∥ハンセン病のリンク集∥
                                       
    
ハンセン病の歴史について

 ハンセン病はすでにご存じのように、感染症の一つです。しかし日本においてのハンセン病は、同じ感染症と言っても結核、はしか、インフルエンザなどとは、全然違った特徴を
持っています。それはこの病気が、国家によって長い間、間違ったとらえ方をされ、そのために、患者さんが、長期に渡って「強制隔離」という特殊な扱いを受け、人生にまで影響する
悲惨な経験を強いられたという点です。ですから、ハンセン病を本当に理解するためには、歴史を振り返って、何故特に日本では、そういう人権侵害が生まれるようになったか、
それを学ぶ必要があります。

このページでは、世界における歴史日本における歴史を分かりやすく説明します。

※このページでは現在の日本では使われなくなった「らい」、「癩」等の他、外国で使われなくなった(或いは使われなくなりつつある)「leper」、「leprosy」などが数多く出てきます。
これは歴史を語る場合、避けられないことなので、お許し下さい。現在日本では、医学用語以外では「らい」の表記は使われず、「ハンセン病」が正しく、また英語でも「leprosy」は
「Hansen's disease」に変わりつつあります。参考:「ハンセン病用語集」(日本ハンセン病学会用語委員会による)


目   次
いつからあったのですか?
どのような歴史をたどったのですか?
日本での歴史は?
地域別の歴史年表
ハンセン病の呼称の変遷
年表 日本のハンセン病史
ハンセン病の略年表










いつからあったのですか?                                                         topへ


  ハンセン病は、はるか昔、中国・エジプト・インドの古代文明の頃からあったとされています


  
【文書や記録によれば】―――――――――――――――――――――――――――

    最も古いものは紀元前3000年にさかのぼります。旧約聖書の中の「サマリア城門の入り口の重い皮膚病を患う者四人」と「ウジャ王」は
      「真のらい」であるとの説が有りましたが、現在では否定されています。【注2】

   ● 紀元前2960年頃、エジプトの第一王朝のデン王に「らい」を思わせる症状が有ったと、後の「エーベルス・パピルス」に記されています。
      【注52】

   ● 紀元前2600年頃、中国の伝説上の黄帝が「素問」を行い、それが後に編集されて「黄帝内経」となりました。その中に「癘風」という
      表現で登場します。【注53】

   ● また、「世界大百科事典」(平凡社)の[疾病史]には「すでに前 2400 年ころのエジプトのパピルス文書に癩は記録されており」との
      記述がありますが、編者の調査によると、次に述べる年代の方が正確なようです。
【参考4】

   ● 紀元前1550年ごろ書かれたとされる古代エジプト(第18王朝のころ)の古文書「エーベルス・パピルス」の疾病をハンセン病と見る説
      は【参考4】のように、古くから支持されていますが、最近では記述が「漠然としている」と指摘する学者(ブラウン=S.G.Browne)も
      います。
【注7】

   ● WHO(
世界保健機関)のホームページには、以下のように書いてあります。WHO HP 「History」の項)
        ・ハンセン病は中国エジプトインドの古代文明で、すでに存在が認識されていました。
        ・ハンセン病について記された最初の記録は、紀元前600年のものです。
【注8】
        ・歴史を通じて、罹患者が社会や家庭から排斥を受けることが、しばしばありました。
 
   ● また、厚生労働省のホームページはこのように説明します。
厚生労働省 HP PDFの2頁です)
      「最も古くからある病気の一つです。ハンセン病は、世界各地で古くからその存在が知られています。紀元前600年ごろ
      古代インド(マガダ国を中心とする都市国家の時代。釈迦が生まれた頃です―編者注)の書物には、大風子という木の実からとれる
      大風子油を薬にしていたという記述があります。」
【注1】
     
   ● このようにいろいろな記録があり、学者によって意見が異なったりするのですが、最初の記録は、大体紀元前600年ごろの古代インドの
      「スシュルタ・サンヒター
【注8】とする説が最も多く見られます。

   ● しかし、最近(2008年5月)の私の調査によると、紀元前1000~800年ごろに成立したと思われる、「アタルヴァ・ヴェーダ」に
      「癩病の白斑點梵語辞典では)」という意味の「kilāsa」という語が使われています。従って上記の諸説は、訂正されるべきだと、
      私は思っています。【注60】
    
