| ハンセン病の解説資料庫 Ⅲ |
ツァラアト (参考:「ツァラアト」から「leprosy」まで) (1)最初に書かれたのは ツァラアトはヘブライ語(צרעת)です。最初に登場するのは、旧約聖書の「レビ記」(13章、14章)です。この「レビ記」の 元資料となった「祭司資料(Priestly)」は紀元前5世紀に書かれていますから、ツァラアトはその頃から有った言葉ということ になります。 なおツァラアトは旧約聖書の中では、その他に「出エジプト記」、「民数記」、「申命記」、「サムエル記・下」、「列王記・下」、 「歴代誌・下」にも記されています。 その後B.C.250年頃、ギリシャ語訳聖書「70人訳聖書」では「レプラ」と訳されて、表舞台からは姿を消しますが、聖書の 研究者からは、その解釈を巡って、下に述べるような議論の対象となっていました。 その後、日本聖書刊行会より発行された「新改訳聖書」では、2003年の第三版から、「らい病」を「ツァラアトに冒された人」 に変更したので、2,250年の時を経て、再び返り咲いたと言えます。 (2)意味は ①語源的には ・アラビア語から派生した言葉で、「撒布」、「発疹」、「斑紋」とする説や、 ・本来は「崩壊する」、「打ちくだく」と言う意味から、祭儀的に「神によって打ちくだかれた」とする説から、 ・さらに「屈従」、「天罰」を意味するように転化した。 などの多くの学説が有ります。 ②レビ記では ・人間の皮膚表面に現れる「斑紋」、「疥癬」、「白癬」、「腫物」、「潰瘍」など。 ・衣服、織物、皮革などの表面に現れる「変色」、「汚れ」、「カビ」、「しみ」など。 ・家屋の壁の「変色」、「カビ」、「崩れ」など。 を意味しています。 ③ブラウンはこう書いています (a)人間の皮膚のうろこ状の病気 (b)壁、布、皮のかび (c)儀式上のけがれ の三つを描写できるような言葉を見付けるのはほとんど不可能でしょう。このように全く関連のない事柄を結び合わせる 一つの語など、世界中のどこの言葉にもないでしょうから。 ④ほかの学者の考え方は 犀川一夫が1994年に「聖書のらい」p.28にまとめているとおり、20世紀に入ってから、ツァラアトをハンセン病と見なす 学者は、殆ど無くなりました。1999年にルシャットも聖書の専門家の意見として「ハンセン病を指すものではない」と、 書いて居ます。 ⑤結論として 「ツァラアト」は「ハンセン病」とは全く別の言葉であると考えます。 (3)「ツァラアト」という日本語訳は正しいか 現在見当たる類似訳を探して、Yahoo!とGoogleで検索した結果を、多い方から並べて、それがどこに使われているかを 調べてみました。 ①ツァラアト・・・・・「新改訳聖書」、大嶋得雄、Wikipediaほか ②ツァーラアト・・・ 「ハンセン病とキリスト教」、Wikipediaほか ③ツァラート・・・・ 隅田寛ほか ④ツァーラハト・・ 犀川一夫著「聖書のらい」、ブラウン著「聖書の中の『らい』」ほか ⑤ツァーラート・・ 日本聖書協会ほか ツァラアトが圧倒的に多く、ほかはその十分の一以下です。このサイトでは検索数の多数決に依りました。 (4)英語では ①身近なところでは、Zaraath(犀川一夫)、Za'raat(ルシャット)、tsaraath(トラウトマン)が有りますが ②英語のWikipediaでは Tzaraath、tzaraas、tzaraat、tsaraas、tsaraat などが見られます。 ※敬称は略させて頂きました 戻る |
レプラ(英語・ドイツ語・ラテン語=Lepra、ギリシャ語=λεπρα) (1)言葉の歴史 レプラは辞書を引くと「=ハンセン病」と書いてあります。しかし、この言葉は実はギリシャ時代のヒポクラテス(Hippocrates―B.C.460頃~377頃)の頃から有った言葉で、ですから、ギリシャ語でした。しかも、最初は正確には「ハンセン病」を意味した言葉ではありませんでした。ブラウンや犀川一夫の研究によれば、「レプラ」とは、「皮膚の表面に見られる鱗状の変化(ふけ、痣、かさぶた、斑紋、しみ)」を指していたものなのです。 また、それとは別に、B.C.250年頃、ヘブライ語の旧約聖書をギリシャ語に翻訳して「70人訳聖書」を作るとき、「レビ記」(13章、14章)の「ツァラアト」を「レプラ」と訳しました。これが、ハンセン病がレプラと呼ばれるようになる、そもそもの遠因となったのです。 その約400年後、いよいよ、「レプラ」が「ハンセン病」を指すようになるのは、ローマ時代のガレノス(130頃~200頃)が、《当時「象皮病」と呼ばれていた「ハンセン病」の一部で、皮疹を主とする型のもの》 を「レプラ」と称してからなのです。(参考) さらにその200年後、ヒエロニムス(342頃~420)は聖書をラテン語に翻訳しました(ウルガタ聖書)が、その時、旧約聖書の「ツァラアト」と「新約聖書」の「レプラ」を共に「レプラ」と訳しました。それがガレノスのもたらした用語上の混乱を一層大きくし、「レプラ」が「ハンセン病」の呼称として定着していったのです。このウルガタ聖書は、その後聖書が英語や各国語に訳されるときの基準になったため、ギリシャ語、ラテン語の「Lepra」は英語の「leprosy」、日本語の「らい病」へと訳されて行きました。(参考) こうして、本来は「ハンセン病」を意味しなかった「ツァラアト」が、「レプラ」へ、「leprosy」へ、「らい病」へと訳されて行きました。そのため「ツァラアト」が元々持っていた祭儀的・宗教的意味合い「罪にたいする罰、不浄、宗教的けがれ(「聖書の中の『らい』」p.7)」が、そのまま中世へ、そして現代へと持ち込まれ、「らい病」や、「ハンセン病」へと乗り移って、現在も消え去ることの無い偏見や差別心の原因となっているのです。 (2)日本では ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは、著書『日本史』(中公文庫、原著名「Historia de Iapam」、1583年頃執筆に入る)の第10巻第48章の中で、「同じ癩病を患う…」と述べていますが、その「癩病」に訳者は「レプラ」のルビを付しています。同著の他の「癩病」にはルビが有りません。原著「Historia de Iapam」が入手出来ず、確認不能ですが、原著が「Lepra」であったと想像するのは、決して無理なことではないと思います。 