| 呼称の変遷 ~ツァラアト・レプラ・らい・ハンセン病~ |
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現在日本で「ハンセン病」と呼ばれている病気はいつごろから有ったのか、どこで発生したのかはこちらに記しました。この病気はしかし、最初からそう呼ばれていたのではありません。古くは聖書に登場して、「ツァラアト」、「レプラ」、「癩」、「らい病」などいくつかの名前で呼ばれて来た歴史があります。そして実はその歴史が、これまでや現在の差別・偏見を生むのに大きな役割を担っているのです。 |
| 目 次 |
| 「ハンセン病」の最古の記録について |
| 「ツァラアト」から「leprosy」まで |
| 白癩の話 |
| 世界での呼称の変遷・年表 |
| 日本での呼称の変遷・年表 |
| 年表 「癩」から「ハンセン病」へ |
| 「聖書の中の呼称」の変遷ツール |
| 「ヨハネによる福音書」日本語訳の変遷 |
| 世界での呼称の変遷 (「ハンセン病」は時代により国・地域によって様々に表現されました。その呼称をこの色で記しました。しかしその名前の病気が現在の「ハンセン病」を正確に指すかどうか、不明なものもあります。) |
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| 年 代 | 旧 約 聖 書 | 新 約 聖 書 | 医学上の呼称 | その他の呼称 | 白 癩 | 時代 | |
| 前1550年頃 | 「エーベルス・パピルス」に「ウケドウ」や「チョン」と記述がある【注歴7】 | 縄 文 時 代 |
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| 前1000~800年頃 | 「アタルヴァ・ヴェーダ」に「kilāsa=किलास」と記される【注66】 | 「アタルヴァ・ヴェーダ」に「kilāsa」と記され、後に「白癩」と和訳されている【注66】 | |||||
| 前9世紀 | モーセ五書の元になるヤハウェ資料などの蒐集が始まった【注1】 | ||||||
| 前600年頃 | 「スシュルタ・サンヒター」に「kuṣṭha=कुष」と記される【注71】 | 「スシュルタ・サンヒター」にも「kilāsa」の記述があるが「白癩」の和訳は見られない | |||||
| 前550年頃 | 「論語」に「疾」として記述がある【注72】 | ||||||
| 前5世紀 | モーセ五書が最終的な編纂を終える【注2】 「ツァラアト=צרעת」(ヘブライ語)が登場した |
春秋時代に「豫讓が厲を装った」と「史記列伝」にある【注64】 | |||||
| 前380年頃 | ヒッポクラテスが「象皮病」と呼ぶ。「レプラ」を皮膚症状として記述している【注3】 | ヒッポクラテスが「フェニキア病」に言及している【注13】 | |||||
| 前233年頃 | . | 「韓非子」に「厲憐王」とある【注歴14】 | |||||
| 前250年頃 | ギリシャ語訳聖書「70人訳聖書」に 「レプラ=λεπρα」の訳が登場する【注4】 |
ストラトンが「象皮病」として最初の正確な記述をする【注5】 | 「睡虎地秦墓竹簡.封診式」に「癘」の症状が記されている【注73】 | ||||
| 前3世紀 | 「黄帝内経」に「癘風」と記載【注歴16】 | ||||||
| 前90年頃 | ルクレティウスが「象皮病」の記述をする【注6】 | 「史記列伝」に「論語」の「疾」を「悪疾」と記述する【注72】 | 弥生時代 | ||||
| 65年頃 | 「マルコによる福音書」(ギリシャ語)に「レプラ」と書かれた【注7】 | ||||||
| 200年頃 | ガレノスが「象皮病」の一部を「レプラ」と名付けた【注8】 | ||||||
| 405年頃 | ラテン語訳聖書「ウルガタ聖書」が作られた。 ここでは、旧約の「ツァラアト」、新約の「レプラ」を「レプラ=lepra」と訳した【注9】 |
鳩摩羅什が梵語の「法華経」を漢訳し「癩」及び「白癩」の語を記した | 鳩摩羅什が梵語の「法華経」を漢訳し「癩」及び「白癩」の語を記した | 古墳 ・ 飛鳥 |
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| 410年頃 | 仏陀耶舎が「四分律」を漢訳し「白癩」を記した【注129】 | 仏陀耶舎が「四分律」を漢訳し「白癩」を記した【注129】 | |||||
| 606年 | 聖徳太子が進講した「法華経」に「癩、癰疽」及び「白癩」の記述がある【注67】 | 聖徳太子が進講した「法華経」に「癩、癰疽」及び「白癩」の記述がある【注67】 | |||||
| 610年頃 | 巣元方が「諸病源候論」の中で「癩」、「白癩」、「烏癩・黒癩」を記述した【注74】 | 巣元方が「諸病源候論」の中で「白癩」、「黒癩」を記述した【注74】 | |||||
| 612年頃 | 「日本書紀」に「白癩」の記述がある | 「日本書紀」に「白癩」の記述がある | |||||
| 615年頃 | 「法華経義疏」に「癩、癰疽」の記述がある【注67】 | ||||||
| 668年 | 「法苑珠林」に「白癩」の記述がある【注82】 | 「法苑珠林」に「白癩」の記述がある【注82】 | |||||
| 718年頃 | 「養老令」に「惡疾」として記述がある | 奈良時代 | |||||
| 735年頃 |
聖ベーダが「ヨハネによる福音書」を古英語に訳した。「レプラ」は「blæcða」または「hréofnes」と訳された【注50】 | ||||||
| 780年頃 | 「日本霊異記」に「白癩トナル事」とある | 「日本霊異記」に「白癩トナル事」とある | |||||
| 833年 | 「令義解」に「白癩」の記述がある | 「令義解」に「白癩」の記述がある | 平安時代 | ||||
| 850年頃 | ダマスカスの医師ジョンが「レプラ」を誤って「ハンセン病」だとした【注10】 | ||||||
| 870年頃 | 「令集解」に「白癩」の記述がある【注106】 | 「令集解」に「白癩」の記述がある【注106】 | |||||
| 934年頃 | 「倭名類聚鈔」に「癘」の記述がある【注69】 | ||||||
| 9~10世紀 頃 |
本来の「ギリシャの象皮病」の他に「アラビア象皮病」が登場した【注11】 | ||||||
| 1030年頃 | 「今昔物語集」に比叡山の僧が「白癩」にかかったとの記述がある | 「今昔物語集」に比叡山の僧が「白癩」にかかったとの記述がある | |||||
| 1080年頃 | コンスタンティヌス・アフリカヌスが「象皮病」を「レプラ」と誤訳した【注12】 | ||||||
| 1180年頃 | 「宝物集」に「癩病」、「癩」、「白らい」とある【注113】 | 「宝物集」に「白らい」とある【注87】 | |||||
| 1192年 | 「播磨浄土寺文書」に「白癩」とある【注81】 | 鎌倉時代 | |||||
| 1220年頃 | 「宇治拾遺物語」に「癩人」、「白癩人」とある | 「宇治拾遺物語」に「癩人」、「白癩人」とある | |||||
| 1240年頃 | 「字鏡集」に「癩 シラハタケ」とある【注86】 | ||||||
| 1254年 | 「古今著聞集」に「癩病」、「白らい」の記述がある【注75】 | 「古今著聞集」に「癩病」、「白らい」の記述がある【注75】 | |||||
| 1260年 | ・「災難対治抄」に「白癩」とある【注117】 ・「十法界明因果抄」に「白癩」とある【注118】 |
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| 1272年 | 「開目抄・下」に「白癩」とある【注119】 | ||||||
| 1273年 | 「妙法曼荼羅供養事」に「白癩病」とある【注104】 | ・「妙法曼荼羅供養事」に「白癩病」とある【注104】 ・「呵責謗法滅罪抄」に「白癩病」とある【注120】 |
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| 1275年 | ・「曾谷入道殿許御書」に「白癩」とある【注121】 ・「撰時抄」に「白癩病」とある【注127】 ・「釈迦一代五時継図」に「白癩」とある【注122】 |
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| 1277年 | 「四信五品鈔」に「白癩」とある【注105】 | ||||||
| 1278年 | ・「兵衛志殿御書」に「白癩」とある【注123】 ・「神国王御書」に「白癩」とある【注124】 |
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| 1279年 | ・「異体同心事」に「白癩」とある【注125】 ・「上野殿御返事」に「白癩病」とある【注126】 |
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| 1282年 | 「身延山御書」に「白癩」とある【注79】 | ||||||
| 1298年 | 「法印定春以下連署起請文」に「白癩黒癩」とある【注97】 | ||||||
| 1304年 | 「頓醫鈔」に「夫癩病ノ由來」とある | 「源平盛衰記」に「癩人」と記述がある | 「他阿上人法語」に「白癩・黒癩」とある【注110】 | ||||
| 1323年 | 「僧定憲起請文」に「白癩黒癩」とある【注98】 | ||||||
| 1338年 | 「菊池武重起請文」に「白癩黒癩」とある【注96】 | 室 町 時 代 |
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| 1384年頃 | ジョン・ウィクリフがウルガタ聖書を元に英語(中英語)に翻訳した。聖書全体の最初の英語訳。「レプラ」は「leprūsē」と訳された【注20】 | ||||||
| 1387年 | 英語「leper」が初出する【注68】 | ||||||
| 1398年 | 英語「lepra」が初出する【注70】 | ||||||
| 1483年 | 英語「leprous」が初出する【注48】 | ||||||
| 1493年 | 「法印英祐以下連署起請文」に「白癩黒癩」とある【注99】 | ||||||
| 1532年 | 「塵添壒囊抄」に「白癩黒癩」とある【注114】 | ||||||
| 1522年 ~1534年 |
マルティン・ルターが、1522年に新約聖書「九月聖書」をドイツ語に訳し、1534年に旧約聖書と続編を訳了、出版した | ||||||