   ● 正確な最初の記録は、このように紀元前1000~800年ごろなのですが、「ハンセン病」が一体いつ発生したのかは、それより更に昔である
      だろうということしか、分かっていません。トラウトマンは「多分永久に分からないだろう」と言い切っています。【注3】また、ルシャットは
      B.C.1300年頃東アフリカからエジプトへ、黒人奴隷と共に輸入されたのではと、大胆に予測しています。【注51】

   ● また、発生した場所についても中国か、エジプトか、それともインドか、文書や記録の上では、明らかになっていません。
      これについては、下の「DNA解析による研究」を参考にしてください。


  
【考古学的な研究では】―――――――――――――――――――――――――――

   ● 紀元前1400年頃のものとされる「カナンの土器」にライ腫型らいの獅子顔に似た人物が描かれていますが、複数の学者が否定して
       います。【注5】

   ● メーラー・クリステンセン(Møller-Christensen)は紀元前600年頃からの、古代エジプトや南パレスチナの頭蓋骨を調べましたが、
       「ライ腫型らい」による変形を示すものは見られなかったと報告しています
【参考19】

   ● ヌビア収集(エジプトのヌビア博物館?)の中の、コプト人(古代エジプトの初期キリスト教徒)のミイラ(6世紀頃のもの)2体に
      ハンセン病の存在が確認されています。
【注42】

   ● このように考古学的には、6世紀以前の証拠は何も残されていません。


  
【DNA解析による研究では】―――――――――――――――――――――――――――

   ● 最近の遺伝学的研究では、フランスのパスツール研究所をを中心とするメンバーが、世界各地から集めたらい菌(5大陸・21カ国から
      175の標本)を、DNA解析によって4タイプに分類し(図1)、それぞれの分布状況(図2)を調べることによって、らい菌の起源と拡散
      状態を明らかにしました【注6】

   ● なおこれは2005年に発表された研究ですが、2009年11月にほぼ同様のメンバーが新しい研究結果を発表しました。これは更に研究を
     進めて細かく分析したものですが、専門的な論文なので良く理解してからこちらに解説します。お待ちくださるようお願いします。

   ● これは文書や考古学的研究では明らかに出来なかった、様々なことを教えてくれることになりました。下の図二つと、その下の解説を
      お読み頂くと、興味深い事実が浮かび上がってきます。特に図1図2の色分けと矢印に注目して下さい。
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図1
SNP一塩基多型の分析による分類
図2
4種類のらい菌の拡散図 (注意:灰色の点線は人類の移動状況【参考2】とその推定年代です)
(図はScience誌より)

注:これはDNA中の塩基の組み合わせによって、
らい菌をtype1からtype4の4タイプに分類し、
色分けしたものです。矢印は4タイプのらい菌の、
歴史学的・地理学的裏付けに基づく、 
ごくおおまかな移動状況 を示しています。
その移動状況を詳しく地図上に表したのが
右の図2です

   (1)ハンセン病は最初に東アフリカ(又は近東=エジプト・トルコ・シリア・イスラエルなどの国々)で発生し、その後の一連の
     人類の移動(灰色の点線)にともなってヨーロッパ、北アフリカ、インドなどへ広がって行きました。(オレンジ色=エチオピア、
      マラウィ(タンザニア南部)、ネパール、北インド及びニューカレドニア にごく少量見られるとあります)

   (2)インド中国の黄色から、オレンジ色の東アフリカへ向けての矢印(図1)が有ることにご注目下さい。原文【注6】では「もう一つの
     ルート(an alternative route)」と書いてあります。(黄色=アジア、太平洋地域及び東アフリカ)

   
 ●このオレンジ色と黄色の●印と矢印によって、ハンセン病が発生した地域は、東アフリカ、中国、インドと複数有ったことが分かります。
        このことはこの研究が発表される前から、学者の間では定説になっていました。【注43】

      ●注目すべきことの一つは、インドの黄色の「らい菌」が、ヨーロッパへ移動していないことです。これによって、アレクサンドル大王
        のインド遠征(B.C.327~326)の際、ギリシャ兵士が罹患してヨーロッパへ持ち帰ったという仮説は成立しなくなりました。

      ●ただ、この研究によっても、「いつからあったか」を推定することは出来ません。繰り返しますが、上の図の数字は「人類」の
        移動の年代を示していますので、あくまで参考数字であるとご理解下さい。


