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人間による裁きには、常に不公平感がついてまわります。検事や弁護士が入念な取り調べをなし、裁判官が法や判例に忠実に裁いたとしても、被害者側はそれでは不十分だ、量刑が軽すぎると思いますし、加害者側は厳しすぎる、もっと情状酌量しても良いではずだ、と考えるものです。人の裁きには限界があります。見落としもあります。稀に冤罪に繋がるような判断ミスも起こります。
しかし、今や主が来られるのです。地を裁くために、正しい裁き、公平なる裁きをするために、です(9節)。そのために来られるのです。何と幸いなことでしょう。これで誤審は亡くなるはずです。冤罪も起こり得ません。賄賂による不当な裁判など起ころうはずがありません。だから、喜びの叫びをあげ、喜び祝うことができる(4∼6節参照)と思えるのです。しかし、そうでしょうか。もし主が王として来られ正しく公平に裁かれたとしたら、わたしたちは皆罪の下にあるゆえに、御前にみな滅び去ることになるのではないでしょうか(ローマ3:9以下参照)。
確かに、今のままではそうなります。しかし、今や来たり給う主は、わたしたちのために驚くべき御業を成し遂げてくださったのです。来たり給うて救いの御業が成就するために、主は独り子なる神、主イエス・キリストを十字架にお掛けになって、わたしたちの罪の贖いを果たしてくださったのです。罪の贖いは為されているのです。救いの御業は成ったのです。因みに、1∼3節は過去形です。今やわたしたちは、主イエスの十字架において罪の裁きがなされて、神の救いの御業に与る者とされているのです。その事実の故に、わたしたちは「王なる主の御前に喜びの叫びをあげ」ることができるのです(6節)。
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