| 1525年 ~1535年 |
ティンダルが新約聖書と、一部の旧約聖書を英語に翻訳し出版し(1525年)、カヴァーデイルがその未訳部分を訳して、近代英語訳を完成させた(1535年)。「ツァラアト」は「leprosy」と訳された【注27】(OED画像) | ||||||
| 1546年 | トリエント公会議で「ウルガタ聖書」をカトリック教会の公式聖書として公認した。ここでは、旧約の「ツァラアト」、新約の「レプラ」は「レプラ」と訳されている | ||||||
| 1549年 | (日)ザビエルが鹿児島に到着したとき、日本語に訳された「マタイ福音書」を持っていた。「レプラ」と訳した?【注19】 | フランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着、布教を始めた。「レプラ」と呼ぶ? 【注19】 |
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| 1573年 | 「米良重直起請文」に「白癩黒癩」とある【注95】 | 安土 桃 山 |
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| 1593年 | 「多聞院日記」に「癩病ニテ・・・」と記述がある【注44】 | ||||||
| 1595年 | 「石田三成起請文」に「白癩黒癩」とある【注94】 | ||||||
| 1602年 | 「證治準縄」に「癘風」として症状が記される【注112】 | ||||||
| 1604年 | 「日葡辞書」に「Biacurai(ビャクライ)」とある【注88】 | 「日葡辞書」に「Biacurai(ビャクライ)」とある【注88】 |
江 戸 時 代 |
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| 1607年 | 「スピリツアル修行」に「レポロソ」という言葉がある【注46】 | ||||||
| 1608年 | 「瘍科證治準縄」に「烏癩」「白癩」の症状が記される【注80】 | 「瘍科證治準縄」に「白癩」の症状が記される【注80】 | |||||
| 1611年 | 欽定訳聖書(「ジェ-ムズ王欽定訳」AV、KJV)が出版された。最も権威ある英語聖書である。「ツァラアト」は「leprosy」と訳された【注28】 | ||||||
| 1618年 | 「癩病治療新法」に「白癩」「黒癩」とある【注103】 | ||||||
| 1622年 | 「三河物語」に「ビヤクライ」とある【注106】 | ||||||
| 1632年 | 「コリャード・懺悔録」に「赤癩・白癩」とある【注93】 | 「コリャード・懺悔録」に「赤癩・白癩」とある【注93】 | |||||
| 1661年 | 「浮世物語」に「白癩、黒癩」とある【注108】 | ||||||
| 1663年 | 「赤烏帽子」に「白癩」とある【注90】 | ||||||
| 1664年 | 「蝿打」に「白癩」とある【注83】 | ||||||
| 1676年 | 「淋敷座之慰」に「びゃくらい」とある【注92】 | 「淋敷座之慰」に「びゃくらい」とある【注92】 | |||||
| 1678年 | 「武道伝来記」に「白癩」とある【注78】 | ||||||
| 1680年 | 「難波鉦」に「白癩乞丐」とある【注111】 | 「難波鉦」に「白癩乞丐」とある【注111】 | |||||
| 1700年 | 「御前義経記」に「白らい」とある【注115】 | ||||||
| 1703年 | 「松の葉」に「白癩」とある【注114】 | ||||||
| 1711年 | ・浄瑠璃「大職冠」に「びゃくらい」とある【注76】 ・「傾城禁短気」に「白癩」とある【注109】 |
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| 1719年 | 「平家女護島」に「びゃくらい」とある【注84】 | ||||||
| 1729年 | ・「歌舞伎矢の根」に「白癩」とある【注85】 ・「普救類方」に「白癩」とある【注102】 |
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| 1731年 | 「一休一口ばなし」に「癩病人」とある | ||||||
| 1752年 | 「教訓雑長持」に「びゃくらい」とある【注89】 | ||||||
| 1773年 | 「当世気とり草」金金先生著に「かったい眉」の記述がある【注60】 | ||||||
| 1780年 | 「仮名写安土問答」に「びゃくらい」とある【注91】 | ||||||
| 1786年 | 「黴癘新書」に「癘疾を発す」とある【注49】 | ||||||
| 1814年 | ・「甲斐國志」に「白癩」とある【注128】 ・「医療察病考」に「白癩」とある【注101】 |
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| 1837年 | (日)ギュツラフが、「約翰福音之傳」と「約翰上中下書」を出版した。「leprosy」を「レプラ」、「癩病」どちらに訳したかは不明【注29】 | ||||||
| 1847年 |
ダニエルセンとベックがハンセン病を疾病として臨床的に確立した【注43】 | 彼等は「スペダルスキー」または「象皮病」と呼んだ | |||||
| 1850年 | 「究理外科則」に「白癩・黒癩」とある【注100】 | ||||||
| 1861年 | ブリッジマンとカルバートソンが漢訳「新約全書」を完成【注33】 | 「扶氏経験遺訓」に「癩:『レプラ』羅、 『メラーツヘイド』蘭」とある【注15】 |
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| 1863年 | ブリッジマンとカルバートソンが漢訳「旧約全書」を完成」【注33】 | ||||||
| 1871年 (明治4年) |
後藤昌文が「列夫良病考」を著わす | ||||||
| 1873年 (明治6年) |
(日)ヘボンらが、新約聖書の一部を出版。「leprosy」を「癩病」と訳した?【注30】 | アルマウェル・ハンセンがらい菌を発見した【注14】 | ハンセンは最初「スペダル(Spedal)」という言葉を使っていた【注14】 | 明 治 時 代 |
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| 1880年 (明治13年) |
(日)ヘボン、S.R.ブラウンを中心とする「翻訳委員社中」が完成させる。「leprosy」を「癩病」と訳した【注31】 | ||||||
| 1881年 (明治14年) |
大阪の医師の診断書に「例布羅」と記載されている【注45】 | 大阪の医師の診断書に「例布羅」と記載されている【注45】 | |||||
| 1885年 (明治18年) |
熊本県立医学校の病理解剖記録に「レプラ」と記載がある【注63】 | ||||||
| 1887年頃 (明治20年頃) |
(日)「聖書常置委員会」が旧約聖書の翻訳を終了し、「明治元訳聖書」が完成した。「leprosy」を「癩病」と訳した【注32】 | 「弥布涅児氏列布羅竒効方」が出版された【注22】 | |||||
| 1892年 (明治25年) |
「列布羅治円癩病特効薬養生書」が発行された【注23】 | ||||||
| 1895年 (明治28年) |
坪内逍遙の「桐一葉」に「びゃくらい」とある【注77】 | ||||||
| 1917年 (大正6年) |
(日)「改訳新約聖書」(大正改訳)が完成した。これと1887年の「明治元訳」の旧約部分を合わせて「文語訳聖書」ともいう。【注34】 | 大正 | |||||
| 1923年 (大正12年) |
芥川龍之介の「おしの」に「白癩」とある【注116】 | ||||||
| 1927年 (昭和2年) |
日本癩學會が発足する | 昭 和 時 代 |
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| 1930年 (昭和5年) |
国際連盟癩委員会で「leper」の呼称について論議が起こった【注51】 | 日本癩學會は、この年発行した機関誌名を「レプラ」とする | |||||
| 1931年 (昭和6年) |
レナード・ウッド記念國際癩学会総会で「leper」を「case of leprosy」と呼ぶことが決議された【注51】 | ||||||
| 1933年 (昭和8年) |
大邱日報で「レプラ患者」という言葉が見出に使われている【注59】 | ||||||
| 1934年 (昭和9年) |
島木健作が小説「癩」の中で「れ・ぷ・ら」と用いた【注25】 | ||||||
| 1936年 (昭和11年) |
大阪日赤病院の医師が「貴方はレプラです」と告知する【注57】 | ||||||
| 1945年 (昭和20年) |
大阪の市民病院の医師が「レプラだと思う」と告知する【注58】 | ・カーヴィルのスタインが「Hansen's disease」を提言する【注16】 ・レンドラムが「癩という悲劇的な名称」という論文を発表した【注52】 |
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| 1946年 (昭和21年) |
「改訂標準訳聖書・新約」(RSV)完成【注35】 | 織田作之助が小説「六白金星」で「レプラ」と用いた【注26】 | |||||
| 1948年 (昭和23年) |
第5回国際らい会議で①病名を「Leprosy」 に統一すると決議【注17】 ②「leper」を 「leprosy patient」とする 意見が一致を見た【注51】 |
・全生園の掲示板に「癩をハンセン氏病に改めよう」と張り出された【注55】 ・菊池恵楓園でもこの頃から「ハンセン氏病」が用いられ始めた【注56】(参考) |
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| 1949年 (昭和24年) |
アメリカのハワイ州では、 「Leprosy」を 「Hansen's disease」に変更した【注54】 |
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| 1950年 (昭和25年) |
田中文雄が「ライ病」を「ハンゼン氏病」とするよう主張した【注65】 | ||||||
| 1952年 (昭和27年) |
