で遠くから蜂の巣をつついたのに、賢いアシナガバチに竿伝いに逆襲され頭のてっぺんを刺されて泣きながら帰ったりしていました。そんな或る日近所の竹藪へ奥深く入り込んでいて、落とし穴にストンと落っこちました。尻餅をついた状態で目を上げると向き合って誰か座っているのです。苔や土をかぶっているので最初は良く分からなかったのですがそうなんです、骸骨が座っていました。私は声も上げられずひたすら這い出して必死で走りました。這々の体で叔母の家に逃げ込んで息を切らしながら報告すると、なんとそこは放置されてしまった昔の墓地だったのですね。土葬された座棺の蓋を踏み破ったのでしょう、土地の人は誰も足を踏み入れるわけがありませんから、余所者の私が藪から棒に永眠中の安息を攪乱したことになります。

インディアンの文化を読み漁っていて土葬の風習の箇所でフト思い出してしまいました、長い間忘れようとしていたのか、思い出さなかったのに。やはりお迎えが近いせいかもしれません。棺桶に片足突っ込んでいるという私ですが、思えば一度キッチリ入ったことがあったのですね。いやあの方には済まなかった、驚かせてしまって。もうこの時代には無縁仏としてちゃんと墓石を建てておもらいでしょう・・・南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・。


紀元前6世紀頃のエトルリアの石棺(「配偶者のサルコファガス」)です。こんなのに入るのも粋ですね、そうでもないか・・・^^
 

映画「恋愛小説家」・You make me want to be a better man.

 投稿者:リベル  投稿日:2010年10月11日(月)07時28分58秒
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  もう一度DVDを観て「字幕」でなく「吹き替え」の日本語訳を追加する予定です。エラク気に入ってしまってアマゾンに申し込んでしまいました。二度観たのですが、いやずっと前に一度観ていたので正確には三度目なのですが、主演の二人ジャック・ニコルソンとヘレン・ハントがオスカーをダブル受賞という演技も勿論、話の奥行きが予想以上に深くて遂に1645円投入♪♪♪

Melvin Udall: I've got a really great compliment for you, and it's true.
Carol Connelly: I'm so afraid you're about to say something awful.
Melvin Udall: Don't be pessimistic, it's not your style. Okay, here I go: Clearly, a mistake. I've got this, what - ailment? My doctor, a shrink that I used to go to all the time, he says that in fifty or sixty percent of the cases, a pill really helps. I *hate* pills, very dangerous thing, pills. Hate. I'm using the word "hate" here, about pills. Hate. My compliment is, that night when you came over and told me that you would never... well, you were there, you know what you said. Well, my compliment to you is, the next morning, I started taking the pills.
Carol Connelly: I don't quite get how that's a compliment for me.
Melvin Udall: You make me want to be a better man.
Carol Connelly: ...That's maybe the best compliment of my life.
Melvin Udall: Well, maybe I overshot a little, because I was aiming at just enough to keep you from walking out.

吹き替えのセリフ
メルヴィン:それじゃあ君のために心を込めた最高の褒め言葉を進呈しよう・・・
キャロル:また非道いこと言われそうで恐ろしいわ。
メルヴィン:悲観的なことを言うなよ、君らしくないぞ・・・。よし、じゃあ行くよ・・・これは言うべきじゃないけど・・・私にはまあなんて言うか持病がある。いつも話を聞いて貰っている精神分析の医者がいるんだけど、彼が言うには50%から60%の人は薬で治るそうなんだが・・・。薬が嫌いでね、薬ってのは危険でねえ大嫌いだ。私は薬にしか嫌いという言葉は使わないことにしているくらいでね。で、褒め言葉なんだけど、この前の晩うちへ来て君は言っただろう、私とは絶対に・・・ああ、それは良い、正直な気持ちを言ったんだからかまわないんだ。 で、何故君を褒めたいかというと、あの次の日の朝から私は薬を飲み始めたんだ。
キャロル:それが何故私を褒めることになるわけ?
メルヴィン:お陰で、ましになろうと思うようになった・・・。
・・・ここでのヘレン・ハントの表情の変化が凄い、これぞアカデミー賞級の演技!!!・・・
キャロル:たぶんそれ今までで最高の褒め言葉だわ・・・。
メルヴィン:ちょっと褒めすぎだったかな、なんせ君に出て行かれると大変だと思って必死だったから・・・。

見せ場の一つをご紹介しましたが、とても紙面では伝えられない名場面でした。後にもう一つの山場が有るのですがそれは是非ご覧になってお確かめ下さい・・・^^

この映画の原題は「AS GOOD AS IT GETS」という難しいものですが、ググると皆さんお悩みの模様で、解説が豊富です^^。


このシーンです。
 

Re: 日本は多神教なのですか?

 投稿者:リベル  投稿日:2010年10月 9日(土)00時38分40秒
返信・引用  編集済
  > No.4847[元記事へ]

>  お早うございます。Wikipedia(正しいかどうかわからないが)によりますと、
>  >多神教は、的要素の強い日本の神道(ただし汎神教とされる場合もある)、中国の道教、インドのヒンドゥー教などが現存する代表例である。(リベル注:「的要素」は「民族的要素」の誤植かと思います)

このご投稿を頂いて反省しました。「道教」や「ヒンズー教」が多神教だというウィキペディアの説明を読んで一瞬自分は間違っていたのではと思ったのです。「道教」や「ヒンズー教」をよく知らないので困るのですが、これらが複数の「神」を信仰する宗教だと聞いて驚いたのです。

反省したのは「日本人は多神教である」という表現です。これは良く耳にする言葉ですが厳密には勿論正しくはありません。「日本人は多神教を信じている」というのが文法的には正しいのでしょう、ですが私の言う間違いはその意味ではありません。「道教」や「ヒンズー教」は「複数の神を崇め信ずる宗教」すなわち「多神教」なのでしょう。

しかし「日本人は多神教である」という表現で私達が表しているのは実際は「日本人は神道や仏教やキリスト教などいろいろな宗教を信仰している」という内容なのです。これをハッキリさせておかないと、話は進められないと思います。ということでまたまた悪い癖が出て調べました。少し長いですが「世界大百科事典」は山折哲雄氏の執筆ですから、お付き合い下さい。

多神教

大辞林:多数の神々を崇拝する宗教。未開社会・古代社会で広くみられる。 → 一神教

新明解:複数の神を信仰の対象とする宗教。⇔一神教

世界大百科事典

複数の神々を同時に崇拝する宗教をいい,一神教と対比される。万物に精霊が宿るとするアニミズムも一種の多神教といえるが,一般には,自然現象の人格化や人間生活の投影によってさまざまな個性や形姿を付与された神々に対する信仰をいう。一神教が砂漠の宗教であるのに対して多神教は農耕社会に多くみられ,配偶神や親子神のように地上的・現世的な性格を多分にもっている。日本の記紀神話にあらわれる八百万神 (やおよろずのかみ)の世界も多神教の一種であるが,その神々は古代ギリシアの宗教やインドのヒンドゥー教における多神教とは異なって肉体的な特徴や個性をもたず,目にみえない存在であった。

また日本の神話には世界を創造する造化の神や自然神が登場するが,その多くは祖先神 (または氏神) であって,山や森などのある特定の場所に鎮 (しず) まり,個性や機能を強くは主張しない存在とされてきた。だがその神々も,のちに仏教の影響をうけて具象的な姿で表現されるようになり,個性的な機能神や流行神が生みだされた。 ⇒一神教

ついでに「一神教」は次のように書いてあります・・・

『原始宗教と高等宗教の別なく,一神をたてて崇拝する宗教をいう。一神教の神は太陽のような自然神の場合もあるが,一般的には抽象的で男性原理を有する神とされ,全知全能にして万物の創造主と考えられた。たとえばユダヤ教ヤハウェ神を,キリスト教〈父なる神〉を,イスラム教アッラー神をたてて崇拝しているのがそれである。一神教は一般に神と人間のあいだの断絶を強調するが,それは一神教の起源が砂漠に関係があることによるとされている。自然的景観の荒涼たる砂漠では,地上から超絶する天上の神が祈願の対象とされたからである。

この砂漠の一神教は農耕社会に基盤を有する多神教と対比されるが,しかし歴史的には農耕文化との接触によって偶像崇拝や多神教的な要素をとり入れていった。たとえばカトリック教会やギリシア正教会がそうである。なお日本では,近世以降流入したキリスト教の信徒 は,多神教的風土の厚い壁にはばまれて,人口の 1 %を超えることがなかった。』


以上チョット引っかかりながら一昨日書いたので、定義を明確に復習しておきました。大辞林、新明解はサラリと書いていて私の悩みには答えてくれません。山折氏の説明では「万物に精霊が宿るとするアニミズム」も「八百万神」も多神教と称してもよろしかろうとしておられます。

これで明解になりました。やはり「日本人は多神教である」という表現はバツなのですね。「多神教」は正確には「複数の神々を同時に崇拝する宗教」なのです。なので「日本人は神道や仏教やキリスト教などなどいろいろな宗教を信仰している」こととは全く意味が違います。これを私は曖昧なままで使っていました、それを反省した次第です、反省終わり・・・^^

なおIchiroさんの書いて居られる「他の宗教の存在に対する寛容性」の話は反語的に表現すれば「自分の信仰に対する絶対性」の問題ですから、ちょっとテーマがずれると思うので触れませんでした。考えさせられるご投稿を頂いたことに感謝致します・・・。
 

Re: 日本は多神教なのですか?

 投稿者:Ichiro  投稿日:2010年10月 8日(金)06時35分44秒
返信・引用
  > No.4846[元記事へ]

リベルさんへのお返事。

 お早うございます。Wikipedia(正しいかどうかわからないが)によりますと、
 >多神教は、的要素の強い日本の神道(ただし汎神教とされる場合もある)、中国の道教、インドのヒンドゥー教などが現存する代表例である。

 小生は多神教かどうかより、他の宗教の存在に対する寛容性があるかどうかが問題ではないかと思います。

 Ichiro
 

日本は多神教なのですか?

 投稿者:リベル  投稿日:2010年10月 7日(木)01時23分53秒
返信・引用  編集済
  二カ月ほど前にこんなことを書いています。昨日の朝日新聞の夕刊から池澤夏樹氏の一文を下に紹介しました。「文明の鳥瞰図」なんてものを作っていて色々と学ぶことが多いのですが、例えば「世界の宗教分布図」一つをとってもイスラム教やユダヤ教の分布の多さに驚かされます。(蛇足:この地図では中国が「儒教・道教・仏教の混交」とされていますがこれはいい加減な分類だと断定出来ます。中国に宗教は有るのでしょうか?またこの国に儒教思想のカケラでも残っているのでしょうか?)

池澤さんはチママンダ・アディーチェという作家と話していて、恐らく食事をしていたのでしょうか、談たまたま海鮮料理・肉料理から多神教とアニミズムの話になったそうです。日本の宗教について説明するのがとても難しかったと言っておられる。中国の宗教同様だろうとお察ししました。

そして延喜式の「六月晦大祓祝詞(みなづきつごもりのおおはらえののりと)」やアイヌの神々のことを思い出し「こういう世界観で運営されていた時代の心の平安ということを考え…個人の魂の救済とはまた別のことだ。」と考えたのです。

そして結論としてヨーロッパのキリスト教・イスラム教・ユダヤ教などの一神教の「一にして全なる神に祈る人々が科学技術を発展させ、自然に対する支配力を強化し、今見るような驕りの姿勢を導いた。」と断定し、「エコロジーの背後にはアニミズムがある。あるいは、あるべきだ。一にして全なる神を信じる人々も個々の被造物の中に、それをあらしめている神の意思を認めなければならない。今、我々は支配力を駆使して支配者の地位から降りなければならない。」と・・・。

日本人、それも古いタイプの日本人である私は全く同感であり、とても素直に溜飲を下げました。「日本人は多神教である」と一纏めにしておしまいになる向きも多い中で、「そうかなあ???」と首を傾げながらも、結論を捻り出せなかった私に池澤アニミズム教が一条の光を与えて下さいました・・・(笑)。

冗談はさておいて、この一文は立派に一つの「論」をなしていると思います。「日本人の宗教」というものを考える場合にも、「キリスト教文明と資本主義の発達」を論ずる際にも取り入れるべき示唆を含んでいます、大胆な問題提起だとも言えるでしょう。

私は関西で昨日の夕刊で読んだのですが、関東地区では5日掲載だったようで、或るキリスト教者は、これは「論ではなくエッセイだ、議論に緻密さが欲しい」とするこのような反論を早速書いて居られるので、ご参考までに・・・。誠に不思議なのはこの「反論」が全く不快感を招かない点です、優れたキリスト教者なのかなあ・・・?


朝日新聞(2010年10月6日夕刊から)
 

大航海時代から植民地政策の拡大まで

 投稿者:リベル  投稿日:2010年10月 5日(火)14時59分28秒
返信・引用  編集済
  日本も「大東亜共栄圏」などと息巻いていたのを子供心に覚えています。「文明の鳥瞰図」の中で(さてどこでしょう?)、1492年のコロンブスの到着から世界の植民地政策がどのように進んでいったかを地図で追えるようにしてみました。よくよく見るとなかなか面白いのですこれが・・・♪♪♪

右下をクリックしていって下さい・・・
 

Re: 一つの大きな「邪推」

 投稿者:Ichiro  投稿日:2010年10月 5日(火)11時45分8秒
返信・引用  編集済
  > No.4842[元記事へ]

リベルさんへのお返事。

 私の邪推。
 小沢さんも血祭りに上げ、検察の権威を高めよう?

 Ichiro

 ●後から記載します。平均年齢31歳の素人が裁判すべきというのと、95%?は有罪と考えれるのを裁判すべき?というのと、どうも整合性がないような気がする。私はハンセン病裁判に関連して、宮古島にきた裁判関係の人たちと話したことがあるが、その人たちは患者とは話さなかった。
 
    (管理人) Ichiroさんいらっしゃいませ。

チョット違うかな?検察が不起訴にしてしまったのを、検察審査会が血祭りに上げたのですから・・・^^ (10.5 14:50)
 

Re: 一つの大きな「邪推」

 投稿者:あずき  投稿日:2010年10月 5日(火)11時04分35秒
返信・引用
  > No.4842[元記事へ]

> 映画の見過ぎかな・・・^^

わたくしはあの検事たちは立派な推理小説作家になった方がいいのでは?と思ったくらいです。手持ちの資料なら、作家よりも膨大に持っているだろうとさえ思いました。その犠牲者が女性だったということも、許しがたいことでした。
 
    (管理人) あずきさんいらっしゃいませ。

そうなのです。実は私はあの村木さんというお方にはエラク感動したのです。耐えられない屈辱と怒りに満ち満ちた日々だったに違いないのに、恨みがましく検察を責め立てるということを絶対になさらなかった。ただ検察の描いたシナリオに「流されそうになる自分が怖かった」としか仰有いませんでした。

これには誠に、誠に心服致しました。男でも大抵の人間には真似の出来ないことだろうと・・・凄い人物ですね!!!(10.5 14:44)
 

一つの大きな「邪推」

 投稿者:リベル  投稿日:2010年10月 5日(火)03時07分43秒
返信・引用  編集済
  昨日の読売新聞は「フロッピーディスク改ざんに関連する犯人隠避事件で、主任検事・前田容疑者が最高検の調べに対し、「改ざんを過失とするシナリオは、部長の発案だった」と供述していることが分かった。」と書いています。この前田容疑者の供述を受けて前部長・大坪容疑者と前副部長・佐賀容疑者は共にこれを否定し、前田容疑者からは「過失による改ざん」だと報告を受けたと言い張っています。

「言った言わない」の話で録音テープなどの証拠は一切無いのでしょう。他の検事が何らかの情報を抱いているかも知れないのでその発掘が待たれますがどうでしょう。

私の「邪推」は前部長と前副部長は恐らく主張を貫き通すのではないか?そしてそれは検事総長も承知の上の検察全体の意志であり、場合によっては菅首相も了解を与えているのではないか、というものです。検察を守り国民に動揺や不安感を与えない為の国家的陰謀であって、これは必要悪なのではないかというとんでもないものなのです。国が国民の利益のために行う詐術です。大阪特捜部の検察官達が組織として「改ざんを揉み消そうとした」となると検察に対する信頼は根こそぎすっ飛び、日本の国民は今後検察を疑い続けなければならなくなる、それでは検察だけでなく国民も不幸です。それを防ぐために大芝居を打つとすれば・・・(-_-;)


映画の見過ぎかな・・・^^
 

謹告

 投稿者:リベル  投稿日:2010年10月 4日(月)13時30分20秒
返信・引用  編集済
  突然ですがこのBBSへの「ハンセン病のリンク集」からのリンクは遮断しました。理由はお察しの通り10月2日の「大分県」に関する投稿によるものです。これはいけないと思いました。私はずいぶん前から市民学会も退会し、ホームページも歴史面の追加と日時の更新に止めてきましたが、今後はその更新も止めることにしました。なので以後ハンセン病関係のご投稿に関しては、お答えできませんのでお控え下さい。先程私の気持ちをお酌み取り頂けない広永貴子様からの投稿を頂きましたが、削除させて頂きました(この節は18:21投稿です)。もう私はあの世へ行ったとお思い下さい、いやもうさほど遠からず黙っていてもそうなりますので・・・(^^)

過去ログが残っている分だけでも2005年の1月1日からですから5年以上皆様のお世話になったことになります。ご厚情を深く深く感謝致しております。みなさま本当に有り難う御座いました・・・m(_ _)m


 

10月2日の・・・

 投稿者:リベル  投稿日:2010年10月 4日(月)12時29分11秒
返信・引用
  中央5紙 社説集です。  

仏紙ルモンドが社説で中国を論評

 投稿者:リベル  投稿日:2010年10月 3日(日)02時12分7秒
返信・引用  編集済
  昨日、中国の倫理観の欠如を取り上げました。連日の報道に接する度に私はこの問題は国際世論が裁決を下すだろうと期待を続けていました。アメリカの本心は不明ですからそちらの方は一切当てには致しませんが。やはりこんな声が上がり始めました・・・(2日付:共同通信)