1607年にローマ字で書かれた「スピリツアル修行」の第二篇「御パシヨンの観念」(現在は「日本思想大系:キリシタン書・排耶書」p.304)に「…シマン・レポロソが家におはします…(頭注:Leproso(ポ)。癩病者。)」とあります。そして、この本の解説(p.620)には、「日本字に直された別冊の形においても信徒の間に流布していた。」と書かれています。これは「レポロソ」という言葉が、当時の人々の口に上ったことを、意味しています。ザビエルが、鹿児島へ上陸したのは、この本が出版された58年前です。ここから類推しても、ザビエルが「レプラ」という言葉を使った可能性は、非常に高いと思われます。 1861年、緒方洪庵が、フーフェランドの内科書「医学必携」のハーヘマンによるオランダ語訳を重訳して「扶氏経験遺訓」を作りました。その中に「癩」はラテン語で「レプラ」、オランダ語で「メラーツヘイド」と書いてあります。 1881年大阪の医師の診断書に「例布羅」と記載されています。(参考) ※このあたりは現在、資料を収集中です。日本で「レプラ」という言葉が最初に使われたのがいつかは、未だ分っていません。 また、日本癩学会が、1930年、その機関誌に「レプラ」という名を付けました。それは1977年まで続きます(第46巻からは「日本らい学会雑誌」に呼称変更)。編者の想像ですが、1930年以前から、医学関係者は「レプラ」を使用していたでしょう。1930年以降、機関誌に名前が付いてから、新聞、体験談、文学作品*などに「レプラ」の呼称が多く見られます。 現在ではこの言葉は、医学上は勿論、聖書の中でも使われていません。 *注 新聞:①読売新聞・1921年(ここには使われていません)②大邱日報・1933年(滝尾英二書庫から) 体験談:①島が動いた・1936年(本文12行目)②金泰九・1945年(「発病」の10行目) 文学作品:①島木健作・「癩」・1934年(2、下から8行目、「れ・ぷ・ら」)②織田作之助・「六白金星」・1946年 (真ん中辺り、「レプラ」) ※敬称は略させて頂きました 戻る |
象皮病(elephantiasis) 国語辞書には、「熱帯地方に多い病気で、皮膚が厚くなり、足・陰部などが肥大する。「フィラリア虫」の寄生によって起こる」と書いてあります。このサイトでは、それに加えて、別の意味を紹介します(参考:最新医学大辞典)。また、「バンクロフト・フィラリアによる象皮病」という解説もあります(「聖書の中の『らい』」p.43) しかし、紀元前4~5世紀のギリシャ医学では、象皮病は「現在のハンセン病」を意味していたのです(「聖書の中の『らい』」p.29、「THALES TO GALEN」(p.7))。 さらに、説明をしておかなければいけないのは、象皮病という病名は、二つの全く異なる病気に名付けられていることです。一つは「ギリシャ象皮病(elephantiasis graecorum)」で、これは、先に書いた「現在のハンセン病」です。もう一つは「アラビア象皮病(elephantiasis arabum)」で、これが、最初に説明したもので、現在は、「象皮病」といえば、これを意味しています。現在の医学辞典ではこのように解説していますから、参考にして下さい。 私の想像になりますが、「アラビア象皮病」は9~10世紀のアラビア医学の最盛期に名付けられたものと思われます。紀元前4~3世紀以降、ギリシャで「象皮病」と呼ばれていたものと、ハッキリ区別するため、それ以後「ギリシャ象皮病」と呼んだのでしょう。 なお、「象皮病」と「レプラ」との混乱については、上のレプラの解説の、「ガレノス」のところをお読み下さい。 戻る |
フランシスコ・ザビエルとハンセン病(Francisco Xavier、1506年~1552年) フランシスコ・ザビエルは日本へキリスト教を初めて紹介した人物として有名ですが、ハンセン病との関わりは有ったのでしょうか。この素朴な疑問を解決するため、少し調べました。 (1)ザビエルの略歴 ザビエルはスペインの地方貴族の家に生れました。フランスのパリ大学で、イグナティウス・ロヨラに合い同士7名と共に、カトリック教団「イエズス会」を作り、東洋への伝導を計画します。1541年からインドのゴアで布教活動を初め、1549年8月15日に鹿児島へ上陸、布教を開始します。この時彼は、マラッカで出会った日本人ヤジロウ(アンジロウとも言われています)の協力で日本語に訳した「マタイによる福音書」を持ってきたとされています(参考)。かれは京都で天皇(後奈良天皇)や将軍から日本での布教の許可を得ようとしますが、出来ず、九州で大友義鎮(宋鱗)や大内義隆の保護を受けて活動をしました。その後、1551年11月15日に日本を離れますから、日本に居たのは2年3ヶ月でした。翌1552年12月3日、中国で病死しました。 (2)ハンセン病との関係 ●ベネチアにて ザビエルとハンセン病の最初のつながりは、東洋布教の数年前、1537年のベネチア・ローマ訪問(聖地巡礼の許可を得るため)の時だと思われます。シュールハンメル著「Franz Xaver, Sein Leben und seine Zeit」によれば、1537年にベネチアの「サン・ジョバンニ・エ・パオロ」病院で、ハンセン病患者の看護に携わっていたことが分ります。(同著第一巻、第三編、第二章「礁湖の都市ベネチアにて」、3「患者の看護」p.292~296) ●ゴアにて さらに、1542年にインドのゴアで、病院に起居して宣教活動をしていますが、その時ハンセン病患者の告解を聞くなどの交流があったことが同著に記されています。(第二巻、第二編、第五章「ゴアでの布教」、2「囚人とハンセン病患者のもとで」p.204~207) また、河野純徳訳「聖フランシスコ・ザビエル全書簡」にも、1542年に、サン・ラザロ(癩病院―1528年~29年に建てられた聖ラザロ癩病院)でミサを捧げ、告解を聞き聖体拝領をさせたと記されています。(同著第一巻、p.144) ●日本にて その後、日本では、特に交流があったという記述は見当たりません。ただ、「Franz Xaver, Sein Leben und seine Zeit」に、1891年に京都を訪問したブリュレイ・デ・ヴァランヌという宣教師が、日記に比叡山登頂のことを書き(Le Japon d'aujourd'hui、1893刊)、そこに「聖フランシスコ・ザビエルも、ハンセン病治療に効く薬草を摘みに登ったという伝説がある」と付記している、と記されています。(同著第二巻、第三分冊、第一編、第四章「都の御所へ」、5「都と比叡山」p.227) ●史料は・・・ ザビエルが京都へ着いたのは1551年の初めですが、応仁の乱や法華一揆などで、京の都は荒れ果てており、天皇への献上品も持ってこなかったので、延暦寺訪問も諦めて、11日間の滞在で切り上げています。(「聖フランシスコ・ザビエル全書簡・第四巻」p.277、ルイス・フロイス著「日本史(キリシタン伝来の頃)・第一巻」p.97) ですから、比叡山へ登ったという話は、未だ正確な裏付けが無く、日本でのハンセン病患者との接触については、記録が発見できていません。 参考:日本での移動図、アジア渡航経路 戻る |