    なお次の(3)(4)は「いつからあったか」以後の時代の事実となりますので、次の「どのような歴史をたどったのか」の話に譲ります。

   (3)ヨーロッパ北アフリカからは、ハンセン病に感染した探検家・貿易商・入植者によって、西アフリカへ運ばれます。(紫色=
     ヨーロッパ、北アフリカ及び南北アメリカ)
     そしてそこから、18世紀の奴隷貿易によってカリブ海諸島ブラジルへ運ばれました。(緑色=西アフリカ、カリブ諸島及びブラジル)

   (4)ヨーロッパや北アフリカからは西アフリカ以外に、南北アメリカ大陸へ、入植や移民によって、18~19世紀に運び込まれて
     います
【参考11】。(紫色)

  
【結論として】―――――――――――――――――――――――――――

   
   ● 考古学的研究からは、参考になるものがありませんでした。しかし、文書・記録やDNA解析によって、はっきりしたのは、ハンセン病は
      古く紀元前600年より前から存在したこと。そしてそれは、東アフリカ・近東及び中国、インドで別々に発生したことです。
      ここで注意しなければならないのは、中国とインドは、DNA解析の結果、同じ黄色の「タイプ」に属していることです。このことから、
      中国とインドが別の発生源であるとは、言えなくなります。どちらかが発生源で、それが伝播したものである可能性は強いと思われ
      ますが、これは今後の更なる研究を待たなければなりません。

   ● 次にその後、ハンセン病はどのように世界に拡がっていったのか、そして現在に至ったのかを、調べてみます。

  


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どのような歴史をたどったのですか?                                                topへ


    下の表でも分かるように、中国インドについては、ハンセン病の症例の記録は残されていますが、歴史的な出来事は全く明らかに
      なっていません。
図2の黄色い線から推定できることは、中国、インドで発生したハンセン病が、日本西太平洋地域へ拡がった
      だろうということだけです。

   
 東アフリカ(又は近東)で発生したハンセン病がヨーロッパへ伝わって行ったのは上の図2のオレンジ色の線でも明らかですが、
      これを歴史的事実からも調べてみます。
 

   
 これまでは、B.C.326年アレクサンドル大王のインド遠征の結果、パレスチナ地方地中海沿岸地方にハンセン病がもたらされ
      たと考えられていましたが、インドの黄色のタイプの「らい菌」は、
図2で明らかなように西へは伝わっていませんから、この事実は
      無かったと考えなければなりません。

   
 ギリシャのヒポクラテス(B.C.460頃~377頃)は、フェニキア(現在のシリア、パレスチナ)に「象皮病」の名でハンセン病が存在した
      と述べています。
【注11】

      また、アレクサンドリア(エジプトのナイル川河口の西側)の医師エラシストラトス(B.C.300頃~250頃)が「象皮病」として弟子に伝え
      たのも同時代です。
【注40】

      これらのことから、少なくとも紀元前4世紀には、エジプト近東にハンセン病が「象皮病」という名で存在したと言えます。

   
● B.C.62年ポンペイウスがシリア、パレスチナ(近東の一部)へ侵攻した時、兵士がイタリアへ持ち帰ったという説が多く聞かれます
      が、その頃は既にローマにもハンセン病は(「象皮病」という名で)存在したとされています。【注23】


   
● その後、ローマ時代に入って、ケルスス【注4】アレタイオス【注24】ガレノス【注17】が「象皮病」や「レプラ」という呼び名で正確な
      記述を残しています。

      そして、ローマの領土拡大によってハンセン病が、ヨーロッパ全土へ拡がって行ったことは想像に難くありません。375年に始まった
      ゲルマン民族の大移動によって、ローマ帝国は分裂(395年)し、衰退に向かいますが、民族の大移動に伴うハンセン病の伝播に
      ついては歴史に記されたものが見当たりません。

   
● この頃から、ヨーロッパはいわゆる「中世の暗黒時代」に入り、それは1400年頃のルネサンスの始まりまで続きます。

      「中世の暗黒時代」はその名の通り、ハンセン病についての記録が正確かつ十分に残されているとは言えません。しかし、調べて
      いくと、特徴的な二つの出来事が浮かび上がってきます。「らい者のミサ(又は模擬埋葬)」と「ラザレット」です。


   (続きます)


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日本での歴史は?                                                                topへ