周辺国が中国の強硬姿勢に不安 仏紙ルモンドが社説で論評

 『【パリ共同】2日付のフランス紙ルモンドは、1面の社説で「中国近海に地政学的な暴風雨警報」と題し、沖縄県・尖閣諸島付近での漁船衝突事件をめぐって中国が見せた強硬姿勢にアジアの周辺各国が大きな懸念を抱いていると論評した。

 同紙は、日本側に拘束された船長の身柄を取り戻すため「(本来は)外交的な方法で解決を目指すべきところだが、中国は自らの力を試す道を選んだ」と指摘。高官交流停止や交流イベント中止など中国側が示した姿勢は「強烈なナショナリズムにより、隣国を威嚇することさえいとわない、粗暴で不安を感じさせる素顔を暴露する結果になった」と論じた。

 中国の強硬姿勢は、同国と領土問題を抱えるベトナム、フィリピン、マレーシア、ブルネイなどの各国に大きな恐怖を与えているとした上で「予測される結論」として「この地域の多くの国が(自国の安全の)保障のため、米国への戦略的な接近を望むだろう」と指摘した。』


民主党の枝野幸男幹事長代理は中国を「悪しき隣人」と呼んで非難していますが、私はなあに放って置けば良い、その内に倫理観による(かどうかはともかく)自浄作用が働いて温和しくなるだろうと高を括っています。
 

大分県庁のハンセン病患者差別事件

 投稿者:広永貴子  投稿日:2010年10月 2日(土)17時23分53秒
返信・引用  編集済
  大分県職員の間で、ハンセン病患者に対する差別事件がありました。

大分県水産研究部長や人事課人事班の職員たちが、ハンセン病を患う職員を差別し、休職さ
せていた事件について、情報公開請求した人たちから情報が入りました。

これは、大分県大分県職員健康管理審議会委員である産業医の職権乱用による悪質な差別行
為が関わっていました。大分県職員健康管理審議会委員精神科部会の3人の産業医が、ハン
セン病患者を一律に人格障害と診断し、休職させていました。2009年7月17日の大分
県職員健康管理審議会での事件でした。


http://www.pref.oita.jp/uploaded/attachment/101867.pdf

これは、産業医と大分県幹部たちの組織ぐるみによる悪質な差別事件です。

大分県総務部人事課 健康支援班 TEL 097-506-2338 に対して抗議する必要があります。
 
    (管理人) 広永貴子様ようこそいらっしゃいませ。

拝読しました。貴重な情報を有り難う御座いました。

現在私は「ハンセン病のリンク集」を運営してはおりますが、実質上は「歴史関係の追補」と「日時の更新」を行うのみなのです。

ご承知の通りハンセン病に関する実働的な作業は一切行っておりません。そういうわけで私自身はこの事件の事実関係の追求や抗議行動は一切致しません、その点は悪しからずご了承下さい。(10.3 01:39)
 

父の名は・・・

 投稿者:リベル  投稿日:2010年10月 2日(土)03時48分16秒
返信・引用  編集済
  昔、「君の名は」という映画がありましたがそれをもじって変なタイトルを付けました。私の父の名は大槻弘道と申します。おやどこかで・・・とお思いになると思います、そうです大坪弘道と言う文字が最近新聞やテレビで頻りに報じられているのです。「キ」と「ボ」が違うだけです、父は田舎弁護士でしたからまあ人間の「キ・ボ」も違ったのでしょうけれど。

しかし大坪弘道・前特捜部長、佐賀元明・前副部長の二人はこれはいけません。朝日新聞の社説が一番強い言葉を使っています、曰く「想像を絶する事態」、曰く「言語道断の事件」と。読売新聞も「組織の抜本改革を進める必要がある」と強い口調ですが・・・しかし私は思います組織云々の話ではなく、「絶対に有ってはならない事が起こってしまった」という論調が欲しいと。検察が証拠を捏造してはこの世は終わりです。

地球がひっくり返っても絶対にやってはならない事って誰にでも有るではないですか。たとえ命にかかわろうともそれだけは出来ない、とか。つまり人間の倫理観の問題です。盗み、殺しや人様の信頼を裏切る、そう言うことは絶対にどうしても出来ない、そう言う人間にたいていの人は育てられて来ています。

各新聞やジャーナリズムに欠落しているのはこの部分の言及や掘り下げだと、私は不満なのです。前田主任検事から「故意に改竄した」と告白を受けたとき、前部長と前副部長は悩んだに違い有りません。そのまま上司に報告しようとして、ここで逡巡した・・・待てよそれが唯一の道なのだがしかし、これだけの大問題だ、これをやると「監督不十分」でどんなお咎めが来るか恐らくは左遷間違い無しだぞ。しからばここでちょいと正義に背を向けるか・・・魔が差した瞬間だったのではないでしょうか?

これはだから「倫理観」の問題でしょう。倫理観の欠如でしょう。「絶対にやってはいけない」が「出世」・「老後」に負けたのではないでしょうか。自分のことになりますが、会社員生活の中で幾つもの不正を見聞きしました。先輩・同僚・後輩達の。しかし私はやらなかった。気が弱くて出来なかっただけではなく、どうしてもそれだけは出来ないという一線を守り通しました。思えば大槻弘道のふるった鞭の賜だったのかも知れません。出世できなかったことの言い訳もしているわけですが・・・。

ジャーナリズムよ・・・儒教発祥の地・中国の倫理観の欠如、検察官の倫理観の欠如、親のそして子の倫理観の欠如、それをもっと取り上げて人類浄化の風を巻き起こしてくれ・・・。

私も倫理観を取り戻して弟を許す、ように努力いたしますから・・・(>_<)
 

「文明の鳥瞰図」であって「文明の歴史・鳥瞰図」ではない!!!

 投稿者:リベル  投稿日:2010年10月 2日(土)01時35分28秒
返信・引用  編集済
  「文明の歴史」って何だ? 変な言葉では無いか?

良く考えれば、いやあまり考えないでも、むしろその方が「変だ!」と何だか突然そんな風に思えてきました。もちろん普通に使う「文明」という言葉の意味をよくよく味わうと「文明」には「発生」や「滅亡」や「発展」や「衰退」や「消長」や「変遷」は有っても「歴史」は無いのではないか?そんな疑問が湧いてきたのです。

メソポタミア文明」や「黄河文明」には「発生」や「滅亡」や「発展」や「衰退」や「消長」や「変遷」は有っても「歴史」は無い、「黄河文明の歴史」なんて言わないでしょう。なにか「文明の歴史・鳥瞰図」と命名してからウズウズとこだわりが消えませんでした。いやハッキリ書いておかないと誤解を招いてはいけないので書きますが、「鳥瞰図」というのはあずきさんから頂戴したもので、これは正にピッタリとあの図面を言い表しているから良いのです。これ以上適切な言葉は無いと感謝しています。問題は「文明の流れ・鳥瞰図」にするか「文明の歩み・鳥瞰図」にするか、そんな迷いから「文明の歴史・鳥瞰図」に踏み切ったのです。なんとなく学問的というかチョット格好良く立派なものに見えるような気がしたのです。

例によって屁理屈による理論武装を試みましょうか。

●大辞林:
@ 文字をもち,交通網が発達し,都市化がすすみ,国家的政治体制のもとで経済状態・技術水準などが高度化した文化をさす。
A 人知がもたらした技術的・物質的所産。

●広辞苑:
@文教が進んで人知の明らかなこと。(蛇足:これでは何のことだか中学生にはいや私にも分からないのです。だから広辞苑は嫌いなのです)
A(civilization)都市化。(ア)生産手段の発達によって生活水準が上がり、人権意識と機会均等などの原則が認められている社会(蛇足:今の中国は文明社会ではないのです)、すなわち近代社会の状態。(イ)宗教・道徳・学芸などの精神的所産としての狭義の文化に対し、人間の外的活動による技術的・物質的所産(随分大胆な区分けだと思います)。

●新明解:
農耕・牧畜によって生産したものをおもな食糧とし、種種の専門職に従事する人びとが集まって形成する都市を中心に整然と組織された社会の状態。〔通常、狭義の文化=精神文化を伴う。狭義では、そのような社会がさらに発展し、特に技術の水準が著しく向上した状態を指す。そうした技術の体系(所産)という意味でも用いられ、精神文化(の所産)と対比される。また、技術面・物質面のみが発達したことを強調するために、 「技術文明・物質文明」 と表現することが有る〕(蛇足:明らかに広辞苑の曖昧さを意識し修正しようという意図が読み取れますが、広辞苑よりはるかに親切で分かり易い説明です)

いずれにしろ「状態」であり「所産」であるのです。なので「歴史」は有りません。「人類の歴史」は有っても「文明の歴史」は無いのです。

これでようやく何か喉に引っかかっていたような気持ちから解放されました。ホームページを全部修正してスッキリしました。「文明の鳥瞰図」の前に「人類の」と付けようとしましたが「人類」に決まってるから中止、「我々の」と付けようとしましたが、同じく中止。そうですまさしく文明をその「始まり」から、「ギリシャ文明」、「イスラム文明」、「ヨーロッパの近代文明」、「世界の現代文明」などなどを一望の下に「鳥瞰」するのだから、これが正解なのではないかと思っています。早く気付いて本当に良かった、あの世で気付いて幾ら地団駄踏んでも隔靴掻痒どうしようもないのですから・・・(;^^)


只今の心境・・・^^
 

助けて下さい

 投稿者:Ichiro  投稿日:2010年10月 1日(金)08時06分33秒
返信・引用  編集済
  助けて下さい。サイバー攻撃?

 小生の掲示板を見て下さいませんか。Ichiro

  ●文字化けするのは、ブラウザの問題のようですが、未だ解決しません。

 http://9105.teacup.com/ichiro/bbs

  ●●後から記載:有難うございました。Ichiro
 
    (管理人) Ichiroさんいらっしゃい。

困った状況ですね。私の経験の範囲内では、タイトルにチョット特殊な漢字を使った場合に本文が全部文字化けしたことがあります。なので一時ハンセン病の歴史についての書き込みは投稿前に必ずコピーしておくようにしていました。

「teacup」のサイトからの対策をコピーなさっていますが、この三番目の可能性が高いようですね。どうしてもダメな場合は「http://www.teacup.com/mailform/mailform.php?service=rentalbbs&func=14」から問い合わせられるのがよろしいかと思います。お役に立てなくて済みません・・・m(_ _)m (10.1 11:51)
 

アメリカ・インディアン

 投稿者:あずき  投稿日:2010年 9月27日(月)21時41分0秒
返信・引用  編集済
  この文字を見ると、通り過ぎることができない性格でして…。
りベルさんは、おそらくたくさんの資料にあたっていらっしゃるでしょうから、余計なお薦めは避けたいとは思いつつ、ご負担をかける「おせっかい」をしたくなりました。

ディー・ブラウンの「アメリカ・インディアン闘争史…わが魂を聖地に埋めよ・上下」があります。草思社刊です。いろいろあるなかで、これだけ記しておきます。ごめんなさい。
 
    (管理人) あずきさんいらっしゃいませ。

PCもようやく立ち上がったご様子、拝見して安堵致しておりました。

「アメリカ・インディアン闘争史…わが魂を聖地に埋めよ・上下」、ご紹介有り難う御座いました。早速アマゾンで中味まで拝見してきました。

「白人にとって土着アメリカ人であるインディアンとは、開拓されるべき自然の一部であり、物理的に排除されるべきものでしかなかったのである。フロンティア開拓にまつわる神話をアメリカ史はほこりとしている。だがそこに犠牲となったインディアンの声がきかれることはまれである。」

とありました。早速取り寄せの手配をしました。中古で1600円チョットで買えました、楽しみが増えました。感謝感謝です・・・m(_ _)m (9.28 01:21)
 

心ならずもなされた三つの訂正!

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 9月26日(日)23時56分12秒
返信・引用  編集済
  一つ目の訂正:今朝の天声人語から・・・

「中国は早速、謝罪と賠償を求めてきた。困ったものだが、一緒に熱くなってもいいことはない。領海の平穏に体を張る海保職員の苦渋を分かち合い、外交の甘さを検証したい。船長のVサインをこらえ、度し難い画竜いや巨竜とのつき合い方を皆で考える時だ。」

この文章の前の方に「レアアースなしには画竜点睛を欠く品が多い。」を受けての表現なのですが、この「画竜点睛」を読んだとき一瞬立ち止まりました、何かスムースに読めない引っかかる用い方だなと。しかし最後のオチで合点が行きました、「中国ってえのは全く度し難い絵に描いた竜のようなモンだ」と仰有りたかったのですね、そのための窮余の一策の「伏線」、いやごもっともごもっとも・・・さてあちらの愚鈍な脳味噌にこの部分の真意が正確に読み取れるかどうか・・・。

二つ目の訂正:今朝のTBSの「サンデーモーニング」で浅井慎平さんが今回の中国の有様に関して、あの国は「精神分裂です」と言いました。ウマイ表現だと感心しました。貧富の差少数民族の虐待、検閲を初めとする人権弾圧、おおっぴらな偽造品の蔓延、冷凍餃子に見られる見え透いた国家的欺瞞、「合理で動く経済を、資源や「13億人市場」を頼んでねじ曲げ、恫喝に用いる発想(天声人語から)」などなど、「大国」どころか「北朝鮮」にも劣るかという下劣さは正に「精神分裂」と呼ぶにふさわしいと喝采を送ろうとしたのですが、関口さんが「言葉が過ぎます」とピシャリ!。これも打ち合わせ済みだったのなら、お見事!!!なのですがそうではなかったみたいなのが残念・・・


三つ目の訂正:以上全く心にもないことを、書き殴ってしまいました・・・中国の皆さんご免なさい・・・<(_ _)>
 

改訂:アメリカの歴史を見直さなければ・・・(9月25日05:21改訂)

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 9月23日(木)15時17分6秒
返信・引用  編集済
  何度も恐縮と言いながら懲りもせず「文明の歴史・鳥瞰図」をご覧に入れます。一番下の所にアメリカ大陸を載せているのですが、「アステカ」の続きに「アメリカ合衆国」が来ているのは間違ったのではありません。その辺はこの表を参考に大胆にスペース処理したまでなのです。

問題はそういうことではなくこの表に於いて一体「文化」・「文明」をどう定義づけるかということなのです。前に取り上げたように司馬遼太郎氏は文化は「コク」を重視するなどに始まる解釈を述べて居られます。頭の悪い私は何度読んでも未だ納得できないで居ます、いや賛成できないのではなく理解が及ばないのですが。それは兎も角私はこの表に関しては私なりの「文化の始まり」をこのように定義づけました。言うまでもなく国語辞典の解釈を基準にした、たとえば「潅漑設備」という「文化」が「メソポタミア文明」という「文明」を生んだという捕らえ方です。

最も簡単に言えば「農耕」をもって文化の始まりとする。人類は様々の地域で個別に「文化」を始めました。初めは向こう三軒両隣くらいだったのがまあ町内会ほどの規模になり農耕や牧畜を行いながら定住生活に入ります(勿論最近まで狩猟・採集生活を続けた部族もありますが)。私はこの瞬間を一つの大きな転換期と見なしたいのです。先日「巨石文化」を取り上げることを決意したのも、10トンにも及ぶ大石を組み上げるには相当の期間定住生活を行っている一定の秩序を有した集団でないとこういう作業は到底なしえない、ならば土器を作りうる部族に何ら引けをとる文化ではない、それを黙殺しては片手落ちと言わざるを得ない、そういう意味からだったのです。

「文化」というものの私の捕らえ方を、こんな例でお話しすると分かり易いかも知れません。食堂の道楽息子が一人住まいをしています。腹が減ると店へ行って食べて帰って寝る。こういう生活は「文化的」な生活とは言えないでしょう。丁度洞窟住まいの狩猟(文化)の原始人が棍棒を持って出かけていって動物を殺して持って帰って食べて寝る。これも同様に「文化的」ではありません。ところが農耕文化となるとそうではないのです。獲れた作物の中の実や房の大きいもの、穂の豊かなものの種を選んでおいて、次はそれを蒔きます。この淘汰作業の根気の良い繰り返しが豊かな農作物をもたらすのです。ここにはクリエイティブな作業があります。クリエイティブな作業や集団行為が有って、初めて「文化的」な生活だと言えるのではないでしょうか。

そもそも紀元前後に生まれたラテン語の「cultus」を語源とする「culture」に「文化」と「栽培、耕作」と両方の釈義が有ることから推しても「文化」は単なる狩猟生活には用いるべきではないのではないでしょうか。先程狩猟文化の文化を()で囲ったのはそう言う意味からなのです。

ここで蛇足を加えさせて下さい。「文明の歴史・鳥瞰図」の各地域の左端のアスタリスクをクリックして頂くとその地域の文明の初期の土器などの写真が出て来ます。その時代より前に当然存在した石器は取り上げて居ません。これは実は先程来申し上げている私の「文化」についての主張がもたらした結果に過ぎないのです。農耕やその結果である集団定住生活がなければ、土器や巨石記念物を作ることなどとても出来ないはずですから。

さて「文化」・「文明」の定義は立ちました。丁度今「銃・病原菌・鉄」で世界各地での農耕の始まりの所を読んでいます。「人類歴史年表」の「文明の誕生へ」の表を完成させるために熟読しています。そこで登場するのが次の一節なのです。「独自に食料生産をはじめたケース」として「現在のところ詳細な確証がそろっているのは、メソポタミアの肥沃三日月地帯中国中米南米のアンデス地帯、そして、合衆国東部といった五つの地域である。」他の地域から伝わってきたのではなく独自に食料生産を始めた地域はこの5カ所であると断言しています。ここではたとえば、私達の覚えた「四大文明」のインダス文明エジプト文明は他地域からの導入によるものだとされているのです。

そうなのです、私達が中学や高校の世界史で教わったのとは大きく開きがあることが語られています。フムフムと呟き訝りながら図書館へ行った私が出くわしたのがこれだったのです。マイケル・コウ他著・寺田和夫監訳「古代のアメリカ」の冒頭に出てきた年表です。この本が貸し出し禁止なのでゼロックスを取って来てようやく直ったスキャナで一部を取り込みました。画面が汚くてご免なさい。この下にさらに「メソアメリカ=中米」と「南アメリカ」の年表が有るのですがそれは既に紹介したとおりなので省略しました。