「癩」の由来について 日本で最初に「ハンセン病」が文献に登場するのは、聖徳太子が615年に著わした「法華経義疏」(ほけきょうぎしょ)で、ここに「白癩」の文字が出て来ます。次に720年に書かれた日本書紀に「白癩」とあり、それが最初の文献だというのが「通説」になっています。 中国での「癩」という漢字を、漢和辞典「字通」(画像)で調べますと、「厲・癘は同声(れい)。厲は呪儀、その呪儀によってもたらされるものを癘という。癘はまた癩(らい)ともいう。」とされています。厲と癘を漢和辞典3冊(「大字源」角川書店、「大漢和辞典」大修館書店、「字通」平凡社)で少し詳しく調べると次のようになります(関係の無い部分は省略形で示しています)。 (1)厲 大字源:(一)①といし②とぐ③はげしい他 (二)①ハンセン病。(同)癘・癩②たのむ他 (三)①おごそか②はげしい他 大漢和辞典:(一、レイ 二、ライ 三、レツ、レチ)(ページ画像(1) (2) ) Ⅰ(一)①と、といし②とぐ、みがく (二十五)えやみにかかって死ぬ 〔素問、至眞要大論―真ん中辺〕毛蟲乃厲(注)厲、謂庇厲疾疫死也 Ⅱ(一)春秋の国名 (二)たのむ。たよる (三)らいびょう。癩に通ず。〔史記、范雎傳〕漆身爲厲。(注)索隠曰、厲、癩病也 [厲疾]①はげしくはやい ②やまい。疫病 ③癩病。癘疾 字通(画像):萬はさそりのような虫の形(参考)、雁垂は岩下など秘密のところ。そのような窟室で、この虫を蠱霊(これい)とし 呪儀を行うことを原義とするものであろう。他は省略。 (2)癘 大字源:(一)らい病、レプラ、ハンセン病 〔素問・脈要精微論―下から10行目(同講義(内経素問講義(松岡玄達―1668~1746年自筆本))―右ページ5行目)〕「脈風成為癘」 (二)えやみ。 (三)ころす他 大漢和辞典:(一、レイ 二、ライ)(ページ画像) Ⅰ(一)かったい。なり。癩病 (二)えやみ (三)殺す (四)通じて厲〔韻會〕癘、通作厲 (五)みがく Ⅱ かったい。なり。癩 字通(画像):「癘疾降らず―左伝、昭四年(「癘」でページ内検索して下さい)」のように、それは天意による神聖病とされた。 [語系]癘は厲と声近く、厲は蠱霊(これい)を用いる呪詛を意味する字とみられ、癘はそれによって生じる悪疾をいう。 悪瘡を生ずる難病で、病因の知られない神聖病として恐れられた。他は省略。 (3)「字通」の解説から分ること 「大字源」と「大漢和辞典」の解釈は完全に医学的説明に終わっています。しかし「字通」では、医学的な説明ではなく、「ツァラアト」が論じられる時に出てくるような、「祭儀性」が表面に出て来ています。「黄帝内経・素問」は医学書ですから、医学用語であったことは間違いありません。つまり、言い換えれば、中国では最初から、「らい」は「呪詛」、「呪儀」を含んだ言葉であったことになります。 ギリシャ時代、つまり旧約聖書が生れる時代に、「象皮病」には「祭儀性」は無かったのです。「ツァラアト」には「祭儀性」が有りましたが、「ツァラアト」は「ハンセン病」では有りません。中国では何故か、最初から「らい」という病気を祭儀性・神秘性の有るものと考えていたことになります。 言い換えれば、 「象皮病」は症状から由来し、「ハンセン病」は菌の発見者の名に由来しているのです。「ツァラアト」、「レプラ」は聖書の中の別の意味の言葉だったのに、後世の医師ガレノスらによってその祭儀性が「現在のハンセン病」に憑依してきたものなのです。しかし中国生まれの「癩」・「癘」は文字自身が呪詛性・祭儀性を含んでいるのです。 ブラウン(S.G.Browne)は「長い間ツアーラハトに関して人々が信じてきた一連の事柄を、一つの抗酸性菌による病気の患者にそのまま移しかえて押しつけたので、らい患者に対してひどい偏見をもつようになったのです。(中略)しかしらいに関して広く認められる偏見、烙印のすべてを聖書やキリスト教のせいにするのは不当で、歴史的に正確ではありません。パプア・ニューギニアのように…」と慎重な結論を添えています。(「聖書の中の『らい』」p.50) (4) 中国文明が、既に旧約聖書の時代に、パレスチナやエジプトやバビロンに居たヘブライ人に影響を与えていたのではないでしょうか。黄帝は伝説上の人物ですが、伝説では、B.C.2600年頃の人物です。それは伝説としても、「黄帝内経・素問」が編纂されたのは前漢(B.C.202年~)の時代です。旧約聖書は、B.C.9世紀頃から、B.C.5世紀にかけて書かれていますから、それが運び込まれたのではありません。 歴史上、B.C.2世紀の張騫の西域派遣以前の記録は見当たりません。しかし、その800年前、中国に西周の文化があり、パレスチナにソロモンのヘブライ王国が栄えた頃、両者の間に交流が皆無であったという、記録は無いのではないでしょうか?とすれば・・・。 戻る |
