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この詩編では、「人生はため息のようです。/人生の年月は七十年程のものです。/健やかな人が八十年を数えても/得るところは労苦と災いにすぎません。/瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります」(9∼10節)とも言われています(3∼6節も参照)。それらを読むとき、この詩編は人生の無常観、人間の須臾性を慨嘆しているように思えます。
しかし、それらの言葉は、この詩編の冒頭に「山々が生まれる前から/大地が、人の世が、生み出される前から/世々とこしえに、あなたは神」とあることで分かるように、世々とこしえに神であられるお方から見たときの、わたしたち人間の現実を語っているのです。そのように空しく滅びるほかないのは、わたしたちの罪の故です(7∼8節参照)。実際、わたしたちは、御前に立ち帰ることすらできないほど罪の内にあるのです。「主よ、帰ってきてください」(13節)と願うほかないほど、わたしたちの方から神に至る道は閉ざされているのです。神とわたしたちの間には何の接点もなく、断絶しているのです。それほど、わたしたちの罪は深いのです。
そこで、神は独り子なる神を、わたしたちの所にお遣わしくださったのです。それによって、主イエスの「わたしを通らなければ、誰も父の許に行くことができない」(ヨハネ14:6)というお言葉のとおり、わたしたちは父なる神の御許に行くことができるようになったのです。わたしたちは今や、御子イエス・キリストの十字架による罪の贖いによって、父なる神との交わりの内に生きるを得ているのです。そのことを覚えることが「生涯の日を正しく数える」ことになり、「知恵ある心」を持つことになるのです。その知恵ある心をもって、生涯、喜び歌い、喜び祝って御名を称えてゆくのです。
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