  ● 図2によれば最初は大陸から伝わったと思われます。朝鮮半島との交流は、4世紀頃に始まったとされていますので、最も古くは、その頃
     
【注48】から、日本に伝わっていた可能性は有りますが、記録も考古学的な証拠も、全く有りません。

  ● 日本書紀(巻第二十二)によると、606年聖徳太子が推古天皇に「法華経」を進講したとあります。「法華経」の「譬喩品第三」には
     「癩、癰疽」と言う表現で「ハンセン病」と「ハンセン病の白い斑点」を記述しています。しかしこれはあくまで大陸から伝来した経典
     ですから日本にハンセン病が存在した証明にはなりません。
  

  
  ● 一番古い記述は聖徳太子が著わした「法華経」の注釈書である「法華経義疏(615年)にあり、癩、癰疽と記されています。

  ● 最初の日本人の記述は「日本書紀」(720年完成)にあり、612年に百済からの帰化人に「白癩」と疑われる者がいたと記されています。

     後の「今昔物語集」(1120年)にも奈良時代(710~794年)の僧が白癩にかかった話があります。

     後の元亨釈書(1322年)には光明皇后(701-760年)の「施浴伝説」が語られています。
  
     養老七年(723年)には悲田院、施薬院などの公共医療施設が興福寺に作られました。
     (聖徳太子が593年四天王寺を建て、そこに最初の公的医療施設である敬田院、悲田院、施薬院、療病院を併設しましたがそこでは、
     未だらい(ハンセン病)患者が治療を受けていたかどうか不明です)しかしこの頃(養老七年)には治療が為されていたと想像されて
     います。

  ● 上のような事実から、奈良時代にはハンセン病が存在したと推定できますし、また、仏教の影響を受けて、病者や貧者に対する
     公的な慈善事業
が盛んだったので、らい患者も当然のこととして救済の対象であっただろうということも想像されます。

  ● しかし、その後朝廷や寺院の勢力が衰退するにつれ、このような慈善事業は低調となり、その後鎌倉時代に叡尊、忍性、一遍などの
     僧侶が個人的にらい患者の救済活動を熱心に行なった以外には、制度としては特に見るべきものは有りませんでした。

   16世紀になると、日本に渡来したキリスト教宣教師の中にらい患者救済に熱心な人がおり、その影響を受けてキリシタン信仰をもつ
     大名や豪商たち
によって、収容施設の設立など、患者の救済活動が行なわれました。1959年鹿児島に上陸した、フランシスコ
     ・ザビエル
や1557年に豊後府内に診療所を始めたルイ・デ・アルメイダほか、多くの宣教師が、救済に貢献しています。

  ● しかし、江戸幕府のキリスト教禁止令(1612年)によって、その動きは無くなりました。また、江戸時代の厳しい封建制度の下で固定化
     した社会体制の中で、一部の患者たちは特定の居住地区にとじ込められ、不良な衛生環境の中での生活を強いられ、やむを得ず
     家族内感染
を繰り返していきました。そのため、当時の一般の人たちは、らいは遺伝病であると誤解し、らい家系があるなどと誤信
     するに至ったのです。
 
  ● 明治時代に入って、国内の移動が自由になったので、窮屈な地域的束縛から解放され、患者たちは、全国に散らばって行きましたが、
     らいに対する社会の差別はなお根強く、正業に就くことができなかったので、止むを得ず有名な神社、仏閣などの盛り場に集って
     物乞いをするなど、浮浪生活を送る状態が続きました。
 
  ● この状況を目のあたりにして、最初に救済の手を差し延べたのが外国人宣教師たちで、国内数カ所に私立療養所が設立され始め
     ました―テストウィード(1889年)、ケート・M・ヤングマン(1894年)、ハンナ・リデル(1895年)、ジョン・メリー・コール(1898年)、
     コンウォール・リー(1917年)。しかし、これらは当然、小規模なものばかりでした。
 
  ● 日露戦争に勝って世界の一流国の仲間入りをしたわが国にとって、らい患者が街の中を徘徊して外国人の目に触れるのは国辱である
     との主張が強まり、1907(明治40)年に浮浪患者を対象とした
癩予防ニ関スル件(法律第十一号)が公布され、1909(明治42)年
     には全国5ヵ所に公立癩療養所が設立されました。