「改訂標準訳聖書・旧約」(RSV)が訳了、「改訂標準訳聖書」(RSV)が完成する。「ツァラアト」は「leprosy」と訳されている【注35】 | アメリカ医学会(AMA)が「leprosy」を 「Hansen'sdisease」に変更した【注18】 |
・「全癩患協」は「ハンゼン氏病」とし、政府に改訂を要求したが実らず【注55】 ・全癩患協の第一回支部長会議で「レプラは癩云々」の発言がある【注61】 |
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| 1953年 (昭和28年) |
第6回国際らい会議で「leper」を「leprosy patient」変更の決議を再確認 | ||||||
| 1955年 (昭和30年) |
(日)1954年に新約聖書、1955年に旧約聖書の「口語訳」が完成し出版された。「leprosy」は「癩病」と訳されている【注36】 | ||||||
| 1957年 (昭和32年) |
「姶良野」1月号に「病名がレプラ、ハンゼン氏病、癩云々」とある【注62】 | ||||||
| 1959年 (昭和34年) |
全患協は「ハンゼン氏病」を「ハンセン氏病」に改めた【注55】 | ||||||
| 1961年 (昭和36年) |
「新英語聖書・新約」(NEB)が完成。「lepra」は「leprosy」と訳されるが、脚注に「leprosyは現代のハンセン病ではない」と記している【注37】 | ||||||
| 1963年 (昭和38年) |
全患協は「らい予防法改正要請書」で「らい予防法」を「ハンセン氏病予防法」と改めるよう要望するが、実らず【注55】 | ||||||
| 1966年 (昭和41年) |
「グッド・ニューズ・バイブル」の新約が完成した【注38】 | ||||||
| 1969年 (昭和44年) |
・アメリカのハワイ州では、 「Hansen's disease」を再び「Leprosy」に戻した【注54】 ・ブラジルのサンパウロ州で「ハンセン病=A doenca de Hansen」を学術用語とした【注53】 |
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| 1970年 (昭和45年) |
「新英語聖書・旧約」(NEB)が完成。「ツァラアト」は「恐ろしい皮膚病」などと訳され、「leprosy」という言葉は使用していない点で画期的である【注37】 | ||||||
| 1970年 (昭和45年) |
「新カトリック聖書」(NAB)は「leprosy」と訳し、脚注で「この語は、現在のハンセン病ではない」と明言している【注39】 | ||||||
| 1976年 (昭和51年) |
「グッド・ニューズ・バイブル」(GNB・TEV)の旧約が訳了し、新・旧約が揃った。ここでは「leprosy」を用いず「恐ろしい皮膚病」を用いている【注38】 | 「日本癩學會」が「日本らい学会」へ名称変更する | |||||
| 1977年 (昭和52年) |
日本らい学会の学会誌「レプラ」が「日本らい学会雑誌」へ名称変更する | ||||||
| 1978年 (昭和53年) |
「新国際版聖書」(NIV)が完成する。レビ記では「感染性の皮膚病」、ルカによる福音書では「leprosy」を用いて、脚注を付している【注40】 | ||||||
| 1978年 (昭和53年) |
(日)「共同訳聖書(新約聖書 共同訳)」が完成。「leprosy」は「癩病」と訳されている【注41】 | ||||||
| 1981年 (昭和56年) |
アメリカのハワイ州では、「Leprosy」 を再び「Hansen's disease」に戻した【注54】 | ||||||
| 1983年 (昭和58年) |
全患協は「ハンセン氏病」を「ハンセン病」に改めたが厚生省や日本らい学会は「らい」という病名を使い続けた | ||||||
| 1987年~ (昭和62年) |
(日)「新共同訳聖書・旧約」では「らい」を「重い皮膚病」に改めた【注21】 | ||||||
| 1996年 (平成8年) |
日本らい学会は「らい」を「ハンセン病」に改めた【注24】 | 厚生省も「らい」を「ハンセン病」に改めた【注24】 | 平 成 時 代 |
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| 1997年 (平成9年) |
(日)「新共同訳聖書・新約」では「らい」を「重い皮膚病」に改め、新約旧約ともに 「らい」が姿を消した【注21】 |
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| 2003年 (平成15年) |
(日)「新改訳聖書(第3版)」では新約、旧約とも「らい」を「ツァラアト」に改めた | ||||||
| 2005年 (平成17年) |
Today's New International Version (TNIV)が完成【注42】 | ||||||
| 2008年 (平成20年) |
(日)「新共同訳聖書」は「重い皮膚病」の表現を継続し、誤解の恐れについては、巻末に用語解説を付記することで、対処するとした【注47】 | ||||||
| 年 代 | 旧 約 聖 書 | 新 約 聖 書 | 医学上の呼称 | その他の呼称 | 白 癩 | 時代 | |
| ※【注】のナンバーは制作上の事情により順不同です。お許し下さい ※1382年のジョン・ウィクリフ以後英語に訳された聖書は多数有ります(1)、(2)が、ここでは「聖書の中の『らい』」、「聖書のらい」の2書に取り上げられているものに限りました ※日本語の聖書の項は、(日)を付しました ※【注歴14】のようにあるのは、「ハンセン病の歴史について」のページの【注14】を指します (敬称略) |
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| 【注】 topへ | |
| 【注1】 | 下に記した「モーセ五書」のための最初の資料「ヤハウェ資料」はこの頃イスラエル民族によって編纂され、続いて数世紀かけて、全部で4つの資料(「ヤハウェ資料(Jehovist―B.C.9世紀)」、「エロヒム資料(Elohist―B.C.8世紀半ば)」、「申命記資料(Deuteronomist―B.C.7世紀)」、「祭司資料(Priestly―B.C.5世紀)」)が出揃い、B.C.4世紀に「モーセ五書」が完成しました。(小塩力「聖書入門」p.23~、「万有百科大事典」哲学・宗教編p.326、The Documentary Hypothesis of the Pentateuch also known as the JEDP Theoryから) |
| 【注2】 | ・「モーセ五書(トーラー=律法)」は旧約聖書の最初の五つの文書、「創世記」、「出エジプト記」、「レビ記」、「民数記」、「申命記」を指します。ここには、イスラエル民族【参考22】の初期の歴史や、祭儀の心得や、神話的信仰告白などが書かれていますが、その中の「レビ記」(「祭司資料(Priestly―B.C.5世紀)」に記されています)に「ツァラアト」が初めて登場します。 ・「モーセ五書」は最終的にはB.C.4世紀に完成して、ユダヤ教の正典となります。 ・なお旧約聖書は最初はヘブライ語(一部アラム語)で書かれました。後にギリシャ語へ、ラテン語へ、それから英語へ、そして日本語へと翻訳されて来ました。 ・「ツァラアト」は現在の「ハンセン病」とは全く異なるものです。(「聖書入門」p.23~、「万有百科大事典」哲学・宗教編p.326、「聖書を知る」、「聖書のらい」p.19~から) |
| 【注3】 | 象皮病 : ギリシャ時代、ヒポクラテス(Hippocrates―B.C.460頃~377頃)は「ハンセン病は早くからフェニキア(後のシリア、パレスチナ)に蔓延していた」と述べています(犀川一夫「聖書のらい」p.54、p.94)。また「ギリシャ医学ではハンセン病は『象皮病(elephantiasis)』と称されヒポクラテスも象皮病と呼んでいた」(p.53、p.111)とありますが、異論もあります。【参考20】 レプラ : ・ヒポクラテスの死後、弟子たちが編纂した「ヒポクラテス全集」の中に「乾癬か、できものだらけの痒疹か、ふけを推測させる症状をさしてレプラと呼んでいる」とあります(ブラウン「聖書の中の『らい』」p.28、「THALES TO GALEN」(p.7))。 ・「皮膚の表面に見られる鱗状の変化(ふけ、痣、かさぶた、斑紋、しみ)などをLepraと称していたが、これは病気の呼称・病名ではなく、皮膚の症状群を意味するものであった」ともあります(「聖書のらい」p.54)。 ・繰り返しますが、この時代には、「レプラ」は「ハンセン病」とは別の「皮膚症状」として扱われているのです。 |
| 【注4】 | ・アレキサンドリア(ナイル川河口西側)で、ヘブライ語の旧約聖書をギリシャ語に翻訳する(これは「70人訳聖書=セプトゥアギンタ」と呼ばれています)とき、レビ記13章・14章の「ツァラアト(Zaraath)」を「レプラ(λεπρα)」と訳しました。同時代のギリシャに於ける「象皮病」や「レプラ」の存在を72人の選ばれた翻訳者たち(12支族から各6人という説があります)が知らない筈がない。「彼等がもし旧約のツァラアトをハンセン病と考えていれば、これを象皮病と訳した筈である」と犀川一夫は論じています。(「聖書のらい」p.54) ・この翻訳が、聖書の中の「らい病」という表現が、現在の「重い皮膚病」や「ツアラアト(「新改訳聖書」)」という表現に変わっていった議論の、そもそもの遠因となったのです。【参考7】なお、その後【注8】に記したように、ガレノスが医学上でも「象皮病」の一部をレプラと呼んだために、用語上の混乱が更に大きくなったのです。 ・このギリシャ語訳が行われたのは、パレスチナから地中海沿岸世界に移住していったユダヤ人が、次第にヘブライ語を理解できなくなったからなのです。結果として、このギリシア語訳は、キリスト教が小アジア地方やマケドニア、ギリシアに進展して行くのに大きく貢献する事になりました。(「聖書を知る」)(参考地図) |
| 【注5】 | 「アレクサンドリア(ナイル川河口西側)の医師エラシストラトス(Erasistoratos,B.C.300~250)の弟子ストラトン(Straton,?~B.C.270頃)の記録を、エペソ(トルコ、小アジア半島の西岸)のルフス(Rufus,98~117)が引用しています。…これがヨーロッパで最初の確かならいの記録です。「象皮病」と呼ばれ、全く未知の新しい病気」と記されています。この時期は、所謂「ヘレニズム時代」でギリシャ文明の最盛期にあたります。(「聖書の中の『らい』」p.29) |