如何ですかフォルサム文化が終わる前7000年頃からコロンブスの1492年までが見事にブランクです。このブランクについてサムエル・モリソン著「アメリカの歴史」は次のように記しています。「原始狩猟種族の消滅と、メキシコ、ペルー、コロンビアにおける文明帝国の興隆および合衆国南西部におけるプエブロ族の高度の発展とのあいだには、このようにアメリカ史上未記録の間隙が横たわっているが、これを埋めることは、われわれの想像力を刺激する。」(このウィキペディアの「プエブロ」の「歴史」のところに「モゴヨン」、「ホホカム」、「アナサジ」の3グループの名がありますが、これは先程の大きな表の紀元300〜700年の所に記されています。)

「アメリカの歴史」の上の文章の続きがとても重要なので、記します。

「たいていの考古学者は、フォルサムで発掘された槍穂の表す狩猟文化は、最初の渡来(ベーリング海峡を通っての渡来です)から、紀元前500年と紀元500年のあいだの一時期まで続いたと信じている。この一千年のあいだに、「進歩」がアメリカの住民を見舞ったのだ。彼等は農耕、篭細工、陶器作りを覚え、ある地域では、木綿その他の繊維を織りはじめ、石造りの家を建て、金でもって銅を精錬しはじめたりした。」

ここで言っている「進歩」こそが私の主張している「文化」なのです。それはとにかくもう少し「古代のアメリカ」も良く読んで、これまで日本では陽の目を見ていないインディアンの文化を自分の年表に取り込みたいと思っています。


サムエル・モリソンは「アメリカの歴史」の中で、ジャレド・ダイアモンドと全く同じ考え方を次のように書いています。いやモリソンが書いたのは1964年なので、ダイアモンドが影響を受けたのかも知れません。或いは無縁なのかも知れませんが・・・
 

なにをやってんだか・・・

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 9月22日(水)17時26分47秒
返信・引用  編集済
  仙石官房長官が「検察の存在基盤にかかわる・・・」と言っていました。されど検察機構を無くするわけにはいきません。私はこの事件を初めて聴いたとき「地軸を揺るがす」という言葉を実感しました、自分自身が揺さぶられました。自分の、日本の、日本人の、仙石さんの言葉を借りれば「存在基盤」を揺さぶる大問題だと感じました。村木さんも「信ずべきもの」という表現を使って居られたと思いますがそうなんです、人間はやはり自分だけを信じて生きていける動物ではないのだ、そう改めて痛感しました。人間以外の動物は「自分」だけを信じて生きていく他はありません。が、人間のように社会的動物となるとそうではないのですね。

自分の生存を保証してくれるもの、何が「愛」か何が「正義」かを教えてくれる人、争いを公正に裁いてくれる絶対者、そういうものを自分以外に求めているのが現代の人間なのかと思います。最高裁や検察庁、これが間違いを犯してはならないのでしょう。先頃の鈴木宗男氏の判決に私は疑義を挟む者でしたが、最終的に最高裁が正しいのだろうと結論しました。鈴木氏も検察に文句を言うのはいくら言っても良い、しかし最高裁の決定には潔く従うべきだと思います、正確には鈴木氏はやはり何か法に背いたのだろうと、そう結論したのです。そうでないとそれこそ何を信じて良いのか、自らの足元が崩れ去ってしまうからです。

検察官というのは選ばれた人の筈です。いや「調査活動費」の問題で三井環氏を別件逮捕したのは検察の最大にして唯一の汚点だ、しかしやむを得ないところもあるのかなと思っていました。しかし今回のは違います。ダメです。ショックが大きかったのはこう思ったからです。日本に検察機構が出来て(1872年・藤本事件は1951年です)から140年が経ちます。その間今回のような「誤謬」が皆無だったのでしょうか。私の地軸が揺らいだのはそれを思っての動転です。この140年の間に今回のような「反正義」が百回も二百回もいや数千回も・・・無かったとは誰も断言できません。これは本当に恐ろしいことです。「秋霜烈日」という言葉がこんなに虚ろに響くのを、心底悲しく思います。
 

コルボーンの警鐘

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 9月21日(火)02時51分1秒
返信・引用  編集済
  絵本作家の永田萠(もえ)さんに「ウソ泣き」という詩がある。

ウソ泣きしてたら
きみがトコトコやってきて
「ぼくがいるからだいじょうぶ」って言うものだから
かあさん
ウソ泣きが本泣きになっちゃった

▼不覚の涙に、おかしくて切ない血のつながりを思う。わが子を虐待する親が絶えぬ中、東京の声欄で「母子の愛」がひとしきり話題になった。きっかけは「子どもはみな母親が大好き」という投書だ。病に倒れた女性が、反目していた母に看取(みと)られたいと願う話だった▼ある母親は小1の次男のことを寄せた。投稿者は「何か得意なものはないの?」と息子を問い詰めたそうだ。「お兄ちゃんみたいに色々できないよ」と泣き出した子、やっと書いたのが〈ままがすきなこと〉。ママは反省しきりである▼円満な親子ばかりではない。子への愛を自負する親ほど、縁が切れたかのような反抗期にうろたえる。そんな時、どの子も親が好きなはずと念じれば救われよう。やはり永田さんの「たまごの時代」を引きたい▼その詩は〈おとなになるちょっと前に/おとこの子も/おんなの子も/固いカラのたまごの中に閉じこもる〉と始まる。どんな姿で出て来るのやら、周りは気長に待つほかない。〈ここらで親もひとやすみ〉の結びが、子育て世代に優しい▼母のうそ泣きに駆け寄るのも、殻に閉じこもるのも同じ子である。人生の折々に見せる違った顔は成長の証しにほかならない。この祝日、親がご健在の方は、手紙なり花束なりでありがとうの顔を見せることができる。(9月20日の天声人語を少し改変)

〈ままがすきなこと〉には思わずお母さんは抱きしめたのではないかと、涙がにじみました。

そういう我が子を平気で殺す親が最近続出しています。そうかと思えば年老いた親が死んでも葬式もせず年金を猫ばばする輩も居る。親が子を思い、子が親を思うという当たり前のことが、今、当たり前でなくなっています。「核家族化」のせいにする説もありますがそんなことなのでしょうか?人間のもっと基本的な部分にヒズミが生じているのでは、と唱え続けている「奪われし未来」(1997年)のシーア・コルボーン(驚いたことにこの人は英語とドイツ語のWikipediaにしか出ていません)はその中でこんな事を訴えています。「汚染被害にあった島で、子育てがなおざりにされていることが確認された・・・」、「ホルモン作用が攪乱されると、縄張り意識のようなある種の行動傾向が増すか、親なら当然果たすべき監督と保護といったごくふつうの社会行動がとれなくなる可能性が出てくるのだ」、これはなんと23年前のことなのです。その後も彼女は(来日もしました)警鐘を鳴らし続けていますが環境ホルモンなどの何か大きな異変が人類を襲いつつあるのではないかという危機感は一向に拡がりを見せません。これは危ないことなのではないでしょうか?(参考:昔のHP

ガキ大将も顔負けの無茶苦茶な主張を喚き立てている中国なんぞは放って置いて、静かに忍び寄る人類の敵の足音に耳を澄まさないと、私達の死後・・・恐ろしいことが起きるかも知れませんね・・・><

参考:デボラ・キャドバリー「メス化する自然」
 

秋きぬと 目にはさやかに 見えねども ・・・

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 9月18日(土)17時51分14秒
返信・引用
  昨日からトイレに腰掛けるといつもと違ってヒンヤリ感がありません、そうです連れ合いが「暖」にしたのでしょう。

そういえば、実は私は風呂やシャワーから出るとき必ず全身に冷水のシャワーを浴びるのですが、数日前から「ん」と違う感覚を覚えています、はい少しヒンヤリ感が生じてきたのです。

毎日 日中は30度を超える暑さで、歩いているときにはさほど感じないのですが、やはり秋が忍び足でやってきていますぞご同輩・・・^^


猫の額のような庭にも・・・草抜きが億劫でご覧の有様です・・・。
 

年はとりたくないもので・・・

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 9月16日(木)02時21分13秒
返信・引用  編集済
  ぼつぼつ酷暑が去った気配で、有り難いことです。なんて言っている内にもうストーブを出さなければならない季節がそこまでやってきています。我が家ではしかし、今年はストーブを出さなくても良いので助かります。うちは石油ストーブなのです、エアコンは子供や孫のリクエストがあったときだけ、リモコン探しが始まります。その石油ストーブというのは電気ストーブと違って使い始めと収納の時が厄介で敵いません。残った石油を徹底的に拭き取ってから収納しなければならず、それが億劫でこの夏はなんとソファーの後ろにねじ込んで「その内」とか言いながら連れ合いが忘却するのを待ちました。

この陰謀を知ってか知らずか連れ合いは沈黙を貫き、ついに夏中ストーブはソファーの後ろに隠れたまま、ソファー越しに扇風機の音を聞きながら不思議な気持ちで一夏を過ごしたことでしょう。時々覗くと何かバツの悪そうな顔をしてこちらを見上げていました。本当はバツが悪いのはコチトラなのですが・・・^^


こんなヤツです・・・もう製造していません・・・
 

押尾学の勘違い

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 9月13日(月)17時14分6秒
返信・引用  編集済
  今日の被告人質問の応酬を聴いていて、何を言ってんだか?と思います。

要は簡単な話死にかけている人が目の前にいる。そしたら救急車を呼ぶのが普通の反応です。そうしなければこの人は死ぬかも知れない、それは人工呼吸や心臓マッサージをした(これは本人が認めているところです)ことから押尾被告も知っていたことは確かです、その時はその人の命を助けるのが何はさておいても一番の緊急措置でしょう、誰でもそうする。

それをしなかった。理由は自分の麻薬使用がばれるからです。つまり自分の名誉というか利益を守るために通報せず一人の人を死に至らしめた。

細かいことを検察側、弁護側が立証しようと、どちらが本当だか分からない「証言」闘争が行われて、裁判員の混乱を誘発しようとしています。これらはあくまで些末事なのではないでしょうか。人一人の命の瀬戸際で自分の利益のために通報をためらった。それだけでよいのです、押尾被告は重罪を犯したことは明らかなのです。ダメはダメ・・・そうでしょう。
 

ハーレイ・ジョエル・オスメント

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 9月13日(月)01時03分39秒
返信・引用  編集済
  この、日本で言えば「憂い顔」の名子役が15才になって声変わりをして登場する「ウォルター少年と、夏の休日」という他愛のない映画を観ました。ロバート・デュヴァルが鍛え上げられた退役軍人として現れ、オスメントに強い影響を与えていくのですがその中で印象に残ったのが「良かれ悪しかれ何かを信じなければならない時があるもんだ!」という言葉でした。映画の中では大きな意味は持たなかったのですが、不思議に印象に残っていました。

今日「パタゴニア」という登山用衣服のカタログをパラパラやっていて、ふとハーケンの写真が目に入った瞬間、「あ、これかあ!」と目から鱗が落ちた気持ちになりました。私自身は自分の手でハーケンを打つような登山の経験はありませんがその気持ちはとても良く分かります。自分が選んで買ったハーケンを自分が選んだ場所に打ち込んで、後はその小さな金具に全幅の信頼を寄せて全身を預ける。会社員の生活でもそんな場面は有るものです。得意先の担当者の「ひとこと」に、或いは自分で考え抜いた果ての「結論」に一縷の望みを託して、もう目をつむって谷底へ向かって飛び出す。思えばそういう危険を冒さざるを得なかった瞬間が一再ならず有ったなあと、記憶が蘇ります。

ハーケンが抜けなかったのもロープが切れなかったのも、ただただ運が良かったのだと今はつくづく思っています。いつか前にもこんなことを書きました。垂直に近い崖を登っていてふっと後ろへ倒れかけた。目に付いた細い細い根っこを指先でつまんで身体を前へ引き寄せて大事に至らなかったことがある、と。あの根っこがプツンと切れていたら実は私はこの世に居なかったんだなあと思うと何か知らない力が私のいのちを支えてきてくれたと、妙に神妙な気持ちになって居住まいを正すのでした。「幸運の女神」に感謝を捧げることを長い間忘れて、じゃなくて気が付かずにいました・・・^^


ロッククライミング
 

散歩をさぼっていたら・・・

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 9月10日(金)02時19分9秒
返信・引用  編集済
  この猛暑で実は散歩をかなりネグリました。去年まではどんなに暑くても1時半頃から毎日欠かさず歩きました。今年も勿論そのつもりで居たのですが、猛暑の二日目あたりに動悸が速くなるという初めての経験をして、無茶の出来ない歳だぞと言い聞かせて30度以上の日は歩かないようにしました。歩いてもバスを多用して無理を避けました。

昨日やっと涼しくなってレギュラー・コースを久し振りに歩きました。もう1カ月近くご無沙汰していたのでしょうか、驚いたことに稲に穂が付いて、付いてと言うかもう垂れ下がっていて時の流れを体感しました。

面白い案山子が居たのでついでに撮ってきました、ちょっとメタボなところに共感を覚えて・・・。向こうに走っているのがJR福知山線です。これを右へ約30分走ったあたりです、5年前のあの脱線事故が起こりました・・・合掌。
 

付:JavaScriptが齎した意外な発想

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 9月 8日(水)01時35分34秒
返信・引用  編集済
  いま下を読み返していて思い出しました。書こうとして忘れていたことがありました。下に「これからの歴史の教科書は必ずや先史時代も詳細に述べるようになっていくでしょう」と書いています。ここで是非ご覧に入れておきたいのがこの年表なのです。

ここで蛇足ですが「先史時代」の定義をもう一度確認しておきます。国語辞書によると「文献史料を全く欠いている時代。⇔有史時代=文字で書かれた記録・文献などが残されてから後の時代。日本では五世紀以後」です。上に紹介した「先史時代の推定年表」(厳密には有史時代を含んでいます)の欄外にこんなことが書いてあるのにご注目下さい。

「考古学上の推定年代にはさまざまな説があって、世界的にこのような年表をつくることは本来危険であるが、かりにこのように作って見た。将来、新しい発見や新しい研究が出されるに従って補正してゆきたいと考えている。地質年代及び概略時代区分は、ヨーロッパにおける研究基準に従った。それは世界各地によって異なるわけであるが、だいたいのよりどころにするのに便利であるし、またたしかによりどころとしても誤りの少ないものである。」

歴史学者の先生の文章だと思われますが、学者先生のものとしては珍しく虚心坦懐な一文で私は好きです。何よりも危険や困難を押して兎に角集めてみたらこうなったのだから、活用できるところは適当に上手くやって呉れよ、とさらけ出してくれたところが嬉しいではありませんか。

黄色の旧石器時代の所なんか、聞いたこともない「****文化」が一杯並んでいます。だけでなく下の方まで知らない文化が満載です。

ここで例えば一番右の日本の場合を見てみましょう。この年表が作られたのは多分「奥付」から推して1995年なのですが、縄文時代の始期は紀元前7000年頃とされています。しかし2007年の高校教科書「詳説日本史B」では「13000年前〜12000年前」とし、更に注記を加えて16500年前の説を紹介しています。また弥生時代の始期もこの年表では紀元前5世紀頃になっていますが、教科書も同じく紀元前5世紀として、やはり注を付して「紀元前8世紀ころにさかのぼることになる。この補正年代については、認める研究者と認めない研究者がいる」と書いています。国立歴史民族博物館のHPにはこのように記してあります。

身近な日本の例を見てもこのように日進月歩(というか「牛歩」というか)の状態です。その上どうやら考古学上の発見(化石の発掘とか)はその年代決定を回って10年から数十年の検証期間(体よく言えばこうですが要するにこれまでの発見者が「最古」を譲りたくないので、徒に反論する場合も有るようです)を要すると一般に言われるようですから、少しノンビリ構えないとやりきれない模様ではあります。

さてこのように一枚の年表を眺めても先史時代の出来事を分かり易く年表に纏めることは容易なことでは無いと実感できます。言い換えればだからこそやり甲斐もあるということなのでしょうが、実は私はそう大仰には考えていません。ジャレド・ダイアモンド氏が纏めてくれたものを、自分の年表に転記するだけだと気楽に考えています。

さあ半年後には早ければ年内には何かの形になっているでしょうか?いや保証の限りではありませんが・・・^^


サッカラの階段状ピラミッド(前2635年頃)。最初に建ったピラミッドですが下のバルヌネの大ケルン(前4600年頃)より後なのです
 

JavaScriptが齎した意外な発想

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 9月 7日(火)03時46分25秒
返信・引用  編集済
  またまた例によって「文明の歴史・鳥瞰図」のお話で恐縮なのですが、チョット我慢してこちらの「文明の歴史・鳥瞰図」をご覧下さい。そうです上に一行「1万3000年前〜現代」を付け加えることにしました。この年代を見て何かを思い出されたでしょうか。そうですジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」のサブタイトルです。こう書いてあります「一万三〇〇〇年にわたる人類史の謎」。最後の氷河期が終わりを告げモンゴロイドがアメリカ大陸を南下し始め、人類が農耕・牧畜を開始したのが1万3000年前なのです。

私は75才近くなってから世界史を読み返し始めたのですが、つくづく思うのは中学生から受けはじめた歴史教育のいい加減さです。中学の歴史(社会科ですね)で教わって役に立っているのは「ゲンシヤマトナラヘイアンカマクラヨシノムロマチアヅチモモヤマエドメイジタイショウショウワ」の棒暗記だけです(当時の北山先生に感謝!!!)。少し前に書いたような「ヨーロッパの先史時代の巨石文化」の見落としもしかりですが、やはり最も大きな欠点は世界史の縦割り記述です。これは現在の教科書のというか、カリキュラムの分量から推して無理からぬことだとは思いますが、何か歴史を横から見る、或いは輪切りにする、或いは鳥瞰する、そういう副教科書が必要だと思います。完全な手前味噌ですが私が「人名歴史年表」を作ったのはそう言う面で何かの一助にならないかと考えたからなのです。「文明の歴史・鳥瞰図」もヒョッとしたら私の死後「一家に一枚」と言われるようにならないとも限りません。とにかく歴史を全体として大掴みに把握できる教育がなされていない、その補助教材的なものがキット必要になる、私はそう信じています。

