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わたしたちに名前があるように、神にもお名前がおありです。その名は「あなたの御名は主」とあるように、「主」です。そうは言っても、これは単に「主人」という意味ではありません。前々回読んだ詩編81:11によると、神は、イスラエルの民がエジプトの地で奴隷として苦しんでいた所から導き出すために降って来られました。また、ここの4節の言葉で言えば、神は、何の取り柄もないにも拘らず、イスラエルの民を御自分の「秘蔵の民」としてくださったのです。「主」とは、そのように、愛と恵みをもって働きかけてくださる「動的なお方」という意味なのです。
この詩編の著者は、主なる神に敵対する者たちの
謀
にあって苦しめられています。彼ら敵対者たちは「イスラエルの名が/再び思い起こされることがないように」(5節)しようと企んで、攻撃してきているのです。そうであれば、彼は神に祈ります。その者たちが「永久に恥じ、恐れ/嘲りを受けて、滅びますように」(18節)と。出エジプトの時に、自分たちを導き出すために降って来られたように、今もまた降って来られることを願っているのです。
しかし、それだけではありません。それに続けて、19節にあるように、自分たちに敵対する者たち、主を主とも思わない者たちが、あなたが主であることを「悟りますように」と祈るのです。また「主の御名を求めるように」(17節)祈るのです。それだけ、主の恵みと愛の支配が、自分たちだけではなく、彼らにも及ぶようにと願っているのです。
神はすべてのものを救い出すために、御子において人となり、十字架にお掛かりになりました。その意味では、この祈りは主の十字架において成就していると言えるのです。
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