  ● しかし、大多数を占める富裕な患者はこの法律の適用対象外(「療養ノ途ヲ有セス且救護者ナキモノ」と定めてあります)だったので、
     引き続き家庭内にあって社会的、経済的圧迫の下に生きていかなければなりませんでした。


  ● 一方国際的には、1909(明治42)年に開かれた、第2回国際らい会議では、らい菌の感染力は微弱であること、「絶対隔離」は必要
     ではないことが、確認されています(参考)。


  ● 1915年(大正4)年には全生病院院長光田健輔が内務省に「癩予防法ニ関スル意見書」を提出し、①療養所の拡充②全患者を離島に
     隔離③管理者に懲戒検束権を与えるべしという「絶対隔離論」を唱えました。
彼はまた、療養所内での患者同士の結婚を認める条件
     として、男性の「断種(ワゼクトミー)」を断行、一方女性には「強制人工中絶」を導入しました。

  ● 1916年(大正5)年には癩予防ニ関スル件改正案が施行され、療養所所長に「懲戒検束権」が与えられ、裁判無しで患者を処罰
     できるようになりました。これが引いては、後に述べる「特別病室」の悲劇を生むことになるのです。「浮浪者救済から懲罰に代わった」と
     所以です。称される

 
  ● その後、公立療養所の収容能力は漸次拡大されて行きました。一方、1930(昭和5)年内務省衛生局癩の根絶策を策定し、
     全員を終生隔離・絶滅すべしとして「20
年根絶計画」等を起案する有様でした。1931(昭和6)年には全国患者を対象とする
     癩予防法が公布され、政府は予防活動を徐々に強化し、国立療養所の設立、公立療養所の国営化などの施策を推進します。
     さらに愛知県を皮切に「無らい県運動」(
1936年)が全国に拡がり、国が積極的に在宅患者の強制収容のために乗り出しました。

  ● しかし、同じ1930(昭和5)年、国際連盟らい委員会ではハンセン病は治療可能だから患者の社会復帰を前提とした外来治療
     可能とする制度を確立せよとし、管理的・警察的な取り締まりの修正を求め第8回大日本医学総会で国連保健委員ピウネル博士は、
     日本政府の無差別的絶対隔離政策を批判
医学博士青木大勇の論文「癩の予防撲滅法に関する改善意見」などにて「絶対隔離」
     否定論が明確化されるなどという医学界の意見が出ています。


  ● 1938(昭和13)年には栗生楽泉園に「特別病室」(のちに重監房と呼ばれます)が設置され、軽い規則違反でも拘束して死に至らしめる
     様なことが、平然と行われていました。

  ● 1941(昭和16)年第15回日本癩学会(大阪)で小笠原登はかねてからの持論である「癩は遺伝病でも不治の病でもなく、また感染力も
     微弱であるから、患者らへの迫害を止めるべきだ」ということを主張しましたが、徹底的に攻撃され孤立してしまいました。日本の医学界
     は、未熟だったのでしょう。


  ● 1943(昭和19)年ファジェットによって、特効薬プロミンが発表されました。このお陰でハンセン病は、一転して不治の病気から治療可能の
     病気となり、少なからぬ患者が全治して社会に復帰しました。しかし、彼らの行く手を妨げたのは全治患者に対するいわれのない偏見で、
     一旦社会復帰したものの再び療養所に逆戻りしなければならなかったり、社会復帰を諦めざるを得ない人も少なくありませんでした。

  ● 1947(昭和22)年新憲法が施行されますが、「基本的人権」は無視され続け、依然、強制隔離は継続し続けます。

  ● やがて、戦後療養所にも押し寄せた民主化の趨勢もあり、患者たちは人権に目覚め、療養所内の自治会活動が活発化し、遂に1951
     (昭和26)年
全国の療養所を結ぶ全国国立癩療養所患者協議会(現在の全療協)の結成にまで漕ぎつけ、これが入所者の利益を
     代表して活動を開始し始めます。

  ● 1952(昭和27)年に開かれたWHO第一回らい専門委員会では、「強制隔離政策」の見直しが提言され、一般の公衆保健医療を行う
     べしと決議されるに至りました。


   翌1953(昭和28)年には、
らい予防法が成立しますが、何ら改善されることはなく、旧来の強制隔離は、続行されることになります。
     
  ● その後、ローマ会議(1953年)、WHO第二回らい専門委員会(1959年)、第8回国際らい会議(1963年)など、相次ぐ国際会議で(参考
     強制隔離政策は全面的に破棄することが決議、採択されますが、政府や、医学界は完全に無視を続けます。