| 【注6】 | ローマのルクレティウス(Titus Lucretius Carus ―B.C.95頃~B.C.55)が詩の中で「ナイル河畔に象皮病が存在している」と記述しているとあります。(「聖書のらい」p.95、ルシャット) このラテン語の詩はルシャットの「The paleoepidemiology of leprosy」の本文の52行で読めます。 「elephas morbus qui propter flumina Nili gignitur Aegypto in media, neque praeterea usquam 」と書いてあります。 |
| 【注7】 | ・新約聖書に「レプラ(Lepra)」が記されているのは「共観福音書」とも呼ばれる「マタイによる福音書」、「マルコによる福音書」、「ルカによる福音書」だけです。これらが書かれた年代には諸説がありますが、それぞれA.D.65年頃(シリアのアンティオキアで・ローマ帝国の徴税人)、70年頃(ローマで・エルサレムの住人)、80年頃(場所不明・ギリシャの医師)と考えられます。新約聖書を書くのに使われたのは「コイネ-」と呼ばれるギリシア語でした。このギリシア語はヘレニズム時代に地中海世界で共通語となった言語です。つまり新約聖書はその読者を、正統的ユダヤ人たちだけではなく、それ以外の、いわば世界中の人々へと設定していたのです。(参考)(参考地図) ・【注3】に記したとおり「レプラ」は現在の「ハンセン病」とは全く異なるものです。当時「ハンセン病」は「象皮病」と呼ばれていたのですが、医師であった「ルカ」も「象皮病」ではなく、「Lepra」を用いていることからも明らかです。 (「聖書入門」p.119~、「万有百科大事典」哲学・宗教編p.331、「Wikipedia・新約聖書の項」、「聖書の中の『らい』」p.40、「聖書のらい」p.79から) |
| 【注8】 | ローマ時代、ギリシャ生まれの医師ガレノス(Galēnos,Claudius―130頃~200頃・小アジア生まれ)は「象皮病」の一部で、皮疹を主とする型のものを「レプラ」と呼びました。ここで「聖書の中のレプラ」と「医学用語としてのレプラ」との混乱が発生し、「ハンセン病」が「レプラ」と呼ばれるようになっていくのです。(「聖書の中の『らい』」p.41、「聖書のらい」p.112から) |
| 【注9】 | ・紀元2、3世紀にロ-マ支配下の地域にある教会ではラテン語が用いられていました。数種類の不完全なラテン語訳が存在しましたが、統一したラテン語訳を作る必要がありました。そこで、ローマ教皇ダマスス1世(在位366年~384年)はヒエロニムス(Eusebius
Sophronius Hieronymus、342頃~420)に命じて、聖書をヘブライ語、ギリシャ語から、ラテン語に翻訳させました(ウルガタ聖書=Vulgata=「一般に容認された」の意)。 ・その時、旧約聖書の「ツァラアト」と「新約聖書」の「レプラ」を共に「レプラ」と訳しました。それがガレノスのもたらした用語上の混乱を一層大きくし、「レプラ」が「ハンセン病」の呼称として定着していったのです。 ・このウルガタ聖書は、その後広くヨーロッパで用いられるようになりました。そして、聖書が英語や各国語に訳されるときの基準になったため、「ハンセン病」に対して、旧約聖書の「ツァラアト」の持つ”祭儀的概念”が結び付いてしまったのです。(「聖書の中の『らい』」p.44、「聖書のらい」p.55から) |
| 【注10】 | ダマスカス(シリアの首都)の医師ジョン(John of Damascus、777~857―Saint John of Damascus=聖ヨアンネス、675頃~749頃とは別人です )がアラビア語の医学書を、ラテン語に翻訳するとき、「現在のハンセン病」を「elephantiasis graecorum(ギリシャ象皮病)」とするべきところを、間違えて「lepra graecorum(ギリシャのレプラ)」と訳してしまいました。これ以後「lepra」と呼ばれていた「皮膚の表面に見られる鱗状の変化」が「ハンセン病」と混同されることが、一層激しくなって、ガレノス、ウルガタ聖書が招いた誤解を更に決定づけたのです。(「THALES TO GALEN」p.7、南ア大データベースp.94、エシバ大・Rabbi Eitan Mayer(BUT WHAT IS IT? の項)、アメリカ皮膚病学会HP)(参考地図) |
| 【注11】 | 「アラビア象皮病」はバンクロフト・フィラリアによる「象皮病」で、ハンセン病とは全く別の病気です。9~10世紀のアラビア医学の最盛期に名付けられたものと思われます。紀元前4~3世紀以降、ギリシャで「象皮病」と呼ばれていたものと、ハッキリ区別するため、それ以後こちらを「ギリシャ象皮病」と呼んだのでしょう。(参考)(「聖書の中の『らい』」p.43) |
| 【注12】 | 9世紀以降、イスラム帝国では、組織的なギリシャ語翻訳を通じて、医学、幾何学、哲学などが飛躍的に進歩します。そのアラビア医学を、コンスタンティヌス・アフリカヌス(Constantinus Africanus―1020~1087)がラテン語に訳しました。「病気の診断と治療」という文書の「象皮病について(De elephantiasi)」の章の本文で、「象皮病」を「レプラ」と誤訳したのです。ガレノス、ウルガタ聖書、ダマスカスのジョン、「ギリシャ象皮病&アラビア象皮病」と深まってきた混乱に、一層拍車をかける事になりました。(「聖書の中の『らい』」p.42) |
| 【注13】 | ・ヒポクラテスが、言及していることは確かなのですが、「ハンセン病」と見なしているかどうかには、諸説があります。ブラウンは「らいではないかと想像する人もいます」(「聖書の中の『らい』」p.28)と言い、トラウトマンは「恐らく知識が無かった」というのが「the consensus of HD experts」であるとし、ルシャットも「The group of skin conditions referred to as lepra in the Hippocratic
texts does not apparently include the disease we came to know in modern
parlance as leprosy. 」と否定的ですが、犀川一夫は「ヒポクラテスが述べており」(「聖書のらい」p.54、p.94)と言い、サリヴァン(R.Sullivan)(PDFの7ページ中央あたり)は「ガレノスが後にハンセン病と同定した(It was the author of Prorrheticon,
II who considered 'the leuke among the fatal diseases, like the so-called
Phoenician disease'. Galen was later to comment on this passage, 'the Phoenician
disease: common in Phoenicia, and in other Oriental regions; the disease
in question seems to be elephantiasis'.)」と述べています。 ・サリヴァンの著書に見られる引用「'the leuke among the fatal diseases, like the so-called Phoenician disease'」は「Hippocrates 第8巻」によるものだと想定されます。 ・「The Hospitaller Order of St. Lazarus」では「…hence the name "Phoenician disease" given it by Hippocrates.」としています。 |
| 【注14】 | ハンセンは1868年の論文では「Spedal」を使い、その後1869年の論文では「Lepraens(Spedal)」、1874年「らい菌」発見の論文でも「Spedalskhedaens」と言い、1895年に初めて「Leprosy」という言葉を使いました。(「聖書のらい」p.113) |
| 【注15】 | 「扶氏経験遺訓」は1861年、緒方洪庵が、ベルリン大学内科教授フーフェランド(Christoph Wilhelm Hufeland 、1762~1836)の内科書「医学必携」(「Enchiridion Medicum」(1836年))のハーヘマンによるオランダ語訳を重訳したものです。「癩」はラテン語で「レプラ」、オランダ語で「メラーツヘイド」と書いてあります。 |
| 【注16】 | スタンレー・スタイン(Stanley Stein 、1899~1967)は、「leprosy」を「Hansen's Disease」にするべきだと、1946年に「らい諮問委員会」に提言しましたが、この提言は、直ぐには受入れられず、彼は辛抱強く訴え続けました。(「もはや一人ではない」p.319) |
| 【注17】 | なおこの時、スタンレー・スタインが会議に出席するペリー・バージェス(Perry Burgess―"Who Walk Alone"の著者で、レナード・ウッド記念財団の理事長です)に「leper」を「leprosy patient」と呼称変更することを提案するよう依頼し、満場一致で決議されました。これは1953年の第6回国際らい会議で再確認されましたが、広く浸透することはありませんでした(「もはや一人ではない」p.443、「『癩』から『ハンセン病』へ」成田稔著の連載第1回p.22)。ただし、日本では「leper」は使われることが有りません。「新英和大辞典(研究社)」は第5版(1980年~2002年)では「この語は現在好まれない」、第6版(2002年~)では「この語は差別用語とされる」と注記しています。 |
| 【注18】 | AMAのリチャード・J・プランケット医師が監修した、「AMA病名・手術名目録・第4版」で「leprosy」に変わる呼び名として「Hansen's Disease」を承認しました。(「もはや一人ではない」p.444) |