チョイト脱線しました。本題に戻ります。実は「銃・病原菌・鉄」をもう一度読み返しながら、「縮尺:人類史年表」に手を加え始めました。下の方の「<1万3,000年前〜現在>準備中!」という年表をご覧下さい。この「氷」という文字にカーソルを当てるとポップアップが出ますでしょう。ところが恐らく「最後の氷河期の終わり」という文字が中空に浮いていると思うのです。そうですスクロールすると位置がずれるのです、いや正確には逆にポップアップした窓の位置は「JavaScript」の関係で固定されているのです。これを「氷」の文字の傍に固定しようとしてソースを相手に四苦八苦しましたが・・・ギブアップ。と言うわけで現在の「文明の歴史・鳥瞰図」の上に運んできたというワケなのです。こうすればスクロールの必要がないから、「氷」の傍に出てくれるという次第です。

しかし標題に書きましたように、これは意外に正解ではないかと思うのです。ご存知のように遺跡の発見は相変わらず頻繁です。又発掘された化石などの年代の測定法もますます進化して正確さを増してきました。これまで闇の中だった先史時代の何やかやが、次々に陽の目を見始めています。これからの歴史の教科書は必ずや先史時代も詳細に述べるようになっていくでしょう。ジャレド・ダイアモンド氏は図らずもその先鞭をつけたのではないでしょうか。

JavaScriptが原因で「1万3000年前〜現代」の年表を「文明の歴史・鳥瞰図」の前文のような形で運んできたのが、実は意外にも時代を先取りする結果となったのではないか。正しく「怪我の功名」という次第でした・・・^^


バルヌネ(フランスのブルゴーニュ地方)の大ケルン。これはなんとピラミッドより前に建てられました。東西35m・南北20m・高さ8mという大きさなのです。
 

世も末ですね

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 9月 5日(日)18時37分37秒
返信・引用  編集済
  最近の民主党代表選挙の経緯はご存知の通りです。小沢さんの心胆が分からなくて判断に迷いました。ここ数日のお二人の応酬や政見に耳を傾けていてなにやら全貌が見えてきた気がします。早い話が自民党の誰かも仰有っていましたが「コップの中の嵐」に過ぎないのではないか。簡単に集約すれば小沢さんが総理大臣になる最後のチャンスだと、懸命に不得意な政治経済面を喋りまくっている茶番だということです。田中正造のように真に国家国民の為に心身を投げ打つ、というのとは大違い、ご自分のことしか考えて居られない。そう思わせるのは彼の「過去」なのか私の偏見なのか、さあどうなのでしょう。

三人の秘書がどうだとかこうだとかは申し上げません。それを「口を拭う」、そして知らん顔をして政策を語る、その在り方に不信を覚えざるを得ません。総理になってから訴追を受けても「逃げない」と答えていました。その結果生じる、被告が一国の首相を勤めるという異常事態は有り得ないことでしょう。

「壊し屋」は国内でやって居られる限りはよろしかろう。しかし小沢氏が総理になった場合、国民の大きな世論、野党の動きなどを想定してみましょう。これは日本の政治を壊します、具体的に言えば、例えば「国民の怒り」、「政治空白」、「野党の反撃」ここまで考えただけでも限りなく大きい、日本の政治が大混乱に陥るだけでなく危機に瀕します。

私は思います。小沢氏は立候補するべきではなかった。菅さんに任せるかさもなくば若手に委譲するか、そうすれば日本の政治に空白や乱闘(一癖も二癖もある野党がここぞとばかりに暗躍するのは目に見えているでしょう)が避けられたのではないでしょうか。(伝書鳩というのは緊急の場合に急を伝えるべく飛び立たせるものです。骨董品に等しい鳩が節操なく動いては天下の迷惑です。)

いずれにしろそうですか、我々国民は指を咥えて見ているほかはないのですね、国家元首の選定は私達の与り知らぬところでなされ、その御仁が「サミット」などにファーストレディー同伴でご出席なさる、美味しいものを召し上がる。そしてその御仁は元首相というビッグネームを得て生涯をお過ごしになる、こう書くとヤッカミがばれてしまうからここまでにしておきましょうか・・・いやこれを「世も末」と言うのでしょう・・・(:^^;)
 

Re: 見落とされた巨石

 投稿者:Ichiro  投稿日:2010年 8月31日(火)11時30分10秒
返信・引用  編集済
  > No.4820[元記事へ]

リベルさんへのお返事。

  素晴らしいご指摘です。私も世界史年表にのっていない大革命ということを書いたことがあります。
 2006年、たまたま、介護実習にいっている娘に会いに夫婦でイギリスに出かけました。有名なストーンヘンジを見学し、相当ショックをうけましたが、ついでにといっては何ですが湖水地方にでかけました。もっと小さい、りっぱなストーンヘンジがあり、ここでも、ふう、といいました。巨石文化は歴史時代でないので、詳しいことは判っていないのですね。しかし、その証拠の巨石はあるのです。


 Ichiro

 蛇足:介護実習は生かされてなく、娘は今、ドイツにいます。
  ●訂正 日時を訂正しました。
  追加:あの有名な方のストーンヘンジは、世界遺産ということで、触ることができませんでした。有名でない方のストーンヘンジは触れました。
 
    (リベル) Ichiroさんこんにちは。

ストーン・ヘンジもご覧になったのですね、羨ましい限りです。私も5年以内に中国、インド、イラク(ここは危ないか)、エジプト、ヨーロッパを一周しようかと考えています、それまでに出来るだけ広く歴史を勉強しておきたいと。まあ実現できれば良いのですがウカウカしていると足腰がついて行かなくなりますからさあどうなることやら・・・(^^:)(8.31 11:48)
 

見落とされた巨石

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 8月31日(火)03時00分8秒
返信・引用  編集済
  変わり映えがしませんが「文明の歴史・鳥瞰図」を又お見せします。「変わり映えがしない」と呟きましたが、しかしよくご覧頂くと大きな大きな問題提起を実は行っているのです。ここはそんなに訪問者が多くありませんから、いきなり論争を巻き起こすような事態には立ち至らないと心得た上での暴挙です。火種が何かはもうお気付きかも知れません、ヨーロッパの部分の「巨石文化」です。

これをここに挿入するか否か、これは随分悩みました。色々な本を読みました。ヨーロッパの各国史を百科事典で読み、図書館で次々と立ち読みして必要なのはゼロックスして帰りました。踏ん切りをつけさせた一つのキッカケはフレデリック・ドルーシュ総合編集・木村尚三郎監修「ヨーロッパの歴史」でした。この本の第一章「ツンドラから神殿へ(先史時代〜B.C.4世紀)」の構成は以下のようになっているのです。分かり易いように「章」と「節」を省いて項目を追っていきます。

@ネアンデルタール人
Aクロマニヨン人
B農業文明
C打製石器から磨製石器へ
D石器時代の巨大墳墓と巨石
Eヨーロッパの青銅器時代
Fヨーロッパ最初の文字
G鉄器時代と古代ギリシャ中期     以下略

ヨーロッパの歴史を辿るとき「磨製石器」と「青銅器時代」の間にこの一項目を入れざるを得なかったのでしょう。

実は一番ひどいのは高校の世界史の教科書(11冊)なのです。これは見事に一言も触れていません。私は「世界史B用語集」という素晴らしい本で調べているのですが「巨石」、「メンヒル」、「ドルメン」、「列石」、「ストーン・サークル」いずれも出ていません。ヨーロッパの歴史を語る上で欠くことが出来ない文化に一言も触れないのは実に大きな怠慢だとそう決めつけて、ようやく踏ん切りが付きました。そして冒頭にご紹介したとおり、私の年表には「巨石文化」を堂々と載せてやりました、日の目を見せてやりました。

誰の怠慢かは知りません。私は山川出版社の「詳説世界史B」は実に良く出来た教科書だと思っています。世界の歴史を400ページに纏めるのは大変な作業だと言うことは、深く読めば読むほど分かってきました、とても困難の多い作業です。だから責める気にはなりません。文科省のカリキュラムの問題だろうと思います。

大百科事典の各国史の中での脱落はこれは許せません。一つだけ例を挙げれば「万有百科大事典」のスペイン・ポルトガルの項に姿がありません。これは執筆担当の学者先生のミスだと思います。ええいついでに色々な「ドイツ史」にも姿が見えない、これもおかしい、下の地図によればドイツにも巨石記念物は有ったのですから。学者先生は往々にして木を見て山を見ませんから、巨石の一つや二つは簡単に見落としておしまいになるのでしょう。


Wikipedia(英語)(Geoffrey Barraclough著「The Times Atlas of World History」から)


「ヨーロッパの歴史」から
 

Re: 江戸期人骨にハンセン病菌

 投稿者:Ichiro  投稿日:2010年 8月27日(金)07時35分52秒
返信・引用
  > No.4818[元記事へ]

リベルさんへのお返事。

> 今朝の共同通信から。
>
> これまで「ハンセン病の歴史年表」では18世紀がブランクだったのですが、一つ追加しておきました。共同通信では「欧州や中東で数例ある」とされていますが不勉強で欧州の例は把握しておりません。ご存知の方はお教え下さい・・・m(_ _)m

  欧州の例ではありませんが、ハンセン病(Wikipedia)によりますと。

 >遺跡の人骨かららい菌DNAを検出 [edit]
青森県畑内遺跡(推定18世紀以降の江戸時代)第26号土坑墓から出土した、古病理学的にハンセン病と診断される人骨(東北大学総合学術博物館収蔵)の上顎より、らい菌のDNAが検出された。[118]

  とあります。
 
    (リベル) Ichiroさんこんにちは。

この話を書いているのですよIchiroさん・・・(爆)こちらまでお読み下さらなければ・・・^^

ウィキペディアは「日本ハンセン病学会誌79,2,138,」から取材しているようですね。「第26号土坑墓」は新聞には書いてありませんが、「PLoS ONE」には「A grave pit of SK26 」と記してありますね。「欧州」のケースが分からないのです、ご存知有りませんか???(8.27 11:50)
 

江戸期人骨にハンセン病菌

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 8月27日(金)07時26分13秒
返信・引用
  今朝の共同通信から。

これまで「ハンセン病の歴史年表」では18世紀がブランクだったのですが、一つ追加しておきました。共同通信では「欧州や中東で数例ある」とされていますが不勉強で欧州の例は把握しておりません。ご存知の方はお教え下さい・・・m(_ _)m
 

いい加減になさい!!!

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 8月27日(金)05時56分53秒
返信・引用  編集済
  昨日の朝日新聞の夕刊から・・・(以下は紙面からです)

鳩山氏「私の一存で党入り、応援するのが大義」

 民主党の鳩山由紀夫前首相が26日朝、小沢一郎前幹事長と会談後、記者団に語った内容の要旨は次の通り。(中略)


 「私の一存で、小沢先生には民主党に入って頂いた。その経緯から、私としては応援をするのが大義だと思っている

 ――これまでは「菅首相を支持する」と言っていたが。

 「首相に対して民主党の一議員として応援するのは当然だという意味で申し上げてきた

 ――1年で3人目の首相となれば批判もある。

 「よりよい国になれば、当然評価が変わると思う

 ――小沢氏には政治とカネをめぐる批判がある。

 「そのようなことを背負いながら、それを越えて国のために命を懸けたいと決断をされた。ご自身がそのことはしっかりとなさる


スキャナが故障したので紙面が出せないのが残念なのですが、以上で間違い有りません。まず一つ目につくのは、この「要旨」の省略の仕方です。紙面だけ読んで鳩山氏の応答に腹を立てていたのですが、ネットで詳細を読んでみると意味合いが微妙に違ってきます。これは朝日新聞の如何にもマスコミ的手法というのでしょうか、頂けないところです。

それはさておいてももう一つは、やはり鳩山氏の発言です。「一存」では主体性を無視された形の小沢さんも「異議あり」でしょうし、「大義」という日本語もこう都合良く使い回されては大きな迷惑だろうと思います。ここに始まって「よりよい国に変われば評価が変わる」、「そのようなことを背負いながらそれを越えて国のために命を懸けたいと・・・」に至ってはもう支離滅裂、理路整然・・・おやこちらまでおかしくなってしまいます。

恐らく10年後にこれを読み返されたときの73才の鳩山さんは穴を掘って入りたくおなりになるのではないか?鳩山語録にはもう慣れていた積もりですが、将来の子供達の為にもこれはピシッと指摘しておかなければいけません・・・(怒)


いつまでも暑いですね・・・
 

愛すること、排除しないこと、受容すること

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 8月25日(水)02時08分35秒
返信・引用  編集済
  (一)

外が真っ暗になってから、弟が高利貸しの男を二人連れて上がり込んできました。高利貸し達は名刺も持っていない、素性不明の者達です。私は目の前で110番に電話して名乗り、「この電話があったことを忘れないで下さい」とだけ告げました。結局、連中を足蹴にして放り出すようなことになったのですが、連れ合いは孫のための500円玉貯金を全部箱ごと弟に渡し「だいじにつかいなさい」と言いました。

(二)

変な夢でした。学生時代の同期の男二人がそれぞれ娘さんを連れてきて「どちらか選んで嫁にせい」と言います。「嫌いな方の男」は良く喋り良く叱りながらお嬢さんを売り込みました。「好きな方の男」は遅れてやって来て謝りもせずニコニコしています。そのお嬢さんは広おい田んぼみたいな感じで、ただ存在するだけです。私は前者はお断りなのですが、後者には何か気押されてこちらも辞退します。帰り際に好きな方の男に「ごめんな、ありがとう・・・」と告げて分かれました。決めなかったことを詫び、大事なことを教えられたことに謝意を表したのですが、分かってくれなくても良いと思っていました。

(三)

私が昔お見合いをしたとき今の連れ合いはただニコニコした優れた聞き手に終始していました。彼女も私を選んだのではないのです。ただ排除をしていないだけだったのです。相手が私でなくても、誰であっても同じだったのだろうと先程の夢で気付かされました、「好きな方の男のお嬢さん」のお陰なのです。この現在の毎日の中でも連れ合いは私を愛しているのでしょうか、ただ排除していないだけなのではないでしょうか。

(四)

最澄は「山家学生式(さんげがくしょうしき)」の中で、「己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」と言いました。1981年に行われた比叡山宗教サミットでヨハネ・パウロU世はこの言葉を引用して、キリスト教の精神となんら変わるところがないと話されたと言います。キリストの愛もマザー・テレサの愛も「己を忘れて他を利する」のでしょうがここで留意するべきは「他を利する」がアクティブな行為ではないことだと思うのです。「何かをして差し上げるのではない、押しつけるのではない、なにものをも排除しないだけなのだ」、と私は気付かされました。これが「愛」なのではないか?だから私は人を愛しては居ない。「愛」について語る資格はない、弟を許すことが出来るまでは、そう気付きました。


この人は人間を愛しているのでしょう
 

追伸♪

 投稿者:あずき  投稿日:2010年 8月22日(日)13時02分13秒
返信・引用  編集済
  わたくしも少女時代に、祖母と母から「御不浄のお掃除をする子は美人になれる。」と騙されました。
愛娘は騙されませんでした(^^)。
 
    (リベル) >わたくしも少女時代に、祖母と母から「御不浄のお掃除をする子は美人になれる。」と騙されました。

騙されました」は不可解です。「御不浄のお掃除」をなさったのでしょう、だから今そのように美しくていらっしゃるわけですから・・・お会いしたことがないので容姿はいざ知らず、なれど「文は人を表す」、心の美しさは隠せませんですよ・・・(;^^)(8.22 14:52)

おっとこれはしたり、フォローやレスの書きにくい書き方をしてしまいました。いけませんね、どうかこのままご放念くださいますように・・・m(_ _)m (8.22:16:57 追記)
 

Re: トイレの神様

 投稿者:あずき  投稿日:2010年 8月22日(日)01時03分14秒
返信・引用
  > No.4812[元記事へ]

この詩は知る人ぞ知る、というような詩なのですが、濱口國雄の「便所掃除」という詩です。多分彼が国鉄職員の新米時代に書かれたものと思われます。「トイレの神様」の歌を聴いていましたら、ふいに思い出しました。

http://naha.cool.ne.jp/stssm/benzyosouzi.html
 
    (リベル) おやあずきさんこんばんは。

Ichiroさんにレスを書いて投稿したら、あずきさんと同時進行していたとは・・・(^^)。

濱口國雄さんはどうやら公衆便所のほうですね。これで何か吹っ切れたので、Ichiroさんへのレスでは思いとどまったことを書く気になりました。私は浪人生の時禁煙を誓って灰皿とライターをトイレの肥ツボに投げ込みました。そして三日後、そうですお察しの通り手を突っ込んでそれを拾い上げたのです。別の時は庭に埋めたのを掘り返しました。三度目にはライターを氏神様の賽銭箱へ投げ入れました、これは流石に拾えませんでした。結局完全にというか最後に禁煙したのは60才の5月でした。以後未だ吸ってはいません、恐らくもう大丈夫だろうと思います・・・(笑)(8.22 01:29)
 

Re: トイレの神様

 投稿者:Ichiro  投稿日:2010年 8月21日(土)21時10分32秒
返信・引用
  > No.4812[元記事へ]

リベルさんへのお返事。

  私も思い出しました。神道では、重要な場所で、清めていました。神様がいるのです。
 八百万の神様が居られるので、色々なところに神様がいるのですが、便所は重要な所のようです。
 小生の先祖は黒田家の下級武士でした。会津戦争は、参加したのですが、自費で、家来を一人連れていったようです。戦争には勝ったのですが、福岡に帰って、明治維新と言うので、それでも、住んでいた土地は貰ったようです。その他にも、何かあったようですが、武士を辞めることになり、当時福岡の有名な私塾の先生に聞きにいったそうです。
 「私は何をしたらいいでしょう」「俺が知っている神社がある。俺が教えるから神主になれ」まあ、子供たちは色々教育を受け、成人したのですが、ご本人は神主になりました。という事で、私の所の宗教は神社神道です。今は地下鉄にとられてしまった屋敷の便所も、清めていた事を思い出します。便所を嫌わずに、清めていたとは、いい話ではないですか。

 Ichiro
 
    (リベル) Ichiroさんこんばんは。

私の生家は私が二十歳の頃までご多分に漏れず汲み取り式でした。躾の積もりだったのかトイレの掃除は私の役割だったので、そのせいかトイレを「汚い」とは思わないのです。

また「トイレの神様」を聴いてしまいました。また泣いてしまいました・・・^^(8.22 01:13)
 

