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この詩編では、繰り返し、「慈しみ」と「まこと」に言及しています。それらの言葉は、神がイスラエルの民と結んだ契約と深く関係している言葉です。この詩編では、具体的にはダビデとの契約のことが念頭に置かれているように思われます(4∼5、21節参照)。神は、何も選ばれるに値するものがないにも拘らず、慈しみの故にイスラエル(ダビデ)を選び、契約を結ばれました。そのように、慈しみをもって選んで契約を結ばれた、その契約を、神は変えることはなさらず、契約に対するまことを貫いてくださったのです。そのことが、6∼38節までの間で
縷々
語られているのです。
しかし、39節から論調が変わります。神の契約における慈しみとまことに対する疑いが表明されることになるのです(40,50節など参照)。背景にあるのは、恐らくバビロン捕囚でしょう。それによって、イスラエルは滅亡し、エルサレムの神殿も崩壊してしまいました。人々は、ダビデと結ばれた契約は無効になったと思ったのでしょう。
信仰生活には、様々な試練や誘惑が、繰り返し生じるものです。自分自身には何も起こらなくても、この世の出来事を見て、これでも神は生きて働き給うのかと疑問を持つことだってあり得るのです。「サタンはキリストを覆い隠す
靄
をかけて見えなくする」と語ったのはカルヴァンですが、正に然りです。
しかし、人の目には見えなくても、神は御自身が結んだ契約を違えることはなさらないのです。ダビデとの契約も途絶えたかに見えましたが、神は御子をダビデの家系から生まれさせ、更には十字架に掛けて、契約を成就し、神の救いを御自身の民に、そしてわたしたちにも与えてくださいました。神が慈しみとまことをもって関わってくださっていることへの信頼を深めたいものです。
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