| 【注19】 | ・フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier―1506~ 1552年)がマラッカで出会った日本人ヤジロウ(アンジロウとも)の協力によって和訳した「マタイによる福音書」を、上陸したとき既に携えていた、という説がありますが、現在記録は残っていません。ザビエルはスペイン生まれですが、パリ大学に学び、イエズス会(カトリック教会の男子修道会)の創設に携わっています。ですから、用いていた聖書は、ラテン語の「ウルガタ聖書」と想定され、ハンセン病は「lepra=レプラ」と呼ばれていたはずです。(「聖書を知る」、Wikipedia) ・また、彼は日本に上陸する前に滞在していたインドのゴアで、サン・ラザロ(癩病院)に行き、ハンセン病患者と親しく接しており(「聖フランシスコ・ザビエル全書簡」第一巻p.144)、日本では、1891年に京都を訪問したブリュレイ・デ・ヴァランヌ(Bruley des Varannes)という宣教師が、日記に比叡山登頂のことを書き(「Le Japon d'aujourd'hui」)、そこに「聖フランシスコ・ザビエルも、ハンセン病治療に効く薬草を摘みに登ったという伝説がある」と付記しています。(「Franz Xaver, Sein Leben und seine Zeit」第二巻、第三分冊、第一編、第四章「都の御所へ」、5「都と比叡山」p.227)このような記録から、ハンセン病については、十分な関心を寄せていたと想像できます。(参考) |
| 【注20】 | ・中世の後半、ラテン語は一部の聖職者や学者だけが読める特権的な言語となり、ラテン語聖書(ウルガタ聖書)も民衆のものでなくなって行きました。これを一般民衆が読むことができる言語に翻訳して聖書を民衆に解放しようとした人々がいました。 ・その内の一人が、200年後の宗教改革の先駆者と言われるイギリス人、ジョン・ウィクリフ(John Wycliffe 1320頃 - 1384年)です。彼はカトリック教会に反発し、自分の手で聖書を英語に訳しました。ウルガタ聖書から訳したとされています。ここで「レプラ」は「leprūsē」(未だ中英語です)と訳されました。(「聖書の中の『らい』」p.49、「聖書のらい」p.58、「聖書を知る」、Wikipedia) |
| 【注21】 | 旧約聖書では1987年から、新約聖書では1997年から、改正されました。 |
| 【注22】 | この本は出版年は不明です。著者の宇田川興斎(1821-1887)の没年を参考にしています。本文中にも頻出します。カナの「レプラ」も使われています。(古典籍総合データベースから) |
| 【注23】 | これは、「列布羅治円」という薬を宣伝する書物です。ここで、「レプラ」と「癩」の併用が、証明されています。英語では「バイブル・レピロシー」と言うと紹介しています。(近代デジタルライブラリーから) |
| 【注24】 | 学術用語としては、「らい」は「らい菌」、「らい細胞」など、続いて用いられます。(日本ハンセン病学会HPから) |
| 【注25】 | 島木健作の「癩」(2、下から8行目、「れ・ぷ・ら」)で使われています。(青空文庫から) |
| 【注26】 | 織田作之助の「六白金星」(真ん中辺り、「レプラ」)で使われています。(青空文庫から) |
| 【注27】 | イギリスの司祭ウィリアム・ティンダル(William Tyndale)は、ヘブライ語・ギリシャ語の原典から、新約聖書と、一部の旧約聖書を英語に翻訳し出版しました。その後を継いでマイルス・カヴァーデイル(Myles Coverdale)が未訳部分を翻訳し、近代英語訳を完成させました。ここでは「ツァラアト」は「leprosy」と訳されています。これが「leprosy」の初出となります。(「聖書のらい」p.58、「聖書を知る」、Wikipedia)(OED画像) |
| 【注28】 | イギリス国王ジェ-ムズ1世(Charles James Stuart―1566~1625)は新しい訳の聖書を作ることを希望し、ヘブライ語およびギリシア語の原典から、54人の学者に翻訳させ、欽定訳聖書(「ジェ-ムズ王欽定訳」=The King James Version:KJV、または Authorized Version:AV )を作りました。これは事実上、「ティンダル聖書」と「ジュネーブ聖書(イギリスの宗教改革の迫害から逃れてジュネ-ブに渡った学者たちによって翻訳されたもので、1560年に出版されました)」を基本としていると言われています。従ってここでも「ツァラアト」は「leprosy」と訳されています。これはまた、今日に至るまで最も権威ある英語聖書としての評価を持ち続け、聖書が各国語に翻訳されるときの基準ともされました。(「聖書のらい」p.58、「聖書を知る」、Wikipedia) |
| 【注29】 | プロシヤ生まれでオランダ伝道協会の宣教師のカール・ギュツラフ(Karl Friedrich Augustus Gutzlaff)は「ヨハネによる福音書」と「ヨハネの手紙1、2、3」を日本語に翻訳して「約翰福(ヨハネ)音之傳」と「約翰(ヨハネ)上中下書」を出版しました。これは、1835年~36年にかけて、3人の日本人漂流船員(岩吉、久吉、音吉)の助けを借りて、マカオで漢訳「神天聖書」を参照しながら翻訳され、1837年、シンガポールで木版刷りで印刷されました。当時キリスト教は未だ禁制下にあり、危険を冒しての決死的な事業だったのです。ギュツラフは、英国商務庁の主席通訳官であり、翻訳に際して、アメリカ聖書協会の援助を仰いでいるところから推して、漢訳「神天聖書」以外に、欽定訳聖書を基にしたと思われますが、「leprosy」を恐らく漢字で「癩病」(癘病)と訳したと想像されますが(世界に16冊しかないので)未だ調べられていません。(「聖書を知る」、Wikipedia) |
| 【注30】 | アメリカ長老教会の宣教師、ヘボン(James Curtis Hepburn)、アメリカの宣教師ブラウン(Samuel Robbins Brown)、同ゴーブル(Jonathan Goble)の三人は神奈川成仏寺に集まって、聖書翻訳に取り組みました。1871年から1873年にかけて、「摩太(マタイ)福音書」「新約聖書馬可(マルコ)傳」「新約聖書約翰(ヨハネ)傳」「新約聖書馬太(マタイ)傳」を相次いで木版刷りで出版しました。この作業が、後の「明治元訳」、「文語訳」を生む共同作業へ発展していったのです。なお、ヘボンは1841年、シンガポールの米国外国伝道協会の印刷所「堅夏書院」でギュツラフの「約翰福音之傳」を見いだしていますから、その影響を受けていることを考慮すると、「leprosy」を恐らく漢字で「癩病」(癘病)と訳したと想像されます。(「聖書を知る」、Wikipedia) |
| 【注31】 | 1872年、日本在住の各ミッション合同の第1回宣教師会議が開かれ、席上ヘボンは各教派共同で聖書の翻訳に当たることを提案しました。各教派からS.R.ブラウン、ヘボン、グリーン、マクレー、N.ブラウン、パイパアとライトの7名が選ばれ、1874年「翻訳委員社中」が組織され、新約聖書の翻訳に従事する事になりました。1880年に翻訳が完成し、「新約全書」ができました。「聖書のらい」は「leprosy」を「癩病」と訳したと述べています。(「聖書のらい」p.59、「聖書を知る」、Wikipedia) |
| 【注32】 | 1878年に「聖書常置委員会」(N.ブラウン、クインビー、カクラン、ヘボン、S.R.ブラウン、ライト、ワデル、ゴーブル、クレッカー、マクレー、グリーン、パイパアの12名)が組織され、ヘボンを委員長として旧約聖書の翻訳がなされました。これに日本人補佐役として、奥野昌綱、高橋五郎、松山高吉らが協力しています。この翻訳には「欽定訳聖書」、「ブリッジマン・カルバートソン漢訳聖書」などが参考にされ、1887年全部の翻訳が完成しました。これが、「明治元訳」と言われるもので、その旧約聖書は、今でも「文語訳」として用いられています。なお、この訳業の資金援助と出版は米国聖書会社、大英国聖書会社、北英国聖書会社が引き受けたということは、忘れてはなりません。「聖書のらい」には「leprosy」を「癩病」と訳したと述べられています。(「聖書のらい」p.59、「聖書を知る」、Wikipedia) |
| 【注33】 | 中国では、1854年にイギリス人による翻訳が完成していましたが、これは日本の聖書に関係を及ぼしませんでした。そして、アメリカのブーンやブリッジマン(E.C.Bridgman)、カルバートソン(M.S.Culbertson)が独自の改訳を行い、米国聖書協会の手で上海から出版した漢訳『新約全書』(1861年)、漢訳『旧約全書』(1863年)が後の日本の聖書翻訳に影響を与えることになります。「leprosy」がどのような中国語になったかは、調査中です。 |
| 【注34】 | これは明治元訳の「新約聖書」を改訳したもので、日本聖書協会(当時は英国外国聖書協会、米国聖書協会、北英聖書協会の日本支社の共同事業)が発行しました。「聖書のらい」には「leprosy」を「癩病」と訳したと述べられています。(「聖書のらい」p.60、「聖書を知る」、Wikipedia) |
| 【注35】 | 改訂標準訳聖書(Revised Standard Version: RSV)がアメリカで編纂され、1946年に新約聖書が、1951年に新旧合わせた聖書がアメリカ教会協議会によって発行されました。この改訂標準訳は評価も高く、RSVはアメリカのプロテスタント教会で公式に用いられる聖書となり、欽定訳聖書から徐々に切り替えられて行きました。また、この訳は、欽定訳聖書に忠実だったため、ここでも「ツァラアト」は「leprosy」と訳されています。(「聖書の中の『らい』」p.55、「聖書のらい」p.59、Wikipedia) |
| 【注36】 | 1950年ごろになると戦後の現代かなづかい、当用漢字の制定などによる国語の変化や聖書学の急速な進歩で、聖書改訳の要求が次第に高まってきました。更に英語訳では改訂標準訳(RSV)が現れたことに対応して、1951に米、英両聖書協会の協力を得て、翻訳が始まりました。この翻訳は、初めて日本人の聖書学者によってなされたものです.。手元の「口語訳」でも、「らい病」(レビ記13.2)、「らい病人」(マタイによる福音書8.2)と訳してあります。(「聖書のらい」p.60、「聖書を知る」、Wikipedia) |
| 【注37】 | RSVに対抗して、イギリスでも新しい翻訳を作る声が強くなり、1961年に新約聖書を、1970年に聖書全体が発行された。これはNew English Bible:NEBと呼ばれます。新約では「leper」や「leprosy」が使われ、脚注に「この訳の「leprosy」は型くずれを伴う皮膚病のことで、儀式上のけがれを意味する。現在のハンセン病とは別である」と記しています。また、旧約では「悪性の皮膚病」「慢性の皮膚病」「皮膚病」など、様々に表現を変えて、訳出の苦労の跡が見えます。(「聖書の中の『らい』」p.55、「聖書のらい」p.58、Wikipedia) |