トイレの神様

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 8月21日(土)11時58分37秒
返信・引用  編集済
  さっき起きたとき連れ合いは予定があって出かけていました。コーヒーを入れながらテレビをつけたらこの歌が聞こえてきました。トイレをきれいにする唄かと何気なく聞いていたら妙に心に入ってきて・・・単調なメロディの繰り返しなのに飾り気のない歌声が珍しかったか、その内に全身で聴いていて・・・ついに涙が出て来て・・・お察しの通り号泣してしまいました、コーヒーに噎せながら。歌は勿論歌手の名「植村花菜」も、彼女が隣町川西市の出身であることも知らない、何の知識もなくていきなり歌を聴いて泣いたのは、生涯初めての経験でした。

歌が良いのか、歌手が良いのか、それとも緩くなってきた涙腺のせいか・・・まあお暇なら一度お聞きになってみて下さい、とっくにご存知なのかも知れませんが・・・^^


トイレの神様
 

Re: 映画「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」

 投稿者:Ichiro  投稿日:2010年 8月21日(土)00時02分27秒
返信・引用  編集済
  > No.4810[元記事へ]

Wikipediaのアクセス数を調べ方ですが。

 1)英文のページを出して、view history をクリックする。
 2)上の方にpage view statistics が出ますのでクリックする。
 3)Leprosy in Japan は本年8月現在(途中ですが)711と出ます。1日目は27
  4)何故か本年7月は0と出ますので、今作者に原因を質問をしています。
 5)日本語の場合は Japanese とします。光田健輔を入れると 昨年1月は625とでます。1日目は11.
 6)何が一番多いのか探った事がありますが、判りませんでした。アメリカの学生が調べそうなものを探してみました。上位何位まで出てきます。
 又、月別の統計がでたり、たとえば、口蹄疫のアクセス数を月別、日にち別など、調べると面白かったです。

 Ichiro
 
    (リベル) Ichiroさんこんばんは。

有り難う御座いました。いやはや驚きました、こんなサービスが有ろうとは・・・。大いに参考にさせて頂きます・・・m(_ _)m (8.21 00:57)
 

Re: 映画「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」

 投稿者:Ichiro  投稿日:2010年 8月20日(金)10時44分12秒
返信・引用
  > No.4809[元記事へ]

リベルさんへのお返事。

100万アクセスおめでとうございます。180万でしょうか。

 少々意味が違いますが、Leprosy(Wikipedia)へのアクセスを調べよう。全世界からのアクセスである。今は年半ばであるので、2009年を調べてみよう。

 1月 130,172  えい めんどくさいので 12倍すると 1,562,064 如何に 100万アクセスが素晴らしいことであるか、ということがわかる。

  めんどくさがらずに、計算してみると、1,716,030 アクセスだ。

 さて、日本語の「ハンセン病」は昨年の一月は 42,988 12倍すると 515,856 ちょっとおおざっぱすぎるので、また調べてみよう。すみません、まだやっていません。

 Ichiro
 
    (リベル) Ichiroさんこんにちは・・・。

有り難う御座います。皆様のおかげです。バカみたいに無邪気に喜んでおります・・・(^^;)

「Leprosy」へのアクセス数が分かるとは知りませんでした。不勉強ですね。どうすれば調べられるのですか?お教え下さい、お願いします・・・m(_ _)m (8.20 13:46)
 

映画「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 8月20日(金)03時45分10秒
返信・引用  編集済
  トム・ハンクス主演の「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」を何と毎日一回6日間連続で見ました。この映画は1978年〜89年のアフガニスタン紛争でのアメリカの裏面作戦を描いていてそのややこしさが何度も見た理由の一つですが、もう一つは助演のフィリップ・シーモア・ホフマン(「カポーティー」でオスカーを得ています)演じるところのガスという人物の一見八方破れの痛快さも引きつける大きな理由なのです。

それはともかく、彼が「塞翁が馬」の故事を持ち出すところが有ったので紹介しておきます。こんな風に使われています・・・

ガス: There's a little boy and on his 14th birthday he gets a horse... and everybody in the village says, "how wonderful. The boy got a horse" And the Zen master says, "we'll see." Two years later, the boy falls off the horse, breaks his leg, and everyone in the village says, "How terrible." And the Zen master says, "We'll see." Then, a war breaks out and all the young men have to go off and fight... except the boy can't cause his legs all messed up. and everybody in the village says, "How wonderful."

チャーリー: Now the Zen master says, "We'll see."

ガス:So you get it.

字幕では「そう言えば、禅の師匠と少年の話を知っているか?」と切り出して・・・

「ガス:14才の誕生日に少年は馬をもらった。村人たちも喜んでくれたが師匠は”いずれわかる”と言った。
 2年後落馬して骨折、村人たちは悲しんだ。師匠は”いずれわかる”と。
 やがて戦争。骨折した少年は徴兵を免除され村人たちは喜んだ。

チャーリー:師匠は”いずれわかる”と。

ガス:分かったようだな。」


【参考】

●大辞林

塞翁が馬

人間の禍福は変転し定まりないものだというたとえ。人間万事塞翁が馬。 〔 「淮南子人間訓」 から。昔,塞翁の馬が隣国に逃げてしまったが,名馬を連れて帰ってきた。老人の子がその馬に乗っていて落馬し足を折ったが,おかげで隣国との戦乱の際に兵役をまぬがれて無事であったという話から〕

●新明解

塞翁が馬

〔 「塞翁」 は、昔、中国北方の国境近くに住んでいた老人の意。その持ち馬がある日居なくなったかと思うと、しばらくして駿馬を連れ帰った。むすこは馬に乗ってけがをしたので結局戦争に行かないで済んだ。近所の人たちは、そのたびごとに塞翁に同情の意を表したり喜びの言葉を述べたりしたが、老人は一向取りあわず、 「福必ずしも福ならず、禍必ずしも禍ならず」 と答えた故事に基づく〕その人にとって何がしあわせになり、何が不幸になるか、前もって知ることが出来ないことのたとえ。 「人間万事―」

●三省堂 故事ことわざ・慣用句辞典

塞翁が馬

[出典] 〈淮南子(えなんじ)・人間訓(じんかんくん)〉

人生の禍福・幸不幸は変転して定まりないものである、というたとえ。昔、国境の塞(とりで)近くに住んでいた翁(おきな)の馬が胡(こ)の国に逃げてしまった。その後、数か月たって、その馬が胡国の名馬を連れて帰って来た。ところが、翁の子が喜んで乗っていると、馬から落ちて足に負傷した。一年後に胡人が攻め込んで来た時、国中の若者は皆戦いに出て戦死したが、翁の子は足を引きずっていたために、兵役を免れて無事であった、という故事による。「人間万事塞翁が馬」ともいう。

[原文] 「塞上に近き人、術を善くする者有り。馬、故無くして亡げて胡(こ)に入る。人皆之を弔す。其の父曰く、此れ何遽(なん)ぞ福と為らざらんや、と。居ること数月、其の馬、胡の駿馬を将(ひき)いて帰る。人皆之を賀す。其の父曰く、此れ何遽ぞ禍と為る能わざらんや、と。家、良馬に富む。其の子、騎を好み、堕ちて其の髀(もも)を折る。人皆之を弔す。其の父曰く、此れ何遽ぞ福と為らざらんや、と。居ること一年、胡人大いに塞に入る。丁壮の者は弦を引きて戦い、塞に近き人、死する者十に九なり。此れ独り跛の故を以て父子相保せり。故に福の禍と為り、禍の福と為るは、化、極む可からず、深、測る可からざるなり」

[参考] 曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』に「いにしえの人いわずや、禍福は糾う縄の如し、人間万事往くとして塞翁が馬ならぬはなし」とある。

[類句] 禍福は糾える縄の如(ごと)し


解説が長くなってしまいましたが上の会話は実は大変重要な意味を持っているのです。この映画の最後はチャーリー・ウィルソン本人の言葉で締めくくられるのですがそれは

「These things happened. They were glorious and they changed the world, and then we fucked up the end game.

これは本当の物語だ。輝かしい成果で世界を変えた。でも最後にしくじってしまった」

なのです。アフガニスタンはこの紛争によって国民の半分が14才以下という有様に陥ります。だから戦後復興のために学校や病院を充実させなければアメリカは有終の美を飾らなかったことになるのです、ソ連を駆逐はしたがそれを喜ぶだけで、残った国民の窮状を放置してはいけない"we'll see." だぞ、ガスがチャーリーに禅の師匠の話をしたのはこの意味だったのです。「福」を単純に喜んでいてはいけない、「禍」の面の予測を忘れてはならんのだぞと・・・。

深く考えさせる良い映画でした。さあ、では今から7回目を観ることにいたします・・・(嘘)


これが会話のシーンです
 

「人名歴史年表」遂に100万アクセス!

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 8月20日(金)02時24分58秒
返信・引用  編集済
  今調べてみると昨日の14時50分10秒100万人目の訪問者が来て下さったことになります。記念すべき訪問者のIPアドレスは「150.61.31.119」でした。この瞬間は阪急電車の駅前でバスを待ってボーッとしている時でした。思えば5年前・・・と調べてみたら何と11月に入ってからこんな風に紹介しています・・・

年賀状発売! 投稿者:リベル 投稿日:11月 3日(木)17時45分32秒

というわけで、早速年賀状を作っています。毎年その年にやっていること、始めたことなどを、丁寧にも書き連ねることにしているのです。で、今年の場合はこんなことを書いています。()内は書いていませんが。

『四百年以上も昔、シェークスピアが生まれた時(1564年4月26日生まれ〜1616年4月23日死去 )、ガリレイ(1564年2月15日生まれ) もわずか生後二ヶ月の赤ん坊でした。
そして徳川家康(1543年1月31日生まれ)は、その時二十一歳の若武者で、信長と共に三河の一向一揆を討っていました。
それから五十一年と三百六十二日の間、この三人は地球上に共に生息していたのです。
こういう不思議な偶然を集めて「人名歴史年表」を作り始めました・・・』てな風に・・・。』


アクセス解析で調べてみると今現在で総訪問者は1,807,102人です。トップページの訪問者の約1.8倍の人達がどこかを見てくれている、ということです。その4年前に作った「ハンセン病のリンク集」は只今612,286人でした。以上嬉しくて書きました、年甲斐もなくはしゃいでしまって、いささか見苦しいですね・・・お見逃し下さい・・・(^^;)


先程の画像です・・・
 

「新石器時代」という壁

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 8月18日(水)03時40分0秒
返信・引用  編集済
  極めて分かり易い説明を致します。まず毎度で申し訳ないのですが「文明の歴史・鳥瞰図」の下の方をご覧下さい。真ん中辺に「ハルシュタット文化」と言うのが有ります。これを右にたどると「フランス」、「ドイツ」、「大ブリテン」、すなわち西ヨーロッパ諸国(厳密にはイベリア半島を除く)があります。

問題は「ハルシュタット文化」以前の西ヨーロッパの文化をネグって良いのか?それとも無かったとでも言うのか?と言うことです。大辞林によると「ハルシュタット文化」、「ラ・テーヌ文化」迄はあるのですがそれ以前に文化を担当していた「ビーカー人」または「ベル・ビーカー人」と言うのは立項されていません。これらは例えば百科事典の「イギリス」の項では「中欧方面よりベル・ビーカー人と呼ばれる人びとが移住し(世界大百科事典)」とか「前2000年頃アルプス人種に属するビーカー人が来往した(万有百科大事典)」と明確に書いてあり、又彼等の時代の「巨石文化」は大辞林に「西ヨーロッパの,紀元前4000〜前2000年の新石器時代文化」と説明してあるのです。

チョット脱線しますが日本の「縄文時代」は厳密には日本の「新石器時代」とイクォールではありません。にしても私は日本の縄文時代の初めの所に「大平山元T遺跡」出土の世界最古の土器片の写真を示しています。さらばビーカー人がその名の由来とする「ビーカー土器」や、彼等の時代の「ストーンヘンジ」の写真を示さないのは、ひどい片手落ちでは無かろうか?

ならば追加して「ビーカー人」を入れればそれで済むことではないか。その通りなのですが、ただWikipediaで「イギリスの青銅器時代」を見ると「ビーカー文明」はB.C.2700年〜1900年で終わり、あとは「ベッド・ブランウェン時代」とか「ナイトン・ヒース時代」とか聞いたことのない文化がB.C.900年まで存在するのです。そんなマイナーな文化をイギリスの部分で紹介すると著しく他とのバランスを崩します。それで「」にぶつかったというワケなのです。

ここは鷹揚に構えてバラリズンと切り捨ててしまうか・・・♪♪♪


ビーカー土器(本当は銅器じゃないのかなあ・・・???大貫良夫他著「人類の起源と古代オリエントp.63」に「鐘形杯土器(ベル・ビーカー)」と堂々と書いてあるのですが・・・)
 

Re: 妙な癖

 投稿者:Ichiro  投稿日:2010年 8月16日(月)14時04分10秒
返信・引用  編集済
  > No.4805[元記事へ]

リベルさんへのお返事。

> 私は一日に一食15時頃から晩酌を始めるのですが、この頃妙なことに気付きました。テレビを観たり連れあいと話をしていたりして「地名」が出てきたとき、思わずヒョイと右を向いてしまうのです。ウルグアイとパラグアイとどっちが北だったっけと言うようなときです。すぐこの妙な癖の原因は分かりました。いまトイレの中で梅棹忠夫著「文明の生態史観」を読んでいますが当然のことながら地名が沢山出てきます。実は座って右の壁面に大きな世界地図が貼ってあるのです。だからしょっちゅうそれを見ます。なので地名を確かめる時は右の壁を見る癖が付いてしまっているのです。

  こんにちは。小生はテレビの横に大きな世界地図帖と日本地図帖を置いています。世界の方はだいぶ前に買いましたが、日本の方は平成の大合併が一段落してから買いました。

  ●追加。こんなの には載っていないですが、今ベルリンにいます。

 Ichiro
 
    (リベル) Ichiroさんこんばんは・・・。

地図と言えば・・・最近見付けたものを二つ、ご紹介します。

最新の世界地図をウェブで見るには総務省統計局がこんなのを作っています。これは便利です!!

もう一つ意外に面白いのに絶版になっているのが高崎通浩著「世界の民族地図」です。どこをめくっても何か面白いことに出会うので楽しい本です。アマゾンか古書店でお買い求め下さい。今アマゾンを調べたら送料込みで610円のが有りました・・・^^(8.17 01:18)
 

妙な癖

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 8月16日(月)03時15分42秒
返信・引用  編集済
  私は一日に一食15時頃から晩酌を始めるのですが、この頃妙なことに気付きました。テレビを観たり連れあいと話をしていたりして「地名」が出てきたとき、思わずヒョイと右を向いてしまうのです。ウルグアイとパラグアイとどっちが北だったっけと言うようなときです。すぐこの妙な癖の原因は分かりました。いまトイレの中で梅棹忠夫著「文明の生態史観」を読んでいますが当然のことながら地名が沢山出てきます。実は座って右の壁面に大きな世界地図が貼ってあるのです。だからしょっちゅうそれを見ます。なので地名を確かめる時は右の壁を見る癖が付いてしまっているのです。

最近は目の衰えに中腰の辛さが加わって、大きくて細かい世界地図で地名を探すのが億劫になってきました、そしてとうとう本棚の地図帳から手頃な簡略地図を切り取って貼り付けてしまいました。それが下の写真です。みっともないから下の大きい地図を剥がしてから貼れば、と言われそうですが、それさえ億劫で・・・いけませんねえ・・・(^^)


地図の上に地図
 

Re: 絶句!!!!!