「ヴェーダ文献」と「ハンセン病」 (1)ヴェーダ文献とは B.C.1500年頃、古代インダス文明のころ、インド・ヨーロッパ語族のアーリア人が、北西部からパンジャブ地 方へ侵入してきました。彼等がB.C.1200年~1000年頃にかけて、最古のヴェーダと言われる「リグ・ヴェーダ」 を作り上げたと言われています。ヴェーダは、その後B.C.5世紀頃までの長い時間をかけて完成した、古代インドの民族宗教であるバラモン教の聖典で、神々へ の「賛歌」や「儀式の方法」が記されています。 代表的な4つのヴェーダ文献は・・・ ①リグ・ヴェーダ(Rig Veda=祭りの場に招いた神々を称えるための賛歌)(梨俱吠陀) ②サーマ・ヴェーダ(Sāma Veda=詞(大部分はリグ・ヴェーダによる)を歌う讃歌の旋律)(娑摩吠陀) ③ヤジュル・ヴェーダ(Yajur Veda=神へ捧げる供物を調えるなどの祭式の実務)(耶柔吠陀) ④アタルヴァ・ヴェーダ(Atharva Veda=吉祥を願ったり他人を呪詛するための呪詞を集めたもの)(阿闥婆吠陀) これら4つの文献は、それぞれ ①サンヒター(Samhita=本集:讃歌を集めたもの) ②ブラーフマナ (Brahmana=祭儀書:散文で祭式の規則や、その解釈を記したもの。B.C.800~600年頃成立 ―「インド思想史」p.23、「インド哲学へのいざない」p.142) ③アーラニヤカ (Aranyaka=森林書:ブラーフマナ文献中、森林の中でのみ口誦が赦された部分―「インド思想史」p.46) ④ウパニシャッド (Upanishad=奥義書:祭式主義や儀礼を離れて、正しい思想と知識が持つ価値に重きを置いている。 B.C.600年頃~B.C.3世紀頃成立―「インド思想史」p.46・47、「古代インドの歴史」p.104) の4つの部分から構成されます。(インドチャネル) この膨大な聖典は、インドの精神文化に大きく影響し、インド民族の心のふるさとになっていると言われています。 一方サンスクリット(梵語)の最古の資料として、比較言語学にも大きく寄与しています。また、リグ・ヴェーダとアタルヴァ・ヴェーダなどは古代のインド医学の担い手として、B.C.6世紀頃まで発展してきました。 (1)リグ・ヴェーダ リグ・ヴェーダはB.C.1200年~1000年頃に成立したとされています(中村元著「インド思想史」p.6、「印度文明の曙」p.35)。私の調べた限りでは「kuṣṭha」は現われて居らず、「kilāsa」は「斑点有る鹿(マルト神の乗り物)」として登場するのみです(「リグ・ヴェーダ讃歌」p.58)。(参考:邦訳に見る「kuṣṭha」と「kilāsa」) (2)アタルヴァ・ヴェーダ アタルヴァ・ヴェーダは、B.C.1000~800年頃に成立したと見なされています。この中の第一巻・讃歌第23(「アタルヴァ・ヴェーダ讃歌」p.44)、「白癩を癒すための呪文(charm)」には、「kilāsa=癩病の白斑点」という表現で、ハンセン病が登場します。これが、「ハンセン病」が正確に記録された、最古のものだと考えられます。(参考:ハンセン病の最古の記録) (3)アーユル・ヴェーダ B.C.6~5世紀には、アタルヴァ・ヴェーダを基礎にして、「アーユル・ヴェーダ(Ayur Veda)」が成立しました(「世界伝統医学大全」p.74、「インド伝統医学入門」p.17)。これは、 多くの医学書群を指しますが、中でも「スシュルタ・サンヒター(Sushruta Samhitā)」と「チャラカ・サンヒター(Charaka Samhitā)」は二大古典医学書と 呼ばれています。 スシュルタ(Sushruta)はB.C.6世紀の人ですが、「スシュルタ・サンヒター」が完成したのはA.D.4世紀頃と言われています。チャラカ(Charaka)はA.D.1~2世紀の人でカニシカ王(在位130~170/120~162)の侍医かと言われています。(Wikipedia)チャラカは内科専門でしたが、スシュルタは外科にも通じており、外科手術や解剖を行ったと言われています。(「インド伝統医学入門」p.21) (4)スシュルタ・サンヒター スシュルタはB.C.6世紀の人とされていますが、「スシュルタ・サンヒター」はその後他の学者も参加して最終的にはA.D.3~4世紀に完成したとも言われています(「インド伝統医学入門」p.29)。 「スシュルタ・サンヒター」では、生薬類を37族に分類していますが、その内の5族に「癩性皮膚病」、1族(第29族)に「癩病」の記述があります(「インド伝統医学入門」p.58)。また「チャラカ・サンヒター」の第1編第4章では同様に50項目に分類していますが、こちらには詳しい病名までは記されていません(「インド伝統医学入門」p.62)。(参考:大地原誠玄訳「スシュルタ本集」) (5)アシュターンガ・フリダヤ・サンヒター なお、この二つの医学書に次いで、「アシュターンガ・サングラハ(八科集―Ashtanga Samgraha)」及び「アシュターンガ・フリダヤ・サンヒター(八科精髄本集―Ashtanga Hridaya Samhitā )」が重要だとされています。これは、スシュルタ、チャラカと共に「三医聖」の一人とされる、ヴァーグバタ(Vagbhata―7世紀後半)が書いたとされています(「インド伝統医学入門」p.32、p.33)。 現在前述の梵語のサイトしか見当たりませんが、そこには「kuṣṭha」や「kilāsa」などが頻出しています。「ハンセン病」についての記述が多いことが想像されます。 戻る |
サンスクリット語の「ハンセン病」(梵和大辞典より) 【kuṣṭha】(梵和大辞典・画像)(植木雅俊訳「梵漢和対照・現代語訳 法華経(上)」p.234・画像) ①[植物の名、学名 Costus Speciosusまたは Costus Arabicus]:[漢訳]青木、廣木香(梵漢対訳仏教辞典) ②癩病:[漢訳]癩、悪癩、癩病、瘡癬、白(又は悪)癩、大麻風(根本説一切有部毘奈耶皮革事〔唐義淨〕の一部、妙法蓮華経〔後秦鳩摩羅什〕―『0016a04:水腫乾痟 疥癩癰疽 』―大正新脩大蔵経・画像) 【kilāsa】(梵和大辞典・画像) ①癩病の ②癩病の白斑點;癩病(の一種)[漢訳]胎毒(梵漢対訳仏教辞典) 【kāyaś citro bhaviṣyati】(梵和大辞典・画像)(植木雅俊訳「梵漢和対照・現代語訳 法華経(下)」p.568・画像) ①致癩病 ②得白癩病[漢訳]妙法蓮華経〔後秦鳩摩羅什〕―『0062a20: 此人現世得白癩病。 』―大正新脩大蔵経・画像) 【citro】 明白なる、見ゆる、顕著なる、明かなる、輝ける;判然たる、聴きとり得る(声);雑色の、斑点ある、斑らの;(後略) 【kāya】(梵和大辞典・画像) 身体、有機体;集団、多数、多量、集合;(樹の)幹;資本金 【bhaviṣyat】(梵和大辞典・画像) あるべき、未来の ※(1)なお[漢訳]は凡例でこう説明されています。「対応漢訳語(尚、その語の仏教原典中に存するを示す)」 [漢訳]の最後の括弧内は、出典です (2)参考までに、語尾変化表(kuṣṭha、kilāsa)を添えておきます。 戻る |