| 【注38】 | 「グッド・ニューズ・バイブル(Good News Bible:GNB)」は「Today’s English Version:TEV」とも称されますが、ここでは「leprosy」を用いず、「恐ろしい皮膚病(a dreaded skin disease)」と訳しています。(「聖書の中の『らい』」p.53・57、「聖書のらい」p.59、Wikipedia) |
| 【注39】 | これは、米国のカトリック聖書教会が訳したものでNew American Bible:NABと呼ばれます。この訳は、ウルガタ聖書のラテン語訳を離れてギリシャ語とヘブライ語の原典から翻訳されました。カトリックが本格的な英語訳聖書を持ったということは、共同訳事業に向かう可能性を示唆するものとされています。この訳では「leprosy」を用い、注で、「このへブル語は、現在、leprosyと使われている、ハンセン病のことではない(The Hebrew term used does not refer to Hansen's disease, currently called leprosy.)。」と明言しています。(「聖書の中の『らい』」p.55、「聖書のらい」p.59、Wikipedia) |
| 【注40】 | アメリカではRSVやTEV・GNBを不十分な訳として「新国際版聖書(New International Version:NIV)」が生れました。ここでは、「レビ記13章」では「感染性の皮膚病(an infectious skin disease)」と訳し、「ルカによる福音書17章」では「leprosy」を用いて「ハンセン病に限らず、多種の皮膚病を含む語(The Greek word was used for various diseases affecting the skin―not necessarily leprosy. )」と、脚注を付しています。(「聖書の中の『らい』」p.53、「聖書のらい」p.59、Wikipedia) |
| 【注41】 | NABに見られる、世界的趨勢もあって、1969年にカトリックとプロテスタントの双方が参加した会合が行われ、1972年から翻訳作業が開始され、1978年に新約聖書全体が出版されました。固有名詞の原音表記などの新しい試みが不評で、日本聖書協会は再翻訳へ梶を切り、「新共同訳聖書」へ向かいます。編者の推測では、ここでは、英語訳聖書の「重い皮膚病」への見直しの傾向は、まだ取り入れられていません。(Wikipedia) |
| 【注42】 | これは「新国際版聖書(NIV)」の改訂版で、ジェンダー関係の用語の見直しなどがなされました。「leprosy」に関わる言葉も、微妙に修正されています。(Wikipedia) |
| 【注43】 | ・ダニエルセン(Daniel Cornelius Danielssen)とベック(C.W.Boeck)が著書「Traite de la Spedalskhed
ou Elephantiasis des Grecs」の中で、それまで漠然としていたハンセン病の臨床的な疾病像(clinical differentiation)を、多くの症状の図譜を添えて、明確にしました。彼等はハンセン病を、皮膚を主とする「皮膚型」と、知覚麻痺を主とする「麻痺型」に分類しました。なお彼等は感染を遺伝によるものとしています(参考:検証会議最終報告書PDFp.6)。 ・彼等はハンセン病を「レプラ」とは呼ばず「スペダルスキー」または「象皮病」と呼んでいました。「聖書のらい」p.112 |
| 【注44】 | 奈良県立同和問題関係史料センター所長の吉田栄治郎著『有馬温泉の「癩」者・坂者・夙』の中で「多聞院日記」に「癩病ニテ湯山ニ入…」とあると記述されています。 |
| 【注45】 | 吉田栄治郎著「薬師寺西郊の夙村と救癩施設・西山光明院」(p.5)中に引用されている、宮川量の論文「救癩施設西山光明院に就いて」(昭和10(1935)年『レプラ』Vol.6, No.2所収)の中で、「病名例布羅」と記された、医師の診断書が有ります。 |
| 【注46】 | 1607年に長崎のイエズス会印刷所で出版された「スピリツアル修行」の第二篇「御パシヨンの観念」(現在は「日本思想大系:キリシタン書 排耶書」p.304)に「…シマン・レポロソが家におはします…(頭注:Leproso(ポ)。癩病者。)」(ページ画像)とあります(これは「マタイによる福音書第26章・6節」です)。この本はローマ字で書かれており、「日本字に直された別冊の形においても信徒の間に流布していた。」と「キリシタン書 排耶書」の「解説」(p.620)には書かれています。これは「レポロソ」という言葉が、当時の人々の口に上ったことを、意味しています。ここから類推しても、この約60年前、ザビエルが「レプラ」という言葉を使った可能性は、高いと思われます。参考:【注19】 |
| 【注47】 | 日本聖書協会は2006年1月から、「共同訳聖書委員会」によって、「ツァラアト」の訳語としての「重い皮膚病」、「かび」の妥当性の検討を重ねてきましたが、今回、「重い皮膚病」を用いることに伴って、発生する可能性のある誤解については、巻末に用語解説を付記することで対応するとしました。(参考:経緯と詳細) |
| 【注48】 | OED(Oxford English Dictionary)によれば、「1483 Caxton Gold. Leg. 216b/1 The hous of Symon leprous where as our lord dyned.(dyned=remainedです)」とあります。「Caxton Gold. Leg.」は1483年にCaxtonの手で印刷された、「”The Golden Legend”=黄金聖人伝」のことです。 |
| 【注49】 | 片倉鶴陵(元周とも。1751-1822 年)著「黴癘新書(ばいらいしんしょ)」(1786年)に、「癘疾を発す」とあります(黴癘新書の写真版―京都大学附属図書館所蔵富士川文庫より)。またここには、「癩」の「悪血」を足裏から出して発病を未然に防いだ少女の話を記しています。(検証会議最終報告書「第二 1907年癩予防ニ関スル件p.2」) |
| 【注50】 | ベーダ・ヴェネラビリス(Beda Venerabilis―673~735年)は死の直前に「ヨハネによる福音書」を古英語(アングロ・サクソン語)に訳しました。古英語では「lepra」は「blæcða」または「hréofnes」と言われていました。実際にどちらが使われたか、「レプラ」との関連はあるのか、などは調査中です。(参考) |
| 【注51】 | 「『癩』から『ハンセン病』へ」成田稔著の連載第1回p.22 |
| 【注52】 | シカゴ医大及びイリノイ大医学部助教授のレンドラム(Frederick C.Lendrum)が「癩という悲劇的な名称」(”That tragic name of leprosy”)という論文に「癩に変る病名として、ハンセン病が適当である」としました。スタンレー・スタインは「The Star」にこれを転載した、と「『癩』から『ハンセン病』へ」連載第1回にあります。 |
| 【注53】 | ブラジルのサンパウロ州の公衆衛生省・皮膚衛生部長ホッペルギ(Abrao Rotberg )が提唱し、同省大臣レゼール(Valter Leser )が賛同して各方面に働きかけました。その結果、学術用語委員会(委員長ハベロ=RABELLO FE )が全ての関連用語を変更しました。(「『癩』から『ハンセン病』へ」連載第1回) |
| 【注54】 | 一度変更して、1969年には再び「leprosy」に戻し、結局1981年に再度法改正をして「hansen's disease」としました。変更の理由はハッキリとはしていません。(「『癩』から『ハンセン病』へ」連載第1回) |
| 【注55】 | ・1948年10月28日に「プロミン獲得促進委員会」が発足しましたが、その副委員長湯川恒美が、発足前後に、配食場脇の掲示板に「”新しい酒は新しい革袋に”の譬に合わせて、「癩」を「ハンセン氏病」に改めよう」と書いて張出した、と語られたそうです。これが事実上日本に於ける「ハンセン氏病」の非公式な初登場です。(「『癩』から『ハンセン病』へ」連載第1回) ・なおこの時は「ハンセン氏」と呼んでいました。1952年5月24~26日の「全癩患協第1回支部長会議」では「ハンゼン氏病」に変っています。これが公式の登場です。(全生園「園内ニュース」1952.6.1)(「『癩』から『ハンセン病』へ」連載第2回) ・最初の「ハンセン氏病」が「ハンゼン氏病」に変わり、また「ハンセン氏病」にもどったという、経緯は「『癩』から『ハンセン病』へ」連載第3回に詳しいです。 |
| 【注56】 | 「『癩』から『ハンセン病』へ」連載第2回の中で、成田稔は諸般の事実から、「1948年から翌年にかけて広まりはじめた」と推測しています(1951年5月の「菊池野」創刊号に「ハンセン氏病」という言葉があるが、それに注釈が付いていないことなど)。 |
| 【注57】 | 加賀田一著「島が動いた」(12行目)に、医師がこう告げるシーンがあります。「貴方はレプラです。レプラという病気がわかりますか」 |
| 【注58】 | 金泰九の堺市で行われたセミナーでの講演「隔離の半生を生きる」(「発病」の10行目)の中に「「先生、僕どんな病気ですか」と聞いたところ、しばらくしてから先生は「レプラだと思う」とおっしゃいました。」という一節があります。 |
| 【注59】 | 1933年7月25日の「大邱日報」に「レプラ患者は隔離すれば減る」という見出があります。(滝尾英二書庫から) |
| 【注60】 | 「洒落本・当世気とり草」に「華蓋(まゆげ)石仏の眉より細うして、自ら称すかったいまゆと」とあります。 |
| 【注61】 | 議事録によると藤田武一栗生支部長が「病名を変更してもハンセン氏病すなわち癩と社会が認識するのであれば、レプラは癩と言うのと同様であって効果はない」と発言しています。レプラと癩を同一視していることが分ります。 |
| 【注62】 | 森岡健一文化部長が年頭所感の中で「われわれの病名がレプラ、ハンゼン氏病、癩の何だろうと、これに拘泥するのは云々」と記しています。この三つの名称が同列に並べられています。 |
| 【注63】 | 1929年発行の、山崎正菫著「肥後医育史」(鎮西醫海時報社)に「解剖記録」として「明治18年5月・レプラ・糸○ツ○(女)年齢不詳」と記載がある。 |