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 8月16日(月)02時55分42秒
返信・引用
  > No.4786[元記事へ]

リベルさんへのお返事。

> ビックリマークの数が私奴のショックをそのままお伝えしています。トイレに備え付けの高野孟著「世界地図の読み方」を例によって無目的にペラペラやっていました。丁度今「宗教」、「言語」、「気候」などのテーマ別の世界地図を物色しているのでツイ目が止まったのが「朝日=タイムズ・世界歴史地図」という一冊でした。アマゾンで調べたのですが何かスッキリしない、で「世界歴史地図」でググったら最初に出てきたのがこれだったのです。ダウンロードしなければならないようなので色々試みたのですが、上手くできません。そうこうしていて「ワールド・ヒストリカル・アトラス」というのを見付けました。そして絶句したのです・・・!!!!!
>
> 「文明の歴史・鳥瞰図」と正に同じ発想で、しかし技術的には遙かに高度で、その上凄い歴史地図までリンクしています。私のやりたかったことはこれだったのです。単に技術的な知識が無いために、私なりに努力していたのですが、これまでの努力は一体何だったのか?と心の底から落胆致しました・・・というのは全くの嘘です。喜びはしましたが落胆はしません。これを自分のサイトに活かして取り込もうと考えています。
>
> 何はともあれこんな素晴らしいサイトが有ることを、先ず皆様にお伝えしたくて、書きました。これから取り込み方や作者との交渉を考えなければなりません。それでは・・・^^
 

(無題)

 投稿者:エリカ  投稿日:2010年 8月15日(日)18時09分16秒
返信・引用
  >昔から映画は好きなのですが映画館へはほとんど行きません。
>「泣く」と言っても尋常じゃないからダメなのです、もうしゃくり上げて慟哭、号泣、顔はドロドロのメタメタ。ひそかに涙を拭うなどという奥ゆかしいものでは無いから、映画館へは行けません。

わたしはあまり泣かないほうですが、映画やドラマみるとよく泣きます。思い出すのは学校からヘレンケラーの映画「奇跡の人」をみたときだったなあ。


悲しみこらえて 微笑むよりも
涙かれるまで 泣くほうがいい
人は悲しみが 多いほど
人には優しく できるのだから

贈る言葉から
 
    (リベル) エリカさんこんばんは・・・。

「贈る言葉」は私も好きで良くカラオケで歌いました、最近は行っていませんが。

恥ずかしいことですが良く歌ったにしては、この歌詞を覚えては居ませんでした。こうして書かれたものを読んでみると成る程なあと改めて思います。

まあ私の場合は涙腺がダラシナイに過ぎませんが。「人には優しく」ありたいものです・・・なかなか実践はできませんが・・・(^^;)(8.16 02:44)
 

映画「劒岳 点の記」

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 8月11日(水)08時19分54秒
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  「劒岳 点の記」を観ました。木村大作監督の正に大作でした。俳優の方々、スタッフの皆さんもさぞ大変な撮影だったろうと簡単に察しられるような圧巻の連続でした。測量作業を命じた軍の幹部の醜さは毎度のことでしたが、山男の爽快さが全てを吹き飛ばして後味の良い映画を見せて頂きました。

香川照之演じるところの案内人宇治長次郎の言葉が脳裏に焼き付きました。

「誰も行かんかったら 道は出来んちゃ!」

私も今誰も行ったことのない道に分け入ろうとあがいています。大いに力づけられました・・・さあ、やるぞ・・・やってやる♪♪♪


 

修正版・「文明の生態史観」

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 8月 9日(月)02時04分26秒
返信・引用  編集済
  「文明の歴史・鳥瞰図」をそれこそ鳥瞰しながら、常に感じるのは本当にバランスを失わないで世界の文明をガッチリ両腕で抱えるように把握できているだろうか、そしてそれを最もふさわしい伝え方で表すことが出来ているのだろうかという不安です。その不安を少しでも払拭できないかと梅棹忠夫著「文明の生態史観」に目を通しています。(この部分 8.9 13:26 修正追記)

今半分を過ぎたあたりまで読んできました(330頁中の204頁)、後は「東南アジア」他の各論に入ります。丁度本文の中に著者自身が振り返って「整理した文章」が登場しますので、それを拝借してご紹介したくなりました。実に実に知的好奇心を刺激し満足させてくれる一冊です。是非お奨めしたくて書きます。

「文明の生態史観」という言葉自身が取り付きにくくて最初読んだときは良く理解していませんでしたが、これは要するに「世界の諸文明の成り立ち方を、一つの視点から体系化してみると・・・」という意味だと理解しました。

数日前に書いた中のエピソードのその三にこうあります。

 中国インドも、それぞれに自分を中心として一大文明を展開した国である。日本は、中国の辺境国家のひとつにすぎなかった。日本人はまさに東夷であった。
 わたしはインドでヒマラヤのふもとのカリンポンへいって、そこで、チベット人に接触した。かれらの文化は、それはそれなりに高度のものではあるが、インドの文化にくらべると、はるかに素朴である。わたしは、同行のシュルマン博士をかえりみて、いった。
 「われわれ日本人は、辺境民族ですから、中華思想には反発し、むしろ、こういう辺境文化のほうに共感をおぼえる点があります」
 シュルマン博士は、わらいだして、いった。
 「ドイツ人もそうですよ
 かれは、ドイツ系アメリカ人である。そして、ドイツ人は、ローマ世界の外にすむ、ゲルマンの蛮族だったのだ。

ご本人は明記されていませんが、これは一種の「種明かし」ではないかと思います。この遣り取りを突き詰めていって「文明の生態史観」が生まれたのではないか、と思っています。

今から、冒頭に書いた「整理した文章」をご紹介します。(太字は転記者)

「まず、東洋とか西洋とかいうわけかたは、ナンセンスである。文化伝播の起源によってわける系譜論(その文明はどこから伝わってきたものか?:転記者)の立場をさって、共同体の生活様式のデザインを問題にする機能論(その文明はどんな内容の文明であったか?:転記者)の立場をとる。すると、アジア、ヨーロッパ、北アフリカをふくむ全旧世界(この論では当然のことながら南北アメリカ大陸とオセアニアは除外されています:転記者)は、ふたつのカテゴリーにわけることができる。ひとつは、西ヨーロッパおよび日本をふくむところの、第一地域である。もうひとつは、そのあいだにはさまれた全大陸である。第一地域は、歴史の型からいえば、塞外野蛮の民としてスタートし、第二地域からの文明を導入し、のちに、封建制絶対主義ブルジョア革命をへて、現代は資本主義による高度の近代文明をもつ地域である。第二地域は、もともと古代文明はすべてこの地域に発生しながら、封建制を発展させることなく、その後巨大な専制帝国をつくり、その矛盾になやみ、おおくは第一地域諸国の植民地ないしは半植民地となり、最近にいたってようやく、数段階の革命をへながら、あたらしい近代化の道をたどろうとしている地域である。
 (中略)その趣旨を模式図にすると、図(↓)のようにかくことができる。全旧世界を、横長の長円であらわし、左右の端にちかいところで垂直線をひくと、その外側が第一地域で、その内側が第二地域である。
 第一地域の日本と西ヨーロッパははるか東西にはなれているにもかかわらず、その両者のたどった歴史の型は、ひじょうによくにている。両者の歴史のなかには、たくさんの平行現象をみとめることができる。それはなぜか。それをとくためには、むしろ第二地域に目をうつさなければならぬ。」

長くなりますが、ここまで来ると放り出せなくなりました。「旧世界の構造」という章に入ります。

「旧世界の生態学的構造をみると、たいへんいちじるしいことは、大陸をななめによこぎって、東北から西南にはしる大乾燥地帯の存在である。歴史にとって、これが重大な役わりをはたす。乾燥地帯は悪魔の巣である。暴力と破壊の源泉である。ここから、古来くりかえし遊牧民そのほかのメチャクチャな暴力があらわれて、その周辺の文明の世界を破壊した。文明社会は、しばしば回復できないほどの打撃をうける。これが第二地域である。
 第一地域は、暴力の源泉からとおく、破壊からまもられて、中緯度温帯の好条件のなかに、ぬくぬくと成長する。自分の内部からの成長によって、なんどかの脱皮をくりかえし、現在にいたる。西ヨーロッパ日本もおなじ条件にあった。
 第一地域のなかに、日本と西ヨーロッパという平行現象があったように、第二地域のなかにも、いくつかの部分があって、それぞれが平行現象をしめすことを指摘した。第二地域のなかは、四つの大共同体―あるいは世界、あるいは文明圏といってもよい―にわかれる。すなわち、(T)中国世界、(U)インド世界、(V)ロシア世界、(W)地中海・イスラーム世界である。いずれも、巨大帝国とその周辺をとりまく衛星国という構造をもっている。現在では、帝国はいずれもつぶれたけれど、共同体としての一体性はきえさったわけではない。現在なお、この四大ブロック併立状態再現の可能性はひじょうにつよい。
 以上が生態史観という名まえのもとに提出した、わたしの見かたのアウトラインである(中略)あゆんできた歴史の道すじの型という点では、第一地域と第二地域とのちがいは重要である。それは、社会制度宗教文化の広はんな範囲にわたるちがいをまきおこす。とくに日本に注目していえば、第一地域に属する日本は、第二地域に属する中国世界、インド世界などの国ぐににくらべて、地理的におなじアジアに属しながら、内容的にはいちじるしいちがいをもっているのである。アジアにおける日本の特殊性というものは、だから、第一地域としての特殊性である。日本はむしろ、西ヨーロッパとおなじカテゴリーにはいる地域である。」

長くなりましたが、この読みやすい日本語に引きつけられて全部転記してしまいました。途中何度か漢字をかなに直さざるを得ませんでした。自分が如何に普段漢字を多用しているか、少なからず反省しつつ転記していました。

解説は必要ないと思いますが、一つだけ付け加えます。ウィキペディアの梅棹忠夫の項にこう書いてありました・・・

「また歴史研究に生物地理学的観点をもちこんでユーラシア史を構想した点で、ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』の論点の一部を先取りしているともみなしうる。」

この捕らえ方はおかしいと思います。「文明の生態史観」「銃・病原菌・鉄」の関連性を告げたかったのだろうと察しますが、強いて関連性を言えば同じく文明論である、特に「比較文明論」を指向していると言う点だけだろうと思います。

ダイアモンドはパプア・ニューギニア島のヤリという政治家の「何故白人は色々なものを作り出してここへ持ち込んだけれど、我々は何も作り出せなかったのだろう?」という素朴な疑問を聞き逃さず、解き明かそうと25年の歳月を費やして調べました。そして、決してそれは人種的・民族的な優劣に起因せず、飽くまで地理的或いは気候的条件の差異に基づくのだと立証したのです。ジャレド・ダイアモンドはその立証を行っただけで、諸地域の文明の形成過程のパターン化に類する分析は一切行っていません。逆に対照とする地域をアメリカ大陸とオセアニアにまで拡げることによって「文明の生態史」の多様性を立証する結果に至っています。

梅棹氏が巨視的に文明の大きなパターンを設定しようとする帰納的作業を行ったのに反して、ダイアモンド氏は世界の諸地域の文明を洩れなく検証するという演繹的手法で考察を進めています。全く発想の原点が違うのです。(この部分 8.9 13:14 修正追記)

それを十把一絡げにするような安易な強弁で片付けられては梅棹さんも草葉の陰で苦笑いなさいます・・・^^


参考図
 

映画「イングリッシュ・ペイシェント」

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 8月 9日(月)01時26分42秒
返信・引用  編集済
  この映画は実は昨日で3回目でした。昔録画しておいて観たりして今回は「TUTAYA・DISCAS」で借りて観ました。

昔から映画は好きなのですが映画館へはほとんど行きません。新入社員の時だから昭和37年のはずですが「ナバロンの要塞」を、次は7年前のタケシの「座頭市」を連れあいと一緒にと、この2本しか記憶にありません。他にも観てはいるのですが、全く思い出せません。実は私は直ぐ泣き出すから映画館へは行けないのです。連れあいと行ったのも「座頭市」なら泣くようなシーンは有るまいと踏んでのことでした。「泣く」と言っても尋常じゃないからダメなのです、もうしゃくり上げて慟哭、号泣、顔はドロドロのメタメタ。ひそかに涙を拭うなどという奥ゆかしいものでは無いから、映画館へは行けません。映画ファンの友人などには軽蔑されるのですが「七人の侍」であろうと「アバター」であろうとテレビ画面の28インチ有れば完全に世界にどっぷり浸かって満足なのだから、それで「いいじゃねえか」と突き放しています。

映画について私がダメなのは他に二つ有るのです。一つはあの「フラッシュバック」とやらいうヤツ、過去と現在のシーンを交互に織り交ぜる手法、これが大変な苦手なのです。この「イングリッシュ・ペイシェント」は特にそればっかりなのですが流石に3回目、それもミンゲラ監督解説のTrailerを観て、「あっ、そうだったのか」なんて言ってるほどですから病膏肓です。

もう一つは何度観ても結末を忘れることです。早く言えば要するに頭が悪いのですが、なので懲りもせず平然と何度も同じ映画を観て満足しているのです。この点ばかりはしかしバカなればこそのメリットでこれは有り難いことですが。

しかし何と言ってもそうですまた言っちゃいますが、ジュリエット・ビノシュは良かった。ミンゲラさんも誠に憎いほど彼女の魅力を引き出して見せつけてくれました。もう一度だけ書かせて頂くと私の連れあいはジュリエット・ビノシュに似ているのです。ハッキリ言って彼女のように美人ではないのですが顔の造作が似ているのです。

良いことをお教えしますと、たとえばこのように自分の連れあいを好きな女優に仮託しますと多少不愉快なことを言われても、「あ、ビノシュに言われちゃった」と嬉しく受け流すことが出来るという点です。これは世の憂さを少なくすると同時に逆に世の中を楽しくバラ色に(そこまでは行かないか;)してくれて誠に重宝です。毎日自己催眠を掛けて短い余生を満喫する、今日この頃でございます・・・なんてことはもう二度と、もう二度と書きません・・・(爆)

しかしこの仮託法は上手く働けば実に有効です、真面目にお奨めいたします・・・。


イングリッシュ・ペイシェントから(「シンドラーのリスト」のレイフ・ファインズも好演です)
 

「人名歴史年表」100万アクセス!

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 8月 7日(土)02時16分18秒
返信・引用  編集済
  「人名歴史年表」のアクセス数が90万を突破したと、嬉しそうに書いたのが2月3日でした。1日に約1000アクセスあるから5月には100万を超えるのではないかと予想していましたが、一向に越えない。この誤算は実は単純なミスに発していました。約1000アクセスというのは全ページの合計だったのです。アクセスカウンターは各頁に設置しているのですが、私自身はトップページだけで100万を達成する日を待っているのです。トップページへのアクセス数は全ページへのそれの約半分なのです。現在トップページは約99万ですから1日に500アクセスとしてもあと20日かかります、9月の初めくらいでしょうか。

ちなみに全ページの合計では今日現在でこのようになっています。丁度5年前にスタートしたのですね、その当時は一日のご来店者数がわずか5名でした。思えば感無量ではあります。全ページのご来訪者数がたまたまこの1日に100万を越えているのがお分かりいただけるかと思います。全ページの合計は178万回・・・はるけくも来つるものかは・・・「かな」でなく「かは」で良いのでしょうか・・・???

面白くもない話でご免なさい・・・m(_ _)m

検索したらこんなのが有りましたが、自信がありません・・・

”はるけくも 来つるものかは 石狩の 大河を前に 豊平のはて   榎本武揚”

岩波の古語辞典によれば「反語」と「疑問」を表す助詞、とありますが「感嘆」を表すとは書いて無くて・・・???
 

過去の話ではない。

 投稿者:北風  投稿日:2010年 8月 6日(金)19時17分28秒
返信・引用
  今に続く米軍の(あるいは米国の)と、理解すべきでしょう。さらに、それを外圧として利用する一部の日本人への怒りを持続すべきだということと理解します。

この間、日患同盟の資料を読んでいたら、当時、「保安隊の30万人より、30万床
のベッドの増床を」というスローガンで運動していたが、新聞は再軍備をあおる記事ばかりで、結核患者の主張は取り上げてくれなかった、と書いてあった。

こういう、社会的な怒りと個人の「脳内の情動」とは次元の違う話ではないでしょうか? このようなコラムを朝日新聞が掲載するのなら、すくなことも沖縄問題についての報道姿勢はすぐに改めるべきではないでしょうか?

(「悪意」に発してはおりませんが、お気に触ったら削除してください)
 
    (リベル) 北風さんお元気でしたか、ご無沙汰しております・・・。

折しも原爆投下や焦土作戦を決行した国の代表が昨日の式典に初参加しました。その報道の横の「素粒子」にこう書いてあります。”「服が燃え、あの子は靴だけ履いていた」。13才の妹を亡くした男性は小さな声で言った。思い出さぬ日はない、怒りが消えたことはない、と。”

「憤り」とはこのようなものです。いまさら徒に「憤り」を煽るのは正しいことではない。日本を代表する大新聞がそれを掲載するのは如何なものでしょう。そうするよりも静かに核のもたらす悲惨な事実のこの上ない重さを、彼等に感じ取って帰って貰いたい。文化功労者も大新聞もこの記事が米英人にどう読まれるかに気を配って頂きたいのです。日本人の怒りはただ大声で「憤り」を喚き立てるような浅薄なものでは無いはずです。先日もどこかの牧師さんが言っておりました・・・

”人間の価値とは何を禁じるかでは決まらない。何を否定し―拒み、排除するかでもありません。むしろ何を受入れるかで決まるのでは?何を創造し誰を歓迎するかで・・・”・・・(^^)(8.7 00:35)
 

悲劇を見詰め、正当な憤りをもつべきである

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 8月 6日(金)01時45分44秒
返信・引用  編集済
  昨日の朝日新聞の夕刊に川田順造氏が「悲劇に正当な憤りを」という一文を書いておられました。私は一瞬戸惑いを覚えました、「憤り」に「正当」、「不当」の別は無いと日頃から信じておりますから。まあ何かの省略だろうと中身を読んでみました。やはり「戦争の悲劇を凝視し直して米軍に対してもっと憤るべきだ!」ということでした。

私はこういう文章を大新聞が堂々と掲載していることに、顔を赤らめる気持ちがしました。で新聞の切り抜きを載せて終わりにして、さっさとやりたいことに取り掛かろうとしたのですが、何か余りにも投げやりで又第一川田氏にも失礼なので、説明のようなことを付け加えるべきだと、少し書きます。

最初の違和感は「正当な憤り」です。「憤り」は人間の情動なのでこれには「正当」も「不当」も無いのですが(参考:時実利彦著「脳の話」岩波新書 p.152)これは「憤りの表し方」の省略だと思えば納得できます。

しかし「米軍に対して憤りを表せ」と今頃書くことには合点が行きません。言われなくても60年以上も前から「憤り」は覚えていて、決して忘れませんがさりとて今更憤りが足りないからもっと「憤りを表せ」と憤りを煽るようなことを言っても全く意味が有りません。抱いている「憤り」を表すか否か?表すとしてもどう表すか、どちらもその人の自由であるはずです。なので何が言いたいのかが良く分からないのです。

”「ゲルニカ」と違って、井上有一氏の「噫横川国民学校」や「東京大空襲」は「憤り」が表明されていない”と書いておられるけれども「原爆の図」に全く触れていないのは何故なのでしょう。絵画を観てそこからたとえば「憤り」を感じ取るか否かは、観る人の側に委ねられているはずです。他の人の「感受性」に踏み込む類のことは有ってはならない事だと思います。

”怒りの不在は、広島・長崎の被爆者の証言にもうかがえる。赦しを美徳とする、日本人の特質に由来するのだろうか。”

これに至っては、もう一切評言を加える気も致しません。開いた口が塞がらずにそのまま退散退散・・・スタコラサッサ・・・!!!