  ● この間、1963(昭和38)年には全患協が「らい予防法改正要請書を提出し、1964(昭和39年)には厚生省が「らいの現状に対する考え方
     を纏める、1981(昭和56)年にはWHOが画期的な多剤併用療法(MDT)を推奨する、1995(平成7)年には日本らい学会が「らい予防法に
     ついての見解
発表するなどの動きを経過して、ようやく1996(平成8)年らい予防法の廃止に関する法律が施行されました。

  ● それを受けて、厚生大臣が謝罪する、「らい」を「ハンセン病」に改めるなどの大きな動きがありましたが、その中から、立ち上がってきたのが
     「
『らい予防法』違憲国家賠償請求訴訟」で、これは島比呂志の呼びかけに端を発して、星塚敬愛園・菊池恵楓園の入所者13名
     (平均年齢は当時71才)が国を相手取り、1998(平成10)年、熊本地裁に提訴したものです。


  ● 2001(平成13)年5月11日、この裁判に勝訴の判決が下りました。これで、約90年間にわたる国家の強制隔離は、ようやく法によって断罪
     されたのです。

  ● この判決に引き続き出された首相談話を受けて、「統一交渉団」と厚生労働省が話し合うための、「ハンセン病問題対策協議会」
     設置されました。ここで真相の究明・在園保証などについて、具体的な方策が協議されるのです。

  ● また、2002(平成14)年には、「ハンセン病問題に関する検証会議」が発足し強制隔離施策の原因、人権侵害の実態などを、多方面
     から科学的、歴史的に検証を行い、最終報告書にまとめ、9項目の提言を添えて、厚労大臣に提出しました。現在は、その提言を実現
     させるための、「ハンセン病問題に関する検証会議の提言に基づく再発防止検討会」(略称「ロードマップ委員会」
が定期的に開かれて
     います。


  
● しかし、
2003年の秋に驚くべき事件が発生します。熊本県の黒川温泉で、ハンセン病患者の宿泊を拒否するというものでした。「宿泊拒否
     事件」などと呼ばれますが、この事件は、ハンセン病に対する差別心や偏見が、いかに根強く人々の心に染み込んでしまったかを教えて
     くれます。国や、心ない医学者が犯した罪は、裁判で断罪されたから、終わったわけではないのです。

     
  ● 2004(平成16)年、日本の占領中に作られた、韓国小鹿島・台湾楽生院が行政訴訟を提訴し、2006(平成18)年「改正補償法」が成立し、
     台湾楽生院は補償が完了しましたが、韓国小鹿島は記録の散逸のため、補償が難航しています。

  ● 
療養所の入所者は2900人を切っています(2007年現在)。退所しようとしても、親戚縁者と絶縁してしまっている、後遺症がひどい、未だ
     通院しなければならない、等の理由から退所できない方も居ます。10年後、20年後、療養所は、入所者はどういう状況に有るか、それを
     予想して最善の手立てを講じるため、今「将来構想」が叫ばれています。そしてそれに備えて「ハンセン病問題基本法」を制定しようと
     いう運動が2006年11月に始まりました。

  ● 十数年前から、新規患者の数は一桁台に減っています(参考)。また罹患しても、簡単に治療でき、完治します。感染症としては、終わりを
     告げたと言えるのでしょう。

   国会と厚生労働省(厚生省、内務省)は、約90年にわたって、罪のないハンセン病患者を、時には惨殺し、或いは不当に心身を痛めつけて
     来ました。これは、裁判によって厳しく断罪されました。悪いことをした場合は、罪を償うのが当然です。しかし、今の厚労省は、そのことを
     完全に忘れ去っているのではないでしょうか。上に書いた、「ハンセン病問題対策協議会」にしても、「ロードマップ委員会」にしてもその
     運営や対応は、全く誠意のないものなのです。自分が担当者の時だけ、何とか乗り越えて、後はどうでも良いという、そういう考え方で、
     ”事務処理”をやっているとしか考えられません。史上に残る国家規模の犯罪は、未だ続いているとしか言いようがありません。残念ですが。

