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「慈しみ」というのは、神の慈しみによって契約の担い手とされていることを示しています。また「裁き」は「公平」とか「義」ということで、神が「義」をもってわたしたちを治めてくださっていることを語っているのです。神が、そのような慈しみと義をもって臨んでくださっていることを覚えるからこそ、この人は「主…に向かって、ほめ歌を歌い、完全な道について説き明かします」(1∼2a節)と語るのです。そして、この詩人は、これからもそのような生き方をなしてゆくことを、2b節以下において誓約するのです。具体的には「無垢な心をもって行き来し…背く者の行いを憎み…曲がった心を退け・・・傲慢な目、驕る心を持つ者を許しません」という生き方をするという誓約です。そういうことから、この詩編は「王の即位式」の時か、「王が裁判官の任務に就く時」の誓約の詩編であると言われているのです。
そのような誓約は、かつてのイスラエル王に求められているだけではないでしょう。わたしたちキリスト者も神の慈しみと義によって救いに与り、御前に立つを得ているのです。ですから、キリスト者も、キリストにおいて及ぶようになった神の慈しみと義とによる支配の事実を明らかにする務めを持っているのです。無垢な心、分裂のない一途な心をもって主に信頼してゆくことを通して、神の慈しみと義とを表していくことが願われているのです。
ある人が、この詩編の最後の7∼8節は主イエスによる宮清めを思わせる、と語っています。その宮清めの言葉で言えば、この教会を強盗の巣ではなく、主の宮にふさわしく祈りの家としてゆくために、一途に主に信頼して御言葉に聞き、主に祈りつつ信仰生活を送っていくのです。
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