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詩編97編も、「主こそ王」という言葉で始まっていることから分かるように、「王の詩編」のひとつです。「王の詩編」は詩93,95∼100がそうだと言われていますが、そのほとんどが、バビロン捕囚からの帰還を果たした時に歌われたのであろう、と言われています。バビロン捕囚は、サウロ王から数えたら5∼600年続いた王制を終らせた出来事でした。王制は途絶えた。勿論、ダビデの血筋を継ぐ者はおりました。マタイ1章の系図を読んでみても、バビロンに移住後も、ダビデの血筋を受け継ぐ者は途絶えなかったことが分かります。しかし、王制自体は、いったん、崩壊したのです。
ですから、バビロン捕囚からの帰還は、新しい王制の回復であり、期待を与えるものでした。彼らが目にしている光景は、崩壊して瓦礫の山になっていたエルサレム神殿であり、荒廃した街並みだったでしょう。しかし、新しい王の許で回復されて行く様子を信仰の眼によって見るとき、「正しい裁きが王座の基をな」し、「主の正しさ」が国の秩序の基になっている光景が(2∼6節参照)、更には、「主のいつしみに生きる人の魂を主は守り…心のまっすぐな人のためには喜びを種蒔いてくださる」(10∼11節)という光景が見えたのでしょう。そのように主が慈しみ深き王として君臨なさり、全地を治めてくださるという事実を信仰の眼でもって、見いだすことができたことでしょう。
わたしたちキリスト者も「見えるものによらず、信仰によって歩んでいる」(Uコリント5:7)のですから、どのような時にも、信仰の目をもって主にある恵みの事実を見て、主をこそ王として崇めてゆくのです。そのことが可能になるように、主は御子をお遣わしくださったのですから、その御子において、「主こそ王。/全地よ、喜び踊れ」とあるように、喜び踊って御名を崇めてゆくのです。
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