  ● 
療養所入所者は高齢でもあり減少していくことが明らかなのですが、政府は明確な将来構想を全く示さないばかりか、職員の定員削減、
     予算の縮小を図っています。「統一交渉団」が中心となって、人権問題を含めたハンセン病問題の全面解決をはかるための基本法の制定
     を求めて、請願署名運動が展開されました。約92万筆の署名が集まり、2008年6月11日「ハンセン病問題基本法(正式名称:ハンセン病
     問題の解決の促進に関する法律)」がついに成立し、ハンセン病問題の将来に明るい展望が開ける可能性が生れました。この法律は
     2009年4月1日に施行されました。

  ● 残された課題はいつまでも根強く残っている「ハンセン病」に対する故のない差別・偏見をいかにして根絶するかという問題と、高齢化の
     進行する療養所入所者の老後の生活に関して、どのようにして安定的な展望を確保するかということでしょう。

     


  ※
この項の奈良時代から明治時代の部分は、山本俊一氏の「日本らい史」の「初版 まえがき」を元にしています。
    一部、訂正の余地のない文章は、原文の侭使用させていただきました。
    勿論、文責はリベルに有ります。

  ※敬称は略させていただきました。



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地域別の歴史年表(ここでは、これまでの研究を出来るだけ多く記載しました。現在学者間で 「正確である」 と判定を下されていないものは、グレイの枠にしています。)(参考:ハンセン病の呼称の変遷                             topへ
年  代 エジプト(及び古代オリエント) インド(中近東) 中国 ヨーロッパ アメリカ 日本【注44】
B.C.3000年頃 旧約聖書の叙述をハンセン病とする
【注2】
B.C.2975年頃 Hesepti王の時「leprosy」の治療法が存在した【注52】
B.C.2600年頃 黄帝が「素問」を行った【注53】
B.C.2000年頃 ラージャスターン地方のBalathalで病変の有る頭骨が発掘される【注73】
B.C.1537年頃 エーベルス・パピルス」に「wekhedu」の記載がある【注7】
B.C.1400年頃 カナンの土器に病気の人物像がある
【注5】
B.C.1300年頃 ベルリン・パピルス」に「leprosy」の記載がある【注7】
B.C.1000~
800年頃
ヤジュル・ヴェーダ」や「アタルヴァ・ヴェーダ」に「kilāsa」と記される【注60】
B.C.600年頃 スシュルタ・サンヒター」に「kuṣṭha」と記される【注8】
B.C.550年頃 論語」に「」として記述がある【注9】
B.C.6世紀 ミイラにらい特有の痕跡が認められる
【注10】
B.C.5世紀 旧約聖書に「ツァラアト」と記述される 豫讓を装ったと「史記列伝」にある【注呼64】
B.C.380年頃 ヒッポクラテス「象皮病」とよぶ【注11】
B.C.326年頃 アレクサンドロス大王のインド遠征
【注12】
B.C.250年頃 70人訳聖書」に「レプラ」の訳が登場する【注13】
B.C.233年頃 韓非子」に「厲」と記載されている【注14】
B.C.3世紀 ストラトン「象皮病」として最初の正確な記述【注40】
B.C.90年頃 ルクレティウス「象皮病」の記述をする【注49】 史記列伝」に「悪疾」と記載されている【注15】
B.C.62年頃 ポンペイウスの軍隊がイタリアへ持ち帰った【注23】
B.C.40年頃 ケルススはラテン語でも「象皮病」と呼ぶ【注4】
前漢
(~B.C.8年)
黄帝内経:素問」に「癘風」と記載
【注16】
漢書」に日本について最古の記述がある【注47】
1~50年頃 エルサレムにハンセン病患者が居た【注72】
150年頃 アレタイオスが(ヨーロッパで最初の)正確な記述【注24】
200年頃 華佗の著書に具体的に症状が記述された【注22】 ガレノスが初めて「レプラ」を用いた
【注17】
314年 アンキュラ教会会議で「leprous」な者は祈るよう規定を設けた【注61】
330年頃 コンスタンティヌスの「寄進状」に記述がある【注35】
370年頃 聖バシリウスが「Basiliad」(ラザレットの前身)を建てた【注41】 高句麗好太王の碑文に交戦記録がある【注48】
378年頃 コンスタンチノープル郊外に病院が有ったとの記述がある【注64】
395年
~404年
ヨハネス・クリュソストモスが「ラザレット」を建てたと記述がある【注66】
