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「あなたたちは神々なのか/皆、いと高き方の子らなのか」と問われるほど自分のことを絶対者のように驕り高ぶって、他者を裁いている人々のことが、この詩編では問題になっています。彼らは、真の神を知ろうとも理解しようともせず、自分たちこそが神々であるかのように、傍若無人に振る舞っていたのです。実際、彼らは社会的弱者を虐げていて、「弱者や孤児のために裁きを行い/苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。/弱い人、貧しい人を救い/神に逆らう者の手から助け出せ」(3∼4節)と、抗議を受けていたのです。しかし、これは、かつてのイスラエルの姿に止まりません。いつの時代でも、勿論今の世でも見られる姿です。
しかし、聖書は言います。その者たちは永遠ではない、彼らは「人間として死ぬ…いっせいに没落する」(7節)と。真の裁き主は人ではありません。「神は…裁きを行われる」(1節)とあり、「神よ、立ち上がり、地を裁いてください」(8節)と言われているように、神こそが真の裁き主です。
8節の最後の「あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう」という言葉は「すべての民はあなたのものです」という意味だと言われています。主なる神は、すべての民を御手の内に置き給うておられるのです。そして神は、御手の内にある者が一人であっても滅びることを願ってはいないのです。神は「悪人の死を喜ぶだろうか。…彼らがその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか」(エゼキエル18:23)と言われているとおりです。その赦しの御心に与ることが出来るように、神は独り子なる神を十字架につけて、立ち帰る道を開いてくださったのです。一人でも多くの者が驕り高ぶりを捨てて、主の御許に立ち帰ってほしいと願うものであります。
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