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この詩人は、神に逆らう者、悪を行う者などによって苦しめられ、愚弄されたりして悩まされていました。その者たちは、「主は見ていない…神は気づくことがない」(7節)と言って、詩人を始めとし、やもめや寄留者、みなしごなどの社会的弱者をも虐殺したりもしていたのです。それで、この詩人は主なる神に、「報復の神として顕現し…誇るものを罰してください」(1∼2節)と訴え、「彼らの悪に報い/苦難をもたらす彼らを滅ぼしてください」(23節)と願ったのです。しかし、そのような願いを心に抱くということは、生きて働き給う神への信頼が失いかけていたということでもありましょう。少なくとも、主なる神への全面的信頼に生きていなかったのです。だからこそ、本当に生きて働き給うのなら、報復の神として臨んでくださいと願ったのです。
「思い煩いは傲慢です」と言った人がいます。思い煩いは、主に対する全き信頼がほころび始めることから生じます。サタンは、そういう信頼の少しのほころびでも、僅かの欠けでも良い、それらを引き起こして、わたしたちの心の中に生ける神への不信仰という傲慢な思いに至らせ、その罪の虜にしようとするのです。サタンは、そのような思い煩いを引き起こすべく、あらゆる機会を用いて挑んでくるのです。
この人は、そのような中で「愚か者よ、気づくがよい…主は知っておられる、人間の計らいを/それがいかに空しいかを」(8∼11節)ということを示されます。そして、主は生きて働き給うて「御自分の民を決して疎かになさらない」(14節)ことを知るのです。その神への信頼の回復によって、彼は思い煩いの中にあっても魂の楽しみを得る者とされたのです。同じ事態が、復活の主にあって、わたしたちにも及んでいることを知り、主への讃美に生きて参りましょう。
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