538年 オルレアンの宗教会議で癩者に関する条項が採択された【注63】
583年 リヨンの宗教会議で癩者に関する規制が制定された【注67】
6世紀 コプト人のミイラに痕跡が有る【注42】
606年 聖徳太子が進講した法華経に「癰疽」の記述がある【注呼67】
612年 日本書紀」に「白癩」の記述がある
【注33】
636年       ラザレット」がフランス、イタリーに存在したとの記述がある【注39】    
643年 ロタリの勅令に記述がある【注45】
726年 ボニファティウスが「癩者」が聖餐に列することを許可した【注62】
~749年 行基が治療救済活動を行った
757年       ピピン3世が「癩者」に関する法令を発布した【注65】     
~760年 光明皇后施浴伝説がある
789年       カール大帝が「癩者」に関する法令を発布した【注65】     
869年
~1266年
ヨーロッパ各国に「ラザレット」が設立されたとの記録がある【注70】
1096年~ 十字軍の遠征が始まった【注38】
1243年 忍性が「北山十八間戸」を創設する
【注36】
1413年 アイスランド司教が罹患した記録がある【注71】
1505年 オバンド黒人奴隷を導入する【注69】
1535年頃 ケサーダがコロンビアに持ち込んだ
【注68】
1549年~ ザビエル他の宣教師が救済に尽力する【注59】
1807年 ノルウェーの飢饉でハンセン病が大流行【注37】
1847年 ダニエルセンベックがハンセン病を疾病として臨床的に確立した同時に遺伝説も発表している【注:名称43】
1873年 ハンセンが「らい菌」を発見。伝染説を提唱【注19】
ダミアン神父がハワイのモロカイ島へ渡った【注31】
1875年~ キリスト教宣教師等が多くの病院を設立
1894年 カービル療養所が開設された【注50】
1897年 第一回国際らい会議伝染病であること、伝染力は微弱であることなどが確認される【注27】
1900年 内務省の第一回調査で患者数30.359人【参考】
1907年 癩予防ニ関スル件」が制定される
1909年 全国五カ所に公立療養所が開設される
1929年 「無らい県運動」が全国に広がる
1931年 「癩予防法」が制定される
1943年 ファジェットが「プロミン」の有効性を発見【注20】
1948年 マザー・テレサがカルカッタに住む
【注46】
. .
1951年 全療協が結成され「予防法闘争」が始まる
1953年 「らい予防法」が制定される
1966年 世界の有病率【注34】は8.4である
1981年 WHOが多剤併用療法(MDT)を推奨する【注32】
1985年 WHOは122カ国を「ハンセン病が公衆衛生問題として重要な国」とした。 世界の患者数の変遷(1985年~)
1991年 WHOの第44回世界保健会議で「2000年までに制圧(有病率を「1」以下に)する」と宣言【参考】
1996年 「らい予防法の廃止に関する法律」が制定される
1998年 元患者13人が国賠訴訟を熊本地裁に提訴した
2000年 世界合計752,417人―有病率0.99―世界レベルで目標を達成する
2001年 国賠訴訟、元患者側が全面勝訴
2003年 WHOが指定した122カ国の内、110ヶ国が、各国レベルで制圧目標(有病率を「1」以下に)を達成した。そして有病率が未達成な国は12ヶ国だけになった
宿泊拒否事件が発生した
2005年 有病率が未達成な国は9ヶ国だけになった【参考】
患者数が世界で最大の148,910人である ・検証会議が最終報告書を提出
・新患者数がゼロ【注21】
2006年 有病率が未達成な国は6ヶ国だけになった【参考】
有病率が1を切り0.87となる。【参考】 小鹿島・楽生院訴訟に「改正補償法」成立
入所者数3,080人【注26】
2007年 有病率が未達成な国は4ヶ国だけになった【参考】
2008年 . 「ハンセン病問題基本法成立
地域別 エジプト(及び古代オリエント) インド(中近東) 中国 ヨーロッパ・アメリカ アメリカ 日本【注44】
※日本の歴史について、更に詳しく知りたい方は「略年表」「年表 日本のハンセン病史」をご覧下さい。
【注呼64】と表示しているのは、「呼称の変遷」の頁の注のことです。
※地域の分類は、地理学・歴史学等の学術的分類に従わない、便宜的なものです。
※お願い:読みにくい!分かりにくい!間違いではないか?などご意見をどしどしお寄せください。悩みながら作っていますので(笑)。こちらからよろしくお願いします。     topへ

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