8月5日朝日新聞夕刊「私達の戦争・2010年夏」


原爆の図(広島市HPから)
 

グラウンド・ゼロの近くにモスクを計画

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 8月 5日(木)02時52分23秒
返信・引用  編集済
  標記の件をテレビで放送していました。新聞で詳しいのを探してみると7月30日の毎日新聞が見付かりました。

私は先ずテレビで聴いたときは「何もわざわざ近所に建てなくても・・・」と思ったのですがそうではなくて改修なのですね。一応公聴会で議論されたことを読んでみて、これはニューヨーク市長の判断が正しいと思いました。まあ「テロリストに屈することになる」と言う逆説的論法は好きではないのですが、それはさておいて。

ニューヨーク市長なら当然オバマ大統領の鼻毛の概数くらいは把握しているでしょうから、中央政府の意向もそうなのでしょう。米国が「反対」するとなれば、テロリスト云々はともかく、俗に言う「何とかの穴が小さい」と言うことになるのでしょう、敬虔なイスラム教信者に何の罪も無いのですから。

「坊主憎けりゃなんとやら」の気持ちは不完全ながら(当事者として身近な人間を失ったわけではないので)分かりますが、ここはそのエネルギーを他に向けるべきだろうと思います。もう一つ「不完全」なのは自分がイスラム教やキリスト教などの一神教の信者ではないことが原因の「遠慮」が有ることです。建前上と申しますか母方の先祖が庭にお稲荷さんを建てていたと言うだけの理由で父母の葬儀は「神道」で行いましたが、私自身は無宗教なのです。なので毎週教会へ行く人達や五体投地して祈りを捧げるような人達の宗教観は、身体で理解することが出来ず「不完全」に推察申し上げるほかないのです。

テロ行為やそれを行うイスラム原理主義者は憎みますが、文明発祥の地イラクの無辜の人びとや敬虔なイスラム教徒には何の罪もないのですから徒に排除してはいけませんですよね・・・^^


グラウンド・ゼロから北へ三本目を左折すると問題のビルがありました。毎日新聞の写真は修正してあることが分かります・・・。
 

Re: 映画「ショコラ」から

 投稿者:あずき  投稿日:2010年 8月 4日(水)01時17分9秒
返信・引用
  > No.4794[元記事へ]

> 「私は神(イエス)の奇跡的な復活を語りたいのでしょうか?違います。神のそうした神性について語るよりも―人間性を語りましょう。彼がどのように地上で暮らしたか。そのやさしさや寛容についてを。私はこう思います。人間の価値とは何を禁じるかでは決まらない。何を否定し―拒み、排除するかでもありません。むしろ何を受入れるかで決まるのでは?何を創造し誰を歓迎するかで・・・」
>
> さてあなたはどちらに軍配を上げられますか?

こちらを選びたいと思いますが、最後の「歓迎」を「愛する」に置き換えたいと思います。
翻訳は本当に大変なお仕事ですが、読む側も2〜3人の翻訳者のものにあたることができれば、それが1番いいのですが・・・。以前リルケの「オルフェイスのソネット」を、2人の翻訳者を比較しながら、取り組んでみましたが、それでも本当に理解できたのか?今でも不安です。

> ジュリエット・ビノシュ(昨年の10月です)

うふふ♪
 
    (リベル) あずきさんいらっしゃいませ。

>こちらを選びたいと思いますが、最後の「歓迎」を「愛する」に置き換えたいと思います。

おお、心強い味方を得ました。私も全く同感なのです、実は・・・♪♪

>以前リルケの「オルフェイスのソネット」を、2人の翻訳者を比較しながら、取り組んでみましたが・・・

そういえば去年の秋から精力的にお書きになっていたのを覚えています。私は理解が追いつかず付いていけなかったのですが・・・^^

>うふふ♪

まったく「うふふ♪」でございます、よね・・・(^^;)(8.4 2:34)
 

映画「ショコラ」から

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 7月31日(土)07時06分39秒
返信・引用  編集済
  "I'm not sure what the theme of my homily today ought to be. Do I want to speak of the miracle of Our Lord's divine transformation? Not really, no. I don't want to talk about His divinity. I'd rather talk about His humanity. I mean, you know, how He lived His life, here on Earth. His kindness, His tolerance... Listen, here's what I think. I think that we can't go around... measuring our goodness by what we don't do. By what we deny ourselves, what we resist, and who we exclude. I think... we've got to measure goodness by what we embrace, what we create... and who we include."

どうも気になって過去ログを検索しました、案の定!!!でした。これです。2年以上前に書いています。進歩がないというのか全く同じ映画の同じ部分に惹かれました。一つ気が付いたのは翻訳者が違うことです。こういうことはあまり想像しなかったし知らなかったので「へえーっ」と思いました。今回の翻訳(字幕)を念のために書いておきます・・・。二つ並べて見ました。

「私はキリストの神性についてではなく、人間性について話したい。彼がこの世で我々に示した思いやりと寛容について、私はこう思います。人間の価値は何かを禁じたり、誰かを排除することで決まるのではありません。何を受け入れるかで決まるのです。何を生み出し、誰を愛するかによって・・・。」

「私は神(イエス)の奇跡的な復活を語りたいのでしょうか?違います。神のそうした神性について語るよりも―人間性を語りましょう。彼がどのように地上で暮らしたか。そのやさしさや寛容についてを。私はこう思います。人間の価値とは何を禁じるかでは決まらない。何を否定し―拒み、排除するかでもありません。むしろ何を受入れるかで決まるのでは?何を創造し誰を歓迎するかで・・・」

さてあなたはどちらに軍配を上げられますか?この翻訳も大切な創造作業でしょう。翻訳者お二人とも一生懸命考えられたに違い有りません。それはご自分の価値を定める作業でもあるのですから。私達はそうして作られた言葉を通じて感動し、私などはその感動をこうやって書き付けているほどです。

それはさておき、何度も読み返しましたが、その差が余りにも歴然としているのに驚きます。うーむ・・・。


ジュリエット・ビノシュ(昨年の10月です)
 

六つのエピソード

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 7月27日(火)13時43分32秒
返信・引用  編集済
  その一 1492年以前の人種分布と現在の人種分布文明の歴史・鳥瞰図から)

 アメリカ大陸は以前はモンゴロイド(現在のインディアンとインディオ)に覆われていたのですが、コロンブス後のスペイン・ポルトガルの流入以後はガラリと人種分布が変わりコーカソイドが覆いました。

その二 ローマ帝国とゲルマニア文明の歴史・鳥瞰図から)

ゲルマニアの西部が現在の(ベルギー、オランダ)ドイツになりました。ここで紹介している「超拡大図」は(ラテン語なのが面倒ですが)実に興味深く、特にローマ時代の他民族について多くを教えてくれます。塩野七生氏の「ローマ人の物語」を読みたくなりました。図書館で調べてみます。



その三 梅棹忠夫著「文明の生態史観」から

 中国インドも、それぞれに自分を中心として一大文明を展開した国である。日本は、中国の辺境国家のひとつにすぎなかった。日本人はまさに東夷であった。
 わたしはインドでヒマラヤのふもとのカリンポンへいって、そこで、チベット人に接触した。かれらの文化は、それはそれなりに高度のものではあるが、インドの文化にくらべると、はるかに素朴である。わたしは、同行のシュルマン博士をかえりみて、いった。
 「われわれ日本人は、辺境民族ですから、中華思想には反発し、むしろ、こういう辺境文化のほうに共感をおぼえる点があります」
 シュルマン博士は、わらいだして、いった。
 「ドイツ人もそうですよ
 かれは、ドイツ系アメリカ人である。そして、ドイツ人は、ローマ世界の外にすむ、ゲルマンの蛮族だったのだ。


その四 米、広島式典に初出席へ(2010年7月27日朝日新聞朝刊から)

 (前略)広島市は1998年から核保有国あてに、05年以降はその他の国へも式典への招待状を出しており、これまで核保有国ではインドパキスタンロシア中国が出席。出席してこなかった米英仏は、核軍縮・核不拡散の機運の盛り上がりを背景に、参加についても協議してきたとみられる。は臨時代理大使を派遣する方針をすでに表明。米英は大使館関係者が出席するとみられる。(後略)


その五 岡井敏著「原爆は日本人には使っていいな」(早稲田出版)2010年7月27日朝日新聞朝刊・1面下段、広告欄から

 人種差別で原爆はドイツでなく日本に向けられた

ルーズベルトとチャーチルはこう決定した。広島・長崎への原爆は軍事でなく犯罪だが、日本では核廃絶を掲げる機関もこれを隠す。原爆の日の追悼式にすら真実が語られない


同族たるコーカソイドは避けて、モンゴロイドを殺そうという人種差別です。


その六 マンハッタン計画・原爆投下目標選定委員会日本原水協ブログから)

 「最初の原爆をどこに投下するかが議論され、全般的な見地から、最良の使用地点はトラック島の港に結集している日本艦隊だということであった。スタイヤー将軍は東京を提案したが、爆弾は、もしそれが不発に終わった時、簡単に引き上げることができない十分深い水中に落ちるようなところで使用すべきだということが指摘された。日本人が選定されたのは、彼らがドイツ人とは異なりそれ(不発爆弾)から知識を獲得しそうにないからであった。

 すなわち、ドイツに使用して不発弾になると、開発している原爆の核分裂物質に使われる可能性が高いと判断して、南太平洋のトラック島(現在のミクロネシア連邦)の日本艦隊を目標に選定したのでした。」

ドイツだと不発弾の調査研究→利用・開発→逆に製造・使用するに至る危険性が高かったと言うのです。これも差別と言えば差別(=能力差)ですが・・・。


どちらにしても、とにかく大虐殺をその張本人が直視しようと決心するまでに、65年かかったと言うことですよね。刑務所に65年間入っていたら大抵の人間なら反省し改心するでしょうから・・・まあそんなところかな・・・^^
 

いい顔

 投稿者:あずき  投稿日:2010年 7月26日(月)20時13分8秒
返信・引用  編集済
  >この人は良い人だな

詩集や童話、絵本などを主に出している出版社がありますが、ここの社長(兼編集長)さんは、作家や詩人、画家などに会って「この人はいい顔している。」と感じた時に、一緒に本を作ると決めるそうです。そうすると本も「いい顔している」そうです。

ただし○万部売れたり、○百部しか売れなかったりするわけですが、めげないそうです。
このお話を思い出しました(^^)。

ごちそうさまでした。美しい奥様によろしく♪
 
    (リベル) あずきさん、おはようございます・・・ふだんより5時間も多く眠ってしまって、心配した連れあいに起こされてしまったほどです。暑さで寝不足が積もり積もっていたのでしょうか???

>ごちそうさまでした。美しい奥様によろしく♪

いやはや参ってしまいました。「ごちそう」を差し上げる積もりは毛頭なかったので・・・(^^;)・・・嘘ですね、今読み返してみて恥ずかしくなりました。のろけています、ダメですね・・・(恥)(7.27 05:08)
 

ジュリエット・ビノシュという女優

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 7月25日(日)01時02分46秒
返信・引用  編集済
  先ずジュード・ロウ、ロビン・ライト・ペンとの「こわれゆく世界の中で」を観ました。何年か前に見ていましたが、その「ボスニア難民女性」の新鮮な演技に引きつけられました。それからその18年前に撮った「存在の耐えられない軽さ」を観ましたがこれも2度目でした。これはダニエル・デイ・ルイスという2度オスカーを取った男優との競演ですがこの鼻持ちならない野郎(と思わせる演技力なのでしょうか)に一目惚れして待ち合わせ場所に現れるときのジュリエット・ビノシュの素朴さと初々しさにはまたまた仰天しました。最初に観たときもこのシーンが長い間目に焼き付いていたことを即座に思い出したほどです。「この人は良い人だな」と思わせてしまうのです。この数十秒だけでオスカーを10本献上したくなります・・・(*^_^*)

小柄なのと、奥眼と、頬肉と、扁平な顔容が連れあいに似ているのに気付いて、ハタと膝を打ったのです。いや連れあいはこんなに「美人」ではありませんが・・・^^


ジュリエット・ビノシュ
 

こんばんは

 投稿者:あずき  投稿日:2010年 7月21日(水)21時25分56秒
返信・引用  編集済
  >あずきさん、どうかレスをお書きにならないで下さい・・

……と、おっしゃられても出てきました(^^)。

>グッと涙が溢れました。本当のことは一つなんだなあと思って。

この↑お言葉が「?」のままだったのです。これでわかりました。
実はわたくしも両親と姉の死後、もう1人の姉に絶縁状を書いた身です(汗。。。)

それから最近友人に絶縁状を渡す覚悟でいましたが、これは話し合って理解できました。
人間関係は様々ですが、残り少ない人生です。我慢しないでのびのび生きてゆきましょう。
 
    (リベル) あずきさん、こんばんは、やはり書かせてしまって申し訳ありません。

>わたくしも少々病んでいるようですね。

私も病んでいます。何とかして許せるような人間になれないものかと、苦しんでいます。でものびのびしているのはどうゆうわけなのか、矛盾を抱えたままであの世へ行くのでしょうね・・・(^^;)(7.22 03:17)
 

日曜大工・・・

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 7月21日(水)00時44分59秒
返信・引用  編集済
  長い間窓際に寝ていました。孫達が大人になってきて夏休みの寝所の関係からベッドを一つ移動する必要が生じ、私が使うことになりました。窓際に置けないので逆側の本棚の前に据えました。そこで実は、一つ不都合が生じたのです。

私はクーラーを使わず窓を開けっ放しにして就寝します。泥的は入ろうとしたら私をソット跨がなければならないので、入りっこないだろうという誠にいい加減な防犯心得なのですが。ここ山の中腹は標高200メートル近いので下界より気温は約1.2度低いのです。年に数度団扇を使う程度で凌げます。それどころか深夜には冷え込んできてノースリーブのパジャマでは寒くなり、ガラス窓を閉めて寝直します。

ここまで書くとようやく下の写真の正体がお分かりかと思うのです・・・そうですベッドに寝たままで枕元の紐を引っ張るとスルスルとガラス戸が閉まるという、自作の装置なのです。一昨日、昨日と二晩続けて試用しましたが重宝なものです。外に散歩から帰って汗まみれになったズボンが干してあります、これを干す時チョット邪魔になるだけで・・・快適です・・・^^

いけないことがしかし発生したのです。私は午前8時頃から11時頃までもう一度寝るのですが、昨日ムックリ身体を起こした時フト書棚の中のミッチ・アルボム著「モリー先生との火曜日」に気付きました。これはお読みになった方も多いかも知れません。仕事一本槍で自分を見失ってしまっていた私に大きなショックを呉れた本でした。友人達に電話を掛けまくって推奨したほどです。「いけないこと」と言うのは実はミッチ・アルボムは出来の悪い弟を絶縁してしまっているのです。今は知りませんがこの本で有名になったため、スペインへ去った弟との仲直りの為の努力をしていると当時聞きました。

それが単に「いけないこと」ではないのは実は私も弟と絶縁しているからなのです、どうしても許せないことがあって。2週間ほど前にここに生意気なレスを書いてから、ズット苦しみました。あの時の「涙と絶句」の本当の理由はここに有ったのです。あずきさんごめんなさい、偉そうなことを言える私ではないのです。いやそうであればこそ一層良く理解できるからなのではあるのですが。

新しい装置の紐を引くとき弟を閉め出している気持ちに襲われるのです。「モリー先生との火曜日」も目に付かないところに移動しました。


この文章を書くために下の写真を撮影したのです。素直でないのがいけませんね・・・


追伸:当然ですがあずきさん、どうかレスをお書きにならないで下さい・・・m(_ _)m
 

Re: 卑弥呼を英語で何というか?

 投稿者:Ichiro  投稿日:2010年 7月15日(木)06時41分24秒
返信・引用  編集済
  > No.4787[元記事へ]

リベルさんへのお返事。

  面白い記事有難うございました。

 小生の書いた記事でも苦労しました。Wikipedia 宮古島島民遭難事件

  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%8F%A4%E5%B3%B6%E5%B3%B6%E6%B0%91%E9%81%AD%E9%9B%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6


 ですが、現地人の日本人を助けた人です。色々苦労して 英文では、Yoh Yuu Oh (Japanese Pronunciation);楊友旺 としました。ええ 漢字も入れています。

  http://en.wikipedia.org/wiki/Mudan_Incident_of_1871

 最近イタリア語版がでまして、なんてかいてあるかというと、Yoh Yuu Oh でした。

 めでたしめでたし。所で現地語でなんと発音するのか知りません。

 Ichiro (名づけ親)

  蛇足:小生が初めて書いたもので、イタリア語に翻訳されたのは初めてです。そのうちに色々な言葉がでるのではないかと思います。(笑) なお、小生が邦文、英文を書いたもので、あとで気づいたのですが、前にポーランド語で書かれていたのが一つありました。
 

卑弥呼を英語で何というか?

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 7月14日(水)14時39分16秒
返信・引用  編集済
  これをご覧下さい。昨日紹介させて頂いた驚きのサイトの一部です。紀元前2157年の地中海東岸に「アッカド」と並んで「エラム」というのが幅をきかせています。私はこの地図を以前から紹介しながら「トランス・エラム文明」には一切触れていませんでした。見落としていたのです、正直に申し上げて。今回こんなに大きく扱われているので気になりました、大きな見落としではないかと。そうしてあちらこちら調べまくりました、その結論を申し上げます。先程の「おもな文明の発祥地」の地図は青柳正規著「人類文明の黎明と暮れ方」によるものですが、この中(p.235)で著者は後藤健氏の「かなり信憑性の高い指摘」としてエラム文明がメソポタミア文明とインダス文明の仲介者であったという説を支持しています。それが上の地図にも現れているというわけです。

これはいけません、未だ少数意見であることが判明しました。高校の教科書11点から用語を拾い集めた「世界史B用語集」(山川出版社)にも「近年教科書から削除された用語」と凡例に記してある「参考」扱いに止まっているのです。さらにあちらのWikipediaやこの本「The archaeology of Elam」や百科事典類を読みまくりましたが、いけませんでした。私が「文明の歴史・鳥瞰図」に大きく取り上げた先程の地図を他のものに差し替えます。歴史や考古学はこういうのが恐いですね、いえ将来は研究が進んで正しいことが証明されるかも知れません。しかし現時点で少数意見であるものは、やはり一般向けに出版してはいけないと私は思います。いや先程の「人類文明の黎明と暮れ方」です。

一連の調査の途中でこんな凄いのを発見しました。10回ほど拡大すると読みやすいです。R.H. Carlingというのはどこの国の人だか分かりませんが、多分アメリカ人ですね。一番下に日本の年表が有ります。いい加減なところも沢山有りますが、しかし力作であることは確かです。お金を取るならもっと正確にしなければダメ(例えば鎌倉時代の始期)ですが。卑弥呼は「pimeko」と書いてありますが本当なのかなあ・・・???

追記:今気になってウィキペディアからWikipediaへ飛んでみました、こういう時誠に便利です。「Himiko or Pimiko」でした。ドイツ語は同じ、イタリア語では「Pimiku」が加わり、フランス語は「Himiko」だけでした。どうも先程の「pimeko」は怪しいですね、最近はいい加減なことが言えなくなって来ました。良いことですね・・・^^(7.14 18:03)
 

絶句!!!!!