| 【注64】 | 「史記-刺客列伝・豫譲」に「豫讓又漆身爲厲、呑炭爲唖」とあり「厲:索隱音賴、癩病也」と注があります。豫讓の生没年は不詳ですが、春秋末期の晋の智伯(?~紀元前453年)に仕えていたことから、紀元前5世紀中頃と見られます。「史記-范睢蔡沢列伝」にも「漆身為厲、被髮為狂不足以為臣恥」とありますが、范睢は昭襄王(在位紀元前306~251年)に仕えていたので、豫讓が先輩です(貝塚茂樹他訳「史記列伝」中公クラシックス、p.198参照)。 |
| 【注65】 | 田中文雄(鈴木重雄)が「愛生」誌5月号に「ライ病」を「ハンゼン氏病」と改称することを主張しました。 |
| 【注66】 | サンスクリット語では「ハンセン病」を「kuṣṭha」、「ハンセン病の白斑点」を「kilāsa」と言います。インドの「アタルヴァ・ヴェーダ」のサンスクリット語の原典((AVŚ_1,23.1c) idaṃ rajani rajaya kilāsaṃ palitaṃ ca yat )と英訳( So, Rajani, re-colour thou these ashy spots, this leprosy.)では、後者の方が、使われています。辻直四郎訳「アタルヴァ・ヴェーダ讃歌」ではこれは「白癩」と訳されています。(参考:ハンセン病の最古の記録)(参考) |
| 【注67】 | 606年に聖徳太子が推古天皇に「法華経」を進講しています。この「法華経」の「譬喩品第三」に「癩、癰疽」とあり、これは「ハンセン病」と「ハンセン病の白い斑点」を意味しています。また「普賢菩薩勧発品第二十八」には「得白癩病」と記述がありますが、これは「ハンセン病」を意味するものではないと考えられます。615年に聖徳太子が著わした、法華経の注釈書「法華経義疏」は日本最古の書物と言われますが、その中にも「癩、癰疽」及び「得白癩病」が記されていると推察できます。(参考:法華経の中のハンセン病) |
| 【注68】 | OED(Oxford English Dictionary)によれば、「1387 TREVISA Higden(Rolls)Ⅵ.387 A leper Þat was iheld.」とあります。John of Trevisa(1326~1412年)の訳したHigden(1280頃~1364年)の「Polychronicon」(「万国史」)の中にあり、「A leper that was heald.」の意味です。 |
| 【注69】 | 「倭名類聚鈔(わみょうるいじゅしょう)」(931~938年成立)に「癘」が記載されています。「悪疾也」と記されています。(ページ画像) |
| 【注70】 | OED(Oxford English Dictionary)によれば、「1398 TREVISA Barth.De P.R.ⅶ.lⅹⅳ.(1495)279 In foure manere wyse Lepra…」とあります。John of Trevisa(1326~1412年)の訳したBartholomaeus Anglicus著「De Proprietatibus Rerum」(「博物志」)の一部にあります。 |
| 【注71】 | インドの医聖と言われるスシュルタが著わした「スシュルタ・サンヒター」の中に「癩病」を表す言葉として「kuṣṭha」が用いられています。一般にはこれが世界最古の記録とされています。(参考:【注66】、ハンセン病の最古の記録) |
| 【注72】 | 史記・仲尼(ちゅうじ)弟子列傳第七に「伯牛有惡疾」とあります。これは「論語・雍也第六」の「伯牛有疾」を司馬遷がこう記述したもので、「ハンセン病」と解されています。金谷治訳注「論語」岩波文庫(1)(2)参考 |
| 【注73】 | 1975年、中国の湖北省雲夢県睡虎地で発掘された竹簡群(秦の官吏を務めていた喜―B.C.262~217年頃―という人物の個人的な所有物)の中の「封診式」という巻に「癘」の症状が記されています。(参考) |
| 【注74】 | 隋の時代の医師巣元方が「諸病源候論」の中で「癩」、「白癩・黒癩」の症状を詳細に記述しています。また彼は「癩」を「火癩」「金癩」「土癩」「水癩」などと名付け、症状による分類を行っています。 |
| 【注75】 | 「古今著聞集(ここんちょもんじゅう)・巻七・街道」(ページ画像左ページ1、4行目)に「宇佐大宮司なにがしとかや。癩病をうけたる山聞へありて。」「中原貞説も同じく召に応じて、御尋に預りけり。各白らいといふ病のよしを奏しけり」と記されています。 |
| 【注76】 | 近松門左衛門の浄瑠璃「大職冠(たいしょかん)・藤照姫道行」(ページ画像左から5行目)に「こりゃこりゃ、亭主なんと奈良茶はくはさぬか、但人をなぶるかびゃくらい聞ぬと腹立る。」とあります。 |
| 【注77】 | 坪内逍遙の「桐一葉」に「此の事極密大極密、びゃくらい八幡、他言禁制の大事ながら」(ページ画像下段左から10行目)、「ウンニャいやぢゃ、びゃくらい否ぢゃ、知らぬ知らぬ」(ページ画像上段左から10行目)とあります。「びゃくらい八幡」という表現は初出です。 |
| 【注78】 | 井原西鶴の浮世草子の中の「武道伝来記巻七の三」(ページ画像1行目)に「大助はしり懸り藤太が太刀先覚えたかと一文字に切付ければ白癩是はと抜き合わせ」とあります。 |
| 【注79】 | 日蓮上人の「身延山御書(みのぶさんごしょ)」(ページ画像2行目)に「現世ニハ白癩ノ病ヲウケ、後生ニハ無間地獄ニ堕ベシ」と記されています。 |
| 【注80】 | 中国で明の時代の王肯堂(1549~1613)著「瘍科證治準縄(ようかしょうちじゅんじょう)」(ページ画像)に「夫白癩病者、其語聲嘶嗄、目視不明、四肢頑疼、身體大熱、心中懊憹、手腳緩縦、背膂拘急、内如針刺、或生癮疹而起、往往正白在皮肉裏、鼻有息肉、目生白珠當於瞳子、視無所見、名白癩也。」と詳しい症状が記されています。ただこの記述は【注74】の「諸病源候論」の記述とと酷似しています。なおこの書には「烏癩」(ページ画像)も記されています。 |
| 【注81】 | 「播磨浄土寺文書」に「現世には白癩・黒癩の身を受け、後世には無間地獄の底に堕ち」とあります。(岩波古語辞典より) |
| 【注82】 | 中国の道世撰「法苑珠林(ほうおんじゅりん)」(ページ画像上から4行目)に「若人癩病、若白癩、若赤癩、至誠懺悔行道常誦瘥」とあります。 |
| 【注83】 | 犬井貞恕著「蝿打」(安原貞室の「正章千句」を非難する茶杓竹に対する駁論の書)に「此月が師走で、水が油で海道がおれが身ならば、白癩きくまひと云しにひとし」とあります。(日本国語大辞典より) |
| 【注84】 | 近松門左衛門の浄瑠璃「平家女護島(にょごがしま)」(ページ画像左から3行目)に「こりゃ何處へ連て行めすぞ。びゃくらい返してくれられと、歯の根もあはぬ胴顫い」とあります。 |
| 【注85】 | 「歌舞伎十八番矢の根」(ページ画像上段左端の行)に「あきなひ馬に乗らんとは、びゃくらいならぬ、ならないぞ」とあります。 |
| 【注86】 | 鎌倉時代に菅原為長(1158~1246年)が著わした「字鏡集」(ページ画像右から4行目)に「癩 ライ シラハタケ」と記されています。 |
| 【注87】 | 平安時代末期、1179年頃の平康頼著「宝物集(ほうぶつしゅう)」(ページ画像)に「眉ぬけ鼻はしらたうれて白らいといふ病にわかりしに」とあります。 |
| 【注88】 | 1603~1604年にイエズス会宣教師らが長崎で出版した「日葡辞書(にっぽじしょ)(邦訳日葡辞書・岩波書店から)」(ページ画像)に「Biacuraiビャクライ(白癩)Xirogattai(白がったい)白い色の癩病」とあります。 |
| 【注89】 | 「教訓雑長持(きょうくんぞうながもち)」(ページ画像)に「ほんにいらぬ事とは思えども、用ひさへしやらば、びゃくらい、諫言とも出る気なれど」とあります。 |
| 【注90】 | 「評判記・赤烏帽子」に「座配大かた也、狂言のときん白癩わすれたるの一言にて、是も大かた推量いたされたり」とあります。(日本国語大辞典より) |
| 【注91】 | 浄瑠璃「仮名写安土問答」(ページ画像下段5行目)に「箱入のお姫さまを奴めが錐先に突当った此仕合せ、びゃくらい是は有りがたくごはりまする」とあります。 |
| 【注92】 | 延宝4年成立の「淋敷座之慰(さびしきざのなぐさみ)」(ページ画像右から5行目)に「てきと見るならびゃくらい切るき、てきじゃないもの君じゃもの」とあります。 |
| 【注93】 | コリャード著「懺悔録」(大塚光信訳・岩波文庫)(ページ画像右から5行目)に「博打打ちに負けて、相手に金三百目を取られたによって、余を呪うて、赤癩・白癩に被ろう一期の間に、もう打つまい」と有ります。脚注にも記されていますが、仏典以外に「赤癩」の語が記されたのはこれが初見です(2009.5.15現在)。 |
| 【注94】 | 「石田三成起請文」(日本の古文書・岩波書店)(ページ画像)に「今生にてハ白癩黒癩之重病を請、弓矢冥加七代盡、於来世ハ阿鼻無間地獄ニ堕在シ、未来永劫浮事不可有之者也」とあります。 |
| 【注95】 | 安土桃山時代の「米良重直起請文」(日本の古文書・岩波書店)(ページ画像)に「今生者成白癩黒癩」とあります。 |
| 【注96】 | 南北朝時代の「菊池武重起請文」(日本の古文書・岩波書店)(ページ画像)に「今生ニハ白癩黒癩の病を受」とあります。 |
| 【注97】 | 鎌倉時代の「法印定春以下連署起請文」(ページ画像)に「現世受白癩黒癩之病」とあります。 |
| 【注98】 | 南北朝時代の「僧定憲起請文」(ページ画像)に「現世ニハ請白癩黒癩重病、〓(不明)来ニハ可堕無間火城之底」とあります。 |
| 【注99】 | 室町時代の「法印英祐以下三十九名連署起請文」(ページ画像)に「現世還受白癩黒癩病患」とあります。 |
| 【注100】 | Johannes de Gorter著・新宮涼庭訳「窮理外科則」に「白癩・黒癩」の訳語が見られます。 |
| 【注101】 | 篠山和順著「医療察病考」に「白癩は血脈・天刑・不治の病」としています。 |
| 【注102】 | 林良適他著「普救類方」に「白癩(しろがったい)」とあります。 |
| 【注103】 | 佐竹空宿著「癩病治療新法」に「白癩=物ののろい、黒癩=子孫より、血を出し治療」などと記されています。 |
| 【注104】 | 日蓮上人の「妙法曼荼羅供養事」(ページ画像右から8行目)に「癩病の中の白癩病白癩病の中の大白癩病なり」とあります。 |
| 【注105】 | 日蓮上人の「四信五品鈔」(ページ画像右から10行目)に「明信と圓智とは現に白癩を得」とあります。 |