漢字の伝来~法華経が伝来するまで~ 日本に最初に「癩」や「癘」が入ってきた時期を正確に把握するために、漢字が日本へ入ってきた経緯を調べました。 (1)漢字が伝来する前の日本語 漢字が日本へやって来る前は、文字は有りませんでした。文字はなくても日本語を話し、部族を形成し生活をしていました。その日本語のルーツについては、未だ定説はありません(「日本語の歴史」山口仲美著)。しかし日本語の存在を証明するただ一つの記録があります。それは3世紀末に西晋の陳寿によって書かれた「魏志倭人伝」(正式には「『三国志』魏書巻三十、烏丸鮮卑東夷伝」)で、その中にこう書かれています。 「倭人在帶方東南大海之中,依山島為國邑。舊百餘國,漢時有朝見者,今使譯所通三十國。從郡至倭,循海岸水行,歴韓國,乍南乍東,到其北岸狗邪韓國,七千餘里,始度一海,千餘里至對馬國。其大官曰卑狗,副曰卑奴母離。…」(朝鮮工程より) この「對馬國」は国名、「大官を卑狗(ひこ)と曰う」、「副を卑奴母離(ひなもり)と曰う」は官名です。中国人は、「ひこ」や「ひなもり」を耳から聞いて、その音を漢字で書き留めたわけですから、ここにその当時の日本語の発音が、記録されていることになります。(大野晋著「日本語はいかにして成立したか」p.116) (2)漢字の最初の上陸 漢字が日本に上陸したのは、西暦1世紀頃です。一つは有名な「漢委奴国王」の金印です。奴国の国王が後漢の光武帝(在位25~57年)から与えられたと、中国・南朝宋の范曄(はんよう)が書いた「後漢書―倭伝」に記されています。 もう一つは、「貨泉(かせん)」の文字が書かれた銅銭です。中国の新を建国した王莽(おうもう)(在位8~23年)が鋳造させたもので、日本には1・2世紀頃伝わったとされています。 これが、日本人と漢字との遭遇なのですが、その時日本人はそれを「文字」としては捉えず「模様」と認識していたに 過ぎません。その証拠と言えるものが、4・5世紀頃に作られたとされる、二枚の「鏡」です。一つは「方格四神鏡 (ほうかくししんきょう)」で、これは王莽の時代に作られた鏡を真似て日本人が作ったのですが、原鏡と文字の順序が違ったり、 文字の形が崩れたりしています。もう一つの「三神三獣鏡(さんしんさんじゅうきょう)」も漢字の左右が逆になったりしています。 つまり「漢字」を単なる「模様」として取り扱っていたのです。 次に言われているのは、「金石文」で、これは「七支刀(しちしとう)」に61文字の漢字が金象眼されて、4世紀後半に百済で造られ、日本の朝廷に献上されたと言われています。しかし、この当時も未だ書かれた漢字は読めませんでした。 (3)文字としての漢字 次いで、百済からいよいよ漢字が文字として輸入されてくる経緯が、「古事記」(712年献上)、「日本書紀」(720年選)に記されています。古事記には「『論語』10巻、『千字文(せんじもん)』1巻」の献上を受けたと記されていますが、千字文については諸説があり、明確ではありません。しかし日本書紀には阿直岐(あちき)と王仁(わに)が派遣されて来、特に王仁は菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)に諸典籍を教えたとあり、これが日本人が文字として漢字を知った最初だとされています。時に5世紀初頭でした。(大島正二著「漢字伝来」p.23) 菟道稚郎子が、どれほど、漢字に熟達していたかを証明する記録は「日本書紀 巻第十」に有ります。 「《応神天皇二八年(丁巳二九七)九月》二十八年秋九月。高麗王遣使朝貢。因以上表。其表曰。高麗王教日本国也。時太子菟道稚郎子読其表。怒之責高麗之使。以表状無礼。則破其表。」(J-Texts・朝日新聞社本より) 現代語訳「治世28年秋9月、高麗の王が使いを送って朝貢した。その上表文には「高麗の王、日本国に教う」とあった為、皇太子の菟道稚郎子はその表を読んで怒り、表の書き方が無礼だと使いを責めて破り捨てた。」(受験の学習より) このような事実から、五世紀には、百済からの渡来人の史(ふびと)と並んで日本人も、上層階級の中には漢文に通じた人が増えていたことが察しられます。(注:日本書紀に記された応神天皇の年代は、実年代とは約120年の誤差があるとされています。(大島正二著「漢字伝来」p.22)) (4)経典の伝来 では、仏教の経典はいつ頃入ってきたのか。これについては、二つの説があります。 ①「日本書紀 巻第十九」は552年としています。 「《欽明天皇十三年(五五二)十月》冬十月。百済聖明王〈更名聖王。〉遣西部姫氏達率怒唎斯致契等。献釈迦仏金銅像一躯。幡蓋若干・経論若干巻。」 百済の聖明王が「経論若干巻」を552年に欽明天皇に献上したとあります。 ②「上宮聖徳法王帝説」や「元興寺伽藍縁起」は538年としています。 これらは「仏教公伝」として、様々に論じられ(Wikipedia)、後者の説が有力とされています。いずれにしても14年の差です。6世紀の中頃、経典が日本に入って来たのは確かでしょう。この経典が何であったかは、特定できませんが、聖徳太子の撰と伝えられる「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」などから推察すると、「法華経」「維摩経」「勝鬘経」などであったとみられます。 |
法華経の中のハンセン病 6世紀に日本に渡ってきた「法華経」(参考:「漢字の伝来~法華経が伝来するまで~」)の中で、ハンセン病はどのように記されていたか、その詳細を日蓮宗現代宗教研究所の奥田正叡氏が「仏教とハンセン病―「得白癩病」の漢訳をめぐって―」という論文に発表して居られます。その中の第三章の中で、奥田氏は「妙法蓮華経普賢菩薩勧発品第二十八」の「得白癩病」は現代の「ハンセン病」を指して居らず、「譬喩品第三」の「疥癩癰疽」のみが「ハンセン病」を意味しているということを、サンスクリット語の原典との比較から論証して居られます。 先ず「妙法蓮華経 普賢菩薩勧発品第二十八」の一節を引きます。続いて「書き下し」「現代語訳」「サンスクリット語」「英訳」です。 次に「妙法蓮華経 譬喩品第三」の一節及び、諸訳です。 ●漢文=「水腫乾痟 疥癩癰疽 如是等病 以爲衣服 身常臭處」(大正新脩大蔵経・妙法蓮華經 (No. 0262) in 09 巻・0016a04) ●書き下し=「水腫・乾痟・疥・癩・癰疽、是の如き等の病、以て衣服と為ん。