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 7月13日(火)03時15分17秒
返信・引用
  ビックリマークの数が私奴のショックをそのままお伝えしています。トイレに備え付けの高野孟著「世界地図の読み方」を例によって無目的にペラペラやっていました。丁度今「宗教」、「言語」、「気候」などのテーマ別の世界地図を物色しているのでツイ目が止まったのが「朝日=タイムズ・世界歴史地図」という一冊でした。アマゾンで調べたのですが何かスッキリしない、で「世界歴史地図」でググったら最初に出てきたのがこれだったのです。ダウンロードしなければならないようなので色々試みたのですが、上手くできません。そうこうしていて「ワールド・ヒストリカル・アトラス」というのを見付けました。そして絶句したのです・・・!!!!!

「文明の歴史・鳥瞰図」と正に同じ発想で、しかし技術的には遙かに高度で、その上凄い歴史地図までリンクしています。私のやりたかったことはこれだったのです。単に技術的な知識が無いために、私なりに努力していたのですが、これまでの努力は一体何だったのか?と心の底から落胆致しました・・・というのは全くの嘘です。喜びはしましたが落胆はしません。これを自分のサイトに活かして取り込もうと考えています。

何はともあれこんな素晴らしいサイトが有ることを、先ず皆様にお伝えしたくて、書きました。これから取り込み方や作者との交渉を考えなければなりません。それでは・・・^^
 

やり過ぎか? 深度を増す「文明の歴史・鳥瞰図」

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 7月12日(月)13時59分11秒
返信・引用  編集済
  「文明に歴史・鳥瞰図」に新機軸を採用しました。前に冗談で言っていた「アスタリスク=」を取り入れました。これで展望が開けた!とも言えるのです。奥歯に何かが挟まったような物言いは後ほど説明いたします。

年表の400年頃の二行目、中国の「東晋」の所をご覧下さい。「」が打ってあります。これをクリックして下さい。この時期は中国の歴史年表の中で最もややこしくて勉強を放り出す部分なのです。それを分かり易く解説する材料がようやく出そろったのです。これはウィキペディアに素直に敬意を表します。どうやらこれは中国のWikipediaからの取り込みではないようなので・・・^^。「魏晋南北朝の系統図」は高校教科書「詳説世界史B」からスキャンしたのですが実はこれとほぼ同じものが寺田隆信著「物語 中国の歴史」に有るのを承知していました。これは貴重なので付箋を貼っていたのですが、その後教科書にも有るので驚いたのです。教科書の図や表に出典を記したものは見たことがありません。なのでこれはオリジナルなのでしょう、とすれば寺田氏は無断借用なのか・・・?

まあどちらでも良いことですが・・・。

「アスタリスク」は狭いところにも表示できて重宝なのですが、先ほど申し上げた心配は、やはりあまり調子に乗って多用すると何か画面が煩わしくなって見辛くなりはしないかということです。現在でも年表を欲張って取り込んでいるのでチョット疑問が発生しているので・・・様子を見ながら進めてみますが・・・。


「物語 中国の歴史」これは中公新書のこのシリーズの中でも読みやすく面白い本です。
非道いのは阿部謹也著「物語 ドイツの歴史」です。国立大の学長にまでなると適当に学生に書かせているのではないか等と、独りで腹を立てていたのですが、アマゾンのカスタマーレビューでも酷評が多かったので意を強く致しました・・・♪♪♪「ラーメン屋でも夫婦でやっている屋台の時は美味くても、有名になると不味くなる」とやら申しますから・・・(笑)
 

Re: 続・星にお願い

 投稿者:あずき  投稿日:2010年 7月 8日(木)11時10分32秒
返信・引用  編集済
  > No.4783[元記事へ]

> 「絶対に許せない奴」を「許す=be forgiving=受容」、これも人間にしか出来ない行為です、心の動きです。

すみませぬ。痛い言葉でした。
わたくしも少々病んでいるようですね。

池澤夏樹の新聞記事は、わかりやすく納得いく言葉でした。サンデル教授の著書の紹介もあって、なんだか様々なことが繋がっていくようですね。「読む喜び」とはこういうものですね。
大分以前に読んだ池澤夏樹のエッセー集「インパラは転ばない」を引っ張りだしてきました。いつかこのことについても書いてみたいと思います。ありがとうございました。
 
    (リベル) あずきさんこんにちは。

いま拝読してそしてどうなったかと申しますと、グッと涙が溢れました。本当のことは一つなんだなあと思って。

サンデル教授はあずきさんが前にこちらで紹介なさっていましたね。凄い番組を教えて頂いて、本当に感謝しております。堀文子さんのように1ミリでも自分を高めて死ねればなあと・・・(^^;)(7.8 17:29)
 

続・星にお願い

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 7月 8日(木)01時13分31秒
返信・引用  編集済
  昨日書いたことが言葉足らずだなあと感じて、補います。

人生の大きな愉しみ」=「何かを究めることとか、人を愛することとか・・・

と書きました。そうすることによって「神様の息吹を感じる」ことが出来ると・・・。

私は神様が人間にだけ与えてくれた、これは贅沢だと思うのです。美しく豊かな芸術作品に接して、或いは優れた思想に触れることによって、人間は自分を少しでも高いところへ持って行って死のうとします。動物にはそれが出来ない。これは人間だけの特権なのでしょう。「人生の大きな愉しみ」というのはこの意味です。

「何かを究めることとか、人を愛するとか・・・」と書きました。「何かを究める」というのは上に書いたことと通じるのですが「人を愛する」というのは唐突です。今調べたら去年の春にパンセのことを書いています。ここに書いている(3)のことがこの言葉の下敷きになっているのです。「絶対に許せない奴」を「許す=be forgiving=受容」、これも人間にしか出来ない行為です、心の動きです。


人間だけに与えられたこの「大きな愉しみ」を知ってから死んで欲しいと、子供達にはそうあって欲しいと、星に願ったというわけでした・・・。
 

為政者の口から質量のある言葉を聞いた

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 7月 8日(木)00時37分34秒
返信・引用  編集済
  昨日の朝日新聞の夕刊に池澤夏樹氏が『「最小不幸」の原理・運の悪い人にどう手を貸す』と題して読み応えのある一文を草しておられました。探してもネット上にはなく、やむを得ずOCRを使いました。ご一読下さい・・・(太字は転記者)


 政治に対してシニカルにふるまうのは簡単だ。
 政治家は悪党か無能かのどちらか、あるいはその両方だし、官僚は自分たちのことしか考えていない。
 この国民にしてこの政府、というのならまだ納得できるが、どうも政府のレベルは国民のそれを下回ってきたようだ。われわれの実力からすればもう少しましな政府を持てないものか。
 まず政治家の二世三世というのがいけなかった。彼らは社会で汗を流した経験もなく、地位と資産の保全以上の理念を持たないのではないか。
 アメリカでも二世議員が増えて、行く先を危惧する声が高まった。「あの人たち、自分が三塁にいるから三塁打を打ったと思ってるけど、違うのよ。三塁で生まれただけなの」などと揶揄された。ここ数代、日本の首相はみな三塁で生まれた人たちで、誰もホームベースを踏めなかった。全員残塁。
 政治家に要求される資質は多々あるから、菅直人が市民運動の出身だというだけで期待するつもりはない。自分たちは正しいという信念で一国の政治を振り回されてはかなわない。
 しかし、民主主義において市民運動は政治の基本形である。金権政治でも利益誘導でも談合でもなく、一つの課題について広く意見を集め、議論し、それを政策に反映させるべく運動する。当然、反対者を説得するための論理の言葉が必要になる。感情に訴えるだけの聞こえのいいワン・フレーズではなく、実のある論法が求められる。
 菅直人首相は就任の記者会見で「政治の役割は……『最小不幸の社会』を作ることだ」と言った。ひさしぶりに為政者の口から質量のある言葉を聞いたと思った。


 小泉政権はあからさまなリバタリアン(自由至上主義者)だった。儲けられる立場の者はいくらでも儲ければいい、政治はそれを応援するという姿勢。好況になれば富は下の方まで流れてくるという、いわゆるトリクルダウン理論だが、これはまったく機能しなかった。下流で待っていても何も来ないという悲しい流し素麺。
 リバタリアンの根拠はジェレミー・ベンサムの「最大多数の最大幸福」という言葉である。そのために各人の経済活動の自由を最大限に認める。
 昔、この言葉を聞いた時、「最大多数」と「最大幸福」の間のトレードオフということを考えた。経済の話だから幸福とは富のことであるとしよう。富の量が一定ならば「最大多数」が小さくなるほど「最大幸福」は大きくなる。早い話が富の独占。実際、小泉政権の間に所得格差を示す日本のジニ係数はじりじりと上がった。その結果が今の格差社会であり、昨今の先行きの暗さの理由なのではないか。
 ベンサムのスローガンにはもっと深刻な問題がある。「最大多数」からこぼれた人をどうするかということだ。成績の悪い科目を捨てて平均すれば誰だって優等生になれる。しかしその成績に意味があるだろうか?
 自分は「最大多数」の側に入っていると思って安心している人も明日のことはわからない。セーフティーネットがない。これは一度足を踏み外したらどこまで落ちるかわからないということだ。足元は奈落。
 「最小不幸」の原理は小泉政治を根底から否定するものである。それが明言されたことの意義は大きいと思う。
 人には生まれつきやその後の人生で運不運がある。運がいい人はその波に乗って勝手にやっていけばいい。国はそれを邪魔はしない。しかし。運の悪い人を奈落に落とすことなく、手を貸して安定した位置に戻す――これは国家の基本的な機能の一つではないか


 さて、現実の政治は理念だけで動くものではない。民主党は雑多きわまる烏合の衆であるし、中でどれだけの利害の力学がうごめいているかわからない。党員や官僚から己の利を超えた連帯を引き出すだけのカリスマ性が菅直人にあるかどうかも疑問だ。まして国民全体を引っ張っていけるかどうか。
 目前の政策には問題山積み。
 早い話が普天間についての政策はとても容認できない。辺野古への移転はまず不可能だ。その間に事故が起これは普天間は閉鎖に追い込まれる(ぼく自身は事故なしにそこへ追い込みたいと思っている)。
 それでも、消費税を十パーセントに上げることも検討と言ったことは評価しよう。政権に就いてすぐ、それも選挙の前という時期に言っだのはフェアな態度と見よう。そういうことが市民運動で得た感覚だとすれば、この先はまともな議論に基づく政治に近づけるかもしれない。
 投票日が近づくにつれて期待が不安に変わる。統率力を望む一方でその向かう先が危ぶまれる。政治は常にこの二律背反の間で揺れている。
 「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と宮澤賢治は言ったが、凡人たる者そこまでは達観できない。せめてこの国に不幸な人の少なからんことを目指したい。

 (こういうことを考えるのにマイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』はなかなか役に立った、と付記しておく。)   (作家)
 

言葉

 投稿者:あずき  投稿日:2010年 7月 7日(水)20時35分54秒
返信・引用
  ・・・・・・というものは、誰かの口から発したもの、あるいは書かれたものであっても、最後は1人歩きするものです。「ごめんなさい。」は仰らないでくださいね。「文明の歴史」についてまとめようとなさっているのは、リベルさんですから、最後の選択はリベルさんのご判断次第です。どうかお気になさらずに。

自慢したいくらいによく撮れた「ネジバナ」です(^^)。
 
    (リベル) あずきさんいらっしゃいませ。

ごめんなさい、書かせてしまいました。あ、また「ごめんなさい」・・・(^^;)

あちらに書こうかと思ったのですが最近のあずきさんの写業(?)はまさに玄人が裸足で逃げだそうという出来映えで、感服しております。益々のご練達を心から願っております・・・。(7.8 00:24)
 

異民族の侵入

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 7月 7日(水)02時29分32秒
返信・引用  編集済
  近頃例の「文明の鳥瞰図」、そうそうこれを最近「文明の歴史鳥瞰図」に名前を変えました。こんな地図を見たからです。「現在の文明」の地図というのが有るのだから、「文明の鳥瞰図」では不正確だと気付いたからです(あずきさんごめんなさい、わざわざBBSに投稿するのも気が引けて・・・)。その「鳥瞰図」にイギリスとロシアを加えようと今井宏著「イギリス」という本に目を通していました。今井宏という人は平凡社の「世界大百科事典」のイギリスの歴史の一部を執筆していますから、先ず第一人者なのでしょう、筆が冴えています。冒頭にこんな一節がありました・・・

『この国には、ユーラシア大陸からわずかにはなれた沖合に位置するという地理的な条件があったため、数次にわたって大陸からの異民族の侵入をうけた。紀元前六世紀ころに大陸からケルト系の民族が渡来し、紀元前一世紀にはヨーロッパ中にその領土をひろげようとしていたローマ帝国の属領となり、ローマが衰えをみせはじめた四世紀以降には、ゲルマン民族の大移動がこの島におしよせてきた。(中略)さらに十一世紀のはじめには、デンマークの王子カヌートがイングランドの王位につき、イングランドは彼の「北海帝国」の一部となり、ついで一〇六六年には、有名な「ノルマン人の征服」があった。以後この島は大陸で展開したヨーロッパ文明圏に完全にとりこまれ、渡来したフランス系の民族が支配階級の中核となって、言語・制度・風習などに消すことのできない痕跡をのこすことになったのである。』

このくだりを読んでいて頭をよぎったのは同じように大陸からわずかにはなれた島国、日本の過去です。昔纏めた「漢字の伝来」によれば、紀元一世紀に後漢の光武帝(在位25〜57年)から「漢委奴国王」の金印がどういう方法でだか届いていますから、その頃が異民族との接触の始まりなのでしょう。その後百済人を中心に大陸から異民族が渡来しますが、それは飽くまで文化的交流であり侵略ではありませんでした。その後では鎌倉時代の「元寇」(1274年・1281年)が唯一の侵略行動でしょう。その後の1543年の種子島も1549年のザビエルも1853年の黒船もいずれも侵略行為ではありませんでした。

唯一の侵略行為はモンゴル帝国によってなされました。モンゴルの侵略行動はアレクサンドル大王や一五世紀以降のスペイン・ポルトガルの中南米侵略と異なった、世界史上唯一の「単なる破壊活動」であるという説を唱える学者も居ます(都市の建設とかキリスト教の布教というような前向きの実績は何も残さなかったという意味で。そういえば朝青龍は何を残したのか^^)。1241年には「ワールシュタットの戦い」でドイツ・ポーランド連合軍を破りました。オゴタイ・ハンが亡くなったのでバトゥーは軍を引いたのですが、オゴタイが死ななければ今頃ヨーロッパ人やアメリカ人はモンゴロイドで占められていたかも知れません。そう思えば歴史の変換点も毛筋一本ほどのごく些細な出来事が支配しているのだなあと、恐ろしくもなります。

イギリスに比べれば日本は本当に異民族の侵略を受けませんでした。私は実は珍説を持っているのです。日本を侵略しそうな近隣の大国と言えば勿論漢民族の中国です(元寇はモンゴル人によるものです)。この中国は日本が未だ国の形も出来ていない、紀元前五世紀に孔子による儒教の教えを身につけました。言うまでもなく儒教は「仁を根本とする政治・道徳」を教えています。中国の国内は戦乱に明け暮れた時期もありましたが、基本的には外敵(匈奴など)から身を守ることに専念しています。孔子の存在が日本を「異民族の侵入」と無縁にしたと言っては過言でしょうか?珍説を喋ってみました・・・^^  勿論共産党支配の現中国がチベットを初めとする近隣諸国を虐めているのは、単に孔子のみならず、自分自身を辱めていることですが・・・(怒)

そう言えば今の相撲界は大変な状況にあります。この野球賭博の騒動の原因は「暴力団」を野放しにしている警察の在り方にあると思いますが、これで又一人日本人大関が姿を消しました。モンゴル勢は今やユーラシア大陸を諦めて、日本の相撲界を征服しようと企んでいるのでありましょうか・・・(^^;)


チンギス・ハン
 

星にお願い・・・

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 7月 7日(水)02時15分15秒
返信・引用  編集済
  我が家でも七夕さんには笹を用意して短冊を下げます。バカバカしいと思いながら昔は子供達に「お付き合い」で、最近は連れ合いに「お付き合い」で・・・結局もう40年ほど続いていることになります。

願い事を毎年二つほど書きます。最近は子供達は勿論連れ合いも私が何を書いているか見はしません。どうせ「宝くじ、今年は当たりますように・・・」とか「体重をあと5キロ減らして下さい・・・」なんてくだらないことを書いていると知っているからです。やはり現金なもので、その内いつしか真剣に現在の自分の願い事は何なのだ・・・と考えるようになって来ました。

今年は「子供達に人生の大きな愉しみを・・・」と書きました。そして裏面に【注】を加えました。お星様にわざわざ注釈を付けることもないのでしょうけど・・・。「何かを究めることとか、人を愛することとか・・・」と。

人を愛する」というのは下の二人が未婚だからというわけではないのです。楽器とかスポーツとか碁・将棋とかでも良い何か「一芸を究める」ことも「人を愛する」ことも究極的には「神様との対話」のチャンスを頂戴できるからだと、私は思っているからです。そしてそれが享受できる最高の「人生の愉しみ」だと思っているからです。

一つの例を先日亡くなられた免疫学者の多田富雄さんに見ます。1993年の「免疫の意味論」と去年だったか読んだ「寡黙なる巨人」しか知りませんが、この人は「神様との対話」をなさる時をお持ちだったような気がします。

そういうお前さんは「神様との対話」を経験したことがあるのかい?  と問われそうです。正直に書きますと数回ありますと言うべきでしょう。何を話したかは覚えていません。そういうことではないと思います、神様の息吹を感じたと言うのが正確なのでしょう。

おいおい何か神懸かってきたぞ、貴様おかしくなってきたんじゃないかと言われそうですね。いや結構真剣なのです、そしていい加減なことを言っているのではありません。誰にでも経験出来ることだと思います、神様を傍に感じることは。一番簡単なのは何か面倒なことを一生懸命努力して仕上げたときの達成感、その瞬間などは神様の息吹を感じることが出来るのではないかと、そう思います。

子供達がそういうことに気付いてくれれば彼等は幸せだと、そう思って星に願いを捧げました・・・^^  本当に届くのかな?


天の川、子供の頃は毎晩のように見られたのですが、近頃はトント・・・
 

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