| 【注106】 | 平安時代(859~877年頃)惟宗直本(これむねのなおもと)によって撰じられた養老令の私撰注釈書「令集解(りょうのしゅうげ)」(ページ画像「新訂増補国史体系」吉川弘文館)に「悪疾。謂。白癩也。此病。有虫食人五藏。或眉睫墮落。或鼻柱崩壊。或語聲嘶變。或支節解落。亦能注染於傍人。故不可與人同床也。癩或作癘也。」と殆ど「令義解」と同じ説明があります。 |
| 【注107】 | 大久保彦左衛門著「三河物語」(ページ画像7行目)に「起請ノ御罰ト蒙リテ、今生ニ而者、ビヤクライ、コクライノ〓(疒+支)ヲ請ケ」とあります。 |
| 【注108】 | 浅井了意著「浮世物語」(ページ画像5行目)に「口によせてくらひけがし、そのあひだに白癩、黒癩、揚梅瘡(とうがさ)かき、欠唇(いぐち)、喘息病みなどもあるべし」とあります。 |
| 【注109】 | 江島其磧著「傾城禁短気」に「此上からは白癩わしが手にもらふて逢ふ」とあります。(角川古語大辞典より) |
| 【注110】 | 鎌倉時代の僧他阿(真教、1237~1319年)の「他阿上人法語」の中に「天魔・波旬の勸めにつきて、今生には誓ふ所の白癩・黒癩とかやになり」とあります。(修訂大日本国語辞典より) |
| 【注111】 | 江戸時代初期の酉水庵無底居士(ゆうすいあんむていこじ)著「難波鉦(なにわどら)」(ページ画像)(1680年)に「もはや方様のような殿達は白癩乞丐(びゃくらいがったい)いやでござんす」とあります。「白癩乞丐」という表現は初出です(2009年6月14日現在)。 |
| 【注112】 | 明の時代の王肯堂(1549~1613)著「證治準縄」(ページ画像)に「癘風」として46ページにわたり解説があります。 |
| 【注113】 | 平安時代、1179年頃の平康頼著「宝物集(ほうぶつしゅう)」(新日本古典文学大系・岩波書店による)に「あるは、三年重病をうけ、あるは、癩病やみてかなしむ」(ページ画像)、「癩の、「わが垢すりて給われ」と申しければ」(ページ画像)などとあります。 |
| 【注114】 | 秀松軒編、歌謡集「松の葉」(ページ画像左から1行目)に「近江の笠はいよこの、さいたさ姿(なり)はよふて、白癩著よふてさ」とあります。 |
| 【注115】 | 西沢一風著、浮世草子「御前義経記」(ページ画像左から7行目)に「白らいそうした心底なし」とあります。 |
| 【注116】 | 芥川龍之介著「おしの」に「 |
| 【注117】 | 日蓮上人の「災難対治抄」(ページ画像)に「法華経に云く此の人現世に白癩の病乃至諸の悪重病を得んと」とあります。 |
| 【注118】 | 日蓮上人の「十法界明因果抄」(ページ画像左ページ右から5行目)に「若は実にもあれ若は不実にもあれ此の人は現世に白癩の病を得ん」とあります。 |
| 【注119】 | 日蓮上人の「開目抄・下」(ページ画像左から6行目)に「若は実にもあれ若は不実にもあれ此の人は現世に白癩の病を得ん」とあります。 |
| 【注120】 | 日蓮上人の「呵責謗法滅罪抄」(ページ画像)に「謗法は白癩病の如し始は緩に後漸漸に大事なり」、「人間に生ずる時は貧窮下賎等白癩病等と見えたり」とあります。 |
| 【注121】 | 日蓮上人の「曾谷入道殿許御書」(ページ画像)に「又法華経の第八に云く「所願虚しからず亦現世に於て其の福報を得ん」又云く「当に今世に於て現の果報を得べし」云云、又云く「此の人は現世に白癩の病いを得ん」」とあります。 |
| 【注122】 | 日蓮上人の「釈迦一代五時継図」(ページ画像10ページ)に「勧発品に云く「若し復是の経典を受持する者を見て其の過悪を出さば若しは実若しは不実にもあれ此の人は現世に白癩の病を得ん、」とあります。 |
| 【注123】 | 日蓮上人の「兵衛志殿御書」(ページ画像左ページ5行目)に「其の科必ず其の国国万民の身に一一にかかるべし、或は又白癩黒癩諸悪重病の人人おほかるべし」とあります。 |
| 【注124】 | 日蓮上人の「神国王御書」(ページ画像左ページ5行目)に「此の身現身には白癩黒癩等の諸悪重病を受け取り後生には提婆瞿伽利等がごとく無間大城に堕つべし」とあります。 |
| 【注125】 | 日蓮上人の「異体同心事」(ページ画像右ページ左から3行目)に「又現身に改悔ををこしてあるならば阿闍世王の仏に帰して白癩をやめ」とあります。 |
| 【注126】 | 日蓮上人の「上野殿御返事」に「阿闍世王父をころせしかば白癩病の人となりにき」(ページ画像左ページ左から3行目)、「波瑠璃王のごとく現身に無間大城におち阿闍世王の如く即身に白癩病をもつきぬべかりしが」(ページ画像右ページ左から2行目)とあります。 |
| 【注127】 | 日蓮上人の「撰時抄」(ページ画像下段左から5行目)に「妙法蓮華経の五字をもたしめて謗法一闡提の白癩病の輩の良薬とせんと」とあります。 |
| 【注128】 | 「甲斐國志」(ページ画像「白癩でサイト内検索をしてください」)に「舊事大成經ニ曰、推古帝二十年、百濟國歸化人、有二白癩一、巧掛二長橋一、令レ造下遣二諸國一三河國八脛橋、信濃國水内曲橋、木襲梯、遠江國濱名橋、陸奧國會津闇川橋、兜岩猿橋等、其外一百八十橋上云々」とあります。 |
| 【注129】 | 410年~412年頃、仏陀耶舎(ぶっだやしゃ)が「四分律」(ページ画像)を漢訳し「爾時摩竭國界五種病出。一者癩二者癰三者白癩四者乾痟。五者顛狂。彼國人有此病者。」と記しました。 |
| 【注130】 | |
| 【注131】 | |
| 【注132】 | |
| 【注133】 | |
| (敬称は略させて頂きました) | |
| 日本での呼称の変遷 topへ | |
| 飛鳥時代・奈良時代 (5??~784年) |
・606年に聖徳太子が推古天皇に進講した「妙法蓮華経」に「癩、癰疽」の記述が有ります ・612年頃「日本書紀」に「白癩」(びゃくらい・しらはた―参考)の記述があります |
| 平安時代 (794~1192年) |
「白癩」(しらはた・しらはたけ)「癩病」(らい病)などと呼ばれ、確実な治療法や医学的知識がなかったので 「天刑病」(天が罰している刑であること)、「業病」(過去の悪事に対する報いであること)などと思われていました |
| 鎌倉時代以後長い間 (1192~1952年) |
「癩」(らい)・「癩病」・「らい病」と呼ばれました。国の「民族浄化」・「国辱論」などの誤った思想が医学の常識を 無視して「恐ろしい遺伝病」という意識を植え付け、長い間の差別を生んでしまったのです ※1593年「多聞院日記」に「癩病ニテ・・・」の記述があります |
| 江戸時代 (1603~1867年) |
「癩病」のほかに「かたい」、「かったい」という言葉もあったようです。 ※「当世気とり草」金金先生著(1773年)に「かったい眉」の記述があります |
| 1873(明治6)年 2月 |
ノルウェーの医学者アルマウェル・ハンセン( Gerhard Henrik Armauer Hansen)が らい菌(Mycobacterium leprae=M.leprae)を発見しました |
| 1881(明治14)年 | 大阪の医師の診断書に「例布羅」と記載されています |
| 1907(明治40)年 2月 |
「癩予防ニ関スル件」が制定されました |
| 1930(昭和5)年 | 日本癩学会は機関誌名を「レプラ」としました |
| 1931(昭和6)年 4月 |
「癩予防法」が制定されました |
| 1946(昭和21)年 11月 |
勅令514号によって「国立癩療養所」の呼びかたを「国立療養所」に改めました |
| 1947(昭和22)年 1月11日 |
画期的治療薬プロミンの試用が始まりました |
| 1949(昭和24)年 |
第22回日本癩学会で病名「癩」の呼び方の変更が協議されたが実りませんでした |
| 1951(昭和26)年 1月12日 |
「全国国立癩療養所患者協議会」が発足しました。略称は「全癩患協」としました(発会式は2月10日) |
| 1952(昭和27)年 5月24日 |
「全癩患協」は政府に「癩」・「癩病」・「らい病」を「ハンゼン氏病」と改めるように要望しました (ハンゼン氏病と濁音が入ったのはハンセン博士の英語読みが「ゼ」と訳されたためです) |
| 1953(昭和28)年 2月 |
「全国国立ハンゼン氏病療養所患者協議会」と改称。 また略称「全癩患協」を「全患協」に 改称しましたしましたが、厚生省は「癩」から「らい」とひらがなに修正しただけです。 以後患者側は「ハンゼン氏病」と呼び、厚生省は「らい」と呼ぶ状態が続きました |
| 1953(昭和28)年 8月15日 |
「らい予防法」が制定されました |
| 1959(昭和34)年 9月 |
全患協は「ハンゼン氏病」を「ハンセン氏病」に改称しました(ゼ→セ) 協議会も「全国国立ハンセン氏病療養所患者協議会」と改称しました |
| 1974(昭和49)年 10月 |
全患協は「全国ハンセン氏病患者協議会」へ改称しました(「国立」・「療養所」がなくなる) |
| 1983(昭和58)年 5月 |
全患協は「ハンセン氏病」を「ハンセン病」という一般的な病名に改めました(「氏」がなくなる)が 厚生省や日本らい学会は「らい」という病名を使いつづけてていました 協議会も「全国ハンセン病患者協議会」と改称しました |
| 1996(平成8)年 4月1日 |
「らい予防法の廃止に関する法律」が施行されました |
| 1996(平成8)年 4月 |
「らい予防法の廃止に関する法律」が出来たため厚生省や日本らい学会も 「らい」を「ハンセン病」に改めました。「日本らい学会」も「日本ハンセン病学会」と改称しました |
| 1996(平成8)年 5月 |
協議会が「全国ハンセン病療養所入所者協議会」と改称し(「患者」→「療養所入所者」)、 略称も「全療協」へと変更しました |
| ※「病名の変遷」以外の主な出来事をグレイの枠に表示しています ※「・・・協議会」はこの色で示しています 参照:年表 日本のハンセン病史 |
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| ※Word Searchでは「leprosy」、Passage Seachでは、「レビ記13章3節」は 「lev13:3」、「マタイによる福音書8章2節」は「mat8:2」などと入れて下さい |
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ebible(口語訳・新共同訳・新改訳 対象) |
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