身常に臭きに処して」(「法華経」上巻p.234) ●太字部分現代語訳=「ハンセン氏病や、ハンセン氏病の白い斑点が」(「法華経」上巻p.235) ●太字部分サンスクリット語=「 kuṣṭhaṁ kilāsaṁ 」(「法華経」上巻p.234)(参考: サンスクリット語の「ハンセン病」) ●太字部分英訳=「leprosy, blotch」(THE LOTUS OF THE TRUE LAW.Chapter3/ Translated By H. Kern) 更に、「kāyaścitro bhaviṣyati」「kuṣṭhaṁ」「kilāsaṁ」をそれぞれ「妙法蓮華経」のなかで全文検索しました。用いたのは 「University of The West 」のサイトです。その結果、各一回で、他の場所には全く重複記載されていませんでした。 結論:鳩摩羅什がサンスクリット語の原典から漢訳するとき、「kāyaścitro bhaviṣyati」を誤って訳したのです。インド人貴族と 亀茲(現在のクチャ)の王妹の子である天才鳩摩羅什、思わず筆が滑ったのでしょうか。 戻る |
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【注意】ここではあくまでも参考資料として、国語辞典における「びゃくらい」と「しらはたけ」を取り上げています。(「かたい」・「かったい」ほかの俗称にはここでは触れません。)「ステッドマン医学大辞典(改訂第5版 ) 」「南山堂医学大辞典(第19版)」「医学書院医学大辞典」のいずれにも、この二つの言葉は出ていません。当ページでは、医学用語としてではなく、「ハンセン病」の歴史的呼称を探る一助として、この二つの言葉を取り上げています。なお各辞書の用例には*印をつけて判別しやすくしてあります 【広辞苑】(第6版・2008年) しらはたけ「白癩」 児童の顔面に白色の円形斑を生じる皮膚病。しらはた。 びゃくらい「白癩」 ①皮膚が白色となる癩。しらはだ。 *宇治拾遺「近う寄りて見れば―人なり。」⇔黒癩 ②(これを破るときは白癩の病をうけても構わないという意)転じて誓いの語。決して・・・(後略) しらはだ「白肌・白膚」 ①色白の皮膚。②しらはたけ。しろなまず。 *(和名抄三 和名抄=「倭名類聚鈔」931~938年成立:リベル注) しろなまず「白癜」 色素の欠乏によって、白色の斑紋を生じる皮膚病。尋常性白斑。白斑。 こくらい「黒癩」 皮膚が黒くなる癩。⇔白癩 【大辞林】(第3版・2006年) しらはたけ「白癩」 (「しらはだけ」 とも)白癜(しろなまず) に同じ。 *「-と云て病付きて /今昔」 びゃくらい「白癩」 ①皮膚が白くなるハンセン病。 ②( 「そむけば白癩になる」 という意から) かたい誓い・決心の言葉として用いる語。 * 「いやぢや,-否ぢや /桐一葉逍遥」 * 「-返してくれられと歯の根もあはぬ胴ふるひ /浄・平家女護島」(ページ画像) ③不意の出来事に驚いて発する語。 *「-これはと抜き合わせ戦ふ所に /浮・武道伝来記」 しろなまず「白癜」 色素細胞の障害によって色素が欠乏し,皮膚に白色の斑紋のできる病気。尋常性白斑。白肌(しらはだ)。白癩(しらはたけ)。 【大辞泉】(増補・新装版・1998年) しらはたけ 立項されていません。 びゃくらい「白癩」 ①「ハンセン病」の一型の古称。身体の一部または数か所の皮膚が斑紋状に白くなるものをさす。しらはだ。 ②そむけば白癩になる という意で、強い決意や禁止を表す語。副詞的に用いる。 *「商ひ馬に乗らんとは、-ならぬ、ならないぞ」<伎・矢の根> ③不意の出来事に驚く気持ちを表す語。感動詞的に用いる。 *「一文字に切付くれば、-是はと抜合せ」<浮・伝来記・七> しらはだ「白肌・白膚」 ①色白の肌。②「しろなまず」に同じ。 しろなまず「白癜」 癜(なまず)の一種。皮疹の色が白いもの。尋常性白斑。しらはだ。しらはたけ。 【日本国語大辞典】(第2版・2000年) しらはたけ【白癩】(ページ画像) 〔名〕(「しらはだけ」とも)「しらはだ(白肌)②」に同じ。 *今昔(1120頃か)ニ〇・三五「而る不、白癩(しらはたけ)と云て病付きて、祖(おや)と契りし乳母(めのと)も、 穢なむとて不令寄(よらしめ)ず」(ページ画像(1)(2)) *観智院本名義抄(類聚名義抄)(1241)「癩 シラハダケ シラハタ」(ページ画像) *易林本節用集(1597)「疥癩 シラハタケ」(ページ画像「易林本・小山板・節用集」慶長16年=1611年より) *字鏡集(1240頃)「癩 シラハタケ」(これは第2版から消えています)(ページ画像) びゃくらい【白癩】(ページ画像) 〔名〕 ①皮膚が白くなるハンセン病をいった語。しらはだ。白癩病。白山瘡(はくさんそう)。 *宝物集(1179頃)「眉ぬけ鼻はしらたうれて白らいといふ病にわかりしに」 *日蓮遺文-身延山御書(1282)「現世には白癩の病をうけ、後生には無間地獄に堕べし(ページ画像) *日葡辞書(1603~1604)「Biacuraiビャクライ(白癩)Xirogattai(白がったい)白い色の癩病」(邦訳日葡辞書・岩波書店から)(ページ画像) *法苑珠林-六O「若人癩病、若白癩、若赤癩、至誠懺悔行道常誦瘥」(参考:「法苑珠林」上から4行目) ②(もしこの誓いを破れば①の病になってもよいという気持から)みずから誓っていうことば。副詞的に用いて、「断じて」「必ず」という強い決意を表わす。 *俳諧・蠅打(1664)一「此月が師走で、水が油で海道がおれが身ならば、白癩きくまひと云しにひとし」 *浄瑠璃・平家女護島(1719)三「こりゃ何処へ連て行めすぞ。びゃくらい返してくれられ」(ページ画像) *歌舞伎・矢の根(1729)「商ひ馬に乗らんとは、びゃくらいならぬ、ならないぞ」(ページ画像) *談義本・教訓雑長持(1752)三・浅草寺に奴集まり主人を評議せし事「ほんにいらぬ事とは思えども、用ひさへしやらば、びゃくらい、諫言とも出る気なれど」 (ページ画像) ③(②から転じて、感動詞的に)不意の出来事に驚く気持を表わす。実に。全く。 *評判記・赤烏帽子(1663)岩崎金作「座配大かた也、狂言のときん白癩わすれたるの一言にて、是も大かた推量いたされたり」 *浮世草子・武道伝来記-七・三「一文字に切付れば、白癩(ビャクライ)是はと抜合せ」(ページ画像) *浄瑠璃・仮名写安土問答(1780)二「箱入のお姫さまを奴めが錐先に突当った此仕合せ、びゃくらい是は有りがたくごはりまする」(ページ画像下段5行目) しらはだ【白肌・白膚】(ページ画像) 〔名〕 ①色の白いはだ。純白のはだ。 ②色素の欠乏で、白色の斑紋(はんもん)を生じる皮膚病。白斑。しろなまず。しらはたけ。 *書紀(720)推古二〇年五月(岩崎本平安中期訓)「其の面身(むくろ)・皆斑白(またら)なり。若しくは白癩(シラハタ)有る者か」(ページ画像) *十巻本和名抄(934頃)ニ「白癜 病源論云白癜<一云白電之良波太>人面及身頸皮肉色変白亦不痛癢者也」(参考:和名抄=「和名類聚鈔」) *医心方(984)四・一九「病源論云面及頸項身体皮肉色変白与肉色不同点不痛癢謂之白癜〈略〉和名之良波太」 *大唐西域記長寛元年点(1163)三「近(この)ごろ婦人(をむな)有り。身悪癩(シラハタ)に嬰(かか)れり」 しろなまず【白癜】(ページ画像) 〔名〕皮膚の病気。大小さまざまの境界のはっきりした白斑。中年の人に多いが、苦痛はない。尋常性白斑。白肌(しらはだ)。 *羅葡日辞書(1595)「Vitiligo〈略〉Xironamazzu(シロナマヅ)<訳>からだにできる白い斑点」 *日葡辞書「Xironamazzu(シロナマヅ)〈訳〉からだにできる白い斑点」 *浮世草子・好色五人女(1686)一・一「年月かくし来りし腰骨の白なまず見付て、生ながらの弁才天様と、座中拝みて興覚ける」 *雑俳・田みの笠(1700)「つづくりて古蔵の壁白なまず」 *箋注和名抄(1827)二「白癜〈略〉今俗呼之路奈末豆」(参考:箋注和名抄=「箋注倭名類聚抄」) *男女美顔法(1903)<坂本李堂>洗顔法「白斑病(シロナマヅ)、乾癬(はたけ)、田虫等種々の皮膚病を防ぎまして、大変に姿色を美しくします」 【角川古語大辞典】(初版・1999年) しらはたけ【白癜・白癩】(ページ画像) 〔名〕「しらはだ」に同じ。 *「癩 シラハダケ、シラハタ」〔名義抄〕 *「疥癩 シラハタケ」〔易林本節用〕 びゃくらい【白癩】(ページ画像) ①〔名〕漢語。病名。白癜(しらはだ)に同じ。『戸令義解』に「悪疾<謂、白癩也。此病、虫有りて人の五藏を食ふ。或は眉睫墮落し、或は鼻柱崩壊し、 或は語聲嘶(いば)え變じ、或は支節解け落つる也。亦能く傍人に注染す。故に人と床を同じくす可からざる也。癩或は癘に作る也>」とあるように、 癩病と混同され、業病とされた。 *「白癩ビャクライ」(書言字考) *「すべて古き茶わんのそのかみは、さだめて昔よりいく千万人が手にふれ、口によせてくらひけがし、そのあひだに白癩、黒癩、揚梅瘡(とうがさ)かき (=梅毒のこと)、欠唇(いぐち)、喘息病などもあるべし」〔浮世物語・三・四〕(ページ画像) ②〔副〕誓いを立てる際のことばで、神仏の冥加の尽きたものが①の病にかかるとの俗信から、もしこの誓いを破れば白癩の業病を受けてもよいとの意。 黒癩を下接してもいう。転じて、強調や驚きを表わす場合にも用いる。絶対に。全く。本当に。 *「大助はしり懸り、藤太が太刀先覚えたかと、一文字に切付れば、白癩これはと抜合せ戦ふ所に」〔武道伝来記・七・三〕 *「近江の笠はいよこの、さいたさなり(姿)はよふて、びゃくらい著よふてさ」〔松の葉・ぬり笠〕 *「むりをいはんす物じゃの。此上からは白癩わしが手にもらふて逢ふ」〔禁短気・五・四〕 びゃくらいがつたゐ【白癩乞児】(ページ画像) 〔副〕自誓の詞。白癩②に同じ。語調を強めるために乞児(かつたい)と重ねて用いる。 *「もはやかたさまのやうなとのたちは、びゃくらいがつたい、いやでござんす」〔難波鉦・一〕(岩波文庫、1991年では「乞丐」としてある)(ページ画像) しらはだ【白癜・白癩】(ページ画像) 〔名〕病名。皮膚の一部が軽い色素欠乏で、正常な部分より白く見える病気。主として顔にできるが、痛みがないので自覚症状はない。古くは伝染性が あると考えられていた。「しらはだけ」「しらはら」「しろなまづ」とも。 *「白癜 一に云ふ白電、之良波太」〔和名抄〕 *「癩 シラハダケ、シラハタ」〔名義抄〕 *「百済国より化来者(をのづからまうくるもの)有り。其の面身皆斑白、若くは白癩(シラハタ)有る者か」〔推古紀二十年・岩崎本訓〕 *「白癩と云て病付て、祖と契りし乳母も、穢なむとて寄らしめず」〔今昔・二〇・三五〕 【古語大辞典】(第1版・1983年) しらはたけ(立項無し) びゃくらい【白癩】(ページ画像) ①〔名〕皮膚の色が白くなる癩病。 *「この人現世に白癩の病を得む」<霊異記・下・二〇>。(ページ画像) *「白癩黒癩の句、ならびに永く仏種を断つ」<塵添壒囊抄・三>(ページ画像) ②〔副〕(もしこの誓いに背いたら、その罰として①になってもよいという意の誓いの言葉から転じて) ①絶対に。決して。 *「商ひ馬に乗らんとは、びゃくらいならぬ、ならないぞ」<伎・矢の根>(ページ画像) *「白癩そうした心底なし」<浮・御前義経記・七>(ページ画像左から7行目) ②とても。ほんとうに。 *「近江の笠はいよこの、さいたさ姿(なり)はよふて、白癩著よふてさ」<歌謡・松の葉・三>(秀松軒編、1703年刊)(ページ画像) 注:白癩=癩病のこと。転じて必ずという誓詞に用う。神仏の冥加に尽きた者がこの病に罹るという迷信から、若しこの誓いに背いたならば罰として白癩に罹っても厭わぬという意。 室町時代の起請文には白癩黒癩と連書。ここは真実・全くという程の意か。(日本古典文学大系(44、岩波書店)の脚注による。) しらはだ【白癜】(ページ画像) 〔名〕皮膚病の一種。皮膚の色素が欠乏して、白い斑紋ができる病気。しろなまず。 *「もしくは白癜[白癩シラハタ]ある者か」<岩崎本書紀・推古二〇年>(ページ画像) *「白癜 之良波太」<和名抄>(ページ画像) 【岩波古語辞典】(補訂版・2008年) しらはたけ(立項無し) びゃくらい【白癩】 ①癩病の一種。皮膚が白くなるという。 *「現世には白癩・黒癩の身を受け、後世には無間地獄の底に堕ち」(播磨浄土寺文書建久三・九・二七) ②自誓の語。この誓いを破る時は白癩の業病を受けるに違いないという意。決して。どうしても。「白癩がったい」「白癩黒癩」とも。 *「白癩聞くまい」〈俳・蠅打〉 【三省堂新明解古語辞典】(第3版・1995年) しらはたけ(立項無し) びゃくらい【白癩】 ①色が白くなるハンセン病 ②「そむけば白癩になる」という意味から誓い決心の言葉。 *「商ひ馬に乗らんとは、―ならぬ、ならないぞ」歌舞伎・「矢の根」 【ベネッセ古語辞典】(1997年) しらはたけ(立項無し) びゃくらい【白癩】 ①皮膚の色が白くなるらい病(ハンセン病) ②背けば白癩になる意。誓いの言葉。誓って。決して。必ず。 *「―返してくれられと」〈浄瑠璃・女護島〉 注:いずれの古語辞典にも、他の語は有りません。「かたゐ」は見られますが、この項では扱いません。 【大漢和辞典】(修訂二版・1990年) しらはたけ(立項無し) はくらい【白癩】(ページ画像) 癩病の一種。皮肉に白色を生ずるもの。 *〔證治準縄、鳥白癩〕夫白癩病者、其語聲嘶嗄、目視不明、四肢煩疼、身體大熱、心中懊憹、手腳緩縦、背膂拘急、内如針刺、或生癮疹而起、 往往正白在皮肉裏、鼻有息肉、目生白珠當於瞳子、視無所見、名白癩也。(「鳥」は「烏」か?参考:「諸病源候論」の烏癩) 注:「字通」、「大字源」には「白癩」の語は見当たりません。他の漢和辞典は「調査中」です。 ●新編大言海(第3刷・1983年・冨山房)(注意:この解説は現代の見直しが、なされていません) しらはたけ(立項無し) びゃくらい(名)【白癩】(ページ画像) ①白キ色ノ癩病(ナマヅ)。シロナマヅ。シラハダ。白癜 なまづはだ(癜風)ノ條ヲモ参見セヨ。 *推古紀、廿年五月「自百済国有化来者、其面身皆斑白、若有白癩者乎」 *霊異記、下、第廿縁「法花経云、見受持是經者、出其過惡、若實若不實、此人現世得白癩病者、其斯謂之矣」 *箋注倭名抄、二、八十二瘡類「白癜、一云、白電、之良波太、云云、醫心方、白癜、和名、之良波太、推古紀、白癩、亦同訓、按、之良波太、 卽白膚之義、大祓詞、所謂白人、是類也、今俗呼之路奈末豆」 ②転ジテ、自誓ノ詞。若シ誓ヒニ違ハバ、白癩ノ如キ病ニナルベシト云フ意。 *蠅打(寛文、乾貞恕、茶杓竹批言)「此批判ハ無理云フ人アリ、云云、御町衆ノアツカヒナレバ、此度ハコラユルゾ、以来タシナメ、此月ガ師走デ、 水ガ油デ海道ガオレガ身ナラバ、白癩キクマヒト云ヒシニ等シ」 *懺悔録(寛永九年刊、和語を洋字にて記したる書、西班牙宣教師の著)「バクチ打ニ負ケテ、相手ニ金三百目ヲ取ラレタニ因リテ、身ヲノロウテ、 赤癩、白癩ニカブラウ一期ノ間ニ、モウ打ツマイト約束シタレドモ、其後二三度打チマウシタ」 *松の葉(元禄)小歌「近江ノ笠ハ、形ハヨウテ、びゃくらい着ヨウテサ」 *淋敷座の慰、のほほんぶし「テキト見ルナラびゃくらい切ル気、テキジャナイモノ、君ジャモノ」 *矢根五郎ニ馬士ノ馬ヲ、五郎ガ貸セト云フ、貸サレヌ、イヤ借ル「白癩ナラヌ」ト云フ。 しらはだ(名)【白癜】(ページ画像) 〔白膚ノ義〕今、シロナマヅ。なまづはだノ條ヲ見ヨ。 *倭名抄三、三十瘡類「白癜、之良波太、人面及身頸、皮肉色變白、亦不痛癢者也」 *醫心方、四、七「白癜、之良波太」 *名義抄「癩、シラハタケ、シラハタ」 *推古紀、廿年五月「面身皆斑白、若有白癩者乎」 なまずはだ(名)【癜風】(ページ画像) 〔鯰膚ノ意カ〕皮膚病の一。人の頸邊、胸前、腋下ナドノ膚ニ、痛痒ナクシテ、褐色、又ハ、黄褐色ノ斑剥(マダラ)ヲ生ズルモノ。一種ノ黴菌ニヨルト云フ。 略シテ、なまず。其斑ノ白キヲ、古ク、白膚(シラハタ)ト云フ、今、シロナマヅ。白癜 *倭名抄三、三十瘡類「歴易、奈萬豆波太」 *名義抄「歴易、ナマヅハダ」 *醫心方、四、八十「歴易、奈末都波太」 ●修訂大日本国語辞典(初版・1952年・冨山房)(注意:この解説も古いです) しらはたけ(立項無し) びゃくらい【白癩】(名)(ページ画像) ①白色になる癩病。(黒癩の對) *著聞・七「白らいといふ病」 ②誓う詞。此の誓ひにそむかば、白癩・黒癩等の悪しき病をも煩うべしといへる義よりの轉。 *三河物語・上「起請の御罰を蒙りて、今生に而者びゃくらい・こくらいの〓(疒+支)を請け」 *他阿上人法語「天魔・波旬の勸めにつきて、今生には誓ふ所の白癩・黒癩とかやになり」 ●大辞典(初版・1936年/覆刻版・1974年使用)(注意:この解説は初版のままです) しらはたけ【白癩】 癩病の一種。 *名義抄「癩・シラハタケ、シラハダ」 *字鏡集「癩 シラハタケ」 びゃくらい【白癩】 ①白色の *推古紀二十年「自百済国有化来者、其面身皆斑白、若有白癩者乎、悪其異於人欲棄海中島」 *霊異記・下・二十「見受持是經者、出其過惡、若實若不實、此人現世得白癩病者、其斯謂之矣」 *著聞集・七・街道「中原貞説も同じくめしに応じて、御尋に預りけり。各白癩といふ病のよしを奏しけり」(ページ画像) ②転じて自誓の詞。若しこの誓約に背きたる時は、白癩の如き悪しき病に罹るべしとの意。また不意の出来事に驚きたる場合、決心などを表わす場合にもいふ。 *蠅打・寛文「御町衆のあつかひなれば、此度はこらゆるぞ、以来たしなめ、此月が師走で、水が油で海道がおれが身ならば、白癩きくまいと云ひしに等し」 *武道伝来記・巻七の三・貞享「大助はしり懸り、藤太が太刀さき覚えたかと、一文字に切付くれば、白癩これはと抜合せ戦ふ所に」 *大職冠・藤照姫道行・正徳「こりゃこりゃ、亭主なんと奈良茶はくはさぬか、但人をなぶるか、びゃくらい聞かぬと腹立る。」(ページ画像) しらはた【白癜】 しろなまづ→尋常性白斑 しろなまず【白癜】 =尋常性白斑 【附】癘・疥癩・白癜(アシキヤマイ・ハタケ・シラハタ)(「和名類聚鈔」から) 戻る |
「業病観」について 先ず「業病」を手元の国語辞典で引いてみると・・・ 日本国語大辞典:前世の悪業の報いによって起こるとされる、なおりにくい病気。 大辞林:悪いおこないの報いとしてかかるとされた,なおりにくく,つらい病気。 広辞苑:悪業の報いでかかると考えられていた難病。 大辞泉:前世の悪業の報いでかかるとされた、治りにくい病気。難病。 新明解国語辞典:〔前世の悪事の結果であると考えられていた〕難病。 デイリーコンサイス国語辞典:昔,悪業が原因と考えられていた難病. *差別を生んだ名付け. 「ハンセン病」は医学的に言えば、らい菌によって伝染する感染症です。「業病」というのは「悪業」や「前世の悪業」が原因と |
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